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検索対象: 日本大百科全書 7
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1. 日本大百科全書 7

ホアズ Franz について長期の研究を行った。 : / 、ガソリンの製造を目的に開発された方法である命と啓示の予感に満ちた展開、完成度の高さ そう′一う いん Boas に始まるアメリカ特有の「綜合人類学」 6 は、つねに熱烈な愛読者を得ている。小説『陰 が、生成するガソリン留分のオクタン価が低い うつ っ の最後の継承者といわれ、その研究領域は自然 、らため、ほとんど行われていない。現在では、重鬱な美青年』 ( 一〈瑩 ) 、『シルトの岸辺』 ( 一空 l) 、 人類学、考古学にまで及ぶが、最大の功績は一 質残油を液相中温和な条件下で熱分解し、適当『森のバルコ一一ー』 ( 一九夭 ) 、『半島』 ( 一九七 0 ) 、戯 九三〇年 ~ 四〇年代のアメリカで出発した「文 な粘度と流動点をもつ重油を製造する方法 ( ビ曲『漁夫王』 ( 一九四 0 、散文詩集『大いなる自 ヒとヾ ーソナリティ」論を発展させたことで、 スプレーキング法 ) 、および過酷な条件下で熱由』 ( 一九四七 ) 、評論集『偏愛』 ( 一九六 l) 、『花文字』 分解し、軽油留分とコークスを製造する方法 ( 一九六七 ) 、『読みながら書きながら』 ( 一九〈 D など 隣接分野との学際的協力を目標としてハーバー 〈天沢退二郎〉 ド大学に開設された社会関係学部の教授とし ( コーキング法 ) が実施されている。またプタがある。 て、文化人類学と心理学、精神医学との相互協 ンやナフサを熱分解し、石油化学原料である各回安藤一兀雄訳『シルトの岸辺』 ( 一九六七・集英社 ) Gracch i 力を推進した。ただし当時の精神分析学の図式 種オレフィン類および芳香族炭化水素を製造すグラックス兄弟ーーきようだい る方法が重要である。↓コーキング法 的解釈に対しては批判的で、フィールド・ワー ( 複数 ) 古代ローマの支配層から出た兄弟の革 〔接触分解法〕酸性を有する固体触媒を用いて新政治家。兄はティベリウス、弟はガイウス。 クの具体的資料に基づく分析の方向を強調し、 ナバホ族をはじめ、アメリカ・インディアン諸 行う分解法。熱分解法よりもはるかに生成ガソ九年違いの兄弟。父は紀元前二世紀にコンスル 族の性格形成を中心に分析を進めたが、晩年に リンのオクタン価は高い。 これは接触分解がカ ( 統領 ) を二度務め、母はスキピオ ( 大 ) の娘 は価値観の比較研究を組織的に行った。なお数 ルポニウムイオン反応であることに起因してい コルネリアで、兄弟の姉はスキピオ ( 小 ) の妻 回来日し、日本の文化人類学に与えた刺激は大 る。主として減圧軽油を原料とし、高オクタンである。 ・ヘイ官の きい。著書として共著も含め『ナバホ族のウィ 価ガソリンを製造することを目的としている。 ①ティベリウス・グラックス Tiberius Sem- イガ民どた ッチクラフト』 ~ き 20 c き ( 一九四四 ) 、 pronius Gracchus (E 一六 = ー 現在では合成ゼオライト ( 沸石、アルミノシリ 弟テ弟護なっ 兄兄はに行 『ナバホ族』 The ~ を。 ( 一九四六 ) 、『ナバホ族の ケート ) を合成シリカ、アルミナに混合した触年、財務官としてスペインに従軍したが、赴任 スが左も地を ク右 , と土法 子どもたち』 C ミ、 0 、 the people ( 一九四七 ) 、 媒を用い、流動床式反応装置により実施されての途上イタリア農民層 ( 戦士層 ) の没落を目 ツ。ス。て立 ラ像ウスし革 『人間のための鏡』ミき、、 ( 一九四九 ) そ 撃、スペインではローマ軍の敗北を体験して、 グ胸リウと改 〈祖父江孝男〉 の他がある。 〔水素化分解法〕ナフサから残油に至る石油系農地改革によるイタリア戦士層の復興を決意し 原料を、水素の存在下高温高圧で反応させ、液 た。前一三三年に護民官になり、富裕者による復した ( 土地分配三人委員の裁判権を回復し回クラックホーン著、光延明洋訳『人間のため の鏡』 ( 一九七一・サイマル出版会 ) 化石油ガス、高オクタン価ガソリン、国有地の占有に制限を加え、それを超える分をた ) 。②穀物法ローマ市の民衆に国家の負担 灯・蚤由、。 シェット燃料をそれぞれ製造する方没収して没落農民に分与する土地法を民会に提で安価に穀物を配給する法。提案者には絶大なグラックマン Max Gluckman ( 一九一一ー 法。ハイドロクラッキングともいう。触媒に出した。同僚の護民官オクタウイウスが拒否権人気をもたらしたが、国庫には大きな負担とな七五 ) イギリスの人類学者。南アフリカ連邦で は、水素化ー脱水素能を有するニッケル、白金を発動すると、彼はその罷免を民会に提案し、 った。③裁判法同時代の護民官アキリウスの生まれ、ウイトウォーターズとオックスフォー あるいはパラジウムなどの金属と、分解機能を承認させた。土地法の成立により、土地分配一一一法 ( 不完全ながら現存 ) と相まって、「不法取ド両大学で人類学と法学を学ぶ。ヨハネスパー 有する強い固体酸であるシリカ・アルミナおよ人委員が設けられ、ティベリウス、その義父、 得返還訴訟」の法廷 ( 被支配民がローマ当局者グのローズーリビングストン研究所などを経 びゼオライトを組み合わせた二元機能触媒が用および弟ガイウスがこれに就任して、活動を開から不当に金品を奪われたとき、これに賠償請て、一九四九年以降マンチェスター大学教授。 アフリカ諸部族の調査研究に基づき、「闘争中 いられ、分解と水素化の二つの反応が組み合わ始した。当時、ベルガモン王家が絶え、その遺求する機会を与えたもの ) の陪審員の地位を元 に平和あり」の動的な社会構造論を唱えてイギ さって進行するので、生成物中にはイソバラフ産がローマ国民に贈られると、対外問題の処理老院議員から騎士身分の手に移した。これによ リス社会人類学の伝統を発展させ学際的な紛争 インとシクロバラフィンが多く含まれる。原料が元老院の管轄事項であったにもかかわらず、って、騎士身分は元老院と対抗する政治勢力に ティベリウスは民会に諮ってこの遺産を土地分なった。④属州アシア法アシア州 ( 小アジア研究にも貢献、またバローツェ部族法を分析し および製品が広範囲であることが特徴である。 ↓石油 〈八嶋建明〉 てコモン・ローにも準ずる法的諸原則・諸制度 配三人委員の活動の財源にした。これらの活動西部 ) の徴税請負権を騎士身分に与えたもの。 ) フは、閥族の間に大反対を巻き起こしたが、ティ これにより、騎士身分は莫大な富を得ることに が発達していることを報告して法人類学の発達 グラック JuIien Gracq ( 一九一 0 ー に足跡を残した。そのはか業績も多く、六二 ~ ・ヘリウスは法に反して護民官への再選を意図なった。その他重要な法が多い。ガイウスは、 ランスの作家。本名ルイ・ボアリエ。ロアール し、選挙の際に殺された。 元老院に拠る閥族の反対を押し切るため、騎士六六年には英連邦社会人類学会議長を務め、ま Ⅱ下流の小村サン・フロラン・ル・ビエイユに 生まれる。ナント、 ついでパリの高等中学校に ②ガイウス・グラックス Gaius Sempronius 身分を味方にする一方、民衆を扇動して独自のた多くの学者を養成し学界の組織者としても活 〈千葉正士〉 高等師 Gracchus ( 前一五三 llll) 前一三三年、ほば民会決議をつくり、これによって政策を進める動が大きかった。 学び哲学者アランの教えを受ける。バリ とりぶっし くらっくりのとり 0 止利仏師 二〇歳で、兄の土地法による土地分配三人委員 範卒業。処女作『アルゴールの城にて』 ( 一九三 0 いわゆる民衆派 ( ポプラレス ) 的な政治の流れ鞍作止利 くらっくりべ古代の職業部の一種。 は発表当時無視されたが、のちプルトンにより に選ばれた。兄の死後、その遺志を継いで改革をつくった。彼は最後に閥族派 ( オプティマテ鞍作部 たお あんぐ 一一三両年に護民官となっ ス ) との市街戦のなかに斃れたが、以後ローマ鞍具の製作にあたり、鞍部、案部、按作部にも シュルレアリスムの一到達点として評価されを志し、前一二三、 〈吉村忠典〉 た。一九三九年陸軍少尉として従軍、翌年独軍た ( すこし以前に護民官再選は合法化されてい つくる。渡来系技術民よりなり、鞍作氏 ( 村 史は動乱の一世紀に入る。 めよう りおびと 主、首 ) の支配下にあった。令制下では大蔵省 捕虜となるが病を得て帰国。以後六九年まで各た ) 。そのときの彼の改革立法のおもなものは、 クラックホーン Clyde Kluckhohn しなペ ぎっこ 地の高校の歴史地理教授を歴任するかたわら、次のとおりである。①土地法兄の土地法がそ ( 一九 0 五ー六 0 ) アメリカの文化人類学者。ニュ所属の品部や造兵司所属の雑戸に組織され、一 ちょうたく 〈加藤謙吉〉 ・メキシコ州に住むナバホ・インディアン般良民とは区別された。↓部 密度の高い作品を発表。彫琢された文体、宿の死後骨抜きにされていたので、その実質を回 ばくだい 1

