地形図 - みる会図書館


検索対象: 日本大百科全書 3
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1. 日本大百科全書 3

ENCYCLOPEDIA NIPPONICA 201 日本大百科全書 ◎ SHOGAKUKAN 1985 初版第一刷発行 1985 年 4 月 20 日 初版第二刷発行 1988 年 5 月 10 日 定価 7 , 800 円 3 編集著作 出版者 発行所 印刷所 本文 相賀徹夫 小学館 郵便番号 101 ー 01 東京都千代田区ーツ橋 2 - 3 振替東京 8 ー 200 番 電話編集・東京 03 ー 230 ー 5620 販売・東京 03 ー 230 ー 5763 業務・東京 03-230 ー 5333 ( 特抄百科用紙 ) ( 特抄アート紙 ) 表紙 ( 特製クロス ) 製本 凸版印刷株式会社 王子製紙株式会社 三菱製紙株式会社 ダイニック株式会社 凸版印刷株式会社 若林製本株式会社 * 本書に掲載した日本関係地図は , 国土地理院発行の 2 万 5 千分の 1 地形図 , 5 万分の 1 地形図 , 20 万分の 1 地勢図を使用したもの です。 別刷「大阪市」地図の作成にあたっては , 建設省国土地理院発行 の 2 万 5 千分の 1 地形図を使用しました ( 測量法第 30 条に基づく 成果使用承認昭 60 近使 , 第 3 号 ) * 造本には十分注意しておりますが , 万一 , 落丁・乱丁などの不良 品があリましたら , おとりかえいたします。 * 本書の内容の一部または全部を , 無断で複写複製 ( コヒ。ー ) するこ とは , 法律で認められた場合を除き , 著作者および出版者の権利 の侵害となりますので , その場合はあらかしめ小社あて許諾を求 I S B N 4 - 0 9 ー 5 2 6 0 0 5 - 5 Printed in Japan めてください

2. 日本大百科全書 3

おおさか さん 1 一う 以来の大坂三郷の区域を東、西、南、北の四区 大阪 ( 市 ) おおさか 近年の市の人口推移をみると、わが国の経済 に区画した。当時の市域は一五・三平方キ。、人 高度成長期を迎えた一九六〇年代に市の人口は 〔自然〕地形 / 気候 ロ四七万一三四七。その後近代商工業の発達に 急増して六五年には約三一六万人に達した。し 区 ) 原 〔歴史〕先史・古代 / 中世 / 近世 / 近・現伴って、九七年に第一次拡張として周縁地域の かしそれ以後は減少傾向を示し、七〇年には二 ひがしなり 東成、西成両郡の二八か町村の全部または一 九八万人、七五年には二七八万人となって現在 〔産業〕農業 / 商業 / 工業 部を編入。一九二五年 ( 大正一四 ) の第二次拡 に至っている。人口の減少は都心部で著しく、 〔交通〕 張には東成、西成両郡の残部四四か町村を編入 反面周辺区では増加がみられ、いわゆる人口の すみよし 「文化・生活〕史跡・文化財 / 文化施設 / して、東淀川、西淀川、東成、住吉、西成の五 ドーナッ現象を呈している。これは、都心部に てんのう 芸能・演劇 / 祭り・年中行事 / 生活・ 区を設け、さらに旧来の四区を細分画して天王 市の管理中枢機関が集中し、これに伴う交通、 なにわ このはな 風習 寺、浪速、港、此花区の四区を増設して計一三 生活環境の悪化によるもので、人口復原対策が 区とし、面積一八 一・七平方キ。、人口二一一万 大きな課題となっている。 よどがわ 大阪府の中央部西寄り、淀川河口にあって大四八〇四となる。三二年 ( 昭和七 ) には旭、大 〔自然〕〔地形〕市域の地形は、大別して台地 阪湾に臨む。府庁所在地。古来、交通の要衝に正の二区を増設し、四三年には行政区画の改正 と沖積地からなる。台地は市の中央部東寄り うえまち あ 0 て港都として発達した。近代商工業の中心で大淀、福島、都島、城東、生野、係野、 に、南北に延びる上町台地とその南東に歴律す あびこ 張 1 張 3 入 都市として西日本の中枢的地位を占める。な東住吉の七区が増設された。五五年 ( 昭和三 る我孫子台地とがある。上町台地は、大阪城か 1 」拡拡編る まったたつみ かみながよし ・つい・ . わり ・ノ川月一一月或月」以月、陷〕 お、大阪の地名は、一五世紀末に石山別院を建〇 ) には茨田、巽の二町、加美、長吉、瓜破、 ら南へ住吉大社あたりまで延長約一一一キロの古期 一丁市市 れん : よしようにん おふみ やだ かつやま 市年イ年年年川年 : 立した蓮上人の『御文』に「大坂」とある矢田の四村を編入。七四年区画の一部分割が行 宮 2 腕次 4 次 06 0 て洪積台地である。我孫子台地は、北は勝山古墳 つるみすみのえひらの やまと のが初見と伝えられ、江戸後期には「大坂」われ、淀川、鶴見、住之江、平野の四区が新設 から南へ大和月し ーこ至る延長約八キ。の新期洪積台 台台 1 正第和隣不埋 明 (. 明に、大召 地である。 「大阪」の字の混用がみられる。明治以降行政され二六区となった。八〇年一〇月現在、面積 たいせき 名として「大阪」の字を用いるようになった。 二一〇・九平方キ。、人口二六四万八一八〇、人 冲積地は、淀川と大和川の土砂の堆積によっ 市制施行は一八八九年 ( 明治二一 l) で、近世ロ密度一平方キ。当り一万二五五四を数える。 て形成されたデルタで、市域の大部分を占め る。大阪の発展の原動力となった淀川は、市域 かんぎぎ の北東端で神崎川を分かち、毛馬から向きを南 てんま ねや に変えて天満川となり、大阪城下で寝屋川を合 どうじま なかのしま 流して西へ曲流し、中之島を挟んで堂島川と土 佐堀川に分かれ、さらに下流では安冶川、尻無 本津川に分流して大阪湾に流入する。これ 立馭 , らの分流河川と結んで、近世以降、東横堀、西 どうとんばり ながばり に約年 横堀、道頓堀、長堀など多くの連河が掘られて 右西 1 の東 水連の便に供され、「水の都」の名を誇った。 そる はんらん いで堂反面、氾濫も多く、治水対策もたびたび行わ 建て州会 再れ中公れ、一九〇九年 ( 明治四一 I) には放水路として のさた央 新淀川が開削された。市の南境を流れる大和川 年備れ中 整まは は、かっては大阪城の北で淀川に合流していた て囲物 はしに建 、、ゝ、氾濫が多く、一七〇四年 ( 宝永一 ) に現在 閣と川の 守園堀前 のように付け替え工事が行われた。淀川、大和 天公佐手 川のデルタ地域は、軟弱な砂、粘土層からな のは土 方帯とぶ り、昭和初期以来、地下水採取による地盤沈下 . 左一川並 島ち がおこっている。そのため市では、地下水の採 む社堂建 望神。が 取規制を行い、また工業地域では工業用水道を を国む築 、 - 帯豊望建施設するなど対策に腐心している。 一はを層 〔気候〕大阪湾に接し、夏はやや暑いが相対的 一城物島高 震阪建之 には温暖である。雨量は比較的少なく、晴天に 一一一大の中 ら根らあ 恵まれ、いわゆる瀬戸内式気候の特色を示す。 か屋か・か 空 い空ど風は、西風、ついで北北東風が多い。このため . ~ ~ 上青上な 方の方店西部の臨海工業地域や北部の淀川工業地域のエ ばいえん 西方東支 ①右②銀場煤煙が市街地にもたらされ、大気汚染やスモ あさひ 摂津 守口・市ーノ / 門真市 ・城き鶴見区 、東成区 ( 大 ノ速区・ 大主寺区、生野区一、 ・西 ! 阿・ 区 / 野 / 住 区 / 吉 . / 住吉区・・ 吹田市 豊中市 兵庫県 大阪市 / 市域の変遷 東淀川 淀川区・ 尼崎市 淀川 - 八尾市 ) く和黷

