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検索対象: 日本大百科全書 3
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1. 日本大百科全書 3

うきくさ 雨期 / 雨量による見分け方 ( 単位 : mm ) 都国緯ロ雨期 市名度 名口梅雨期 ロ秋雨期 ロ季節風降雪期 1 2 3 4 5 6 7 8 9 101112 月 せる目印の役目をする。網漁具では、浮子とも よばれ、「浮き」の浮力で網具を支えるととも に、所定の形状や位置に保たせる働きをする。 「浮き」の材質は、軽くて浮力が大きいものが 8 望まれ、かっては木や竹が使われたが、現在で は各種の合成樹脂が広く用いられている。遊漁 えさ の竿釣りの「浮き」は、餌の捕食が鋭敏に「浮 こ云わるように形状がくふうされ、目的魚 や使用場所の状況によって使い分けられる。 「浮き」の形状から、玉浮き、唐辛子浮き、徳 利浮き、棒浮きなどの名称がある。このほか、 7 イ・》↑「 0 内 4 ~ 発光塗料を塗ったものや、照明装置のついた夜 日本 〈余座和征〉 間用の電気浮きもある。↓釣り 兵松 うきいねィネの特殊な品種群の一つ。 浮稲 普通のイネは、開花期近くになってから、茎の 上部の数節間が伸長するが、浮稲は深水中で生 育する場合、生育の初期から稈が伸び、三 ~ 五 から長いものは十数にも達する。おもに東 南アジアのデルタ地帯に産し、環境適応の一つ とみられる。減水期に直播きされたイネは、増 水期に水位が上昇するのにしたがって、新しい 葉の出る部分がつねに水面上に出るように節間 が伸長し、節の数も増加する。こうして水没を 免れ、種子を残すことができる。インド型のイ ネにみられ、多くの生態型に分けられる。日本 〈星川清親〉 のイネには浮稲型のものはない ひょうそうよ うきうお 0 表層魚 浮き魚 うきえ西洋の遠近透視画法を用い 浮絵 遠近感を強調して描かれた浮世絵のこと。画面 がくばんで見えることから、くばみ絵ともよば れた。おもに劇場内部や室内、あるいは風景な 屋る どが描かれ、版画、肉筆画ともに作品がある。 は風 きようまう 分田 享保年間 ( 一七一六 ~ 三六 ) 末ごろから浮世絵に用 絵か るの いられたとする見解が定着しているが、作品は 錦描 出 の浮 確認されておらす、最古の確実な作例とされる 大法 、葉の 横画 ものに、一七四四年 ( 延享一 ) 春に版行された 」透舞台図が知られている。一般化し始めたのは延 きよう は外 享年間 ( 一七四四 ~ 四 0 ごろと考えられる。なお、 舞用 をク 浮世絵にこの技法を取り入れた創始者は奥村政 齠法 信といわれ、現存する作品も少なくはないが、 原近 つは 吉遠まだ遠近画法の理解が不十分であったため画面 とよはる 蚣か る写 の不統一が目だっ。のち歌川豊春によって、数 浮す 、つ多くの浮絵が発表され、画法もおよそ完成され 架図 〈永田生慈〉 たとみられている。 豊の 深る ウキクサ「浮草〕 S き斗を、にきき . 水あ (L し Schleid. ウキクサ科の浮水性の一年 浮豪草。カガミグサ、ナキモノグサなどの別名があ 5 300 250 200 1 50 100 50 300 250 200 150 100 50 300 250 200 150 100 50 300 250 200 1 50 100 50 300 250 200 150 100 50 300 250 200 150 50 インドネシア ジャカルタ イ↑っ 0 LC¯) アテネ 水土 ベトナム ホー・チ・ミン -TT 幺 O O ウガンダ エンテペ ) 呶。 00 ・つ 0 日本 一 ~ 佃 4 井 さお

2. 日本大百科全書 3

しようぎたい チネボエティク詩集』一九四 0 。 幕臣、新選組、彰義隊残党など佐幕派も合流し 『女の化粧法』 De ミ & ミミ F ミ・ F ミこ・ きたしらかわの りんのうじのみや 西欧における定型押韻詩の歴史は古く、ポー た。六月に輪王寺宮公現法親王 ( 後の北白ー ミミ ( 一部のみ残存 ) 、前記『アルス・アマト みやよしひさ ドレールの『悪の華』は脚韻がきちんと踏まれ宮能久親王 ) が上野を退去して会津に入ると、 リア』の解毒剤的続編『愛の療法』 Remedia しらかわ ゝミ 0 こ s がある。 諸藩は宮を盟主にいただき、白河に公議府を移 た定型詩である。上田敏の名訳によって名高い して、地方政権の生格を濃くしていった。 ベルレーヌの「秋の歌」の冒頭の三行「 Les san- その後、恋愛詩と決別した詩人は長編の物語 glOts longsZDes violons/De l'automne 」 一書によると、大政の元号を用い、宮を東武 詩の制作に意欲を燃やし、大作『転身譜』ミミ , だじよう ス をざき、 ~ 。 ses 一五巻をほば完成、さらにアウグは、 1 との頭韻と 0 の半諧音とが反復され、皇帝とし、九条道孝を関白太政大臣、仙台藩主 ・な」ッ 0 り だてよしくこ ごんせいい ウ ストウス帝に献呈の予定で、ローマの古伝承やそれが美しい諧調をなしている。しかし、一方伊達慶邦を権征夷大将軍、会津藩主松平容保を においてはシェークスピアの劇詩のように無韻副将軍とする東国政権の構想があったという。 宗教的行事を題材とした『祭暦』 3 を制作 イ ース ) で書かれたものもあり、上野の彰義隊を撃滅して関東を平定した維新政 烹一ウ中の紀元後八年、突然その皇帝から黒海沿岸の詩 (O フランク・ トミス ( 現ルーマニアのコンスタンツア ) へ追またフランスにおいては一九世紀末の自由詩運府は五月同盟諸藩への攻撃を開始した。戦局は からローマに送られ、法律や修辞学を学んだ。放を命じられた。首都ローマでの華やかな社交動以後、押韻定型詩にかわって自由詩が詩の主新政府軍に有利に進展し、同盟諸藩の離脱、降 流を占めるようになった。↓韻律〈窪田般彌〉伏が相次いだ。九月に入ると仙台、会津が降伏 このころのローマはすでにアウグストウスの天と安楽に浸ってきた詩人にとって、追放地での しん おういんし ( 一七六六 ー天三四 ) 中国、清し、列藩同盟は名実ともに崩壊した。↓会津戦 下統一によって苦しい内乱の時代を終え、未曽生活はこのうえもなく悲惨であった。しかし、 王引之 あざなはくしんこうそ ねんそん 〈井上勲〉 朝中期の学者。王念孫の子。字は伯申。江蘇省争 、皮まこ幾度となく繰り返された愁訴嘆願もかいなく、 有の平和と繁栄を迎えようとしてした。彳。 こ・つゆ・つ 高郵州の人。一七九九年 ( 嘉慶四 ) の進士。翰回原口清著『戊辰戦争』 ( 一九六三・塙書房 ) ▽石 こで当代の優れた修辞学者たちについて学んだ一〇年をこの地で過ごして没した。この間に書 とさついん りんいん 井孝著『維新の内乱』 ( 一九穴・至誠堂 ) ▽村 が、とりわけ、華麗な技巧をもって聞こえるアかれたものでは、故国の知己や有力者にあてた林院編修となり郷試の正考官や、都察院、兵 ち、一うきょ 上一郎編『明治の群像之戊辰戦争』 ( 一九六〈 『嘆きの歌』 T 、『黒海便り』洋 Ponto 部、吏部の高官を歴任して会試の知貢挙を務 ジアニズム派の代表者アウレリウス・フスクス ど - っ・ : っ 三一書房 ) から少なからぬ影響を受けた。彼の詩作の天分などが伝存し、詩人の生伝を知るうえでも貴重め、礼部尚書となり、道光一四年一一月二四 ぶんかんおくりな 日、エ部尚書在官中に卒し、文簡と諡され奥羽山脈おううさんみやく東北地方の中央 はすでに著しく、後年の述懐によれば、議会やな資料となっている。↓アルス・アマトリア けいぎじゅっぷん 部を南北に走る山脈。北は青森県陸奥湾南部の 〈松本克己〉 た。その著『経義述聞』三二巻 ( 天一一七 ) は、 ↓転身譜 法廷向きの演説を書こうとしても、「ことばは なつどまり ひとりでに詩になった」という。しかし、息子押韻おういん同一音または類音をもってその名のとおり父から聞いた経解釈を述べると夏泊半島から岩手、秋田、宮城、山形の県境 たいしやく かたいじんいわ いう意味で、「家大人日く」として父念孫の説を走り、福島、栃木県で帝釈山脈に合するま に世間並みの出世の夢を託する父の期待を裏切韻を踏む修辞法。語頭にあるものを頭韻 ( アリ しゅうキ一よく でんせん タレーション ) 、語尾にあるものを脚韻 ( ライを明示しつつ、古来の伝箋注釈ではなお疑義ので約五〇〇キ。に及ぶ。第三紀層の褶曲隆起帯 るわけにもいかず ( 勤勉な兄は若くして他界し なす ム ) 、母音のみの押韻、類音の一致を半諧音ある箇所につき、十分な証拠に基づく論証を展上に那須火山帯が重複し、新期の火山噴出物が た ) 、勉学のコースを完成するためさらにアテ 開して、経本来の意を解明する。『太歳考』のって二〇〇〇内外の高度に達する山が多 ( アソナンス ) という。 ネに留学したが、その帰途、若い詩人アエミリ はちまんたい しゅうしん はぎわらさくたろう し八甲田山、八幡平、岩手山、栗駒山、駒ケ 『周秦名字解詁』はこれに合刊され、また『経 詩の韻律に厳しかった萩原朔太郎は、和歌を ウス・マケルとともに小アジアからシチリア島 あづま ざおう あたたら せんしん はじめとするわが国の詩歌にも、頭韻、脚韻、伝釈詞』一〇巻は先秦古書における虚字の用法岳、吾妻山、蔵王山、安達太良山、那須岳など にかけて長途の旅を試みた。 畳韻、対韻などの押韻様式があるが、それは西を解く。その学は父とともに求是の学といわの火山がみられる。山脈は中新世以降の造山運 帰国後、予定どおり法曹の道に進み、一、 たいしんだんぎよくさい の公職にもついたが、このような堅苦しい職業欧の場合のように意識的なものではなく、自然れ、戴震、段玉裁とあわせ戴段二王の学と称動によって生じた山地で、数多くの金属鉱床を される。 ^ 近藤光男〉 もち、さまざまな火山地形と同時に温泉群を有 はもとより肌にあわず、早くから当時の有力な発生的なものであると規定し、頭韻歌の典型と する。十和田八幡平国立公園、栗駒国定公園、 文芸の。ハトロン、メッサラ・コルウイヌスを中して、「善き人の善しと善く見て善しと言ひし奥羽越列藩同盟おううえつれ 0 ばんどうめい ばんだい ぎおう 八六八年 ( 慶応四 ) 五月から九月にかけて存蔵王国定公園、磐梯朝日国立公園、さらに日光 吉野よく見よ善き人よく見つ」、脚韻の例とし一 心とする詩人たちのサークルに加わり、その指 導的地位にあったティ。