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検索対象: 日本大百科全書 5
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1. 日本大百科全書 5

かせきじ 化石人類 / おもな骨の出土地からみた分布域の拡大 新人 / ヾーカッセノレ′ 、 0 rkassel アンジ Engk*•、 クロ 1 万 8000 年前の世界 出典曰、林国夫・阪ロ豊著「ラ河 時曳直す , ( 197 少岩波 匚こ」森林ステップ , サバンナ 匚 : コステップ ーコ混合林 , 硬葉樹林 , 熱帯雨林 針葉樹林 匚コ砂漠 匚コ不明 みタ単ⅱ当 esot ・ 0 0 0 0 0 0 0 0 スンギ ール Sungir' コステンキ Kostenki 浜北 Hamakita, 二ヶ日 Mikkabi ー -- - ー港川 Minatogawa ェドモト vedmosti— . 0 周ロ店 houkoud ・ n ・ ( つ 資陽 Ziya ・ グリマ、ルデ シャンスラード Chancelade コム・カべイユ Combe CapeIIe 0 ホートゥ H otu サン・ディエゴ San Diego アハマール Ahmar, ケ′ヾラハ Kebarah, ワド Wad テ / 、スノヾン Tepexpan 大部分のサル類と同様 , 猿人は , 熱帯 , 亜熱 帯 , もしくはそれらと同程度の地方に分布し タルガイ、 ていたが , 文化・生活技術を獲得 , 発達させ Talgai るにしたがい , 原人は温帯地方に分布域を広 コウ・スワンプ げた。旧人の分布は , 原人のそれと変わらな KOW Swamp いようにみえるが , その時代は寒冷化したの ケイラー で , 実際は水河周辺の寒帯に進出したと同し Keilor ことである。新人になると , 旧大陸から南北 アメリカ , オーストラリアに広がり , 汎地球 的動物種となった ーア—Niah 0 オルドワイ Olduvai 0 ワジャック Wadjak フローリスパッド Florisbad ケープ・フラツツ Cape Flats ポスコップ Boskop コフナ C huna 5 30 ・ 00 ・ 6 ・ 16 0 7 ~ 1 3 0 . ・ 32 ・ 24 20 く旧人 1 スウオンズクーム 1 1 ル・ムスティエ 21 ハウア・フテア Swanscombe Le M oust ier Haua Fteah 22 アムッド Amud, 2 ス e—Spy 1 2 ラ・フェラシー 3 ラ・ノーレット La Ferrassie ジェべノレ・カフゼー DjebeI Kafzeh, スフール 1 3 ペシュ・ド・ラーズ La Naulette 4 ェーリングスドルフ SkhüI, タブーン Tabün, Pech de l'Aze ズッティエ Zuttiyeh Ehringsdorf 1 4 モンモーラン Montmaurin 5 ネアンデルタール 23 クサーラキル Ksär'Akil 15 ノヾニョーラ Bafiolas Neandertal 16 スパリューク Subalyuk 24 シャニダール Shanidar 6 シュタインハイム 17 クラピナ Krapina 25 テシク・タシ Teshik-Tash 18 キーク・コーバ Kiik- Steinheim 26 カンジェラ Kanjera 7 フォンテシュノヾ Koba, スタロセリエ 27 プロークン・ヒル Broken Hill Fontéchevade Starosel'e 28 サルダニャ Saldanha 8 ラ・シャベイユ・オ 19 チルチェオ Circeo , 29 フローリスパッド ・サン サッコ / ヾストーレ FI orisbad 30 河套 Hetao レ Chapelle-aux-Saints Saccopastore 9 シャトーヌフ・シュ 31 大茘 Dali 20 デビルス・タワー ール・シャラント 32 丁村 Dingcun Devil's Tower, Chäteauneuf-sur-Charante 33 馬 f5Maba フォルプス採石場 10 ラ・キナ La Quina 34 ガンドン Ngandong Forbes' Quarry < 原人 7 ウべイディア 'Ubeidiya 1 マウ工ル Mauer 1 3 藍田 Lantian 8 東トウルカナ 2 / ヾルテシュシェレス 1 4 元謀 Yuanmou East Turkana Vértessz öllös 1 5 サンギラン Sangiran 9 オルドワイ Olduvai 3 アラゴ Arago 1 6 ケードウンプルプス 10 スウォートクランス 4 シディ・アプデルラー Kedungbrubus Swartk rans マン Sidi Abderrahman 17 トリニ ーノレ Trinil 1 1 周ロ店 Zhoukoudian 5 ラバット Rabat 18 モジョケルト 1 2 金牛山 Jinniushan 6 テルニフィーヌ Ternifine M0dj0kert0 < 猿人 1 コロ・トロ Koro Toro 2 アファール Afar 3 オモ Omo 4 東トウルカナ East Turkana( コーヒ・ ・フォーラ Koobi Fora, イレレット llret など ) 5 ロサガム Rothagam 33 ・ 0 0 ・ 26 34 27 ・ 29 28 ・ 2 12 3 0 13 ・ 5 6 7 4 0 0 ド 8 ・ 9 0 15 ~ 18 2 ・ 6 カナポイ Kanapoi 7 ペニンジ peninj 8 オルドワイ Olduvai 9 ラエトリ Laetolil 1 0 マカバンスガート Makapansgat 1 1 クロムドラーイ Kromdraai 1 2 スタークフォンティン Sterkfontein 13 スウォートクランス Swartkrans 1 4 タウン 7Taung 1 5 ( サンギラン Sangiran) 0 4 0 7 0 8 9 ~ 13 296

2. 日本大百科全書 5

がくふ 第 1 モード 第 2 モード 第 3 モード 第 4 モード 第 5 モード 第 6 モード ②モード記譜法 ( 12 世紀末 ~ 13 世紀前半 ) バリのノートル・ダム楽派が用いたもの。 音高は譜線によって , 直接決定されるが , 音価はリガトウラ ( 連結譜 ) の組合せで いったんリズムモード ( 6 種 ) を決定し , そのモードにより , 曲のリズムが定まる - 朝ィー才な戸・下第、 第 : : 第第い叫第を 」 - - たの第 : ツす ーー財働醜・ 3. 、盟れれ 0 物 8 「日円 00 ぐ い強、イ′ ! 物 4 い新 : ・ れにト「れ 0 すぐ 0 れ一れ 4 1 に , ( 0 爿 000 、、 : 、 = き , 姦を 0 0 ・、 0 、 れ 0 0 , " " 0 守・パ 0g0 , , , , 000 リい・ロ・応却加「 10 た p み 11i 鹵、 1 れ . 工ーれれ : 1 & ・ 1 心・ア 0 た第闘・ 11 1 川 0 代 1 1 新ま 0 市 , れれ盟 1 0 な , 、 楽譜 / 西洋 ①カイロノミック・ネウマ譜 ( 1 1 世紀 ) 譜線はな く , 歌詞の上に示されたネウマ形で旋律の上行 , 下行を表す。ネウマの形はザンクト・ガレン修道 院特有のもの ③ネウマ譜 ( 1 3 世紀 ) 全ヨーロッパに広まった四角 形音符のネウマ。音高は 4 本の譜線との上下関係 で示されるが , 音価表示はきわめてあいまいである ④ゴシック・ネウマ譜 ( 1 4 世紀 ) ドイツやイタリ アで用いられた鋲形ネウマ ⑤ 14 世紀イタリア記譜法フランスの初期定量記 譜法を基に展開した特殊なもの。通常 6 本の譜線 で音高を示し , 曲頭にシグヌム ( 一種の拍子記号 ) を置き , さまざまなリズムを表したが , その制約 のため 1 4 世紀後半に廃れた。譜はランディー ロロ ⑥白譜定量記譜法 ( 15 世紀後半 ~ 16 世紀末 ) フラ ンス , イギリスなどで用いられた。音高は譜線に よって , 音価は音符の形状とメンスーラ ( 音符問 の数比関係 ) によって決定される。ヨハネス・マ ルチーニ作曲のコラールより ( 1 6 世紀 ) フィレン ツェ国立図書館 をや第な 1 1 : 1 、 0 をで 0 ! ! ( ) 2 ! 