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検索対象: 日本大百科全書 7
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1. 日本大百科全書 7

得るところがなく、わすかに一八 一二年国会に 市。州都プルームフォンテーンの北東二二〇キ。 の構造を理解するうえでの本質は、電子が原子が、再発が多く、内科的治療が原則とされてい より五〇〇〇弩の一時金を与えられただけであ に位置する。人口五万〇八九八 ( 一九七 0 ) で、う核の陽子によるクーロン引力に束縛されて、か る。経腸成分栄養療法を基本に、ステロイド剤、 ち白人は約一万五〇〇〇人。一八五五年から一 っパウリの原理を満たしていることである。ま メトロニダゾール、サラゾピリンなどの薬物療った。経営の才に恵まれなかったため、彼自身 の事業は失敗し、失意のうちにポールトンで没 九〇〇年までオレンジ自由国の首都であった。 た、光の放射や散乱の現象では、このような原法が行われ、緩解が期待される。 ^ 吉田豊〉 〈水野五郎〉 町の中心をファルス川が貫流する。州北部の文子内電子と原子核のクーロン場との相互作用がクロンプトン Samuel Crompton ( 一七した。 じよう Kronborg 教地区であり、技術者養成所、同高等学校、農エネルギー的に不連続であることが本質的な役 ー天 = 七 ) イギリス産業革命期の発明家。ミクロンポール城 デンマークの首都コペンハーゲンの北方 ュール mule 紡績機の発明で知られる。ラン 業高校がある。町の北部にはダイヤモンド、石割をしている。また、原子核のクーロン場は、 アルファ にある古城。スンド海峡が幅わすか四キ。にくび 炭鉱山があり、大規模な製粉工場など農産物加 崩壊の際に粒子が核外へ放出される加速カシャーのポールトン郊外の農家に生まれる。 〈安岡弘志〉幼時期に父と死別したため早くから織布工としれている地点を占めている。バルト海に出入り 工業も発達している。 〈林晃史〉の原動力となっている。 ばいよう clonal cell て生計をたて、原料糸の自給のためジェニー紡する船から通行料を徴収するため、一四二五年 クロンダイク Klondike カナダ、ユー クローン培養 ごろから城があったが、デンマーク王フレデリ コン・テリトリー中西部、ユーコン川支流クロ culture 培養によって一個の細胞が分裂して績機を使用したことから、一七七二年以降その ック二世がこれを改築し、一五八五年に北欧ル ンダイク川両岸一帯の地区名。面積約二〇〇〇増殖した集団を得る方法。この方法によって得改良を志す。七九年、水力紡績機のローラーに よる粗糸引伸しの機構とジェ一一ー紡績機の紡錘ネサンス式の壮大な城館として完成した。周囲 平方キ。。中心は金の産地で有名なドーソン市でた集団をクローン細胞集団と、 しし細胞の遺伝 ー・ら′・勹い による撚りかけの原理を組み合わせた紡績機をの堡塁や城内はその後も増強が続けられた。 ある。一八八四年スチュアート川での砂金の発や分化の研究に用いられる。細胞を一個だけ分 『ハムレット』の城のモデルとして名高いが、 考案した。この機械はジェニーと同じく、撚り 見が始まりで、九六年ドーソン南東五キ。にある離すると増殖しにくいので、通常はベトリ皿に ポナンザ・クリークで砂金が採取されると、三少数の細胞を培養して、細胞の間が十分離れるかけと巻き取りが交互になされ、その操作と構シェークスピアの研究が進むにつれ、直接的な 造は水力紡績機よりも複雑だったが、経糸、緯関連は疑問視されるに至った。王の居室、大広 年間に三万人以上が殺到し、ゴールド・ラッシようにして増殖させ、生じた集団 ( コロニー ) 礼拝堂などがあり、数多くのタベストリー ュとなる。一九〇〇年の一三〇〇万ドルの産金額を他の細胞から分離する。また一個の細胞を毛糸のいずれも生産が可能で、しかも細糸が生産 をピークにその後急激に衰退した。〈山下脩二〉 細管に入れ他の細胞集団の近くに置いて増殖さできる点でそれら両機種より優れており、急速が見ものである。城の一部は海事博物館になっ 〈紅山雪夫〉 に普及した。ミュール ( ラバ。ウマとロバの混ている。 のほうそく電荷と電せたり、他の細胞を培養した古い培養液を使用 クーロンの法則 がわ がわ 0 グローマ川 荷との間に働く電気力の大きさ・向きに関するする方法もある。 〈大岡宏〉血 ) の名は、両機種の特徴を兼ね備えているこグロンマ川 とに由来する。当初、ミュールは手動であった クロンメル Clonmel アイルランド共和 法則。一七八五年クーロンによってみいだされクローン病ーーびよう一九三二年にニュ 国南部、テイベレリー県の県都。人口一万二四 た。二つの点電荷の間に働く電気力は、それら が、その後動力化が試みられ、一八三〇年ロバ ーヨークの医師クローン Burrill B. Crohn ッ Richard Roberts ( 一天九 ー天六四 ) により〇七 ( 一九〈 l) 。シュアー川中流部沿岸に位置し、 を結ぶ線上に働き、その向きは同種の電荷間で ( 一公四ー ) らによって初めて報告された亜 は反発力、異種の電荷間では引力となる。力の急性または慢性の限局性腸炎をいう。その後の自動ミュール紡績機として完成され、一九世紀キルケニー、アスロンと並んで、内陸の農村地 ノ腸と大末までイギリス綿工業の主力機種となった。し帯の地方中心地である。農業、酪農のほか、食 大きさは、電荷間の距離の二乗に反比例する。多数の症例検討によってこの病気は、ト 品加工、繊維工業が立地し、とくにクロンメル かし、一七八〇年、特許をとることなくミュー この法則は、電荷と電荷とが直接に力を及ばし腸がつながっている回盲部に多くみられるが、 ・つ / 、 - っ ルを公開したため、この発明によってほとんど産のリンゴからできるりんご酒は逸品とされ 合う遠隔作用論の立場の表現になっている。