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ぎよるい 目より前方を吻、目よ 進 び部 より、物理的にもいろいろな色が出される。な 都体と背有発 背央 り後背方を後頭部、目お、魚の縞模様の表現は、頭部から尾部の方向 泳めびョ身数き の 置進た背ト保複での下方を眼下部、えらを縦縞、背部から腹部の方向を横縞という。 な体 てるはノ・かカカ の部分を鰓蓋部とい 〔骨格〕体の各部やひれは骨格によって支えら のしすイ い条作 ヒ条れ れ応泳コた弱棘動う。驅幹部のうち胸びれる。円ロ類や軟骨魚類は軟骨よりなるが、硬 イ棘び び適群。れはのな にはるさカれ敏れの基部付近を肩部、骨魚類はほとんどの骨格が硬骨である。骨格系 質リ と境シあ強泳び機その腹側面を胸部、さでは頭骨と脊椎骨、胸びれや腹びれを支える肩 形ひれ れ環ワで補進臀 たんき の び息イ条て , やしらに後方部を腹部とよ帯と腰帯、背びれや臀びれの鰭条を支える担鰭 背生。軟しりれ置 れ がたて化なび位ぶ。尾部のうち背び骨などが重要である。骨格の形や構造は化石と ひ 種しべ夂本と北冂に れ、臀びれの後端付近なって長く残るうえ、種類によっても多少とも す の化す棘棘は方 れ 移 れ進はががイ前から尾びれの付け根ま差異があるので、骨格は魚の進化や分類を研究 ぞにれ条れダも へ でを尾柄という。 する重要な資料となる。 方 れ態ひ 1 びマれ そ形 , 第腹。び〔ひれ〕体正中線上に 〔筋肉〕筋肉は、ロ、えら、心臟や消化器官、 進 カ の , る腹 シ れイ よ長れとあ , 位置する背びれ、尾びひれなどに発達するが、普通に魚肉とよばれる 類の細びれでし イ び . ダ れ、臀びれを垂直鰭ま ものは骨格筋であり、とくに、軅幹と尾部に規 むついき コ 魚合はい臀び効達 たは無対鰭という。こ 則的に配列する体側筋をさす。体側筋の伸縮に てもっとも優れた体制や機能をもつようになつろを備えるようになったこと、上下両顎の骨がれらのひれは主として推進力を生み出し、体のよって推進力の多くが生み出される。酸素を貯 じようき た。このグループを条鰭類という。条鰭類は中可動性になったこと、鱗がいっそう薄くなった 左右安定を助ける働きをする。また、胸部と腹蔵する役目をするミオグロビンという色素が多 生代、新生代を通じて骨格が硬骨化し、ひれが ことなどが真骨類の特徴である。この類では、部に、それぞれ対をなした胸びれと腹びれがあ いと肉色が赤くなり、回遊魚にはとくに多く含 遊泳に適するように構造や位置を変え、うきぶイワシ類、サケ類などが原始的なグループである。これらの対鰭は、左右平衡や遊泳中の方向まれる。また、体側の表層や中心部には暗赤色 ちあいにく くろが比重を調節するようになった。このグル り、これらは体の構造がなお全骨類に似てい 転換、遊泳停止などに役だっ。各ひれとも分節の筋肉があり、とくに血合肉 ( 血合筋 ) とよば きよく ープでもっとも原始的な軟質類は、背骨が分節る。しかし、メダカ類やトゲウォ類では、ひれをした軟条や骨化した棘条で支えられており、 れる。この筋肉は多くのエネルギー源を含み、 しないこと、尾びれの上部が下部より長いこやうきぶくろ、内部骨格などがこの類に特有な これらを総称して鰭条という。各鰭条は薄い鰭長距離の連動に耐えられる。↓血合肉 と、肺があることなどの下等な特徴を備えてい 構造に発達し、スズキ類やカサゴ類では進化の膜によって連結されている。ひれの位置や構造 〔消化器官〕ロ腔から鰓腔、食道、胃、腸 ( 後 る。軟質類は古生代デポン紀前期に出現し、中頂点にある。↓硬骨魚類 は、魚の分類や進化を知るうえで重要である。 部を直腸という ) 、肛門までを消化管という。 生代前半にかけて栄えたが、中生代の終わりご 〔形態〕〔体形〕体形は多様であるが、多くは とくに、腹びれの位置や鰭条数は有効であり、 一方、消化・吸収作用を円滑にするため、肝 たんのうすいぞう せん ろには滅んでしまった。この類で現在まで生き紡錘形で、遊泳中の水の抵抗が少ないように、 下等なグループでは後方にあって、多くの軟条臟、胆嚢、膵臟などの消化腺と歯がある。歯は 残っているものにチョウザメ類がある。 中央部付近が太く、頭端や尾端へ向かってしだ からなり、棘条が末発達である。↓ひれ 上下両顎、ロ腔、咽頭、鰓腔などにある骨の上 軟質類のバレオニスクスとよばれるグループ しに細くなる。しかし、タイ類、ハタ類、カレ 〔鱗〕魚類の鱗は、皮膚の内層 ( 真皮 ) にある にある。また、種類によって発達する場所が異 へんべい きり から、全骨類という新しい条鰭類が古生代ベル イ類などでは、左右に著しく扁平になり、これ細胞に起源がある。軟骨魚類では歯と同じ構造なる。牙状のものを犬歯状歯、錐状のものを円 じゅんりん い」ゅ・つも、つ ム紀に出現した。この類では、硬骨化が進むとを側扁形という。この体形は岩の割れ目や海底をし、楯鱗という。チョウザメなどの魚類で錐歯、微毛状のものを絨毛歯という。また、 えさ きゅ・つし ともに鱗が薄くなりだして二層となり、肺がう に体を接し、外敵からの食害を防ぐうえで効果は、板骨層の上にガノイン層が重なって厚く、固い餌をかみ砕くための臼歯、植物性のものを きぶくろに変わった。全骨類は中生代の中ごろ的な体形である。一方、エイ類やコチ類のよう硬鱗という。普通の硬骨魚類では鱗は薄くてかみ切るための門歯状歯をもつものもある。ヒ に栄えたが、中生代の終わりごろに地球上から に背腹の方向に扁平になった体形を縦扁形とい 瓦状に配列する。表面に棘のないものを円鱗、 トの歯と異なり、魚の歯は一生の間に必要に応 しつりん 姿を消してしまった。現在、アメリカ大陸にの 、水底に定着して生活するのに適している。棘で粗雑なものを櫛鱗という。鱗は体を保護じて何回でも生え替わる。 み生存しているアミアやガーバイクは、全骨類ウナギやハモなど、水底にいて穴の中に潜入すし、病原微生物の侵入を防ぎ、体の浸透圧調節 多くの硬骨魚では、胃と腸の境目に盲管状の ゅうもんすい の生き残りである。 るものは円筒形を呈する。そのほか、球形や楕をするのに役だっ。また、鱗表に環状に並んだ幽門垂があり、そこで餌を蓄えるとともに消化 えん 一億年余り昔の中生代末から新生代に移る前 円形をしたものもある。↓泳ぐ 隆起線の粗密の配列によって、魚体の年齢を推酵素を出して吸収作用も行う。腸は植物性の餌 後に、全骨類から一段と進化した真骨類が出現 魚体の大きさは、次の三つの方法で表され定することができる。↓うろこ をとるものでは長く、腹腔内で複雑に回転して した。この類は硬骨魚類として進化の頂点にある。頭端から尾端までを全長、頭端から尾びれ〔体色〕皮膚中に何種類もの色素胞があり、ホ いる。軟骨魚類や下等な硬骨魚類の腸の内面に びさ はんもん らせん り、世界中の水域に広く分布し、種類数は二万後縁の切れ込みまでを尾叉長または尾叉体長、ルモンや自律神経の作用を受けて、体色や斑紋は、吸収面を広くするため螺旋弁がある。膵臓 余り、魚類全体の九〇 % 以上を占めている。真頭端から尾びれの付け根までを標準体長または が出現したり、変化したりする。黒色のものは は軟骨魚類では腸の始部にあるが、円ロ類や多 骨類はレプトレピスという化石魚に似たものか単に体長という。 黒色素胞 ( メラニンを含む ) に、赤色は赤色素 くの硬骨魚類では散在している。コイ、マダ ら進化したと考えられ、中生代末期 ( 白亜紀 ) 体は大別して頭部、躯幹 ( 胴部 ) 、尾部から胞に、黄色は黄色素胞に由来する。また、黄色イ、べラ、コチなどでは、肝臟内に入り込んで から新生代の中ごろ ( 中新世 ) までに、現存すなる。頭部は上顎の前端から最後の鰓孔またはや赤色に関係したプテリンという色素胞もあおり、肝膵臓とよばれる。 」しめ ~ し る種類の大部が出現した。骨格がよく硬骨化し 鰓蓋の後端部までをいい、肛門を境にして、そる。一方、グアニンやプリンなどを含んだ白色〔うきぶくろ〕うきぶくろは、消化管の壁の一 たこと、浮力調節用として機能のよいうきぶくれより前部を軅幹、後部を尾部という。頭部で素胞 ( 光彩細胞 ) があって、光の反射や屈折に 部が膨れたものである。細い管 ( 気道 ) によっ 0 臀びれ びれ腹びれ びれ 背びれ , 臀びれに棘条 に似たものがある ◎ イトヨ 背びれに 3 棘 , 腹びれ と臀びれに各 1 本の棘 棘条 ◎ン 背びれと臀びれの棘が 増え , 腹びれにも 1 棘 くかん - 一うもん かわら ふん えん