応Ⅳ 2 m ・ 0 、 9 は 0 、 d にⅢ mihi 3 阨・ lu- / ユ nunc a リーい 11 ad 【じ vc-ni- ( ) 冂 on ) go Ⅲ【 0 Ⅱ・ 0 、 ( に mundO 応代い c ・ 0 、 m 』 0 に・週酬← yx N A S C N S T 0 N 三 1 ) 0 ! N 長 , 。血第亠巴き二に一 ト「 i Gah- い - i 叩Ⅱ admira- mi-ni 3 り ci( ・ n 【じ、ⅱ 1 』に・ lu•週 quemadmodum vidiftis eum e C a C a C a C d C d c d c d a d c d ⑦フランス式リュート・タブラチュア ( 1 5 世紀 ~ 1 7 世紀 ) 水平線で弦を示し , 弦のフレットの位置を文字で表す。 リズムは譜線上にリズム符で表示。ル・ロア作曲のリュート小品 ( 1574 年 ) より Ob 0 Sxf → - み年 + - ⑧図形楽譜 五線記譜法的シン ポルを用いないもの。通常 , 図 形楽譜には , 作曲者によって読 譜法に関する詳細な注釈文がっ けられている。シェーファー作 曲「バイオリン協奏曲」 ( 1961 ~ 63 ) ⑨図形楽譜五線記譜法的シン ポルを用いたもの。ジョン・ケ ージ作曲「ビアノ協奏曲」 ( 1960 年出版 ) V 0 cadenza 54

3. 日本大百科全書 5

かぶきじ 歌舞伎衣装 ・つ力、 や虚飾を最小限にとどめた描写で行っているの にゆだねられた。一九一一年純日本式宮殿風 に由来や梗概、参考書を付してある。分類は、稗た題材をもとに、七世が再創造したもの。ま しやじようあだうち おん で、時代物の衣装ほどには様式的なものは多く 改築、一一一年漏電により焼失、ただちに再建に史野乗、仇討狂一 = ロ、御家騒動、縁起霊験、怨た、『暫』『矢の根』『助六』「鳴神』『毛抜』の りようへんげ きようかく 〈神谷榮子〉 かかったが、二三年関東大震災により焼失。一一 霊変化、名人奇人、義人侠客、白浪毒婦、 ほかは、『外郎売』や『押戻』のように他の作 回相馬皓著『歌舞伎ーー衣装と扮装』 ( 一九六 0 ・ 五年鉄筋コンクリート四階建て桃山風の豪華な中情話、喜劇、浮世風俗の一一種。巻末に狂言 品の一部として伝わったものや、名ばかりで何 講談社 ) 近代的劇場として再建。四五年 ( 昭和二〇 ) 空名と登場人名の索引が付されていて便利であも残っていなかったものが多かったが、明治以 歌舞伎座かぶきざ劇場。一八八九年 ( 明襲により三たび焼失したが、吉田五十八の建築る。こうした系統的かっ網羅的な作品概観の書降、二世市川左団次や市川三升 ( 一〇世団十 治二一 D 一一月、東京市京橋区木挽町三丁目 設計で旧観を復して五一年一月新築開場、歌舞はいまもはかに類書がなく、歌舞伎研究のため郎 ) によって復活されている。 みますやにそうじ ( 現中央区銀座四丁目 ) に、演劇改良の実現を伎の殿堂として現在に至る。定員二六〇〇名。 に重要な業績として価値が高い。 〈服部幸雄〉 なお、三升屋二三治の『戯場書留』によれ おうち 目的として福地桜痴が千葉勝五郎の資金を得て舞台間口約二七 〈菊池明〉 かぶきじゅうはちばん歌舞伎ば、七世団ナ郎の制定した以前に「歌舞伎狂一言 歌舞伎十八番 てんまう 建設した。外観は洋風、内部は日本風三階建て回歌舞伎座編『歌舞伎座』 ( 一九丑・歌舞伎座出劇のうち、市川団十郎の家の芸一八種。天保年十八番」ということばがあったが、これは市川 ひのき の檜造り、定員一八二四名、舞台間口一三間 版部 ) ( 一盒 0 ~ 四四 ) 、七世団十郎が初世以来家に家に限らす江戸歌舞伎の当り狂一言を選んだもの ( 二三・六〇 ) 、直径九間 ( 一六・二九 ) の歌舞伎細見かぶきさいけん歌舞伎の研究 伝わってきた当り狂言 ( または当り芸 ) を制である。一般に得意芸のことを「十八番」とい ふわ なるかみしばらく ふどう 蛇の目回しをもち、規模・設備ともに日本一の書。飯塚友一郎著。一九二六年 ( 大正一五 ) 第定したもので、『不破』『鳴神』『暫』「不動』 うのは、「歌舞伎十八番」を家の芸、転じて当 うわなりぞうひき かんじんちょうすけろく おしもどし ・つい - っ・つ 偉容を誇った。ここで桜痴は演目、演出、観劇一書房刊。その七年前に出版された『歌舞伎狂『嫐』『象引』『勧進帳』『助六』『押戻』『外郎 り狂言と解したことから生まれたといってよ かんう ななめん けめき 制度などに理想興行を目ざしたが、経営に失言細見』を改訂・増補したもの。量が多くしか売』『矢の根』『関羽』『景清』『七つ面』「毛抜』 ↓勧進帳↓毛抜↓暫↓助六↓鳴神 げだっ じややなかまひげ ↓矢の根 3 。ト繝 敗、翌年自身は座付作者にとどまり、経営は一も筋が複雑に入り組んでいる歌舞伎の作品につ『解脱』『蛇柳』『鎌髭』がその内容。いすれも 〈松井俊諭〉 かんや なりよし あら ) 一と 二世守田勘弥に、ついで田村成義に移り、一九き、それそれの作の背景となっている「世界」家の芸である荒事を基本にしているのが特色で回郡司正勝他編著『図説日本の古典歌舞伎 一三年 ( 大正一 l) 以後松竹合名社の大谷竹次郎や題材によって系統的に整理・分類したうえ、 ある。これらのうち、『勧進帳』は初世が演じ 十八番』 ( 一九七九・集英社 ) 四天〔左〕唐織四天伊達四天 , 繍四天とも。金糸・銀糸の繍の衣装の裾まわりに「馬簾」という房がつく。 「本朝廿四孝・十種香」の白須賀六郎 ( 8 世中村福助 ) 〔右〕鱗四天「娘道成寺』の蛇体と化した清姫に絡む。この種の捕手 , 軍兵などの四天には馬簾はない 、歌舞伎座 1985 年 4 ~ 6 月 , 1 2 代 ”目市川団十郎襲名興行 が催され , 古式の櫓が 破風の上に置かれた 6 ( ) 5 っ驪一靆き ~ 臨 -41 ・一びき ぶつかえり「鎌倉三代記」の安達藤三郎実は佐々木高綱 ( 2 世中村吉右衛門 ) 。軍兵姿の肌を ぬぎ ( 左 ) , さらに上半身の衣装の糸を引抜いてふつかえらせ , 武将高綱の本体を現す ( 右 ) はれん しらなみ 第題「ヴ 1 まい 一じようかきとめ

4. 日本大百科全書 5

し 西林和泉守兼定、落、煎餅な 一 = ( 仁治三 ) 聖一国師、宋より帰国。博多で一会〈ー七 0 菓子 / 日本の菓子略年表 粟波吉右衛門に酒まんじゅうの ( 永禄年間 ) ど干 ~ 果子をつくる ( 京干菓子・亀 製法を教える 屋伊織の始祖 ) 原始時代 果実や木の実を多く食用とする ( 唐菓子に対し木菓子という ) 一 = 四 = 一 ( 寛元一 ) 越前大野でけんけら ( ねじりお一至 ( 七 ( 永禄一 0) ポルトガル船が明国から月餅を こし ) つくられる 神武天皇即位前神武東征のおり、戊午年九月八十 伝える ( 広島銘 ~ 果・和蘭はって たドわかたあめ 平瓮をもって水無しに飴 ( 固飴 ) 一毛〈 ( 弘安一 ) 豆糖 ( 洲浜の前身 ) つくられる ん棒の祖型 ) あのうあんざいしょ をつくる 加藤清正、軍糧の長生飴 ( のち 一き ( 正エ・観応一 ) 林浄因、賀名生行在所の後村上一三ー空 ( 天正年間 ) 朝鮮飴、求肥飴 ) を熊本にもた 天皇に薯蕷まんしゅうを献上す 垂仁天皇九 0 年田道間守に命じて、常世国に非 、のかぐのみ 時香果 ( 橘 ) を求めさせる。一〇 らす。信濃国伊那地方に丸杣餅 る。浄因は塩瀬の始祖、また ~ 果 年後の景行天皇元年に帰国。 ~ 果 祖として林神社に祀られる 子の製法伝わる。豊前国の耶馬 且由・上亠に旧】 ? っ 一翆 ( 正平一三・貞治六 ) 丹波から信州小布施の一一十端城 渓地方に巻柿の製法伝わる。「天 に移った荻野常倫、丹波栗を小 六 = ズ推古一二 ) 留学生恵日ら唐より帰国、隋・ 正日記』に柏餅のこと記される 唐の医学を伝える。このころ、 布施に栽培。また菜まんしゅう 一ズ天正三 ) 楊柳園・柳屋奉善、近江国日野で おいのとも 老伴をつくる。