. り・から東北地方にかけての多湿地帯で織られ、福 井県・石川県などの羽二重・縮緬・塩瀬で代表 お され、練絹織物には、銘仙・甲斐絹・タフタ・ やますそ ぬ お召などがあり、関東平野の山裾一帯に広がる ゅうきあしかがきりゅう せさきちちぶ 結城・足利・桐生・伊勢崎・秩父・八王子など で生産されている。ほかの地方でも、近世中期 以後。イ こ云えられた織物技術を受け継いで特徴あ 馬副て る織物を生産している。↓塩瀬↓甲斐絹 結城紬↓足利織物↓桐生織物↓伊勢崎銘仙 中との ↓秩父銘仙↓、 ノ王子織物 紀のも 絹織物の歴史は、新石器時代に入って中国で 世物る 発生をみた。養蚕・製糸とともに、製織技術 o る物 は、すでに殷代に高度の段階に達し、紋織物さ えも織られている。これが漢代になると、経糸 袍 3 技る れまのあ 入物で を使って模様を表す経錦 ( たてにしき、あるい 綿織逸 はけいきん ) が製織されるに至り、古代中国の の功絹秀 絹織技術は最高に達した。製品は、シルク・ロ 色ま ' れく 黄 ( 優と ードと海路を通して西方世界に運ばれ、西方世 界・ローマ帝国において、その品質は賞賛さ 彩「当技 れ、金貨と同じ重量で取引されたといわれる。 物土も絵 しかし中国の国産保護のため、西方へ蚕種の伝 織出で彩 絹墓かた わったのは比較的遅く、六世紀中ごろで、やが 物の号なま て中近東から地中海世界にかけて絹生産が開始織 古堆品る されるに至った。その中心はベルシアであり、絹①王葬あ とくにササン朝ベルシアの時代には、絹織物の 生産が盛んになり、その流れは、今度は反対に シルク・ロードを通って中国にもたらされ、そ あすか して日本に達し、飛鳥・奈良時代の錦綾 ( にし きあや、あるいはきんき ) を飾った。地中海世 界においては、ローマ帝国にもたらされた絹織 物はみごとに消化され、イタリア、スペイン、 そして南フランスにまで生産が拡大されること になる。中世の絹織物の実体は、キリスト聖者 せいがいふ の聖骸布にみることができる。そしてフランス のリョンはコル・ヘールの保護奨励によって非常 に栄え、近世のヨーロッパにおける伝統美の世」 界を築き上げた。↓紋織物 やよい 日本へは弥生式時代の前期に北部九州へもた らされた絹断片が、鉄製品に残存して出土し、 すでにこのころには中国、朝鮮半島より伝来し ており、一部に絹織物の生産が行われたものと みられる。そして古墳時代に入ると、さらに出 土は増加の一途をたどり、中期から経錦、後期 から綾の出土がみられ、高級織物の生産が盛ん となり、衣料・桂甲に使用された。飛鳥・奈良 ちょう 時代には、税制の調として、おもに西日本で生 産された。錦・綾・羅は当時の代表的高級織物 ② ・ - ③桐生織物生産流通図江戸中期における 。、、学・ミ絹織物の生産・取引の活況を示している。 この図では , 2 階で養蚕・製糸・織布の工 程を示し , 店内で買次商の主人が客と応対 し , 店先では「絹市」が盛況を呈している ことを描いている ②西域ホータンへの蚕種伝播を示す板絵 ダンダーン・ウィリク出土前 2 世紀ころ , うてん 中国人が于闘国 ( ホータン ) とよび , のち シルク・ロードの要地にもなったこの国に 最初に蚕種をもたらしたのは , ホータン王 に降嫁した王女 ( 左から 2 人目 ) であった 図では侍女 ( 左端 ) が蚕種を隠した王女の 冠をさし , 右端の侍女が綴錦を織る織具を 右手に持っている あしぎめ であり、絹 ・が一般的な絹織物であるが、 りつりよう これらは律令制下に国家が強力的に推し進め 6 た生産であるため、やがて古代末期には衰退す おりべのつかさ るに至り、織部司や地方国衙生産においてわ すかに命脈を保ったにすぎない。中世にはわず そう かではあるが、宋の織物が輸入され、また国内 生産も古代の伝統を引き継いで、阿波絹・美濃 ひたち いわみつむぎ 八丈・常陸絹・紀伊かとり・石見紬などの特産 品も生まれた。中世末から近世初頭にかけて生 みん 産の転換期を迎え、中国 ( 明 ) から新しい織物 技術が伝来し、綸子・唐織・緞子などが国産化 ねんし された。とくに絹の撚糸法が伝わり、縮緬とい う皺のある織物がつくられ、京都縮緬を生んで たんご から、各地へ伝わり、丹後縮緬・岐阜縮緬・長 浜縮緬などの地場産業を生むこととなった。と くに高級織物の生産は西陣が中心で、各地の織 物はその補助的な役割を果たすにすぎなかった が、需要の増大とともに西陣だけではまかない きれず、近世中期以後は、西陣から技術者を しようへい 招聘したり、藩主が国産奨励のため、技術を でんば 導入するなど、各地へ伝播していき、特産品を つくっていった。↓↓丹後縮緬↓岐阜縮 緬↓長浜縮緬↓西陣織 明治時代になると、西欧機械技術の導入によ り、ジャカート ・、バッタン装置などが取り入れ つきじ られ、また近代的な富岡製糸所・築地製糸場な どによって、機械製糸が良質の生糸を供給した が、それによって輸出・内需ともに需要をおこ す誘因ともなり、第二次世界大戦に至るまで生 産額は上昇の一途をたどった。とくに広幅輸出 羽二重が盛んに生産され、第二次大戦直前には 年産額約六億四〇〇〇万平方ャードに達した。 しかし一九世紀末にはレーヨンが発明され、人 絹 ( 人造絹糸 ) とよばれて、絹に比べて安価な ことから、しだいに絹の分野を蚕食し、また戦 前から開発されていたナイロン生産は、戦後、 絹にとってかわって進出し、絹生産を圧迫する ことになった。とくに婦人用靴下の分野では、 まったく絹を駆逐することになった。この傾向 はもとの状態へ復帰しないようにみられたが、 戦後における生活水準の向上は、絹織物独特の 華麗な風合いが再認識され、さらに和服への回 顧趣味は一つのブームを生み、高級織物として の地位を回復する結果となった。戦後の養蚕 は、将来の見通しが十分でなかったので、クワ の作付面積の縮小転換が図られ、生糸生産高は 減少し、漸増する生糸需要量をまかなうことが みの
きようと 京都市 / 産業 ①西陣織応仁の乱 ( 1467 ~ 77 ) 後 , 西陣の 跡地に拠った織工たち がつくった織物で , 精 けんらんっ・ m 巧絢爛な綴織は他の追 随を許さない 2 清水焼江戸時代に は日常雑器類の生産が 主であったが , 現在で は京焼を代表する陶磁 器となっている ③扇子室町時代の能 や茶道の隆盛に伴い京 扇子の生産も増大した。 写真は扇面を仕上げる 絵師 ④京友禅江戸初期に 始まり , 扇絵師宮崎友 禅斎によって広められ たという。写真は手描 き﨟纈の一工程 ⑤湯葉づくり中世以 来の食品で , 精進料理 には欠かせない ⑥すぐき漬けスグキ はカプの一種で上賀茂 地区の特産。京都を代 表する漬物の一つ 03 ー 0 《ヴ ロロいを ⑦北山杉の絞丸太杉の立木に竹やプラスチックを巻き , 絞 物の一つとなっている ⑩干菓子落雁 , 有平糖などからなる干菓子をつくる菓子商 とよばれる模様をつくりだす ⑧樽づくり湯豆腐用の桶など古都にふさわしい精緻なもの も多い がつくられる ⑩⑩第 2 次大戦後 , 京都市で急成長を遂げた近代産業も多い。 ⑨ちまき邪気をはらうものとして端午の節句に食される。 そのうち⑩は婦人下着のトップメーカーの株式会社ワコール の企画会議。⑩は高純度な原料と独創的な製造技術から生ま 川端道喜製 ⑩葛切氷水につけた葛を黒蜜につけて食べるもので , 京名 れる京セラ株式会社のファインセラミックスの製品 しば くすきり 892
による恐慌は避けられないというものである。 したことを意味し、それ自体世界市場を席巻し全般的過剰生産となり、世界恐慌の一環を構成 本家は、絶えず蓄積と生産力を無限に発展さ せ、生産過程でできる限り多く剰余価値を搾取比例が正しく保たれていれば、生産は消費制限ていくから、恐慌も世界市場恐慌となって現れした。フランスも同じく鉄道建設から過剰生産 にみまわれた。こうして主要資本主義国に世界 る。資本主義生産に固有な恐慌は、世界市場恐 し、それをふたたび蓄積に回して大量生産を進から完全に独立して発展し恐慌はおこらないと 恐慌は拡大していった。主要資本主義国が世界 めるが、この大量生産された商品の大多数の購して生産と消費の矛盾を否定する。しかし、不慌となって爆発する。 買者である直接生産者の労働者の賃金は、これ比例説では、部分的恐慌や生産の偶然的過不足〔恐慌の歴史〕資本主義生産の確立を明確にす工業生産の五分の四を占め、主要資本主義国の 間で社会的再生産過程の相互連関が成立して単 を最低限に制限する傾向をもつ。したがって商による不均衡のみをみることになり、全機構震る過剰生産恐慌は一八二五年をもって始まる。 品の販売、剰余価値 ( Ⅱ利潤 ) の実現は、社会撼としての全般的な過剰生産恐慌は説明できなそれ以来、恐慌は周期的循環性をもって現れ一の世界市場における産業循環に合体していた からである。 の消費欲望一般に限界づけられている。この生 た。