フルスをはじめ多くの若て句節の終わりにの音を重ねている「あしび在した東北諸藩を中心とする反維新政府攻守同国立公園の一部をも含むわが国有数の山岳自然 とばふしみ し詩人たちと交わり、華やかな社交界にも出入きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも盟ないし地方政権。同年正月の鳥羽・伏見の戦公園を誇っている。 南北に長い奥羽山脈は、古くから東西地域の いののち、維新政府は徳川勢力の一掃と全国平 りした。彼の詩作活動はます、当時流行のエレ寝む」をあげている。 みちたか ちんぶ 元来、日本語は押韻、とくに脚韻には不適な定を開始、二月には九条道孝を奥羽鎮撫総督連絡に障害となり、険しい峠の交通によって結 ゲイア調恋愛詩の分野で華々しく開花し、架空 せらしゅうぞう さつま つなよし の恋人コリンナに寄せる恋情を軽妙に歌った一一一〔語とされてきたが、昭和になってから、佐藤に、薩摩藩士大山綱良、長州藩士世良修蔵をばれてきた。現在では国鉄花輪線、北上線、田 ばんえっ いちえい 一英のような詩人は『新韻律詩抄』 ( 一九三五 ) 、聯参謀に任命して仙台に派遣した。総督府は東北沢湖線、陸羽東線、仙山線、奥羽本線、磐越西 『恋の歌』ゝきミ es が出世作となった。ついで、 よねぎわ そらうみのたたえ 線が山脈を横断、国道も四六 ~ 四九号、一〇七 諸藩に会津征討を命じたが、仙台、米沢を中心 神話伝説で名高いヒロインたちが恋人や夫にあ組詩『空海頌』 ( 一九三九 ) などの詩集において、 とする諸藩は白石に会議して、戦争を回避し会号などが通するが、とくに国道四六号は、仙岩 てた手紙という奇抜な趣向で、女性の恋愛心理頭韻、脚韻を踏んだ四行定型詩を試みている。 やまと トンネル開通 ( 一九六六 ) 以前は、積雪によって国 を巧みに描いた『名婦の書簡』き斗 s で人「鐘鳴れど山は眠れり / 神ませど大和のほとり津救済を図るため、嘆願書を提出したが却下さ までは年間 / 語るなく八重桜散り / かたほとりゃんごとなれたため、新政府軍との対決の姿勢を強めた。見峠が冬李不通となっていたが、い 気を博した。しかしその後に書かれ、彼の変愛 ぶんげい かり」。また、九鬼周造『文藝論』 ( 一九四一 ) のな五月三日東北二五藩は仙台に会合し、仙台藩をを通して東西交通が自由となっている。また、 詩の代表作となった『アルス・アマトリア』 たけひこ 岩手県北部の花輪線沿いに山脈を横断し、秋田 盟主として同盟を締結、ついで長岡など六藩が ( 愛の技術 ) は彼の名声を高めると同時に、風かの韻律論を継承した中村真一郎、福、乙 かづの び人らん どのマチネ・ポエティクの詩人たちは、範を西これに加入し、奥羽越列藩同盟が成立した。同県鹿角市から青森県に通じる東北自動車道の建 俗紊乱の書として一部のひんしゆくを買うこと ( ( 川本忠平〉 設工事も進められている。 盟は白石に公議府、福島に軍事局を置いた。旧 欧の詩人にとった定型押韻詩を実践した ( 『マ にもなった。このジャンルの作としてはほかに イ ま ん 800

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とが知られている。もちろん海洋の場合でも、カリブディスも、船関係の記事の記載が散見されるのが注目される。一るが、古川は黒潮の幅として二一丁 ( 約二・三キ。メートル ) 、 もんよう どうたく , フ Charybdis やさまよえるオランダ人 Flying Dutchman と方、史実の世界では、銅鐸に残る船の文様や古墳時代の装飾色は墨、多くの渦ありなどと定量的ともいえる観察をしてい たちばななんけい めずらしづか 丨天 0 六 ) は『西 いった恐布の対象、事例はあったが、 アルプスほどではな古墳の壁画に描かれた船 ( たとえば福岡県珍敷塚古墳 ) 、宮る。一八〇〇年 ( 寛政一 (l) 橘南谿 ( 一七五四 さいとばる そして、ルネサンスに励起された海を恐れぬ航海者、た崎県西都原古墳群出土の船形埴輪などから古代の航海、航海遊記続編』で黒潮に触れているが、東のほうへ流れ落ちるな ど、その流向にも言及している。一八世紀の末にこのような 術をうかがえるが、これらから古代人の海への認識を知るに とえばマジェランが勇敢に海に乗り出していくのである。↓ 観察がまとめて出ているのは興味深い。しかし、西洋ではこ 大航海時代 は史料が不足している。 記録に残っている日本人の航海活動は、六〇七年 ( 推古天のころ、一七八四年キング J. King が黒潮に相当する海流 〔近世・現代の海洋観〕大航海時代を経て海へ乗り出した けんずいし の流速を一・五 ~ 三ノットと定量的に報じている点、科学的 人々は、産業革命以後、電信機の発明、それに伴う海底電線皇一五 ) の遣隋使、六三〇年 ( 舒明天皇一 l) の遣唐使から、 わ - 」う につそう にちみん の敷設で海洋それ自身の情報提供者となることが求められる日宋・日明貿易、倭寇、朱印船とわりあい著しいが、海洋そ観察において西洋人のほうが一歩進んでいたことは否定でき ようになる。ここに一九世紀中葉から末葉へかけての「海洋れ自身への認識には、海を広い交通の媒体とみる以外あまり 〔幕末から明治〕幕末から明治初年にかけてのペリー来航 大探検」が生起し、ついに一八七二年のチャレンジャー号の進化がないようである。 世界周航海洋大探検をみるに至るのである。輝かしい「海洋〔中世から近世〕中世、近世における海洋認識は航海、航海 ( 天吾 I) 、チャレンジャー号の寄港で海洋観測や水路測量が相 学」の誕生であり、人類の科学的海洋観はここに初めて適格術などの記事から類推するしかない。しかし、いろいろな歴当詳しくなされた事実はあまり知られていない。さらに、ペ ー来航は開国要求という政治的なものがあまりに大きかっ 史的事実、事例からある程度うかがうこともできる。 な視座を得たといえよう。 だん やしま たとえば、一一八五年 ( 文治一 ) の屋島の戦い、とくに壇たため、彼らの測量、測量技術、海洋調査の理念といったも うら 日本人と海 ノ浦の戦いは、源氏が瀬一尸内海の海況、とくに関門海峡の潮のに日本人の注意が及ばなかったといえよう。 かんりん 一八六〇年 ( 万延一 ) の咸臨丸の太平洋横断は、艦長格勝 流の様相をよく知り、これを戦略、戦術面で巧みに利用した 〔古代〕古代の日本人の海洋認識をうかがう史料としては、 かいしゅう 三三三年 ( 元弘三 ) 海舟のもとに行われた壮挙であるが、船の運航はプルック 結果ともい , っことができる。き」らに、一 ます『古事記』 ( 七一一一成立 ) が考えられる。気をつけてみると、 にったよしさだ これには意外に海洋、航海、造船の記事が多く、古代人の海新田義貞の鎌倉攻略の際、一剣を海に投じて潮の引くのを見ス大尉らアメリカ人の士官、船員の力によった。この航海で とのかかわりあいの深さを示している。 定め、極楽寺坂下の浜手道を突破したといわれるのは、潮汐は海流瓶の投入が試みられたようで、海洋学的には興味深 しゅうらん あめっち ひら 『古事記』は冒頭で「天地初めて発けし時」と宇宙創成を述現象をよく理解していたことと、人心収攬の術にたけてい あま いざなみのみこと あめつきはし いざなぎのみこと 長い間の鎖国から開国、そして明治維新まで、大航海、遠 べる。伊邪那岐命、伊邪那美命両神による天の浮橋から天たことを示すものであろう。 鎖国で日本での遠洋航海活動がはとんど停止する前には、洋航海の欠如により、日本人の科学的海洋認識には大きな進 の沼矛を使った国土創造の段に至り、「塩こをろこをろに画 けいちょう てんしよう したた なら き鳴して、引き上げたまふ時、其の矛の末より垂り落つる塩一五八二年 ( 天正一〇 ) の天正遣欧使節、慶長遣欧使節と歩はなかった。海洋の科学的解明は明治維新後、洋学の導入 はせくら かき、 つも いわれる一六一三年 ( 慶長一八 ) の支倉常長の壮挙がある。や、軍事技術上の要求が出てきてからのことになる。そし 累なり積りて島と成りき」など、海洋についての記述があ ひょ、つぶしよう る。 この間、池田好運が一六一八年 ( 元和四 ) に書いたヨーロッて、一八七一年 ( 明治四 ) の兵部省海軍部に水路局の創設、 げんな はや しほみったま しほひるたま 。ハ流の航海術記録『元和航海書』は、今日ではポルトガルの七五年の東京気象台の創設などがあり、一方、水産業の飛躍 にはこのほか「塩盈珠」「塩乾珠」の描写や、「速 『古事記』 ちょうせき すひのと 吸門」といった記事もあり、潮汐現象、潮流、航海難所に成書によったものとされているが、天文、気象などの記載が的発展もあって、海洋探究の機運が醸成されていき、海洋を 古代人がすでに相当の認識があったことを示している。しかある点、日本でもっとも初期の海洋気象の関係書ともいえ科学的に認識していこうという近代的な海洋観が確立されて 〈半澤正男〉 ゆく。 しもっとも注目すべきものは「海界」の考え方である。うなる。 〔海の民俗〕わが国は海に取り囲まれた島国であり、古来海 古代からの沿岸航海がその範囲を拡大するにつれ、潮流の さか ( 海境・海坂・海界 ) とは「上代、海上にあると信じら に対する関、いは深かったが、西日本を中心に一部存在した家 れていた、海神の国と人の国との境界。海のはて」 ( 小学館みならず「海流」が注目されるようになる。すでに『平家物 きっすい ぶねあま あま さつなんきかいがしま うな ~ こか 『日本国語大辞典』 ) である。『古事記』上巻に「即ち、海坂語』 ( 一三世紀成立 ) には、薩南鬼界島 ( 硫黄島 ? ) からの卒船や海女・海士を除けば、生粋の海上生活者の数は多いとは とうし。よ みづのえうらのしま いえず、沿岸や島嶼部に住む人々でも実際には海に背を向け を塞へて返り入りましき」、『万葉集』巻九に「水江の浦島塔婆流しの記事がみえているが、海流に対する認識の芽生え うな亠こか かつを たひ た生活が比較的多かった。それゆえか、漁民の信仰生活など 子が鰹釣り、鯛釣り誇り七日まで家にも来ずて海界を過ぎてを表すものであろう。江戸時代には八丈島との往来が盛んに ふなだま なるにつれ、強大海流である黒潮へのはっきりした認識が現をみても、えびすなどの漁業神や船霊様などの船の守護神に 漕ぎ行くに」などとみえている。古代ギリシア人が地中海も ついては、ほば全国的に具体性をもって語られているが、海 オケアノスも同じ水の集合体 ( 物質、物体 ) としているのにれるようになる。日本の文献で「黒潮」の名が初めて記載さ 対し、海坂は、海の果ては海神の国という、ある意味での精れているのは、一七八二年 ( 天明一 l) の佐藤行信の『海島風そのものに対する信仰や儀礼となると、そうともいえないよ どき 土記・八丈島』であるが、これと同時代の一七九四年 ( 寛政うである。記紀、『万葉集』など各種の古典記録にみるよう 神世界を想定している。この点、東西の対比は顕著である。 わた はやしお ふるかわしょっ - 一しトつけん からの おうじん に、古代社会においては海神の存在する海底の宮、つまり綿 六 ) 古川子曜 ( 古松軒 ) は『八丈筆記』でやはり黒潮、速潮 こよ、応神天皇の五年、伊豆国に「枯野」とい 『日本書紀』しし と・一よ う大船をつくらせた記事がみえる。さらにその後においての記述をしている。ともに黒潮の文学的、定性的な叙述であ津見の国とか根の国、常世の国なるものが観念されており、 つな一か さき は冖」 . わ おう かっ え 228