3. 日本大百科全書 3

うえの 1 ュト しどう くまがや 0 た。支配総祠堂は三二宇、子院三六坊、七堂社の上野ー熊谷間の営業開始と同時に開業、現建造で忠実な復原ではない。上野は伊賀忍者で じようばん 伽藍を連ねた一大霊域であった。元禄年間 ( 一六在は国鉄の東北本線、常磐線、高崎線などのも知られ、高虎以後も忍者は登録、扶持制とな やまと ~ 一七 0 四 ) この霊域も一般に開放され、大和の起終点駅であり、国電京浜東北線、山手線や営 った。家康の伊賀越えを助けた伊賀者二〇〇人 ひびや おんみつ 吉野山から移植したサクラが、上野をサクラの団地下鉄銀座線、日比谷線、京成電鉄線などが はその後幕府に召し抱えられ、隠密も勤めた。 名所として、今日に及んでいる。 入り込むうえ、八五年 ( 昭和六〇 ) には東北、 上野公園内に忍者屋敷があり資料が展示され、 現在の上野は、東京の北の玄関口としてにぎ上越新幹線の始発駅となる ( 図 & 繝 ) 。一日平均忍術の実演が行われる。 わっているが、第二次世界大戦後の東京の都市乗降客約一〇〇万人 ( 一九 0 ) 。とくに盆、暮れの 明治以降、幹線交通路から外れて産業的にも むさしの 化は武蔵野台地の西方へと発展が著しいため、帰省ラッシュは、北海道、東北、上信越を控え農村都市として推移し、組紐や和傘、伊賀焼な かっての副都心としての地位は低下した。しかて最大の混雑をみせている。また付近には、駅ど伝統工芸が知られる程度であったが、一九六 し、上野公園にある東京国立博物館、上野動物開業とともに日本橋周辺から移った旅館を中心 五年以降、大阪と名古屋を最短距離で結ぶ名阪 みやげ 園、国立西洋美術館など各種文化施設を中心と に土産物店、食堂、映画館、演芸場などが多く国道の開通で工場の進出が続き、県下では北勢 した芸術・文化センター、上野広小路周辺の繁独特の雰囲気を醸し出している。〈菊池万雄〉 に次ぐ工業化の著しい地域に変容した。繊維、 ばしよう 一華街とアメャ横丁を中心としたショッ。ヒングセ回『上野と浅草台東区誌』 ( 一九五一・台東区 ) 電機の工場が多い。松尾芭蕉の出身地で、生 みのむしあん ンターとしての性格は強く残っている。また、 ▽『上野繁昌史』正続 ( 一九六三、 六〈・上野観光家、俳聖殿、蓑虫、記念館などゆかりのもの ゃなか いけのはた またえもん あだうち 谷中や池之端付近は第一一次世界大戦の戦災も受 連盟 ) が多い。また荒本又右衛門の伊賀越仇討の遺跡 かぎやつじ けず、古い江戸の情緒をいまに残して、下町フ 〔地一二万五千分の一地形図「東京首部」 鍵屋の辻がある。国指定史跡に伊賀国分寺跡、 アンに愛されている。↓上野公園 上野うえの愛知県東海市北半の地区。旧国分尼寺跡と推定される長楽山廃寺跡、藩校の すう・ : つど・つ 上野駅は一八八 三年 ( 明治一六 ) 日本鉄道会上野町。臨海部は名古屋南部臨海工業地帯の一旧崇広堂、浄土信仰ゆかりの廃補陀落寺町石、 みはかやま 部。新日本製鉄名古屋製鉄所を中心に鉄鋼コン御墓山古墳があり、高倉神社の本殿などは国指 ビナートを形成、砂丘部はタマネギ、洋ランの 定重要文化財。一〇月に行われる上野天神祭は 栽培で知られる。丘陵上に兜山古墳がある。 近世初期に始まり、鬼行列や九基の山車で知ら 東海 ( 市 ) 〈伊藤達雄〉 〈伊藤郷平〉れる。人口六万〇八三五。 囮二万五千分の一地形図「鳴海」 回『上野市史』 ( 一九六一・上野市 ) ▽福永正三著 上野 ( 市 ) うえの三重県中西部、上野盆地 『秘蔵の国』 ( 一九七一一・地人書房 ) みなくち て上 の中心都市。一九四一年 ( 昭和一六 ) 上野町と五万分の一地形図「水口」「上野」「名張」 じようなんはなのき ながた 代し水 小田、城南、花之木、長田、新神、三田の六上野 ( 村 ) うえの ( むら ) 群馬県南西端、多野 専時通と 戸 村が合併して市制施行。五〇年 ( 昭和二五 ) 府郡にある村。人口密度は一二・七人 ( 一平方キ。 ちゅう なかぜともの はながき 国工季園 四本 中、猪田、中瀬、友生の四村、五五年花垣、 当り ) で県内でもっとも小さく、過疎な山村の ひじき かん ' へ ふるやま かんな 東るれ園 依那古、比自岐、神戸の四村、五七年古山村を一つ。一〇〇〇級の山に囲まれ、神流川に沿 おともおっち か物 が分動 編入。市名は中世からの地名、江戸期の城下町う十石峠街道を東の鬼石町から乙母、乙父など ならまら 名を引き継いだ。市街地と城は盆地内ではややの珍しい地名の集落を経て、桷までバスが通 てな 高燥な平地に展開し、地名の由来ともなってい じる。傾斜地でコンニヤクイモ、桑、雑穀を栽 術のレ おいめあなしようにゆうどう きっこう む美池ノ る。関西本線と近畿日本鉄道伊賀線、大阪線が 培。生犬穴 ( 鍾乳洞 ) および亀甲石産地は国 都スモ を京 通じ、名阪国道と国道二五号、一六三号などが 指定天然記念物。そのほか不二穴 ( 鍾乳洞 ) や はまだいら 水東 に池す 走る。古くから伊賀国の中心地であったが、一 浜平温泉もある。人口一一三〇九。〈村木定雄〉 いさだつぐ ト来る 五八五年 ( 天正一三 ) 豊臣秀吉が筒井定次を封回『上野村誌』 ( 一九四五・吉川弘文館 ) ▽『みやま 央左一渡え ポく見 じて上野城を修築させた。一六〇八年 ( 慶長一 文庫 4 ・ 5 上野村の民俗上下』 ( 一九六一・ , 多が かなめ 園術園が塔 三 ) 徳川家康は東西交通の要の一つであるこの 群馬県立図書館 ) 公美物鳥重 まんば 野洋た動り五 地に、大坂の豊臣勢に対する軍略上から、築城囮五万分の一地形図「万場」「十石峠」 とうどうたかとら みやこ 上西つ上渡寺 た立あ水は永 うえの ( そん ) 沖縄県宮古島南部、 に長じた藤堂高虎を配して本格的な市街地を形上野 ( 村 ) 見国で , 冬寛 成させた。天守は竣工直前に台風のため倒壊宮古郡にある村。一九四八年 ( 昭和二三 ) 下地 ら , 内 のばる か館境 2 るに し、その後の一国一城令によって津藩藤堂氏は 村 ( 現下地町 ) から分村。宮古島で最高の野原 空物寺約な手 上博永囲と右 津を本城としたため、再建されることはなかっ岳 ( 一 0 九 ) が村の北にあり、南に緩傾斜する へいたん ひらら 西学寛周場 南科が。の た。上野城跡 ( 国指定史跡 ) には高さ三〇麕 平坦な隆起石灰岩地形。国道三九〇号が平良と 立て池い結 佐国べ忍憩をわが国最高といわれる本丸石垣がいまも残り、 結ぶ。野原は一七一四年 ( 正徳四 ) 強制植民に みやぐ しんざと にす不の園 実戦的な城のおもかげをしのぶことができる。 よって、宮国、新里は、一七七一年 ( 明和八 ) 野手山〕民物 上右一〔都動 現在の三層の天守がある白鳳城は一九三五年の の大津波を受けて海岸から台地上に移動した集 じようえっ しゅんこう とよとみ くみひも