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きりゆう 桐生市 ゃないづ 北東からの桐生川がこれに注ぎ、その谷口集落工業品で、事業所数、従業者数、出荷額とも桐町柳津より発見されたイナイリュウ ( 和名、稲 の様相を示している。交通が便利で、国鉄両生全工業のトップにある。天満宮の北に群馬大井竜 ) は、頭骨が不明であったが、体の大部分 も - っ いしトそっ・ : っ 毛線、足尾線、私鉄の東武鉄道桐生線、上毛学工学部があり、桐生が岡公園、水道山などは は保存されており、偽竜の仲間メタノトサウル 電気鉄道が通じ、国道五〇号、一二二号も走市民の憩いの場となっている。このほか、日本ス・ニッポニクスミミミミぎ s s こ、・ り、バス網も発達している。 きのこ公園には国際きのこ会館もある。人口一 をこ s として記載された。全長約一・三と 産業の特色は絹織物製造工業で、織都にふさ 三万二八八九。↓桐生織物 〈小畠郁生〉 〈村木定雄〉推定されている。 わしく絹織物の景気いかんが市民の全経済生活回『桐生市史』全四冊 ( 一九夭 きりゅうおりもの群馬県桐生市お ~ 七一・同書刊行委桐生織物 を支配する。その起源は古く、平安時代に布織 員会 ) ▽『桐生織物史』全三冊 ( 一九三五 ~ 四 0 ・ よび周辺で生産されている織物の総称。桐生は にたやまぎめ にーしし・れ 物、室町時代に仁田山絹を産して取引され、一 桐生織物同業組合 ) ▽『桐生織物史続巻』今日、京都の西陣とともに織物の総合産地とし 五九〇年 ( 天正一八 ) 関東が徳川氏の領地にな ( 一九六四・桐生織物同業組合 ) ▽『桐生の今昔』て有名であるが、その発展の端緒は、一六〇〇 ると、この地の支配者が桐生天満宮の社前から ( 一九大・桐生市 ) 年 ( 慶長五 ) の関ヶ原の戦いに、徳川方の旗絹 げんぶん 南に桐生新町 ( 現在の商業地域 ) を建設して絹囮五万分の一地形図「足尾」「桐生及足利」 として献上したことである。そして元文年間 たかはた と絹織物を扱い、一六四六年 ( 正保三 ) からは ~ 四 I) に弥兵衛、吉兵衛が西陣から高機 偽亠ぎりゅう nothosaurZ8Nothosau- ろくさいいち 五、九の日を市日とする絹市の六斎市が開かれ ria 中生代三畳紀にヨーロッパはじめ各地に をもたらしてからは、急激に発展をみることに た ( のち市日は三、七日に変更 ) 。一方、絹織栄えた海生爬虫類の一つ。全長三以下と小さ なる。一七八三年 ( 天明三 ) に岩瀬吉兵衛によ : しじん きようわんし 物は幕府の保護を受け、京都西陣の技術を導 い種類が多く、長い首と尾をもち、四肢は水中って、強撚糸をかけるための撚糸八丁車が考 てんはう ちりめん 入、天保年間 ( 天三 0 ~ 四四 ) には分業化して、機生活のため適度に変形され、指に水かきがあっ案されてからは、縮緬や代表的製品であるお召 ちんおり 屋が生まれ、賃織とともに発展してきた。これたが、陸上を歩くこともできた。偽竜は分類学が織られるようになった。一八七二年 ( 明治 きりゅう は、桐生が養蚕、製糸地帯を控え、桐生川など上は首長竜亜目とともに鰭竜目を構成し、首長五 ) にはカ織機、七七年にはジャカード機を西 の水利に恵まれた立地条件の優位性によるとい 竜の祖先であった。肩や腰の腹側の骨は構造が陣から購入するなど、近代技術を導入して、 える。明治、大正と進むにつれてカ織機と工場頑丈で、水中を漕ぐように泳ぐことができたら っそうの発展をみることになった。第二次世界 おびじ が主体になった。現在は内需物の帯地と高級御しい。頭骨がわりと小さく、平らで、長いあご大戦後もミシン刺しゅうなど、輸出向けも含め 等一じゃく もんじゅす 召の着尺、輸出物の紋襦子、富士絹、人絹など には多数の鋭い歯が備わっており、魚を食べたてさまざまなものを盛んに織り出し、現在に至 〈角山幸洋〉 がおもで、一九七九年の桐生の製造品出荷額一一らしい っている。 もとよし 三四〇億円のうち約二五 % の五七二億円は繊維 きりゅうしんごう flag signalling 国際信号旗を組み合わせてマストに掲揚して行 一九三九年 ( 昭和一四 ) に宮城県本吉郡津山旗旒信号 う信号法。船舶間において世界で広く行われて 宀一兀 ム民館 - - いる。各船は国際信号書を備えており、そこに 記載されている国際信号旗の組合せによってつ くられる信号の意味を互いに理解しあえるよう になっている。多くの信号法があるなかで、こ の方法は簡便、確実かっ容易な通信手段の一つ で、とくに自船の状態などを長時間継続的に表 示するような場合に好都合である。たとえば、 えんびき 赤色燕尾旗である旗を適当な位置に揚げて て発るで CJ 一「「社っ れてれし 「私は危険物を荷役中または連送中である」と さしさ肌る 設と称祥せ の意味を表示することができる。これは一字信 創町び友さ がの並の燥 →」一 , ム園 号の例である。一字信号すなわち一字符字の信 会一 、、町物とで乾 号は、緊急、重要または一般によく使用される よ新織 生 , 生生原 通信文に使用される。たとえば、「あなたは危 桐ち桐桐月 険に向かっている」の意に対しての一字を割 か東真し ~ 市 , 写、 り当てている。二字信号は一般部門の信号で、 = 絹陣。洗 遭難、救助、航行、気象、通信、検疫、その他 市こつを の目的に使用される。たとえば、「貴船は本船 ? 間斎な布 ・みい - : っ を最寄りの港に曳航されたい」の通信文に対し 一「」正ら ての二字が割り当ててあるというように構 ・ - 天か展よ染 成されている。 旗旒信号自体の歴史は古く、各船間において 吾妻 一 1 工日を 群馬県笙ー て名 32 ジ目老の りよう はた ポーッセンター 新田 ) こ QO , 0 はちゅう ( 一七三六 偽竜 / 復原図 161

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ぐたいせ 交換器として使用される。アルミニウム管は軽あり、乾燥したコルヒダ低地に面する。人口二 クソムシ〔糞虫〕昆虫綱甲虫目に属する体・液体・枌の輸送、電線などを屋内・地中に ふん く耐食性もよいので、航空機などの配管に適し〇万七〇〇〇 ( 一九公 (l) 。トビリシースフーミ間 昆虫で動物の糞に集まるもの、とくにコガネム配線するときの保護用にも利用される。水道 ている。鉛管は耐食性がよいのと軟らかく曲げの幹線鉄道から分岐する支線があり、またカフ シ科の食糞類に属する一群にコプスジコガネ科管、ガス管など日常きわめて広範囲に使われ、 とセンチコガネ科を加えたものをいう。フンチ各種工業用施設にも数多く使われている。このやすい特長があるので、水道管として利用されカス山脈を越えるオセチア軍道の南端終点にあ ~ 前三世紀には、現在のグルジ たる。紀元前六 はか管は、曲げに対する抵抗が大きいので、構ているが、ビニル管の普及につれて水道用とし ュウともよばれる。コガネムシ科にはダイコク つりかわ ア共和国西部を占めていた古代コルヒダ王国の 造物や機械の構成材料、電車内の柱、吊革を取ての使用は減少の傾向にある。 コガネ亜科のナンバンダイコク属、ダイコクコ ビニル管は軽く、耐食性にも富んでいるう首都であった。また一五世紀からイメレチア王 り付ける横棒にも利用されている。 ガネ属、オオタマオシコガネ属 ( スカラベ ) な 一六六〇年代から一七 材質には金属と非金属とがある。前者は鋼え、安価で接合も容易なため、使用範囲は今後国の中心都市となった。 ど大形の種類をはじめ、エンマコガネ属、マグ さらに広まっていくであろう。ゴム管は屈曲自七〇年までトルコ軍に占領され、一八一〇年ロ ソコガネ亜科にも多数の種を含み、地上の汚物管、鋳鉄管、銅管、鉛管、アルミニウム管など シアに併合された。共和国内ではトビリシに次 の清掃者として重要な役目を果たしてきた。現で、後者はゴム管、木管、ガラス管、陶管、石由で、ゴムホースとよばれ、送水・散水用とし 力いんーん ぐ工業都市で、自動車 ( 一一・五トンのトラック 綿スレート管、鉄筋コンクリート管、碍管、合て使われている。鉄筋コンクリート管は一般に 在でも北アメリカ、オーストラリアの牧場では 小型トラクター、石油・ガス や発動機など ) 、 ヒューム管といわれ上下水道用に、石綿スレー 成樹脂管 ( ビニル管 ) などである。 糞処理のために適当な種類の導入を行ってい 鋼管は、薄板を曲げて溶接あるいは鍛接してト管はエタニット管とよばれ水道用に、下水用産業用機械、白色顔料 ( 地元産重晶石を用い る。これらの種は糞球をつくって運び地中の穴 には陶管も使われている。電気の引込み線などる ) 、食品、皮革、絹織物などの工場があり、 つくられた継目鋼管と、棒材を圧延したり引き に収容し、球形ないし洋ナシ形の糞球や糞塊に 抜いてつくった継目なし鋼管とがある。継目なの絶縁用には碍管が、繊維機械用などには木管鉱山、自動車、林学、協同組合などの研究教育 産卵する習性がある。 が使用されている。特殊なものとして、金属の機関が置かれている。劇場、歴史民族博物館も / ヒロガムシやマグ し鋼管は、水圧・油圧が加わるところ、ポイラ コガネムシ類以外ではハヾ。 らせん ^ 渡辺一夫〉 ーなどに使用されている。鋳鉄管は鋼管よりも薄板を螺旋状に組み合わせたたわみ管というのある。 ソガムシなどガムシ類、エンマムシ類、シデム じようるりじ くたいじ 0 浄瑠璃寺 シ類、サビハネカクシやコガシラハネカクシな重く、強度の点でも鋼管より劣るが、安価で耐があり、可動部分の油輸送などに使用される。