きようげ さるギ ~ とう さるむこ あらそい さんこんがた はなおり はなとりずもう いわはし 佐渡狐 * 第猿座頭朝猿聟替三大片 争花折花子 * 女鼻取相撲因 岩橋女 狂 = = ロ現行曲一覧 う 0 いす わ さんにんちょうじゃ きんにんぶ さんばんのはしら めすびと はらたてず うおぜっきよう うおぜっきよう 輪三人長者第三人夫第三本柱第 盗人腹不立 ( 不腹立 ) 張蛸第 う魚説経魚説法 ( ↓魚説経 ) 鶯 うちさた ドしゃ′、 じせんせき ド ) っま - い しどうほうがく びくさだ ひげやぐら びしやもん うしめすびと つくづくし * は別に本項目のあることを示す。 牛盗人雑歌争雑 ( ↓土筆 ) 内沙汰女し磁石 * 一一千石地蔵舞田止動方角 * ひ比毳貞 * 簸屑髭櫓 * 女毘沙門第 うる しびり しみず しゃてい じゅうき びしやもんれんが れんがびしやもん ひっくくり うりめすびと うつばざる 痿痢 ( 痺 ) ⑦清水 * ⑦舎弟雑重喜 毘沙門連歌第 ( ↓連歌毘沙門 ) 引括女引 流儀によって表記の違う曲は、大蔵流を基準 ( ↓右近左近 ) 靱猿 * 因瓜盗人 * 右流 しゅうろん ーしゅレトっ しんばい しきむこ ひとうま ひとうま ー ) ゅ - つくが・らか一 ひとうま として和泉流は括弧内に入れ ( 大蔵流山本東次 秀句傘因宗論 * 挂杖雹真奪⑦ 敷聟人馬因人を馬因 ( ↓人馬 ) 樋の 左止雑 すおうおとし す′一ろく えち一むこ えびすだいこく えびすびしやもん すえひろ すずきばうちょう す末広がり * 協素袍落 * ⑦双六舞鱸庖丁 酒 * 郎家と和泉流との表記が同じことがある ) 、大え越後聟夷大黒協夷毘沙門協 おちゃ すはじかみ すみめり ぶあく ) か′、か - み ふくべしん あかがり おおとうない おかだゅう 第酢薑 * 雑墨塗 * 因 ふ武悪 * 雑吹取女福の神 * 第福部の神協 蔵流内でも表記の異なる曲、たとえば『皸』とお大藤内替岡太夫右近左近 * 女御茶の せみ ふくろう ふくろやま おこがわら せつぶん せんじもの ふくべしん ふくべしんっとめいり 『皹』 . などは適当と考えられるほうをとった。 瓢の神出福部の神勤入替梟 * 梟山 * 田鬼瓦 * 因鬼の継子 ( 鬼継子 ) 鬼せ政頼節分 * 蝉舞煎物協 まる そらうで ふくろうふじまっ ふずもう おりかみむこ そうはち 流儀や家柄によって読みの違う曲、たとえば 伏⑩ ( ↓梟 ) 富士松 * ⑦附子 * 文相撲 * 丸伯ケ湎 * 女おひやし折紙聟そ惣八 * ( 宗八 ) 雑空腕 * たいこおい だいこくれんが だいはんにや ふせないきよう ふたりだいみよう , 6 たり・は - かま・ おんぎよくむこ たいしのてばこ 「朝比奈』の「あさひな」と「あさいな」など た太鼓負女大黒連歌協太子手鉾大般若 因無布施経 * 一一人大名 * 因一一人袴 * 音曲聟 かくれがさたからっち ふなわたしむこ ふわふな かきやまぶし たうえ たからかさ かいちゅうむ・一 かがみおとこ の違いも、適宜いすれかを選んで記した。 雹田植替宝の笠 ( ↓隠笠 ) 宝の槌 * 仏師船渡聟 * ( 舟渡聟 ) 聞舟船 か懐中聟鏡男女柿山伏 * 再蝸牛 * 再 たこ ふみこない ふみやまだち たけのこ たちばい かくしだめき かくれがさ 異名同曲の場合はそれそれを記し、和泉流の 協笋 ( 竹の子 ) 蛸舞太刀奪 * ⑦ ( 舟ふな ) ⑦文・ ~ 何 * ⑦文山立 * ( 文山賊 ) 雑 隠狸 * 隠笠第蚊相撲 * 因歌 ぶんぞう かなづじぞう たぬきのはらつづみ たるむこ せん ん 4 つお、り かなおか 文蔵 * ほうに↓印をつけ、大蔵流のどの曲と同じかを 狸腹鼓 * 樽聟第 仙雑勝栗第金岡 * 女金津雑金津地蔵 ちぎりき ちごゃぶ 第 ! っーしば」め・ はうじようのたね ほうちょうむこ かま・ば」・つ ちー、か . しま - ま・いり うちさた かなづ かにやまぶし かねね ち千切木 * 女竹生嶋詣 ( 竹生嶋参 ) 児流 ほ法師ケ女縛 * 謀生種庖丁聟 ( ↓金津 ) 蟹山伏 * 也鐘の音 * 鎌腹 * 示した。内沙汰女 ( ↓右近左近 ) とあれば、和 ちどり の ! っ第 : つがーし広 - ーんさん かわらたろう ちやさんばい ちゃっぱ ほわかわ かみなり かわかみ 泉流『内沙汰』は大蔵流『右近左近』と同曲。 鏑馬女千鳥 * 茶子味梅 * 女茶壺 * 雑 茫な頭骨皮出盆山雑 女神鳴 * ( 雷 ) 川上 * 朝河原太郎女 まくらものぐるい まつばやし まつやに まっ つうえん つきみぎとう つくしのおく つくづくし がんかりがわ がんだいみよう がんめすびと 曲名の下に、ほば小林責編「狂言現行曲目」 っ通円 * 舞月見座頭 * ①筑紫奥 * 第土筆第ま枕物狂 * 雑孫聟松囃子第松脂松 鴈雁金 ( 雁厂金 ) 第雁大名因 ( ↓鴈盗人 ) まりイ ~ とう まんじゅう つつささえ っとやまぶし つりぎつね つり洋」り ゆずりは がんつぶて がんぬすびと 筒竹筒第苞山伏⑩釣狐 * 雑釣針 * 女 楪第鞠座頭饅頭雑 ( 新修『能楽全書第五巻』所収・一九天・東京 鴈礫 ( 雁礫 ) 因鴈盗人因 みずきかず きかずぎ つるし みかずき みずかけむこ きかず、と - っ ばうほうがしらきつわづか 弦師替 み箕被 * 女水掛聟不見不聞 ( ↓不聞座 創元社 ) の分類に従い、左記の略号により類別 き不聞座頭菊の花 ( ↓茫々頭 ) 狐塚 * とうじんこだから とうじんずもう し J - つ , も・つ とうず おちゃみず ギ一ゅ・つ・は きよみずぎとう きつねづかこうたいり を示した。 と唐人子宝雑唐人相撲第 ( ↓唐相撲 ) 唐相 頭 ) 水汲出 ( ↓御茶の水 ) 狐塚小唄入牛馬第清水座頭 * とびこえ どぶ むねつぎ きろくだ きんとう、えもん きんや 木六駄 * ⑦金藤左衛門雑禁野因 撲 * 第野老舞とちはくれ飛越丼む胸突 第Ⅱ脇狂言因Ⅱ大名狂言Ⅱ太郎冠 くちま かっちり ども どんごんそう どんだろう めぢか くみ一びら くじぎいにん め目近第 く杭か人か菌 * ( 茸 ) 再鬮罪人 * ロ真 礑 * 朝吃り女鈍根草鈍太郎 * 女 者狂一一 = ロⅡ聟狂一一 = ロ女Ⅱ女狂一一一一口第Ⅱ なきあま ななたあしらい 、もち・イ一け ながみつ なとりがわ くちまわむこ くびひき くもめすびと も餅酒第貰聟 * 聞 似 * 冠ロ真似聟首引 * 蜘盗人鞍な長光雑泣尼 * 長刀応答名取川 * 鬼狂一一 = ロ⑩Ⅱ山伏狂一一一一口出ⅱ出家狂言 なまぐさもの なりあが なりひらもち やくすい やせまっ やわたのまえ くりこのしんめい なべやつばち や八尾 * 薬水昔痩松女八幡前 鍋八撥 * 第腥物成上り * 業平餅 * Ⅱ座頭狂一一 = ロ舞Ⅱ舞狂言替Ⅱ替間狂 馬参り ( 鞍馬参 ) 鞍馬聟聞栗隈神明第 なるこ なるこやるこ ゅうぜん ゆきうち ゆみや ゆみやたろう くりやき . ゅ祐善舞雪打田弓矢第弓矢太郎雑 女鳴子 * 鳴子遣子雑縄綯 * 冠 ) 一一 = ロ電Ⅱ雑狂言 ( 集狂一一 = ロ ) 栗焼 * よろい こくじゅうはち にわとりむこ よわいち よびこえ よろいはらまき : おう けいみよう はロいりゆ、つ に仁王 * 「一九十八女若市鶏聟 よ横座雑米市 * 呼声鎧第鎧腹巻協 け鶏猫雑鶏泣 ( 鶏流 ) よろい めけがら めしへいろく あくたろう 亠のく「よ・つ こうじだわら こうやくねり ・めかねめ・ あくたがわ ( ↓鎧 ) こ柑子柑子俵膏薬煉 * 小傘雹腰ぬ抜殻 ( ぬけから ) 塗師女塗師平六女 あ皸 ( 胼 ) 芥川雑悪太郎 * 雑悪垪 めりつけ らくあみ あわせがき あわたぐち いのり こめすびと このみあらそい あさひな あそう ( ↓塗師 ) 塗附協 ら楽阿弥舞 祈 * 再子盗人菓争 ( 木実争 ) 昆 朝比奈 * 麻生第合柿粟田口 * 因 ねおんよく ねぎやまぶし れんがじっとく れんがめすびと れんがびしやもん ぶうり こぶがき いおりのうめ ね寝音曲 * 禰宜山伏 * 再 れ連歌十徳女連歌盗人 * 雑連歌毘沙門第 布売 * 雑昆布柿協 い庵梅 ( 庵の梅 ) 居杭 * ( 井杭 ) 石神女 はぎたいみよう ばくちじゅ・つお・つ 1 」・、トっ ろ・つむしゃ ろくじぞう ろくにんそう ろれん ざいほう ぎいほう 一け・つの . はは」′とっ いめやまぶし いましんめい い十 - ま・いい・ 一いほ - っ さ賽の目才宝第 ( ↓財宝 ) 財宝第酒講は萩大名 * 因博奕十王伯養馬ロ労皂ろ老武者六地蔵 * 緲六人僧雑呂蓮 * 田 因幡堂女犬山伏⑩今神明女今参因 しき さつまのかみ はちくれんが はちたたき わかな わかめ さこのさむろ・つ 一つか いるまがわ いろは ふくべしんっとめいり 八句連歌雑鉢叩替 ( ↓福部の神勤入 ) 花わ若菜雑一若和布出 式出左近三郎雑察化 ( 咲嘩 ) 薩摩守 * 伊文字 * 女入間川 * 因以呂波 ( 伊呂波 ) 雑 かみだいしようまえ ラスな演出を創案した。つまり狂言は、演出・演技において 摺足の運びは能と同じで、日常の姿勢や歩き方とは異なり、型化されている。さらに、笛座上や大小前などに座ってい 一 ) うけん せりふにも各文節の二字目の音を強めるのを基本とする独特るか、後見座に後ろ向きに片膝ついている場合には、劇の進写実と抽象とを巧みに融合し、簡潔で洗練された独自の様式 こまいうたい のイントネーションがある。小舞謡・小舞と称する歌舞か行の外におり舞台にはいないことを意味するなど、多くの約化と滑稽化に成功したといえよう。 〔謡・舞・囃子〕狂言のなかの歌謡的要素を総称して「狂一 = ロ ら稽古に入るのは、発声および姿勢・運歩という演技の基礎束に支えられている。 うたい 謡」または「狂言歌謡」という。狂言謡は、酒宴の余興、 しかし、狂一言は、能の影響と舞台の制約のなかで、演出・ をまず身につけ、せりふの美化としぐさの律動化を養うため いしゆく である。 演技を萎縮させてきただけではない。道行でも能では動きが歓喜や高潮した感情の表現、あるいは主人の機嫌直しゃ酔っ ごく少ないが、狂言は舞台を一巡し、泣く型でも能がただ手ての放歌など、筋の展開と結び付いて謡われることが多い 演劇としての構成は単純、素朴である。ほとんどの曲は、 しだい なのり のひらを目に近づけるだけであるのに対し、狂言は「エーエしかし、歌劇的形式に従って、能のように次第・一声、また 登場した人物の自己紹介である「名乗」で始まり、あとすぐ ーエー」と泣き声を伴って写実に近づけている。