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きつりんえんべん 合併して北京に設立された。二九年正式に大学 えんぎもの社寺の来歴を説いたもの 大きい利点をもっ反面、一般にアルカリ、日吉林省延辺朝鮮族自治州にある市および旧県縁起物 ~ んけい りゅうせ、 が縁起であるが、参詣人が神仏のおかげを被るとして認可され、私立燕京大学となる。その 光、洗濯に対して弱い欠点をもつので、特殊な名。旧延吉県は一九八三年竜井県と改称した。 ともんこう 、ーバード燕京学 ために、社寺や社寺前の店にて求めるものを縁後、運営にアメリカ系財団 ( ノ 目的に用いることが多い。雑貨、インキ、紙、図們江支流群の盆地にあり、長図線が通じる。 社、ロックフェラー財団など ) も加わった。大 起物という。よく知られているものに東京・浅 皮革の着色に用いられるほか、生体染色や各種一九世紀末から二〇世紀初頭、清と朝両国間 とり おおとり かんと、つ 指示薬に利用されるものも多い。興味深いことで国境紛争を生じた間島地方の中心地である。草の鷲神社の一一月酉の日に行われる酉の市学は文学院、理学院、法学院からなり、三八年 くまで たふくめん には学生数九三二人を数えた。中華人民共和国 に、アクリル繊維上においては、動物繊維やナ延吉市には州政府、延辺大学、師範学院、放送がある。このとき参詣者は熊手、お多福面など イロン上よりも著しく耐光性が向上するものが局、新聞社があり、朝弉語を常用する。機械、を縁起を祝って求める。とくに客商売の者で雑の成立 ( 一九四九 ) 後は北京大学や他の大学に合併 あき けんろう ↓北京大学〈馬越徹〉 多い。近年ではアクリル繊維用の耐光堅牢度の木材加工、化学、陶磁器、メリャス、製薬など踏する。安芸 ( 広島県 ) の宮島の杓子も有名で吸収され、現存しない。 そうか 宴曲えんきよく 0 早歌 の工場がある。間島への朝詳族の入植が多かつあるが、杓子を縁起物としている神社はほかに 良好なものも開発され、明色が流行した。ア 11 つ、当・つ もかなりある。正月の初詣でにはいろいろの縁縁切りえんきり主として夫婦など男女につ クリル繊維用塩基性染料を、一般の塩基性染料たので、清朝は一八八一年漢人による開墾を計 つるがおかはちまんぐう いて、まれに親子、兄弟姉妹について、それそ 画して招墾局を設置したため局子街ともいう。起物がみられる。鎌倉の鶴岡八幡宮では矢を と区別するためにカチオン染料とよんでいる。 だぎいふ ー ) ーレがー ) 4 っ だいとうのみや 構造的には、第四アンモニウム基をもつアゾ染旧延吉県は人口約七〇万、うち七〇 % は朝鮮族出し、大塔宮では獅子頭を出している。太宰府れ関係の断絶をいう。逆は縁結び、縁つなぎ。 うそか 江戸時代には、夫婦の結び付きは、当人の意思 料あるいはアントラキノン染料か、一部のシアである。国営農場があり、米、大豆、トウモロ天満宮では正月七日に鷽替え神事を行っている に関係なく宿縁によるものと考えられ、せつか が、社前の店では郷土玩具として鷽を売ってい 〈浅井辰郎〉 コシなどを産する。↓間島 一一ン染料である。今日では繊維用塩基性染料は どしようまち く結ばれた縁は容易には断ちがたいとされた。 アクリル繊維用のカチオン染料が主体である。延喜・天暦の冶えんぎ・てんりやくのち醍る。大阪市道修町には、俗に「神農さん」と すくなひこな むらかみ さらに男尊女卑の思想も根強く、武家社会はも いわれる少彦名神社があるが、疫病除けとし 塩基性染料は歴史的にも古く、すべての色調醐、村上両天皇の治世を聖代として賛美した呼 キ一ゅう・一 とら とより庶民社会でも、夫や舅姑の不法に対して のものがあり、一〇〇種類以上のものが知られ称。延喜 ( 九 0 一 ~ 九 = 三 ) は醍醐朝の、天暦 ( 九四七て笹につけた張り子の虎を参詣人に分かってい る。そのほか、奈良法華寺の御守り犬をはじ妻側から抗議し離婚を申し入れることは認めら ~ 九五七 ) は村上朝の代表的年号で、両朝ともほ ている。オーラミン、フクシン、メチレンプル なでうし だるま せっしようかんはく め、達磨、招き猫、撫牛などが縁起物として用れなかった。離婚は夫側から一方的に申し渡さ マラカイトグリーン、クリスタルバイオレ ば摂政、関白を置かず、天皇親政の形をとっ みくだはん 〈大藤時彦〉れる習わしで、「三下り半」の離縁状がそれを いられている。 ットなどは、古くから知られている染料であた。すでに清和天皇の治世 / , ( 会八 ~ 〈七六 ) をたた しよしゃ じようがん る。↓染料 〈飛田満彦〉 えて「貞観之政」と称した記述が『三代実録』円教寺えんきようじ兵庫県姫路市書写にあよく表していた。しかし妻側からの非常手段が ないわけではなく、神職や山伏の家、あるいは る天台宗の寺。山号の書写山の名で知られる。 塩基置換容量えんきちかんようりよう土壌にみえるが、村上天皇の没後数年にして早くも しよう あまでら しよう一ひじり 「延喜聖代」あるいは「延喜天暦二朝之故事」九六六年 ( 康保三 ) 「証悟の聖」といわれた性尼寺に逃げ込み、それらの人々の尺、カで離婚を が置換 ( 交換 ) できる置換性塩基の最大量のこ かぎん 、、つーしトつにーれ せいりようでん とで、塩基交換容量ともいう。通常、乾土一〇を追慕する文言がみえ、宮中清涼殿には両天空上人の開山。平安時代には、花山法皇、後迫ることがあった。この種のものでは相模 ( 神 ・つ十 , 1 〕 しらかわ さんろう 奈川県 ) 鎌倉の東慶寺と上野 ( 群馬県 ) 新田 〇が吸収保持できる全塩基量 ( ミリグラム当皇の日記を二代御記と称して常備し、政務、故白河法皇が参籠、朝野の尊崇を受けた。また、 か 1 〕・ : み ′一おりまんとくじ そうりよ かがみ 多くの僧侶の修行道場として栄え、盛時は山上郡の満徳寺が、俗に縁切寺、駆込寺として有 量 ) で表す。土壌はカルシウムなどの陽イオン実の鑑とした。初めは両朝の文化的事績を高く ひえいざん 名であった。 に多くの堂宇が並び、西の比叡山といわれた。 を吸着するが、これは土壌中に含まれている粘評価する学者、文人の言説からしだいに一般廷 一般にはこんな方法もとれす、ひたすら縁切 土などのコロイドの作用による。普通の土壌で臣の間に広まり、さらに摂関勢力の衰退に伴西国三十三所第二七番札所。九七〇年 ( 天禄 れいおう かんのん りを神仏に祈るだけというありさまで、祈れば 、両朝を皇室と藤原氏の蜜月時代と懐古賛仰一 ) 性空が霊桜に観音像を刻み、堂を建てたと はコロイドは陰性で、コロイド表面はマイナス まにでん によいりんどう 効き目があるとされる縁切地蔵、縁切稲荷、縁 いう如意輪堂 ( 摩尼殿 ) があるが、現存の堂は に帯電している。したがってコロイド粒子は表する風潮も現れた。その後、武家政権を倒し、 昭和初期に再建されたものである。花山法皇の切薬師、縁切榎などが各地に伝えられてきた。 面に陽イオンを吸着する。吸着される陽イオン摂関政治も院政も否定した後醍醐天皇 ( 在位一三 きよみず かわや 京都・清水寺にはもと縁切厠なるものがあり、 ~ 三九 ) は、延喜・天暦の治世を天皇親政の理御願により創建された大講堂、後白河法皇の創 は一般的にカルシウムがもっとも多いが、マグ天 こん 1 一う じきどう じよ、つぎよう ネシウム、カリウム、ナトリウム、水素など多想像として高く掲げ、後醍醐および次代後村上建と伝える食堂ほか、常行堂、護法堂、金剛そこに入って祈れば効験があるとされた。東京 じゅりよういん 堂、寿量院は室町時代以降の再建、復原によ都板橋区下板橋にあった縁切榎 ( 実はケヤキ ) くのイオンがある。このコロイドに吸着されての追号を生む原因にもなった。↓醍醐天皇 , 」レっ”つ、つ 〈橋本義彦〉 るもの、鐘楼は鎌倉時代のもので、いすれも国は江戸時代から知られ、樹皮をはいで細かく刻 いる陽イオンは溶液中のほかの陽イオンと置換村上天皇 する性質があり、この現象を塩基置換または塩塩基度えんきど basicity 酸一分子中に存の重要文化財に指定されている。〈中山清田〉んでひそかに相手に飲ませたり、男女背中合わ えま 基交換という。正しくは陽イオン交換である在する水素原子のうち、金属イオンまたは多原円教寺えんぎようじ京都市右京区にあったせの絵馬を供えて祈ったりすれば祈願が成就す いちじよう るといわれた。それだけに良縁を望む人々には が、陽イオンは水素を除けば塩基であるので塩子陽イオンを置換することのできる水素原子の廃寺。九九八年 ( 長徳四 ) 一条天皇の建立で、 しえんじ 基置換とよぶ。このとき交換される土壌中の塩数を、その酸の塩基度という。酸が中和反応す円融寺、円乗寺、円宗寺とともに四円寺とよば嫌われ、嫁入りにはその前を避けて通った。せ るとき、相手の塩基との間の当量の尺度としてれ勅願寺として栄えたが、中世以降、別当の仁つかくの良縁も不縁になってしまうとして、そ 基を置換性塩基という。 用いられるため、このようによばれる。たとえ和寺の罹災によりしだいに荒廃し、現在は寺址れに近づくことを忌む石、木、橋、坂、神仏な 塩基置換容量の大きな土壌は肥料成分を多く 〈若林隆光〉 ども少なくなく、縁切石、縁切橋、縁切地蔵、 吸収保持することができ、粘土分の多い土壌やば、酸は、塩基度によって、一塩基酸ーーー塩酸を残すのみである。↓四円寺 別れ松などの名がついていた。東京都新宿区の 腐植に富む土壌はこの置換容量が大きい。日本 HCI 、臭化水素酸 HBr 、硝酸 HN03 、酢酸燕一泉大学えんきようだいがく Yenching CH3COOH など、二塩基酸ーー硫酸 H2S04 、 University 第二次世界大戦前、中国にあっ淀橋は別に「姿見ず橋」ともよばれ、不吉の橋 の土壌の場合、小さいもので数、リグラム当量、 として婚礼に新婦は渡らなかったという。この リン酸た大学。一九一九年、英米のプロテスタント・ シュウ酸 H2C204 など、三塩基酸 キ、大きなものでは四〇ミリグラム当量を超すものま ・ヘキンわいぶん ミッションの経営になる三大学 ( 北京文大ような禁忌を伴うほうが信仰としては古態であ 〈小山雄生〉 H3P04 、ホウ酸 H ま 9 などのようによばれ んである。 り、それは逆の縁結び祈願にも通じてくる。そ 7 〈中原勝儼〉学、華北通州協和大学、華北協和女子大学 ) が , ん延士ロえんきっ = イエンチー中国東北地区、る。↓酸性度 みつげつ 、こさ えのき