電ロ腔から肛門に至る消化管のどの部分にもおこ る。狩猟や釣りの中心地としても知られる。詩 荷が力を受けるのは電荷の周囲の電界であるとるものであり、しばしば腸管を広範に侵し、き 〈米田巖〉 人口ーレンス・スターンの生地。 いう近接作用論的な立場では、この法則は、電わめて難治であることがわかった。今日なお原 館 経 荷の周囲にどんな電界が発生するかという形に因不明である。男性にやや多く、二〇歳代の若 磁クワ〔桑〕 Mo 、まクワ科の落葉高木 績学または低木。クワ属の総称で、絹糸を生産する 書き直される。それがガウスの定理である。電 い人に好発するが、小児や老年者の発病もない 紡科 カイコの食草として重要な植物である。葉は数 ルン 界の中に一つの閉曲面をとったとき、その閉曲わけではない。わが国では一九七三年 ( 昭和四 センチの柄があり互生し、切れ込みの有無で切 面を内側から外側へ貫く全電束数は、その閉曲 八 ) ころから目だって症例報告が増え、七六年 葉と丸葉とに分けられ、切葉は切れ込みの数 面で囲まれる全電荷量に等しい 〈山口重雄〉から厚生省の特定疾患 ( 難病 ) に指定され、同 で、丸葉は葉長と幅の関係などで分けられる。 ・ーば電気現象と磁気現象と省の研究班によって八三年までに約七〇〇症例 クーロン場 発あ この葉の形は品種の識別に利用されるが、一本 が相互に関連するという実験事実から、電磁気が集計されている。 がで の木でも葉の出る時節や葉のつく枝の位置によ 微熱、下痢、腹痛で始まることが多いが、無 現象を基本的には電磁場の概念に基づいて考え って変異があり、決定的なものではない。初夏 るのが今日の物理学の主流である。とくに ( 静症状となる緩解とふたたび悪化する再燃とを慢 プ画 たえん に楕円形の穂状花序を出し、多数の小花をつけ 止した ) 荷電粒子のつくる場は、静電気学で以 性的に繰り返す。小腸に広範な病変がある場合 ロ点 クな 前から知られていたクーロンの法則に従うカで には吸収不良や長期の下痢によって栄養不良と る。雌花序と雄花序とがあり、雌雄同株の個体 ーーム月 年可や異株の個体がある。夏には雌花序が赤から黒 特徴づけられるので、クーロン場とよばれるこ なり、体重が減少し、小児では身長の伸びが止 とが多い。重力場には引力しかないのに対し まる。診断には腸の X 線検査、腸のファイバー 色に熟し、一つの花序が一個の果実のようにみ くわいち 1 1 じん 生 える。これは桑の実、桑苺、ドドメ、椹など て、クーロン場には引力と斥力の二種類あるこ スコープ検査とそれによる生検組織の所見など ンの とよばれ食べられ、乾かしたり、ジャムにした とが特色である。クーロン場は応用上、原子物で総合的に行われるが、ときに腸結核との鑑別 プ細 ン り、果実酒にしたりする。 わ理学においてとくに重要で、原子物理におけるがむずかしいことがある。腸が破れる穿孔や腸 へいそく ロ糸 ク緯 日本には数種のクワがあり、栽培されるクワ 7 / 、基本的な唯一の相互作用である。たとえば原子が詰まる腸閉塞をおこして手術する例もある

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きるすと くはリキュールの製造原料になる。〈原昌道〉 〈宇都宮芳明〉 九五 ~ 一九一七 ) を残している。彼の法律観の根底にや、『哲学的断片』 ( 天四四 ) 、『断片後書』 ( 天四六 ) かこれか↓死にいたる病 じようやく一八一四年一月 あるものは人間団体を有機体ととらえる団体主などの哲学的著作が、いずれも匿名形式で出版回『キルケゴール著作集』一一一巻・別巻一 ( 一九キール条約 六 = ~ 穴・白水社 ) ▽桝田啓三郎他訳『世界一四日キール Kiel ( 現西ドイツ ) において、 され、ほかにキリスト教に関する多くの教化的 義であり、この立場からロマニステンを批判し の名著死にいたる病・現代の批判他』ナポレオン戦争の敗戦国デンマークと、イギリ た。なかでもドイツ民法第一草案 ( 一公七 ) をあ講話が発表された。 ( 一九六六・中央公論社 ) ▽工藤綏夫著『キルケス、ロシア、スウェーデンとの間で締結された ここで著作活動にむなしさを感じるようにな まりにもロマニスト的、個人主義的であるとし ゴール』 ( 一九六六・清水書院 ) ▽小川圭治著講和条約。この条約でイギリスにヘルゴラント ったキルケゴールは、田舎の牧師になって静か て批判したことは有名で、一九〇〇年施行のド 島を割譲したデンマークは、ナポレオン討伐軍 『人類の知的遺産キルケゴール』 ( 一九七九・ ィッ民法典は、部分的ではあるが、彼の主張をな生活を送りたいと願ったが、そのとき風刺新 として一万の兵をスウェーデン軍のもとに派 講談社 ) 聞『コルサル』 ( 海賊 ) に、彼の作品と人物に 取り入れざるをえなかった。↓ゲルマニステン ↓ロマニステン 〈佐藤篤士〉 ついての誤解と中傷に満ちた批評が載り、それキルケニー Kilkenny アイルランド共和兵、さらに同君連合の相手国ノルウェーをスウ エーデン王に譲渡した。その見返りのスウェー をめぐって激しく争ううちに、ふたたびキリス国南部、キルケニー県の県都。人口九四六六 キルケゴール Søren Aabye Kierke- gaard ( 天一三ー五五 ) デンマークの著作家、哲ト教徒としての新たな精神活動と著作への意欲 ( 一一 ) 。ノアー川がバロー川と合流する地点かデン領リューゲン島、スウェーデン領ポメラニ ちょうしよう が生じてきた。彼は新聞の戯評や世間の嘲笑ら四〇キ。上流に位置する古い町で、シュアー低アは翌年プロイセン領となり、さらにその見返 学者。五月五日コペンハーゲンに生まれる。 