一五八四年伊勢松 唐菓子伝来か ? ( 信州名物お焼き ) を伝える へのおづわ 坂に移り、現在は松阪市の名 ~ 果 七世紀後半役小角、吉野の金峯山・大峰山一一一〈 ( 正平一一一一・応安一 ) 元の大医院礼部員外郎職の陳延 祐、寧波から博多に亡命、陳外一犬一 ( 天正九 ) 板倉五郎兵衛弘方、御所落雁を を開き、クズの採取法を知った 越中井波 ( 富山県 ) にもたらす と伝える ( 吉野葛の起源 ) 郎を名のる ( 外郎氏の始祖 ) 七一一九 ( 天平一 ) 喫茶の儀が宮中で行われる 駿河屋総本家の初代、木の葉饅一大一 ( 天正一 0 ) 六月一二日 ( 明智光秀横死の前 はちみつ 日 ) 、京の川端道喜が豊臣秀吉と 七三九 ( 天平一一 ) 渤海国使節、蜂蜜をもたらす 頭 ( 酒まんしゅう系 ) をつくる 光秀の両陣営 ( 山崎合戦 ) に粽 一四六九ー全 このころの句にあられ餅が詠み 四 ( 大平勝宝六 ) 唐僧・鑑真が黒糖をもたらす を届ける ( 文明年間 ) 込まれる 実一一 ( 天平宝字六 ) 『食物下帳』に飴の製法記される 実〈 ( 神護景雲一一 ) 奈良の春日大明神、三笠山に移一岩ニ ( 文明四 ) 薩摩に木目羹の製法が京都から会 ( 天正一三 ) 金森長近、越前大野から飛騨高 山へ移り、大野の ~ 果子けんけら 座。唐菓子の供饌始まる もたらされたと伝えられる ( ねしりおこし ) も伝わる。穀煎 合六 ( 大同一 ) 空海、唐から亀の甲煎餅の製法一四大 ( 文明一 0 ) 京都の上御霊神社わきで干 ~ 果子、 唐板が商われた。これより先、 ( 斐太国撰 ) ともいう をもたらし、山城国小倉の和三 八六三年 ( 貞観五 ) 唐板が魔除一犬七 ( 天正一五 ) 秀吉、北野大茶会で茶をもたぬ 郎に伝授したといわれる もんとくじつろく 者は香煎にてもよしと布令 け ~ 果子として配られる 会 0 ( 嘉祥一一一 ) 『文徳実録』に草餅のことみえる 九 0 一 ( 延喜一 ) 九州・大宰府に左遷された菅原一四空 ー一き一真盛上人、京都の北野で辻説法一犬九 ( 天正一七 ) 和歌山の駿河屋総本家 ( 当時は ( 明応年間 ) のおり、塩味の黒豆を配る。真 伏見にあって鶴屋と称した ) 五 道真のため、土地の老婆が梅ケ 盛豆のおこり 代目・岡本善右衛門が初めて練 枝餅を進上したと伝えられる り羊かんをつくる 一五 0 = 一 ( 文亀三 ) 鳥羽院北面武士・渡辺進、餅を 源順の『倭名鈔』に酪酥、蜜、 せんべい 商う。川端道喜の祖 一五九 0 ( 天正一八 ) 「利休百会記』の菓子に「ふのや ( 承平年間 ) 飴、醍醐、相、歓喜団、煎餅、 き」がみえる 禝などみえる。このころ、権餅一台四 ( 永正一 ) 外郎定治、小田原に下る ( 小田 一発一一ー九六 もっくられる 原外郎家の祖 ) 越後高田 ( 上越市 ) の大杉屋惣 ( 文禄年間 ) 兵衛、粟飴をつくる 藤原忠道 ( 法性寺殿 ) 、娘の皇嘉一五 0 〈 ( 永正五 ) 『狂歌合判詞』に、花びら餅の美 ゼんざい 門院のところで「おこしごめ」 しげなるとある。このころ善哉一究四 ( 文禄三 ) 茶屋四郎次郎、亀屋栄任、秀吉 を食す ( 『古今著聞集』 ) がつくられる の菓子奉行となる ー一六一五安倍川畔 ( 静岡市 ) の石部屋、 一一会 ( 文治一 ) 屋島の合戦に敗れた平家の落人一五一ニ ( 永正九 ) 渡辺進の女婿・初代川端道喜、 ( 慶長年間 ) 安倍川餅を商う 後柏原天皇に粽を献する。内裏 ら、阿波国 ( 徳島県貞光町 ) に 一究公慶長三 ) 島津氏の伴ってきた朝鮮の陶工 粽と名づけられる 潜んだ際、里人に巻柿の製法を あずさ ら、小豆餡と米粉で高麗餅をつ 教えたと伝えられる。巻柿や丸一五四 0 ( 天文九 ) 鳥の子餅がつくられる くり、氏神に供える 枷陬の製法が地方に伝わる 一一 ( 天文一 0 ) ポルトガル船、豊後に漂着。南 一究九 ( 慶長四 ) 平井秀名 ( 京都・井筒屋重久の 蛮菓子が伝えられる = 会 ( 文治四 ) 奥州へ下る源義経、弁慶ら会津 初代 ) 、そば粉で干 ~ 果子の如心松 若松の地で五郎兵衛飴を食した一会五 ( 弘治一 ) 諏訪頼重、武田信玄と川中島出 葉や松風をつくる 兵の際、水餅を軍糧に用いる。 と伝、んられる 一六 0 一 ( 慶長六 ) 山内一豊、上佐入封の際、けん 氷餅は鴨長明の『歌林四季物語』 『吾妻鏡』の一一月二九日条に、 びを土佐にもたらす にもみえ、鎌倉時代からあった 源実朝新誕五十日百日の祝に「十 一六一四 ( 慶長一九 ) 近江草津の姥ケ餅 ( 当時は乳母 一会六 ( 弘治一一 ) ポルトガルの宣教師・外科医ル 字」 ( 蒸し餅。今日のまんしゅう ) 餅 ) に、徳川家康「養老餅」の イ・アルメイダ、カステラ ~ 果子 を贈るの記事みえる 三字額を下賜する を日本に紹介 一一 = 四 ( 建保一一 ) 栄西の『喫茶養生記』成る 一一空 ( 建久三 ) 一二世紀 おこし : め ′、・ 0 もち 一四六一 ( 寛正一 l) あわ おらんだ ・ - れもも にかけて『源氏物語林逸抄』の著者で『節用 ふくさ 集』 ( 饅頭屋本 ) を刊行した宗二、塩瀬袱紗を めいさっ 創製した宗味をはじめ、京の名刹の住職、書家 など多くの人材を輩出している。林氏塩瀬は学 ロ 、武芸、織布など高度知識をもっ渡来系一族 で、その一端としてまんじゅうの技術を披露し たのである。 室町時代には、このほか安価な菜 ( な・さ い ) まんじゅう ( 野菜入り ) が庶民にもてはや された。その名残として信州 ( 長野県 ) の「お 焼き」が今日におもかげを伝えている。「菜」 は「肴」「魚」に通じ、野菜とは限定しない まんじゅうの中身が野菜や肉であれば、中華ま んじゅうの肉まんであるが、肉食禁忌の時代で もあり、肉を材料としたまんじゅうは売り出さ れなかった。 肉まんについては、奈良時代にあった鯤飩の 製法に類似性がみられる。小麦粉をこねた薄皮 で、野菜や肉を刻んだものをくるみ、汁に入れ て食する法と、小豆餡をくるんで汁枌風に仕立 てる法があったようである。肉まんや餡まんに 発展しうる素地がすでにあったといえる。ま あづまかがみけんきゅう た、『吾妻鏡』建久四年 ( 二九三 ) 五月一六日条 よりとも すその に、富士の裾野に巻狩を催した源頼朝が、勢子 たちに「十字」を与えたとある。かなり大きな まんじゅうであり、膨れ作用もあったからこそ 十文字の切れ目を入れたものであろう。このよ うに塩瀬まんじゅうに先行する例はいくつかあ るものの、完成されたまんじゅうの優美な姿、 風雅な餡が、おりからの茶道興隆の波にのり、 この菓子を一躍高名にしたといえるであろう。 山芋の膨れ作用を応用した塩瀬まんじゅう系 と対比されるのが、甘酒の発酵原理を利用した 酒まんじゅうである。酒まんじゅうの仕法は一 二四二年 ( 仁治三 ) 、七年間の宋留学から帰朝 えんにペんえん した円爾弁円 ( 聖一国師 ) がもたらしたと伝え とら ふしみ られる。商品化したのは京都の虎屋黒川、伏見 するが の鶴屋 ( 駿河屋の前身 ) が先駆であった。虎屋 の酒まんじゅうはふつくらと大ぶり、駿河屋の は平たく表面に「本」の字の焼き印を押すので 「本の字饅頭」と称した。しかし甘酒の歴史は 古いので、弁円の創製以前に、酒まんじゅう製 法の原理はわかっていたと考えられる。今日の まんじゅうは、その製法によって薯蕷まんじゅ うか酒まんじゅうかの、いずれかの系列に分類 することができる。 らくがん 〔落雁〕落雁は姿が端正で風味淡泊、干菓子の 寺か つる ひ こんとん 181

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し 出羽山形の佐藤屋松兵衛がのし一会四 ( 安政一 ) 播州明石の八島六兵衛、鹿児島天実 ( 明治九 ) 山口県萩で失業士族救済のため、 夏ダイダイの栽培を奨励 で「かるかん」を改良、純白な ( 文政年間 ) 梅の前身梅羹をつくる。薩摩藩 一〈七七 ( 明治一 0 ) 東京・麭町の開進堂、シューク 菓子とする 槍術指南の高橋種美が春駒の祖 ームを売る。甲府の松林軒三 型をつくる 一会六 ( 安政三 ) 備前岡山の広栄堂初代・浅次郎、 求肥 ~ 果子の吉備団子をつくる 代目・鈴木音兵衛、月の雫をつ 一〈一九 ( 文政一一 ) 信州小布施の桜井武右衛門が純 くる ( 一七二三年、牡丹亭金升の 粋の栗羊かんをつくる。江戸芋一会〈 ( 安政五 ) 江戸日本橋の栄太楼、玉だれを 売る 作とも ) 。和歌山県新宮の森田京 坂で羽二重団子つくられる 菜舗、黒糖で碁石飴をつくる。現 天 = 一 ( 文政四 ) 上州館林名物麦落雁つくられる一衾 0 ( 万延一 ) 横浜で日本人が。ハン屋を開く 在の那智黒の始まり 一衾一 ( 文久一 ) 江戸の清寿軒、絹漉し豆腐のよ 一全九 ( 文政一一 l) 越後巻町福井の本間楢右衛門、 うな水羊かんを創製 天大 ( 明治二 ) チョコレート、ビスケット、ド 棹物柚餅子をつくる ロップ売り出される 一会 0 ( 天保一 ) 八戸藩鉄砲鍛冶・竹之助が八戸一〈六 = ( 文久一一 ) 上州磯部の庄屋・大手万平が鉱 煎餅 ( 南部煎餅 ) をつくる。