すなわち、第二次世界大戦後のやや不規則 八六六年の恐慌は、アメリカの南北戦争に 産と消費の矛盾こそ、資本主義の根本的矛盾で 他は過少消費説で、古くはシスモンディ、ロ さを除けば、ほば一〇年前後の間隔 ( 歴史的に ききん ばつばっ よる綿花飢饉や、プロイセン・オーストリア戦 ある生産の社会的性格とその取得の私的資本主 ード・ヘルトウスが唱えたが、カウッキー、ロー は一〇年に近い形で短くなっている ) で勃発し 争にも影響されたが、イギリスでは最大の信用 義的形態との矛盾から直接に引き出せる矛盾でザ・ルクセン。フルク、ブハーリン、スウィージている。 ーレンド・ガーニー・カン ある。そしてこの矛盾こそ、周期的過剰生産恐 ーなどがその代表者である。これは、資本主義 一八二五年以前の歴史をひもとけば、一六七機関であったオー 慌の窮極の根拠である。 的搾取に基づく大衆の過少消費を多かれ少なか三年のオランダのチューリップの球根への投機 ハニーの破産という金融的性格をもった。この 先の資本主義の総再生産過程は、あらゆる生れ恐慌の直接の原因とする理論である。しかの過熱と崩壊によるチューリッ プ恐慌、一七二 恐慌は、時期と部門と各国における発展が不均 産部門 ( 大別すれば生産手段生産部門と消費資し、過少消費と過剰生産は直結して事態の表裏〇年のフランスのジョン・ローによる株式投機等であって、全体として劇的形態をとって展開 料生産部門に分かれる ) とその連関を包括し、 をいう同義反復にすぎす、商品の実現における恐慌、同年のイギリスの南海会社をめぐる株式するということはなかった。 一八七三年恐慌は、一九世紀でもっとも深 そこで生産されるあらゆる商品を価値 ( 不変資生産的消費の役割を無視し、なんらかの形で消投機の過熱と崩壊 ( 南海泡沫事件 ) による恐慌 わいしよう 本、可変資本、剰余価値に分かれる ) からと素費資料の過剰生産に矮小化される。過少消費のほか、一八世紀末から一九世紀初めにかけて刻、包括的なものであった。ドイツ、オースト リア、ハンガリ アメリカを中、いに、イギリ 材 ( 生産手段と消費資料とに分かれる ) からみを恐慌の直接の原因とすることは、恐慌の直前勃発した過渡的恐慌とよばれる一七九三年、九 ほてん ス、フランスその他の諸国を巻き込み、もっと て相互に補填して再生産するが、その流通によ には労働者の賃金は騰貴するという事実にも反七年、一八一〇年、一五年、一九年のイギリス も破壊的な信用恐慌が襲ったが、とくに独占へ る補填の交錯は、資本と資本との流通、資本と し、全機構震撼としての恐慌は明らかにされなの諸恐慌がある。過渡的恐慌とよばれるのは、 所得との流通、所得と所得との流通に総括され い。以上の二説の誤りは今日に至るまで再生産これらがナポレオン戦争の勃発あるいは終結なの傾斜をもち始めたドイツ、アメリカできわめ されている。 どの資本主義生産外の諸条件によってもたらさて激しく、鉄の生産に一大打撃を与えた。この る。社会全体としては、資本と資本との流通は 一八七三年恐慌を境にして資本主義は独占への 生産的消費のみに限られ、したがって生産の発〔恐慌の現実性〕資本主義の全機構震撼としてれたと同時に、他方ではそこで資本主義内部の 展のみを現し、資本と所得との流通は生産と消の恐慌は、産業循環の一局面として周期的形態工業生産と商業が決定的役割をもっことによっ移行の準備を決定的なものにした。 二年恐慌も一八九〇年 この恐慌以後、一八八 費との関連を現し、所得と所得との流通は個人をとる。その物質的基礎をなすのが固定資本のて勃発したからである。 〔大工業時代の恐慌〕一八二五年には産業革命 恐慌 ( フランスは一八九一年、アメリカは一八 的消費を内容とすることに限られて消費を現更新と拡大の独特な回転様式である。したがっ す。そして社会の生産力の発展は、資本と資本て産業循環も、生産の拡大を左右する条件であを終え機械制大工業を確立したイギリスが、ラ九三年に勃発 ) も、恐慌の中心は軽工業から重 テンアメリカ市場の開拓の結果、本綿工業を中工業に移った。これらの恐慌に共通なのは、一 との流通をもっとも著しく拡大し、所得と所得る生産手段のなかの固定資本投資の波の変化に 八七〇年代以前のような急激な生産・取引の停 心に初めて自生的に全般的過剰生産恐慌となっ との流通はもっとも遅れて発展する。こうしてよって条件づけられる。なぜなら、固定資本の 資本主義生産過程でみられた先の恐慌の窮極の独特の運動は、投下されるときには固定設備商た。これはドイツ、オランダも巻き込んだ。次止、短期の不況をとらず、「相対的に長くては 根拠としての生産と消費の矛盾は、総再生産過品に対する需要を一挙に構成し、その設備建設の一八三六年恐慌もイギリスを中心に対米輸出つきりしない不況」 ( エンゲルス ) となった。 程においては生産諸部門間の比例性を通じて消期間のあいだ一方的購買が継続するが、建設が拡大から投機・過剰生産となり、信用恐慌を伴っまり、一九世紀の終わり四分の一期は停滞の 費の拡大なき生産の拡大ーーそれこそ矛盾であ終わり新生産力として稼動すると、その後現物った。過剰生産はアメリカ、フランスにも勃発様相を示すが、それはまた長期にわたるこの時 あとぎん るーーとして表示される。したがってこの総再で更新されるまで、長期間にわたって一方的に した。さらに一八四二年にはイギリスに後産恐期の農業恐慌を伴っていた 生産過程においては恐慌の必然性が基礎づけら供給を続けるからである。こうした固定資本の慌がおこり、四四年に金融制度上ピール条令を〔独占時代の恐慌〕一九世紀から二〇世紀への しんかん きようあい れており、恐慌が資本主義の全機構震撼である独特の運動の波が、狭隘な個人的消費制限の制定したが、それ以後の肝心な恐慌のときには世紀転換期ごろにおける独占資本主義の確立 ことが示される。↓資本主義の基本矛盾 基礎上で超過利潤を求める個別資本の無政府的恐慌対策としては役だたなかった。一八四七年は、この「構造的不況」を克服したが、ロシア に端を発した一九〇〇年恐慌、ついでこれまで 〔ニつの主要な恐慌学説〕以上で、恐慌は資本競争と信用拡大のうちに展開するとき、恐慌は恐慌もイギリスを中心とするもので、鉄道建設 のどれに比べても過剰生産が激しかった一九〇 初めてその現実性と周期性の条件が与えられてと国際的性格が決定的役割をもった過剰生産恐 主義に固有で、必然であることが明らかとなっ くる。すなわち、価格変動によって調整しきれ慌であった。フランス、アメリカでは明確な経七年の恐慌がおこった。両恐慌は、電気、化 たので、ここで従来陥りやすい誤った二つの代 ない、総生産と総需要の矛盾の潜在的累積によ過をたどらなかったが、ドイツはイギリスの影学、鉄鋼の重工業が発展したアメリカ、ドイツ 表的恐慌論をみておこう。 における独占の展開、鉄道熱再現による恐慌の 一つは不比例説で、トウガン・バラノフスキる資本の過剰蓄積と、それを基礎として始まる響を受けた。イギリスではこの社会不安は、チ 激烈さ、イギリス、フランスの造船、鉄鋼業の ーやヒルファーディングが主張した。この説商品の過剰生産が、一定期間を経て顕在化、爆ャーティスト運動となっていった。 一八五七年恐慌は、初めての世界恐慌であっ過剰生産の激しさが中心となった。循環の周期 , フは、社会的総商品が実現されるには社会的総再発する現実性が与えられるのである。 た。アメリカの鉄道建設の崩壊に始まって、イ さらに産業のある部門が世界貿易まで行いう はほば七年に短縮し、アメリカ、ドイツとイギ 9 よ生産の各部分の間に一連の比例性が要請される リス、フランスとの循環の不均等が現れた。 キ、が、資本主義生産の無政府性のもとでは不比例るようになると、資本主義的にその部門が確立ギリス工業に拡大していった。ドイツも初めて ほうまっ せつけん
となる。生後一、二年たったころから関節内、その形態が資本主義以前のそれと異なるからでの生産物を求める一個同一の関係が成立する直 」革から、不良行為を行う少年の懲罰が目的では 、フなく、教育・保護を目的として運営される。都筋肉内に出血して関節、筋肉の硬直をおこす。ある。資本主義以前の再生産過程の攪乱・収縮接的生産物交換とはまったく異なる。商品流通 このほかに、まれではあるが、それそれの因子は、凶作、飢饉、悪疫、戦争など総じて生産のでは貨幣が流通手段として介在するがゆえに販 よ道府県知事は、児童相談所長からの報告、また 〈阪売〉 は家庭裁判所の教護院送致決定を受けて、当該の欠乏症がある。また、肝硬変とか、閉塞性黄縮小ないし過小生産によっておこり、社会の欲売と購買とに分離されている ( 一商品 だん 〈買〉 児童を入院させる。職員として教護、教母、職疸、血栓症の場合にも、血液凝固因子の産生が望に対し生産が絶対的に少なく、欲望を満たし幣ー日ー他の商品 ) 。販売では、どの商品も貨 業指導員を置き、できるだけ家庭的な雰囲気の低下したり、過剰に使用されたりして減少すえないための混乱であった。ところが資本主義幣へ「命がけの飛躍」をしてその価値実現を急 ぐが、購買では、貨幣はいつでもどの商品とで 〈伊藤健次郎〉 社会ではまったくその逆で、商品をあまりにも もとで処遇するよう配慮されている。また、児る。↓血友病 も交換できるから、すぐにそれで次の商品を購 きようこう中国の古代神話に登場す生産しすぎたために販売できず、消費されない 童の日常生活、児童に対する生活指導、学習指 てい せんよく がゆえに再生産過程が攪乱され、社会の生産力買する必要はない。