4. 日本大百科全書 3

えじふと エジプト 気温と降水量 年降水量 100 ~ 200mm 匚こコ 20 ~ 100 。 m 16 。 [ こ」」 0 ~ 20 mm 等温線 ( ℃ ) 1 月 地になっており、地中海沿岸へと緩やかに低く 段丘崖は、上流では三〇〇で、下流に行くは ど低くなり、一五〇程度になる。キーナの大なっている。 地中海沿岸の海岸砂丘は滞水層を有し、この 曲流から下流の広い河谷では、河流は谷の東方 水を利用した農耕が行われている。地中海沿岸 に偏り、西側には豊かな谷底平野が広がってい はんらん る。かっては夏季の氾濫を利用した農耕が行わの低地は古来多くの民族が往来した通路で、中 れていたが、現在は大部分がナイル川から取水東戦争の際の激戦地ともなった。 ん鴛れ・かい した水路網によって灌漑されている。厚い沖積〔気候〕北アフリカ、サハラ砂漠から西アジア 土は、主としてアトバラ川や青ナイル川によりへと続く大乾燥地帯の中にあり、冬季に一五〇 たいせき ~ 二〇〇 = 、リの降雨があるのは、地中海沿岸の一 エチオピア高原から運ばれ堆積した玄武岩質の 部のみで、国土の大部分は年降水量一五〇。、リ以 もので黒色である。アスワンでの河床の標高は 八三、約九〇〇キロ下流のカイロで一二と、下の砂漠気候である。このため、ナイル川、オ ゅうせん アシスの湧泉といった外来の水源が重要な意味 きわめて緩やかな河川勾配である。 ナイル・デルタは典型的な扇状三角州で、南をもつ。気温のうえでは温帯から亜熱帯に属 北一七〇キロ、東西幅二〇〇キ。、面積二万二〇〇し、冬季一月の平均気温はカイロで一三・五度 〇平方キ。で、日本の四国以上の広さをもつ。ナ 0 、アスワンで一五・五度 0 と涼しいが、夏季 イル川はカイロの北で、東のダミエッタ支流と は暑さが厳しく、八月の平均気温はカイロで二 ・三度 0 、南部のアスワンでは三三・〇度 0 一西のラシード ( ロゼッタ ) 支流とに分岐してい にもなる。しかし地中海沿岸のアレクサンドリ る。一九世紀以後の水路網、排水路網の建設に より大農耕地となった。デルタの縁辺部すなわアは一一六・四度 0 としのぎやすく、避暑地にな っている。全般的に、地中海沿岸から南部へ行 ち地中海沿岸には、海側を砂州で囲まれたマン くにしたがい気温は高くなり、雨量は少なくな ザラ湖、。フルルス湖、エドコ湖、マルュート湖 ア などの潟湖があり、湿地もみられる。またデルる。一年の季節は、一一月から翌年三月の涼し く降雨のある冬李と、五 ~ 九月の暑く乾燥した の和平交渉を進め、親米路線をとり、経済の自 タ北部沿岸には海岸砂丘がある。 西 ( カルビーヤ ) 砂漠地域ナイル河谷西縁夏季との二季からなっている。地中海を低気圧気サ 由化を促進したが、アラブ諸国の批判を受け、 のク より西側の地域で、北を地中海、西をリビア国が東進すると、内陸部から砂混じりの乾いた熱 国内の貧富の格差も拡大した。八一年一〇月六 日サダト大統領が暗殺され、ムバラク副大統領境、南をスーダン国境に限られており、国土面風が吹く。三月から七月にかけて吹くことが多プア く、この季節風をハムシーン Khamsin とよ が後継者となり、アラ。フ関係、対ソ関係を修復積の三分の二を占める。広義のサハラ砂漠の一 工 ぶ。ハムシーンとはアラビア語で「五〇日風」 コ爿立ロ し、バランスのとれた発展によって、ふたたび部で、平均標高五〇〇の台地からなり、ヒ「 (Z) CD O CD 0 0 0 C) 1 ーっ′」っ 0 いし月一・つ 0 は緩やかな傾斜で地中海へ達する。例外は、標の意で、吹き出すと毎週繰り返し七週にわたっ アラ、、フ諸国の盟主に復帰しようとしている。 高一〇〇〇以上もある南西部の火山性のカビて吹くことに由来している。 自然 、都市や外国への出稼ぎ者が多い。河谷の都 ール山地と、陥没により海面下一三三の低所 くぼち 也士心 市には製糖、製枌、紡績などの工場が建設さ 〔地形〕地形は、大部分を占める標高数百のもある北部のカッターラ低地などの窪地群であ ナイル河谷地域、ナイル・デルタ地域、西砂れ、水力発電により、アシュートやアスワンは 台地と、溝状のナイル河谷および河口の巨大なる。窪地では、低緯度降雨地域からの地下水流 デルタ、シナイ半島南部や紅海沿いの山地、南により水が得られ、オアシスが成立している。漠地域、東砂漠地域、シナイ半島地域の五地域工業都市となっている。ナセル湖の完成で観光 客は増加した。 に区分される。 西部のカビール山地の一〇〇〇を超す山地か中央部には砂の海とよばれる砂丘が広範囲に広 図ナイル・デルタ地域は、カイロ以北のナイ ①ナイル河谷地域は、それ自体砂漠の中の細長 らなっている。ナイル・デルタを除けば海岸のがっている。 いオアシスであり、古くからの農業地帯であル・デルタとその東側、スエズ連河までの地域 ③東 ( シャルキーヤ ) 砂漠地域ナイル河谷東 平野はごく狭い。地形の特徴から次の四地域に かんがい である。首都、国際港湾都市、重工業都市があ 縁から紅海沿岸までの南北に細長い地域で、紅る。綿作の導入により通年灌漑の必要が生じ、 分けられる。 せき ①ナイル河谷とデルタ世界最長の河川である海に沿って標高一五〇〇以上の険しい山脈がアスワン・ダム、アシュート堰など多くのダムり、この国の政治、経済の中心地域である。整 走っている。山陵の傾斜は紅海側が急で西側がや水路、排水路がつくられ、一大灌漑体系が完然とした用水路が走り、集落が並び、区画され ナイル川は、長さ六六九〇キ。のうち一三五〇キ。 成された。小 麦、豆類、綿花のほか、スーダンた耕地が広がり、綿作、米作が行われている。 がエジプト国内にある。スーダン国境から第一緩やかで、ワジ ( 涸れ川 ) が発達している。 近い上エジプトではサトウキビが栽培され 3 西砂漠地域は、台地状の砂漠で、その中の窪 ④シナイ半島地域地中海沿岸を底辺とし、南に 急流 ( カタラクト ) までは幅五キ。内外の狭い谷 ゅうせん の紅海へ頂点が突出した逆三角形の地域である。集落は少し高い盛り土の上にあることが多地群に湧泉があり、人間が居住する。シワ・オ が続き、現在はそこにアスワン・ハイ・ダムに アシス、カッターラ・オアシスなどがその例で く、石造りや日干しれんが造りの家が密集し、 よってできたナセル湖が水をたたえている。一る。南部は東砂漠地域の連続で険しい山地とな 。、ールガ、ダハラ、バハラなどのオアシス 二キ。に及ぶ第一急流を過ぎ、キーナの大曲流か っており、エジプト最高峰のカトリーナ山 ( 一一六周辺にはナツメヤシ、イチジク、ユーカリなどある 三七 ) がある。中部から北部にかけては、ナイ が植えられている。農地改革は施行されたものでは、地下水源再開発による農地拡大を目ざす ら下流は谷の幅が広くなり、一五 ~ 一七キ。で二 の、フェラー ferrah とよばれる農民は貧し ハレー計画が進められており、ナツメ ル川西方の台地の連続で標高平均八〇〇の台 五キ。に達する所もある。河谷の両側の台地との ポート・サイド アレクサンドリア カ 工 アスワン 200 ノ せき・一 カイロ アスワン 400 300 200 1 00 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112 月 ←→刄温年平均気温 20.4 ℃ 21 . 1 ℃ 26.5 ℃ 降水量年降水量 190mm 25mm 2mm 緯度 / 経度 31 。 12 ' N / 29 。 5 ア E 29 。 52 ' N / 31 。 20 ' E 23 。 58 ' N / 32 。 47 ' E 7m 139m 194m 示一 ] 1985 年版「理科年表」による 448

5. 日本大百科全書 3

おおい 大井 ( 町 ) おおい ( まち ) 神奈川県を結ぶ最短路の一つである。文化 あしがらかみ 西部、足柄上郡にある町。一九五六財としては大島半島では長楽寺の そうわ あみだによらい たもんてん せいうん 年 ( 昭和三一 ) 相和、金田の二村と阿弥陀如来像、多聞天像、清雲寺 びしやもんてん ぜんにしどうじ きっ 肩 の毘沙門天像、善賦師童子像、吉 , 建曽我村の一部が合併して町制施行。 しよう しようてん じようぜん あ機中世の大井荘を中心とする地域なの祥天像、常禅寺の不動明王像な 人谷 で町名とした。東名高速道路の大井どがあり、いずれも国指定重要文 く 4 松田インターチェンジがあり、御殿化財。人口六〇二六。〈島田正彦〉 の 3 人次 場線、国道一一五五号が通じる。足柄回『郷土史大飯』 ( 一九七七・大飯町 ) おおいそ で五 , も平野の扇頂部と大磯丘陵の西部にわ囮五万分の一地形図「小浜」 端を の道 こ毎 先カ たり、丘陵には二次林の緑が残されオオイカリナマコ〔大錨海 きよくひ の出 れ東 島のて野鳥が多い。平野部はもともと酒鼠〕きミ 0 ミミ c ミミ棘皮 かみごおり 半 せ重 造米で知られる良質の上郡米の産動物門ナマコ綱イカリナマコ科に 島万 禁広 大地として知られ、ナシも特産。丘陵属する海産動物。サンゴ礁の砂地 あまみ 橋歌 所計 部はミカン、シイタケの産地、酪農 にすむナマコの一種で、奄美、沖 電合 てた 発機地としても知られる。一九六八年に 縄諸島以南に分布。体長は棘皮動 カ号 子 2 第一生命の大井町本社が東京都心部物中でもっとも大きく、三近く を渡 から移転して、新旧両町民が相協 に達する。体色は褐色、緑褐色、 力、融和しつつ発展に努め、首都圏暗緑色、あるいは暗青灰色の濃淡 たれ 1 江に 見さの新都市づくりの好例となってい のある縞模様が全身にある。体を かる。人口一万二八三二。〈浅香幸雄〉ゆっくりと伸び縮みさせ、先端に 空て の渡 上っ回福武直編著『大井町ーーー地域社会あるロの周りに生えたふさふさし 熱台 - 、井輦 の構造と展開』 ( 一九六七・地域社会た触手を絶えず動かしている。体 力研究所 ) 内には先のとがった骨片が多数埋 町電 飯西 井ら まっており、触れるとざらぞ、らし 囮二万五千分の一地形図「小田原北 はだの 大関 大も 部」「秦野」 た感触がある。名前はこの骨片が せんず の裏側につき、円盤状で、中は褐色をしてい大飯 ( 町 ) おおい ( ちょう ) 福井県西部、大飯錨形をしていることに由来する。〈重井陸夫〉 ( 昭和六 ) には千頭まで大井川鉄道が開設され、 おおいがわ静岡県中央部を南流する五四年 ( 昭和二九 ) にはさらに井川まで河川に る。分布は北海道から九州にかけ、台湾、朝鮮郡にある町。小浜市の西に隣接する。一九五五大井月 ほん′」う 一ぶり あかいし いかだ 半島にも産する。 〈佐藤正己〉年 ( 昭和三〇 ) 本郷、佐分利、大島の三村が合 赤石山脈北部の間ノ岳 ( 三一〈九 ) に源流を沿って軌道が延びた。かっての運材は筏流しで えな するが おおい岐阜県恵那市の中心地区。旧 併して町制施行。国鉄小浜線と国道二七号が通もち、駿河湾に注ぐ河川で、延長一六〇キロ、流あり、谷口の島田市は集材や林産加工を中心に 大井 とうさんどう かなや かわね 大井町。古くは東山道の大井駅、江戸時代には じる。佐分利川の流域と、大島半島の大部分か域面積一一一八〇平方キロ。島田市と金谷町から下発展した。中流の川根地方は曲流と河岸段丘の なかせんどう うやま 中山道の大井宿で知られる。大井宿の町並みは らなり、前者がおもな生活の舞台で、中心の本流には扇状地を形成するが、流域の大部分は山地形に特色をもち、鵜山七曲りはその典型であ はんらん 長さ七〇〇余り、六か所で折れ曲がってお郷は佐分利川口に位置する。佐分利川の流域は 間地を流れ、峡谷と曲流に特色をもつ。閉塞河る。下流の扇状地は築堤前には洪水と氾濫が繰 でんつく せんがん り、西から五番目の角に本陣があり、いまは正米作農村で、上流の山村ではシイタケ、クリ栽 川で上流部の一一軒小屋から伝付峠を越えて富士り返され、水害に対処した舟型屋敷や千貫堤な さんぶく かわよけ 門などが残る。↓恵那 ( 市 ) 〈上島正徳〉培に力を入れ、またマッタケを産する。父子は 川水系へ、三伏峠を経て天竜川水系への峠路が どの堤防が旧河道とともに残り、水神や川除地 えちぜんがわら せっそ 硫化鉱を出し、越前瓦のうわ薬べんがらを製ある。上流域の旧井川村は接阻峡で閉じられた 二万五千分の一地形図「恵那」 蔵の信仰もみられる。東海道の川越えは徒渉で いるま のじり ャわみい 大井 ( 町 ) おおい ( まち ) 埼玉県南部、入間郡造する。付近にはみようばん泉の野尻温泉があため大日峠を越えて静岡市と結び付き、現在はあり、島田宿の川会所 ( 島田宿大井川川越遺 すまた せん にある町。一九六六年 ( 昭和四一 ) 町制施行。る。大島半島は平地に恵まれず、半漁半農の村静岡市に編入されている。支流の寸又川も穿跡 ) は国指定史跡として整備されている。 にゆ・つ彊 ~ 第 : っ むさしの 武蔵野台地の北東部に位置する。東部に東武鉄が散在し、かっては道のない陸の孤島であっ入蛇行の峡谷をもち、上流のシラビソ、トウ 〔大井川の渡し〕大井川を渡る東西交通は、古 道東上線が走るが、町内に駅はなく上福岡駅か た。そのため民俗学的に注目されるものも多ヒ、モミなどの原生林は原生自然環境保全地域 くから徒渉のための渡船や橋の発達はみられ つるせ かわ 鶴瀬駅を利用する。中部を国道一一五四号 ( 旧川 く、なかでも古代信仰の原形とされる「ニソの に指定されている。年降水量も上流部は三〇〇す、江戸初期まで「自分越し」が原則であっ 1 一え 越街道 ) 、西部を関越自動車道がほば南北に通杜」とよばれる森が約三〇残っている。現在半〇ミリを超えるため森林資源に恵まれ、その開発た。とくに江戸時代には「箱根八里は馬でも越 のこぎり早」き ひがしまた る。江戸時代は川越街道の宿場としてにぎわっ島の先端鋸崎近くに大飯原子力発電所 ( 一九大 のため東俣線林道が建設されている。また、すが、越すに越されぬ大井川」といわれ、東海 はたなぎ た。ニンジン、ゴボウなどの根菜類の産地であ完成 ) がある。気候はとくに温暖でビワが自生水資源も豊富で井川、畑薙ダムがつくられ電源道屈指の荒れ川のはかに、関所川でもある難所 ったが、最近は東京まで約一時間の距離的関係 し、常緑広葉樹林が茂る。佐分利川流域南北の地帯となり、大井川水系の一〇発電所の最大出であった。幕府は防衛政策上、架橋も渡船も禁 なたしよう もあって、工場や住宅の増加が著しい。人口三分水界は低く、北の高浜、南の名田庄村へいく 力は約六〇万キ。ワットとなった。また、現在も じた。一六九六年 ( 元禄九 ) 島田代官野田三郎 かわしようや 〈中山正民〉 万五五三八 つかの峠道がある。とくに石山坂峠を名田庄接阻峡近くに長島ダム建設が進められている。左衛門のとき、徒渉制度が確立し、川庄屋、 へ、さらに堀越峠を越える道は若狭湾岸と京都開発に伴う鉄道の敷設もみられ、一九三一年 囮二万五千分の一地形図「与野」「川越南部」 月会所が設けられた。川越しは島田、金谷宿の かど もり 854