また擬音をキリなどに、叙述的内容を謡うこともある。こうして歌謡的 相手役を呼び出すか、場面を転換するために本舞台を一巡す みちゅき 要素を含む曲は本狂言の約五七 % に及び、登場人物自身の謡 る「道行」をして相手役と出会ってから本筋に入り、結末も必要とする場面も多いが、用具は使わず、戸をあけるときに のこぎり はたん は「サラ、サラサラサラ」、鋸で竹垣をひき切るときには うのが普通であるが、全体の一三 % の曲には主としてキリに 破綻のときには追い込み・叱り留・せりふ留・くしやみ留な ドどっ」い うたい たる 「ズカ、ズカズカ、ズッカリ」、檜から注ぐ酒がなくなるとき地謡が出る。 ど、和解のときにはシャギリ留・笑い留・謡留などの数種に しようさき しやくうたい には「ドプ、ドブドブドプ、ピショピショピショ」などと、 狂一一 = ロ謡は、小舞謡、特定狂一言謡、酌謡 ( 小謡とも ) に大 分類できる。また、名乗も大名などは本舞台の正先、他は 名乗座でし、対話もほば名乗座と脇座で行うというように類役者が演技しながら自ら擬声語を発するという大胆でユーモ別できる。①小舞謡は、かならず「小舞」とよばれる舞を伴 すりあし かっこ せき わき いし ~ み ひと め うおぜっぱう うたあらそい おこままこ か かギ , も、つ かぎゅう かたひぎ さどぎつね なわない にやくいち 第」まいうたい みずくみ もらいむこ ふきとり ま 1 」むこ はりだ・一 こうたい ひ ひっ は 834
。しかし、癌に対する早期診断法がかならずしも十分に確〔内視鏡検査〕近年は、内視鏡の進歩、普及によって臓器内 れら出血が癌の早期発見や早期診断の手掛りになることはい 立されていないのが現況である。これは、癌の症状の多くがを直接見て診断したり、さらには内視鏡を通じて、病変部位 , つまでもない 〔疼痛〕一般に初期の癌では痛みを伴わないが、進行した状早期に出現しないということともかかわ 0 ている。つまり、の細胞診を行 0 たり、一部を生検して組織診を行うことによ と、つつう って病理学的な確定診断を下すことが可能となった。なお、 初期の癌においては、自覚症状のまったく欠如する期間がか 態、すなわち浸潤、転移が甚だしくなると疼痛が生じてく る。この痛みは、腫瘍の増大による神経の圧迫、浸潤、あるなり長く、また、その期間がどれくらい続くかは臟器によっ生検とは、病因を確定するために生体から組織の一部を採取 し、検査する方法をいう。 いは骨転移による骨膜への浸潤などによるものである。たとて多少は異なるということである。 ざこっ 胃の内視鏡診断は、胃カメラあるいは胃ファイバースコー たとえば、胃癌では十数か月の期間にわたって自覚症状の えば直腸癌では、癌が坐骨神経に浸潤した場合、あるいは骨 かんおう ない状態があると考えられているし、たとえ軽度な症状があプによって行われる。その結果として得られた診断 ( 陥凹性 に転移した場合に激しい痛みが生ずる。 〔やせ〕癌の末期では、悪液質によって体重が著しく減少っても見過ごされたり、他疾患と誤認され、放置されてしま病変、隆起性病変 ) については、病理学的所見と内視鏡像の たんのうすいぞう うこともありうる。また、肝臟、胆嚢、膵臓、食道、および対比診断の考察とがほば同一であることが立証されている。 し、出血、消化管の狭窄などが加わるため、栄養の低下をき さらに、確定診断のための生検の方法も細小型のファイバー たして急激にやせてくる。このような症状が出てきた場合、肺では、患者が自覚症状を発見して、すぐに医師を訪問した り、集団検診の指摘によって、すぐに医師の精査を受けてスコープを使って行えるようになった。肺癌診断のための気 多くは死期が近いものと考えられる。 も、ときには手遅れになることがある。しかし、他の臓器の管支鏡も、ファイバースコープの開発によって著しい進歩を これまで述べてきた癌の症状がすこしでも出現した場合に は、癌がかなり進行している段階であることが多く、手術な癌の場合は、比較的容易に診断、発見されることが多いの遂げている。太い気管支に癌が発生する肺門部肺癌は、その どの治療を行っても手遅れになる場合が少なくない。いいかで、高発年齢 ( いわゆる癌年齢 ) になったり、症状に不安が早期癌ですら内視鏡に基づく所見によって診断することがで きるとともに、その病変部を生検して、より確実に診断する えれば、治療の対象となる、あるいは治療の期待値の高い早あれば、早めに集団検診、あるいは精密検査を受けることが ことも可能となっている。さらに、こうした質的診断に加え 期癌の多くは無症状であるといえるわけである。日本でいちたいせつである。 診断の方法としては、 x 線、内視鏡などを用いる形態的なて、病巣の局圧部位、広がり、深達度までも検査することが ばん多い胃癌の場合でも、癌症状が出現したときは早期とは まっしよう まっしよう いえないことが多い。また、肺癌のうちの肺野末梢部早期診断と、細胞、組織などを採取して行う病理的な確定診断とできる。また、内視鏡的に可視できない肺野末梢部の早期 せき 肺癌は、ファイバースコープを用いて、 >< 線テレビ透視のも 肺癌では自覚症状を呈することはほとんどなく、咳、痰、血があるが、これらは臟器によって方法論が異なってくる。 らせん 痰などの症状を呈する段階では進行癌となっていることが多〔線検査〕胃、肺などの内臓の癌の診断に多用される検査とにキューレット ( 螺旋状のワイヤーの先端に耳かきの先端 すいそう 、し、肝臟癌、膵臓癌などの上腹部の癌の場合も、早期癌段法である。胃では >< 線テレビ透視下にバリウム ( 造影剤 ) をのような鋭匙がついたもの ) 、プラシ ( ワイヤーの先端に小 階ではほとんど症状を示さない。それゆえ、早期診断法の開飲用し、胃内壁の粘膜ひだにわずかに薄く造影剤をなすりつ型のプラシがついたもの ) などを病巣に挿入して確定診断す けるように付着させて x 線写真を撮影する、いわゆる二重造ることが可能である。大腸ファイバースコープも線テレビ 発が待たれるわけである。 しかし、直腸癌、子宮頸癌の場合は、わずかな出血が早期影法が行われている。この方法によって、きわめて早期の胃透視下で盲腸部まで挿入することができ、生検によって大腸 まう・ : っ 発見の決め手となることが多いし、肺門部早期肺癌の約半数癌にみられる微細な病変も克明に描写されるようになった。癌の診断が下せる。垪胱鏡も膀胱内の腫瘤のみならす、尿 は血痰によって発見されている。このほか、症状が出てから大腸では注腸法という方法がとられる。これは、造影剤と空道、尿管の診断もできうる。婦人科領域の癌では、腟鏡をは ふくくう でも早期発見としてとらえられるものに、喉頭癌、舌癌、皮気を直腸から注入し、胃と同じように腸の粘膜ひだに薄く造じめ、下部腹腔鏡によって、卵巣癌の診断をも行うことがで 影剤をなすりつけるようにして大腸癌の診断を行うものであきる。 膚癌などがある。喉頭癌の場合は、発生部位が喉頭という気 一せい 最近では、レーザー光線を内視鏡的に用いて癌病変を早期 道入口部の狭い部分にあるため、早期発見段階でも嗄声 ( 声る。肺癌では、通常、胸部 X 線写真を撮り、これによって異 がれ ) という症状が出現するため、比較的容易に発見され、常陰影が発見されれば、さらに断層写真でその病変の形態やに診断しようとする研究が進められている。これは、ヘモグ めいりよう ロビンからっくったへマトボルフィリン誘導体 ( ) が 治療成績もよい。舌癌、皮膚癌も、発生部位が表層であるた位置を明瞭にとらえ、肺癌であるかどうかの診断を行う。 また、近年は ( コンピュータ・トモグラフィ ) の導入に癌組織に特異的に集まるのを利用して、あらかじめこれを体 め、潰瘍などの症状で発見されることが多い しゆりゅう しゅよう 以上述べたように、一部の癌を除いて、癌を症状から発見よって、脳腫瘍や上腹部腫瘤では患者に苦痛を与えすに形内に注射し、特異なレーザー光線を照射してへマトボルフィ リン誘導体を蛍光させようとするものである。レーザー光線 態診断することができるようになった。さらに気管支造影 することは早期発見につながらないことがあるが、一般的に 癌の危険信号である初期症状を広く理解させることが試みら法、選択的血管造影法というのがある。これは、造影剤を気としてクリプトンレーザーを利用すると、気管支内の癌浸潤 管支または血管内に注入して種々の癌の局在、形態を診断す範囲にほば一致して蛍光を発することができると一部で報告 れている。 るものである。乳房、肝臟、膵臓などの形態診断には超音波されている。これを基礎として、蛍光を音に変換して病変部 早期診断 を探索する方法も開発されており、病変部位を肉眼視するこ 断層法が用いられ、非観血的に検査を行うことができる。 とのできない潜在癌の診断には、今後きわめて期待される方 こうした x 線を中心とした診断法は、あくまでも形態的な ん癌がいずれの臓器に発生するにしても、できるだけ早く、 法であろう。 カかっ確実に診断することが重要であることはいうまでもな診断であって、確定的な質的診断を行うことはできない。 - 一うとう