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おうかく きつりん しょ・つ クローズアップされた。明治末年から開始され開く。牆を隔てて花影動く、疑うらくは是脚。七七年吉林省党委第一書記として復活、七維がおこる骨部に相当して、筋線維は腰椎部、 八年全人代の吉林省代表。八〇年吉林省農業視肋骨部、胸骨部に区分される。横隔膜の上面は た一高・三高 ( 現京都大学 ) 戦、一九二五年れ玉人の来たるかと」という鶯鶯の歌には、 〈加藤祐三〉胸内筋膜と胸膜、下面は横隔膜筋膜と腹膜に覆 若者のひそかな訪れを待っ娘心のときめきが響察団長として来日した。 ( 大正一四 ) 秋に復活した早慶戦に、多数の学 生を集めた大応援団が組織された。野球ゲームく。しかし科試の制度や時代の倫理によって、 相可おうか三重県中南部、多気郡多気町われるが、腹部臟器が接する部分には腹膜はな 横隔膜の円屋根形は右側隆起が左側よりや は、攻守交代などインターバルが長いため、応互いにそれぞれの道を歩み、ついに愛清も破れの中心地区。旧相可町。櫛田川中流右岸にあ わみよ・つしよう り、『倭名鈔』の相可郷の地。中世以降、櫛田や高いが、横隔膜の高さは死体と生体では異な 援がしやすく、かっ応援の効果があがるからでざるをえなかった。一編は曲折に富む構成をと ある。 川水運と熊野街道 ( 国道四二号 ) の宿として栄るし、呼吸連動や肝臓の大きさ、胃、腸の膨れ り、詩歌を交える達意な筆致でもって、短編小 しかん えた。↓多気 ( 町 ) ぐあいでも変化する。死体で筋の弛緩した状態 説の領域に新しい様式を開拓した。後世、自伝 最近、応援の方法には各種のくふうがなさ ちょうれんか おうか <> ャンコー での横隔膜の右側頂点は、はば第四肋軟骨の高 れ、。フラスパンドを編成してスタンドに座ら ト兇としてもてはやされ、『商調蝶恋花』『西秧歌 おうか緑色植物がクロロフィルを形さで、これは、強制的な呼気を行わせたときの せ、バトン・トワラーを参加させるなど、太鼓廂記』『続西廂記』など、詩歌や戯曲を多く生黄化 しか使わなかった昔と比べて、明るく華やかなみ、少なからぬ影響を及ばした。〈花房英樹〉成しないために黄色あるいは黄白色になること腹側からみた高さと同じである。横隔膜の位置 は、女性では男性よりも高く、若い人は高年者 ものとなった。なお、アメリカのアイビー・リ 回花房英樹編『元槇研究』 ( 一九七七・彙文堂書店 ) をいう。ごく普通にみられるのは、種子を暗所 よりも高い。また、深呼吸時における高さの移 ーグの応援などは個人が自発的に行っているも ▽前野直彬編・訳「唐代伝奇集 1 鶯々の物で発芽させた場合におこる「もやし」の黄化 動範囲は約三〇ミリという。横隔膜には、胸腔と で、これはクロロフィルが形成されないために のが多く、組織されたものとはいえず応援団と 語』 ( 平凡社・東洋文庫 ) はよべない 〈神田順治〉王応麟おうおうりん ( 一 = 一一 = ー九 ~ ( ) 中国、南カロチノイドの黄色がみられるためである。こ腹腔との間を通る器官のための三つの孔があ あぎな しんわい そう 宋末期の高官、儒者。字は伯厚、号は深寧。浙のような黄化した植物は、細胞壁のセルロースる。大動脈裂孔は最下後方にあり、食道裂孔は 鶯鶯伝おうおうでん中国、唐代の短編ト - かいーしーん等一 げんしん 説。『会真記』ともいう。元槇の若いころ江省慶元府の人。進士に及第、累進して給事の形成が不十分なため、組織は柔らかく、伸長大動脈裂孔の前上方で筋線維部にあり、大静脈 さじようしよう かんげき かじどっ ( 含四 ? ) の作と伝えられる。美しく才たけた崔中、左丞相となったが、この間、権臣賈似道が著しい。細胞は細胞間隙が大きく、細胞構造裂孔はもっとも上部にある。そのほか、神経や も未分化の状態になっている。黄化はこのほ脈管を通すいくつかの小孔もある。 氏の娘鶯鶯と、高級官僚の試験を志す若者の張のためにしばしば圧迫を受けた。宋の滅亡後 横隔膜を支配する神経は横隔神経で、第四頸 か、正常な植物でも、クロロフィルの構成元素 生との恋愛を対象とする。その初め、二人は母は、野にあって著述に専念し七四歳で没した。 - : つししっ 親の目を盗み、紅娘という鶯鶯の侍女を仲立政治的には権臣を恐れす、辺防を論じたが、早であるマグネシウムや、クロロフィル合成に必神経線維が主となり、第三、第五頸神経からの くから学術に親しみ、経学、史学にわたって該要な鉄、マンガンの欠乏によってもおこり、カ線維も含まれる。横隔神経が切断されると、横 ちとし、世間の常識を無視して結ばれてゆく。 せいしよう ロチノイドも形成されないと白他する。ウイル隔膜の筋線維が弛緩し、それまで収縮緊張して 博な知識を有していた。著書多く、なかでも 「月を待っ西廂の下、風を迎えて戸半ば かんじよげい スの感染によって黄化がおこる場合は葉緑体の下がっていた横隔膜は、胸腔に向かって上が 『困学紀聞』『玉海』『詩考』『漢書芸 もんし - 一うしよう 文志攷証』『漢制攷』『小学紺珠』発達が悪くなり、クロロフィルが形成されなくる。横隔膜の周囲の臓器関係は、胸腔面には腱 などがよく知られている。その学は なるためである。この黄化が葉の一部でおこる中心の上方に心臟、左右に肺が位置し、腹腔面 ひぞう じんぞう 〈吉田精一〉では肝臟、胃、脾臓、腎臓、副腎が接してい 考証に優れ、これらの著述はいずれと斑入り葉となる。 〈嶋井和世〉 ー一九一六 ) 中国、る。 も後世を益することが大であり、宋王闇連おうがいうん ( 天三一一 ほ・ - ゅ ) っ・ しん あざなじんしゅうしようき 〔動物の横隔膜〕哺乳類の体腔を、肺や心臟を 代学術の一つの頂点を示すととも清末の文人。字は壬秋、湘綺老人と号した。 ッ 0 - った′、レ」・つ しん しょ・つたん 団に、後の清朝考証学の先駆ともなっ湖南省湘潭県の人。挙人出身。後の毛沢東と含む胸腔と、肝臟、胃、腸などを含む腹腔とに そ・つ・一くはん 〈村山告廣〉同県人である。太平天国当時、政府側の曽国藩区分する膜状の呼吸補助筋肉をいう。横隔膜が ちょ、つき、 ・一うしゅう の幕下で活躍し、成都、長沙、衡州の書院の収縮すると、胸腔が広がって内部が陰圧とな 高王因茂おうおんも ( 一九一一一ー おうと り、外気が肺に入る。そのほか排便や嘔吐時に る中国の軍人、政治家。江西省の人。院長を歴任、江西大学堂総教、一九〇八年には じどく 援一九三八年八路軍一二〇師三五九旅侍読にあげられた。礼学より始めて公羊学に詳腹圧をあげる作用もある。横隔膜の形成は腹側 せん ~ 磊〈乞団政治委員。四九年、中国共産党中しく、『春秋公羊伝箋』一一巻の著がある。文の腹側隔膜と背側の背側隔膜の癒合による。爬 ( 。癜球央新軋分局書記として新疆省人民学の面では駢文作家として名高い。唐以後の詩虫類や鳥類においても横隔膜はあるが、完全 りくちょうえんれい には胸腔と腹腔を境しない。両生類においては の政府委員、第一野戦軍政治委員を併を好ます、その詩には六朝の艶麗の風がみら しょ・つきろう 〈内堀雅行〉 、い、『湘綺楼全書』がその原型がみられる。 、 : 第」 ~ 」一三任。五四年の第一期全国人民代表大れる。書室を湘綺楼とし dia- ある。 〈佐藤一郎〉 会には新疆省代表として出席した。 横隔膜ヘルニアおうかくまく 等、し画、つ・、・つ おうかくまくヒトの横隔膜は胸腔と phragmatic hernia 横隔膜に欠損孔があっ = 五五年に中国共産党新疆ウイグル自 横隔膜 っ治区委員会第一書記に就任して、翌腹腔との境となっている、筋ととで構成されて腹腔内の胃、小腸、結腸、肝臟 ( 左葉 ) 、脾 ぞうすいぞう ~ 顰始五六年の党八回大会では「新疆ウィている板状の中隔である。全体として円屋根形臟、膵臓などの臓器が胸腔内に脱出した状態を いう。そのはとんどは左側に発生する。右側に こで、凸面は胸腔の床にあたる。横隔膜の周辺部 を判グル自治区内各民族の工作状況」。 きようかく 少ないのは肝臓が欠損孔を閉塞するためと考え ついて報告した。六五年、国防委員は筋線維からなり、胸郭の下口を形成する腰 台 えんがい ろっこっ 明 会委員、党中央西北局書記処書記と椎、肋骨、胸骨からおこり、円蓋を形成して胸られている。多くは先天性で新生児期から症状 団なる。六七年新疆軍区司令員・政治腔に向かって盛り上がり、中央部の腱膜 ( 腱中を現すが、まれに外傷性横隔膜欠損による後天 性へルニアもみられる。症状は、胸腔に脱出し 応委員、六九年五月文化大革命で失 心という ) に集まって、これに付着する。筋線 高 なん せつ たき あな 8 ( ) 3