九体寺 たいし Konkrete Poesie 具 液体や気体を輸送する管は、その中を流れる具体詩 どのハネカクシ類が糞に集まることが知られて食性もよいところから、水道・ガス・廃水など いるが、これらはかならずしも糞を食べるので地中に埋設する場合に多く使用されている。銅流体の量・物性・摩擦抵抗・温度などを考えて象詩ともいう。一九四四年スイスの工芸家マッ 合理的に配管設計をしなければならない。管路クス・ビルが「具象」美術展を組織して、具象 はなく、糞に発生するウジやほかの昆虫を捕食管は耐食性に優れ、たわみに対する性質もよい ヒルの秘書でもあっ はかならずしも直線状ではなく、途中で管を曲という概念を打ち出した。、、 〈中根猛彦〉ため、化学工業用や家庭内の給湯用の管、さら するものもある。 たオイゲン・ゴムリンガーによる、この概念の に熱伝導もよいのでポイラーその他の熱交換器げたり、太さの異なる管を使用しなければなら 中空の細長い管。。ハイプ pipe 、チ くだつぎ ないこともある。管と管とを接続するには管継言語芸術への適用が、ドイツにおける具体 ( 具 ュー・フ tube ともいう。通常、円形断面のも用にも広く使われている。銅管の一種黄銅管も のが多いが、その他の形状もある。主として気同じような性質をもっているので、復水器・熱手を使用する。↓管継手因〈中山秀太郎〉象 ) 詩の端緒。もっとも、彼の詩誌「シュピラ ーレ』 ( 一九五三創刊 ) とほば同じころプラジルで 古代の飾り帯の一種。「くん 裙帯 も「ポエシア・コンクレータ」の詩人たちが輩 たい」ともいう。裙はロングスカートで、もと もと裙をはいた腰のところに締めて前に長く垂出している。具象とは素材を、それに内在する ようろう の らす帯のことをさし、養老の衣服令に掲げられ自律的法則性、質料的機能に即して取り扱うこ そえのおび 塗 ている女子の礼服や、朝服に用いられる紕帯のとをいう。詩作の場合、言語は造形素材として きんとう ほくイ一んしよう 黒院 ことと思われる。藤原公任の『北山抄』によの単語に還元される。歴史的、社会的に既成の ひも の多 へ喜 ると、礼服の裙帯は紫と緑の絹を紐の縦中央で統辞法、文法、意味論から遊離した単語を視覚 のすじ 面玉縫い合わせ、張や壁代の野筋と同じようにし、的に配列したゴムリンガーの表現法を、プレー 両端に文様を刺しゅうするという。平安時代中マーなどは一見商業グラフィックに共通した側 前文期以降、衣服の長大化とともに裙が変形し、裳面をもつ手法にまで推し進め、一方モーンは、 手重 すそ 右 語の音声的連鎖、聴覚的連合を追究、ときには とよばれて後方に裾を長く引く形式となると、 ' 絵 裳の大腰といわれる後ろ腰の部分に縫い付けら単語を分節発音に解離させ、音声と字面の多彩 作 なごり 製 の人れた引腰に名残をとどめ、晴の日にそれに加えな紋様を制作した。具体詩は国際的な広がりを ひとえ ひれ て裙帯と領巾を対にして女房装束 ( 十一一単 ) にみせ、六〇年代には頂点に達した。〈内藤道雄〉 ぐたいせい物事が備える特殊的、個 「は 3 信用いた。「紫式部日記』に「すそ濃の裳、ひれ具体性 で吉 はじだん 別的、実在的で、あるがままの性質。具象性と 央野くんたいは浮線綾を櫨綾に染めたり」とあり、 むら 1 ~ だんぞ 中狩 もいう。抽象性が物事の一面や複数の事物に共 綾染め、村濃、目染めなどにしたようである。 兜る なお、領巾、裙帯をつけ、髪上げし、釵子を挿通の本質的、普遍的、観念的な性質をいうのに ーしーし から 〈高田倭男〉対する。したがって、抽象性は何が具体的であ す姿を唐装束ともよんだ。 奥れ 左さ クタイシ KYTaHcH/Kutaisi ソ連南部、るかに応じ、それと相関的に決定される。「具 一 ~ 」一師がグルジア共和国西部の都市。カフカス山脈を南体的に案を示せ」「具体性に富んだ解説」など 足業 のように使われるが、論理的には、個別的存在 4 具作流、西流して黒海に注ぐリオニ川の扇状地上に め人は : ー ひき 1 、し

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くすり ⑨ ・アヘン、塩酸アヘンアルカロイド、塩酸エチルモルヒ ネ、塩酸モルヒネ、リン酸コディン、 ン酸ジヒドロ コディン、オキシメテパノール、アヘントコン散、ア ヘンアルカロイドアトロピン、塩酸コカイン 合成麻薬 ・塩酸ペチジン、クエン酸フェンタニール のものをかえることは、主薬の吸収、分布、代謝、排泄を変物と化学薬品に分けてみてみよう。 制衣剤 : 形 え、薬の効果に影響を与えることが明らかとなった。これら アスピリンの原料はサリチル酸であり、これはもともと石 薬物を人体に投与する場合、薬物がそのままの形で投与さの例は、吸収の悪い賦形剤から乳糖にかわり、薬物の吸収が炭タール中のフェノール、。 ヘンゾールが原料である。そもそ れることはきわめて少ない。内用、外用、注射といった投与よくなったためにおきたものである。アンプル入りのかぜ薬も化学工業は、石炭タールからのアニリンを原料にした染色 ルートにもっとも適した、しかもその薬物の効果を十分に発 による死亡事故は、散剤あるいは錠剤であったかぜ薬を水剤工業をもとに発達したともいえる。最近では石油を原料とし 揮でき、安全性が大である剤形が選ばれる。あるいは逆に薬としたもので、液剤のはうが固形製剤より吸収がよいことが た石油化学によることが多い。抗生物質はカビなどの微生物 物の物理化学的性状およびそのものの生体に対する吸収、分原因の一つで、剤形の差によっても薬の効果が異なる。 を培養してつくられるが、日ーラクタム系抗生物質ではその 布、代謝、排泄などの状況から、さらに製剤技術上の問題が 薬剤の投与ルートは内用、外用、注射の三つに大別されもととなる 6 ーアミノベニシラミン酸、 7 ーアミノセファロス 加味されて、投与ルートが決定されるといったほうがよいかる。内用は経ロ投与による。内用固形製剤として散剤、細粒ポリン酸をカビにつくらせ、そのあとは合成により新たな薬 はんらん かりゅう もしれない。同一組成薬品の氾濫する今日、製剤の優劣は薬剤、顆粒剤、錠剤、カプセル剤、丸剤などがあり、内用液剤物をつくりだしている。ビタミン剤もかっては天然物から抽 しんせん 効の優劣として現れることが多い。その際、薬物の物性 ( 粒には内用水剤、シロップ剤、エリキシル剤、浸煎剤、リモナ出したが、現在ではほとんどが合成品である。ビタミンの 子径、結晶形など ) 、添加剤、製剤方法、剤形などが大きな ーデ剤などがある。外用では、固形状の散布剤、外用液剤と合成がカビによってなされるというように、発酵工業との関 がんそう かんちょう 要因となる。 して注入剤、含嗽剤 ( うがい薬 ) 、吸入剤、噴霧剤、浣腸連も多い。ホルモン剤も以前は動物の臓器や尿から抽出され たとえば抗アルドステロン製剤であるスビロノラクトン剤、塗布剤、点眼液などの眼用液剤、点耳・点鼻液などの耳たが、これも合成品が多くなった。天然のホルモン剤はステ ( 利尿薬 ) やグリセオフルビン ( 抗生物質、抗真菌剤 ) では鼻用液剤などがあり、外用でもっとも多い剤形として軟膏ロイド骨格をもったものかべプチド系のものであり、副腎皮 粒子径を小さくすることにより血中濃度が高くなり、したが 斉、クリームがあり、さらにパスタ剤、リニメント剤、ロー 質ホルモンの合成研究が進んだのは、メキシコのサポテンか って投与量が少なくて効果のあるものとなる。バルミチン酸ション剤、眼軟膏剤、パップ剤、硬膏剤などがある。そのは らステロイド骨格をもっ原料が大量に得られるようになって すいぞう クロラムフェニコール ( 抗生物質 ) では象日の二種の結晶 か、特殊な剤形として坐薬があり、注射剤にはその注入部位からである。インスリンはウシやブタの膵臟から抽出されて せきずいくう 形が存在し、日形は形より効力が著しく低く、形のみか により、皮下、皮内、筋肉内、静脈内、動脈内、脊髄腔内、 いるが、遺伝子工学の応用で、微生物を原料にして、いち早 らなる製剤がよいとされている。添加剤では、賦形剤の差に関節腔内などと注射方法が分けられている。 くヒトインスリンがつくられた。血栓症の治療に用いられる よる副作用の増大例として、オーストラリアでおきた抗てん ウロキナーゼは健康人の尿から抽出されているが、これも遺 薬の原料 かん薬のフェニトインカプセル、イギリスでおきた強心薬の 伝子工学により組織培養で製造することができるようにな ジゴキシン錠の回収事件がある。フェニトインカプセルの例 薬の原料としては、古くは動物、植物、鉱物そのものか、 り、市場に出ている。このように薬の原料は元来は天然品で では、無水硫酸カルシウムを賦形剤としていたものを乳糖にあるいはそれを加工したものが用いられていた。化学技術のあるが、植物、動物、鉱物、とくに鉱物 ( 石炭、石油 ) をも かえたことがおもな原因で、ジゴキシン錠では以前用いられ発展は、その有効成分を抽出し、化学構造を決定し、合成すとにした化学薬品がその主流を占めているといえよう。 ていた炭酸カルシウムを乳糖にかえたため副作用が現れてい ることを可能にした。現在では多くの医薬品は化学的な合成 最近急速に発展したものに血液製剤がある。ヒトの血液を る。すなわち、なんら薬効を一小さない賦形剤であっても、こ によってつくられている。