そのため商品流通では販売 導および職業指導に必要な設備の設置が義務づる神。共工は帝の位をめぐって顗と激しく が破壊されるというものである。この資本主義が終わり貨幣を得たところで流通の網の目が中 けられている。生活指導は、日常生活を通して争ったとき、勢いあまって不周山に激突した。 心身の健全な発達と規則正しい生活習慣の習得ところが不周山は天を支える柱であり、また地社会の商品の周期的過剰生産は、大量の販売不断されがちであり、そこでそれに対応する商品 を目ざす。学科指導は、基礎学力を回復するたをつなぐ綱であったので、共工がぶち当たって能、支払い不能、そしてその結果として滞貨増の販売が不能になる可能性がある。こうした全 め、 ・中学校の教育に準じて実施され、教護以後、天は西北に、地は東南に傾いてしまつ大、倒産、工場閉鎖、信用崩壊、株価暴落、賃一連の関連のもとで、商品の販売不能が社会的 院長の発行する卒業証書その他の証明書は、学た。そして太陽、月、星はことごとく西北方向金切下げ、解雇・失業の増大を引き起こすので規模で連鎖的におこりうるのである。 さらに貨幣が支払い手段の機能を営む発展し 校長が発行するものと法律上同等の効力を有すに移動し、中国の大地を貫流する諸河川はすべあるが、これは商品が社会の欲望に対して絶対 る。職業指導は、義務教育課程の技術・家庭科て東南の方へ流れるようになったという。これ的に過剰だからおこるのではない。その意味でた商品流通では、信用販売の網の目を伴うこと になり、商品の掛け売りと一定期間後のその商 は資本主義社会には貧困や満たされない欲望は の範囲で実施し、中学校卒業者に対しては農は中国の地形の由来を説く説明神話となってい 品の価格の実現とが場所的のみならず時間的に る。しかし別の記録によれば、共工は大洪水をいくらでもある。そうではなく、過剰に生産さ 耕・園芸・畜産・土木などの指導を行う。しか も分離する。そのことで販売不能がおこりうる 引き起こして人民を苦しめ、天下に害悪を及ばれた商品で満たされざる欲望を充足させようと し、技術の習得よりは、勤労意欲の向上、生産 かんとうさん したとされている。このため共工は驩兜、三すれば、ますます再生産は混乱し、社会の生産ことは貨幣が流通手段として機能する場合と同 活動の喜びの体得に重点がある。各都道府県と びようこん 政令指定都市には設置が義務づけられている。苗、鯀とともに四凶、つまり四柱の邪悪な神力を破壊するのである。これはこれまでの歴史じで、ここにも商品の販売不能がおこる可能性 しゅん にない新しい現象であって、「豊富のなかの貧がある。 ↓矯正教育↓感化院 ^ 須々木主一〉霊とされ、舜帝によって四方の辺境に放逐され ギ、よ , っヤ」い , んーしけ・つば , っしょ 商品流通におけるこれら販売と購買との分 たとも伝えられている。また共工はしばしば蛇困」として特徴づけられるもの、すなわち一方 凝固因子欠乏症 - につど における商品の過剰、それほどの豊かな富と、離、商品の掛け売りとその価格実現との分離 血液を凝固させる因子が欠乏しているた形をとって表現されるはか、子の后土の性格が め、出血しても止血しにくくなる疾患。血管が鯀の子である禹と共通点があるなど、鯀との類他方における貧困、すなわち満たされざる欲望は、商品の販売不能という形態での恐慌の可能 はたん 似性が多く、水と縁故が深い。元来、中国で古の同時的存在である。したがってこの過剰生産性を一小すものであるが、それは、商品に内在的 破綻をおこすと出血が始まるが、やがて血液が は、支払い能力ある需要 ( 欲望 ) に対し、売ら な使用価値と価値との対立、私的労働と社会的 固まって止血する。血液は、血管の中を流れてくから信仰された水に関係のある神格であった いる場合は固まることはないが、ひとたび血管のではないか、といわれている。〈桐本東太〉れる商品が過剰に生産されたのである。資本家労働との対立、特殊具体的労働と抽象的人間労 crl- きょ , っこ、つ cr1SIS Kr1Se の側からは支払い能力ある需要とは一定の利潤働との対立という商品生産の矛盾に基づき、そ の外に出ると凝固する。この血管外で凝固する恐慌 の連動形態として現れている。 が得られることであるから、この過剰生産は、 se 産業革命を経て機械制大工業の勝利に ことが、出血時の止血機構としてたいせつなも このように可能性の形としてではあるが、商 のであり、止血に関与しているのは、血管とそよって資本主義生産が産業資本の再生産軌道を彼にとっては一定の利潤、平均利潤を伴って売 品の生産過程がもっ矛盾が商品の流通過程で現 の周辺組織、血小板と血液凝固因子の三者であ確立すると、自ら無限に発展する社会的生産力れないという意味での過剰、すなわち相対的な る。このうちのどれに異常があっても止血しに の発揮を確保したが、同時に自らの生産構造の過剰生産なのである。この相対的過剰生産こそれることは、商品の販売不能、それに基づく再 生産の攪乱という恐慌の基本形態を示している くくなる。血小板に異常があると、出血時間が仕組みにおいてこの無限に発展する社会的生産恐慌の基本現象にほかならない。 しつこく 延長するが、血液凝固因子が欠乏したときに力に対する一つの桎梏が現れた。社会的生産力〔商品流通と恐慌の可能性ーー恐慌の基本形のである。 〔資本主義生産と恐慌の必然性〕これら商品流 の無限の発展のなかに、累積した資本主義生産態〕このような商品の販売不能ということは、 は、血液凝固時間が延長する。 のいっさいの要素の矛盾、資本主義の根本的矛そもそも生産された生産物が商品形態をとった通の網の目と連鎖の全体は、資本主義の総流通 血液凝固因子には一二種類あり、—フィ・フリ ノゲン、Ⅱプロトロンビン、Ⅲ組織トロンポプ盾が、「世界市場の大暴風雨」 ( マルクス ) 、「資ことに起因する。他人のための使用価値をもっ過程を構成し、これを通じて資本主義の総再生 しんかん もりたろう ラスチン、Ⅳカルシウムイオン、不安定因本主義的生産の全機構震憾」 ( 山田盛太郎 ) と商品は販売されなければならないが、商品は生産が行われる。ここでは先の恐慌の可能性は、 よりいっそう拡大されるだけでなく、恐慌とし 子、、Ⅷ抗血友病因子、Ⅸクリスマして爆発する。このように資本主義の諸矛盾が産されたことで販売も保証されるわけではな 。商品はまず貨幣と交換してその価値を実現て爆発する資本の生産過程に内在する根本的矛 一挙に表面化し、その矛盾を暴力的に調整し、 ス因子、 >•< スチュワート・パワー因子、 < 、ヘッグマン因子、Ⅷフィ・フリン安定因子現実的に解決するのが恐慌である。したがってする必要があり、これによって初めて完全に商盾が現れてくる。 資本主義生産は、協業と分業による集団労働 であり、Ⅵは欠番である。このなかでもっとも恐慌は、失業と同じく資本主義生産に固有な現品たりうるのである。したがって商品生産・商 かくらん 多い欠乏症は、第Ⅷ、第Ⅸ因子の先天性欠乏に象であり、再生産過程の攪乱として周期的に現品流通のもとにおいては、どの商品も一度貨幣および生産手段の集団的使用という社会的性格 という特殊な商品に置き換えられたのちに、初をもつのに対し、その社会的生産物は資本家の よる血友病である。第Ⅷ因子欠乏は血友病 < 、れる。 私的取得に帰し、利潤を求めての強制法則とな この周期的におこる再生産過程での生産力のめて他の商品との交換に入るという関係にな 第Ⅸ因子欠乏は血友病といわれ、伴性劣性遺 る。これは、相互に自己の生産物を提供し相手つて現れるという矛盾となっている。そして資 伝形式で遺伝し、男性が発病し、女性は保因者破壊と停滞が資本主義的本質を露呈するのは、 へいそくせいおう
いるとみることができる。第五は信用組合であ 組合主義は、一つの政治的イデオロギーにな運動などである。第六は教育の実施である。組従業員となり、組合従業員の二分の一以上が組 り、社会改革の旗印に用いる者も現れたが、そ合員と組合自体の発展のためには、講習や情報合員でなければならない。たとえば、組合員がる。法律にいう信用協同組合はこの機能のみを の後、協同組合の限界が十分に理解され、それ活動を通じ、教育啓発を必要とするということ三〇人であるとすれば、一〇人以上は組合の従もっているが、農業協同組合は、この機能を組 業員となって組合の事業に専念しなければなら織の一部として組み込んでいる。信用組合は、 が建設的補完制度であるとの位置づけが一般にである。 小生産者のみに組合員を限る必然性はなく、消 〔協同組合の種類〕協同組合には多くの種類がず、組合員以外の組合事業従業員は、組合員従 定着した。↓協同組合主義 日本では、一八七七年 ( 明治一〇 ) ころよあり、分類の仕方によって各種の区分が可能で業員と同数以下でなければならないから、組合費者を組合員としてもよいので、生産協同組合 り、生糸や茶の輸出業者による販売組合が生まあるが、機能別には生産協同組合と消費協同組事業の最小規模は一〇人 ( 組合員のみ ) 、最大と後述する消費協同組合の双方に関係している れ、その後、農家の間に信用組合がつくられ、合に大別される。前者について、法規上は農業規模は六〇人 ( 組合員三〇人全員と組合員以外といえる。実在する事業協同組合のうち充実発 商人の圧迫に対抗して販売組合や購買組合も現協同組合、水産業協同組合、森林組合、中小企の従業員三〇人 ) となる。