金沢 一九 ( 明治一一 l) 仙台駄菓子の石橋屋、太白飴を 泉を利用していそべ煎餅をつく の俵屋、おこし餅をつくる。この 商う る。元彦根藩奥久中・吉田寿江 ころ武蔵国大里郡玉井村 ( 埼玉 天〈 0 ( 明治一三 ) 名古屋の堀場岩次郎、宮崎市で 子、大垣で金蝶饅頭をつくる。 つきいれ餅を売り出す 県熊谷市 ) の清水庄次郎、五箇 下関の江戸金が亀の甲煎餅を売 棒を江戸・吉原に売り込む り出す。このころ、聿軽飴売り このころ、蜜豆売り出される。 出される 広島・風月堂の原田国太郎、の 江戸深川六間堀の山口屋吉兵衛 し柿をつくる。この ~ 果子は同市・ 出羽山形の佐藤屋が梅羹を改良、 ( 天保年間 ) が花林糖を売り出す。切りざん一〈六五ー六〈 しよ、つがっ / 、られる 風推堂のひろ柿として受け継が ( 慶応年間 ) のし梅をつくる れた 一会一 ( 天保一 l) 京都の長久堂、きぬたを創製 一衾〈 ( 明治一 ) 東京・日本橋の栄太楼、甘納豆 天 = 三 ( 天保三 ) 京都の亀屋良永、御池煎餅をつくる を売り出す。これより以前、同舗天兊 ( 明治一三 ) 山口県萩で萩能薫 ( 夏ミカンの 皮の砂糖漬け ) がつくられる 一会七 ( 天保八 ) 備前岡山の廻船問屋・伊部屋永 で梅は志飴をつくる。米津凬月 吉、金花糖と、大手まんぢうを 堂、官軍の糧食としてパン五〇〇〇一兊 0 ( 明治一一三 ) 水戸の井熊・小林熊次郎が梅羊 羹をつくる つくる。備中高梁の上屋天任堂 人分を納入。京都の河道屋一四 初代・延久、丸柚餅子をつくる 代目・安兵衛、蕎をはうるをつく 青森の甘精堂が昆布羊羹をつく 一〈三〈 ( 天保九 ) 美濃大垣の槌谷右助 ( 四代目 ) 、 る。高松の煎餅屋・正一、藩主・ る。岐県下呂温泉・養老軒の玉 柿羊羹をつくる 松平頼聡の暴れ馬を取り鎮め、 置鶴吉、栃の実せんべいをつく 一会 0 ( 天保二 ) 出羽鶴岡の菓子屋が狐面型の小 る。東京でマシマロがつくられる くつわ堂ののれんを許される。 豆落雁をつくる。この年、鶴岡 ( 庄 一兊四 ( 明治一一七 ) 徳島の富士屋、小男鹿を創製 この店、実物大の瓦煎餅を焼く。 内 ) 藩主・酒井氏の越後長岡転 大分の古後芝石、甘露柚を販一兊 = ( 明治一一八 ) 新潟県新発田の長尾量作、黒ご 封を、領民が江戸出訴により阻 まに掛け物した養生糖をつくる。 売。信州下諏訪町の新鶴が塩羊 止。藩主在封 ( 居成 ) を稲荷 ( 狐 ) かんをつくる これより先、柚香里をつくる に見立てた幟に着想したもの 一兊六 ( 明治元 ) 名古屋の亀末広、夏の霜をつくる 一衾九 ( 明治一一 ) 東京・芝の木村屋、パン屋を開 一〈四 = ( 天保一三 ) 播州姫路の伊勢屋五代目、江戸 く。向島で言問団子つくられる。一〈究 ( 明治三一一 ) 名古屋の納屋橋饅頭つくられる の金沢丹後で修業後、銘 ~ 果玉椿 一九 00 ( 明治三三 ) 福井の和田健太郎 ( 富士見堂 ) 岡崎の備前屋三代目藤右衛門、 ん ) っ / 、る が羽二重餅をつくる 卵白と寒大で「阿は雪」をつくる。 一九 0 一 ( 明治三四 ) 仙台の玉沢本舗、九重を売る 一会四 ( 弘化一 ) 江戸で紅梅焼はやる 大阪の今中伊八、鶴屋八幡のの 一九 0 = ( 明治三五 ) 山形県東根の佐伯米吉が特産の 京都・鶴屋の吉信三代目・稲田 れんを上げ、粟羊かんを売る。 ダイズで豆糖を売り出す ( 嘉永年間 ) 伊兵衛が杣餅を創作。盛岡で豆 徳島の富士屋初代・喜多伝之助、 銀糖つくられる。出雲国安来・坂 江戸餅を売り出す。鹿児島の坂一九 0 五 ( 明治三八 ) クリームパンっくられる ばんたん 田真月堂の初代・仲蔵が千鳥羹 之上次助が文日一漬けをつくる - 九 0 七 ( 明治四 0 ) 埼玉県川越の亀屋 ( 河内大掾 ) を創作。江戸で金花糖が引物に 一全 0 ( 明治三 ) 信濃国上田の飯島商店、みすす 五代目・山崎嘉七、芋落雁の初 用いられる 飴をつくる。北海道江差で五勝 雁城をつくる 手屋羊羹つくられる 一九 0 九 ( 明治四一一 ) 森永製 ~ 果、板チョコを売り出す 一会一 ( 嘉永四 ) 武蔵国横浜の亀楽、瓦煎餅売り 出す ( 一八六八年とも ) 天七一 ( 明治四 ) 福井県敦賀の紅屋四代目、求肥一九 = ( 明治四四 ) 岩手県一関の松栄堂初代・小野 一会 = 一 ( 嘉永六 ) 長沢屋重吉が盛岡で黄精飴をつ 昆布をつくる 寺主馬蔵が田村乃梅 ( 甘露梅 ) くる ん」っノ、、る - 全ニ ( 明治五 ) 木村屋、餡パンを創製 一会四ー六 0 高岡の志乃原一一代目市郎平が最天七 = 一 ( 明治六 ) 福沢諭吉、北海道でバター、粉一九一四 ( 大正三 ) 森永製 ~ 果が紙箱入りキャラメル を売り出す 乳を試作 ( 安政年間 ) 中・江出乃月をつくる。伊豆韮山 の江川太郎左衛門、。ハ、 一九一六 ( 大正五 ) チューインガムつくられる / をつくる天セ五 ( 明治八 ) 凬月堂、博覧会にケーキを出品 一〈三 0 ー噐 さお ゅもち 一公七 ( 明治一一 0 ) 一〈九ニ ( 明治一一五 ) は、のい 0 吉から大名諸侯に披露された。その姿は白小豆 さおもの を紅色に仕上げた棹物で、桃山時代を象徴する ような華麗さが、紅の深い色からにおいたって いた。今日では何色でも練り羊かんというが、 わり 駿河屋では紅色のものだけを「煉羊羹」とよ び、往昔の栄光を伝統の色にとどめている。一 六一一六年 ( 寛永三 ) 、名菓「長生殿」が生まれ た翌年、金沢で浅香忠左衛門が赤小豆の練り羊 かんを完成させた。これが今日一般的になって いる羊かんの色合いである。藩主前田利常は忠 ふじむら 左衛門に下り藤を染め抜いた「藤村」ののれん を与え激賞した。羊かんの色合いを濃紫の藤に まうれき 例えたのである。宝暦年間 ( 一七五一 ~ 六四 ) 江戸に 出た藤村は、本郷の加賀屋敷の一角に店を構え た。以来、江戸屈指の名舗として今日に至って 室町期から江戸初期にかけて、まんじゅう、 落雁、羊かんは完成品として世に出され、確固 たる菓子の地歩を築いた。茶道の興隆に触発さ れた和菓子は、こののち、茶道とは車の両輪の ように、見て美しく、食してうまく、しかも茶 の味わいをじゃますることなく、ときには豪華 に、またときにはつつましげな姿につくり継が れ、素材の組合せや、取合せによるおもしろさ なども考えられて、江戸末期までには多様な和 菓子が出そろっていたのである。室町時代に薬 のロ直しに用いられたういろう ( 外郎 ) は、蒸 もち し羊かんの製法と似た作り方をされながら、餅 の性格をもったまま棹物として今日に伝えら れ、練り羊かんとはまったく違ってしまった。 ぎゅうひ また、朝詳飴 ( 熊本産 ) にみられる求肥飴の 製法は、江戸初期に求肥菓子として独立してい き、これが練切りやきんとんと結び付いて高級 な菓子につくられた。当時の求肥は、まんじゅ う、落雁、羊かんに肩を並べうる上菓子であっ た。これらの菓子にはそれそれ「格式」のよう なものがあり、格調高い菓子として式菓子など にも供されてきた。 〔南蛮菓子〕和菓子の確立期と前後して、まっ なんばん たく目新しい甘味として到来したのが南蛮菓子 である。一六世紀末、南蛮人の来航やキリスト 教の伝来に伴って、南蛮菓子は長崎を窓口にし てもたらされたが、その南蛮菓子も鎖国令以後 は日本人の嗜好にあった和菓子風につくりかえ られていった。バターやミルクは退けられ、洋 菓子のスポンジケーキに酷似するカステラにし ても、卵黄と砂糖だけに絞られた純和菓子的な