6. 日本大百科全書 3

成 構 ロ男女 男年 六、年 お ( Ⅱ ) L.n O L-n 0 【う ) 0 (C) O (C) O L-n O 一 .0 - Ⅱニ -0 0 CO 「 / 「 / ( 0 (. 0 L.n 冖う ) 月」・内は・ OO つ」っ」・ー 1 ー お 。山地部と平野部の気温差は相当にあり、北摂山地の能勢 位 位位 では冬季に〇度 0 以下になることも多く、寒冷気候を利用し かんてん 人人人人 2 0 0 -8 ワ】 -8 E て寒天製造が行われる。年降水量は平均一三九〇 = 、リで、比較 っ CO -0- 2 円 -4 ・ -8 一 " 0 , 八 00 8- っ -0- っ戸 0 的少ない。月別平均では一月の五〇いが最少で、六月の梅雨 3 立 人舛人 0 -0 4 ・ー 0- 0 ワ ワ」ワ 4- -8 / -4 の . の 4 の 期が二一〇ミリで最高である。盛夏には晴天が続き、干魃をも 11 -8 -4 -4- -0 00 ” 0 国国 、 1 8 一 8 全 4 全 たらすことがある。風向は地域により相違があるが、大阪市 -4 / ー、 4 ワ 3 / ー、ワ朝 1 人 男女 7 男女 ウ 域では西風と北東風が卓越する。とくに夏季の晴天日は日中 年年年年年市定ョ 年 年 あさなぎ 7 8 ド制チス に海軟風、夜間に陸軟風となり、その交代時には朝凪・タ凪 11 11 大未ィモ の無風状態を生じ、蒸し暑い。また、西風によるスモッグ現 地 度 得在 象も臨海工業地域の悩みとなっている。 近畿地方の中央低地の西部にあり、北は京都府、東は奈良 数 所所 密 帯 民庁花木鳥 〔歴史〕〔先史・古代〕府下での最初の人類の足跡は旧石器 県、南は和歌山県、西は兵庫県に接し、南西部は大阪湾に臨積ロ 府府府府府 人 世 面人 時代にさかのばる。その代表的遺跡としては、交野台地上の む。古来、水陸交通の要地にあって、早くから先進地域をな し、現在も商工業が発達し、東の東京都と並び、西日本の中の各市では大幅な増加をみ、いわゆる人口のドーナッ現象が神宮寺遺跡、一一上山麓の新池遺跡、道明寺台地の国府遺跡が あくふ あり、握斧型石器、ナイフ型石器類が洪積層中から発掘され 枢的地位を占めている。「大坂」の地名は、室町時代中期に顕著となっている。 れんによしようにん おふみ た。これらから旧石器時代に二上山の安山岩を原石とした石 石山別院を創建した蓮如上人の『御文』にみえるのが最初 一九八五年 ( 昭和六〇 ) 四月現在三一市五郡一二町一村か なにわ 器が、生駒山麓から枚方、交野の丘陵、台地方面にも広が らなっている。 で、古名は難波といった。「大阪」の字を用いるようになっ たのは江戸後期からで、明治以降行政地名となった。府の面〔自然〕〔地形〕瀬戸内陥没地帯の一部をなし、中央部に大り、先史人の活動の舞台となっていたことがうかがえる。府 くばち 積は都道府県の最小であるが、人口は東京都に次ぎ第一一位に阪平野と大阪湾の窪地帯があり、その北部、東部、南部を山 ちゅうみつ 地、西部を淡路島で囲まれた一大海盆状の地形である。 あり、人口稠密地域をなしている。 けんび みようけん 北部の山地は、剣尾山 ( 天四 ) 、妙見山 ( 六六一一 ) など古 最近の府下の人口増加率の推移をみるに、わが国高度経済 成長期の一九六〇 ~ 六五年の二〇・九 % の大幅増加を頂点に生層からなる隆起準平原で、南端は箕面断層崖で境する。東 こん 1 」う 増加率は低下傾向をたどり、七五 ~ 八〇年間では二・三 % 増部の山地は南北に縦走する生駒山地と金剛山地からなる。基 しゅうきよく にとどまっている。これは、人口の自然増が縮小する一方、盤はおもに片状花崗岩であるが、褶曲運動に断層を伴う傾 経済成長の低調が社会増の減少につながったものである。ま動地形を示し、生駒山地は西側に生駒断層崖、金剛山地は東 かつらぎ た、人口の都市別増減の推移をみるに、大阪市を中心に隣接側に葛城断層崖の急崖をなす。生駒、金剛両山地間には第一一一気 の守口、門真、東大阪市などで人口減少を生じている反面、紀中新世の火山の名残である「一上山群 ( 最高噐しがあの いずみ みのおひらかたかたのかわち 大阪市から二〇キ。圏前後にある箕面、枚方、交野、河内長野る。南部には中生代和泉砂岩層からなる和泉山脈がある。褶阪 大 曲に断層運動が加わり、とくに南側は紀ノ川河谷に急崖を示 男女 す中央構造線が通る。これらの山地は景勝と眺望に恵まれ、 北部は明治の森箕面国定公園に、東部と南部の一部は金剛生 年 さんろく 駒国定公園に指定されている。山麓には三〇〇 ~ 一〇〇の かせん せんり 千里丘陵、枚方丘陵、河泉丘陵などがあり、丘陵に接続して 五〇 ~ 一一〇級の台地が段丘状に存在する。 っる 中央部の大阪平野は、更新世 ( 洪積世 ) の入り海 ( 河内 はんらん たいせき よど やまと 年 湾 ) が淀川、大和川などの諸河川の運搬土砂で堆積した氾濫量ハ、 ) 原である。海岸線もこれらの河川の三角州と沿岸潮流による き、力い 砂浜海岸であったが、近年堺・泉北臨海工業地帯など、埋立と へんばう 人てによる人工的海岸に変貌した。 気 幺〕Ⅲ〕 位国 〔気候〕瀬戸内式気候帯に属し、一般に気候温和である。大 単全注 府 阪市の年平均気温は一五・六度 0 で、月別平均気温では一月 阪 の四・五度 0 が最低で、八月の二八・〇度 0 がもっとも高大 大阪 ( 府 ) おおさか 府章 伝社交産歴自 説会通業史然 文 農先地 化 業史形 教林古気 育業代候 文水中 化産世 業 生 近 活工世 文業 化 近 代 30 45 100 歳以上の人口 ( 1980 年 ) い - ) ま 0 LO 0 1-n 0 一 . っ ~ 0 広 0 0 0 0 0 0 0 0 E 1 ーっ」 ( こ 4 ・ ) E 。大一 0 0 年降水量 等温線 ( ℃ ) 160 m 以上 2 月 [ こコ 1400 ~ 1600 8 月 [ こコ 1400mm 未満。気象官署所在地 年平均気温 16.2 ℃ 年降水量 1400mm 34 。 41 ' N / 135 。 31 ' E 23.1 m ロ月平均気温 ロ月平均降水量 緯度 / 経度 標高 1985 年版「理科年表」による かんばっ 893