このことは、組合員達したもの ( 例、大規模な農業協同組合 ) は、 れた。一九〇〇年 ( 明治三三 ) 産業組合法が公業協同組合に分かれ、それそれ法律によって規が独立生産者たることをやめ、新しい独立事業機能形態別に述べた各種組合の事業を兼備し、 組織のなかに各部門として組み込んでいる。こ 制されている。中小企業協同組合を定めた中小 体としての企業組合に結集することを基本的に 布され、農業組合が普及した。これに対して消 費組合は微々たるものにすぎなかった。二三年企業等協同組合法 ( 昭和二四年法律一八一号 ) 企図しているとみることができる。これによれに対し、低度なものは一ないし少数の機能を によれば、事業協同組合、信用協同組合、協同り、協働の実は一段と高められる可能性がある果たしているにすぎない。一般に、充実、発展 ( 大正一一 l) に全国購買組合連合会 ( 全購連 ) 、 一一七年 ( 昭和一 l) に大日本生糸販売組合連合会組合連合会、企業組合があり、さらに事業協同が、現実にはかならずしもこのような企図が生の形としては、ます販売組合に始まり、購買、 利用、生産的の各組合機能を追加していくもの 力されてしるとま、、 ; こ、。 ( 糸連 ) 、三一年に全国米穀販売購買組合連合会組合から事業協同小組合と火災共済協同組合と 〔生産協同組合の機能形態〕事業協同組合を典とみることができる。 が派生されている。 ( 全販連 ) が生まれた。この間、商工業者によ 〔消費生活協同組合〕消費生活協同組合法 ( 昭 る商業組合や工業組合も出現した。他方、消費〔事業協同組合〕代表的協同組合で、商工業な型とする生産協同組合は、次のようないくつか どの中小生産者によって結成される工業協同組の機能形態に分けられる。第一は、組合員の生和二三年法律二〇〇号 ) によるもので、消費者 組合を含む協同組合の普及が本格化したのは、 合、商業協同組合などがあり、次の事業の全部産物を協同で販売する販売組合である。これはを組合員とし、その生活に必要な物資等を廉価 第二次世界大戦後になってからである。 で共同購入することを目的とする。一般に生活 小生産者の少生産量、取引知識・能力の欠如、 〔基本原則〕協同組合には、次のような基本原または一部を行う。①生産、加工、販売、購 則がある。第一は組合の公開である。すなわ買、保管、運送、検査などの共同施設、②組合資金カ貧困という弱点をカバーするもので、農協同組合 ( 生協 ) という。消費協同組合にも ち、宗教的、政治的、人種的にどのような人で員に対する資金貸付けと組合員のための資金借産物の分野で早くから発達した。販売組合の販種々のものがある。まず組合の扱う物資または 売方式にも、買取販売方式、委 ( 受 ) 託販売方用役の種類によって、食料、衣料などの日用生 あろうとも、組合に迷惑を及ばさない限り、組入れ、③組合員のための福利厚生施設、④組合 合に加入することができ、組合は加入させなけ員の経営や技術の改善に関する指導、知識普及式、仲介方式などがある。また、単純に販売を活品を扱う一般の消費組合、住宅建設のための 住宅組合、医療組合、食堂組合などがある。ま ればならない。第二は一人一票制である。民主のための教育、情報提供、⑤組合員の経済的地行うものと、選別のような単純な加工を施す加 た、組合員の範囲によって、同一地域に居住す 主義的経営の原則ともいう。組合員には、出資位を改善するための団体協約締結、⑥その他以工販売組合とがある。第二は、組合員の事業に 額に関係なく原則として平等に一人一個の議決上に付帯すること、などである。なお、信用協必要な物資を協同で購入するための購買組合でる市民一般を組合員とする地域組合、同一の事 業所・学校等に所属する人を組合員とする職域 権が与えられる。この点で一株一票の「資本的同組合は、組合員のための金融を中心事業とすある。これは小生産者の少購入量、取引知識・ 民主主義」にたっ株式会社とは著しく異なってる互助組織である。以上のような事業協同組合能力の欠如、資金カ貧困という弱点をカバーす組合に分けられる。日本では、職域組合が先行 るものである。購買組合にも、買取購買方式したが、近年、地域組合が急速に拡大、充実し いる。第三は、利用高による余剰金の分配であおよび信用協同組合は、組合員の直接的結合に る。協同組合は、実費で組合員に物資や用役をよって組織されているものであり、このような ( 組合による一括購入と組合員への分売 ) 、委てきている。消費協同組合にも単位組合と連合 提供すべきであるが、危険負担などの理由から協同組合を単位協同組合という。複数の単位協 ( 受 ) 託購買方式、仲介方式などによるものが会がある点では、生産協同組合と同じである が、消費協同組合の場合、法人は組合員となる 実費以上の価格や料金をとっている。そのた同組合が地域などを基盤にして連合体を形成しある。第三は利用組合ないし助成組合である。 め、正常な組合運営では余剰金が生じる。このたものを、協同組合連合会という。協同組合連これは組合員が共同で利用でき、個人では取得ことができない。 余剰金は、組合の利用高 ( 例、消費協同組合で合会もまた自ら、前述したような事業協同組合不能であったり非効率であるような施設、機材〔内部組織〕協同組合の内部組織とくにその最 の行う事業を営むことができる。事業協同組合を備えて、有利に利用させようとするものであ高経営組織は、いわゆる三権分立型のシステム あれば購買高 ) に応じて組合員に分配 ( 正しく になっている。すなわち、組合員全員で構成す は払戻し ) されなければならない。第四は、出のうち、従業員が五人未満の零細事業者が組合る。大型農業機械、高価な工作機械、設備など る総会が最高意思決定機関となり、原則的に一 が具体例になる。第四は生産的組合である。こ 資金に対する利子の制限である。出資金には一員となってつくるものを、とくに事業協同小組 れは、共同の事業場を設け、組合員の行う生産人一票の議決権による多数決方式により運営さ 定の対価が払われなければならないが、それは合という。 とは別に、組合員の生産物を加工し、あるいはれる。組合員が一〇〇〇人以上の消費生活協同 〔企業組合〕各種協同組合中、協同組合の理念 利子としてであり、したがって通常の利子率以 下でなければならない。第五は、政治的、宗教をより高次に具体化したものとして、企業組合組合員の必要とする物資を生産するものであ組合では、総会の開催は困難であるから、少な くとも一〇〇人以上の総代からなる総代会を設 る。この方向を強化していくと、組合員の生産 がある。企業組合以外の各種生産協同組合は、 的中立である。特定の政治的、宗教的立場にた け、これによって総会にかえることができる。 っと、組合内部の対立を激化させ、分裂を招く中小生産者 ( 農業以外はほとんどの場合中小企活動を組合のなかに取り込んでゆき、最終的に と危険があるからである。しかし、経済的事業は業 ) の連合体であり、各組合員は自己固有の生はすべての組合員が組合の事業場で生産活動に総代は組合員の選挙によって選出される。総会 の下に理事と監事が置かれる。理事は総会で選 、フ政治と深くかかわっており、現実には完全に政産活動を営んでいるから、協同組合自体は寄り従事するものになる。前述した企業組合はこの 中間段階に位置する性格をもち、ソ連のコルホ出され、理事会を構成して業務執行にあたる。 よ治的中立であることが困難な場合がある。たと合い所帯的な複合企業形態である。ところが、 ーズや中国の人民公社は、最終段階に位置して理事の人数は、生産協同組合では三人以上、消 キ、えば、消費協同組合による公共料金値上げ反対企業組合では、組合員の三分の一以上が組合の 903
キ、よ , っギ、ん , んじやノ、 ( 含七ー マルクスとエンゲルスは社会体制としての共産農業協同組合であるコルホーズに統合する政化していく。しかし党綱領は、共産主義建設で 仰山慧寂 い一よ - っ いさんれいゅう 中国、唐代の禅僧。譌山霊祐の弟子で、譌仰産主義を二つの段階に分けた。共産主義の第一策も強行され、三〇年代なかばにはソ連では国の個人の権利と自由の拡大については具体的に しゅ・つ カントン しょっしゃ 記していない 宗の派祖。韶州 ( 広東省 ) 懐化県の人。小釈段階 ( 現在の用語では社会主義 ) では、生産手民経済の全分野に社会主義体制ができあがっ 一九六四年のフルシチョフの解任後に、ソ連 迦といわれた。俗姓は葉氏。一五歳で出家を志段は国家の手に集中され、したがってその私的た。こうして生まれた社会主義体制は多くの問 したが父母に許されず、一七歳のとき、左手の所有は廃止されるが、個人への所得の分配は各題を抱えており、そのためスターリンの指導のは共産主義の全面的建設期にあるという命題は 人の労働に応じて行われ、そのため人々の所得もとに制定された一九三六年のソ連憲法は、社撤回された。かわりにプレジネフの指導のもと 二指を断って求法を誓った。一八歳で、吉州 - 一うせい たんげんざんしんおう ( 江西省 ) 耽源山の真応 ( 慧忠の法嗣 ) のもとの差は残る。