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れ、夜通しチジン ( 太鼓 ) の鹿児島県 / 略年表 ま割ってダイヤメ ( 晩酌 ) に飲まれている。 きもっき し住居は、土壁でなく、ほとんど板壁で囲んでいる。屋根も音が鳴り響く。大隅の肝属川 かわら 旧石器時代出水市上場高原遺跡、大口市日東遺跡など 」以前は草葺きが多かった。それを本土では瓦屋根にかえ、奄流域でも水神祭と関係した八 縄文時代出水市出水目 ( 塚、市来町市来貝塚など カ美地方では風が強いこともあってトタン屋根にしている。屋月踊が行われる。十五夜行事 弥生時代金峰町高橋貝塚、種子島南部広田遺跡など としては川内市の十五夜大綱 敷の周りに防風林や防風垣が多いのは、台風の被害を少なく 古墳時代日向国造・大隅国造・薩摩国造を置く。大隅 するためのくふうである。また、かっては床も板でなく、篠引きが盛大だが、国の重要無 古墳群 ( 高山・東串良・大崎 ) すのこ 七一三和銅六大隅国ができる 竹の簀子床にし、天井も張ってないことが多かった。これは 形民俗文化財に指定されてい まくらギ、き ばうのつ 圭 0 養老四隼人が背き大隅国守を殺す。大伴旅人、征隼 暑い夏をすこしでもしのぎやすくするためでもあった。住居る坊津町や枕崎市の十五夜 人大将軍となり薩・隅に下る 部がイエ ( オモテ ) とナカエ ( 台所 ) とに分かれた「二つ 行事、知覧町の十五夜ソラョ 吉一天平一三薩摩 ( 川内市 ) 、大隅 ( 国分市 ) に国分寺を置く 家」 ( 二棟造り ) はこの地方でも特色ある民家で、離島型と イ行事 ( 県指定無形民俗文化 〈 00 延暦元大隅・薩摩一一国に班田を行う ちらん 一 0 一一六万寿三平李基が島津荘を開発 か知覧型など地域による違いもみられたが、急速に消滅しつ財 ) も貴重なものである。ホ ほうじようえ 一一九 = 一建久四島津忠久が薩・隅・日の守護職となる つある。穀物を納めるために建てられた奄美の高倉も同様にゼ ( 放生会 ) は収穫感謝の かいもん ひらきき 八薩・隅・日の『図田帳』完成 減少している。 祭りであり、開聞町の枚聞神 一四夫文明一 0 桂庵褝師来薩、朱子新註『大学章旬』を刊行 やまと りゅうきゅう 〔民俗芸能〕いわゆる大和文化圏と琉球文化圏との接点で社や有明町の熊野神社では神 一茜三天文一二ポルトガル船が種子島に漂着、鉄砲を伝える 一八フランシスコ・サビエルが鹿児島にくる あったために、民俗の宝庫といわれるはど多彩な行事や芸能舞がみられる。大隅町岩川の やごろう 一 0 一九島津貴久が鹿児島に内城を築いて居城とする が残されている。 弥五郎どん祭もホゼの一つで おおみそか 一五〈七天正一五豊臣秀吉、薩摩に入る 大晦日の晩、甑島列島の下甑村では、高い鼻のついた紙面ある。このほか、伊集院町の 一五九 = 文禄一島津義弘が文禄・慶長の役に参加 をつけ、蓑を着た異様なかっこうのトシドン ( 国指定重要無妙円寺詣り、加治木町のクモ 一四 三薩・隅・日の検地が大口から始まる そが かね 一五九九慶長四朝鮮の陶工が串木野で薩摩焼をつくる 形民俗文化財 ) が鉦をたたきながら幼児のいる家を訪れる。合戦、鹿児島市の曽我どんの 一六 00 五関ヶ原の戦い、島津義弘は西軍に参加 この行事は屋久島にもあり、東北地方のナマハゲに似たもの傘焼も名高い行事である。 七島津家久が鶴丸城を築く といわれる。小正月にもカセダウチなど来訪神行事がある〔文化財〕鹿児島県は高温多 力いこまい 一四島津氏が琉球を降し、大島、喜界島、徳之島、塚 が、種子島平山の蚕舞 ( 県指定無形民俗文化財 ) は、白面湿な気候と台風の通路にあた 沖永良部島、ケ論島を直轄地とする もち 一五直川智がサトウキピを大島で栽培 女装の若い男性がヤナギの枝に餅を刺した餅花を担ぎ、扇をるために有形文化財は残りに まうじよう 一六 = 寛永一一一薩摩藩、宗門手札改の制を定め、キリスト教、 くい。そのうえ、明冶初年の 持って舞うもので、養蚕ひいては稲作の豐饒を願ったもの はやと こくぶはちまん はつうま 一向宗を取り締まる である。隼人町にある鹿児島神宮 ( 国分八幡 ) の初午祭は春徹底した廃仏棄釈、西南戦 一七永野金山、谷山錫山 ( 一六五五 ) を開く せんだい みなかた 祭の一つで、鈴懸馬の踊りでにぎわう。川内市高江の南方神争、太平洋戦争末期の空襲な 一吉五宝永一一前田利右衛門が甘藷を琉球から山川に移植 くしきの 社や串木野市の羽島崎神社の太郎太郎祭 ( ともに県指定無形どは、天災を免れた文化財の 一四宝暦四薩摩藩、慕命により木曽川の治水工事に着手、島 翌年完成。総奉行平田靫負ら自刃 民俗文化財 ) などには、神社の境内を水田に見立てて、田打多くを消滅させた。そのた たあそび しぶ 一圭三安永二藩校聖堂 ( 造十館 ) ・演武館、医学館設立 ( 一七四 ) ちから田植までのまねをする田遊系の芸能がみられる。志布め、由緒ある文化遺産は少な くしら またぎ 一圭九 八桜島が噴火、安永島などができる 志町や串良町の山宮神社などでは、叉木を両方からかけて引 建造物のうち大口市にあ 一〈一 0 文化七伊能忠敬が薩摩藩内を測量 き合うカギヒキ行事もある。お田植祭としては、川内市新田る八幡神社本殿 ( 国指定重要一〈 = 五天保六調所広郷が財政改革を命しられる 一〈四 0 一一岩永三五郎が西田橋などの五石橋をつくる 神社の奴踊 ( 県指定無形民俗文化財 ) 、鹿児島神宮の田の神文化財 ) は室町および桃山形 ひょしひおきはちまん 一会七安政四島津斉彬が反射炉・溶鉱炉・ガラス工場など 舞、日吉町日置の八幡神社のセッペトべ ( 精一杯飛べ ) など式の手法による建物といわ の施設を集成館、開物館と命名 が名高い れ、琉球建築の情調も強い。 五斉彬急逝。僧月照、西郷隆盛と錦江湾に投身 どう また、同市の白木神社本殿は 梅雨明け後に各地で行われる六月燈もにぎやかであるが、 一〈六 0 万延一有村治左衛門、桜田門外の変に参加 たなばた 天六一一文久一一寺田屋事件、有馬新七ら殺される。生支事件 室町時代の建物に鎌倉時代の 市来町大里の七夕踊 ( 国指定重要無形民俗文化財 ) はとくに 三薩英戦争 盛大で、大きな作り物のシカ、ウシ、トラ、ツルの動物や、手法を加えた貴重なもの、菱 なぎなた 一〈六四元治一徳之島伊仙村犬田布農民一揆が起こる 刈町の箱崎神社本殿も室町初 琉球王行列、奴行列、薙刀行列などが登場し、太鼓踊を大き 一〈奎慶応一薩藩留学生五代友厚、森有礼ら英国へ出発 く取り巻いて回る。太鼓踊は盛夏に踊られる勇壮なもので、期のものとみられている。鹿天六六 一一薩長連合ができる 天六〈明治一戊辰戦争、薩摩藩兵八〇〇〇人従軍 各地で踊られ、見る者の目を楽しませてくれる。旧暦八月に 児島市の西田橋は肥後の石工 はっさく 一衾九 一一廃仏棄釈、版籍奉還、島津忠義藩知事となる なると三島村で八朔踊があるほか、奄美各地で八月踊がみら岩永三五郎が架設した四連の やっこ みの しの ひし 薩摩色絵梅文茶碗鹿児島市尚古集成館 1 14

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かざふこ ③ ① カサフ ①共和国政庁と首都アルマ・アタの 市街。市名の由来となったリンゴの 木が多く植えられる ( ②アルマ・アタでのウマの品評会。 本来遊牧民のカザフ族にとってウマ は欠かせないが , 定着生活への移行 によりウシの価値が増した ③タルディ・クルガン州の小麦収穫。 1950 年代なかはの処女地開拓により , カザフはロシア共和国に次ぐソ連第 2 の穀倉地帯となった ④バブロダール州の石炭鉱床におけ る回転掘削機を用いた掘削作業。カ ザフの石炭産出量はソ連第 3 位であ る ④ 立され、国内戦を経て、二〇年一〇月にオレン 和国では、東北方一一 = 〔が文語の基礎をなす。文字 プルグを首都としてキルギス自治共和国が形成一一一口語は一九世紀後半アラビア・。ヘルシア文字に された。二四年の中央アジア民族的境界区分に よって始まり、ラテン字母を経て、一九三八年 よってカザフ人の住む領域があわせられ、二五からキリル文字による正書法を採用している。 びんいん 年には首都が中央部のクジル・オルダへ移さ中国では漢語音字母による正書法を使ってい れ、カザフ自治共和国と改称された。首都は一一たが、アラビア文字が復活した。〈竹内和夫〉 そく Kazakh アルタイ諸 九年にアルマ・アタへ移された。現在のカザフカサフ族 共和国が成立するのは三六年である。 語、チュルク語族に分類されるカザフ語を一一 = ロ語 すでに一九二一 ~ 二二年に土地・水利改革が とするトルコ系民族。中国では哈薩克族と記さ 行われ、帝制政府によって取り上げられていたれる。形質的にはモンゴル人種的特徴がかなり 四七万タの土地はカザフ人に返されていたが、 顕著である。ソ連領にはカザフ共和国を中心に しんきよう 二六 ~ 二七年にはバイの耕地一二五万タと牧六五五万六〇〇〇人 ( 一九七九 ) 、中国領には新疆 草地一三六万 f-> く二八年には一四万五〇〇〇ウイグル自治区を中心に約九一万人 ( 一九〈一 l) が うそん 頭の家畜が貧・中農に分配された。続い て二九居住する。その遠い祖先は、西域の民族、烏孫 とつけっ 年から定住化、集団化が行われたが、かならずや突厥の一部をなしていたといわれるが、一五 しも実態に即さない政策と激しい階級闘争のた世紀にウズベク族から分かれて東方に向かった め、たとえばウシは三〇 ~ 三三年に四八〇万頭一群が「カザフ ( 離脱者の意 ) 」と自称するよ から一六五万頭に激減した。