7. 日本大百科全書 3

たが、氏正の洋学奨励は、明治期の官界や学界 キ、便もあり、バスは西濃各地に通 に多くの人材を送るもととなった。〈村瀬円良〉 じている。都市的形成は戦国時 回『新修大垣市史通史編』 ( 一九穴・大垣市 ) 代の大垣城の創築に始まり、一 六三五年 ( 寛永一一 l) 以来の大 オオカサコケ R ぎ dob こミミを g を、き ( Hook. ) Par. コケ植物カサゴケ科の一種。 垣藩戸田氏十万石の城下町およ る近 けいちょう 低地から山地の腐植土上に群生する。地下茎か び美濃路の宿駅 ( 慶長年間以 流する を残、 、の茎があり、この ら直立して出る高さ三 ~ 降 ) を中心に発展してきた。城 央をて 一・五 下町などの景観は、第二次世界 中げつ先に葉が集まってつく。葉の長さ一 ~ のか立 、長卵形で、中央脈が一本ある。胞子体は一 大戦中の五回の空襲でほとんど 市もが , お碑茎に二 ~ 四本つく。東南アジアから日本にかけ 失われたが、戦後国道二一号、 地代蕉て分布し、日本では関東地方から九州にかけて 四一七号など道路の整備につれ 一 ~ の時芭 び運のみられる。植物体の形からカラカサゴケ、レン て、市街地は各方面へ拡大して 〈井上浩〉 いる。とくに一九六四年設置の 』はぞゲゴケなどともよばれる。 ラ そ禾 名神高速道路大垣インターチェ オオカサモチ P 、ミ、き、、ミミミミ・ 、 s ミ、ミ H0ffm. セリ科の大形の多年草。 ンジと結ばれる国道二五八号沿 く高 茎は高さ二に達し、中空で隔壁がない。葉は いの都市化などは、このよい例 潮害防備の保安林である国指定名勝入野松原が である。 の灯大形で質が薄く二回三出羽状複葉、小葉は細く そ寺一い 蕉吉た 切れ込む。花は七、八月、半球状の複散形花序三キ。ほど続いている。キュウリを主とする蔬菜 一方、大垣駅付近の大垣城天 芭住 かき 「 ~ 尾のの につき、白色。果実は卵形で狭い翼がある。山や花卉の施設園芸、砂地利用の玉ラッキョウ栽 守閣は、一九五九年に再建さ 松い蛤 八ロ「 地の草原に生え、中部地方以北の本州、ヒ 丿」海培が盛んで、シラス漁など沿岸漁業もみられ れ、本丸を中心に大垣公園があ 道、朝鮮、中国、シベリアなどに分布する。オる。入野地区には国土庁のモデル定住圏構想に る。また、主要商店街は、大垣 大水く オカサモチ属はユーラシア大陸に一五種が分布よるふるさと総合センターがある。人口一万一 駅前を南へ延びる駅前通り、 くるわ 〈門田裕一〉 〈大脇保彦〉 郭町通りなどを中心に構成されている。工業合併。東部の倉橋島とは早瀬大橋で結ばれ、さする。 おんど くれ は、良質で豊かな地下水、便利な交通、工場のらに音戸大橋を経て呉市とは陸続きになり、呉オオガシラ〔大頭〕 puffbird 鳥綱キッ回『大方町史』 ( 一九六三・大方町教育委員会 ) おおゅう ッキ目オオガシラ科に属する鳥の総称。同科囮五万分の一地形図「土佐佐賀」「大用」 誘致などによって発展し、繊維工業、化学工市の商圏に入る。近郊農業が盛んで、カーネー 業、大理石加工、石灰製造、輸送用機械器具製ションなどの花卉、ミカン、野菜栽培を行う。 Bucconidae は熱帯アメリカ特産で、低地の熱大潟 ( 町 ) おおがた ( まち ) 新潟県南西部、中 またカキなどの養殖漁業、石材の切り出しなど帯林にすみ、約三〇種がある。全長一四 ~ 三〇頸城郡にある町。日本海岸の頸城砂丘上にある 造などの製造出荷額は、岐阜市と伯仲するほど 一の樹上性の小鳥で、羽色は黒、白、褐色系で新興住宅地。一九五七年 ( 昭和三一 l) 八月一日 である。次に、市街南部の船町は、大垣に三回も行い、石油備蓄基地もある。人口一万一九五 かたまち 〈北川建次〉 じみである。頭が大きく、豊かな羽毛を膨らま潟町町として町制施行。同日大潟町と改称。信 ↓能美島 も訪れた俳人松尾芭蕉の『おくのはそ道』結び六。 おおぎみ なごり せていることが多いので、ずんぐりしてみえ越本線と国道八号が通じる。近世は北国街道に の地で、水門川沿いの灯台は、水運時代の名残囮二万五千分の一地形図「江田島」「大君」 あおはか である。また市の北西部の青墓は古くから開け大垣藩おおがきはん江戸時代、美濃国 ( 岐る。普通、枝にじっと止まっていて、空中や近沿う半農半漁の浜漁村で砂丘畑の野菜作りで知 みの た所で、大塚古墳などの古墳が多く、美濃国分阜県 ) 西部の内を領有した藩。大垣に藩庁を置くの枝や地上に獲物の昆虫やクモや小形トカゲられたが、五七年ごろから帝国石油の潟町ガ ふだい とう、んど、つ などをみつけると、ばっと飛び立ってそれをとス・油田の開発で、一躍石油の町としてにぎわ いた。譜代。関ヶ原の戦い後、石川氏三代、松 寺の所在地であり、中世の東山道筋にあたり、 よしとも った。いまも潟町駅付近には原油貯蔵タンクが 源義朝父子ゆかりの地でもある。青墓の東方の平 ( 久松 ) 氏二代、岡部氏二代、松平 ( 久松 ) らえる。巣は樹上のシロアリの巣や崖にトンネ なかせんどう ルを掘ってつくり、末端の産室に二、三個の白林立し、また天然ガスパイプ網の起点をなし、 赤坂は旧中山道の宿場町であり、大理石加工、氏一代と藩主がかわって、一六三五年 ( 寛永一 なおえっ うじかねあまがさき い卵を産む。ある種では、平らな地上から斜め日本海岸最初の人工島跡も残っている。直江津 一 l) 戸田氏鉄が尼崎から転封。以後廃藩まで一 石灰工業が盛んな所で、南部の勝山とよばれる 港の築港や、上越臨海工業地域の発展と北陸自 小丘は、関ヶ原の戦いのとき徳川家康の本陣と一代二三五年間戸田氏が藩主となった。十万下方に、ときには二にも達するまっすぐなト あずかりしょ なった。毎年五月一四 ~ 一五日は大垣祭で、山石。ほかに幕末期までに幕府預所六万九千石余ンネルを掘り、入口の上に枯れ枝を積み上げ動車道の開発で、高級新興住宅地や工場地に変 : っ→っ / 、 かきよ、つかん み・一し 車や大神輿も出てにぎわう。柿羊羹は名産。人を支配。氏鉄は俸禄制を採用し、新田を開発、て、その下の通路を通って出入りすることが知わりつつある。鵜ノ浜温泉や海水浴場もある。 〈山崎久雄〉 〈浦本昌紀〉人口一万〇七五一。 〈上島正徳〉新たに高一万三千石を得て、藩政の基礎を固られている。 口一四万三一五一。 さだめちょう うじあき 回『大垣市大観』 ( 一空 = ・大垣新聞社 ) ▽『新修め、三代氏西の代に藩法規「定帳」が作成さ大方 ( 町 ) おおがた ( ちょう ) 高知県西部、囮二万五千分の一地形図「潟町」 うじただ れた。藩の財政難は九代氏正に至って深刻化、多郡にある町。土佐湾に面する。一九四三年大潟 ( 村 ) おおがた ( むら ) 秋田県中西部、南 大垣市史』全四巻 ( 一九穴 ~ 七一・大垣市 ) はちろうがた おはらてっしん 一八五〇年 ( 嘉永三 ) 改革派の小原鉄心を登用 ( 昭和一八 ) 町制施行。五六年 ( 昭和三一 ) 白秋田郡にある村。八郎潟の中央干拓地造成の結 囮五万分の一地形図「大垣」「津島」 大柿 ( 町 ) おおがき ( ちょう ) 広島県南西部、して財政整理や軍制改革を断行した。鳥・伏田川村を合併。国鉄中村線、国道五六号が通じ果誕生した新自治体である。一九五七年 ( 昭和 わみようしよう のうみ 広島湾内の能美島南部 ( 東能美島 ) を占める見の戦いでは幕軍として参加したが、鉄心は藩る。『倭名鈔』の大方郷、中世の一条氏の大方三 (l) 八郎潟干拓事業所が置かれ、国の直轄事 しよう たかなが 町。佐伯郡に属す。一九二七年 ( 昭和一 l) 町制論を勤王に統一、会津若松城を攻めて功があっ庄。式内社加茂神社などの所在地で、尊良親業として干拓化が進み、六四年に大潟村が発足 おおがた ひとのせ た。藩校致道館 ( 後の敬教堂 ) は藩学をおこし王関係の史跡もある。海岸には戦国時代以来のした。村名は八郎潟の古称大方からとった。面 施行。五四年 ( 昭和二九 ) 深江、飛渡瀬二村と イ一えき すいもん ほっ・一く いりの なか 878