りは人口約五万のプロイセン領ラウエンプルク にも屈せす、一方では大衆の非自主性や偽信生地、ノアー低地の中心地。農業地帯にあって、 〔生涯と著作〕一代で富を築いた毛織物商人の 父ミカエルが五六歳、家事手伝いから後妻となを厳しく批判し、他方では絶望のさなかにあっ牧畜、醸造、家具製造、衣料、履き物、食品加であった。アイスランドとフェロー諸島、グリ ーンランドを切り離されたノルウェーは、同君 った母アンネが四五歳のときの子で、七人兄弟てなお単独者として神を求める宗教的実存のあ工業が立地する。オッソリー司教区の所在地。 り方を、『死にいたる病』 ( 天四九 ) や『キリストセント・ケニス寺院、オルモンズ城など中世の連合の相手国を譲渡しえないと反論し、デンマ の末子であった。そうした誕生を反映してか、 ゅううつ ーク人総督クリスティアン・フレデリク ( 後の 幼年時代から老人のように暗い憂鬱な気質を備教の修練』 ( 一会 0 ) のうちで追究した。ちなみ建物が多く、哲学者バークリーの生地でもあ 〈米田巖〉デンマーク王クリスティアン八世 ) を王に擁立 に、「単独者」は信仰者としての本来的な実存る。 えていたが、その反面、家庭内や友人との交際 ではユーモアと快活さに富んでいた。少年時代のあり方を示す用語で、「大衆」や「人類」に キルケネス Kirkenes ノルウェー北部、して独立を宣言した。 しかし、その後すぐにスウェーデンの圧力に ハランゲルフィヨルドの支湾べクフィヨルドの 対立する。彼の批判は、さらに既成のキリスト から父親よりキリスト教の厳しい修練を受け、 屈してスウェーデンとの同君連合に移行したノ 一七歳でコペンハーゲン大学に入学し、神学と教や教会のあり方にまで及び、『瞬間』 ( 天五五 ) 湾頭にある港町。南へ一〇キ。の所にあるシドバ ランゲル鉱山から産出する鉄鉱石の積出し港でルウェーは、スウェーデン政府の内政干渉を排 哲学を学び、一八四一年『イロニーの概念につなどでの攻撃は激烈を極めたが、一八五五年一 〇月二日、突然コペンハーゲンの路上で卒倒ある。ソ連国境までわずか八キ。の位置にあり、するために、その自治権の法的根拠をキール条 いて』という論文でマギステルの学位を得た。 第二次世界大戦中はドイツ軍の基地となった。約上の表現である「スウェーデン王への譲渡」 その間、 一八三七年五月、当時一四歳だった し、一一月一一日この世を去った。 はん ^ 村井誠人〉 とい , っことばに求めた。 この町を中心とするセアバランゲル地区の人口 レギーネ・オルセンを知ってたちまち恋のとり〔思想とその影響〕ヘーゲル風の汎論理主義に 〈竹内清文〉キルション BJ1aAHMHP MHxaüJ10BHC1 ことなり、婚約までしたが、愛の相克と内面の抗して、不安と絶望のうちに個人の主体的真理は一万〇四四九 ( 一九〈一 ) 。 KHpLf10H/VIadimir Mihaylovich Kirshon 罪の意識から、四一年八月に婚約を破棄した。 を求めた彼の思想は、一一〇世紀に入るまでデンキルサーノフ CeMéH HcaaKOBHq KHP ・ ( 一九 0 一一 ー三 0 ソ連の劇作家。ラップ ( ロシア・ caHOB//Semyon lsaakovich Kirsanov ( 一九 いわゆるレギーネ事件で、その際体験した精神マーク国外ではほとんど知られなかったが、一 的葛藤が、後の美的著作の主題となった。その九〇九年からドイツでシュレンプによる翻訳全 0 六ー七一 l) ソ連の詩人。マヤコフスキーらの雑プロレタリア作家協会 ) 指導者の一人。一九二 誌『レフ』に参加。作風はマヤコフスキーと未七年『コンスタンチン・チェリヨーヒン』 ( 共 集が出て、当時新進のバルトやハイデッガー 後、一時・ヘルリンに赴き、当時盛名をはせてい た哲学者シェリングの講義を聞いたり、『ドャスパースらの弁証法神学者や実存哲学者に大来派の影響が著しいが、明るい幻想性とメルへ作 ) によって注目を浴び、新しい人間としての ン的な構成に特色がある。詩集は『照準』 ( 一九労働者群像を先鋭な政治意識と現実感覚で描い ン・ジョバンニ』や『ファウスト』など数多く きな影響を与え、そこからキルケゴールの名は た『鉄路はうなる』 ( 一九一一 0 で劇壇の第一線に 一一六 ) 、『経験』 ( 一九毛 ) 、『同志マルクス』 ( 一九三三 ) 、 のオペラを観劇したりしたが、翌四二年には帰現代キリスト教思想や実存思想の先駆者とし うめ 『シンデレラ』 ( 一九三六 ) 、『夢の中の呻き』 ( 一九進出。引き続き『風の街』『穀物』『裁判』『奇 国し、著作家としての生活に入った。その活動て、ヨーロッパのみならず世界的に知られるよ うになった。 三七 ) 、『希望峰』 ( 一九三 0 、『アレクサンドル・マ跡の合意』を発表したが、これらはプロレタリ は盛んで、四三年から四六年に至る短期間に ートリーとなった。三七 トロソフ』 ( 一九四六 ) 、『マカール・マザイ』 ( 一九ア演劇の重要なレバ 日本では、すでに明治時代に上田敏や内村鑑 『あれかこれか』『反復』『おそれとおののき』 ぞう 〈小笠原豊樹〉年、密告によりトロッキストとして逮捕され、 ( 以上天四三 ) 、『不安の概念』 ( 天四四 ) 、『人生行路三がキルケゴールの思想に触れているが、一九五 0 ) など。 わっじてつろう 獄死。五六年名誉を回復し、上演も復活をみ の諸段階』 ( 一ハ四五 ) といったいわゆる美的著作一五年 ( 大正四 ) には和辻哲郎が『ゼエレン・キルシュワッサー Kirschwasser ハ 〈柳富子〉 キエルケゴォル』で、当時の日本の哲学界ではサクランポを発酵させてつくる蒸留酒。単にキた。 ほとんど知られていなかったキルケゴールの思 ルシュともいう。キルシュはサクランボ、ワッキルスト Hans Hellmut Kirst ( 一九一四ー ) ドイツの作家。東プロイセンのオスタロ サーは水または酒を意味する。