がんじん とうしようだいじ 鑑真がんじん ( 六翁ー七六三 ) 中国唐代の僧。 をもって寺とし、これを唐招提寺と称し、戒 年た影 一し行狂上を文 りつしゅう とうだいわじよう 日本の律宗の祖。過海大師、唐大和上などと律研鑽の道場として衆僧に開放する制をたて れ御 5 真さをれ央跡重 7 一な 7 ・一うそ じゅん ふさっ 鑑を上荒中奇 た。また官寺における布薩のための経済的裏づ る一蓋海 尊称される。揚州 ( 江蘇省 ) の人。俗姓は淳 ちまん なんざんりつ ば梁知高すしは船るす巻 于。揚州大雲寺の智満について出家、南山律のけを行うことと相まって、仏教の協同体意識を れのを像を々上難す遊絵 どうがん ばさつかい そうや よ堂と 備人左る散浮征 道岸によって菩薩戒を受け、その後、長安の実養い、いわゆる教団 ( 僧伽、サンガ ) が初めて け四て東 一講こ造準 かいわじよう くおかし い漆航 際寺で巨景を戒和上として具足戒を受けた。洛名実ともに確立するに至った。彼が将来したも よ - っ さんぞう てんせき 一いちょう 伝が近乾出を描に荷座筆 征、基の脱 , 太を 陽、長安に住すること五年、その間に三蔵を学ののうち、天台典籍はのちに最澄の天台宗開 ゅうさい おうぎし どうせん たいりよう しんせき 東忍寂。寺め上 の示う提 び、道宣の弟子融済、満意の門人大亮らに律創の基盤となり、王羲之父子の真蹟は書道の興 和倉し 子のい招の " る太流草に 学の教えを受け、また天台も兼学した。揚州 隆に多大の影響を与えた。ともに来朝した弟子 像弟真と唐海じ船省漂」螫も寺 ・ごっわい はっしんしたく 渡刀談の蘇はう烏と提 坐刀鑑オ に法進、思託などがあり、法進は戒壇院を継 帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、江准の けしゅ , せ良の荒と行江々が 3 招 字 化主と仰がれ、その名声はとどろいた。そのこ ぎ、思託は鑑真の伝記『大唐伝戒師僧名記大和 和宝てら奈 ~ こ僧一 ( 人真 2 唐 よう - スい 、かーレ画 - っ 吉〈釭平をつ宝日。行鑑〉 ろ七三三年 ( 天平五 ) に日本僧の栄叡、普照が上鑑真伝』 ( 略称『大和上伝』 ) 三巻を書いた まひとげん につと・つ 鑑① ( 夢を国②行同く③うに描奈 この書は現存しないが、これを略述した真人元 授戒伝律の師を求めて入唐していたが、七四二 おうみのみふね 年に二人が鑑真を訪れ、弟子のなかに日本に渡開 ( 淡海三船 ) の『東征伝』一巻が現存する。 って律を伝える人がいないか、募ってもらうよ鑑真の墓所は唐招提寺にあり、開山堂には国宝 〈石田瑞麿〉 う請うた。それが機縁となり、鑑真は弘法のたの鑑真像を安置する。 ふしやくしんみよう め不惜身命の思いに燃え、自ら弟子を率いて回安藤更生著『鑑真』 ( 一九六七・吉川弘文館 ) ▽ 石田瑞麿著『鑑真ーーその戒律思想』 ( 一九 来朝した。来朝まで五回も渡海に失敗し、ある 夭・大蔵出版 ) ときは同行の僧の密告や弟子の妨害によって末 レーレ・れけい かんしんき 0 地震計 然に終わり、あるときは海に乗り出してから風感震器 浪にもてあそばれて難破し、あるときは遠く海眼振計がんしんけい眼球の偏位や振動を電 嶇南島に流される労苦を味わい、一一一年の歳月を気的に記録する装置で、眼球運動計ともよばれ しようげん 要して来朝した。その間、栄叡や弟子祥彦のる。主として平衡機能検査 ( 前庭機能検査 ) およ 死に会い、自らも失明するに至っており、海びレム睡眠の研究に応用されるが、作業時の眼 路、陸上の旅で世を去ったもの三六人、望みを球運動記録に用いられることもある。眼球は前 放棄して彼のもとを去ったもの二百余人に及ん後方向に正負の電位差をもち、眼球の周りの皮 だ。しかし渡海の失敗が重なる間も、鑑真は各膚に誘導されているので、測定に際しては、眼球 きようげ 地で伝道教化に励んだ。鑑真の伝記には在唐中周囲の上下左右に直径〇・五 ~ 一・〇ミリメート の活動が総括されており、百数十遍の各種律典ルの電極を貼り付け、この電極で誘導された電 じつばう を講じ、寺舎を建立し、十方の衆僧を供養し、位を増幅、記録する。測定される電位は数十 いっさいきよう さらに、仏像をつくること無数、一切経を書ポルトと微弱なので、商用電源や筋電図などの 写すること三〇部、戒を授けること四万有余に雑音を除くために高域除去フィルターが使われ る。なお、平衡機能検査はめまいや平衡異常を 及んだ、と伝える。 さつま 七五三年 ( 天平勝宝五 ) 薩摩 ( 鹿児島県 ) 坊訴える患者の診断に用いられる。〈古川俊之〉 しようむ がんしんけい ( 七 0 九ー七会 ) 中国、唐 津に到着、翌年入京した。聖武上皇はその労を顔真卿 ろうやりん みことのり ねぎらい、詔して鑑真に授戒伝律の権限を委代中期の政治家、書家。琅邪臨沂 ( 山東省 ) の あざな 任し、自ら鑑真を戒師として東大寺大仏の前で人であるが、陜西長安に生まれる。字は清臣。 父は惟貞。北斉の顔之推五世の従孫にあたり、 登壇受戒した。また従来の僧も旧戒を捨てて受 戒し、ここに、かって日本で行われたことのな代々学者、能書家を輩出した名家の出である。 さんししちしよう し一〇人の僧による三師七証の受戒が成立し幼くして父を亡くしたが、伯父や兄から教えを かいだんいん た。翌年には戒壇院もっくられ、それまでの度受け、少壮より書をよくし、博学で辞章に巧み ちょう かいちょ、つ であった。七三四年 ( 開元二一 l) 二六歳で進士 牒にかわって戒牒を授ける制度が確立された。 ぎようぶしようしょ だいそう ほうぎよ に合格し、のち刑部尚書、吏部尚書、礼儀使 上皇崩御後の七五六年 ( 天平勝宝八 ) には大僧 などの高位に上った。玄宗皇帝の七五五年 ( 天 都に任じられたが、老齢のためその任を解か あんろくぎん だいわ れ、戒律の教導に専念することとなり、大和宝一四 ) 安禄山の反乱時には、平原太守として じよう 上の称が与えられた。七五九年 ( 天平宝字ただ一人義兵をあげ、唐朝のために気を吐い たいしたいし 三 ) 、かねて与えられていた新田部親王の旧宅た。その後、魯郡開国公を封ぜられ太子太師を のつ 7 、希″い じっ けんさん してし せんせい がんしすい
ぎじんほ ② ① 魏晋南北朝 / 王朝交替図 後漢 年 220 221 263 265 年 222 蜀 魏 呉 280 304 316 317 ③ 五胡十六国 東 2 386 420 宋 4 479 北魏 斉 502 てんろん は、右のほかに、その戸籍につけられている客られる。魏の文帝の『典論』はその先駆けをな ろうそう ぶきよく ( その後身は部曲 ) がいた。これは主人の全面している。魏晋南朝文学には老荘思想の影響が 朝朝的支配を受けたが、奴婢よりも上位にあって身あるが、それは自然美の発見、山水文学の発達 ちくりんしちけん 南分は良である。その農耕の収益を主人と分けるを促した。魏晋の竹林の七賢は老荘的な世界観 とうえんめい をもつものである。東晋 ~ 宋の陶淵明の詩、東 点は奴婢と違っている。 おうぎし 後漢のころから江南の開発が進んだが、それ晋の王羲之の書、東晋の顧愷之の絵画などは東 しようめいたいし は主として稲作田の量的増大による。華北では晋南朝の文学芸術を代表する。梁の昭明太子 しようとう もんぜん かんち 国朝 この時代に乾地農法 ( 華北独自の耐旱農業の技 ( 蕭統 ) の編した『文選』は後世長く愛読さ 術で、牛を使用する ) がほば完成した。当時のれ、日本の平安朝でも好んで読まれた。北朝で 華北農業は現存の最古の総合的農書、北魏の賈は旧来の中国文化を取り入れるのに努力が払わ しきようせんせいみんようじゅっ 思撰『斉民要術』にみえる。これは均田制れているが、とくに大きい発展はなかった。 を考慮に入れないで、大土地所有を頭に置いた 仏教は五胡十六国・東晋以降盛んとなった くまらじゅう ものである。 が、鳩摩羅什の仏典の漢訳はよく知られてい 商業は、南北朝のころになると主要都市ではる。仏教が盛んになるのに刺激されて、道教も - 一うけんし かなり盛んとなり、庶民で商人として富むもの教義や教団を整備した。北魏では寇謙之が仏教 も出ている。貴族、豪族で営利事業に手を出しの教義儀式を参考にして道教の制度を確立し、 たものも多かったし、寺院のなかには高利貸を梁でも陶弘景が出て道教教典の整理と体系化と 営むものもあった。北。 魏ては西域貿易が行わを行った。この時代の仏教は中国独自の仏教へ の成長、道教は唐時代の発展の、それぞれ基礎 れ、北斉ではソグド商人の活躍があった。 うんこうとんこうせつくっ 〔兵制・役制〕三国・西晋の国家の軍隊は、世固めをしている。現存の雲岡、敦煌の石窟の仏 襲的な職業軍人で、一般民衆とは戸籍が別の兵教芸術はとくに有名である。敦煌で発見された 戸の兵を中心とした。東晋・南朝では兵戸制は魏晋南北朝 ~ 隋・唐時代の多数の文献は、仏 衰え、庶民からの徴発兵、豪族の私兵、募集兵教、歴史などの研究に重要である。〈越智重明〉 が中心となった。北魏・東魏・北斉では北方民回宮川尚志著『六朝史研究政治・社会篇』 ( 一九五六・日本学術振興会 ) ▽宮崎市定著『九 族 ( 鮮卑族とそれに近い北方系民族 ) の軍事力 品官人法の研究科挙前史』 ( 一九五六・東洋史 に頼ったが、西魏では漢民族を中心として、一 で東を本ららで 研究会 ) ▽浜口重国著『秦漢隋唐史の研究』 般民衆とは別の兵士をつくる方向に進み、それ 本 北活のわ 模関生窟交っ真 上下 ( 一九六六・東京大学出版会 ) ▽越智重明 が北周に受け継がれ府兵制に発展した。 ようえき ぎつ が館峪の 5 をで 著『魏晋南朝の貴族制』 ( 一九全・研文出版 ) 脚宴のる 徭役の中心は基本的な軍役と地方的な役 ( 雑 る物嘉ど えき え博省なた第るのも ▽越智重明他著『岩波講座世界歴史 5 古 役の類 ) とである。兵戸がもつばら軍役を負担 伝英亠粛畜れい窟あでたて と大甘牧さ高で亭いえ 代 5 』 ( 一九七 0 ・岩波書店 ) ▽谷川道雄著『中 していたとき、一般民衆は主として地方的な役 見歌莫っ蘭書伝 のン部蚕発煌一 のをを 国中世社会と共同体』 ( 一九七六・国書刊行会 ) を負担し、東晋になって兵戸制が衰えかっ北来 はくせき 之ド内養が敦の省序風 擬人法ぎじんはう修辞法の一つ。強調した 愷ンの・墫徴→工が書民衆が白籍につけられて徭役を免除されると、 ・一つは〕い 顧日墓耕な像特「町之の り親近感・滑稽感を出したりする目的で、人間 漢農当薩の。冫羲之南人 ( 旧呉の地の人 ) 民衆が二つの役を負担し 朝 王羲 ん巻晋 , ざは菩仏 た。南朝になると軍役がしだいに募兵によって以外のものを人間めかして大げさに表現する技 す図ぎ魏りま勒ぎ魏は序に王 南」箴幅関あさ《弥北る ~ 亭集が まかなわれるようになり、そのため基本の徭役法。英語の personification に相当する。「花 史峪にる脚 , あ蘭詩 晋 女るか嘉え交でてたな が年間二〇日の歳役となり、雑役のほうがむし笑い、鳥歌う」「山は招く」「太陽がほほえみか 魏 ①あ②伝③尊せ④れは ける」などがその典型的な例である。「私がこ ろ大きい負担となった。 の世に生れたその時から、私と組んで二人三脚 北朝では三長制のもとで、全壮丁を対象に一 定人数を一グループとし、そのなかの一人に常をつづけて来た『死』という奴、たのんだわけ 時軍役を負担させるという丁兵制が設けられでもないのに四十八年間、黙って私と一緒に歩 そうば・つ いて来た死というもの、そいつの相貌が、この た。北方民族系軍戸が主として軍役を負担する ごろ ため、一般民衆は期日の短い丁兵の役と雑任頃何かしきりと気にかかる。どうも何だか、い おうふう ( 雑役と同質 ) とを負担したが、のち隋になるやに横風なつらをしているのだ。 / そんな飛ん でもない奴と、元来自分は道づれだったのだ、 と丁兵の役は年間二〇日の歳役となった。 きやっ ( 中略 ) 危うく彼奴の前に手を挙げかかったか、 〔文化〕この時代になると、文学に、儒教道徳 やす から独立し独自の領域を開こうとする動きがみどうやら切り抜けた。それ以来、くみし易しと 534 東魏西魏 535 550 557 北斉 北周麦梁陳 577 581 555 557 587 589 左月 たいかん