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おおしま むなかた しお 通じてにぎわっている。〈菊池万雄・諏訪彰〉大島おおしま和歌山県最南部、潮ノ岬東大島おおしま山口県中北部、日本海沿岸大島おおしま福岡県北部、宗像郡玄海町 はぎ にしむろくしもと の神湊沖合い約七キ。にある県内最大の離島。 にある島。面積三・四四平方キ。。萩市に属し、 回立木猛治著『伊豆大島志考』 ( 一九六一・同書刊方にある島。西牟婁郡串本町に属す。紀州最大 げんかいなだひびきなだ ちくぜん 萩ノ大島ともいう。玄武岩台地で、集落は南岸筑前大島ともいわれる。玄界灘と響灘の境を 行会 ) ▽日本火山学会誌『火山・大島特集の島なのでこの名がある。東西八キ。、南北二・ おきのしま なし、沖島とともに大島村をなす。周囲一三・ に密集し、浜崎港との間に一日四便の定期船が 五キ。、周囲三六キ。、面積九・四八平方キ。。全島 号』 ( 一九七 D へいたん 囮二万五千分の一地形図「大島北部」「大島南四〇 ~ 八〇の平坦な海食台地で、海食崖に囲ある。藩政時代からの半農半漁村で、幕末には五キ。、面積七・五平方キ。。中央部の御岳 ( = 一七 へいたん ) を最高に山地、丘陵が広く、海食崖が発達 まれる。吉野熊野国立公園の一部。岩礁も多海上防備の番所や大砲台場が置かれた。平坦な かしの がまごおりみや 、樫野崎には一八九〇年 ( 明治二三 ) に遭難台地の畑作は葉タバコやタマネギが多く、近海している。半農半漁の島で、沿岸漁業が中心で 大島おおしま愛知県蒲郡市三谷海岸から なかつみや みかわ 南西方約三キ。沖合いにある島。無人島。三河大したトルコ車艦の碑がある。避難港を兼ねる大は。フリ、イワシ、アジ、イカなどの好漁場。人ある。宗像神社の中津宮がある。九州と大陸を 〈三浦肇〉 結ぶ古代海上交通の要衝として開け、中世以降 島と、樫野、須江の三漁港があり、敷網漁業が 島ともいう。蒲郡市沿岸海域には竹島、大島、 わ - 一う・ へんま は倭寇の根拠地ともなった。キャンプ、海水 多い。対岸の串本港から一・八キ。沖合いにあり、囮二万五千分の一地形図「櫃島」「越ケ浜」 小島、仏島、亀岩など片麻状花崗岩からなる小 島が散在するが、最大の島が大島。面積一〇万定期船の便がある。人口二〇六一。 〈小池洋一〉大島おおしま徳島県南東部、海部郡牟岐浴、釣りなどの客が増加し、神湊からの定期航 町にある島。牟岐港の南東海上七キ。にある。面路に一九八一年 ( 昭和五六 ) からフェリーも就 平方。最高点四六。『東三河地区の地盤』囮二万五千分の一地形図「串本」 いさお 〈石黒正紀〉 航した。人口一三〇三。 積一・九四平方キ。。江戸時代には海上監視のた ( 松沢勲著 ) によると、蒲郡市東部地区は、片大島おおしま山口県南東部、面積一二 すおう 麻状花崗岩からなる山地とあり、竹島、大島な九・六平方キ。の瀬戸内海第三の島。周防大島まめの番所が設けられ、明治初期には戸数一八戸地〕二万五千分の一地形図「神湊」 ひらど ・か - ごっ に達したが、 現在は無人島。礙釣りの名所であ大島おおしま長崎県平戸島の北方にある どはその連続と考えられる。東西約八〇〇のたは屋代島ともいう。安山岩や花崗岩からなる にしそのぎ きたまつうら 大島東海岸の突出した州の北側が急傾斜になっ沈水島で、屈曲の多い海岸線をもち、平地に乏り、島の周囲は阿波大島海中公園に指定されて島。北松浦郡大島村に属する。西彼杵郡の大島 あづち とうわたちばな 〈高木秀樹〉 に対して的山大島の名で知られ、平戸大島とも ているのは沿岸潮流の影響。国指定天然記念物しい。大島郡の久賀、大島、東和、橘の四町 よばれる。面積一五平方キ。。大陸交通の要衝に に分かれる。「古事記』の「国生み」に登場す囮二万五千分の一地形図「牟岐」 ナメクジウオの生息地。夏期は海水浴客でにぎ けんずい わみようしよう わう。蒲郡乗船センターと蒲郡ョットハー る大島とされ、『倭名鈔』には屋代、美敷、務大島おおしま香川県北部、木田郡庵治町あたり、遣隋使、遣唐使の寄港地をなし、さら ・めー一んが やしろのしようしまずえ に室町、足利時代には倭寇の根拠地をなした。 ハンセン病の 〈伊藤郷平〉理の三郷がみえ、中世までに屋代庄、島末庄、 から定期船で一五分。 しようえん に属する島。面積〇・七方 ~ 。 安下庄の荘園が開発された。近世には萩藩大療養所である国立大島青松園がある。同園は明第三紀層上に玄武岩台地が広がる低平な島で、 囮二万五千分の一地形図「蒲郡」 ひらつじ 、こい〕な . れ 台地上には溜池が 治期に設置され、患者の子弟のための小・中学最高峰の平ノ辻は二一六 ) 島宰判 ( 裁判とも書く地 こうのうら 方行政区画 ) に属し、勘校もある。患者数四六一人、その他一六五人多く分布する。南岸に的山湾、神浦の湾入が 〈坂口良昭〉あり、北岸は海食崖に富むが大根坂湾の湾入が 場 ( 代官所 ) は久賀に置 (IR<II)O てんまう ある。平戸港から村営連絡船がある。人口二五 かれた。天保年間 ( 天三 0 〔地三万五千分の一地形図「高松北部 〈石井泰義〉 おおしま愛媛県北部、芸予諸島にあ〇〇。 ~ 四四 ) すでに人口五万八大島 おちよしうみ 〇〇〇人に達した。階段る島。大三島に次いで大きく、越智郡吉海町と地二万五千分の一地形図「的山大島」 : しそのぎ みやくば 耕地が発達し、サツマイ宮窪町に属す。面積四五・二七平方キ。。淪市大島おおしま長崎県叫彼杵半島西部にあ モが栽培され、小松やから四キ。の距離にある。南東部は断層海岸でる島。西彼杵郡大島町に属する。面積一二・ む きようたん きゅうがい こうのうら 望 神浦、安下庄は製塩業急崖をなすが、西および南部では湾入や岬角九平方キ。。夾炭層を含む古第三紀の砂岩、頁 を の多い複雑な海岸線で景観に優れる。花崗岩帯岩、凝灰岩からなる丘陵の島で、最高峰の百合 ) 望でも知られた。 ル又 架の 明冶以降はハワイ移民で良質の石材を産出する。二泊三日の行程で一岳は標高一九四。丘陵は、数列の並行する北 さんりよう ひくま を多く出し、日前に始ま巡できる大島島四国八十八か所巡りや、水車史東ー南西方向の山稜線に分かれ、西側が緩傾 フ′・カ うんしゅう 山 った温州ミカンの栽培跡巡りのコースが整備され、瀬戸内海国立公園斜、東側が急傾斜の斜面をなす典型的なケスタ ノ に含まれる。人口一万〇五七九。〈深石一夫〉地形を示している。一九三五年 ( 昭和一〇 ) 東 橋飯は全島に及び、現在では ま ) 一め 大の 岸の馬込を坑ロとする海底炭田が開発されたが 島部農地の八〇 % 以上を果樹二万五千分の一地形図「木浦」「幸新田」 ひうちなだ 大西 るヒ 園が占め、山口ミカンの大島おおしま愛媛県東部、燧灘南部にあ七〇年閉山した。佐世保港、長崎港から定期船 かの 〈石井泰義〉 がある。人口七五八二。 架島本場として年産七・四万る島。面積二・二四平方キ。。新居浜市に属し、 トン。沿岸では一本釣りや市街地東部の一・三キ。にあり、西隣の黒島 ( 陸地五万分の一地形図「佐世保南部」 瀬れ 小型底引網が盛ん。一九島 ) はかっての属島であった。南北朝、室町大島おおしま大分県南東部、佐伯湾入口 みなみあまべ じよう一い おお にある島。南海部郡鶴見町に属する。鶴見半 大知七六年 ( 昭和五一 ) 大時代に村上三島水軍の本拠地で、城塞、船隠 もと ま とよとみ ばたけ 畠瀬戸に大島大橋 ( 一 0 し跡が残る。水軍は豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際に島地蔵崎沖合い約五〇〇に、元ノ間海峡を隔 せんごく 防本 = 0 】しが開通し、本土と大いに功があり、江戸時代には千石船の大型廻ててある。面積一・七八平方、。、最高点一九三 。東岸は五〇 ~ 一〇〇の海食崖が発達し、 吉まれた。人口三万二〇船が盛んで、瀬戸内海から蝦夷地にまで交易を : つまう だんまど 県の吊。 〈三浦肇〉広げた。現在は半農半漁で戸数約二〇〇、人口海食洞門壇ノ窓がある。印海岸国定公園に含 タ ゃな 山 〈深石一夫〉まれる。西側緩斜面に畑と集落がある。サワ 七三〇。 〔地〕五万分の一地形図「柳 ラ、タイなどの一本釣りが盛ん。一六一八年 9 大瀬 地二万五千分の一地形図「新居浜」 井」「久賀」 立ロ」 やしろ 0 かん 0 ひっしま むぎ こうのみなと 寺、せば つるみ おんたけ