それではその原料は何かを、天然保存し、緊急時にすぐ輸血が可能となることを考えて保存血 寄生動物に対する抗原虫剤 薬 駆虫剤 化学療法剤 抗結核剤 その他 サ フ ア ・スルフアメトキサゾール、スルフアジメトキシン、ス ルフイソミジン、サラゾスルフアピリジン、スルファ メチゾール、スルフアメトピラジン、スルフイソキサ ゾール ハラアミノサリチル酸、イソニアジド、ピラチナミド、 エチオナミド、 プロチオナミド、エタンフトール ・グルコスルホン酸ナトリウム、ジフェニールスルホン、 チアゾスルホン ・ビダラビン、チアンフェニコール、ナリジクス酸、ピ ロミド酸、ピペミド酸、フルシトシン、ノルフロキサ ・キニーネ、クロロキン、ファンシダール、 プリマキン、 チニダゾール、 メトロニダゾール ・サントニン、ピペラジン、ジェチルカルバマジン、 モ酸ピランテル、パモ酸ピルビニウム、ビチオノール、 スチブナール ⑩ ・麻薬 麻薬 ・治療を目的としない医薬品 調剤用薬 賦形剤 軟膏基剤 溶解剤 矯味矯臭着色剤 天然麻薬 ウトサ蒸膏ズワ乳 ィーツ留、油セ糖 キルカ水 ツ単ンデ ヨ ウハン精ロ軟、ン 油ツナ製ウ膏親プ 、カト水 、水ン オ油リ、カマヮ レ、ウブカクセタ ンノ、ムロオロリノレ ジッ、ピ脂ゴンク 油カ単レ 水シンラル白 、ログノ軟色 ュッリリ膏軟 ープコン、膏 力、一、親 リハルノヾ水オ チラ軟リ フ膏プ ロ イ ツ ン吸 水ダ 軟イ ン 452

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の場合も、中に入れるものとあったグラスを選 す . プランデーグラスは脚が短くて口径が小さく、 、ら底が膨らんで広くなっているが、これは、プラばないと、飲み物が汚い色に見えるので注意を ンデーの香りを逃さないようにする一方、手で要する。一方、家庭で日常用いられるグラス類 温めたときに香りが出やすくなるように考えら には、強化ガラスなどを使ったじようぶなもの れたもので、材質も薄手である。ワイングラスがよい。またグラスは、上下からの圧力には強 はっ いが横からの衝撃には弱いので、収納するとき には、細くて容量の少ない白ワインやシェリー 上が などグラスどうしが当たらないよう、すこし間 用グラス、赤やロゼ用のすこし丸みのあるクラ 塔像 レットグラス、ポートワイン用の上部がつばまをあけて並べるとよい のの 洗うときには傷がっかないようにスポンジ ったグラスなどがある。白ワイン用グラスのほ うが赤ワイン用に比べて容量が少ないのは、飲で、微温湯に中性洗剤を加えてよく洗い、ほば 広ス み方の相違からで、白ワインは冷やして飲むた乾いたころにふきんで磨くようにしてふくと、 エタ め、すぐまた注げるようにくふうされたものできれいになる。なお耐熱性の低いガラスを使用 ある。これに対し、赤ワインは常温で飲むた したものは、熱湯で洗うと破損することがあ スオ ウ め、白ワイン用より容量が多くなっている。強る。また、クレンザーや金属たわしなどで洗う ジ家 とグラスに傷がついて非常に汚くなるので、使 い酒をストレートで飲むためのリキュールグラ ジ 〈河野友美〉 スも、容量は少ない 用しないほうがよい 場人 広詩 カクテルを入れるカクテルグラスには逆円錐グラース Grasse フランス南東部、アル のの 形のものと丸形のものがあり、いずれも脚がっプ・マリティーム県の都市。人口三万八三六〇 , リットル ( 一九全 ) 。標高三三三の所にあり、地中海を見 いている。容量は普通六〇 ~ 七〇、、。 ゴとト で、カクテルの種類により、脚のない細長いグ渡せる保養都市である。フランスの香水製造の ス所 一フコ ラスが用いられることもある。このほか、 ほっ中心地でもある。町の建設はローマ時代にさか グ市ス そりした形のサワーグラス、小さい取っ手のつのばるが、中世には商工業都市として栄えた。 いたパンチグラス ( パンチボールとセットにな 〈青木伸好〉る信頼を前提にした制度といえよう。このほ工業都市。スコットランド最大の都市で、人口 フラゴナール美術館がある。 ( 一九全 ) 。クライド川河口より っていることが多い ) などもある。 クラス・アクション class action 集か、クラスの構成員は、訴えが提起されたこ七六万二二八 二〇キロ上流に位置する。地名はダーク・グレン 清涼飲料用としては、タンプラーやゴプレッ 団訴訟あるいは集合代表訴訟と訳される。欠陥と、代表者がだれであるか、その代表者がクラ 谷の意 ) に由来する。各種の商工業が集 トなどがあり、普通平底のコップ形のものをタ商品により多数の消費者が損害を被ったとしスの利益を代表して適切な訴訟活動をしている ( 暗い、 ンプラーといって ( シリンダー形ともいう ) 、 て、企業を相手方として損害賠償請求をする場かなどを知り、場合によりクラスから脱退する積するスコットランド経済の一大中心地で、交 容量が五、六、 一〇、一二、二〇オンス合、消費者一人すつの被った損害が小さけれことも保障さるべきであるが、これらのクラス通の要衝。一七〇七年イングランドとスコット ランドとの連合後から産業革命期に至るまでに ( 一オンス日約二八・四一 广リットル ) のものば、個別に訴訟をすることは、手数・費用の点構成員の手続保障をどのようにするかが問題と ちゅうちょ 〈本間義信〉急速な発展を遂げ、東岸にあるスコットランド がある。ゴ。フレットというのは、タンプラーにで引き合わす、躊躇することになる。この場されている。 文化の中心地エジンバラとは対照的に、イギリ 脚をつけたような形のグラスの総称で、容量は合に、その代表者が消費者 ( クラス ) を代表しグラスコー Ellen Anderson Glasgow ス北方経済圏の中心地としての地位を築いた ( 天七四ー一九四五 ) アメリカの女流作家。バーノ , リットルくらいである。タンプラーのて訴訟をし、その判決の効力をクラス構成員に 二四〇 '- 一種であるエードグラスは、高さ約一五、ロ及ばす制度をいう。現在アメリカにこの制度がア州リッチモンドの名家に生まれたが、病弱の繊維工業がもっとも早くから立地し、現在はこ ため学校教育を受けず、文学に親しんだ。感傷れにかわって鉄鋼、造船工業が重要産業をな 径六の背の高いグラスで、コーリングラスとあるが、日本にはなく、消費者保護の視点から もよばれている。そのほか用途により、各種のその導入が提唱されている。アメリカでのクラ的なロマンスを排し、南北戦争以後の南部の現す。クライド川の沿岸から河口にかけての臨港 パフェやサンデーなどを盛るためのパフエグラ ス・アクション提起の要件として、クラスに属実を直視することを主張して『人民の声』 ( 一九工業地帯には多くの造船所が集積し、世界最大 シニアを舞台にした南部の「社の豪華客船「クイーン・エリザベス一世号」や ス、サンデーグラス、ビールのジョッキ、冷茶する者が多数であること、クラスに共通の法律 00 ) 以後、バー。 イギリス海軍の艦艇はここで建造された。その 用グラス、アイスティー用グラス、飲み物では 問題または事実問題があること、代表当事者の会史」を書き続けた。南部の寒村に生きるたく ほか化学、・ カラス、製紙、電気機械、ウイスキ ないがオイスターカクテル用のグラスなども含要求がそのクラスの要求の典型的なものであるましい女性を描いた『不毛の土地』 ( 一九一一五 ) 、 ーなどの工業が発達している。 まれる。 こと、代表者がそのクラスの利益を公正かっ適『鉄の鉱脈』 ( 一九三五 ) が代表作。ほかに一九四七 市の発展に伴って、一八〇〇年からわずか七 〔材質と選び方・手入れ〕グラスには各種のガ切に保護するであろうことがあげられている年度ピュリツツアー賞受賞作『このわれらの生 』 ( 一九四 D 、死後出版された自伝『内なる女』〇年間に人口は約七倍に急増し、一九一四年に ラスが使用されているが、ガラスの質によってが、具体的にクラス・アクションとして認めるに 〈井上謙治〉 ( 一九五四 ) がある。 は一〇〇万人を超え、三〇年には一二〇万を数 か否かは、裁判所が決定することになってい 中に入れるものの味が影響されることがある。 えた。製鉄能力、建造船舶トン数は、往時のエ とくにワインやウイスキーなどは、液の色がきる。また、ある人を代表者として認めるか、ク (E)—2 ・オーキンクロス著、佐藤宏子訳アメリ カ文学の開拓者たち』 ( 一九七一・研究社出版 ) 業先進国ドイツやアメリカを優に超え、これら ラスを分割するか、訴えの取下げ・和解を認め れいに見えるかどうかで味わいに大きな影響が の工業製品はグラスゴー港から繊維製品などと 出るため、セミクリスタルガラスなどの光の屈るかも、裁判所が決めることになっている。クグラスコー Glasgow イギリス、スコッ ラス・アクションはこのように、裁判所に対すトランド中部、ストラスクライド地区の港湾・ ともに海外に輸出された。グラスゴーは世界に 折率が高いものが多く使用される。着色ガラス 冖 第 606