て訓練を行うのに対し、航空機では、特別なも内を毎秒八 ~ 二〇の速さで運搬される。管の くる例はよく知られている。また、渡りや回遊多いが、それとは別に、、 どの民族にも、高度の 8 のを除き、装備が複雑、広範囲な割に乗組員が太いものを使い、小包や小さな品物を運搬するをする動物が自分の生まれた場所や、元の繁殖価値発揮に連なり個性的・創造的で、多く時代 5 そ 少ないことや機数が多く、仕様が統一されてい ときにも利用される。 〈中山秀太郎〉地に戻ってくる場合には回帰性ということばも性を伴う文化があるとともに、集団的・類型的 使われる。たとえば、ツバメに限らず、渡り鳥 に一般化して長い世代にわたり持続し伝承され ることから、乗組員は機体の作業とは別に航空綺想曲きそうきよく 0 カプリッチオ 機メーカーやユーザーの訓練所で訓練を行い、 偽造罪ぎそうざい通貨、有価証券、文書、の多くは自分の前年の繁殖地または越冬地に戻る文化が認められる。ハンス・ナウマン Hans 工程の立会い、検査は専門の検査員が行ってい 章といった経済取引で用いられる技術的手段ってくる。アホウドリ類やミズナギドリ類など Naumann は、前者を表層文化、後者を基層文 る。 〈落合一夫〉の真正を害する罪。経済秩序に対する罪とか、 の海鳥、またアザラシ類やオットセイなどの海化と命名した。上層文化・下層文化の概念とは ぎそう鎌倉時代と江戸時代に朝廷に 公共の信用に対する罪ともよばれる。経済秩序獣類では、繁殖を終えると次の繁殖期までに海 いちおう区別され、後者が、身分・階級にかか 議奏 置かれたことのある役職。一一八五年 ( 文治の基幹をなす取引の安全の確保にとって、右記洋を何千キロも回遊して、繁殖地の小島へ帰ってわらす、日常的に営まれる伝承的・慣行的文化 よりとも くじようかわざね くぎよう 一 ) 、源頼朝が九条兼実ら一〇人の公卿を議奏のような物が真正、すなわち本物であるという くる。ただし、鳥の渡りや魚の回遊という現象として存在することに注目するのである。した ごしらかわ 公卿となすよう後白河院に要求して、設置させ公共の信用は不可欠の前提である。そこで、偽は、ミッパチや伝書バトの帰巣性とは、時間スがって今日、ある民族の基層文化は、伝承文 ケールや、その行動がもっ適応的意味が質的に 化、民俗文化、常民文化などといわれるものと たことに始まる。議奏は政務を合議し、院の専造罪は現行刑法上も厳しく処罰される。偽造罪 けんせい 〈萩原龍夫〉 断を牽制することを期待されたが、かならずし として、通貨偽造ノ罪、有価証券偽造ノ罪、文異なっている。 ほば一致する。 もその機能を果たさず、やがて消滅した。江一尸書偽造ノ罪、および印章偽造ノ罪の四種があ 帰巣の能力がなにに基づくものであるかは、 きそうほんのう動物にみられる帰 帰巣本能 としより 時代の議奏は、一六八六年 ( 貞享三 ) に年寄る。↓印章偽造罪↓通貨偽造罪↓有価証券偽まだよくわかっていない場合が多いが、ミッパ 巣性の、経験や学習によって説明できない生得 〈名和鉄郎〉チでは、、 衆、御側衆の名称が改められたもの。つねに天造罪↓文書偽造罪 しくつもの実験結果から、太陽の方位的な部分をさして用いられる生物学用語。しか しなの そうじようせんげ 皇に近侍し、奏上、宣下の事にあたった。天木畄日氏きそうじ信濃国 ( または美濃国 ) 木と体内に備わっている日周期の時間感覚であし、本能という用語の定義自体がもともとあい 皇の権威がにわかに復活した維新前夜には、政曽を発祥の地とする武士の一族。平安時代末、る、いわゆる体内時計によって巣の方向を正確まいなうえに、動物の帰巣行動は、ミッパチな やちゅう ほうげんへいじ ちゅうた 局の推移に重要な役割を果たした。〈山本博也〉保元・平治の乱に関係して「木曽中太・弥中 に見定めることができる。サケ・マス類では、 どの昆虫類も含めて、刷り込み imprinting や じしようじゅえい きそうえんこう蒼鉛 ( ビスマス ) 太」の名がみえるのが初見。治承・寿永の内乱 自分の生まれた河川の水のにおい ( 化学成分 ) 学習 learning などさまざまなレ・ヘルの要素的 輝蒼鉛鉱 よしなか の鉱石鉱物の一つ。酸性火成岩中の高温鉱脈鉱に際しては、源義賢の子義仲が木曽氏を称してを記憶しているためであるといわれる。また、 行動が複雑に組み合わされた行動型なので、帰 じよ・つらく 平氏打倒のため挙兵し、北陸道を経て上洛し渡り鳥たちは、昼間は太陽の位置、夜は星座を巣本能という用語は漠重に使われるべきであ し画りン一も ) 全性 〈山岸哲〉 た。しかし、源頼朝と対立し、一一八四年 ( 元頼りに体内時計で方向を修正しながら渡りを行る。↓帰巣性 完切 のりよりよしつね おうみ ほにゆうきてい うらしい。すでに渡りの経験をもっ成鳥ばかり 暦一 ) に頼朝の弟範頼・義経に攻められ、近江 木曽馬きそうま哺乳綱奇蹄目ウマ科の動 あわづ 向 国粟津 ( 滋賀県大津市 ) で討ち死にした。嫡子ではなくネ 、刀めて渡りを経験する幼鳥でさえ物。同科の一種ウマの一品種で、長野県の本曽 灰属灰方性 tTJ 2 よしたか ( トハ 2 《工 八ロ金鉛一撓 義高は人質として鎌倉にあったが、脱出を図り も、正確に繁殖地と越冬地との往復を行うこと谷周辺に六世紀ごろから生産された記録があ ~ 一・四、毛色は鹿毛が多 殺害され、義仲の嫡流は断絶した。室町時代中は、この能力が単に経験や学習によるものばかる。体高一・三 ′一うえい 期、義仲の後裔と伝える木曽氏が現れ、小戦国りではなく、生得的な基盤をもっ可能性が大き く、白徴 ( 白斑 ) のあるものはまれである。頭 鉛・組分系 くび 蒼名学成晶度重沢痕開の 大名として成長する。天文年間 ( 一五三一一 ~ 五五 ) 以 〈山岸哲〉はやや大きく、あごが発達し、頸は太く短い しんげん 輝学化副結硬比色光条劈そ きそうのしよう人妻の謙譲語。 体の幅は豊かで背腰は強、。 四肢はじようぶ 降、甲斐の武田信玄の信濃国侵攻に伴い、木曽箕箒の妾 よしやす 床、接触交代鉱床中などに産し、タングステ義康はしばしば戦いを交えた。しかし、一五五「ちり取り ( 箕 ) とほうき ( 箒 ) の下女」の意。 で、前肢は外向、後肢は X 状の姿勢が多く、ひ い・ゅ・つほっ ン、スズ、モリプデンの鉱物、自然蒼鉛などと五年 ( 弘治一 ) 降伏し、人質として娘を甲府に中国、漢の初代の皇帝高祖 ( 劉邦 ) が、まだづめも堅牢で、急坂の山道を歩くのに適する。 よしまさ いくの びせん りよおう 共存する。日本では、兵庫県生野鉱山、北海道送り、信玄の娘を子息義昌の妻に迎えた。信玄 若く微賤であったころ、彼の人相を占った呂翁 一九三二年 ( 昭和七 ) 当時は五一四四頭が飼育 し ながのばり とよとみ 手稲鉱山、山口県長登鉱山などに知られる。 の死後、織田、徳川、豊臣と信濃国支配者が変が、「季 ( 若者 ) が相に如くはなし。願わくば、 され、毎年約一〇〇〇頭生産された。用途は春 へきかい きゅうひ 自形は針状。低硬度、劈開などが特徴である。 遷するなかで、義昌はその所領の確保を図った季自愛せよ。臣に息女あり。願わくば、季が箕の農耕と冬の厩肥生産にあった。一八八七年 しゅば 分解して蒼鉛華 ( 蒼鉛の炭酸塩 ) になることが が、一五九〇年 ( 天正一八 ) 、徳川家康の関東箒の妾となさん」といって、娘を劉邦に与え ( 明治二〇 ) 以降、軍馬生産のため外国産種牡 しもうさあじと かんじよ ある。方鉛鉱とは直接隣接して産することはな移封に伴い、下総国阿知戸 ( 千葉県旭市網戸 ) た、と伝える『漢書』「高祖紀」の故事による馬と交配され、純粋のものは減少した。一九八 〈加藤昭〉 へ移封となった。一六〇一年 ( 慶長六 ) ごろ義もの。この娘が呂后で、二代皇帝恵帝の母であ三年 ( 昭和五八 ) 現在約九〇頭が保護育成さ よしとし 昌の子義利の代に至り、改易となった。そのる。 〈田所義行〉れ、体形、性質など木曽馬の特質は失われてい 気送管きそうかん air shooter 直径四 ~ ていはっ きそうぶんかある民族の文化の根 ない。またその数も増加しつつある。同年、天 八垰 ' メートルの管の中に空気を流し、その流れ後、義利は京都で剃髪し、宗屋と号して諸国を基層文化 によって書類などを送る装置。ェアシューター 漂泊したが、一六三九年 ( 寛永一六 ) 伊予国松底にあってその文化の存立を支えている部分を然記念物に指定された。図ウマ ^ 加納康彦〉 ともいう。事務所などで書類を送るのに人手に山 ( 愛媛県松山市 ) で病死した。〈郷道哲章〉 いう。土壌の分析における表土に対する底層、木畄日御嶽きそおんたけ長野・岐阜県境にあ おんたけさん よらず機械的に送る一つの方法。部屋の中に配 帰巣性きそうせい動物が自分のすみ場所や道路舗装における表層と区別される基盤的な層る活火山、御嶽山の通称名。↓御嶽山 きそかいどう木曽路ともいう。広 管し、管の片方から三 ~ 四気圧の圧縮空気を送巣場所から遠く離れた場合、ふたたびそこへ戻を基層とよぶことがあり、文化の構造にも似た木曽街道 なかせんど、つ ことがあると考える立場から出たことば。表層義には中山道の別称。狭義には中山道のうち、 り込むか、あるいは他端から空気を抜いて管内ってくる性質あるいは能力をいう。ミッパチが まごめ えさば の圧力を〇・三 ~ 〇・五気圧に下げることによ遠くの餌場から自分の巣へ正確に戻ってきた文化に対置する。社会の階級や身分には、上長野県西部の鳥居峠付近から馬籠峠までの間。 きゅうしゃ にえかわ って、伝票類を入れたキャリア ( 気送子 ) は管り、伝書バトが何百キ。も飛んで鳩舎へ戻って層・下層があり、文化もそれに結び付くことが贄川から馬籠宿まで一一宿。↓木曽路 た よしかた てんぶん あさひ けんろう はど、はーれ じ