資本主義から共産主義の第一段階会主義体制の強化について記したが、次の課題で制定された一九七六年のソ連憲法は、ソ連が げんし 共産主義への移行を準備する発達した社会主義 への移行期は、労働者階級の政治的支配を意味である共産主義建設については記さなかった。 で出家し、玄旨 ( 奥深い仏教の教え ) を悟り、 の段階にあり、この段階はかなり長期にわたる 共産主義建設を最終課題とするソ連の政治シ 円相 ( 禅の第一義を示す手段として描く円形 ) するプロレタリアート独裁を必要とする。第二 という命題を確定し、社会主義的民主主義の発 九六種を伝授された。さらに二一歳より一五年段階は、もっと高度な、完全な共産主義であステムも、ソ連の置かれた状況に左右されてき っ た。革命直後に示されたモデルは、国家の組織展、社会団体・労働集団・個人の国家と社会の る。それは、生産力と人々の道徳が高度に発展 、譌山霊祐に師事し、大悟してその法を嗣い だいきようざん おうもうぎん だ。その後、王莽山 ( 河南省 ) より大仰山し、個人が完全に解放される社会であり、国家を勤労者自身の組織として編成することであ業務の管理への参加の拡大、効率の高い経済管 理の実現、個人の権利と自由の発展などを課題 にかわる自主管理の組織が社会を管理し、個人り、勤労者が単に議員を選挙するだけでなく、 ( 江西省 ) に移って禅風の挙揚に努め、得法の として掲げた。しかし憲法の施行後、国民経済 弟子十余人を出した。中和三年示寂。世寿七七への生産物の分配は、各人の必要に応じて行わ全住民が日常的に国家の統治に参加し、これに しごうちつう より官僚主義をなくし、国家の死滅を用意するの管理の改革、個人の権利と自由の保障のため 歳。諡号は智通禅師。譌仰宗とは、譌山霊祐、れ、したがって生活における平等が実現する。 の改革は進まなかった。一九八三年にアンドロ ということであった。同時に革命直後の困難な 〔ソ連の共産主義〕一九一七年のロシアでの社 仰山慧寂師弟の名をとって宗名としたもので、 その宗風の特色は、自己の仏性の開顕に努める会主義革命 ( 十月革命 ) の成功は、共産主義が政治状況のなかで、強固なプロレタリアート独ポフの指導のもとにソ連共産党中央委員会総会 は、ソ連が発達した社会主義のまだ出発点にあ とともに、問答に際して種々の円相を用いたこ単なる運動から、共産主義の実現を任務とする裁の確立という現実的な要請が優先し、そのた とにある。譌仰宗は中国禅宗五家のうちもっと国家をもっという新段階が生まれたことを意味め民主主義の制限が行われた。一九三六年のソるにすぎす、発達した社会主義の改善が戦略的 も早く跡を絶ったが、その理由として考えられする。革命に成功したロシア社会民主労働党連憲法は、これらの制限をなくし、選挙中心の課題であることを決めた。またアンドロポフ ることは、譌山、仰山が人里から遠く、地の利 ( ポリシェビキ ) は、一九一八年に党名をロシ民主主義的制度を定めたが、個人が統治に直接は、民主主義的な制度の運営が形式的なものに を得なかったこと、謹厳な宗風が南地にあわア共産党 ( ポリシェビキ ) ⅱ現在のソ連共産党に参加することは記さなかった。この憲法の施なっている状態に宣戦を布告しなければならな いと語った。一九八四年の彼の死後チェルネン 行後も、スターリンはソ連が依然としてプロレ に変え、一九年に結成の共産主義インターナシ ず、円相も容易に普及しなかったことなどがあ コにも、その路線は継承された。このような状 タリアート独裁の国家であると主張し、彼の指 〈佐藤達玄〉 げられる。 ョナル ( コミンテルン。一九四三年解散 ) は、 きよ、つさんしゅぎ commumsme 加入の各国の党の名称を共産党に統一した。以導のもとで憲法の民主的諸規定は守られす、個況のソ連では、将来の共産主義についての先走 共産主義 フラ commumsm 材 Kommun1smus イ 後は各国共産党の活動が共産主義運動とよばれ人の政治的権利も尊重されず、そのため行政機った議論はなくなっている。 〔ヨーロッパの共産主義〕チェコスロパキアの 共産主義ということばはラテン語のコムーネている。各国の共産主義運動では、長い間、口構中心の官僚主義的な統治体制がつくられた。 一九六〇年憲法は共産主義建設を直接の課題と 一九五三年のスターリンの死後のソ連では、 commune に由来する。思想としての共産主シア ( ソ連 ) の革命と社会主義建設が唯一の先 義、社会主義は一八世紀末から一九世紀前半の例としてモデルの役割を果たしてきた。しかし憲法の定める社会主義的民主主義の遵守の必要して掲げたが、それはまったくの時期尚早のも のであった。一九六八年のチェコ事件、八〇年 が強調されたが、一歩進んでソ連共産党はフル 現在では、ソ連の経験と理論には一般化できな 西欧で生まれ、それらは、私有財産制度をなく シチョフの指導のもとに、五九年にソ連が共産代初めのポーランド情勢 ( 自主管理労組「連 い特殊のものが多いことが、通説となってい し、財産をなんらかの共同体 ( コンミュン com ・ る。 主義の全面的建設期にあるという命題を採択帯」の誕生、それに続く軍政の実施 ) は、社会 mune) の所有に移すことを主張した。 マルクス主義の文献でも社会主義と共産主義し、同党の六一年の綱領はプロレタリアート独主義体制の改革を怠ることは深刻な政治危機を 〔マルクス、エンゲルスの共産主義〕当時はさ は厳格に区別されていなかったが、十月革命後裁の終了を確認するとともに、共産主義への移もたらすことを示した。大半の東欧諸国は改革 まざまな共産主義、社会主義の思想があった 行の二〇か年計画を決めた。これによると、国を志向しているが、そのなかでハンガリーは、 は、マルクスのいう共産主義の第一段階を社会 が、マルクスとエンゲルスの『共産党宣一一一一口』 ( 一会 0 は、封建的社会主義、小プルジョア社主義とよび、共産主義の第二段階だけを共産主民経済の急速な発展によりソ連は一九八〇年工場内の民主主義を政治生活の基礎に置くこと により、政治生活の活性化を図っている。ュー に、国民一人当りの所得で世界一になり、この 会主義、「真正」社会主義、保守的社会主義ま義とよぶようになった。革命後のロシア ( ソ たはプルジョア社会主義、批判的・ユートピア連 ) で当面の課題になったのは、社会主義の建時点で日常生活に必要な消費財の三分の一が無ゴスラビアは一九五〇年代以来、企業の自主管 料分配される。この党綱領によると、国家の若理組織を全政治システムの基礎に置いてきた。 的社会主義または共産主義を批判している。資設であったが、この事業は、戦争で破壊された ソ連、東欧諸国では共産党の強力な指導体制 本主義を観念的に否定する初期の共産主義、社国民経済の復興、重工業の育成による経済的後干の機能、とくに社会秩序維持機能が、自発的 が確立している。若干の東欧諸国は複数政党制 に組織された社会的自主管理機関に移されてい 会主義と違い、マルクスとエンゲルスは、資本進性の克服とあわせて行われたし、とくに膨大 き、これに伴い国家組織が縮小する。また国家をとっているが、共産党以外の政党の地位は低 主義の発展法則を解明し、生産力の発展と生産な数の農民経営を社会主義的経営に統合するこ 。また個人の真の自由は、集団と組織を通し 機関の公選制が拡大し、同一の人間の多選が制 関係の矛盾の結果として、資本主義から共産主とは、レーニンが指導した一九二〇年代初期に 六、義への移行を予測するとともに、共産主義は労は長期間を必要とすると考えられていた。実際限され、執行機関の構成員も系統的に入れ替えての政治への参加により実現されるという考え にはスターリンの指導のもとに、一九二〇年代られ、一般の勤労者が余暇に行政に参加し、有が支配的になっており、これと対照的に、出版 、フ働者階級の革命により実現されるという理論を の自由その他の政治的自由は十分には保障され よ創造し、これにより共産主義の思想を国際的なの終わりから三〇年代の初めにかけて、国民経給の公務員の数が減らされる。この過程の進行 このような現存の社会主義に対して 8 により国家そのものが社会的自主管理機関に転ていない 済の工業化が達成され、個人農経営を一挙に生 キ、共産主義連動と結び付けた。 日