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いずもの 金蘭方きんらんほう平安時代の医書。出雲格をもつ。他方、貸付資金の需要者、たとえば曲線は金利について右下がりの性格をもっこと ひろさた すがわらのみねつぐ 広貞の子、菅原岑嗣 ( 七九三ー 〈七 0 ) が、清和天企業は、貸付資金を借り入れることによってプとなる。いま貨幣供給量を一定とすると、日常 じようがん 皇の勅を奉じて、貞観年間 ( 〈五九 ~ 七 ) ラントや設備を増加させ、より大きな利潤を獲の取引のために需要される貨幣量 ( 交換手段と もののべのこうせんたいまのかもつぐおおみわのつねめし 物部広泉、当麻鴨継、大神庸主らとともに撰得するような行動をとる。したがって金利が高しての機能から発生したもの ) は所得の大きさ くなると採算があわなくなるから、貸付資金に によって決まるので、全体の貨幣供給量からそ した。『三代実録』にそのことがみえる。巻数 にんなじおむろ について『本朝医書目録』仁和寺御室書目に五対する需要曲線は金利に対して右下がりの性格の分を差し引いたものが資産としての貨幣の供 〇巻とある。現在、久志本本、東本、牛島本、をもつ。そして貸付資金に対する需要曲線と貸給量となる ( 図のそして貨幣需要曲線 と資産としての貨幣供給水準との交点 ( 図の 南条本などの流布本が伝わっているが、いずれ付資金の供給曲線の交点、すなわち図の の水準で金利が決定されることとなる。 も偽撰とされ、そのことについては、幕末の和 という金利水準で貸付資金の需給が均衡するこ ウ のりさだ 方医家、佐藤方定が『奇魂』で論じたのをはじ ととなる。このように考えてくると、家計の貯 ところで、人々は現実に金融資産を、貨幣 チ ン と、金利のつく金融資産という二つの形で保有 め、多くの学者が偽書と断じている。また平安蓄行動と企業の投資行動が金利に反映するか ラ ン写とも鎌倉末写ともいわれる巻一 ~ 三、巻八 ら、金利は経済システムにおける実物部門と金するのであるが、その割合は、金融資産がいか なる水準の金利をつけるかによって決められよ 一一三の残欠巻子本五本が宮内庁書陵部に現存す融部門を結び付ける鎖の役割を果たしていると いえる。 るのでこの名がある。頭部、腹の上部、体側は るが、これは一二世紀以降の偽作と考察され、 う。人々が貨幣と金利のつく金融資産のいすれ 黒色。雌と非繁殖期の雄はじみな淡褐色であしたがって今日、原書の内容を知る資料は残っ 〔金利の機能〕以上のように、金利は貸付資金をどれだけ保有するかは重要な意味をもってい る。セネガル、スーダン以南のアフリカ一帯にていない。 〈小曽一尸洋〉 の需給を均衡させる働きをもっているが、そのる。というのは、金利のつく金融資産で保有さ . し・フか きんり rate 0f interest 金利は貨ほかになお二つの基本的機能を果たしている。れた分は貸付資金の供給となるからである。し 分布し、草本の種子、漿果のほか、小動物など金利 も捕食する。五亜種に分類されているが、普幣利子率のことであり、それは金融市場におい 第一は、貸付資金を経済の各部門に効率的に配 たがって、人々の貨幣と金利のつく金融資産の 通、キンランチョウとよばれるのはセネガル、 て取引される貸付資金の価格を意味する。金利分するという機能である。図 < の点で金利保有割合は、貨幣市場での貨幣需要と貸付資金 ソマリア、スーダン、エチオピア、ケニアに生の働きによって、貸付資金に対する需要と貸付 が決定されれば、もっとも効率性の高い資金の きんしゃ 量 息する亜種をさす。元気な鳥であるから禽舎で資金の供給が均衡する。これを図示すると、図需要者はすべて貸付資金の借入が可能となり、 幣 幣需 貨 飼うのもよいが、日本への輸入は多くはない。 のとおりである。貸付資金の供給者、たとえその水準で貸付資金の供給者は最大の利益を得 貨る の ・す て 繁殖期の雄の赤黄色がさらに濃く、鮮やかな紅ば家計は、現在の消費を差し控えてその分を貯ることとなるのである。第二は、金利の景気調 し 〃対 褐色を呈するオオキンランチョウは同種で、ア蓄 ( 将来の消費 ) し、これに対して一定の報酬節機能である。景気が上昇して貸付資金に対す と 産 ンゴラ、ナミビア、ローデシア地方、南アフリ ( 金利で測られる ) を得ることとなるので、貸る需要が増大すると、金利水準が上昇する。し カ共和国などに生息する亜種である。これも日 付資金の供給曲線は金利に対して右上がりの性かしそれが一定の高さにまで達すると、貸付資 本への輸入は少ない。〈坂根干〉 金の需要者は採算があわなくなり、需要量は減 少に転ずる。同じことは貸付資金の供給者にも 金襴手きんらんで金彩文様の 翼誇 ある色絵磁器のことで、五彩とも いえるから、金利が変動することによって景気 右を きんばく い巍イ一最致 いう。陶磁器に主として金箔文様 変動が調節されることとなる。 も極 を加飾する華麗な色彩効果はすで 〔金利の決定要因〕図 < では貸付資金の需要と か美館 に唐代に、土器に行われたが、北 な艶念供給とが金利水準を決定するとしたが、ケイン そう ていよう のの記 代山ズは、貨幣に対する需要と貨幣供給とを均衡さ 宋代に定窯で試みられた金花 ( 金 箔文様の焼付け ) 技術が磁器では せる水準で金利が決定されると説明する。すな の靖 手嘉京 最初と目される。元以後は景徳鎮 わち、金利は貨幣のもっている重要な性格であ 襴 , 東 窯でやはり金襴手が焼かれてい る流動性を放棄することに対する報酬であると 重文 みんかせい る。とりわけ明代嘉靖年間 ( 一五一三 多貴重考えるから、図 22 が成立する。人々の貨幣に対 のも する需要には、貨幣の交換手段の機能から発生 ~ 六六 ) には白磁五彩地にさらに金 作の 5 秀る 箔文様を焼き付ける絢爛たる装飾 するものと、貨幣が資産として保有されるとい ートしフ」 う機能から発生するものとがある。後者につい 法が流行して、この磁器がとくに かっ わろ紀ては、人々は金利のつく金融資産 ( たとえば債 金襴手と日本で呼び習わされた。 そ世 瓶対 券 ) があるのにもかかわらす、資産を貨幣で保 この嘉靖金襴手は、江戸時代の中 期、一八世紀に日本で大いに愛好 角。る有しようとするのは、貨幣が流動性という特徴 ふうび されるようになり、一世を風靡し をもっからである。したがって金利は、貨幣の 彩精て 五のつ り・伊万里焼もこの金襴手に倣って独 もっ流動性を放棄して他の金利のつく金融資産 手 を保有することへの報酬となるのである。また ん自の伊万里金襴手をつくりあげ、 襴 〈矢部良明〉 図のごとく、資産としての貨幣に対する需要 キ、大流行を遂げた。 けんらん せん 金利 〔図 A 〕 〔図 B 〕 s: 貨幣の供給 s: 貸付資金の供給 〃 : 貸付資金 に対する需要 貸付資金量 引 3

8. 日本大百科全書 7

曇よ ~ な・ / ← ' 4 鍬の部分名称 ( 風呂鍬 ) 柄 おおくらながつね 鉄板の両端を折り返し、そこに本の鍬をはめ込 外部に突出している。刃床部の形状、大きさな に大蔵永常の『農具便利論』 (l<llll) が「鍬は は、すでに弥生時代前期には使われていた。弥 へだて どが自由に工作できるため金鍬の種類は数多国々にて三里を隔ずして違ふものなり」と教え生時代の鍬には平鍬 ( 後の風呂鍬に類するもんだものがあり、これが初めの形とされてい また びっちゅう ているように、その土地土地の耕地条件や使用の ) と股鍬 ( 備中鍬に類するもの ) があり、 る。現在みられるような鉄製の字形の鍬先を 、板鍬から分岐していろいろな形態へと変化 え されき また している。砂礫土質用の鋸金鍬、股金鍬、砂質目的などによってさまざまな形状のものがあ平鍬は刃、柄とも木製のもので、柄をつける柄着装した風呂鍬に近い鍬が出現するのは、古墳 かがみさきびっちゅう あしかぶ つば 匕壺の部分に肉厚の隆起がついている。股鍬も時代になってからで、五世紀以降にはこの型の 土用の鏡先備中鍬、葦株切り用の坊主鍬、尖る。とくに畑作を中心とする地方では鍬の分イ ふたまた 金鍬、開墾用の島田鍬、湿田用の田鍬、四本備が進んでおり、一軒の農家が一〇種類くらいの刃、柄とも木製で、刃は二股、三股あるいは五鍬が広く使われるようになった。また、現在の 中鍬ばち付きなどは特殊な作業にのみ使用され鍬をもっ場合もみられる。 股、六股に分かれたものが出土している。鍬に備中鍬に近い刃先が三股または四股の鉄の鍬 こ使われるようになった。 〈小林正〉 くつは、四世紀後半以後し る鍬である。 このように多様な形状をもっ鍬は、農具のな 鉄の刃先を使 , つようになったことには、、 〔歴史〕農耕、土工などに使用する鍬は、すでかではもっとも重要なものの一つで、日本でかの問題があるが、弥生時代後期には長方形の文献上に鉄の鍬が現れるのはさらに後の八、九 の鍬発アてさ柄もび木る し適す 発まあ , う。る統 製呂に ジれに . はご士盟に亠の 作る / 、先がいよる、す・伝 目薄りう 摩る 鉄風的アさ方 3 んを座で みす 多刃起のあ装レ ~ のを取よ , す カた躍南用け。込刃台の 込化 らは隆 3 、も有 起 レし E.2 ・ 4 立ロ医、つ 0 体き飛 使付るしにのも 量減 ち強 かのの 変刃かする 重軽 全でがカにのれ差柄製の 力も台術 跡も形ゞ 身で産 ん柄らをの属式 遺の船但たた製 耕 に鉄生フ盛やみ刃本金方 の期に いれ本 一たはむ 代が業アで形が 代中囲てらで本 時け農は方のう分し 5 込 時・周れけ刃日 鍬地刃ふ部曲 , め 生前のこさっ鉄 くだ屈のは 戦先しは帯 弥。壺。解がの は刃現。に熱りのんはもを はる柄 ) と柄代本 でや出た的のおまら 4 た刃 るに十寸 国②がし界どてざ彭 はてで 1 れ側墳 中鍬田達世なきまのの付製 でれ製図ら対古 図る 本さ本 ( け反は 日見でる付に 4 使用法による分類 打ち鍬 引き鍬 打引き鍬 角先 柄鍬 柄呂 60 。 ~ 85 。 50 。内外 35 。—400 刃床部 日本古代の鍬 第 4 よ 2 とがり やよい え ふろ ばち鍬 つるはし 5 . インドネシア 4 . アッサム ( インド )