かんちょ かねなかきようき かんちゅうき『兼仲卿記』ともいう。近く、亜熱帯気候に属し高温多湿である。沖積 中心都市である。北を秦嶺山脈でくぎられ、こ 関中かんちゅう / コワンチョン中国、陜西省勘仲記 ちゅうな′」人かでの , 」うじ の地域は自然のうえでは南方に属するが、北方中央部をさす歴史的地名。元来、戦国時代に秦中納言勘解由小路 ( 藤原 ) 兼仲 ( 一 = 四四ー一三 00 平野には土壌もよく発達し、豊富な農産物を産 かんこくかん れいほう しせん の河平原、陜西と南方の四川、湖北を結ぶルの設けた函谷関 ( 現河南省霊宝県の北東、黄河の日記。日記名は、家名と記主名から一字すつ出する。行政上は漢中地区に属し、中心都市漢 よう じよう・一 ートにあるため、戦略上きわめて重要な地域が峡谷をなす所にあった ) より西部をいう。陜とって後人が名づけたもの。日記の範囲は一二中のほか、東部に洋県、城固県、西に勉県があ しんれい ^ 秋山元秀〉 で、歴史的には南方に帰属する時代と北方に帰西省北部や秦嶺山脈以南をも含んで用いられた六八年 ( 文永五 ) から一三〇〇年 ( 正安一 l) まる。↓漢中 かんしゅう こともあるが、一般には渭河平原一帯をさし、 でで、中間に散逸した部分も多い。兼仲は、朝カンチョウ 0 州 属する時代が交互し、独特の地域性を形成し ちょうせき ペんかんくろうど かんちょう IOW water 潮汐による た。春秋時代には蜀に属したが、戦国時代には関中平原ともいう。南北を台地や山地でくぎら廷の文書を取り扱う弁官や蔵人などを歴任して干潮 きようあし しん 海面の昇降で、高さが極大となった状態を満潮 いるため、当時の事件に関する記事を載せてい 秦と蜀に分属し、ついには全部が秦に帰した。れ、東西に狭隘の地をもっ地形は、自然の要 じ ・一うちょう もう′一 だいかくじ なんてい 害をなし、古代、中世を通じ、中国北部で軍事る。蒙古襲来、鎌倉将軍の廃立、大覚寺・持 ( または高潮 ) high water 、極小となった状 秦代に南鄭県と漢中郡を設け要害の地とした。 みよういん りゆ・つほ - っ 明院両統の対立などに関する記事は有名であ態を干潮 ( または低潮 ) という。通常は満潮と 秦末には劉邦がこの地を本拠地として漢王朝的、政治的にもっとも重要な地域の一つであっ ぎようしよう た。新石器時代から仰韶文化が栄え、秦が臧る。自筆本が東洋文庫に現存する。『史料大成』干潮とがそれぞれ一日二回生じるが、場所によ を創設し、三国時代にはこの地をめぐって蜀と 魏が争ったのは有名である。その後も多くの歴陽を国都としてより、歴代の国都のある地域で所収。なお自筆本には紙背文書があり、『鎌倉っては一回または三回以上となることもある。 つわみつ 史的事件の舞台となった。一九四九年南鄭市をあったため、文化遺跡も非常に多い。黄土に覆遺文』に収められている。父の経光にも『民経一日二回の干潮で、その高さがかなり異なるこ ひょく とがある。低いほうの干潮を低低潮、高いほう 言けたが、五三年漢中市に改名し、南鄭県は別われた土地は肥沃で、古くから農業開発が進記』 ( 別名『経光卿記』 ) がある。〈益田宗〉 しおひがり かんがい に市の南に設けた。六四年県に戻されたが、八 かんちゅうすいえい寒中 ( 一月初の干潮を高低潮という。潮干狩は春から初夏に み、とくに渭河沖積地は灌漑水路も整備され、寒中水永 めの寒の入りから節分までの期間 ) に、川や海かけて、大潮の干潮を利用して行われる。↓満 小麦、綿花を中心とした一大生産地となってい 〇年ふたたび市となった。高温多湿な気候によ せいあん 〈岡田正実〉 り沖積平野では水稲が栽培されるほか、アプ一フる。西安市、咸陽市をはじめとした都市も発達で一定の形式のもと、平泳ぎの距離泳ぎを行っ潮 めきて ちゅうみつ ナ、果物などの農産物に恵まれる。南北両地域し、陜西省でもっとも人口稠密な地域でもあたり、抜手などの日本泳法や、道具を用いて曲官庁かんちょう国の意思の決定をなしこ 〈秋山元秀〉泳などを行う、主として心身の鍛練と水泳技術れを外部に表一小する権限を有する国家機関。機 からの物資集散地として商業が発達し、とくにる。 ー前六四五 ) 中国、春秋を示す目的の行事。発祥はさだかでないが、形能的観点からの分類から補助機関、諮問機関、 四川地方から移住してくる人口も多かった。市管仲かんちゅう ( ? かん - 一う きゅ、つ 内には漢代にゆかりのある遺跡が多く、劉邦が時代の斉の政治家。公子糾の臣下で、糾と桓公式を整えての寒中水泳はごく近代のことで、一参与機関、執行機関などと対比される。官庁に は独任制のものと合議制のものとがある。ま 般に水泳が盛んになった明治末期から、関東地 漢王になったときの宮廷の遺跡といわれる漢台 との公位争いで糾が敗れたため捕虜となった。 はうしゆくが などがある。 〈秋山元秀〉しかし、桓公の臣下の鮑叔牙の推薦で用いら方や関西地方を中心に行われたのが初めといわた、その担任する事務が司法事務か行政事務か によって司法官庁 ( 裁判所 ) と行政官庁 ( 内 れて宰相となった。以後、桓れている。近年、河川の汚染で、多くは海で行 閣、各省大臣、各庁の長、行政委員会、地方支 公を助けて富国強兵政策を進われている。 この行事には、身体機能に異常のない健康で分部局の長など ) に分かれる。国の機関たる行 め、とくに農業の振興策や、 泳力のある者ならだれでも参加できるが、主催政官庁と地方公共団体の機関とをあわせて行政 塩、魚などの海産物資源を利 て 用して商工業を振興させる政者はもちろん泳者も事故防止対策を十分行わな庁とよぶ。行政官庁は、その権限が組織法によ いる がえ策を推し進めた。対外政策でければならない。なお、泳者は、前年から寒冷って明確に限界づけられている。行政官庁は、 ウ与 は、強力な軍隊を背景とし、 に対する抵抗力を養うよう心がけたい。実行に内閣を頂点とするピラミッド型構造をなし、上 ゾを は福他国と会盟を結ぶことによっあたっては、準備運動を十分に行いつつ肌を気級官庁が下級官庁を監督し、全体として統一的 院て諸侯間で桓公の指導力を発温に慣らし、気力を充実させてゆく。いざ入水かっ有機的な事務の処理を可能にする仕組みが 揮させるようにした。とくにするときは、身体を徐々に浸し冷水に慣らしっとられている。官庁は、国の意思を決定しこれ ききゅう 紀元前六五一年の葵丘 ( 河南つ、静かに泳ぎ出すこと。泳ぐ時間は、その日を外部に表示する国家機関としての意味のほ しょ・つきゅう 神軽 か、広く国の役所という意味で用いることもあ の水温によるが、最長一〇分以内にとどめた 省商丘市の西 ) の会によっ 〈平田和一〉 、。水泳後は、ただちに身体の水をぬぐい、たる。 て、桓公を覇者にさせたが、 かんちょう医学的な目的で、管を肛 のン管仲の死後、桓公は内政、外き火その他で暖をとり、温かい飲食物 ( たとえ 浣腸 占兀ト もん 門から通して、直腸および結腸に薬液などを注 を交両面で指導力を喪失したと ばくず湯、汁粉など ) によって内外から体温の ラ頭 一でいわれる。管仲の思想は道徳回復を図り、さらに入浴をすれば、心身の平静入する方法。世界各地で古くから行われていた ワ鼻 〈堀内幸雄〉といわれるが、日本の医師が浣腸法を用いるよ より経済を重んじ、国民の生を取り戻すことができる。 スと かんちゅうばんち / ハンチョンペンティ うになったのは西洋医学が伝えられた江戸時代 ~ る活安定を第一義とする点に特漢中盆地 ようす - 一う 中国、陜西省南西部、揚子江の支流である後期からである。現在知られている浣腸は、催 ンを色があり、後の法家思想と通 くふう かんし カ捨 漢水の上流部に開けた盆地。東西八〇キ。、南北下 ( 排便 ) 浣腸、駆風浣腸、緩和浣腸、興奮浣 工喜するところがある。『管子』は しんれい その著書と伝えられるが、実一〇 ~ 一五キ。余り。北は三〇〇〇級の秦嶺山腸、鎮静浣腸、バリウム浣腸、滋養浣腸、保留 ム が 際は戦国時代以降の人の筆に脈で陜西省中部の渭河平原と隔てられ、南は一一浣腸である。 しせん チ ①催下 ( 排便 ) 浣腸便秘した糞便の排出、食 なる部分が多いと考えられて〇〇〇未満の米倉山、大巴山を隔てて四川省 ぶんべん ン カ に中毒の際の腸内容物の一掃と検査、手術や分娩四 いる。↓管子 ^ 太田幸男〉 と接する。気候的には南方の湖北省、四川省 しんれい 1 せんせい かん せんせい う みんけ ふんべん
⑦歴史時代とは、後氷期の約一万年間をさす。均気温は二 ~ 三度上昇するともいわれている。素の一部をつくりだし、これを操作できる装置ているものとを区別しようとする哲学者は多い ↓気候 この時代の気候を推定するには、樹木の年輪や 〈三上岳彦〉を備えた設備をいう。↓人工気候室〈柳下徳雄〉が、この区別の必要は指摘できても、意味その 4 きごうろん sem10t1CS Semiotik ものについての説明は十分にできずに苦しんで 記号論 一」花枌の分析、極地の氷河に含まれる酸素同位体回根本順吉・朝倉正著『気候と人間シリーズ 2 比 ( 一 6 第 0 ) の分析などのはかに、日記や古 気候変化・長期予報』 ( 一九〈 0 ・朝倉書店 ) ▽ 響 semiotique 冖ラ記号の理論をいう。記号 いる者が多い。そこでクワインのように、意味 文書の天候・災害記録が役にたつ。それによる 鈴木秀夫著『氷河時代』 ( 一九七五・講談社現代 についての議論は、きわめて古くから行われてという概念そのものを記号に関する論議から締 と、最終氷期以降の温暖化は約六〇〇〇年前に 新書 ) おり、たとえば古代ギリシアの哲学者の著作にめ出そうと提唱する哲学者も出てくる。とにか きこうへんどう気候変化とほば同も数多くみられる。また現代でも、哲学、論理 く、意味をめぐる問題は、哲学界で当分の間、 頂点に達し、その前後約三〇〇〇年間は気候最気候変動 良期とよばれている。平均気温は現在よりも一一じ意味で使われているが、気候の長期傾向や不学、言語学、人類学、行動学、心理学、生物 だれをも満足させるような解答は出そうもない 度 0 くらい高かったと推定される。その後は変連続的変化を除外する場合もある。気温などの学、コンビュータ理論などの、実にさまざまのものである。 動を繰り返しながらしだいに寒冷化している。平年値は一般に三〇年間の平均値で表されるか分野で記号についての議論が行われている。