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えんにん どまびさし かやぶいりもや 茅葺き入母屋造で、南東隅の土間庇に面して詩『年代記』によって、国民叙事詩の可能性を 置する。紀元前七 ~ 前六世紀に、ギリシア人植 てまえ ・、じりぐち 開拓したために、「ラテン文学の父」とよばれ 民地へンナ Henna として発足。一九二七年蹶口をあけている。三畳の客座を挟んで点前 しようばん に、カストロジョバンニ Castrogiovanni を改座と相伴席を配している。客座との境に二枚て、多くの詩人、とくにウエルギリウスに大き いおう ふすま 〈中山恒夫〉 めて現在の名になる。かって硫黄の生産、農産襖を隔てて相伴席を付設した点に燕庵の最大な影響を与えた。 物の取引が盛んに行われていたが、現在では生の特色があり、この形式はとくに武家社会にお縁日えんにち神仏の降誕日、示現日、あ いて歓迎された。窓が多いのも織部の作風の特るいは社堂創建といった、神仏のこの世との有 産年齢層の流出が著しく、経済活動は停滞して 〈堺憲一〉色で、点前座勝手付きの色紙窓以下全部で一〇縁の日をいう。縁日はすでに平安時代よりあ かんのん くぎ ばくせき ゃぶのうち り、『今昔物語集』に「今日は十八日、観音の えんなん藪内家を代表する茶室。大窓を数える。墨蹟窓に花入れの釘を打っこと、 ここんちよもんじゅう ひばり おりペ 坂の陣に出征する古田織部が、義弟にあたる藪雲雀棚とよばれる上棚の長い釣棚の形式なども御縁日也」とあり、『古今著聞集』二〇巻には あみだ けんちゅう 〈中村昌生〉「十五日、十八日ハ阿弥陀、観音ノ縁日」とあ 内家初代剣仲に与えていった茶室であると伝織部の作意を伝えている。 りんぎい しんおう 筆明ずか京 0 ) 鎌倉中期の臨済る。それそれの神仏が特定の日に示現してこの えられている。二代真翁は西本願寺の茶道師家円爾えんに ( 一一一 0 = ー〈 ごりやく 兆 , 失い描 キ」んけい するが 明はをはが文 宗の僧。姓は平氏。駿河 ( 静岡県 ) の人。初め日の参詣者を救ってくれるという御利益信仰に に迎えられ、門前に屋敷を移すことになった。 爾眼像面重 像円右の側。寺 このとき剣仲屋敷の茶室も移され、露地も忠実円爾房と称し、のち円爾を諱とした。別に弁円よっている。寺院が秘仏とする本尊や境内仏を しゅじようけちえん けんにん 画師き年半る福 公開して、衆生に結縁の機会を与える開帳を、 ともいう。建仁二年一〇月一五日に生まれる。 に復原されたとみられる。茶室は燕庵と名づけ 国と晩左い東 くのうぎんよう・ヘん 爾一の , もて られ、藪内家の代表的な茶室として尊重されて五歳で久能山尭弁に師事し、以後天台教学をこの日一日だけする場合も多い。縁日は会日の 円聖歳しれれ都 ぶつえ おんじようじ きた。一八六四年 ( 元治一 ) の兵火に藪内家は学び、一八歳で園城寺にて落髪、東大寺で受訛り、つまり恒例的に催される仏会の日が本来 ちょうらくじえい こうずけ 類焼し、燕庵も失われたため、摂津有馬 ( 神戸戒した。その後、上野 ( 群馬県 ) 長楽寺の栄であ 0 たとする説もある。もとは年一回であっ巳の日は弁天、午の日は荷とされた。「朝に ちょう ぜんし たいこうぎようゆう 市 ) の武田儀右衛門が忠実に写し建てていた茶朝、鎌倉寿福寺の退耕行勇の二師から禅旨をたものが、参詣人の増加につれて月ごととな観音、タに薬師」などといわれ、これらの縁日 きしもじん しんしえいそん につそう ごとに人気の高い神仏へ庶民の群参があった 室を一八六七年 ( 慶応三 ) に移建した。これが受け、一二三五年 ( 嘉禎一 ) 神子栄尊と入宋すり、さらに鬼子母神のように八、 ちぜっどうちゅうしようおうみようたんせきでんほうくん が、単にその日に参詣するだけでなく、地蔵講 る。痴絶道冲、笑翁妙堪、石田法薫などに歴となったものもある。縁日には縁起伝説による 現存する燕庵である。 むじゅん きんざんせつこう のように信徒が毎月二四日に講を開く形もあっ 参後、径山 ( 浙江省 ) 万寿寺の無準師範の法をものや、さらに忌み日をあてたもの、単に十二 ちくぜん 家の , さ茶中よ文 た。むしろこのほうが縁日のあり方としては古 宗蔀で , のが重嗣いで、四一年 ( 仁治一 I) 帰朝した。筑前 ( 福支によって数で日を示さないものなどがある。 こんびら とっ , か′、 しようてん 流織席亠框 ~ 歪意 いとみる考え方もある。関西ではその前夜を縁 かくて、八日の薬師、一〇日の金毘羅、一三日 岡県 ) 崇福寺、承天寺の二寺で禅宗を唱え、 内。茶の , 作る えんま じよ、つらく - 一くうぞう 藪席るり立の 日とよぶ習いがあるが、関東では普通その当日 の虚空蔵、一六日の閻魔、一八日の観音、二一 まもなく藤原 ( 九条 ) 道家の招きで上洛、 の名す塗い方彼て - : っ第 : っ あたご ときより きえ 都る表黒の , れ 条時頼の帰依を受け、京と鎌倉を往復し、建長日の弘法大師、二四日の地蔵、愛宕、二五日のをいう。縁日は近世以来、レクリエーションの 京あ代の竹にら らんけいどうりゅう 日ともなり、市が立ち、見せ物小屋が並び、夜 にを問のどえ寺開山の蘭渓道隆とも交流があった。五五年天満宮、不動は二、七、二八日などと雑多にな とら びしやもん きのえわ 庵内みのロな伝 店も出て、人々に親しまれた。〈萩原秀三郎〉 ( 建長七 ) 道家建立の東福寺開山となり、のちり、加えて甲子の日は大黒、寅の日は毘沙門、 燕邸好床道柱く 円仁えんにん ( 七九四ー会四 ) 平安初期の天 寿福寺、建仁寺に歴住し、六九 しもつけ だいかんじん 台宗の僧。俗姓は壬生氏。下野国 ( 栃木県 ) 都 年 ( 文永六 ) 東大寺大勧進とな ・」うち だいじじ 賀郡の人。九歳で大慈寺の広智のもとで出家 った。天皇、上皇をはじめ、東 で人ぎよう ひえいざん し、一五歳のとき、比叡山に登り、伝教大師 西の道俗の帰依を受け、禅法と さいちょう こうあん 最澄に師事した。八一六年 ( 弘仁七 ) に具足 宋学を説き、弘安三年一〇月示 ろうざんしんぎ しよういっ・一くし 戒を受け、八二三年から一二年間籠山の清規に 寂。聖一国師の号を賜る。『聖 いちぎようぎんまい 従い、一行三昧 ( 念仏行法 ) を修めた。八二 一国師語録』『聖一国師法語』 まうりゅうじ てんのうじ むかんふもんとうざん 八年 ( 天長五 ) 以後、法隆寺、天王寺などで 各一巻がある。無関普門、東山 まけきよう たんしようはくうんえようむじゅうどうよう 講説し、のち比叡山に帰って『法華経』を写し 湛照、白雲慧暁、無住道暁な ししゅぎんまい て小塔に納め、四種三昧の行法を行ったが、こ ど、多くの弟子が五山禅林で活 こんーん : よほうどうらんしよう 〈中尾良信〉 1 多れが根本法堂の濫觴といわれる。八三八年 躍した。 一」っン : っ 月 ( 承和五 ) 遣唐使の一行に加わって入唐、七月 エンニウス Quintus En ・ 7 - 一うそ 岡 に揚州 ( 江蘇省 ) 海陵県に到着し、開元寺に入 nius ( 前一一三九ー前 , 一六九 ) 古代 日福 縁 った。しかし霊跡巡礼のための許可を得られず ローマ初期の詩人。広いギリシ の笠 社山帰国しようとしたが、二度も暴風にあって失敗 ア的教養を身につけて上流指導 神園 田祇した。その後、許可状を入手し、八四〇年 ( 開 層と交わった。作品は悲劇、喜 しようけいちゅう しようとく 櫛多 劇、史劇、教訓詩、頌徳詩、 ・博成五 ) 三月、五台山に向かう途中、蕭慶中か しおん わんぶつざんまい 岡と ら禅を学び、また念仏三昧の法を習い、志遠や ェビグラムなど実に多岐にわた 福店 し しかん デんかん 夜玄鑑らから止観を学んだ。八月には、長安の資 った。なかでもローマ史をホメ 縁立聖寺に入り、長安では、大興善寺の元斑、青 ロスの手法で歌った晩年の叙事ー撃ト第ー , ・い , ぎえもん やぶのうら いみな えん ~ 1 5 日 ) に

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えちこの ひでただ ちぢみ 山群と、八海山 ( 一七七五 ) 、中ノ岳 ( 一一 0 会 ) 、 込み、縮みをもたせたものは小千谷縮、越後縮子で二代将軍徳川秀忠の外孫 ) は藩政を国家老長した。源平争乱期には平氏一族の城氏は信濃 かみ きそよしなか の木曽義仲と対立、敗れて義仲が越後守となっ に任せていたが、なかでも実権を握っていたの 駒ヶ岳 ( 一一 00 一一 ) などの連なる越後三山、およ とよび、これと区別している。基本的には冬の よりとも ちぎよう おぐりみまさかまさのり あらさわ ひら た。その後源頼朝は越後を知行国として治め、 び荒沢岳 ( 一九六九 ) 、平ヶ岳 ( 一一一四 0 ) などの長い農閑期の副業として、この地方に発展した は光長の妹婿小栗美作正矩であった。これに対 もりつな けんむ ながみおおくらながよし ぎんぎん 抗する家臣は、光長の弟永見大蔵長良を押し立佐々木盛綱が越後守護に任ぜられた。建武新政 県境山地で構成される銀山山地が国有林樹海を織物であった。現在では福島、山形県で栽培さ ただみ ちょま おぎたしゅめ しゃ にったよしさだ なし、越後三山只見国定公園に指定されてい れる苧麻 ( カラムシ ) を使い、指先で績んで糸て、家老荻田主馬らを中心に結束し、小栗が奢後は新田義貞が越後守護として国内を領した し のりあき かもん 4 のーしん ~ が いギ、りばた さきそ る。かかる二〇〇〇級の山容と、峡谷美は最とし、居座機を使って製織する。多くは先染め侈で不忠者だと主張し、さらに、ト / 栗の子掃部が、南北朝争乱期、足利氏の任命した上杉憲顕 ) ・ ~ らし しまかすり は、越後新田氏などの南朝軍を破り北朝支配を 大観光資源であるとともに、反面、東西交通の によって縞や絣を織り出し、雪晒をする。またを光長の養子にして主家を乗っ取ろうとしてい いかずち ・つわき一 大きな障害となり、わずかに雷峠、鳥井峠、材料入手の関係と、大量生産が不可能なため、 るとの噂を流した。一六七九年ついに反小栗派強めた。 ごえ ためかた 八十里越、六十里越などの古い峠越えが他県へ本製と称するもの以外に、ラミーの紡績糸を用 ( お為方と自称し、相手を逆意方とよぶ ) は武 奈良時代から越後の特産物であった越後布も あお の通り道になっている。また、奥三面、大白川 いて代用することが多い 装して小栗邸に押し寄せたが、衝突は回避され室町時代には公式礼服に用いられた。原料の青 おちゅうど などの奥地落人伝説村もある。 〈山崎久雄〉 この地方は古くから麻織物の生産地として知オ こ。しかし幕府の知るところとなり、お為方の苧も越後が特産地で、その売買を独占する青苧 かしわざき かくべえ あっこん えちごじし越後出身の角兵衛獅 られ、縄文中期の土器に織物圧痕のあることが 永見・荻田らが同年処罰された。