きようし ③ ② ① 行商 / 日本 ①火鉢売り振り売り , 棒手振りなどといわれ , 近距離問を行商する。 ②紅売り口紅やおし ろい , 櫛 , 舞など化粧用 品の販売人。奥村利信 筆東京国立博物館 ③野菜売り生産者自 身が直接消費者に売り 歩く形は , 今日も根強 く残っている。京都・ 上賀茂 「三十ニ番歌合」 4 紀から、初め日本海側で、いろいろな商品を取 4 に「田舎わたらい」 ( 伊勢物語 ) する人が京に 教書きようしょ三権分立のため立法権を もたないアメリカの大統領が、重要な内外政策多かったというが、これも行商である。行商人り扱っていたが、しだいに売薬に限るようにな にゆ・つ に関して連邦議会に送る文書または口頭によるは多く集団で行動した。伊勢 ( 三重県 ) の丹生り全国的に広げていった。まえもっていくつか みずがね ( 多気郡 ) の水銀鉱山へ往復していた京のあるの薬剤を薬袋か薬箱に入れて預けておき、翌年 政策指針書。アメリカ合衆国憲法第一一条三節の 「随時、連邦議会に連邦の状態に関して情報を水銀行商人は、馬一〇〇頭に絹、糸、綿、米なの行商のときに前年の清算をするという配置売 こわらわべ どを積み、小童部一人に馬を追わせ、炊事婦た薬で、一種の掛け売りであった。富山藩もこれ 与え、または必要かっ適切と判断する法案を議 すずか 会が審議するよう勧告する」に基づく。定例のちを連れていたが、あるとき鈴鹿山中で八〇人を保護していて非常な盛況であった。 こんじゃく ばかりの盗賊にあったという ( 『今昔物語集』 近代では、社会・経済事情の大きな変化によ ものに一般教書ないし年頭教書 State of the ぎけいき かねうりきちじ 二九の三六 ) 。金売吉次の伝承 ( 義経記 ) にみって、行商の役割は低下した。もはや、行商で Union Address 、予算教書、経済報告がある。 は大量の商品輸送はむずかしく、隔地間の商品 ベトナムからの米軍の段階的撤退と核軍備充実られるように陸奥 ( 岩手県 ) の砂金を目標とし を示唆したニクソン・ドクトリン ( 一九六九年た砂金行商人がいた。京から織物や調度を持っ価格差もわすかとなっている。しかし、流通機 七月 ) のような随時の教書は、ことに予算法案て行って砂金と交換するのである。そのころ、構が複雑になったため、生産から消費までの中 間経費が大きくなるために、生産者が直接に消 に関連しては数多くある。第二次世界大戦後、陸奥 ( 青森県 ) から鬼界ヶ島 ( 鹿児島県 ) にか からもの けて、いろいろな唐物や本朝 ( 国産 ) の物を交費者に販売するという形の行商はむしろ盛んと 一九七〇年代初めまでは、これらの教書、こと そんゅう に定例の教書は、アメリカの動きが世界の政治易・売買し、潸浦で年月を送り、村邑で日夜をなりつつある。富山の売薬はまだ続いており、 かっての販夫・販女といった形のものも、なお と経済に大きく影響したため、世界的に関心を過ごしているという、ある商人の首領はまさに さるがくき 〈遠藤元男〉 必要に応じて行われている。 行商人の姿であった ( 新猿楽記 ) 。 もたれたが、一つには連邦議会の発一一 = ロ権強化に 〔西洋〕西洋でも行商は時代により、役目が変 一三世紀からの中世では、市の間を巡回する より教書の内容が葬られることもあり、またア 化している。中世の初期 ( 九 ~ 一一世紀 ) には メリカの相対的な国際的地位の低下のため、か行商が多くなった。中央都市の生産品を地方に ってほどは注目されなくなった。〈陸井三郎〉持って行き、地方の農産物や原料を仕入れると都市が末発達であったため、商人は定住してい やかた しょたい いういわゆる京下りである。大山崎 ( 京都府 ) なかった。彼らは諸侯の館や教会の所在地など 行書ぎようしょ 0 書体 きようゆう・一ん 1 一うぶつ の油商人はこうした一例である。一五世紀の中を遍歴して歩き、商品を売買していた。その ( 日きようしよう 0 共融混合物 ぎようしよう商品を持ち歩いて販売す世後期には、近江・伊勢などに行商人集団が結人々には、限られた地域を歩き回る行商人と、 行商 各国にわたる広範囲で大規模な取引をする遍歴 る商法。生産者自身がその生産品を販売する場成されて、積極的に商品の流通に参加してい 合と生産者から買い集めた物を販売する場合とる。ある隊商は荷物運搬人一〇〇余人、護衛商人団体とがあった。両者の関係は流動的で、 しようほとう ししそうし六、七〇人、駄馬無数であったという ( 小補東フィンクルの聖ゴドリックとよばれた商人にそ があるが、厳密には後者の場合を、 れんじゃくせんだびつ ゅうしゅう た商人を行商人といった。それに近距離・小規遊集 ) 。荷を担ぐものは連雀・千朶櫃を利用しの例がみられる。イギリスのリンカーンシャー の貧農の子として生まれたこの男は、最初はに たので、連雀商人・千朶櫃商人ともいわれた。 模のものと、大規模・遠距離のものとがあった かいせん ばてふ また、船による行商も盛んで、廻船として発展わか仕立ての行商として出発したが、しだいに が、前者は呼び売り、振り売り、棒手振りとい ばしやく し、後者を行商といった。行商は座商に相対すしていった。駄馬によるものは馬借、荷車を利富を蓄え、商人組合をつくり、船でイギリスや しやしやく 北欧の沿海貿易に成功、巨富を得たのであっ 用するものは車借といった業者を成立させ、 るもので一般に遠距離のものである。行商は、 た。中世都市が成立、発展してくると ( 一二 ~ 行商人が消費者の所へ商品をもってくるもので馬借、車借、廻船も行商を担当するようにもな てんびんばう 一三世紀 ) 、商人は都市に定住するようになる。 あるが、座商は、消費者が商品を買いに座商人った。天秤棒は近距離に使われた。 一七世紀の近世になると、商品の流通機構西洋の中世都市は、市場での売買を制度化し の所へ行かなくてはならない。歴史的には、行 た。毎週定期的に開かれる週市と毎年定期的に 商に続いて座商が生まれたとすべきである。そは、問屋ー仲買ー小売りといったものに整備さ いちあきないみせあきない の座商には市商と店商とがあるが、前者がれて、振り売りや近距離の行商は別として、遠開かれる歳市 ( 大市 ) の二つである。週市はお 後者より早く始まった。記録では、古代の六世距離のものはもはや主流ではなくなった。そのもに、都市住民と周辺農村の住民の間の取引 紀に行商と市商の事実がみられるし、店商は古なかで近江商人と富山売薬商人などは代表的なを、都市城門内の特定地域での市場に限定する はちまんひの ことをねらった。それは周辺の住民がかってに 代末期の一二世紀からである。しかも行商には行商である。近江商人は近江の八幡、日野、五 どさん かのしよう 二つの形態があった。一つは直接に消費者のも箇庄出身の商人で、土産の商品を持ち回り、取引することを許さず、都市市場への強制、そ 地方の産物を全国的に交流させたもので、一五れ以外での商売を禁制した。歳市は、地方やそ とへ行って商品を販売するものと、もう一つは 世紀の足子商人集団が前身とされる。一八世紀の範囲を越えた、国家的、国際的な商業の結節 各地に成立した市を回るものである。 でみせ ひさぎびとひさぎめ 古代から中世にかけての販夫・販女もいわの近世中期では行商より出店のほうに重点を置点であり、歳市の間では卸売商人が大いに活躍 くようになり、三都をはじめ主要都市、北海道したが、これを行商人とみなすわけには、か ば行商であった。自他の採集品や生産品を販売 おおはら おはらめ 。中小都市の間を往来した雑貨商がやや行商 するのであるが、大原女などは京の郊外の大原松前や九州などにも定着するようになり、商業 たきぎ おうみ だけでなく、手工業・漁業・金融業にも手を広 に近い存在であった。全体としてこの時期は行 から京の町へ薪を売りにき、近江 ( 滋賀県 ) か げる者が出てきた。富山の売薬行商人は一八世商の余地はなかったのである。中世後期には、 ら魚を京へ売りにくる女性もあった。一二世紀 あし・一
つめ停刊された。八〇年中国科学技術史学会が創立され、翌年猿人、原人、旧人、新人の四つの進化の段階があり、放射能業と交換の拡大から、原始共同体のなかに私有財産と階級が ゅ - から会誌『自然科学史研究』が発行され、大学のテキストもを利用して行う年代測定法によって、それそれの段階の化石発生する。ただし牧畜は日本にはなく、縄文文化が新石器時 やきん じ出版されている。研究は古代の冶金技術が多いが、近代化路と石器の出現の時期が正確に判明するようになった。その結代にあたる。 果、直立歩行と道具の創造が人類への進化に決定的役割を演〔鉄器と科学〕原始共同体から奴隷制への移行は、オリエン キ、線とともに近代、現代の研究が増加している。 〔日本の技術史〕明治初期、福沢諭吉に代表される啓蒙的文じたという説がしだいに認められている。つまり人間の祖先ト、インド、中国、日本、ギリシア、ローマなどの古代社会 ときふゅ においてなされ、この時代に石器から金属器への移行が最終 明史の時代ののち、横井時冬『日本工業史』 ( 天九七 ) に始まの出現は数十万年ないし数百万年前、自由になった手で最初 的に行われた。この時代の最大の技術的成果は鉄の製錬法の り、日本工学会編『明治工業史』 ( 一九三一 ) に至る民間史学者の道具をつくりだしたときにさかのばる。換一言すれば、人間 による工業史の独立と個別工学者の協力の時代があった。本は動物と異なり、自らの有機的な身体器官だけでなく、自然習得である。金属の新しい加工法が開拓され、紡織、製陶そ 格的に技術史が論じられたのは、一九三〇年代の技術論論争の物材を改造した非有機的生産器官を使用し、労働生産性をの他の手工業が確立されていく。手工業と商業の発達につれ ののち、前記のダニレフスキーの邦訳 ( 『近代技術史』一九発展させ、その合目的的活動を拡大する。道具は合目的的活て都市が形成され、都市と農村との対立が生まれ始める。都 三七 ) が刊行されてからであり、岡邦雄は、技術史が労働手段動としての人間労働を質的に規定し、その発達水準を示す客市の形成により、宮殿、寺院、城壁などの建築技術が発達 し、建築材料に対する需要の増大から鉱山業が発達する。ま 体系の発達史であり、技術学史は自然科学史の一部門である観的存在である。