近 ③一言語学のほうから記号について論じようとす 過去約一〇〇〇年間をみると、八世紀から一三ら、気候変動とは三〇年程度の平均値に有意な ごろでは、「記号論」とよばれる一つの新分野る人は、世界観が記号体系によって変わってく 世紀にかけて、小気候最良期とよばれる温暖な変化が生じた場合をさすという考え方もある。 をたてようとする動きもあるが、この動きに参ることは十分認めながらも、記号によって表現 時期があり、続く一五世紀から一九世紀に至るしかし、平均値に変化がなくても、標準偏差で加している人たちのなかにも、さまざまな意見される世界とか感情とかいったものについて 約三〇〇年間はヨーロッパを中心に寒冷な気候代表されるような変動そのものの大きさ ( 変動があるようである。目下流行しているのは、言 。いちおう常識的な了解を前提にして話を進 が訪れ、小氷期とよばれた。 性 ) に著しい変化が生じた場合には、気候変動語学や文化人類学の術語を使う記号論のようでめることが多いようである。しかし、哲学的に 3 観測時代とは、一九世紀末以降の約一〇〇年がおこったと考えるべきである。たとえば、近あるが、この術語に対応する概念のなかには、 は、この常識的な了解そのものが検討の対象と ほかの分野で別のことばでいわれているものも 間をさすが、気象観測データを用いて詳細な気年問題となっている異常気象の多発傾向などは なる。記号を操る人間の存在は認めても、心の 候変化の様相を知ることができる。図に示し気候変動の一つの現れとみることができる。 多い。こういった無数の議論について概観する存在は否定し、行動主義的に記号現象を分析し たのは、一、 八一年以降一〇〇年間の北半球各 気候変動を引き起こす要因はさまざまであことは、限られた紙数ではとてもできないこと ようとする哲学もある。心身二元論と、唯物論 地の観測値をもとに作成した年平均気温の変化 いくつかの要因が重なっていることが多なので、ここでは記号をめぐるいくつかの哲学と、行動主義とのうちのどれが正しいかは、ま グラフである。小氷期以降の温暖化傾向が一九 。最近一〇〇年間の気候変動は、太陽活動の的問題をあげておくにとどめる。↓文化記号学 だ論争の主題の一つなのである。 四〇年ごろに頂点に達し、その後は寒冷化に転周期的な変動と、火山活動の不規則な変動、お 己号ということばは、特定の書物の特定のコ / ー、一三ロ ④心の存在を認める立場をとる人でも、記号か じたが、一九七〇年ごろからふたたび温暖化し よび一方的に増加を続ける大気中の二酸化炭素ピーの特定の箇所に印刷されている一つの文ら、これに対応しているはすの、心のなかの現 ていることが読み取れる。しかし、このような濃度の三要因が重なった結果であるともいわれ字、といった、特定の物体をさすのに使われる象を、一義的に決定できるかどうかについて 気候変化は世界中どこでも同じ位相で現れるわる。 〈三上岳彦〉こともあり、それと似た形をしている文字すべは、疑問に思う人もいる。事実、論理学での不 き - 一う けではない。一九五〇年代から七〇年代にかけ きこうようそ 0 気候 てをさすのに使われることもあり、そう、つこ しオ完全性定理やモデル論の成果を援用すれば、こ 気候要素 の決定は不可能であると考えるほうが妥当なよ て、一〇年平均気温の変化を北半球について調気候療去きこうりようほう日常住んでいる文字をみた人の心中に引き起こされるものと想 べてみると、図のように地域差の大きいこと土地の気候要素 ( 気温、湿度、降水量、日照時定されている心像をさすのに使われることもあうである。また、これは、心のなかの事柄に限 がわかる。 間など ) と異なる条件の土地へ転地して生活る。論理学においては、もっと抽象的に、集合らず、一般に、記号とその表現しているはすの 〔気候変化の原因〕自然的な要因と人間活動に し、その気候要素の差異を刺激として積極的に の元を記号と考え、たとえば実数をすべて記号内容との間の関係について成り立つ。また、こ 病気の治癒促進に役だてたり、治癒へのきっか として扱うこともある。このような、記号のさ の考え方を広げていくと、翻訳の不確定性にも よるものとに大別される。 けとして利用する療法をいう。このときの刺激まざまなレベルの違いを分類し、その間の関係突き当たる。このように、記号には、いわば宿 ①自然的な要因としては、①太陽活動の変化 に対する人体の反応は、主として自律神経系とを定めようとすると、個と普遍者との関係をめ命的な多義性が付きまとうにもかかわらず、一 ( 黒点数にみられる一一年の周期など ) 、②地球 ぐる、古来の普遍問題に巻き込まれる。この問 方では、記号とそれによって表現される事柄と 軌道要素の変化 ( 軌道の離心率、自転軸の傾内分泌系にみられる。 一般に、高山気候は気象因子の日中変動が大題は現在でも活発な論議の対象となっているもの関係についての議論を行うことに、十分な意 き、歳差運動が、それぞれ約一〇万年、約四万 味があるように思われる局面のあることも事実 年、約二万年の周期で変動する ) 、③地殻や地きく、四季による特有な変化もみられ、空気はのである。 ②「記号の意味」という表現は、日常なにけなである。そこで、この多義性と、表現が可能で 磁気の変化 ( 大陸移動、造山運動、地磁気の強希薄で乾燥し、紫外線が多いなど、刺激が強い しに使われることばである。しかし、開き直っあるように思われる事態との間にどう折り合い 弱など ) 、④火山活動の変化 ( 大規模な火山噴ため、病気の回復期に好適とされる。これに対 火で成層圏に注入された亜硫酸ガスが化学反応して海浜気候は、暖かで湿度が高く、気温などて「意味とは何か」と聞かれると、答えることをつけるかという問題が生する。一つの記号が を受けてエーロゾル〈煙霧質〉となり、太陽かの気象因子の変動は少なく、変化も緩徐であはけっしてたやすくはない。固有名詞的な記号同時に多数の世界の事物と関連しているのだと については、それが指示する対象であるとするする多世界説が哲学のほうで流行するのも、こ らの放射エネルギーを散乱させ地上の気温を下り、あらゆる病気の治療に適している。 げる ) などがあげられる。海水温や雪氷面積の なお、病気の体に悪影響を及ばす気候や環境答えがよく行われているが、それでは架空の人の問題と関連のあることである。 の土地から体によい土地へ転地することによっ物の名前には意味がなくなってしまう。また普 超越的なものを記号によって表現しようとす 変動も気候変化の引き金として重要である。 がいえん 人間活動による気候変化で最近注目されてい て治癒を促進させる転地療法も、気候療法と同通名詞的なものでは、その適用範囲 ( 外延 ) がることは昔から行われてきたことであるが、も しこの表現が本当に可能なら、超越者は超越者 るのが、大気中の二酸化炭素の増大による温室義に使われることがある。病気の治療や研究の同じ二つのことばが意味が違うとされることが 効果である。一一一世紀の中ごろには、現在の約目的で使われている人工気候室は、転地せずに多い。このような場合を説明するために、記号ではなくなる。この逆理をどう解決したらよい のか。これは古来、宗教ー哲学のほうで問題に 二倍に増大した二酸化炭素によって、地上の平気候療法が受けられるもので、人工的に気候要によって指示されるものと、記号の意味になっ
ふし 煮干し、調味干し、焼き干し、薫乾、節類など性 ) をみることを見仏ともいう。〈伊藤瑞叡〉は缶詰・油類・調味料も扱うようになり、現代乾布摩擦かんぶまさっ乾いたタオルなどで しやかむ にかっ かんぶつえ四月八日、釈迦牟尼仏のでは一般の食料品店化しているが、一方に古く皮膚表面をよくこすることによって、寒冷など がある。素干し、塩干しはアジ、イワシ、イカ灌仏△ K かんもく 〈遠藤一兀男〉 に対する強さを養おうとする民間療法の一つで など小形の魚に用いられ、煮干しは小イワシを降誕日を祝い、仏像を灌沐 ( 水を注ぎ洗い清めからの行商も行われている。 ぶっしようえこうたんえよくぶつ る ) する仏教の儀式。仏生会、降誕会、浴仏カンプトサウルス camptosaursZ8 ある。恒温動物である人間は、体温を一定に保 ゆでて干したもの、調味干しはイワシ、アジ、 はなまつり 一般には花祭とよんでいる。釈 0 きミ os ミ、中生代ジュラ紀後期から白亜っことが必要であり、そのために、さまざまな サンマなどのみりん干し、焼き干しはトビウ会ともいし 調節機構が備わっている。体熱の放散は、皮膚 紀前期にかけて、北アメリカやヨーロッパに、 オ、フグなど、薫乾はニシンなどに用いられ迦降誕のとき竜王が香水を注いだという伝説に かんぶつげ はなみどう た草食恐竜。分類学上は鳥盤目鳥脚亜目。全長表面より放射という形で多くなされているが、 る。節類は魚をゆでて、いぶし乾燥、かび付ちなみ、花御堂の中に誕生仏を安置し、灌仏偈 を唱えながら香湯または甘茶を注ぐ。誕生仏は約五 ~ 九で、普通は二本肢で歩いたが、必要とくに冷たい風に当たったときなどは、放熱を け、日光乾燥などの併用でつくられ、カツオ、 に応じ四本肢となることができた。四肢歩行の防ぐために、毛を立てたり、ふるえをおこさせ ウルメイワシ、サバなどがある。野菜、果物で右手で天を、左手で地をさした立像で、釈迦が てんじようてんげゆいがどくそん たり、体表面に近い皮膚血管を収縮させたりす は、なまのまま干したものはシイタケ、かんび降誕した際に「天上天下唯我独尊」と宣告し姿勢がしばしばとられたと考えられる理由の一 だいたい たという相を表している。仏誕の灌沐は、釈迦つは、大腿骨が前方に突出して曲がっているこることで、体温の低下を自然に抑制する反射機 よう、干葉、ダイコン、イチジク、アンズな きようけ はっそう ど、ゆで干しではサツマイモなどがある。この 八相 ( 釈迦が教化のため一生の間に示した八種とで、語源もギリシア語の「曲がったトカゲ」構が働くが、これらの命令は視床下部から出さ に由来する。この大腿骨の形は、他の鳥脚類でれている。乾布摩擦は、タオルなどで直接物理 ほか、いったん凍結したのち解凍し乾燥する凍の相 ) の一にあげられ、インドでも古い石刻な もち 的な刺激を皮膚に与えることにより、こうした り豆腐、凍りこんにやく、凍り餅、寒天などがどによって広く行われたことが伝えられておはまっすぐとなっていて異なる。歯がトカゲに く↓つは」し せいいき ある。海藻類はほとんどが素干しである。