通常は小粒で糖 想を全般にわたって詳しく紹介した。さらに一 ーデ生まれ。第二次世界大戦中は幕僚将校。敗 九三五年 ( 昭和一〇 ) には三木清の監修した分の高い野生種の。フラックチェリーを摘み取っ 『キエルケゴール選集』全三巻が出版され、第てつぶし ( 種子までつぶすことがある ) 水を加戦後、一時抑留されるが、その後農夫、園丁な えて発酵させる。大部分は単式蒸留機で蒸留すど雑多な職業を転々とする。ヨーロッパ、アフ 一一次世界大戦前の不安と危機の時代に生きる日 リカを巡ったあと著述に専念、ミュンヘンの近 る。キルシュワッサーは、貯蔵し熟成すること 本の思想家に少なからぬ影響を与えた。戦後 は、実存主義の日本での流行とともに、文学者により品質は向上するが、着色を嫌うので、磁郊フェルダフィングに住む。『われら彼をやく や一般読者にも広範な影響力を示した。↓あれ器かガラスの容器を使い、樽詰めはしない。多ざと呼ぶ』 ( 一九き ) 、『小都市反乱』 ( 一九吾 l) を経 かっとう キルケゴール びん かん

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を送ったあと、シ・ヘリアで教師となり、革命運することにより成功していた。クラードニは同 回小栗浩訳『ドン・ジュアンとファウスト』て『教会法矛盾条令義解類集』 C を c ミミ 世紀末ごろより実験的に棒の横、縦、捩りの振 ( 一九六七・現代思潮社 ) sco 、ミきき C を。きミとよんだ。本書は内動に参加して逮捕、流刑。革命後、ゴーリキー に認められ、作家活動に入る。「鍛冶屋」グル動を研究した。また板の振動の研究において、 鞍手 ( 町 ) くらて ( まち ) 福岡県北部、鞍手郡容的に傑出していたので、教会法の教科書とし つるぎ ープのメンバーとしてプロレタリア文学運動に 水平に置いた板や膜が横振動をしているとき にある町。一九五五年 ( 昭和三〇 ) 剣町と古て広く使用され、中世を通じてもっとも権威あ つき に、その上に乾いた細かい砂をまくと砂はその 月、西川の一一村が合併して鞍手町と改称。西部る教令集とみなされた。教会法の集大成である加わり、新しい労働者の工場復興闘争を描いた から南部にかけては第三紀層の小丘陵が分布し『教会法典』 ( 旧 ) CorPus き C ミミが公 『セメント』 ( 一九一一五 ) 、ドニエプル水力発電所の節線の部分に集まることを発見した。これはク おんが ているが、遠賀川下流左岸の沖積低地が広がる 三 0 などの ラードニ図形とよばれている。さらに彼は固体 にされる (IF<II) と、その第一部として集録さ建設を描く『エネルギー』 ( 一九三一一 ~ のおがた 直方平野の穀倉地帯である。明治中期以降炭鉱れた。↓教会法 〈小笠原政敏〉作品を書いた。 〈水野忠夫〉および気体内の音の速度を測定し、これらの研 みつびししんにゆう 町として発展したが、六三年に三菱新入炭鉱クラテス ( テーべの ) Krates ho Theba- クラドセラケ Cladoselache 魚類の最古究から低音管楽器を発明した。音響学の父とよ 〈佐藤忠〉 ばれている。 が閉山して炭鉱町の歴史を閉じ、著しい人口減 ios ( 前三三六こ 一一会ころ ) 古代ギリシアのキのサメ類。古生代デポン紀に出現した魚類で、 すけい板の上に砂を 少をみた。その後、工業団地が造成されて金ニコス学派の哲学者。テーべの名門の身分と財体の構造が化石としてよく保存されている。サクラードニ図形 属、電機、プレハプなどの企業が進出、産炭地産を捨ててディオゲネスの弟子となり、自ら メ・エイ類の祖先型にもっとも近いとみなされまいておき、これを振動させたときにできる砂 振興事業が進んでいるが、農業は地盤沈下など 「ディオゲネスの市民」と称した。アレクサンたが、現在では祖先型から特殊化したグループの描く図形。ドイツの物理学者クラードニによ の鉱害を受けて不振である。国指定史跡では古 って発見された。一般に物体を振動させると、 ドロス大王に「祖国の再建を望むか」と聞か と考えられている。外形は現代のサメ類によく はら 月横穴とよばれる古墳群や、国指定重要文化財れ、「どうしてかね。別のアレクサンドロスが 似て紡錘形を呈し、全長は最大で約二。口が大きく振動する部分、すちわち腹と、ほとんど えんせい ふし の仏像をもっ長谷寺や円清寺などがある。人口また滅ばすだろうに」と答えた。むしろ、無名前に開き、胸びれや腹びれが体壁から変形した振動しない部分、すなわち節ができるが、二次 一万九〇七九。 〈石黒正紀〉 と貧しさを、けっして滅ばされることのない祖三角形の皮弁にすぎず、尾びれの上葉と下葉が元の板の場合、節は線状にでき、節線とよばれ なかま る。板を振動させるとその上の砂は節線上に集 囮二万五千分の一地形図「中間」「直方」 国とみなしたのである。彼を崇拝する女哲学者ほば同長であり、腹びれに交接器がない。 ヒッパルキアとともに、だれからも愛されて生 まるので、クラードニ図形ができあがる。これ ロは前方に開き、歯の中央に一本のとがった グラディアトル gladiator 剣闘士また / 突起かを利用して板の振動の形態 ( モード ) を調べる は剣奴と訳される。エトルリアでは死者の霊をき、快活に死んでいったという。↓キニコス学突起と、その側方に並ぶ何本かの短いト ことができる。単純な方法であるが簡便であ 弔うため墓前で剣闘士の試合を行う習慣があっ派 〈田中享英〉らなる。この歯の型は、デポン紀や石炭紀にい り、現在でもギターの胴板の振動を調べるとき たが、古代ローマがこれを継承した。この試合クラテル krater ギリシア陶器の一種。た原始的なほかのサメ類にもみられ、クラドト じようカく 〈比企能夫〉 などに使われている。 が見せ物として民衆に提供されるようになった混酒用の器。