技術を客観的存在とする技術論の根拠はこ こにある。 た奴隷の獲得をおもな目的とする戦争のために軍事技術が急 と唱えた。 自然科学史とともに技術史を研究する唯一の学会「日本科〔技術学の起源〕人間は自然の対象に直接働きかけるのでは速に発達した。しかし、社会の基礎的な生産は奴隷が担って いたので、奴隷所有者は奴隷の重労働を軽減する道具の改良 なく、客観的物材である道具という労働手段を介して働きか 学史学会」が一九四一年 ( 昭和一六 ) に創立され、同学会編 には関心をもたす、一方、奴隷は自分の利益にならない労働 『科学革命』 ( 一九六 l) 、『日本科学技術史大系』全二五巻 ( 一九六四ける。このことは、労働対象と労働手段との間、両者間の関 +ll) が刊行され、会誌『科学史研究』が季刊で発行されて連を客観的に認識することを可能にする。労働のなかで最初生産性の向上には関心を払わなかった。ただ大型の重量物の いる。技術ないし技術学を自然科学の一部に置くことは国際 に生まれるのは感性的な認識の成果として得られる経験的な移動を必要とする建設作業では、多数の奴隷の力を単純に結 的にも異論があるが、技術を対象とする技術科学は明らかに知識である。その知識はさらに労働によって鍛えられて確実合するだけではすまなくなり、出力の小さい人間原動機と移 自然科学の一部門であり、科学・技術の発展の内的要因と外なものとなっていく。石器を目的に応じて使い分けているう動させる重量物との間の伝動機構を必要とし、てこ、斜面、 くび 的要因とを統一した総合的な科学史の建設は、この学会に結ちに、労働手段と労働対象との相互の関連、両者の結合に関楔、ねじ、滑車などの組合せの使用が生まれた。 これらの要素の連動が理論的に解明され、アルキメデスに 集してきた研究者共通の課題である。科学史から技術史を切する原始的な技術学の認識が生まれてきた。原始石器から打 製石器への移行、火の使用法を習得するにつれて、簡単な分よって固体の静力学が基礎づけられ、ウイトルウイウスとへ り離すことは相互の領域を非科学的にするおそれを招くとい ロンによって機械学の概念が生み出された。石器時代までは わざるをえない 化した労働用具が使われた。弓と矢は、そのなかで最初のも こすぎなかった労働手段への認識が初めて普遍 個別的な知識し っとも複雑な道具である。 技術の歴史 弓矢の出現によって狩猟が基本的な生産部門の一つとなっ的な知識として体系化・理論化されることとなった。機械学 た時代に、もう一つの重要な発明は粘土の土器の焼成であの概念は近代の技術学、さらに技術科学への発展の道を開く 〔技術の起源〕すべての起源は本質を研究するうえにもっと る。狩猟の発達は野獣の家畜化と原始的な牧畜の発生を促ものである。力学、機械学のほかに、農業生産の要求に応じ も重要である。技術が労働手段と関係があるとするならば、 し、その結果、母系氏族共同体は崩れ始め、父権制家族が発て、天文学、数学などの自然科学が誕生したが、肉体労働と 技術は労働の起源にさかのばってその起源を探らなければな らない。そこで想起されるのは、人間を「道具をつくる動生し、原始的な農業が形成され始めた。その時代は新人の出精神労働との分離が始まり、両者の間に対立が生まれる。 物」と定義し、労働価値説の先駆者となったフランクリンで現する後期旧石器時代である。この時代の最大の発明は、弓〔道具の専門化〕封建制下での基本的な生産関係は、封建領 あな 主による生産手段の私的所有と生産労働者である農奴の不完 ある。この労働価値説は、スミス、マルクスの経済学に受けの弾力を利用して往復運動を回転運動に変えて孔をあけるド リルであり、発火のための道具をつくるのにも利用された。全私有であった。自分の経営を保有する農奴は労働の生産性 継がれ、人類の起源については、一八七六年エンゲルスが発 おの せんこう 漢字の「エ」は、穿孔して柄をつけた斧が字源である。石材向上、したがって労働用具の改良に関心をもっていた。これ 表した論文「サルが人間になるにあたっての労働の役割」が は奴隷制度に比べて大きな前進であった。手工業は同業組合 は石製の道具ばかりでなく、住居や社会的構造物の建造にも 現れた。エンゲルスによれば、直立歩行によって手は自由と に組織され、親方、職人、徒弟制度の主従関係が生まれる。 必要となり、地下から計画的に石を採掘する過程で、自然銅 なり、手の自由は自然支配を可能にした。手が労働を生み、 労働は人間の社会的協力を必要とした。この社会的な労働のを発見し、加工しているうちに、製陶用の炉を使って金属をここから鉄の犂と織機が普及し、家畜による農耕、野菜の栽 せきふ なかから一一一一〔語が発生し、脳髄とそれに奉仕する感覚器官が進製錬する方法を知った。磨製石斧を使う新石器時代に、一部培、水車による製粉、ぶどう酒の醸造などが発達した。中国 化し、意識や抽象化力、推理力が発達し、これがさらに労働の種族は採集生活から農耕生活へ、狩猟生活から牧畜生活へ起源の火薬、紙、印刷術、羅針盤が広く使われるようになる 移り、農業生産力の発展に伴って、性と年齢による自然的分が、道具の多くは手動で、その発達は緩慢であった。 と一一 = ロ語とに反作用して発達を促進したという仮説である。 今日の先史人類学の考古学的実証研究によれば、人類には業から、牧畜、農業、手工業の社会的分業が現れ、社会的分封建制度のもとでは、原動機としての水車とさまざまな伝 けいもう すき 478
きいとあ 生糸 / 世界の生糸生産量 ( 単位 : t) 1970 1980 1975 1938 年 1960 10 998 15 014 35 400 中国 ( 1 ) 7 920 4 853 20 515 20 169 17 775 日本 43 152 18 048 3 000 4 000 3 454 ソ連 2 358 1 900 大韓民国 3 024 3 422 4 260 470 朝鮮民主主義 1 824 ( 2 ) 2 700 2 100 人民共和国 1 632 2 256 2 376 2 625 1 154 691 31 370 33 800 42 000 49 389 66 511 世界計 3 ) 56 457 注 : ( 1 ) は台湾を含む。 ( 2 ) は旧朝鮮。 ( 3 ) はその他を含む計。 1938 ~ 1981 年は FAO 「生産年鑑第 1982 ~ 1984 年は蚕糸砂糖類価格安定事業団推定による 日本の生糸生産量 , 輸出・輸入量の推移 ( 単位 : t) 5 万 生産量 輸出量 輸入量 1983 1 982 1981 1984 37 000 23 580 23 880 15 500 10 800 12 456 12 990 4 000 3 546 3 738 3 810 1 830 第 3 800 1 842 1 944 600 2 850 690 600 6 042 2 800 5 598 5 197 68 270 51 300 51 768 50 634 1965 7 230 19 104 2 832 852 42 768 42 619 28 646 19896 20515 21 877 1 1 904 17 621 18 936 5 225 10 481 1 7 775 生糸 ( 27 デニール ) 電子顕徼鏡写真 ( 撮影 倍率 x 1000) 生糸は家蚕の繭糸を数本抱き合わせて 1 本の 糸としたものである。繭糸は近似三角形の断 80 82 84 面をもつ 2 本のフィブロイン繊維をセリシン が包んでいる。生糸段階でセリシンを精練し わ 0 ぎぬ たものを練絹とよぶ 5 921 74 5 677 2 429 4 647 8 908 3 458 915 1 360 61 ( 1944 ) ーー 2 779 0 . 06 70 74 の葉を食べて、卵・幼虫・蛹・成虫の変態を繰沢がなく、粗硬である。そのため、せつけん液 などで精練し、これを除去すると、フィ・フロイ り返し成長する。幼虫の間、四回の休眠 ( 脱 ンが残り、絹独特の光沢と柔軟さが生まれるの 皮 ) を経て、繭をつくり蛹になるが、ここで熱 ねりいと よ・つさん で、練糸としてもつばら使用される。 気を当てて、蛹を殺す。↓カイコ↓養蚕 生糸は、二本の繊維を構成するフィ。フロイン 繭から生糸にする作業を製糸とよび、そのエ かんけん と称するタンパク質と、膠質としてフィブロイ 程は、乾繭 ( 繭を長期にわたって保存するた ンを含むセリシンというタンバク質とからな め、乾燥して繭中の蛹を殺す ) 、煮繭 ( 繭から 繭糸がよく解けるように繭を煮る ) 、繰糸 ( 繭る。フィ・フロイン、セリシンの生糸全体に対す 糸を数本引きそろえて糸にする ) からなり、不る比は、前者七〇 ~ 八〇 % 、後者二〇 ~ 三〇 % 良繭を除去後、繭糸を引きやすくするため熱湯で、そのほか、わずかに脂肪質、無機質、色素 中で煮繭し、目的に応じた糸の太さに従って繭を含んでいる。アルカリで処理するとセリシン ねりぎめ の個数を決め、糸口を集めて一本の生糸にすは除かれ、二本の練絹となるが、この工程を生 る。これを繰枠に巻き取ったのち、大枠に巻き糸の精練、あるいは単に「練り」とよんでい かせ そくそう る。繭糸の繊度は、二 ~ 四デニールで、一個の 返して綛に仕上げ束装する。 