肉でり、また灌仏会もインド、西域で盛んに行われ似た点、嘴が角質の点、手と足のつくりなど反射がより速やかに行われるようにすることを と・つそう た。中国でも三国時代に行われており、唐・宋がイグアノドンと似る。歯が弱いのは水辺の植ねらったものである。寒い季節に皮膚を露出さ はいぶし肉、風乾肉がある。 物をとったことを意味するらしい。組立て骨格せて乾布摩擦をするということは、単に反射機 人工乾燥にはいろいろの方法がとられる。風代に盛んとなった。日本では推古朝 ( 五九一一 ~ 乾では熱風と涼風とがあり、涼風のほうが品質六一一 0 から行われていたともいう。八四〇年は、日本では東京、上野の国立科学博物館や鹿構を強化するだけではなく、寒さに打ち勝って ぜん 〈小畠郁生〉ゆくという心理面での強化をも備えており、喘 ( 承和七 ) には宮中で灌仏会が行われ、のち一児島文化センターなどにある。 の変化が少ない。 息児の治療などにも利用されている。乾布摩擦 〔栄養〕乾物はビタミン類の消失がかなり大き般寺院へも普及した。 カンブハウセン Ludolf Camphausen みろくばさっとそってん なお、将来の世に弥勒菩薩が兜率天から下り ( 天 0 三ー九 0 ) プロイセンの実業家、政治家。一と同様なものに、タオルを冷たい水にぬらして 。しかし、タンパク質や無機質の変化は少な りゅうげじゅ 八四一年にライン汽船会社を創設、三九 ~ 四七強く絞ってから皮膚をこする冷水マッサージ 、。脂肪は乾物にした当座はよいが、水分が少生まれて、竜華樹の下で悟りを開くといわれ、 年ケルン商業会議所会頭を歴任した。また四一一一や、風呂上がりに水をかぶったりする冷水浴な ないため空気中の酸素の作用を受けやすく、酸その出現を待っ法会という意味で竜華会ともい まっしよう どがある。これらは、末梢から中枢に向かっ 〈中尾良信〉年以来ライン州議会議員となり、四七年プロイ 化がおこりやすい。とくに高度不飽和脂肪酸を りようしゅう 多く含む魚類は酸化しやすく、脂肪の酸化とと乾物屋かんぶつや乾物を販売する商人。乾セン連合州議会で自由主義の領袖として政府て刺激を与えることで、反射機構の強化をねら ばつばっ 〈小野三嗣〉 物は植物性食料を保存のために乾燥させたもの批判の論陣を張った。四八年、三月革命の勃発ったものである。 もにアミノ酸などと反応をおこし、油焼けとい ひもの われる褐変現象をおこしたものは中毒をおこしであるが、魚類を乾燥させた干物も含むように直後プロイセン首相となり、立憲政体への漸進力ンプラ And 「 6 Camp 「 a ( 一六 ~ ( 0 ー噐 ) ひうお 的移行に努力したが道なかばで辞職。同年七月フランスの作曲家。南フランスのエクサン・プ やすい。脂肪類の酸化防止には、酸化防止剤のなった。一八世紀の近世中期では、塩・干魚・ 使用や、密封容器の中に窒素とともに封入するかつお節・雑穀などを問屋から仕入れ、一九世以降フランクフルトの臨時中央政府のもとでプロバンスに生まれる。アルル、トウールーズな 〈河野友美〉 紀の近世後期には、それ以外の乾物をも、乾物ロイセン全権として、プロイセン国王のドイツどで活躍ののち、一六九四年パリのノートル・ などの方法もとられる。 みせ そう′一う 皇帝への推挙と小ドイツ的統一を提唱した。四ダム大聖堂の楽長に就任。しかし偽名を使って 問屋から仕入れた。江戸では店売りだけであっ 観仏かんぶつ仏を観ずること、仏の相好 功徳を観想すること。なかでも仏の色や形を観たが、上方では店売りのほかに乾物売りとい , っ九 ~ 五一年にはプロイセン上院議員。七一年のオペラを作曲したのが発覚、一七〇〇年に解任 しきしんかん おうじんかん される。以後はおもに舞台音楽を作曲したが、 ドイツ統一以後は政界を引退した。〈末川清〉 するのを色身観 ( または応身観 ) 、仏の本質的い売りの商人も生まれた。近代になってから ほっしん かんぶびようジャガイモ、サツマイ一七二二年王室礼拝堂の音楽家の一人に選任さ 属性 ( 功徳 ) を観ずるのを法身 乾腐病 モ、タマネギ、ラッキョウおよびスイセン、クれ、ふたたび宗教音楽と世俗音楽の両方を作曲 観、仏は諸法の実相 ( 存在する をは 下者 ものの真実の相 ) であると観す 日影ロッカスなど球根類の病気。いずれも塊茎、塊した。彼はドラマの進展よりもバレエの場面を り・れは〕い しんじん じっそう 上参 根、鱗茎が水分を失って乾燥し、もろくなって重視したオペラ・バレエというジャンルをつく るのを実相観 ( または真身観 ) 天 , 吉 にし泰腐る。またときにはミイラ状に乾固する。細菌り、その第一作『ベネチアの謝肉祭』 ( 一六究 ) という。『往生要集』巻上末に なんぶ 中置江 はその典型とされる。作品は、宗教音楽も含 によっておこる軟腐病のようにどろどろになっ よると、仏の相好の一つ一つを ' の安入 べっそうかん い堂を て腐ることはない。病気にかかった塊茎や球根め、洗練されたフランス様式とイタリアの旋律 みる別相観、相好光明を全体と ケ御 - 仏ぐ そうそうかん びやくごう 皿花迦注 〈美山良夫〉 からは翌年、芽は出ない。また出ても正常な生美の融合を特色としている。 してみる総相観、略して白毫 釈ら そう 会生か育はしない。病原菌はおもにフザリウム・オキカン。フリア Cumbria イギリス、イング 相だけをみたり、仏名を唱えた ぞうりやくかん 仏誕上 ランド北西端を占めるカウンティ ( 県 ) 。地方 灌た頭シスポルム F ミこミミ 0 0 ミミとよばれる りする雑略観などがある。ま た仏や浄土を自己の心の中に想 を大さ茶糸状菌 ( カビ ) で、形態的にはそれぞれ区別で統治法 ( 一 = ) に基づいて一九七四年に創設さ - 三東指甘きないが、寄生性が異な 0 ており、スイセンをれた。面積六八一〇平方、。、人口四八万三四二 かいみるのを約心観仏 ( 即心念仏 ) 冒す菌はジャガイモなどほかの作物を冒さな七 ( 一九〈 D 。県都はカーライル。旧県のカンバ という。仏身をみること、また 仏 ぶっしよう ーランド、ウエスト・モアランド、ランカシャ 2 〈梶原敏宏〉 カ自己の仏性 ( 仏たりうる可能 かん 去第 1 、 え かみがた けんぶつ
〔種類〕監査対象の違いから、会計監査と業務 生活のなかから出てくる不潔・不要物の処理法ある場合には、冠・婚・葬祭の行われるようるものに限られ、政治活動や文化活動は対象と ならない。次に、監査人は、「自己証明は証明監査に分類されるが、さらに前者は、精密監査 な、日常と違った生活を送る日を総称してい まで含み、その範囲は非常に広い。 ものび に非ず」といわれるように、被監査者 ( 企業、 ( 探偵式監査 ) 、貸借対照表監査 ( 信用監査 ) お いずれにしても、これらの看護法を効果的に ハレの日、物日、祝儀、不祝儀などの用語 よび財務諸表監査からなる。また、監査が法律 に近い使い方をする。またある場合には、これ団体も含む ) と利害関係のない独立の第三者た 行うには、病人に対する思いやりは当然のこと により強制されるか否かにより、強制監査 ( 法 ながら、看護する人々の横の連携、情報の交換らの機会にしばしば贈答や共同飲食を伴うとこ ることが要件となる。また、監査人の判断につ とその活用、鋭い観察力、洞察力と、だれが読ろから、親類縁者や近隣の人々とのつきあいの いては、経済活動が複雑になるにつれ、高度に定監査 ) と任意監査に分類される。また、監査 んでもわかる記録が必要となる。〈山根信子〉機会、義理を果たすべき機会、旧来のしきたり専門化される。そこで、なんらかの判断基準人が公認会計士などの外部の者か否かにより、 みん かんこんき中国、明代の戯曲。五五や慣行を迫られる機会、というようにも理解さ ( 会計原則といったもの ) を設定しておき、そ外部監査と内部監査に分類される。あるいは監 還魂記 せき とうけんそ またんてい とれい 齣 ( 幕 ) 。湯顕祖の作。一名「拒丹亭」。杜麗れている。↓婚礼↓葬儀 〈井之ロ章次〉れへの準拠性をもって適否、当否などを判断す査人別に、監査役監査、公認会計士監査、内部 じよう りゅうむばい 監査人監査という分類もある。 娘が夢のなかで青年柳夢梅と出会い、花園の感作かんさ sensitization 生体は、自然ることとなる。最後に、意見表明に対しては、 〔わが国の監査制度〕わが国における株式会社 牡丹亭で契りを交わす。また柳夢梅も麗娘を夢にせよ人工的にせよ体内に抗原が入ると、それ監査人に責任が負わされる。とりわけ、職業監 に対する監査制度は次のとおりである。 にみて、慕わしく思うが、現実には会えないま に対する免疫応答の結果として特異的に反応す査人の意見表明に対しては、厳しい責任が課せ られ、ここに監査に対する社会的信頼が得られ ①商法上の監査制度すべての株式会社には監 まに、麗娘は恋煩いのあげく他界する。しかしる抗体およびリンパ球を生じ、ふたたび抗原と 査役監査が義務づけられている。監査役の権限 遭遇するとアレルギー反応をおこす。このようる。 思慕の情は変わらず、亡魂が夢梅のもとに通い に、ある抗原に対しアレルギー反応をおこしう は、資本金一億円以下の株式会社にあっては、 続け、ついに墓中より回生することができて、 〔沿革〕公会計における監査は、古代エジプト 現世でめでたく夫婦になる、というのが大筋。る状態にすることを感作という。たとえば、モ にまでさかのばるとされるが、企業の監査は、 会計監査権のみで、資本金一億円を超える株式 らじよほう 湯顕祖は羅汝芳や李贄から強い影響を受け、人ルモットに異種タンパク ( 抗原 ) を注射し、一近代の株式会社制度の発展に伴い成立した。近会社にあっては、会計監査権と業務監査権を有 ~ 二週間後にふたたび同じ抗原を注射するとア代監査は、一六〇二年に設立をみたオランダ東する。監査役はとくに職業監査人たることを要 間の真実の姿、男女の愛情を強調しようとした しないことから、資本金五億円以上または負債 インド会社において、重役の専横に対して設け が、未婚の男女の私通を正当化するのは、社会ナフィラキシー ( 激しいショック症状 ) をおこ られた監査委員会に端を発するとされる。イギ総額二〇〇億円以上の大会社に対しては、別に の倫理道徳の通念に反することであるので、ますが、この場合、前処置注射を「感作する」と まうまっ リスでは、一七二〇年の南海泡沫会社事件を契会計監査人 ( 公認会計士または監査法人に限 ず夢のなかの場面を設定し、二人の幸福が現世 感作と免疫は区別せず使われることも少なく 機に会社の設立に制約を加えていた泡沫会社取る ) の監査が義務づけられている ( 「株式会社 で実現することを観客が期待するよう巧みに筋 の監査等に関する商法の特例に関する法律」 を運ぶ。