これによって座の手により、柏崎や府中から遠く京坂に運 越後獅子 ちょうようふ しんらんせんじゅわんぶつ りつりよう 子に取材した地歌、および歌舞伎舞踊。①地 ばれた。一二〇七年 ( 承元一 ) 親鸞が専修念仏 報じられ、また律令時代には調庸布が中央へお為方はさらに憤激し、幕府に働きかけ、八一 てんめい かんせい みねさき あづまかがみけんきゅう つなよし 歌。天明・寛政期 ( 一大一 ~ 天 (I) に大坂の峰崎貢納されている。そして『吾妻鏡』建久三年年、前年五代将軍となった綱吉の異例の親裁と禁制によって越後国府に流罪になった。初期真 - 一うと - っ そうきよく よりとも いくた 勾当が作曲。のち、箏曲に編曲され、生田、 なる。その結果、美作らが切腹、永見・荻田ら宗教団は親鸞の越後での布教活動により成立し ( 二九一 D には、源頼朝が越布千反を朝廷に献上、 えいろく た。一三四三年 ( 興国四・康永一 l) 上杉憲顕が 山田の両流で行われている。②歌舞伎舞踊。長上杉謙信も永禄三年 ( 一五六 0 ) に麻織物を献上し が流罪となり、光長も家臣騒動を鎮められなか うたしのだ 唄。篠田金次作詞、九世杵屋六左衛門作曲、一一たことがみえている。そして領主の奨励もあっ ったことから所領二十六万石を没収された。光越後守護になってから、越後国内は上杉氏の勢 なそろう ゆる のぶひろ 世市山七十郎振付け。一 八一一年 ( 文化八 ) 三て麻生産は増大し、佐藤信淵『経済要録』 ' 長は伊予松山藩預けとなったが六年後に赦さ力が強まった。しかし、やがて家臣の長尾氏に うたえもん のぶとみ ためかげ けんしん とってかわられた。長尾為景の二男、上杉謙信 月江戸・中村座で三世中村歌右衛門が初演した「近来越後よりも上布と称する者を出す ( 略 ) 奈れ、その後九八年 ( 元禄一一 ) 光長の養子宣富 おそぎくらてにはのななもじ おうみ は、越後国内の抗争を押さえ、全盛時には佐 七変化舞踊『遅桜手爾葉七字』の一つで、江良、近江共に上布と称する者あれども、越後上が美作国 ( 岡山県 ) 津山藩十万石に封ぜられ、 てんめい 〈上野秀治〉渡、越中、能登の三か国や、加賀、越前、信 戸市中を歩く角兵衛獅子の姿を描く。歌右衛門 布より大に劣れり」とされるまでに至り、天明家を再興した。↓御家騒動 濃、奥羽など一二か国の一部にまで支配を広め が好敵手三世坂東三津五郎に張り合って創作を年間 ( 一天一 ~ 兊 ) には、年間二〇万反を超える回『高田市史』全二巻 ( 一九五ハ・高田市 ) さらし 急いだため、地歌の『越後獅子』『晒』や民謡 ほどとなった。しかし以後衰退傾向をたどり、 えちごのくに現在の新潟県の旧国た。謙信の殖産興業策・文化奨励策により産 越後国 などから歌詞、 旋律を取り入れたのがかえって現在では麻着尺地の生産はごくわすかで、その名。北陸道に属する。上国。佐渡は七四三年業、交通が発展し、京文化が流入した。 とよとみ 一五九八年 ( 慶長三 ) 豊臣秀吉の命により、 好評をよび、現代でも流行している。とくに、技術は絹織物に転換している。しかし幕末に ( 天平一五 ) 越後国に併合されたが、七五二年 かげかっ ひなびた俚謡気分の浜嘘の箇所が曲と踊りの眼 は、生産者を問屋制的に支配し、織機を貸与し ( 天平勝宝四 ) ふたたび一国に復した。北陸か上杉景勝が会津に移封され、そのあとに堀氏と よりき 目。 ら出羽地方以南は古くは越国とよばれていた。 〈松井俊諭〉 材料を提供し製品を回収するというマニュファ その与カ大名が越後に入封した。江戸時代に入 えちぜんえっちゅう えちごしっちそうどう江戸中クチュアが成立するまでに発展をみたのであっ これが越前、越中、越後と三地区に分かれたると、大名の交代が激しく、幕末期には一一の 越後質地騒動 くびき 小藩に分立し、統一ある発展が阻害された。越 期、越後 ( 新潟県 ) 頸城郡の天領の農民が、幕た。これらの伝統的技術は、ト / 千谷縮とともに のは七世紀末ころであった。このころの越後は あがの しなの あさ 府の流地禁止令を徳政と解して、質地取戻しを国の重要無形文化財に指定されている。図麻阿賀野川、信濃川合流河口以北で、その北東部後平野に残っていた多くの潟湖を含む低湿地 えみし 〈角山幸洋〉 は蝦夷の勢力に接し、境は不明確であった。大は、近世期以降に各藩の干拓事業が地主、町人 要求して起こった事件。出羽 ( 山形県 ) 村山郡織物 やまと ながとろ えちごせん日本国有鉄道の線路名 化改新後の大和朝廷は、この国に六四七年 ( 大などの出資で行われ、急速に開発が進んだ。そ の長瀞質地騒動と並び称せられる。↓質地騒動越後線 てんばう しん いわふね 力しわざき めたりのき 化三 ) 渟足柵、六四八年に磐舟柵を設置し、蝦れに伴い村数も増加し、天保期 ( 天三 0 ~ 四四 ) ま 全線単線。一一 = ロ 越後上布えちごじようふ越後国 ( 新潟県 ) 称。柏崎ー新潟間八三・ おぢやとおかまちむいかまち しなの 一村が成立、越後全体で四〇五一村に 小千谷、十日町、六日町を中心に産する麻織物越本線が主として信濃川の東岸を走るのに対し夷征圧の前進基地とした。七〇二年 ( 大宝二 ) でに八八 くび おやしらず オオこうした越後には、所有地一〇〇〇町 には親不知から阿賀野川までの越中四郡 ( 頸よっこ。 のうち、とくに上等なものを上布とよんでい て、日本海岸に近い地域を走る鉄道である。沿 しろせ きようねん やひこ いおぬ かんばら る。同じ材料でも、緯糸に強撚をかけて織り 線に弥彦山などの観光地がある。一九一一一 ~ 一城、魚沼、古志、蒲原 ) を越後国に入れ、七一歩を超える巨大地主市島家、斎藤家、白勢家、 三年 ( 大正一 ~ 一 l) 柏崎ー白山間を越後鉄道と 二年 ( 和銅五 ) 出羽国として成立した北部を除田巻家などが輩出した。多くの耕地が藩領域を 次 越えて地主経営下に置かれ、経済、社会、文化 団 して開業し、二七年 ( 昭和一 l) 国有化されて越 いて、越後の領域が形成された。 いなのおおむら 左 後線となった。国有化に際して疑獄事件を起こ 七〇六年 ( 慶雲三 ) に威奈大村が初代の越後の各方面に地主の影響が強く及んだ。 にしまわり あべのまきみ 市 一六七二年 ( 寛文一一 l) 以降、西廻航路の したことで有名である。ターミナルの白山駅は国守に任ぜられ、ついで安部真君が国守に任ぜ 世 4 信濃川の北岸にあり、新潟の市街部に近く位置られ、辺境越後の経営にあたった。越後での統発展とともに、新潟港 ( 当時長岡藩領 ) は越後 と あら 助 治の中心、国府は、当初新井市の今府に置か米の集散地として発展した。幕府は天保の改革 していたが、五一年 ( 昭和二六 ) 白山ー新潟間 あげち ふちゅう 之 を開業して、信越本線のターミナルである新潟れ、その後国賀の地に移り、さらに府中 ( 現上 ( 天四 I) の一環として新潟港を上知し財政補強 辰 ずもざき りようかん ほくえっせつぶ 〈青木栄一〉越市 ) へと、関川を下って移動してきたと考えを図った。出雲崎町出身の良寛、『北越雪譜』 尾駅と結ばれた。 を著した町の鈴木之などの文人や、尊王 越後騒動えちごそうどう一六七九年 ( 延宝られている。 子 じよう たけのうちしきぶ 東北地方から南下してきた武士の城氏は、平論を公家に説いた竹内式部、重商主義的な経 八一年 ( 天和一 ) 、越後国 ( 新潟県 ) 高 七 ) とうりよう としあき えちごのかみみつながただなお 越 田藩の御家騒動。藩主松平越後守光長 ( 忠直の安末期には越後一国を支配する棟梁として成済政策を説いた本多利明などが輩出した。 はつみ ~ い ばんどう きねや 直ー おりもの えっ はく ) ん でわ せ 521

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キ、名づけられて、教育を充実して水準の高い知性時代』 ( 一九 = 0 ) は、上流社会の因襲のとりこに 的ケスタ地形もみられ、東麓の断層崖は急斜面 が多く国鉄上越沿線のスキー場のメッカになっ A 」を人々に平等に与えることにより、人為的不平なっていく男の不幸を描き、この作品で女性と はつか とちくば ている。両盆地をつなぐ栃窪峠、八箇峠は古く お等である階級対立を克服することが、社会の改しては初のピ = リツツアー文学賞を受けた。 善につながると主張した。社会の進歩における『国の習慣』 ( 一九一三 ) はアメリカとフランスを舞 からの横断道。最近は稜線を縦走する魚沼スカ ナ 人間の知性と心理的要因の意義を重要視する彼台に国際的テーマを扱い、有名な中編『イーサ イラインも完成して、全域が魚沼連峰県立自然 ・イングラン 〈山崎久雄〉 の理論は、後のアメリカの心理学的社会学の基ン・フローム』 ( 一九一一 ) はニュー オ 公園地区に指定されている。 ウ ドの農村を舞台に愛欲の悲劇を描く。そのほ 礎となり、また高等教育の普及を促した。主著 ウオノエ「魚餌〕 Cym 。を e ミミ とうきやく に『動態社会学』 ( 一公三 ) がある。〈杉政孝〉カ月言イ、、 、兇乍法を論ずる評論集、旅行記、自伝、 節足動物門甲殻綱等脚目ウオノエ科に属する - 一う - : っ 海産動物。海産魚類各種のロ腔に寄生し、太平 ウォトキンズ Vernon PhiIIips Wat ・多くの短編集、死後発表された末完の小説一編 がある。↓ィーサン・フローム kins ( 一九 0 六 ー六七 ) イギリスの詩人。ウェー 〈八木敏雄〉理論であり、わが国の階層構造の研究にも多大洋、インド洋に広く分布する。雌は体長三・五 内外、雄は七・五ミリほどで、淡黄色。長卵形 の影響を及ばした。第二に、労使関係やストラ ルズに生まれ、おもに故郷ウェールズ地方の伝回佐々木みよ子著『戦と理性ーーイーディ ス・ウォートンの世界』 ( 一九六七・研究社出版 ) イキを経営管理機構の内部問題に限定してみるで、小さな頭部に続いて七胸節と五腹節、大き 説、神話、生活の様式に題材をとった詩を多く のでなく、地域を超える資本の統轄機能や地域な尾節からなる。胸脚の先端はかぎづめ状で、 書いている。作品は少ないが、音楽的な表現をウォーナー Langdon Warner ( 天 内の階層構造の変動との関連でみる新たな産業宿主に付着するのに適している。タイ類のロ腔 得意としていて、同じくウェールズ出身の詩人一九五五 ) アメリカの東洋美術研究家。 