9. 日本大百科全書 3

ふるゆしんゅ べっしょ つくも として紹介された古い歴史をもち、雲仙火山群在する九十九島である。以後、噴火はないが、 ん観を呈し、古湯、新湯、小地獄、別所にホテル山と温泉を中心とする公園であるのに対して、 ゅうしゆっ せ街を形成している。他方、江戸時代にはキリシ天草地域は海洋と島嶼の公園である。観光の中中の標高約七〇〇の盆地内に湧出している。有感地震を含む火山性地震が近年もしばしば群 3 心は、六六年開通し六七年公園地区に編入され地体構造からみれば、金、布津、別所、吹越発し、噴気、地熱活動も盛んで、温泉も多い んタン弾圧のための地獄責めが行われた歴史をも 有する。 た天草五橋沿線で、天草の島々を結ぶ近代的の四つの断層線の交錯する地帯に相当し、地下雲仙岳測候所が常時火山観測中。九州大学の火 きようりよう だま 雲仙火山群はその昔、山岳仏教の聖地として橋梁と島嶼美は、天草バールラインとよばれ約一〇キ。のマグマ溜りから上昇、分化した温泉山観測所もある。普賢火山には主峰の普賢岳、 かみ がんりよくばん みようけん 栄え、雲仙の名称も仏寺の山号に由来するが、 る観光ルートを形成している。また、上島と下が、金浜断層に沿って噴出している含緑礬酸風見岳 ( 一三四七 ) 、妙見岳 ( 一三三三 ) の諸峰が たかく うんぜん ほんど 古くは高来峰とよばれ、温泉岳とも書かれた。 島を結ぶ本渡瀬一尸に架けられた天草瀬戸大橋も 性硫黄泉である。泉温は高く、噴気は炭酸ガあり、妙見岳には仁田峠からロープウェーが架 ふげん こにしゆきなが あそ 山腹一帯は普賢岳紅葉樹林として国指定天然記美観を呈する。天草は小西行長の領有以来キリ ス、硫化水素を含む水蒸気で、俗に地獄とよば設され、妙見岳から天草、阿蘇、長崎方面への みようけん 念物となり、秋の紅葉はみごとで、春は妙見シタンの島となり、島原・天草一揆の発生地をれている。江戸時代のキリシタン禁制時代には展望はすばらしい。春のツッジ、冬の霧氷の見 ほ・つな」る だんごう とみおか 岳から宝原にかけてのミャマキリシマ ( ツッジなした大矢野島、湯島 ( 談合島 ) とともに富岡地獄責めの刑も行われたと伝えられ、地獄内に 物も仁田峠ー妙見間を核としている。また、こ ほんど 科 ) の大群落は、赤紫色の花のじゅうたんを敷城跡、本戸城跡 ( 本渡市 ) などの旧跡が多く、 キリシタン殉教碑と十字架がたてられている。れらの山々に自生するミャマキリシマ、イヌッ ふるゆ しんゅ き詰めたような美観を呈し、冬は山頂部に霧氷本戸城跡には天草切支丹館や殉教公園がある。 泉源は三七か所 ( 古湯二、新湯三四、小地獄ゲ、シロドウダンは国指定天然記念物。普賢火 の華が銀色に輝く。以上の景観は特別名勝に指崎津天主堂、大江天主堂は昔ながらの畳敷きの 一 ) を数え、別所地区を含む古湯はもっとも古山、九千部火山、絹笠火山三者の接触する所に ・つーかル 定されている。 教会である。また、富岡、牛深は海洋美に恵ま い歴史を有するが、泉源の枯渇したものが多雲仙盆地 ( 標高約七〇〇 ) の温泉地があっ 一九五六年 ( 昭和三一 ) 編入された天草地域れた漁港。なお、富岡、牛深、天草に海中公園 く、ホテルははとんど新湯地区の地獄から引きて、雲仙天草国立公園の観光基地をなしてい らいさんよう はちまん ごえっ しようわっじやけん は、頼山陽が「雲耶山耶呉耶越 : : : 」と吟じてがある。↓天草諸島↓雲仙岳〈石井泰義〉湯し、その泉源は八幡、お糸、焦熱、邪見、る。 〈石井泰義・諏訪彰〉 たかき だいきようかん ひぜんおばま いるように、西は天草灘に臨み、さらにその西雲仙温泉うんぜんおんせん長崎県南高来郡大叫喚、新湯の各地獄の硫気孔、噴気孔から囮五万分の一地形図「島原」「肥前小浜」 ひぜんのくにふどき みねのゆ おばま には東シナ海、中国大陸がある。雲仙地域が火 小浜町にある温泉。『肥前国風土記』に峯湯泉の自然湧泉である。小地獄での泉源は噴湯池をウンゼンツッジ「雲仙躑躅〕 R ぎ・ 形成し、共同浴場を中心にユースホステルや寮 d se 、をミをミ (). Gray) Miq. ツのと一木シ国し 東央 , 硫変め と岳峠工の の中ですに眺 などが建ち並ぶ。雲仙岳探勝の基地で、長崎、ツッジ科の常緑低木。高さ一、 二になり、枝 だえん 園一仙田ウ緑キれを 街。所出色た 小浜、島原などからバスが通じ、国道五七号、 公工雲仁プ月マ乱心 泉獄るき黄し は細くてよく分枝する。葉は互生し、楕円形、 立ウ。と一 5 ャき中 温地た噴 , と 仁田循環有料道路も走っている。〈石井泰義〉長さ一 ~ 一 、の小形で、両端がとがり、褐 国プ落岳ロ るあて白凉 草一群見はりにがの 泉あにては荒 回『雲仙』 ( 一九五七・長崎県小浜保健所 ) ▽『雲仙色の毛がある。秋葉は枝先に集まってつき、小 天ロの妙に カ問ど園る 温に丘た岩 , る 仙仙ジ峰間かのな公い 仙手口をでしあ 温泉調査報告書』 ( 一九六一一・長崎県衛生部 ) さい。四、五月ころ、枝先に淡紅紫色の小さい 雲雲ツ一のが木マ立て 雲裏火音気色で 地一二万五千分の一地形図「雲仙」 漏斗状、径一・ ・六の花が開く。花冠 しま - よ画ら はんてん 雲仙岳うんぜんだけ長崎県島県半島の中央は五中裂して、上面に斑点があり、雄しべは五 部に噴出している火山群の総称。白山火山帯に 本で長い花柱とともに花冠の外に出る。果実は たかく うんぜん あまぎ 属する。古くは高来峰とよばれ、また温泉岳と 卵形、長さ約五、、リ。静岡県天城山以西の本州 も書かれた。特別名勝。この火山群は、北リ 倶の四国、九州の鹿児島の山地に分布する。名の由 ちぢわ ふつかなはま 千々石断層と、南側の布津、金浜両断層の間に 来になっている九州の雲仙岳には野生していな ある雲仙地溝内に噴出した、おもに安山岩から い。品種のシロバナウンゼンツッジは花が白色 きめ ろっこう なるトロイデ型溶岩円頂丘の複合体で、西に絹 で、兵庫県の六甲山、大阪府の葛城山系などに がさ くせんぶ 笠火山 ( 約八五〇 ) 、北西に九千部火山 ( 一 0 分布する。陽樹であるが、半日陰地でも育ち、 ふげん 六一 ) を順次噴出し、最後に東に普賢 ( 温泉 ) 庭木にする。図しツッジ 〈小林義雄〉 まゆ ゅそう 火山 ( 一三五九 ) を噴出し、この間、東に眉山運送うんそう 0 輸送 さるば うんそうえいぎよう物ロまたは旅 穴一九 ) 、西に猿葉山 ( 三〈 0 ) の側火山を伴っ運送営業 ている。なお普賢岳を雲仙岳ともよぶ。 客の運送を目的とする営業。運送の対象によ 雲仙缶は老年期火山で、地形は複雑化してい り、物品運送と旅客運送に、また運送が行われ る。八六〇年 ( 貞観一 l) の噴火以降、四回の噴る場所により、陸上連送、海上運送、航空運送 火が記録されており、とくに一七九二年 ( 寛政 に分けられる。陸上運送は陸上または湖川港 四 ) には、爆発、溶岩流、泥流、山崩れ、強 ( いわゆる平水区域 ) でなす運送をいい ( 商法 あまくさひ 1 、 震、津波が発生し、島原半島内や天草、肥後五六九条 ) 、海上運送はそれ以外の海上でなす ( 熊本県 ) の沿岸で死者一万四五二四人 ( おも運送をいう。陸上運送は商法の商行為編「運送 に津波による ) を出し、有史以来、日本最大の営業」 ( 八章 ) の規定の適用を受け、海上運送 噴火災害であった。海岸線は旧海岸線より八七は海商編「運送」 ( 三章 ) および国際海上物品 〇の沖合いになり、その先に五九の新島を生運送法などの規定の適用を受ける。陸上運送の ちちぶ じた。これが秩父ヶ浦から島原港外にかけて散うち鉄道運送については特別法規 ( 鉄道営業 、 ~ メ 04. いっき かつらぎ