他方、トルクシプうになった。以来、ウズベク族、モンゴル族な などの鉄道網の整備、工業企業建設、カラガンどを一部吸収しつつ人口が増加した。一六世紀 ダの石炭基地創設によって、二八 ~ 四〇年にエ末には大、中、小の三つのジューズ ( 国家的集 業生産は七・九倍、石炭の採掘量は一九〇倍と団 ) に分かれた。小ジューズはソ連領内カザフ なり、第二次世界大戦中には一四二の企業と一族の主体をなし、中国領内は大・中ジューズ出 〇〇万人以上の労働者が疎開してきたほか、ア身者が大半である。↓カザフ「歴史〕 クチュビンスク鉄合金工場なども建設され、エ 元来、牧草地を求めてテント生活を送る遊牧 業生産はさらに一・五倍となった。 民であり、冬期に一定の牧地にとどまって村落 戦後、工業は全部門にわたって発展し、一九を形成する以外は、父系親族を中心とする数家 八二年の総生産高は四〇年の三三倍となった。族が一団をなし、ヒッジ、牛、馬、ラクダなど 銅、亜鉛などの鉱物資源に続いて、カスピ海沿 とともに移動した。家族内では男性家長の権力 岸のマンギシュラクで天然ガスと石油も発見さ 、刀コつ、し 一七世紀にはすでに、村落の統率者や はしゅ れ、開発されている。一方、農作物の播種面積 イスラム僧、牧主からなる封建的統治者層と、 は、一九一三年の四一四万五七〇〇タから、 一般牧民、さらに奴隷という階層の分化がみら 五三年には九六二万五二〇〇 . ( 与となった。された。宗教はスンニー派のイスラム教である。 らに五〇年代なかば、北部の処女地にロシア人最近は定着化して農耕に従事する者が増えてき ている。 〈横山廣子〉 が移住して大規模な開墾を行い、耕地面積は八 ヘクタ、 、びらん面 〇年現在三六三九万ール 小麦の生産量は一八 かさぶた〔痂〕痂皮ともいし ″、レっ しんしゆっ 六一万三〇〇〇トンへと飛躍し、ウクライナに迫もしくは潰瘍面の上に、そこから滲出した血 のう っている。 〈木村英亮〉 液、膿、分泌液などが乾いて固まったまま付着 ②一 ごソ連のカザフ共和国で約しているものをいう。これを取り除くためには カサフ語 しんきよ、つ 結成し、対抗した。バイ ( 地主 ) 、イスラム僧、六五〇万人 ( 一九七九 ) 、中国の新疆ウイグル自治外用薬が必要で、無理にはがさないことがたい プルジョア民族主義者は、一二月にオレンプル区で約九一万人 ( 一九全 ) が使用している、トルせつである。なお、かさぶたの下で創面が治癒 グで自治を宣一言、政府「アラシ・オルダ」を設 コ系諸一一一一口語の一つ。ハザック ( 哈薩克 ) 語とも して上皮で覆われると、かさぶたが脱落治癒す 〈川村太郎〉 立し、ウラルとセミレチェ・カザフの「軍事政よばれるが、カザックと自称するからカザック る ( 痂皮下治癒 ) 。 府」も創設された。他方、鉄道労働者や兵士は 語とよぶべきである。トルコ語族のうち、キル カサフフ Joseph Kasavubu ( 一九一七ー六九 ) 一七年一一月 ~ 一八年一月に、アクモリンスクギズ語などとともに中央語派に属する。他のト ザイールの政治家。教員生活ののち政界に入 ( 現ツェリノグラード ) などでソビエト政府ルコ諸語の語頭の〔」〕が〔 5 〕で対応する特り、一九五五年にバコンゴ族を基盤としたアバ コ党 ( バコンゴ同盟 ) を組織してその党首とな を樹立した。トウルガイ、セミ。ハラチンスク、徴を有する ( 、 0 = 、トルコ一 yo = 「道」 ) 。広い セミレチェ、ウラリスクでもソビエト政府が樹分布をもつが、方言差は大きくない。カザフ共 った。六〇年の独立に際してコンゴ共和国の初 かひ

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子の明は父の勲功によ よどの保存・加工用具のほか、藍汁・肥だめの容亀井貫一郎かめいかんいちろう ( 天九 = ー 器、また遺骸を納める棺としても用いられた。 ) 政治家。島根県の伯爵家の出身で、一九り子爵を賜る ( のち伯 おけゆい 〈大原康男〉 しかし、鎌倉末期から室町時代にかけて桶結技一三年 ( 大正一 l) 東京帝国大学に入学、在学中爵 ) 。 術が発達し、酒・油など液体の運搬・貯蔵に便 に外務省嘱託となる。一七年卒業後、一一六年ま亀戸かめいど東京 そう で矢 利な桶・檜が出現するに及んで、重量が重く、 で外交官として外地に赴任し情報活動を行う。都江東区北東端、国電総 かっ破損しやすい在来の甕・壺の類にとってか 一一六年社会民衆党国際部長に就任し、二八年武線亀戸駅を中心とする わり、甕はしだいに水の貯蔵など限られた範囲 ( 昭和三 ) 以降、連続四期無産政党議員として地区。かってはカメに似 あそうひさし に使用されて近代に至った。現在では、さら衆議院の議席を占めた。その間、麻生久などと た形の島であったので亀 に、ガラス、ほうろう、鉄器などの発達によっ ともに陸軍の幕僚ファッショのグループに接近島とよばれ、のちに陸続 て、甕の使用はほとんどみられなくなってい きとなって亀村と称し し、その情報宣伝活動にも参画するとともに、 〈宮本瑞夫〉日中全面戦争後の新党・新体制運動の無産政党た。また、ここに亀ケ井 東か おうけっ のど 側からの推進者となる。四〇年一〇月大政翼賛とよぶ名井があり、この かめ穴かめあな 0 甌穴 会発足とともに東亜部長に就任、翌年の翼賛会両者が混じて地名となっ 亀井勝一郎かめいかついちろう ( 一九 0 七ー六六 ) はこだて 十鼓 横太う 評論家。明治四〇年一一月六日、北海道函館市生第一回改組で辞任する。敗戦後公職追放されるたという。江戸時代、幕 ぜにぎ まれ。東京帝国大学美学科入学後すぐマルクスが、連合国最高司令部中の 2 ( 参謀第一一部 ) 府の銭座 ( 銅銭鋳造所 ) 北池ぎ の字に 主義芸術研究会に入り、新人会会員となって労とも関係をもち、社会民主主義右派の労働運動があり、また亀戸天神で 働運動に参加し、一九二八年 ( 昭和三 ) 大学をにも関与した。 〈赤澤史朗〉知られた。現在も一月の 電楼は 自主的に退学。三・一五事件のあと治安維持法回日本近代史料研究会編・刊『亀井貫一郎氏談鷽替え神事、四 ~ 五月のを、 国 , ン 違反で検挙され、三〇年獄中で発病し、転向し 話速記録』 ( 一九七 0 ) 藤まつり、学業成就の祈 て出所。三二年プロレタリア作家同盟に加わっ亀井螳矩かめいこれのり ( 一五五七ー一六一 = ) 戦願で知られる。南部に時 神はシ て評論家として活躍。第一評論集『転形期の文国時代 ~ 江戸初期の武将、因国 ( 鳥取県 ) 鹿計工場があり、また中小 戸内受 やすだ さねのり むさしのかみいず 亀境 学』 ( 一九三四 ) 刊行後は左翼文学から退き、保田野城主。初名は真矩、通称新十郎、武蔵守。出工場のグラス製造業がみ よじゅうろう ろうまん ゅのしよう 戸名れ 与重郎らと『日本浪曼派』 ( 一九 ) を創刊し、雲国 ( 島根県 ) 湯之庄出身の土豪で代々湯氏をられる。亀戸駅は東武鉄 あまご 日本の古美術、古典、仏教などに関心を深め、称し尼子の家臣であった。尼子滅亡後山中幸盛道亀戸線の起点でもあ やまと しかのすけ 『大和古寺風物誌』 ( 一九四三 ) にまとめた。『文学 ( 鹿之介 ) らと主家再興を図り、尼子の重臣亀り、また明治通りが南北方向に通じ、駅周辺はの一〇名は九月三日夜検束され、同日夜から四 界』同人としても活躍し、河上徹太郎と「近代井秀綱の遺子 ( 幸盛の養女 ) を妻とし亀井氏を商店街でにぎわっている。いわゆるゼロメート 日未明にかけて ( 四日夜から五日未明にかけて とよとみ ならしの ル地帯にある。↓亀戸天神社 の超克」座談会を企画した。 継いだ。やがて織田信長に属し豊臣秀吉配下、 〈沢田清〉とする説もある ) 、習志野騎兵第一三連隊の兵 はりま 第二次世界大戦後は『我が精神の遍歴』 ( 一九播磨・因幡に転戦し、功により因幡鹿野城主、囮二万五千分の一地形図「東京首部」 士によって亀戸署構内または荒川放水路で殺害 ー一九六九 ) 能楽された。一〇名のうち二名は別の時間に殺され 四〈 ) をはじめとして、自己を通して日本人の精一万三千五百石を領した。秀吉の死後は家康に亀井俊雄かめいとしお ( 天〈 ~ ( カどのおおつづみ 神史を探る仕事に着手し、社会的には日中国交接近し関ヶ原の戦いでは東軍に属した。ついで師。葛野流大鼓方。東京生まれ。一九〇九年たともいわれている。四日前後に自警団員四 まうき のぶよし しやりよう 回復にも尽力した。