夢と現実、幽界と明界との交錯した構ないが、一般的には、アレルギーをおこしやす締条例 Bubble Act が一八二五年に廃止され、 〈昭和四九年法律一三号〉二条 ) 。 成をとり、これを典雅で美麗な文字で綴った。 い状態にする場合には、「免疫する」というよ一八四四年会社登記法は、会社の設立を登記に かっ 証券取引法上の監査制度発行価額または売 恋愛至上主義の文学というべく、青年男女の喝りも「感作する」ということばが使われる。すよることとし設立を容易なものとしたが、その 采を浴び、明代戯曲の最高傑作に推されてい でに感作された生体から抗体や感作リン。ハ球を見返りとして考えられたのが監査制度であつ出価額の総額が一億円以上の有価証券の募集ま る。 たは売り出しをなそうとする会社は、あらかじ ^ 岩城秀夫〉とり、これを末感作生体に移入することにより た。すなわち、取締役の専横や不正に対する自 感作を成立させることもできる。これを受け身己監督機能を果たすものとして、株主のなかかめ「有価証券届出書」を大蔵大臣などに提出し 回岩城秀夫訳『還魂記』 (r 中国古典文学大系 感作 ( 受動感作 ) という。また、感作という用ら選任された監査役の監査を義務づけたのであなければならない。また上場有価証券の発行会 戯曲集下』所収・一九七一・平凡社 ) 社、店頭登録株式の発行会社などは、毎決算日 語は、特異的抗体を結合させた赤血球に対してる。その後、監査役は株主に限定されす、しだ 還魂紙かんこんし中国の紙名。使用済みの しに勅許会計士が選任されるようになり、一九後三か月以内に「有価証券報告書」を大蔵大臣 故紙を繊維状にほぐし、ふたたび漉き返した再も用いられ、感作赤血球とよばれる。これは補 しゆくし みんそうおうせい などに提出しなければならない。 この有価証券 生紙で、日本の宿紙に相当する。明の宋応星が体結合反応や凝集反応に使用される。さらに四八年会社法は、株式会社の監査役は勅許会計 てんこうかいぶつ 届出書と有価証券報告書により企業内容の開示 著した『天工開物』 ( 一六三七 ) に、中国で紙が貴は、抗原を非特異的な方法で結合させた赤血球士などの職業会計人に限ることとした。アメリ 重であった時代に考案されたと記してあるが、 も、感作赤血球とよばれることがあり、これはカでは、一九二九年のニューヨーク証券取引所が行われることとなるが、このなかに財務諸表 が含まれ、公認会計士または監査法人の監査が 明以前の中国文献にこの名は見当たらない。 抗原特異的抗体に対する凝集反応などに使用さ の株式大暴落を契機に大恐慌へと進むが、そこ 〈町田誠之〉れる。↓アレルギー 宿紙 〈高橋昭三〉で証券市場の健全化、投資家保護が叫ばれ、一義務づけられている ( 証券取引法一九三条の かんこんそうさい冠は加冠の意で監査かんさ audit, auditing 監査の中九三三年証券法および一九三四年証券取引所法 II)O 冠婚葬祭 成年式を表し、子供の成長に伴う諸儀礼をい 心は、企業に対する職業監査人の会計監査 ( と が連邦法として成立する。これにより、上場会 以上から、資本金五億円以上で、株式を上場 う。婚は婚礼、葬は葬式、祭は葬式に続く先祖 りわけ財務諸表監査 ) であるが、このほかに官 社や一定金額以上の資金を証券市場から調達すしている会社を考えると、商法上の監査役監 供養の祭りをいう。このような個人の生涯にお 公庁や非営利団体の監査、会計以外の諸業務に る会社などのいわゆる公開会社に対し、投資家査・会計監査人監査に加えて証券取引法上の公 認会計士監査という三重監査が行われることに ける重要な節々に行われる一連の儀礼は、民俗ついての業務監査などもある。監査を広く解すへの情報提供として、企業内容の開示 ( ディス ると、その意義は次のようになる。監査とは、 クロージャー ) が義務づけられた。このディスなる。 学上の用語では通過儀礼、通過儀式、生涯儀礼 なお、公共的性格をもっ銀行業、保険業、道 クロージャーの重要な部分を占めるのが財務諸 などとよぶ。冠婚葬祭ということばは発言しや特定の経済主体における経済活動とその結果に すいため盛んに使われているが、実際に使われついて、それに関与しない者が、その正確性、表の公表であり、この財務諸表に対し、粉飾経路運送業、地方鉄道業などの会社には、行政監 六、る意味は、冠と婚と葬祭だけを個別にさしてい 適正性あるいは妥当性などを判断し、その者理の発見・防止のため公認会計士監査が強制さ督庁の監査 ( 検査 ) が行われることもある。↓ 会計監査↓強制監査↓公認会計士↓監査基 今日の財務諸表監 んるとは限らず、これらに代表されるような伝承 ( 監査人 ) の責任において意見を表明すること、れることとな 0 た。ここに、 〈長谷川哲嘉〉 1 準↓監査報告書 である。まず、監査の対象は、経済活動に関す査が確立する。 力的な行事一般をいうことが多い。したがって、 0
かんほ。ど ま必を誉廴② カンポジア ①ヘン・サムリン軍のゾウ部隊の行進 ②ホル・ポト軍の破壞の跡の残るプ ノンペン市内 ③ポル・ポト時代には , 寺院の多く は破壞され , 数万の僧侶が殺された がヘン・サムリン政権下ではすべ ての仏教行事は復活している ④民族舞踊のカンポジア・ダンス。 インドの「ラーマーヤナ』やクメール の英雄譚を主題とする ⑤結婚式風景。フノンペンで こ、 ノラウン、マ る。七五年以前にはテレビ放送があったが現在スのクム語、ビルマのモン語、。、 は行われていない。またポル・ポト側も宣伝放レーシアのサカイ語、インドのカシ語などとと 送を行っている。書籍類はあまり出回っていな もに、モン・クメール語族をなし、さらにイン ドのムンダ語、ニコバル語などと、オーストロ いが、政台的パンフレットは数が多い 社会生活はインド文化を基調とする農耕文化アジア語族を構成する。 南インド系の文字を使用し、七世紀初頭以来 が土台である、主食は米で、副食物に淡水魚、 塩漬けの魚や野菜、畜産物などが用いられ、魚の碑文が残されているが、主として寺院などへ からっくったニョクマムと塩が主たる調味料での寄進の記録であって、内容には乏しい 文法的にはいわゆる孤立語で、名詞の格変 あるが、副食物の摂取量も少なく、一時は一日 に平均一六〇〇カロリー程度とみられた。住居 化、動詞の人称、数、時制活用などの語形変化 は主として自然堤防などの微高地に建てられ、 はいっさいなく、語順と助辞が文法上大きな役 竹で編んだ床を高床式にし、屋根は乾燥したシ 割を果たす。基本的語順は、目的語は動詞の後 ュロで葺いている。伝統的服装として自家製のろ、修飾語句は被修飾語の後ろに置かれる。数 詞が独特の体系を示し、六から九までは、 6 Ⅱ 黒や茶色の染料で染めた木綿でつくるサンポッ トとよばれるサロンがあるが、プノンペンなど 5 + 1 , 7 日 5 + 2 のように五進法、さらに四、二 の都市部では欧米式の服装である。古くはヒン〇、四〇、四〇〇に固有の数詞がある。かって は 30 Ⅱ 20 + 10 , 50 日 40 + 10, 60 Ⅱ 20X3 のよう ドウ、ー教が信奉されていたが、タイ族の侵入に 伴って小乗仏教圏に入った。大多数の住民は大な表し方をしたが、現在ではタイ語からの借用 きんこう 衆的な仏教の一派であるモハンカイ派に所属す語を使用している。緊喉母音と弛喉母音の対立 るが、一九七五年以前し。 こよ貴族的なタマュット があり、二重母音、二重子音の種類も多い。語 派も力があった。ワット ( 寺 ) は農民の祭礼や彙にはサンスクリット、パ ーリ語からの借用が 民会の場として村の生活の中心的役割を果た多い。かっては前接辞や挿入辞による語形成を し、男子は二〇歳までに一度は僧となることが 行ったが、現在では造語力を失い、化石化して そうりよ 〈坂本恭章〉 定められていて、シアヌーク時代には僧侶人口 は約六・八万人といわれていた。長い歴史のなカンポス Campos プラジル南東部、 かで土地や森林の守護霊ネアック・タの信仰やオ・デ・ジャネイロ州東部の都市。人口一七万 ヒンドウー教とも混交し、国民生活に及ばす影四二一 ( 一九八 0 ) 。南パライバ川下流平野の中 心都市で、プラジル最大の砂糖生産地域の一つ 響は大きなものがあった。しかし一九七五 ~ 七 八年の間は、仏像破壊が行われ、僧侶は田畑のを控え、精糖などの工業が発達している。付近 はかってはプラジルのコーヒー栽培の中心地域 強制労働に狩り出され、寺は穀物倉庫や兵営と して用いられるなど、その疲弊が著しい。一 で、現在でもその生産額は少なくない。沿岸部 万人といわれるチャム人はかってバラモン教徒では油田開発が進められており、人口が急増し 〈山本正三〉 であったが、一五世紀に改宗して現在はイスラてきた。 ム教徒である。中国人の間に道教、大乗仏教、カンホタン〔寒牡丹〕 P ミを s 耳、ド ベトナム人の間にカオダイ教、カトリックが信 き sa Andr. var. ミ ~ 、 0 き Makino ポ じられていた。その他の少数民族は自然崇拝をタン科の落葉低木。二季咲き性のボタンの変種 行っている。公用語はクメール語で、独自のクであるが、人工によって一一月から翌年の二月 メール文字をもっている。↓インドシナ↓東 にかけて咲かせる。春に開花するつばみは除 わら 南アジア史 〈菊池一雅〉き、晩夏に葉を摘み取って花期を遅らせ、藁の ーチェット著、土生長穂他訳『カンポ霜囲いを施し、暖かい所に保護すると冬に開花 する。花は小形で花色は白、紅、紫などの品種 ジア現代史』 ( 一久三・連合出版 ) ごカンポジアを中心 がある。『花譜』 ( 貝原益軒・一六九四 ) に「冬牡丹 カンポジア語 に、タイ、ベトナムにも分布しているクメールあり珍し」と出ている。図ボタン〈小林義雄〉 - 一うぞう - 一 族の言語で、クメール語ともよばれる。使用人陥殳胡かんばっこ 0 構造湖 かんぽどうぶつ動物分類学上、緩 ロは約五、六〇〇万人と推定される。ベトナム緩歩動物 語、・ヘトナム・カンポジア国境付近のスティエ歩動物門 Tardigrada を形成する動物群。体 ン語、バナル語、タイのクイ語、ラワ語、ラオ長一 ' 、リ以下の微小動物で、湿ったコケや森林の 3