古代ギリシアではぶどう酒は水でント型といわれる。また、上顎を支える骨 こうがいほうなんこっ のは紀元前一〇五年以降である。戦争捕虜や奴割って飲むのが普通で、それを混ぜるために酒 ( ロ蓋方軟骨 ) が頭骨に幅広く密着して、上下クラドノ Kladno チェコスロパキア西部 の重工業都市。首都プラハの西北西約二五キ。に 隷などからなる剣闘士は、闘技場で仲間同士や宴の卓上で用いられたもの。器形は一般に、大両顎の可動性が少ないのも大きな特徴である。 ふん 猛獣と死ぬまで闘うことを強制された。民衆は きな口縁部と膨らんだ胴部、水平もしくは垂直また、目が大きくて吻が短く、尾びれの付け根位置する。人口七万一二〇四 ( 一九ハ一 ) 。低品位 死のゲームに熱狂したので、政治家はこれを提の二つの取っ手からなっているが、取っ手の形 に水切り用の一対の突起があることから、表層の石炭採掘と、鉄鋼、ケープル、機械部品の生 供して、高級政務官の選挙で票を得るため利用状から大別して柱形、渦巻形、萼形、ベル形にを遊泳し、視覚によって餌を探し、まる飲みま産が主要工業である。鉄鋼業は良質の鋼の生産 を主体とし、オストラ・ハのコークス炭と輸入鉄 し、闘技場はコロセウムをはじめイタリア、属分類される。全体に器形が大きく、卓上に供せたは肉片をむしり取って食べたと考えられる。 州を問わす、各地につくられた。 られることからいきおい装飾的になり、アンフ石炭紀後期まで生存した。 〈落合明〉鉱石を使用している。また、鉄くすを利用して 屈辱的な生活を強いられた剣闘士は、人間的オーラと並んでギリシアの陶画の生成発展に重クラードニ Ernst Florens Friedrich 電気炉でも鉄鋼生産を行っている。〈中村泰三〉 ほうき 自由の回復のため蜂起 ( スパルタクスの蜂起が要な役割を果たした。その代表的な作例に『フ Chladni ( 一七五六ー天 = 七 ) ドイツの物理学者。グラナダ Fray Luis de Granada ( 一五 0 四 つば 公 ) スペインの宗教作家。俗名はルイス・ 有名 ) や逃亡を繰り返した。剣闘士同士の試合 ランソアの壺』 ( 前五七 0 ころ、フィレンツェ考古美ウィッテン・ヘルクの生まれ。初め法律を修めた が、のちに実験物理学に没頭した。一八世紀中デ・サリア Luis de Sarria で、ガリシア地方 が廃止されたのは四〇四年であった。↓スパル術館 ) がある。 3 しギリシア美術〈前田正明〉 タクスの蜂起 ごろにおける弾性体振動の研究は始められたば出の貧しい家庭の子としてグラナダに生まれ 〈土井正興〉グ一フトコフ (t)é洋 op BaCHJ1beBHL1 「 a 早 のはんらん KOB/Fyodor VasiI ・ evich Gladkov ( 天公 = かりで、その方程式を出すのに、オイラーやる。一一一歳のとき、母が洗濯女として働いてい グラディアトルの反乱 ・は・つキ、 ー一九五 0 ソ連の小説家。少年時代、放浪生活・ベルヌーイは一定のエネルギーの式を変分たドミニコ会修道院に入り、同会の要職をいく 0 スパルタクスの蜂起 きょ , つれいしゅ つか務めたあと、ポルトガルの管区長となり、 グラティアヌス教令集 ラテ 板 う l)ecretum Gratiani ローマ・カトリ リスポンで死去。キケロやクインティリアヌス 形 の流れをくむ修辞色の濃い修徳書を書いたが、 ック教会の教会法典成立史上もっとも画期的な 方 正 また同時に繊細な清感も持ち合わせており、ス 法令集。その著者は、教会法学の祖、カマルド コラ的厳格さを旨とするドミ一一コ会よりも、む ール会士で、ポローニヤの聖フェリックス修道 形の しろアウグステイヌス会やフランシスコ会的な 院で教会法を教えたグラティアヌス ( ? ー 図形 作風をもっている。作品に『祈りと黙想の書』 オ五 0 で、一一四〇年ごろ、それ以前の教会会議ニ図 ( 一五五四 ) 、『罪人の手引き』 ( 一五五六 ) などがあり、 なの決議や教皇の教令などの雑然としていた教会 後者は日本でも『ぎやどべかどる』の名で一五 、ら法の資料を、広く集めて整理し、説明を加え、 ラの また相互の調和を図り、三篇にまとめた。そしク上 九九年 ( 慶長四 ) に抄訳された。〈佐々木孝〉 6 ふる えさ ねじ

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鉄道の開通が峠道の通過交通の衰退を招き、そ ナポレオンとの軍事同盟締結に反対してロシアの妃アグリッピナ ( 小 ) によって、彼女の連れアンチモンやマンガンの化合物をつくった。ま た、三十年戦争 ( 一六一〈 ~ 四 0 で疲弊したドイツれが農業の集約化を促した。そのため、観光業 へ脱出し、一四年プロイセン軍復帰を許可され子ネ口を皇帝にするため、五四年毒殺されたと いわれる。 〈島創平〉を救うため、化学工業をおこして国内の資源をの発達とともに酪農が中心的な産業となってい るまでロシア軍人として解放戦争を戦った。帰 活用することを主張した。彼の化学理論はパラる。州内に、ウインタースポーツで世界的に有 国後、士官学校長などを経てポーランド反乱監クラウデイウス ( 二世 ) Claudius = , ケルススの神秘主義的錬金術の影響を強く受名なサン・モリツツ、ダボス、アローザなどの 視軍の参謀長となったが、コレラがもとで没し Marcus Aurelius Claudius G0thicus 〈前島郁雄〉 た。死後、戦争理論の古典的名著『戦争論』が ( 一一一九ー一一七 0 ) ローマ皇帝 ( 在位一一穴 ~ 一一七 0 ) 。ダけ、食塩と硫酸からできる硫酸ナトリウム ( グ町がある。 出版 ( 天三一 l) された。↓戦争論 〈岡崎勝世〉 ルマティアに生まれる。