末完に終わった『日本人の家康の命で因幡・信耆を平定、功により二万四 ( 明治四一 l) 池内信嘉の主宰する能楽会に入り、 名、日本労技会 ( 日本車輛などに組織をもっ りきち きゅうえん 精神史研究』 ( 一九五九 ~ 六六 ) がライフワーク。一千五百石加増、すべて三万八千石を領した。 川崎利吉 ( のち九淵 ) に師事。翌年初舞台。 ていた労働組合 ) 幹事一名、柔道師範一名、朝 はやし 九六五年 ( 昭和四〇 ) 芸術院会員となる。昭和 領内の干拓、殖産興業に実績をあげ、伯耆銀能楽会の囃子方養成事業を継承した東京音楽学鮮人多数も亀戸署内または荒川放水路で殺害さ 四一年一一月一四日没。 ^ 神谷忠孝〉の発掘、東南アジアへの朱印船の派遣など多彩校 ( 現東京芸術大学音楽学部 ) を卒業。六八年れた。純労働者組合や南葛労働会は、悪法反対 ナいちょう 回『亀井勝一郎全集』二一巻・補巻三 ( 一九七一 ~ な足跡を残した。長一七年正月二六日鹿野 ( 昭和四三 ) 重要無形文化財保持者の認定を受運動やメーデー 一九一三年 ( 大正一一 ) の大 ししまさのり いわみ よしみよしき 七五・講談社 ) ▽武田友寿著『遍歴の求道者にて死、五六歳。嗣子政矩は石見国 ( 島根県 ) け、同年一一一月吉見嘉樹引退の後を受け葛野流 島製鋼所争議などをめぐって亀一尸署と激しく対 つわの 亀井勝一郎』 ( 一九大・講談社 ) 津和野へ移封され、子孫は代々津和野藩主であ宗家預りとなる。柔軟性に富む自在な演奏に定立していた。事件は一〇月一〇日に初めて公表 〈松尾寿〉評があった。 〈小林責〉 されたが、軍隊の行為は戒厳令下の行動として ふせたつじ かめいどじけん関東大震災の混乱当然のこととされた。自由法曹団の布施辰治、 亀井監かめいこれみ ( 天 = 四丿 、五 ) 江戸末亀戸事件 つわの けさや 期、石見国 ( 島根県 ) 津和野藩主。号は勤齋。を利用し、軍隊が警察の協力を受けて東京・亀山崎今朝弥両弁護士らは事件の真相を追及して くるめ ありまよりのり 久留米藩主有馬頼徳の次男として生まれ、一五戸の労働者らを殺害した事件。一九二三年 ( 大司法権の発動を要求し、南葛労働会や総同盟は 、一れのりようしし おきのかみ ・一まきおうみ ようぶん たねま 歳で亀井舷方の養嗣子となる。隠岐守と称す正一一 l) 九月大震災が起こると、警察は多くの糾弾運動を行い、小牧近江、金子洋文らの種蒔 る。藩内改革に努めるとともに、海防にも意を朝鮮人や社会主義者、労働組合員を検挙した き社は、自由法曹団が作成した資料に基づいて 配り、小藩ながらも勤王運動に貢献。維新後は が、亀戸署でも約七〇〇名を検挙した。このう殉難記『種蒔き雑記』を発行したが、いずれも じんぎ ナいしち なんかっ 〈吉見義明〉 郎新政府の参与事務局判事となり、神祇官の首脳ち純労働者組合の平沢七、中筋宇八、南葛労黙殺された。↓関東大震災 さっちょうどひ かわいよしとら - 一うじゅ きちぞう として重きをなした。また薩長土肥に先だっ働会の川合義虎、加藤高寿、北島吉蔵、近藤広回亀戸事件建碑記念会編『亀戸事件の記録』 ぞう きんじ なおいち て廃藩を実施。明治一八年三月一一三日没。養嗣蔵、佐藤欣治、鈴木直一、山岸実司、吉村光治 ( 一九七一一・日本国民救援会 ) たる こえ ごんさい ゆきもり ・つ」か 750

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かとうと かとうともさぶろう ( 天六 ー一九政党に直接の基礎を置かず、官僚と貴族院を母 加藤友三郎 ぶんきゅう これきょ 一一三 ) 明治・大正時代の軍人、政治家。文久一兀体にして成立した超然内閣。高橋是清内閣が立 年二月一三日安芸国 ( 広島県 ) に生まれる。海憲政友会の内紛により総辞職ののち、海軍大将 につしん 軍兵学校、海軍大学校を卒業し、日清戦争には 加藤友三郎が組閣。憲政会内閣の出現を恐れた よしの 巡洋艦吉野の砲術長として従車、日露戦争には立憲政友会が閣外協力を表明して成立した。民 年 第二艦隊参謀長、のち連合艦隊参謀長兼第一艦本主義的世論は「変態内閣」「憲政の逆転」と 隊参謀長として出征、日本海海戦に大勝を収めこれを批判し、加藤首相のあだ名「燃え残りの ぎんしよく 白 た。一九〇六年 ( 明治三九 ) 海軍次官、〇八年ロウソク」をとって「残燭内閣」とからかっ くれちんしゅふ 銘中将昇進、〇九年呉鎮守府司令長官、一三年た。しかし加藤内閣は内外の平和要求にこた ( 大正一 l) 第一艦隊司令長官を歴任、一五年第え、一九二二年一〇月シベリア撤兵を完了し、 碗 おおくましげのぶ 茶 一一次大隈重信内閣の海相となり大将に昇進、以 ソビエトとの国交回復交渉を行った。また、高 野 てらうちまさたけ たかし これきょ 志 後寺内正毅、原敬、高橋是清各内閣の海相を務橋内閣が調印したワシントン海軍軍縮条約の線 ~ 一三年ワシント に沿い、軍艦一四隻廃艦、六隻建造中止、海軍 郎め、二〇年男爵となる。一一一 ン会議に首席全権として出席、帰国後高橋内閣将校約一七〇〇名と下士官兵約五八〇〇名整 愛 唐 大 藤 文 の後を継いで内閣を組織し、海相を兼任した。 理、職工約一万四〇〇〇名解雇、軍港・要港の 加藤内閣は陸海車軍縮、行財政整理、シ・ヘリア格下げと廃止、部局の統廃合などの海軍軍縮を 萌ム径料 師 資 学術研究に打ち込み、各地の古窯址の発掘調査撤兵などを断行し、彼自身議会で車部大臣文官断行。ついで山梨半造陸相によって陸軍将校約 しのぢやわん 土墨年磁 も行った。一九三〇年 ( 昭和五 ) に志野茶碗制を容認する発言を行ったが、普通選挙法には 一八〇〇名と准士官以下約五万六〇〇〇名およ 県 「氷柱」を発表して以来、中世の瀬戸焼、桃山反対した。生来胃腸が弱くやせ形のため、またび馬匹約一万三〇〇〇頭を削減した ( 山梨軍 時代の志野、黄瀬戸、織部など瀬戸美濃地方の貴族院を中心に内閣を組織したため、護憲派の縮 ) 。同時に行財政整理を進め、臨時外交調査一四年 ( 大正三 ) に瀬戸の千峯園に陶画工とし 伝統陶芸を目標に定めて作陶し、持ち前の天衣ジャーナリズムから「燃え残りのロウソク」委員会、防務会議、国勢院などが廃止された。 て雇われ、以後陶磁の意匠家としても活躍する ぎんしよく 無縫な気質によって個性づけられた独自の作風「残燭内閣」というあだ名をつけられていた しかし他方では、普通選挙法案に反対し、小作 こととなった。古窯址を調査して古陶磁への見 がん を開拓した。晩境になるほどにその美的内容をが、首相在任中に大腸癌で倒れ、死の直前一兀争議調停法案を議会に提出したが ( 労働組合法識を高め、中国・朝鮮古陶磁に対する技術解明 深めた、現代の代表的陶ェである。五五年 ( 昭 帥、子爵を授けられ、大正一二年八月二四日に案と過激社会運動取締法案は未提出 ) 、三悪法へと追究は進み、晩年にはとくに色絵磁器、金 らんで 和三〇 ) に愛知県文化功労者として県より表彰死去した。 ^ 木坂順一郎〉反対連動にあい不成立に終わった。加藤首相の襴手、青白磁など中国陶磁を技術の手本として やすや された 〈矢部良明〉回宮田光雄編『元帥加藤友三郎伝』 ( 一九天・加病死により八月一一六日総辞職し、内田康哉外相 作陶を独創的に展開することとなった。五五年 回作品集『陶芸唐九郎』 ( 一九七・毎日新聞社 ) 藤元帥伝記編纂委員会 ) ▽新井達夫著『加 が臨時首相として残務を整理した。後継内閣 ( 昭和三〇 ) 東京芸術大学の初代陶芸科主任教 ごんべえ ▽林屋晴三編『現代日本陶芸全集Ⅱ加藤唐 藤友三郎』 ( 一九夭・時事通信社 ) は、山本権兵衛によって第二次山本内閣が組織授になり、六一年には「色絵磁器」の重要無形 九郎』 ( 一一・集英社 ) 〈矢部良明〉 された。↓シ・ヘリア出兵↓ワシントン海軍軍縮文化財保持者に認定された。 加藤友三郎内閣かとうともさぶろうないかく かとうとつどう ( 天七 0 ー一九四九 ) 明 ( 一九二・ 会議 ~ 一九一三・九・一一大正一一 〈木坂順一郎〉回吉田耕三編『現代日本陶芸全集加藤土師 加藤咄堂 治 ~ 昭和時代の仏教布教家。本名は熊一郎。京 回林茂・辻清明編『日本内閣史録 2 』 ( 一一・ 萌』 ( 一九 0 ・集英社 ) 都に生まれ、小学校代用教員を経て二〇歳で上 第一法規出版 ) 加藤寛亠かとうひろはる ( 天七 0 ー一九三九 ) 海 イギリス 京、英吉利法律学校 ( 中央大学の前身 ) で聴 カドウナ Kaduna 西アフリカ、ナイジェ軍大将。明治三年一〇月二日東京に生まれる。 ほうめい 講、苦学した。岩野泡鳴らと文芸活動もした リア北部のカドウナ州の州都。