この束装は、輸出生糸の増加とともに統一さ繭から製糸される長さは、短いもので六〇〇 ~ 八〇〇、長いのは一二〇〇 ~ 一五〇〇の連 れてきたが、生糸市場においては、一綛約七〇 ひねりづくり の綛を捻造にし、三〇綛を一括りとして紙続繊維である。多数の繭を組み合わせ、繊度が - 一 4 わり 装したのち、内地向けには、約一八括を一梱そろった所定繊度の生糸を繰糸するのは、かな むしろ りの熟練を要する。生糸の繊度は、一四、二 ( 一〇貫Ⅱ三七・五キ。 ) として莚包みにする。 二八デニールのものが多いが、要求に応じ 輸出向けには、約二九括を一俵 ( 一六貫Ⅱ六〇一、 , 一んほう て、各種の太さのものがつくられる。 キ。 ) に洋装する。これが標準の梱包方法であっ 生糸の取引には、正量検査、品位検査を受け たが、現在では国内生産が減少して、輸入生糸 る。品位検査は、糸条斑、繊度斑、強伸度、抱 に依存しているために、過去のものを示した。 合状態、肉眼光沢、手ざわり、色相などについ 製糸は、初め釜などで繭を煮ながら枠に巻き 取る手挽き法によったが、巻き取りに歯車などて行う。生糸の抗張力は一デニール当りだいた 》こだ、り い三 ~ 四、伸びは二〇 % 前後、ヤング率毎平 を使った座繰機が江戸後期に現れ、明治初期に はイタリア・フランスから製糸機械が輸入さ方ミリメートル当り八〇〇 ~ 一二〇〇、・。グラム、 種るれ、官立富岡製糸場が設置されて、生産は家内比重一・三五、公定水分率は一一 % 。弾性に優 刀ロ れ、耐熱性が大きく、発火点以後の燃焼速度は 工業から工場生産へ移っていった。現在では、 表 いろいろな繊維のなかでとくに小さいことが注 能率的な多条繰糸機が一般的に用いられ、また 報 易糸質の均一化を図るため、自動繰糸機も一部で目されるが、高価で、紫外線に弱いのが欠点で ある。その反面、水中に置いたとき、低温時で 本使われている。 わが国における明治以後の生糸生産は、殖産も性質があまり変わらないので、用途は広い。 正 省 絹織物の原糸として使用するのがもっとも多 興業政策による輸出産業として、東北地方から 大 いのは当然であるが、そのほかに絹靴下などの 中部地方にかけて、盛んに地場産業として育成 くみひも 入 されたが、外国の生糸市場における価格の変動編物や、組紐などの組物、琴糸や三味線糸などに 出 に、国内の製糸産業は影響を受けた。そのためも使われている。↓絹織物図。ト川〈角山幸洋〉 キ、いとあらためがいしゃ 一八七 購入繭価格の安定化、製糸工程の合理化、製糸生糸改会社 報 三年 ( 明治六 ) 政府が横浜生糸売込商、地方生 労働者の確保、等級別賃金の設定などの経営合 年 糸商人らを指導して結成させた同業者組織。こ 理化を進めることにより、生産原価の低廉化と 生糸価格の維持を図り、外国生糸に対抗するこれにより生産者ー地方商人ー売込商の流通ルー トの統一的編成が図られ、七三年の横浜生糸改 省 とにした。そのため第二次世界大戦前には、生 産糸生産高は世界一を誇ることになるが、これら会社の設立に次いで各地に改会社がつくられ た。しかし外国側はこれを貿易の自由を保障す 通 は主としてアメリカに輸出され、婦人用靴下に る通商条約に違反する「シルク・ギルド」とみ 物加工された。↓製糸業 8 治生 繰糸したままの繊維は、空気中で酸化されるなし、日本政府に抗議したため、規制を緩和せ 3 - 一うしつ 明 注 と表面が膠質 ( セリシン ) に包まれるため、光ざるをえす、七七年廃止された。〈海野福寿〉 3 1 900 81 83 一三 さなぎ
きぶつ にあたるアルタイ北西部、イルティシ川流域を ( 青帳ハン国 ) の三集団に分かれ、巨大な半独のカンアオイの種類が混生する場合でも、好適キフッ kibbutz イスラエルにおける農業 な食草はそのなかの一種にすぎないことが普通丑同体の一形態。全財産の集団所有、徹底した 与え、それ以西の地の征服を命じた。その次子立の所領を形成した。支配者のモンゴル人は初 バトウは太宗オゴタイの命で西征軍の主将とな封時の四つの千人隊だけであり、被支配民の大である。ある地域で好適な食草となっているカ韭同生活、子供の共同育成などを特色としてい り、父の遺志を継いでロシアを征服、東ヨーロ半はキプチャク、プルガルなどのトルコ系であンアオイが、ほかの産地では食草とならないケる。一九〇九年、東欧から移住してきたユダヤ せつけん ースもある。ウスパサイシンはヒメギフチョウ人によって最初のキブツが誕生し、シオニズム ったため、急速にトルコ化した。反面、モンゴ ッパを席巻した。帰途ジュチの諸子は新領土に とどまり、その結果、ポルガ川河口あたりのサル固有の制度、習慣を捨てることなく遊牧生活の食草であるが、場所によってはギフチョウが運動とマルクス主義と青年運動との結合として これを食草とする場合も知られている。母チョ展開されたキブッ連動によって発展した。一九 ライを中心に西方領に拠るバトウ系、イルティを堅持して、属領ルス ( ロシア ) に対しては租 八一年現在、その数は二五九、人口は一一万三 シ川、カザフスタンの東方領を抑える長兄ォル税を徴収するのみで満足した。バトウはオゴタウは食草の新芽裏面に数卵を並べて産み付け ふか ダの系統 ( 白帳ハン国 ) 、およびウラル川東方イ系と対立し、トウルイ家の憲宗モンケを擁立る。孵化した幼虫は若齢期に葉裏に固まって生七〇〇人で、イスラエル全人口の二・九 % とな の中央部に散居するシェイバンら諸子の系統して事実上の独立を得た。バトウの弟ベルケ以活するが、終齢が近づくと分散し単独生活に移っている。一つのキブツの構成員は六〇人から さな 降、イランのフラグ家との確執が続き、エジプる。晩春に蛹となり、翌春まで蛹 〈白水隆〉 の状態で過ごす。 トのマムルーク朝と結んだ。のちティームール とも争い、しだいに弱体化して一五〇一一年に滅岐阜提灯ぎ、ち、うちん岐阜手 ~ ' 、んだ。 〈杉山正明〉特産の提灯で、細い竹骨に薄い美 ギフチ = ウ〔岐阜蝶〕一 = 、。「、。を、 , 濃紙を張り、花鳥草木 0 彩色絵を、煢 ミ昆虫綱鱗翅目アゲハチョウ科に属するチ施した長卵形の提灯。お盆に仏前 ョウ。ギフチョウ属トミ。。は、既知種四 に供えたり、軒先に吊るしたりすどえ 種を含む東アジア特産の原始的なチ「ウで、そる提灯として広く用いられ、盆提【ド〕 灯ともいわれる。岐阜での提灯の のうちギフチョウは日本の特産種。本州のみに もりさだまんこう 一産し、北海道、四国、九州には分布しない。本製造は、『守貞漫稿』に「岐阜提 州では西は山〕県、北は太平洋岸では東京都西灯」の記載があり、江戸時代後期 ~ 「・翌。ら : 亠ロ . する。近似種ヒメギフチョウト . 、ミ ~ と本が、岐阜の特産として目だってき たのは明治時代中ごろからで、初 種は一般にすみ分けて生息し、その分布境界線 めは問屋が工場をもち、職人を雇 はルエドルフィア・ラインとよばれているが、 地域によっては両種の混生がみられ、現在までって製造が行われた。その後大正 あずみ の調査では長野県北安曇郡の一部、信越国境の時代なかばからは需要が増えるに まだらお 斑尾山、黒岩山、山形県川中流域に混生伴い、各製造工程の分業化が進み、 まきえ いためばりすり くちわ ロ輪屋、塗師、蒔絵師、板目彫師、刷 地がある。東京都、神奈川県、京阪神周辺では こみ 主として生息地の環境破壊によって多くの産地込師、張屋が独立した。それそれ問 で絶滅した。はねの開張五〇 ~ 五五ミリ程度で、屋の発注を受けて生産が行われて 〈小川直之〉 いる。 3 アゲハチョウ科としては小形。はねの地色は黄 色で、縦に黒の縞模様があり、後ろばねには赤岐阜縮緬ぎふちりめん岐阜市 だいだい せいらん はんもん この周辺で織り出される縮緬。一七二 色、橙色、青藍色の斑紋があり美しい 虫す 幼出 二年 ( 享保七 ) に、京都から技法 段だら模様からダンダラチョウの別名もある。 齢を 年一回の発生で、暖地では三月下旬から四月下が伝えられ、さらに一七七一年 ③臭 ( 明和八 ) には、紋縮緬の技法が 旬 ( 最盛期四月上旬ごろ ) 、分布の北限に近い たんご 地域 ( たとえば山形県 ) や標高の高い場所では伝えられた。丹後・長浜と並ん ②黄虫 橙成 四月下旬から五月下旬 ( 最盛期五月上旬ごろ ) で、縮緬の産地で、大垣藩の保護 虫めの 成たウ に出現し、その最盛期はその地域のサクラの開と奨励によって生産された。京都 のる印 ウ守チ花期にほば一致する。年に一度春だけにその姿に送られ友禅染に加工されるが、 ョをフ チ身ギを現す生物をスプリング・エフエメラル ( 春のその需要によって生産が左右され フらメ しずれの生産地も同様で はかない命 ) というが、チョウでは本種がそのるのは、、 ギかヒ ①敵④ 代表的なものである。幼虫の食草はカンアオイある。とくに玉糸による無地縮 類であるが、地域によって自生するカンアオイ緬、紋縮緬が知られているが、現 の種類が異なるため、必然的に場所により食草在は人絹縮緬の生産に移行してい 〈角山幸洋〉 の種類は相違する場合が多い。同一地域に複数る。 はりや キブッ〔左〕イスラエル北東部のギルボア山より 望むへフチバのキブッ 〔右〕リンゴの収穫作業にいそしむ人々 661