9. 日本大百科全書 7

ぐじようおどり岐阜 くじゅうさん大分県中西部にある種人論争に加わった。三五年、国民党政府によ郡上踊 、フ久住山 くじゅう はちまん 〈前田利昭〉県郡上郡八幡町の盆踊り。町の 山。九重火山群の一峰で、標高一七八七。角り逮捕、銃殺された。 ゅ じ閃安山岩の鐘状火山 ( トロイデ ) で、山頂に近回増田渉訳『革命のモスクワへ』中国現代文広場に櫓をたて、七月なかばか からいけ く御池、空池などの火口跡があり、阿蘇、祖母 学選集 3 』所収・一九六三・平凡社 ) ▽金子二ら九月初めまで輪になって踊 山など、山頂からの展望はすばらしい。古来朽 郎訳『魯迅雑感選集』 ( 一九五三・ハト書房 ) ▽る。ことに八月一三日から一六 たみやま 網山ともよばれ、「万葉集』にも「朽網山タ居 楊之華著、新島淳良訳『回想の瞿秋白』 ( 『中日までは徹夜で踊る。踊りの種 あれ る雲の薄れ去なば我は恋ひむな君が目を欲り」 国現代文学選集』所収・一九六三・平凡社 ) 類には、「川崎」 ( 三味線なし七 寺 みまた すそ と詠まれている。三俣山との裾合谷の標高一三 クジュラ・カドフイセス KujüraKad- 拍 ) 、「三百」 ( 三味線あり一一 月 まつけいん はる - 一ま ほうひ ぶんご 〇〇の地に法華院温泉がある。豊肥本線豊後 phises 生没年不詳。一世紀に北西インドを拍 ) 、「春駒」 ( 三味線あり、 きゅう 京 竹田駅からバス約一時間の南登山口から徒歩一一一支配し、クシャン朝を創始した王。漢訳は丘拍 ) 、「松坂」 ( 三味線なし七 じん はんだ しゅうげき 像 時間余、やまなみハイウェー沿いの飯田高原就郤。カドフイセス一世ともいう。クシャン拍 ) 、「猫の子」「やっちく」「甚 と ちょうじやばるまき たい 長者原と牧ノ戸峠からは徒歩二時間前後で山族のことを中国の史書は「月氏」または「大句」「騒ぎ」「ゲンゲンバラバ はやし 実 頂に達する。↓九重山 〈兼子俊一〉夏」として伝えているが、彼らはもと中央アジ ラ」などがある。囃子は大太 条 囮二万五千分の一地形図「久住山」 アのサカ族ないしトカラ族に属していたと思わ鼓、笛、小太鼓、拍子木で、三 くしゅ、つはく / チュイチューヾ ノイ ( 天九九れる。彼はまずヒンドウー・クシ山脈一帯の部味線の入る曲もある。古くは楽 瞿秋白 ー一九三五 ) 中国の革命家、文芸評論家。名は霜、族を平定したのち、インドに侵入し、カープル器を使わず歌だけであったという。軽快なテンを政権の座につける結果をもたらした。平家滅 よしつね - 一うそ 筆名に宋陽、史鉄児、易嘉など。江蘇省常州のやタクシャシラーの地を征服したという。帝国ボのもの、哀愁に満ちたもの、ユーモラスなも亡後、頼朝の弟義経追及に対する兼実の全面協 ベキン ふんそう 出身。北京ロシア語専修館在学中、五・四運動の基礎を固めてからはローマとの通商を積極的のと曲趣も豊かで、扮装も思い思いで頬かぶ力が二人を確実に結び付けたのである。兼実は しり ( 一九一九 ) に参加し、社会の矛盾に目覚めた。一 に進めた。彼が鋳造した貨幣のなかにはローマり、尻はしよりなど自由である。「郡上の八幡ここに頼朝の支持によって摂政となった。かく そで しんほう て年来の宿望を達成して彼の政治の第二期が開 九二〇年『北京晨報』記者としてモスクワに駐のそれを模したものが発見されており、クシャ出て行くときは雨も降らぬに袖しばる」とい ける。それは平和回復の時代の到来であった。 在し、一一一一年中国共産党員となった。このとき ン帝国において拡大した経済活動と車事的発展う川崎の歌詞はとくに知られる。〈萩原秀三郎〉 くじようかねざね ( 二四九ー一一一 0 七 ) この情勢を象徴する歴史的事業として朝廷は東 の見聞録「革命のモスクワへ』『赤都心史』はの跡をうかがわせる一方、ヘレニズム文化の影九条兼実 ちんどく つきのわかんばく ) 」ほうしようじ : ゅうどう 有名。帰国後、中共中央の要職を歴任、陳独響を受けたことを示している。 〈山折哲雄〉鎌倉前期の政治家。月輪関白、後法性入道大寺復興に全力をあげた。その完成に際して頼 しゅう ただみち じようらく 秀にかわり第一線にたつが、三一年、政治上グシュルバウアー Theodor Guschl- 関白などの称がある。関白藤原忠通の三男。母朝も上洛して敬意を表したが、その機会に頼 なかみつむすめかがのつばね ) オーストリアの指揮者。は藤原仲光の女加賀局。一一六六年 ( 仁安一 ) 朝と兼実とは相語って盟約を固めている。しか の失敗で引責辞任。以後、上海で文芸活動に従 bauer ( 一九三九ー せっしよう ろじん し一方、兼実のこの立場は疑惑の的となり、朝 事。『魯迅雑感選集序言』 ( 一九三一 l) 、『海上述林』ウィーン生まれ。同地の音楽アカデミーでハンより右大臣。八六年 ( 文治一 l) 摂政となり、 廷への反逆者をもって目せられることは兼実を などの著訳がある。この間、文芸大衆化・第三 ス・スワロフスキーに学び、その後カラヤンと九一年 ( 建久一 l) から九六年まで関白。 ごとばちゅう もっとも苦しめた。またその女子を後鳥羽中 マタチッチにも師事した。ウィーン・ 兼実の政治的生涯は三期に分かっことができ いに皇子の誕生な フォルクスオー 、ザルップルク州 る。第一期は一六歳から三四歳まで、平氏政権宮とすることができたが、つ 立劇場、リョン歌劇場を経て、一九七下にあったときである。初め公家政権との協調 く外戚政治の望みも断たれた。一方、朝廷内部 みちちか せっしようこのえもとぎね の反武家勢力を代表する源通親は九条家の競争 五 ~ 八三年リンツ州立歌劇場音楽監督 に努めた平氏は、摂政の近衛基実と血縁を結 まつどのもとふさ ならびにプルックナー管弦楽団首席指び、同じ触手を弟松殿基房、兼実にも及ばそ , つ者近衛家を擁して、一一九六年兼実打倒の政変 に成功。兼実はかくて四八歳で政界を去り、第 れ揮者を務める。八三年以降ストラス。フとした。しかし公武対立の激化に伴い独裁化し いんせい みぞう ら 三期すなわち隠棲期に入る。兼実は早く長男良 ール・フィルハーモニー音楽監督。こてゆく平氏権力は摂政基房を追放して末曽有の 踊 よしつね て の間、七四年 ( 昭和四九 ) 初来日、七屈辱を与えた。摂関家の誇りに生きた兼実は極通を失い、のちには次男良経に先だたれ、晩年 し みちいえ は良経の子道家の成長を楽しみつつ子孫と没後 徹六年にはウィーン国立歌劇場にデビュカ平氏との接触を警戒した。その結果、兼実は ーした。スタンダードなレ。ハートリー 夜 終始右大臣にとどまることとなり、摂関就任の のみに心を砕く身となった。一方っとに親しん せんじゅ 十 6 のはか、バロック・オペラと現代オペ 念願は阻まれた。しかし、この雌伏の間に彼ができた仏教の信仰は年とともに深く、当時専修 しよ、つ ほ、つねんー、つげんくう 盆 念仏の教えを開いた法然房源空を邸に請じて法 ラの上演に意欲を燃やし、べーム亡き得た政治の体験は将来の飛躍の原動力となっ きよもり よしなか せんちゃく あとのオーストリア指揮界を担ってた た。平氏政権は清盛の死に衰兆を示し、源義仲を聞き、源空の主著『選択本願念仏集』成立 よりとも しようにん つ中堅として注目される。〈岩井宏之〉の進攻に崩壊し、頼朝の新政権にとどめを刺さ も兼実の請が機縁となったという。『法然上人 行状絵図』はこれらの経緯を伝えている。晩 ぐじよう岐阜県中央部にあれた。この都の破局の収拾と公家政治の再建の び郡上 おくみ もる古代から現在の郡名。かっては奥美仕事は、衆目のみるところ、いまや摂関家中、年、法性寺の傍らに月輪殿を営んで住んだ。建 ギ一よくよう の むぎ 客 濃とよばれた。武儀郡に属していたが見識、実力、年齢において最長老であった兼実永二年四月五日没。兼実の日記は『玉葉』と にもつばら期待された。清盛、義仲において武 、六六巻、ほかに柳原本一巻が現存してい 八五五年 ( 斉衡一 l) 分離建郡された。 カ はちまん 踊「群上」とも書く。↓岐阜 ( 県 ) ↓八幡家を危ぶんだ兼実は、かくして頼朝に賭けるほる。記事は四〇年にわたり、彼の生きた変革期 かない立場に置かれたが、それがたまたま兼実を活写して、数多い公家日記中で高く評価され 郡 ( 町 ) せん シャンハイ やぐら 0 みち えい がいせき 420