ガリエヌス帝の治世に ラウバー塩 ) を奇跡塩と称してその医療効果をグラウビュンデン・アルプス Grau- ふいちょう 回郷田豊著『クラウゼウィッツの生涯』 ( 一九 高級将校となり、同帝の暗殺後、皇帝に推挙さ誇大に吹聴するような面もあったが、塩の成 bünden と ps ヨーロッパ・アルプスの一部。 めいりよう 全・日本工業新聞社 ) れた。北イタリアに侵入したアラマン族を撃退分や複分解についてはかなり明瞭な概念をもスイスのグラウビュンデン州南部、シュプリュ ーゲン峠から東にある・ヘルニーナ・アルプスな したが、分離独立していたガリア帝国を制圧すっていた。「新しい哲学の炉』 ( 一六四六 ~ 四九 ) をは クラウディアヌス Claudius Claudia- nus 生没年不詳。紀元四〇〇年前後に活躍しることはできなかった。それにもかかわらす、じめ多数の著作を残した。晩年はヒ素や水銀のどの中部アルプスをさす。ピッツ・・ヘルニーナ たローマの詩人。アレクサンドリア出身のギリ 彼はドナウ川地域に侵攻するゴート族を駆逐し慢性中毒によって病気がちとなり、一六七〇年山 ( 四 0 四九 ) が最高峰。北部石灰岩アルプスの 〈内田正夫〉中南部は結晶片岩質の山々が並び、中央にイン に貧しく死んだと伝えられる。 シア人で、ミラノにきて宮廷詩人になり、ステて屈服させ、多数のゴート人を兵士や小作農民 川が鋭い谷を刻んでいる。サン・モリツツなど ィリコ将軍とホノリウス帝の称揚詩、彼らの政として迎え入れた功績のために、「ゴーティクグラウハウ Glauchau 東ドイツ南東部、 ひばう ベルニー のスキー場もある。↓アルプス↓ 敵に対する誹謗詩、戦争叙事詩、神話叙事詩、 ス」 ( ゴート族征服者の意 ) の異名でよばれてカール・マルクス・シュタット県の都市。エル 〈徳久球雄〉 ッ山地北麓の標高二四五にあり、ムルデ川にナ・アルプス 祝婚歌、エピグラムなどを残した。作品はアレ いる。ドナウ地方の秩序回復に尽力中、疫病に ゴリーや暗示に満ち、神話伝説の挿話を豊富に かかって没した。元老院との関係が比較的良好沿う。人口二万九三七六 ( 一九〈 0) 。北西の都市クラウン 0 冠 用い、高度の技巧と力強い雄弁、深い愛国の情であったうえに、のちにコンスタンテイヌス大メーラネ ( 人口二万二九一九 ) と並ぶ繊維の町グラウン ( 兄弟 ) 兄ヨハン・ゴットリ 、一うえい を示している。 〈中山恒夫〉帝が彼の後裔を名のったことから、彼の名声はで、県都カール・マルクス・シュタットから西 J0hann G0ttlieb Graun ( 一七 0 = / 0 三ー七 D 、弟 インリヒ Carl Heinrich Graun 死後も高まった。 〈本村凌二〉方へ続く織物工業地帯の一部をなしている。紡カール・ハ クラウデイウス Matthias Claudius ( 一七四 0 ー天一五 ) ドイツの詩人。リュー・ヘック近クラウデイウス・カエクス Appius 績、織物、漂白、染色などの工場に数千人の労 ( 一七 0 三 / 0 四ー五九 ) 兄のヨハン・ゴットリ くのラインフェルトに牧師の息子として生まれ Claudius Caecus 紀元前四世紀後半から前働者が働く。ムルデ川の水は染色に利用されは、一八世紀中葉のドイツにおけるもっとも指 る。生涯を文壇の片隅に甘んじた。彼の詩作は三世紀前半の、古代ローマの政治家。生没年不る。鉱山学者アグリコラの生地。 ^ 佐々木博〉導的なバイオリン奏者兼器楽作曲家。ウアーレ りゅうさん ンプリュックに生まれ、ドレスデンで学んだの 自然、民衆、自己の内なる声を深い感受性で歌詳。「盲目のアッピウス」として知られ、ローグラウバー塩ーーえん 0 硫酸ナトリウム う。詩集『月はのばりぬ』『子守歌』がよく知マ史上、個性のつかめる最古の人物。前三一 一一クラウビュンデン Graubünden スイち、イタリアのパドバでタルティーニに師事。 られている。雑誌『ウアンツベック通信』を一年にケンソル ( 監察官 ) 、前三〇七年と前二九ス最南東部にある州。面積七一〇九平方キ。は同一七三二年以後、プロイセン王子 ( 後のフリー ドリヒ大王 ) に仕え、七一年一〇月二八日、ペ 七七一年から七五年にかけて発行する。そのな六年にコンスル ( 統領 ) 。ケンソルとしては、 国最大。人口一六万四六四一 ( 一九〈 0 ) 。州都ク ルリンで没した。 ール。公用はドイン、レト・ロマン、イ かには、エンゲルベルト・ケンベルの『江戸参アッピア街道、アッピア水道をつくり、政治 タリア語の三つで、常用語とする住民はそれぞ 弟のカール・ハインリヒも、一八世紀中葉の 府紀行』からヒントを得たと思われるアスムス上、宗教上のさまざまな改革を行った。とく なる人物の『日本の皇帝にお会いした記録』と 、解放奴隷の子を元老院議員にし、民会におれ六〇 % 、三〇 % 、一〇 % である。東部アルブドイツにおけるオペラ、宗教音楽の代表者。ウ アーレンプリュックに生まれる。ドレス一丁ン、 スと西部アルプスが複雑に入り組んだ山岳州 いう江戸初期の日本を扱ったユーモラスな小品 ける無産市民の地位を改善した。ローマとエベ ^ 金森誠也〉 が載っている。 イロス王ピロスとの戦いのとき、老齢かっ盲目で、ここに降った雨雪はライン、ドナウ、アップラウンシュワイクを経て一七三五年以来フリ ードリヒ大王に仕え、四〇年には・ヘルリンに宮 回轡田収他訳『世界名詩集大成 ドイツ編』の身で元老院に現れ、敵の和平提案を退ける演ダ、アディジェ、テイチーノの各河川により排 説をしたことは有名である。文学史のうえで水される。グラウビュンデンはスイスの縮図と廷オペラを設立し、官長となる。イタリア様式 ( 一九六 0 ・平凡社 ) いってよく、「一五〇の谷をもっ州」の異名をのオペラの代表者だが、『イエスの死』 ( 一七五五作 は、彼はローマ最古の散文家で、若干の作品断 クラウデイウス ( 一世 ) Claudius I, Ti- berius Claudius Drusus Nero Germanicus 片が伝えられている。 