にすむタイノエ R 、ミミミこミききは、雌 ド大学卒業後、来日 ( 一九 0 四 ) して岡倉天心の指 社会学の視点を確立した。主著に『ャンキー デイラン・トマスと出会ったあと、詩風に大き 導のもとで日本の古美術を研究、また西トルキシティ・シリーズ』 ( 一九四一 ~ 四七 ) 、『アメリカの雄異型で、雄性先熟の雌雄同体である。そのほ な変化と進歩をみせた。代表的詩集は『マリ・ 〈杉政孝〉か、ウオノエ科には海産魚類の鰓腔や淡水魚類 社会階級』 ( 一九四九 ) などがある。 ルイドのバラード』 ( 一九四 l) 、『一角獣を連れたスタンの調査に参加。のちポストン美術館東洋 〈武田正倫〉 の腹腔に寄生するものがある。 貴婦人』 ( 一九四 0 など。 〈富士川義之〉部副部長をはじめアメリカ各地の博物館に勤ウォーナー Rex Warner ( 一九 0 五ー とん・ : っ うおのがわ新潟県南部、群馬県境の ウォートルス Thomas James Waters 務、しばしば日本や中国を訪れ、敦煌にも足をイギリスの小説家。オックスフォード大学卒色野月 みなみうおぬま 野甲ら』谷川岳に源を発し、南魚沼郡の六日町盆地を 生没年不詳。イギリスの建築家、技師。幕末かのばして ( 一九一一三 ) 調査研究の成果をあげ、『イ業。一九三七年カフカの影響の濃い『烏守り しなの ード大学で文壇に登場。理想主義者の教授が小国の首相貫流して川口町で信濃川に合流する川。延長六 ースタン・アート』誌を編集、 ら明治初期の日本に洋風建築を持ち込んだ最初 とうろく に任ぜられ、政治の現実に敗れてゆく『教授』九・五キ。。左岸は魚沼丘陵の傾動地塊東麓にあ 三百年祭記念日本美術展覧会開催のためにも尽 の一人として重要な存在であるが、その経歴の えちご 力した。第二次世界大戦中は、奈良、京都など ( 一九一一一 0 、伝統と革新の対立を主題にした『空軍たり、段丘地形が発達するが、右岸は越後三山 詳細は明らかにされていない。妻と弟のアルバ みずなし のばり から流れ出す登川 、三国川、水無川、佐梨川 ートがともに来日したこと、一八六五年 ( 慶応の古美術を爆撃から守るために努め、戦後は来基地』 ( 一九四 l) など、イギリス的良識の色濃い あぶるま ぐうわ 日して連合国最高司令部民間情報部美術顧問を寓話のほか、第二次世界大戦を扱った『殺され破間川などの諸支流を合流するので、扇状地地 一 ) に三〇歳ぐらいであったことなどが伝えら たのはなぜか ? 』 ( 一九四三 ) などがある。ギリシ 形の発達が顕著である。沿岸は上越新幹線、国 れるのみである。しかし開国期の日本で果たし務めた。日本の古美術保護の功績は大きく、没 ずいほう 〈鈴木建三〉 ア神話や古典の英訳紹介も多い 後、勲二等瑞宝章が贈られた。多くの著書のう 鉄上越線や関越自動車道、国道一七号などが走 た功績は大きく、来日以来、砂糖、紡績、洋紙 り、首都圏との交通の要衝で、近世は六日町船 などの各種洋式工場、大阪造幣寮の建築群をはち日本で翻訳出版されたものに『不滅の日本芸ウォーナンプール Warrnambool オー どう 〈鹿島享〉 〈山崎久雄〉 ストラリア、ビクトリア州南西岸、メルポルン道の舟連の便も発達していた。 じめ、竹橋陣営、イギリス公使館の建設に従事術』『日本彫刻史』などがある。 した。さらには日本最初のれんが造りによる商 回寿岳文章訳『不滅の日本芸術』 ( 一九五四・朝日 から道路で二六四キ。にある都市。人口二万一四魚の肝だきうおのきもだき大阪の郷土料 理。タイ、スズキ、カレイ、サワラなどの新鮮 一四 ( 一九〈一 ) 。同州西部の中心都市の一つで、 新聞社 ) ▽宇佐見英治訳『日本彫刻史』 ( 一九 店街として銀座赤れんが街を計画、れんが製造 たんのう かっー ) ん ~ 集約的な混合農業地帯を控え、食品加工や衣料な内臓を用いる。内臟は胆嚢だけを取り除く。 五六・みすず書房 ) のためホフマン式輪窯を小菅村 ( 現東京都葛飾 品工業がある。一八四七年入植、一九一八年市胃袋は二つに裂き、内部のものをこそげ取り、 区小菅 ) に築いオ 〈村松貞次郎・藤原恵洋〉ウォーナー William Lloyd Warner 制施行。名称は、多量の水を意味する原住民語塩水で洗う。大きな内臟は適宜の大きさに切 ) アメリカの文化人類学者。カリ ウォートン Edith Wharton ( 天六 = ー に由来する。 〈谷内達〉り、鍋に入れる。だし汁としようゆを同割にし ード大学卒業後、シカ フォルニア大学、 三七 ) アメリカの女流作家。ニューヨーク市の ゴ大学教授となる。最初はイギリスの機能的社 富裕な名門の出身で、家庭教師について学び、 魚紹丘陵うおぬまきゅうりよう新潟県の中たものを用意しておき、材料がかぶる程度に入 ね′れ - つ しばしばヨーロッパに渡り、晩年はバリで生活会人類学の手法を用いてオーストラリアの原住央部を雁行する山地。十日町盆地と六日町盆地れ、ショウガのせん切りを少々加える。強火で した。一八八五年にポストンの銀行家と結婚、民社会を研究したが、やがてその人類学的方法の境をなす第三紀の丘陵山地で、最高峰は十日煮立てたところで火を弱め、汁が三分の二くら あてま いになるまで煮つめる。砂糖大さじ五杯、しょ やがて短編小説を書き始め、生涯にわたってこを現代アメリカの都市コミュニティの調査研究町市の南端にある当間山 ( 一 0 一七 ) 。平均標高 うゆ三杯、化学調味料少々の割合で入れ、汁が のジャンルを手がけた。最初の長編は、一八世 に応用し、多数の地域研究を発表した。その特は六〇〇 ~ 七〇〇。山体は第三紀魚沼層群の けつがん しばくられきがん なくなるまで煮る。 〈多田鉄之助〉 紀のイタリアを舞台にする『決断の谷間』 ( 一九色は、第一に、地域住民の日常生活の客観的様頁岩と砂岩の互層からなり、所々に柴倉礫岩と さんりよう けいがん よばれる厚い集塊岩が貫入している。山稜は OII) であるが、バ うおのめ「魚の目〕 corn 鶏眼ともいし リで知り合った・ジェーム式とその社会的威信に対する相互評価を指標と べんちしゅ ズの勧めもあって、彼女がよく知るニューヨー して、地域社会の階層構造を分析する方法論を十日町盆地、六日町盆地に並走して北東から南胼胝腫 ( 俗称たこ ) の小形のもので、中央が陥 クの上流社会を題材とする作品を次々と発表す提示したことにある。これは、生産関係におけ西方向に延び、東側に急斜面を向け、西側に緩凹して角栓形成をみるものをいう。皮膚の下床 しなの に骨がある部位に長期間機械的刺激を受けると ることになった。その第一作『歓楽の家』 ( 一九る階級対立を明らかにしようとするマルクス主斜面をなす傾動地塊で、信濃川べりは第四紀の 0 五 ) は、社交界で金持ちの男と結婚しようとし義的階級理論に対して、社会関係における連続地盤連動による高位河岸段毳群から形成されてきに生ずる限局性角質増殖で、足指の背や指 いる。北端には硬軟互層の差別侵食による模式 、足の裏や縁などにみられる。履き物が足に て破滅する女性の悲劇を描き、逆に『汚れなき的、統合的な地位序列構造を明らかにする成層 日 と ) つろく

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ウマと人類 第こ物吟 銀製の皿に描かれた狩猟風景。りつばな飾り具を つけたウマにまたがり , 弓を引き絞って獣の群れ を追う王。ササン朝ベルシア バリ国立図書館 マドラスとタンジョール問にある村の境界に 置かれた大きな陶製のウマ。インド ニ頭のウマで引かれたニ輪車。壁画 B ℃ . 1400 年ころエジプトのテーベ出土 ロンドン大英博物館 描かれた精緻な野生馬の姿からは、当時ウマが重要な生活資産品に大きく依存していることも、この考えの理由の一つで 源であったことが示されている。新石器時代 ( 前四千年紀 ) ある。実際彼らにおいては、馬肉を食べるのは祭儀などの機 にさかのばる家ウマの骨の出土例 ( 中央アジアのアナウ、西会に限られることが多かったが、乳の利用は高度に発達し、 アジアのシアルクなど ) は、最近において、ウマ属の別種オ各種乳製品が主要な食料源となっている。馬乳から脂肪分を ナーゲルと考えられている。確実なものとしては、前三〇〇とって発酵させ、酸味をもたせた一種の乳酸飲料である馬乳 〇 ~ 前二〇〇〇年にかけて黒海の北部ウクライナの平原で栄酒 ( クミス ) は、その一例である。 新大陸にウマが導入されたのは、ヨーロッパ人の渡来以後 えたトリポリエ文化遺跡の出土のものである。定住農耕を行 っていたこの文化では、ウマは運搬用に利用されていたと考であるが、少数のスペイン人による新大陸征服を可能にさせ た要因は、火器と並んでウマであった。また同じようにウマ えられるが、ほかの家畜のウシ、ヒッジ、プタ、イヌなどに 比べて出土例が少なく、またウシの家畜化の最古の例としてを受容したアメリカ・インディアンの一部は、好戦的、侵略 は、これより数千年前のものが知られている。こうしたこと的となって少人数集団への解体や非定住化などの社会形態の じゅんち は、ウマの馴致や家畜化が比較的遅く始まったことを示して変容をもたらした。こうしたことは、ウマのもっ車事上、社 会上の意味をよく一小しており、したがってウマは王や貴族に おくびよう 臆病で神経質な性格のウマは手数がかかり、飼料も栄養属するものとして尊重され、また神聖視されてきた。 内陸アジアの遊牧民にあっては、ウマは古くから男子の家 価の高いものを多く必要とする。それゆえウシなどに比べて よりカが強く、より速く、より長く働くことが可能である。畜とされ、社会的身分や富の尺度となっていた。中国の〕。周 したいふ 乗、射、書、数に並 礼』には、士大夫の修める教養に、礼、 これらのウマの特質は、役畜としての用途を方向づけ、利用 する側の人間の生活や文化と相互に影響を及ばし合ってきんで御があげられているが、御は馬車を御する意で、士大夫 た。すなわち、ユーラシア大陸の農耕地帯においては、ウマ階級 ( 官僚知識層 ) とウマの結び付きを語っている。中国の がウシにかわって農耕の労役の主役を務めることは少なかっ馬車はさらに殷代にまでさかのばるが、河南省安陽の遺跡か らは、埋葬されたウマと車が出土している。なお中国での家 た。ヨーロッパ中世の農業革命以後、ウマが多く使われるよ りゅうぎん うになったのは、三圃式農法の確立による耕作能率の上昇ウマの出土例は竜山文化 ( 新石器時代 ) からであるが、こ と、家畜の飼育および管理方法の向上に負っている。