10. 日本大百科全書 7

くらく られている。主著に『地方の運賃差別に関する 像画家として働いていたが、四六年光学会社をゲン大学に学び、鉱物学、化学を専攻。帰国後 一八七〇年代の、・・ジェポンズ、 0 ・ 設立、もつばら望遠鏡の製作に従事し、大型か母校のアマースト大学の化学教授に就任し、南メンガー、・ワルラスにはやや遅れをとった合理的基準』 S ざミミ R き so きミ ss ぎ っ精密な望遠鏡の提供により、近代天文学の発 ト oc ミ F ミ D c 、ぎ ~ ミ s ( 一九一 0 ) 、『間接 北戦争では義勇軍に入隊し大佐に昇進した。一 が、クラークは独自に、八六年に限界効用理論 展に貢献した。彼の製作になるおもな望遠鏡 八六八 ~ 七八年アマーストのマサチューセッツを、九九年にはさらに限界生産力的分配論を展費の経済学の研究』 S 、、洋をを斗 s は、プリンストン大学 ( 口径二三インチ ) 、海農科大学学長となる。北海道開拓事業をつかさ開し、いわばアメリカにおいて限界革命の一翼 0 ミ斗き d Costs ( 一九一一一 (l) 、『景気循環の諸要 軍天文台およびバージニア大学 ( 二六インチ ) 、どる政府機関である開拓使の懇望により同大学を担った。また、クラークは、比較静学的分析因』 S 、、ミ e を c ミ。 ) in Business 0 s ( 一九 プルコボ天文台 ( 三〇インチ ) などに設置され長のまま、七六年 ( 明治九 ) 六月来日し、八月の先駆者でもあった。しかし、歴史学派の洗礼 三四 ) 、『動態的過程としての競争』 C 。き、ミを 開校の札幌農学校初代教頭に就任。事実上の創を受けたクラークには社会倫理的視点も鮮明で & き c Process ( 一九六一 ) などがある。 〈佐藤隆三〉 長子グラハム Alvan Graham Clark ( 一盒一一 ↓有効競争 設者となった。 あり、効率と同時に公正を重視する点が特徴と ー九七 ) も父の技を継ぎ、一 八六二年製作の一八 , し細かな学則を否定して「予がこの学校に なっている。主著には『富の哲学』 The P ・クラーク Sir Kenneth Mackenzie Clark ただ 〈三 ) イギリスの美術史学者、美術評論 ( 一九 0 三ー インチ望遠鏡は、その試観測の機会にシリウス臨む規則は、 Be gentleman! 只この一言に尽 穴六 ) 、『富の分配ーー賃金 わいせい の伴星 ( 白色矮星 ) を発見、検出した。ついでくる」といい、故意に規律を守らない者に対し 利子および利潤の理論』 The 0 ミ b ミ家。オックスフォード大学に学び、のちフィレ 八八年にリック天文台に三六インチ鏡を、さらては、「只退学あるのみ」といった。また厳格 e ミ . ・ゝ T 00 、 s. 、 e 、 es 、 and ンツェに渡って・ヘレンソンに師事。イタリア・ ルネサンス美術の専門家と認められるようにな に八九年にヤーキス天文台に四〇インチ鏡を設なピューリタンとしてキリスト教精神に基づく Profits ( 天究 ) 、『トラストの統制』 The C を・ うちむらかんぞう って、ロンドン・ナショナル・ギャラリー館長 置した。後者は現在でも世界最大の屈折鏡であ人間教育を行い、内村鑑三はじめ多くの人材を、き一。、 Trusts ( 一九 0 一 ) などがある。〈佐藤隆三〉 る。 ( 一九三四 ~ 四五 ) となる。さらにオックスフォード 〈島村福太郎〉出した。在職一年、七七年四月帰国にあたり、クラーク Michel de Klerk ( 天会ー 'BOYS, be ambitious for the attainment Of クラーク William Smith Clark ( 天一一六 lllll) オランダの建築家。一四歳から・カイ大学教授のほか、イギリス美術協会会長、大英 さつまろ ー会 ) 札幌農学校 ( 北海道大学の前身 ) の創 博物館理事、独立テレビ放送協会会長などの要 all that a man ought to be. ご ( 青年よ、人ベルスのもとで設計を修業し、一九一〇年代に 設者。アメリカのマサチューセッツ州に生まれ 間の本分をなすべく大望を抱け ) の名言を残し入って独立。ファン・・メイ、 *-2 ・クラメル職を務め、広く評論や蒙活動も行い、一九六 る。アマースト大学およびドイツのゲッティンたことは有名である。八六年三月九日アマースと協同して、海運ビルをアムステルダムに完成九年男爵に叙せられた。主著に「ゴシック・リ バイバル』 ( 一九一一五 ) 、『レオナルド・ダ・ビンチ』 トで六一歳の生涯を閉じた。 〈梅渓昇〉 ( 一九一六 ) させて以来、有機的で視覚的変化に富ん 関は・樺幌樺 た 7 メポ も真太 , 札たしア一 回原田一典著『お雇い外国人開拓』 ( 一九だいわゆる「アムステルダム派」特有の建築を ( 一九三九 ) 、『風景画論』 ( 一九四九 ) 、『ザ・ヌード』 ヒ に写樺りられ写 ^ 鹿島享〉 七五・鹿島出版会 ) 次々と発表して注目され、同派の中心的存在と ( 一九五六 ) などがある。 ヌ。のよからに訳る こ ) に , せも通れム クイナ なった。なかでも彼の建築家としての真価は集回高階秀爾訳『絵画の見方』 ( 一九耄・白水社 ) ク一フーク Frank Wigglesworth Clarke 約ンさとはわラ館 ノしムロ ▽丸山修吉・大河原賢治訳『レオナルド・ ラはて用条リ住と端思イ物 ( 天四七ー一九三一 ) アメリカの地球化学者。ポスト 合住宅の設計において発揮され、アイへン・ ククせ作、換ハ移ヌ左とセ博 一寄年交サにイ。影一 ンに生まれる ダ・ヴィンチ』 ( 一九八一・法政大学出版局 ) ード大学で分析化学を学 ール集合住宅地や、デ・、ダヘラート集合地に実 ラを乃島・ ( 郊アの撮カイ ク心千太近太も年リデび、シンシナティ大学教授となる。一 八三年現した建物などに、その天才的な構想力と情感クラーク C01in Grant Clark ( 一九 0 五ー ) イギリスの経済学者、統計学者。オック 合衆国地質調査所に移ってから岩石・鉱物の化あふれる意匠力が今日に至るまで伝えられてい ^ 長谷川堯〉 スフォード大学で化学を学んだが、のちに経済 学組成を研究し、多くの分析を行うとともに資る。 学や統計学の研究に転じた。ハー ド大学助 料を集め、一九〇八年に『 0 ミ、 G き c きクラーク J0hn Maurice Clark ( 一四ー み 、』 ( 地球化学データ ) を著した。また地殻の 一九六三 ) アメリカの経済学者。父は著名な経済手、ケンプリッジ大学講師などを経て、一九三 平均化学組成を試算し、元素の地殻存在度を推学者・・クラーク。マサチューセッツ州ノ七年オーストラリアに渡り、メルポルン、シド ニーなどの大学の客員講師を歴任し、またオー 一定した。クラークの算出した数値はそれぞれの ーサンプトンに生まれる。一九〇五年アマース 1 ト大学を卒業し、コロンビア大学で修士号と博ストラリア労働産業省の次官などの官職につい 元素のクラーク数とよばれ広く用いられた ( 現 士号を取得した。コロラド、アマースト、シカたこともある。その後五三年にイギリスに帰 在の存在度はクラーク以後に計算されたもの ) 。 万国原子量協会の議長を長年にわたって務めゴの各大学を経て、二六年コロンビア大学の経り、オックスフォード大学農業経済学研究所所 〈橋本光男〉済学の教授となる。アメリカ経済学会第三七代長になった。彼は、主著『経済進歩の諸条件』 た。↓クラーク数 The Co ミミ 0 ミ s 、 E き、 ~ 0 ミ Progress ( 一九四 0 ) 会長。 クラーク J0hn Bates Clark ( 天四七ー一九 クラークは、父の経済学の衣鉢を継ぎ、新古 において、各国の統計を利用して国際単位とい 三 0 アメリカの経済学者。ピューリタン。ロ う統計学的操作によって国民所得の国際比較を ード・アイランド州プロビデンスに生まれる。典派の完全競争理論を手掛りに、それを現実の アマースト大学卒業後、三年にわたりドイツに経済に近づけるうえで制度学派的接近方法を採行ったが、そのなかで産業を第一次、第二次、 留学し、・クニースのもとでドイツ前期歴史用し、重要な貢献も少なくない。とりわけ、完全第三次の三つに分け、経済発展に伴って産業構 学派の影響を受ける。帰国後、カールトン大学競争にかわる有効競争 workable competition 成が第一次から第二次へ、さらに第二次から第 きようべん 三次産業へと比重を移していくことを実証的に の概念を提出し産業組織論の分野を開拓したこ ) で教鞭をとる。制度学派の創始者・べプレ ンはそのときの学生。その後、スミス、アマー と、加速度原理と景気循環に関する先駆的研究、明らかにし、ペティの法則と名づけた。↓第一 スト大学を経て、一八九五年コロンビア大学の社会的費用と私的費用の区別、会計上の費用と次産業↓第二次産業↓第三次産業↓ペティ 〈志田明〉 」教授となる。アメリカ経済学会第三代会長。 経済学者の費用概念の区別などの貢献はよく知の法則 ン 当 597