〈吉村忠典〉もつほど、地形的隔絶性のため谷ごとの独立性曲、一七六 0 ライブツイヒ出版 ) などの宗教音楽は Johann Rudolph Glauber が保たれてきた。州内の最低部は二七五、最さらに重要である。五九年八月八日ベルリンで ( 前一 0 ー後五四 ) ローマ皇帝 ( 在位四一 ~ 五四 ) 。テクラウハ 〈樋口隆一〉 イ・ヘリウス帝の弟ドルススと小アントニアとの ( 一六 0 四ー七 0 ) ドイツの化学工業家。正規の学校高部は・ヘルニーナ・アルプスの高峰ピッツ・べ死去。 んっか′、 crown ether 酸素 末子。教養豊かであったが、病弱のため、赫々教育を受けなかったが、ドイツ各地を遍歴してルニーナ山の四〇四九である。スイス最高所クラウンエーテル キーセンの宮廷薬剤師の常住集落ューフ ( 一一一一一六 ) は後ライン川の支原子が環の一部を構成する環状ポリエーテルの たる軍功をたてた兄ゲルマニクスの陰に隠れて化学と薬学を修業した。・ このえ 総称。一九六七年にアメリカのデュポン社のペ 目だたなかった。甥カリグラ帝の暗殺後、近衛を務めたのち、アムステルダムに定住して優れ谷アーフェルスにある。 この地方は古くからアルプス越えの要地にあダーセン C. J. Pedersen が偶然に合成し、そ 彼の功績は、化学炉や 車に推挙され、五一歳で皇帝に即位。堅実な政た薬品製造所を建てた。 , たり、ユリア峠 ( 一一一一会 ) 、ゼプティマー峠の構造上の特性とともに報告したが、正式命名 治を行い、プリタニア、トラキア、アフリカを蒸留器などの化学装置に改良を加え、さまざま ん属州とした。しかし、しだいに側近として権力な化学薬品や医薬を大量に製造したことであ ( = = 一 0 〉し、マローヤ峠 ( 一〈一し、ベルニーナ法による名称が複雑になりすぎること、類縁化 合物の名称に類似性が乏しくなること、また、 、フを握った解放奴隷や皇后に動かされるようになる。濃硫酸、硝酸、塩酸やそれらの塩類の製造峠 ( = 三 = 三 ) 、オーフェン峠 ( = 一四九 ) 、オー らっこ。 ーアルプ峠 ( 一一 0 四四 ) などの有名な峠がある。分子模型をつくると王冠の飾りのような形にな オ三番目の妃メッサリナを、その愛人とと はとりわけ重要であるが、そのほか木材や石炭 しかし、一九世紀から二〇世紀にかけての山缶ることから、クラウンと命名することを提案 5 / 、もに自分の暗殺を図ったとして処刑したが、次を乾留していろいろな揮発性有機物を得たり、 かんむり

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きようりようぶ (I)O 州都はガンディナガル。マハラシュトラして処々に経量部または自己の立場から有部フガニスタンを征服した。その子ビーマ・カド究所員としてマイクロ波発振器の研究開発に従 えんこうちん フイセス ( 閻膏珍 ) のときには、ガンダーラ地事した。四九年以来コロンビア大学の物理学教 州とともにポンべイ州を構成していたが、一九の主張を批判している。 じゅ 本書は約六〇〇の頌 ( カーリカー r 一。方から北インドのマトウラまで勢力を拡大し授を務め、分子線法による原子線分子線研究プ 六〇年五月にグジャラート語圏が分離独立し じよう ) 一うしやく ーシュャた。ややしばらくして、一三〇年ごろカニシカロジェクトに参加、五五年には電子の磁気モー た。インドの近代的綿紡績業の発祥の地で、原韻文 ) とそれらに対する長行釈 ( バ メントの精密決定の業績によりラムとともにノ 一世が現れて、中央アジアから北インドにかけ 料の綿花産地を後背地にした立地条件に恵ま bhäsya0 散文の説明 ) からなる。全体は九品 ーベル物理学賞を受賞。翌年アメリカ科学アカ れ、旧州都のアーメダバードを中、いにバターダ ( 章 ) に分かれ、初めの二品で基本的な法 ( ダての大国家を建設し、それからフービシカの治 〈高橋智子〉 デミーの会員に選出された。 世まで約七〇年間、この王朝の最盛期を迎え など、インド最大の綿紡績工業地域を形成してルマ ) の定義と諸相を明かし、次の三品で迷い いる。工業生産額は西べンガル州などに次いでの世界を、後の三品で悟りの世界をそれそれ説た。この領土には、イラン、インド、ギリシアグージュ Marie ・ Olympe de Gouge ( ー九三 ) フランス革命期にパリで活躍した女 全国第三位である。農業は商品性の高い綿花、明し、最後の付録的性格をもつ一品では無我をといった諸民族が居住しており、またそこは東哭 ラッカセイ、タバコなど工芸作物中心で、主穀証明する。『倶舎論』は先行する原始仏教の思西貿易の要衝にあたっていたため、この帝国は性解放の先駆者。劇作家、雄弁家、即興詩人 で、南フランスの貧家に生まれ文盲ともいわれ 作物は低位にある。インダス文明の遺跡やド一フ想を体系化し、後の大乗仏教にも深い影響を与コスモポリタン ( 国際国家 ) 的な性格をもち、 商業国家として隆盛を極め、その統治下で東西るが、一日に一つの悲劇を口述したほど多才 ビダ系民族の居住地跡があり、また、古代よりアえたので、仏教学の基礎として後世大いに用い ほっそうしゅう ラビアやアフリカとインド以東との交易の中継られた。中国ではとくに法相宗で研究され、文明が融合して、仏像などの特色ある文化を生で、喜劇においても成功した。一七八九年公布 日本では奈良時代に倶舎宗が成立して南都六宗んだ。仏教が中央アジアと中国に伝わったのはの「人権宣言」が女性を無視していることに対 地として多くの港町が栄え、ヒンドウー文化と しやく 抗して、一七条からなる「女権宣言」 Déclara ・ イスラム文化の融合の地となった。〈中里亜夫〉の一つに数えられた。