これにれも西方からの影響とみられる。しかし、以後、中国社会に 対してユーラシア大陸の内陸草原地帯では、ウマに大きく依おいてはウマと戦車は非常に大きな意味をもち、戦国時代の 存した牧畜民文化が形成された。そこでは広大な草原によっ史書では戦力が百乗、千乗などと車の数を基準に語られ、王 がぞうせき て飼料が確保される一方、ヒッジやャギ、あるいはウマ自身や貴人の墓には馬車の殉葬が行われた。漢代には画象石や壁 の群れを管理、防御していくのに必要な迅速さが、ウマによ画に多くの馬車が描かれ、交通運輸機関としての発達もうか くびき がえる。この時代にはウマの繋駕形式も、軛式繋駕から胸部 って得られた。 農耕民文化と牧畜民文化におけるウマのかかわり合い方の繋駕へと変化している。前者は首革と軛を用い、頭部のカで 相違は、その飼育起源をめぐっていくつかの説を生み出して引くもので、比較的自由に方向を変えうる利点があるが、ウ ひょく いる。現在有力な説は、近東の肥沃な農耕地帯でまずウシなマの気管を圧迫するため、ウマの牽引力が十分に発揮されな いという欠点をもつ。この形式は、西アジアではウマがウシ どの家畜化が始まり、それが周辺に広まっていくにつれ、ウ マの家畜化も行われたというものである。この農耕起源説にやロバにかわる牽引獣となっても受け継がれ、ヨーロッパか むながい 対し、少なくともウマに関しては否定的な見解がなおみられらインドに至る地域で広く行われていた。それが、胸懸、腹 る。かってドイツの文化史学派の考えた、北方のトナカイ飼帯を引綱に結んで車を引く胸部繋駕の形式に変わるのは、ヨ ーロッパでは九世紀以後である。 育の先行例に倣ったとの説は、今日否定されているが、群れ 騎馬の発明は、ウマの社会的、軍事的意味をいっそう重要 の把握を前提とすることから狩猟起源の可能性がいわれてい なものにしたが、内陸アジアで始まったのか、古代オリエン る。そして前述のように、家畜管理上からウマとウシの異な ト世界の周縁部に由来するのかはさだかでない。遊牧騎馬民 ることは、両者の家畜化の起源の相違を考えさせている。さ らに、農民と密接なつながりをもっオアシス周辺の牧畜民と族は、前一千年紀にはユーラシア大陸の草原地帯に出現し、 異なり、ウマ、ヒッジを主力とする草原の牧畜民の生活が畜また活躍するようになった。とりわけスキタイは強力な軍事 2 さんば

10. 日本大百科全書 3

おうばく しようじん - 一うふくじふく いつわんしようゆうしようへい だいびしようぜんどく 画家がおり、帰化僧を開基として、興福寺、福 興福寺逸然性融の招聘を受け、大眉性善、独 八万人を擁している。 黄檗料理おうばくりようり精進料理の一 ふちゃ き ) いじそうふくじ たんしようけい どくげんしようもんなんげんしようは なお、隠元とともに渡来した文人工匠らによ済寺、崇福寺などがこの地に建立された。その種。初めに茶を飲んでから料理に移るので普茶 湛性瑩、独言性聞、南源性派ら随行三〇名 いんげん ふちゃ せんちゃ を連れて一六五四年 ( 承応三 ) に長崎に来航 って、普茶料理 ( 精進料理 ) や煎茶などの生活ころ中国の黄檗山にあって名声の高かった隠一兀料理ともいう。精進料理と黄檗料理の区別は、 りゆ・つき し、興福寺、崇福寺、摂津普門寺の住職を務め文化、また明朝風の建築様式、画像、彫像、詩隆琦は一六五四年 ( 承応三 ) 迎えられて長崎簡単にいえば、精進料理はめいめい別盛りにす りんしよういん に渡来し、江戸に下って幕府に寺院建立の許可るが、黄檗料理は何人分か盛り込み、食卓で取 た。ついで五八年 ( 万治一 ) 江戸湯島麟祥院文、書などの黄檗風といわれる文化が移入さ まんぶくじ キ一 ! っ に寄寓し、四代将軍徳川家綱に謁して信頼をれ、日本で独特の発達をみせた。↓隠元↓万を得、寺地を相して宇治に黄檗山万福寺を創立り分ける料理をいう。一六五四年 ( 承応三 ) 隠 まんふくじ 元禅師が中国から渡来帰化し、宇治に万福寺を 〈石川カ山〉 したのが六一年 ( 寛文一 ) のことである。 得、六一年 ( 寛文一 ) についに幕府の許可を得福寺↓黄檗美術↓黄檗料理 やましろ だいぜんえん 隠元は万福寺建立にあたって中国から多くの建立し、黄檗宗の本山としたが、衆僧の食事と て山城国宇治に大禅苑を建立、先住地の名をと回山本悦心著『黄檗東渡僧宝伝』 ( 一九一一六・愛知 ほていおしよう 工人を招いた。同寺天王殿の布袋和尚像、韋駄してつくられたのが黄檗料理の始まりである。 黄檗堂 ) ▽西村貞著『黄檗画像志』 ( 一九三四・ って黄檗山万福寺と名づけた。 しつばく はんどうせい みんちょう がらん 隠元はここで明朝風の伽藍を構え、明朝風 大阪池永美術研究所 ) ▽高橋良和著『黄檗天像や大雄宝殿の十八像の作者范道生もそ黄檗料理は長崎の卓袱料理と結び付いて、広く ほうしき′一んぎよう の一人で、当時の明代彫像の様相を帯びた作風用いられる料理となった。一八〇二年 ( 享和 山万福寺』 ( 一九七六・探究社 ) の法式勤行を行い、特異な念仏禅を挙揚し、 (l) 刊の『料理山家集』に、「普茶と卓袱と類 はわが国の禅宗寺院にも影響を及ばした。また のちにその系統が黄檗宗とよばれた。この新来黄檗版おうばくばん江戸時代につくられた もっ もくあんそくひ てつげん だい第、、つ等一トっ したものながら普茶は精進にて油を以て佳味と の禅に日本僧が相次いで参じたが、とくに儀礼 木版大蔵経の一つ。黄檗宗の僧であった鉄眼隠元はじめその後継者木庵、即非ら黄檗僧は明 からよう どう・一う の書風を伝え、江戸唐様繁栄の機運を盛り上げす。卓袱は魚類を以て調味し、仕様も常の会席 の面で日本の禅界に多大の影響を与えた。さら道光が大蔵経を板木に刻むという一大事業を企 あんぎや もくあんしょ・つとう そくひによ 会 ) や即非女て、全国を行脚して浄財を集め、前後一三年をた。この一派を黄檗派とよぶ。また渡来した黄などと別に変わりたることなし云々。但し、普 に隠元の弟子木庵性瑁 ( 一六二ー いつねん 一 ( 一六一六ー七一 ) も渡来して隠元の教化を助け、費やして完成したもので、「黄檗版大蔵経」ま檗僧のなかに絵をよくする者もいた。逸然もそ茶下戸の好むもの、卓袱は酒をすすむる仕様と こうせんしようとん てつげんどう 心得てよし」とある。 こは「鉄眼版大蔵経」という。木版の大蔵経はの一人で、修禅のかたわら仏像、人物などを描 またこの系統に高泉性燉 ( 一六一三ー九五 ) 、鉄眼道オ しやさい せいさい - 一う そう りゅうけいしようせん 生菜は皿に銘々盛りとし、煮菜は大椀または き、明・清写生画の系統を引く新しい画風は当 光 ( 一六三 0 ー 公 l) 、竜渓性潜 ( 一六 9 一ー七 0 ) など中国では宋代以後盛んにつくられ、そのいくっ がいて、その発展に大きな役割を果たし、黄檗かは日本にも伝えられた。徳川家光の時代に時の日本の画界に新風を吹き込み、その門下か皿に盛って出し、各自で取り分ける。献立は数 しゅうせき じゃくし が多く、初めに前菜が出るが、それを杯附とい は、わが国最初の木活字による大蔵経が天台宗ら河村若之、渡辺秀石らが出て、長崎を中心 宗は隆盛に赴いた しゅんかん てんかい う。笋羹は野菜を種々煮合わせたもので、盛 とくに木庵性瑁は黄檗宗第二世となり、のちの僧天海によってつくられた。この「天海版大として受け継がれていき、この一派を長崎派と す ずいしようじ り込んだ姿を美しく、見た目もよくしなければ よんでいる。 江戸瑞聖寺を開山、関東に黄檗宗の基礎を据蔵経」はきわめて限られた部数しか摺られなか ならない。そのうえ野菜だけを用いながら、と 逸然の南画風な水墨画とは別に、ヨーロッパ ったが、その後つくられた黄檗版は全国の各宗 えた。また五世の高泉性澂は中興といわれる。 じくあん くにアナゴ、貝類などの姿作りをするのが特色 その後万福寺は一三世竺庵まで中国僧によって寺院に流布し、仏教研究に大きく貢献した。黄絵画の技法を取り入れた非常に特色のある画風 みつうんえんご ひいんつうよう みん りゅうとう 受け継がれたが、一四世竜統以後は日本僧も檗版は中国明代の万暦版を覆刻したもので、六もあった。隠元の師、密雲円悟や費隠通容の肖である。麻腐は豆腐と白ごまを、すり鉢でよく ようどうてい たいせい すり、五 ~ 六倍のだし汁、酒少々を加えて練り 九五六巻からなる。その版木は京都府宇治の黄像画を制作した楊道貞はその代表的な画家とい 住持するようになった。二一世大成以後しだい まんぶくじ りようちゅう のばし、ごまの量と同じくらいの葛枌を加え、 える。この派の肖像は、 : しすれも正面を向き、 に衰微し、三三世良忠が宗門を刷新し再興を檗山万福寺に現存し、国の重要文化財に指定さ 〈岡部和雄〉顔を細部まで写実的に描いて陰影をつけたもの遠火で二時間余りゆっくり練り、流し箱に流し 図ったが、一八七四年 ( 明治七 ) 臨済宗に合併れている。 みん された。しかし、一八七六年にふたたび独立、黄檗美術おうばくびじゅっ江戸時代初期明で、中国、日本ではいままでみられない特色を込み、固める。しようゆとみりんを混ぜ、煮き うんべん ったもので調味する。雲片は野菜の葛かけ煮 の僧がもたらした黄檗宗関係の美術、およびそ示している。この画風は黄檗僧の肖像画として 一九五二年 ( 昭和二七 ) に宗教法人法による認 きたそううん まくいん 証を受けた。今日、法系としては臨済宗の隠の影響を強く受けた美術を一 . 括していう。江尸代々受け継がれ、作者として喜多宗雲 ( 一七世で、とくに野菜の切りくすを利用する。油は げんき 1 ) んぎよう えかく 慧鶴の系統に変わったが、中国風の法式勤行時代の初め、長崎には明末の動乱を避けて渡来紀なかばごろ ) 、喜多元規 ( 一七世紀後半 ) ら精進揚げで、味つけがしてあるのが特色であ そうりよ 〈永井信一〉る。昆布は調味源として重要であるが、料理材 があげられる。↓黄檗宗 は現在も伝承されている。寺院四七八、信徒一する中国人が多く、なかに僧侶、学者あるいは 本 年 、神 星 群 芝 河 美 檗色 3 黄着 8 、 : な久」オ 0 イ上をい いえみつ 黄檗宗開祖隠元と門下の木庵性 , 即非如ー の画像。三人は明風書道を輸入した来朝僧で , 黄檗の三筆といわれる。 1670 年 ( 寛文 10 ) 隠元 賛喜多元規筆兵庫神戸市立博物館 てん 4 わん