人口二〇・二万一八九一年 ( 明治二四 ) 海軍兵学校卒業。戦艦 しやくとくきよう・一う みかィ一 が、築地本願寺内積徳教校の教師となってか ( 一九七五推計 ) 。カドウナとは「ワニのすむ土地」 三笠砲術長として日露戦争に参加する。以降、 せいらん めいきようしんし あさまっくば ら仏教を学び、大内青巒と交わり『明教新誌』 という意味である。二〇世紀の初め、一時、 軍艦浅間・筑波の副長、駐英大使館付武官、筑 あぎぶそうとう ぶき の主筆となる。麻布の曹洞宗中学林の教師など 部ナイジェリアの首都が置かれた計画都市で、波・伊吹の艦長を歴任し、海軍砲術学校校長、 じよ、つぐ、つ 街並みは整然としている。ラゴスおよびポー をも務め、上宮教会に加わって講演、また護 第五戦隊司令官、海軍大学校校長を経て一九二 教書院や精神社を創設して文書活動をした。大 ーコートに至る幹線鉄道の分岐点に位置一年 ( 大正一〇 ) ワシントン軍縮会議主席随員 正末期には斎藤実らと中央教化団体連合会を結 し、繊維工業、石油精製工場をはじめとすとなった。ついで軍令部次長、横須賀鎮守府司 ぐん・一う 成し、講演、著述による教化に努めた。昭和二 る多くの近代工業が立地している。軍工 令長官、連合艦隊司令長官を歴任、軍令部長、 郎哉哉郎彦造郎彪郎吉郎定吉雄一 しよう あかばわじようしようじ 次栄太利遠光鍈 三康康太乙半三 四年四月に没し、東京・赤羽の静勝寺に葬ら 廠や防衛研究所があり、軍事都市として軍事参議官を経て三五年予備役。三〇年のロン 友敬賢 〈島田周平〉ドン軍縮会議の際には、巡洋艦対米七割の線を れた。著書には『修養大講座』一四巻、『維摩内藤田田野来梨藤部野田井田木田場も知られる。 へきがんろく きよう だいじようきしんろん おさち たからべたけし 加内内水市山加財岡鎌荒前大宮馬 経大講座』一一巻、『大乗起信論講話』、『碧巌録郎 加藤土師萌かとうはじめ ( 一九 00 ー六 0 強硬に主張し、浜口雄幸首相、財部彪海相と対 兼 大講座』一五巻、信仰実話全集』二四巻、『曹三 長官陶芸作家。とくに色絵磁器の世界に一作風立、統帥権擁護を主張して、ワシントン条約に 務 官長 ろへんぜ人わ ゅうべんほう ひがしかすがい 理務務蔵軍車法部商信道 洞宗説教大全』、『爐辺禅話』、『雄弁法講話』な 記制を確立した。愛知県東春日井郡瀬戸町反対する海軍内強硬派の中心人物として活動し 藤 総外内大陸海司文農逓鉄書法 〈桜井秀雄〉加 ど六〇余部がある。 〈小林英夫〉 ( 現瀬戸市西本町 ) 生まれ。本名一。一九た。昭和一四年二月九日没。 おりべ あき 加藤友三郎 はじめ きん 474

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かまくら ー一九条道家 九条頼経 ( 北条政子 ) 後 近衛基通 頼家 九条良経 近衛家実 近衛家実 朝 実 九条頼経 時 一 = 00 正治二 1 梶原景時誅される怩頼家、治承以来の新恩②北条政子の発願により寿福寺建 立 五百町を超える所領を没収 一 = 0 一建仁一 1 越後の城長茂、宣旨を賜り頼家を討たんとす 7 和歌所を設置怩快慶、東大寺 るも許されす 2 長茂、吉野で討たれる 4 長僧形八幡神像を造立 茂の甥資盛、越後で挙兵するも討たれる ▽栄西、建仁寺を創建 三 8 頼家の病により、その跡を子一幡と弟八幡 ( 実運慶・快慶、東大寺仁王門金剛 朝 ) に分割 9 北条時政、比企氏を滅ばし、頼力士像を造立ⅱ東大寺僧供養 家を廃して伊豆修褝寺に幽閉、弟実朝を擁立、 時政、政所別当 ( 執権 ) となる = 一 0 四元久一 2 伊賀・伊勢の平氏反乱 7 頼家、修禅寺で殺 される 一一 6 時政、畠山重忠を討っ⑦時政、女婿平賀朝 3 藤原定家ら「新古今和歌集』を 雅の擁立に失敗して失脚北条義時、執権とな撰進 る幕府、朝雅を討っ ⅱ高弁、高山寺創建 一ニ 0 六建永一 一一一皂承元一 2 専修念仏禁止、法然・親鸞流刑 一一 = 一建暦一怩慕府、駿河・武蔵・越後に大田文作成を命す 4 俊 ~ 仍帰国 3 鴨長明『方丈記』を著す 一一 = 一一建保一 5 和田義盛一族滅ぶ義時、政所別当に侍所別▽『金槐和歌集』成る 当も兼ねる 一一 4 延暦寺衆徒、園城寺を焼く 8 後鳥羽上皇、 2 栄西『喫茶養生記』成る 8 鎌 倉洪水京都大風雨鎌倉大地 在京武士に命じて、興福寺衆徒の入京を防ぐ 震 三 7 幕府、鎌倉の商人の員数を定める 四ⅱ実朝、渡宋を計画、陳和卿に大船建造を命す 五 6 頼家の子公暁、鶴岡八幡宮別当となる 六 7 北条泰時、侍所別当となる怩実朝、右大臣 に任せらる = = 九承久一 1 実朝、公暁に殺される 6 慕府の要請により▽絵巻『北野天神縁起』成る 九条道家の子三寅 ( 頼経 ) 、鎌倉に下る ▽慈円『思管抄』成る 三 5 後鳥羽上皇、北条義時追討の宣旨・院宣を下 4 順徳上皇「禁秘抄』成る す ( 承久の乱 ) 6 幕府軍入京、北条泰時・同 時房、六波羅に常駐 ( 六波羅探題の始まり ) 7 幕府、後鳥羽上皇を隠岐、順徳上皇を佐渡に 流す⑩土御門上皇を佐渡に流す 一一 = 三貞応一 5 幕府、六波羅に命し代官を遣わし、守護・地 頭の濫妨を糾明させる 一一 6 新補地頭の得分率を定める = 三四元仁一 6 北 条義時没泰時京都より帰り、執権となるロ親鸞『教行信証』成るか ⑦伊賀光宗ら、一条実雅を将軍に擁立しようと して失敗 = 三五嘉禄一 7 北条政子没北条時房、連署となる ( 連署の 始まり ) 幕府、評定衆設置鎌倉大番役の 制度を整える 一一 1 頼経、征夷大将軍となる = 三七安貞一 5 高麗の牒状到来 四 8 幕府、准布を止めて銅銭の流通 を図る 7 専修念仏停止▽道元帰国 も、後醍醐天皇が院政を廃止し、治天の君と天皇との分裂を 解消し、さらに幕府を倒し、建武新政によって天皇への集権 を実現させた。 政治 〔鎌倉前期の政治〕一一八五年 ( 文治一 ) 頼朝は守護・地頭 だ、いじようかん くじようかねざわ 設置を要求するとともに、右大臣九条亜実を内覧 ( 太政官 の文書を天皇に奏聞する以前に内見する職 ) に推薦し、後白 かわ 河法皇の独裁を抑えようとした。頼朝の支援を受けて兼実は おうしゅう 法皇と対立したが、奥州藤原氏が滅び、頼朝と法皇との対 立が緩和されると、頼朝にとって兼実の利用価値は減じた。 九二年 ( 建久三 ) 法皇の死後、兼実は一時政治の実権を握っ っちみ たが、九六年には、法皇の旧側近であった内大臣源 ( 土御 かどみちちかぎんげん 門 ) 通親の讒言にあい失脚した。これは兼実が頼朝の支持を 失ったためであるが、兼実の失脚によって、頼朝も朝廷の政 治に発言する窓口を失う結果となり、その後は通親が権勢を 振るった。 幕府では頼朝の死 ( 二九九 ) 後、頼家が鎌倉殿を継いだが、 ときまイ ~ がいせき ひき その母北条政子、政子の父時政は、頼家の外戚である比企氏 の台頭を恐れ、一二〇三年 ( 建仁三 ) 比企氏を滅ばし、頼家 、ねとも を退け、その弟実朝を鎌倉殿にたて、同時に時政は執権 ( 政 どころべっとう 所別当 ) となった。ここに執権政治が成立した。さらに、 ・よしもり むらいど・一ろ よしとき のち子息義時は一三年 ( 建保一 ) 侍所別当の和田義盛一族 を滅ばし ( 和田合戦 ) 、政所別当とともに侍所の別当をも兼 帯した。一方、京都では一二〇二年に通親が没し、後鳥羽上 よしつわ ひっそく 皇が権力を握った。上皇は通親時代に逼塞していた九条良経 みちいえ ( 兼実の子 ) ・道家父子を重用するとともに、公武融和を図 り、実朝との関係を密にし、彼を介して幕府を従えようとし た。しかし幕府の実権を握る北条氏は、御家人の支持を得る ため、御家人権益擁護の方針をとって上皇と対立し、実朝は 上皇と北条執権との板挟みとなって苦悩した。一九年 ( 承久 くぎよう 一 ) 実朝が甥の公暁に暗殺されると、幕府は九条道家の子の よりつね 頼経を鎌倉殿に迎えた ( 頼経はのち二六年に将軍となり、摂 家将軍とよばれた ) が、実質的な鎌倉殿は政子であり、俗に 「尼将車」とよばれた。実朝の死によって、幕府との妥協を 断念した上皇は、討幕を決意し、一一一年に挙兵したが大敗し ちゅうきよう じようきゅう た ( 承久の乱 ) 。幕府は後鳥羽以下三上皇を流し、仲恭天 1 一たかくら 1 一ほりかわ 皇を廃して後堀河天皇をたて、後堀河の父後高倉法皇に院政 を行わせた。 〔鎌倉中期の政治〕承久の乱後、幕府は安定期を迎え、一一一 やすとき 二五年 ( 嘉禄一 ) の政子の死を契機に、執権北条泰時は独裁 よりいえ まん せ