10. 日本大百科全書 3

そうじゅうあん ッ島 ) の二島のほか、多数の岩礁からなる。島のているものである。とにかく、今日的にはムラ 留された。その後同じ採石場で左側大腿骨片も草汁庵と河童の碑がある。近年、東京のべ の神として機能する氏神はムラという一定の地 ドタウンとして住宅と通勤人口が増加した。人周囲は高い海食崖で囲まれ、最高点は向島の三 採集されている。牛川人は発見例の少ないわが 月台域の守護神として存在しており、氏子はその地 〈櫻井明俊〉 二五。江戸時代に漁業基地となったが、日冫 ロ四万〇一六四。 国の洪積世人骨というだけでなく、新人よりも 中期以後、漁船の動力化・大型化により定住の域における祭祀集団ということになっている。 古いものである可能性を有する点にいっそうの囮二万五千分の一地形図「牛久」 必要性が薄らいだこと、生活上の不便さがおもそしてなんらかの形でその祭祀に関与すること 重要性がある。 〈今村啓爾〉ウシクサ「牛草」ゝこ、ミ og を b 、、 e ~ 、 ) さ = ・ かん になるのである。 な理由で急速に人口は減り、無人島と化した。 5 Sw. ィネ科の小形の一年草。稈は基部か 回鈴木尚著〔。日本人の骨』 ( 岩波新書 ) ・つ卩し・一ド」ゅ・つ うじがわのたたかい ところで、どのような氏神でも、氏子中から ら盛んに分枝して直立し、高さ一〇 ~ 四〇。 現在は釣り客がチャーター船で訪れるほか、避 宇治川は 宇治川の戦い ようしようへんべい 〈塚田公彦〉 とくに世話役として氏子総代が選出され、その 一難港として利用される。 京都防衛上の要衝にあたり、史上幾たびかこの葉は広線形で先が鈍く、葉鞘は扁平。 よ、つえき さつま 管理、運営にあたる。氏神がムラの物事いっさ 一月に葉腋から花序を出す。小穂は二小花をも囮二万五千分の一地形図「薩摩黒島」 川を挟んで合戦が行われた。なかでも一一八四 よりあい きそよしなか いの中心であるような土地柄では、ムラ寄合を 年 ( 元暦一 ) 正月二〇日、源 ( 木曽 ) 義仲、源ち、一つは有柄一つは無柄、炫になって花序のウシケノリ「牛毛海苔〕 B ミをト 20 ・ のぎ よしつね 兼ねた氏子寄合などで選出されることになる。 義経両軍の間に交わされた戦闘がもっとも有名節について、ともに芒をもつ。成長すると全体、 'P ミミ Lyngbye 紅藻植物、ウシケノリ が赤褐色に変色する。本州から沖縄の湿地に群科の海藻。紅紫色の細毛状体で、密集して群生一定の任期をもっ輪番制であったりするが、社 である。前年七月に入京した義仲は、一一月ク ーデターを断行、政権を掌握したが、他方、後生し世界の暖地に広く分布する。〈許建昌〉する。体長五弩以下。星状形の色素体をもっ体の清掃、神主の世話、祭礼の連営の責任者とな よりとも りゆ・つさき のり しらかわ る。また、もともと氏神の祭りに専業の神職が 白河法皇の密旨を受けた鎌倉の源頼朝は、弟範牛久沼うしくぬま茨城県南部、竜ヶ崎市の細胞が一列に並ぶのが原型で、生殖胞子ができ 北西部にある沼。周囲二五キ。、面積二・九六平ると、多列のこぶ状になる。内湾、外海の海岸必要だったわけではない。神主などの神役は、 頼、義経に大車をつけて西上させ、範頼は瀬田 しだよしひろ で、満潮線付近の高所に、冬から初夏にかけて氏子のなかから出ていたのである。それが日常 へ、義経は宇治に迫った。義仲方では志田義広方キ。、最大深度三。東・西谷田川下流部が小 を宇治方面に派遣して防戦したが失敗し、義仲貝川の土砂でせき止められてできたもの。太田繁茂する一年生藻。地方によっては、ふりかけ生活の複雑化や祭祀形式の多様化に従って、専 門の担当者を必要とするに至ったのである。そ は京都から敗走の途中戦死した。このとき、義沼ともよばれた。景勝地で、魚類も多く、湖岸枌のようにして食し、浅草海苔に似た風味があ みや かじわらかげすえ たかつな 〈新崎盛敏〉れ以前の、氏子が交代で祭祀を営む形態は、宮 経麾下の梶原景季と佐々木高綱が乗馬のまま渡を走る国道六号沿いには、レストラン、ドライる。 と・つや つじがみ うじこ氏神を信奉する人々のことで座における一年神主や頭屋などにみることがで 河を競ったという「宇治川先陣争い」の話は、 。フィンがあり、釣り、観光の客が訪れる。オオ氏子 きる。宮座というのは、伝統を守って祭祀を執 ハクチョウの渡来もみられる。南の出口に防災あるが、氏神の変遷に伴って、現在では神社の 『平家物語』のなかでも著名な一節である。↓ 〈櫻井明俊〉 信仰圏を形成する人々をさす。古代の氏神は氏り行ってきたもとからの氏子集団が、新しく転 源平の合戦 〈杉橋隆夫〉用水門が設置されている。 長を中心に春秋の二度にわたって祭りが営まれ入した人々に対して特権的なものとなったとき うしく千葉県市原市中部の一地区。囮二万五千分の一地形図「牛久」「藤代」 牛久 ・つじびと かわちじようちゅう よつろう ひたち に称するものである。座ともいうが、氏神を中 ていた。その祭祀を支持する一族すべてが氏人 うしくはん常陸国河内郡城中村に 旧牛久町。養老川中流に位置し、養老川流域の牛久藩 、いにした関係からとくに宮座とよばれている。 農村地域の商業中心地であり、小湊鉄道と国道置かれた藩。現在の茨城県敷郡牛久町城中周として参加していた。その祭祀集団が自然に血 ふだい こうしたものとは本質的に異なるが、氏子間に 二九七号が外房の勝浦市と連絡する。また、国辺。藩主は譜代山口氏。一六〇一年 ( 慶長六 ) 縁的な関係になっていたので、そこで祀られる もーら きさらづ かずさ 共通した風習もみられる。たとえば、東京近郊 道四〇九号が茂県と木更津へ通じる交通の要地山口重政が上総国 ( 千葉県 ) 内と牛久に各五千氏神が一族つまり血縁集団の崇拝する神という おおとり でもある。平地は水田、台地上はゴルフ場とな石を与えられたのが藩成立の端緒。のち五千石ことになっていたと考えられる。それゆえに氏の大鷲神社の氏子はその名にちなんで卵はもと っている。橘山の山頂に金剛力士像二体 ( 一加増されるが、一時改易され、一六二九年 ( 寛神ともよばれていたのであろう。つまり古代のより鶏肉も食すことはないという。また、切り とおとうみ きっぜん 口が天王神社の紋に似ているというのでキュウ 一一六三年の作 ) などのある橘禅寺がある。↓市永六 ) 遠江国 ( 静岡県 ) と常陸国牛久に一万五氏人は氏族すべての者をさし、それがそのまま ひろ リは食べないといったような食物禁忌を伝える 原 ( 市 ) 〈山村順次〉千石で復旧する。一六六九年 ( 寛文九 ) 二代弘氏神の祭祀集団を構成していたのである。現在 しげつわ 隆は弟重恒に五千石を分与して、牛久藩一万石使われている氏子という名称は、平安末期から事例は各地に残っている。 囮二万五千分の一地形図「鶴舞」 いなしき 氏子としての承認を受ける機会であるが、赤 うしく ( まち ) 茨城県南部、稲敷郡を領し、以来廃藩まで続く。菊之間詰めで大坂中世にかけて文書に出てくるようになる。そし 牛久 ( 町 ) じようばんおおばんがしら にある町。一九五四年 ( 昭和二九 ) 一月町制施定番、大番頭などに任ぜられる。幕末期の家て、それまでの氏人にとってかわり、中世以降子が誕生して忌み明け後の初宮参りを、氏子入 りとするのが一般的である。赤飯などを携えて に氏神の祭祀構成員を意味するようになった。 行。同年四月岡田村、五五年奥野村と合併。旧臣数一五四人、領地は牛久、新治、下妻、馴馬 りくぜん 神社に参る。その際に、赤子をつねってでも泣 牛久は陸前浜街道 ( 国道六号 ) の宿場町で、一領など三四か村、総石高一万二千二百石であっ氏神の内容そのものが、古代の氏神からしだい じような」ん にムラの守護神とみなされるようになると、産かせて氏神にその声を聞いてもらうなどという 八九六年 ( 明治二九 ) 国鉄常磐線牛久駅が置た。一八七一年 ( 明治四 ) 廃藩、牛久県、新治 すながみ かれ、この地方の中心地となった。稲敷台地に県を経て、七五年茨城県に統合。〈佐久間好雄〉土神や鎮守神と同一視されるようになり、氏子事例が顕著である。氏子入りが同時に地域社会 とよかわ そのものも一定地域に即した地域的な祭祀集団の一員として承認されるという儀礼でもある。 あり、牛久藩一万石の小城下町。東部はラッカ牛久保うしくば愛知県豊川市南部の地区。 土地によっては七歳になってようやく氏子入り を意味するようになった。 セイ、サツマイモの産地、西部はミッパ、ホウ 旧牛久保町。街村状の市場町で、家具の製造・ かみや 現在は氏神とかお宮といえば神社を対象としするという所もある。そうした土地ではそれま 販売が特色。戦国時代、牧野古白 ( 成時 ) 築城 レンソウなど野菜の産が多い。駅東の神谷は、 ている。それを信奉する氏子は地域的に限定さでは神の子だからといった解説がなされてい 一八九七年に神谷伝兵衛が、。フドウ栽培、ぶどの牛久保城跡、奇祭「うなごうじ祭」で名高い やしろ はちまん 〈伊藤郷平〉れるので、同じ地域に二つ以上の社をもっことる。また、嫁入りなどの際に氏神を訪れるの 八幡神社がある。↓豊川 ( 市 ) う酒醸造に着手した地で、合同酒精株式会社の も、氏子への加入と同時に、その共同体の一員 しオしたたいくつかの村落がまとまって郷と 牛久シャトーがあり、一九〇三年 ( 明治三六 ) に 地二万五千分の一地形図「豊橋」 まくらイ一き として承認を求める初宮参りと同様の感覚から 一」建てられた旧醸造所は、資料館や行楽施設とな宇治群島つじぐんとう鹿児島県枕崎市のして機能している場合には、自らの属するムラ ン : っー ) よ かつは じっている。南方の牛久沼は釣り場、また河童の西約八〇キ。の東シナ海上にある島嶼。行政上はの氏神と郷の氏神との二重氏子という形をとるきているものであろう。なお、誕生や婚姻に伴 かわなべかささ む力い うせん 川辺郡笠沙町に属す。宇治向島と宇治島 ( 家ことになるが、通例はいずれかに力点が置かれう氏子入りだけでなく、他所からの移住によっ 、つ画で知られた画家小川芋銭の住んだ所で、旧宅 より たちばな 】てレ」ば - っ こみなと たいたい なれうま おさ まっ 1 ( ) 1