異訳としては『倶舎釈この時期である。だが、カニシカ一世のときか しんだい tion des droits de la femme et de la citoy ・ ら、王朝の勢力の中心はしだいに西北インドに 論』 ( 真諦訳 ) の漢訳と、チベット語訳がある。 グ一ンヤ一フート人ーーじん Gujaratis ほうてい enne を九〇年にマリ・アントアネットに奉呈 移り、インド文化に同化するようになった。三 そのサンスクリット本は一九三七年ラーフラ・ キスタンに隣接するインド北西部のグジャラー している ( 出版は一七九一年 ) 。これは、冒頭 ト州を中心に居住する人々。グルジャラ族ともサーンクリティャーヤンによりチベットで発見世紀になると、イランのササン朝ベルシアによ から女性参政権を要求し、「第一条、女性は生 よばれる。人口は約三三九六万人 (IR<I)O 起され、六七年インドのプラダン教授が校訂出版って中央アジアの領土を奪われて、この王朝は まれながらに自由であり権利において男性と平 〈加藤純章〉衰え、やがてグプタ朝によって残存勢力も滅ば 源ははっきりしないが、一説によれば、六世記 〈山崎利男〉等である」と規定し、男性と平等な財産権、労 された。 ごろフン族の跡をたどって北インドに侵入した回桜部建・上山春平著仏教の思想 2 存在の という。しかしインド史家たちは、四〇〇〇年 分析〈アビダルマ〉』 ( 一九六九・角川書店 ) ▽回山崎利男著『クシャーン朝とグプタ帝国』働権を不可譲な自然権だと主張、史上最初の女 ( 『岩波講座世界歴史 3 』所収・一九七 0 ・岩波権宣言である。ロ・ヘスピエールによって弾圧さ 桜部建著『仏典講座倶舎論』 ( 一九八一・大 前からの土着民族と考えている。長頭、長身 〈白井堯子〉 れ、ギロチンで処刑された。 書店 ) 蔵出版 ) で、人種的にはインド・アーリア系のヒンドウ ) 回辻村みよ子『フランス革命と「女権宣言」』 ーーちょう古代、中央アジア、クーシュ P01Ykarp Kusch ( 一九二ー ーに属す。言語はインド・ヨーロッパ語族に属クンヤノ月 (r 法律時報』一九七六年一月号所収・日本評 アメリカの実験物理学者。ドイツに生まれた インドの王朝。中国文献では貴霜と記されてい するグジャラート語で、サンスクリットに似た 論社 ) が、翌年アメリカに移住し、一九二二年に帰化 文字を用いる。マハトマ・ガンディーの著作のる。クシャン Kushan 民族はイラン系民族で、 せつこう くしゅう / チュイチョウ中国、浙江省西 バクトリアで半農半牧の生活をしていた。一世した。三六年、イリノイ大学で分子スペクトル 多くはグジャラート語で書かれた。ヒンドウー せんとう 紀前半、その族長 ( ャプグ ) のクジュラ・カドの分析の研究で学位を取得した。第二次世界大部にある市。銭塘江の上流信安江の南岸に位置 教を信仰し、社会組織の特徴はプラフマンを頂 きゅうしゅうげき し、常山港と江山港の流れが市内で合流する。 フイセス ( 丘就郤 ) がバクトリアの支配権を戦中はウエスティングハウス電気会社技師、コ 点とするカースト制度にある。人口の約三分の しん 二はワタの栽培などの農業に従事するが、鉱工握り、ついでヒンドウー・クシ山脈を越えてアロンビア大学軍事研究協力員、・ヘル電話会社研春秋時代は越の領域で、秦・漢時代は大末県に しん 1 一かん 属し、後漢に新安県が置かれ、晋代に信安県、 業や漁業も発達している。ウシはヒンドウー教 みんしん と寺っ 唐代に西安県と改められ、明・清代には衢州府 徒にとって聖なる動物であり、屠殺や食用とす の治所であった。一九七九年衢県の衢州鎮を中 ることを禁じられている。そこで重要な動力源 に市が設置され、八一年には県城も編入し として耕作や灌漑、運搬などに使われ、さらに が中 , 有 ふん 明をは特 た。下流の金華との間には河谷盆地が開け、農 ミルクはタンバク源となり、革は工芸品に、糞 文教像ラ 産が豊かで、木材、ろう紙を産する。古くより 西仏坐ウ は燃料や肥料にと、きわめて多面的に利用され - 一果にムト 浙江省と江西省、湖南省、広西省、あるいは浙 ている。 〈片多順〉 心のマ あびだつま で中こた館 江省と福建省を結ぶ交通路の要地として商人で 倶舎論くしやろん詳しくは『阿毘達磨倶舎 下を。っ術 せつかん 治ラだ張美 にぎわった。浙鉄道が通じる。〈林和生〉 論』という。インドの仏教論書。原名はアビダ なお 統ウんとタ のト生っッ 久住 ( 町 ) くじゅう ( まち ) 大分県南西部、直 ルマコーシャ AbhidharmakoSa ( アビダルマ せしん 朝マをぐカ ンと術をル 郡にある町。一九二〇年 ( 大正九 ) 町制施 の蔵 ) 。著者は世親 ( バスパンドウ Vasuban- ャラ美肘カ 行。五四年 ( 昭和二九 ) 白丹村と合併。五五年 dhu)0 成立は四、五世紀。部派仏教 ( 小乗仏 シ一る左 くじゅうみやこ みやこの せついっさいうぶ クダあ , 5 都野村と合併して久住都町となり、五七年久 、フ教 ) 中もっとも有力な部派であった説一切有部 ン色せ 朝ガ特ら高 住町と改称。町名は中世以来の村名による。国 ゅ - ( 有部ともいう ) の教義体系を整理、発展させ ャしすいの 道四四二号が通じる。久住高原の牧牛と、その 7 じ集大成した名著である。しかし作者の世親は有 シ合とをも 材 侵食谷の米作が主産業。トマト、キャ・ヘッ、。ヒ ク融心肩の 2 、部の教義にまったくは従わす、根本的立場に関 かんがい きそう えっ

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しようなごん せんもう ハイヤーが刊行した星図の中に初めて登場する 2 ー一九 0 三 ) 明末までに幾度も改鋳された。御璽は少納一一 = 口が監 >J 釧網本線が通じる。町域の約八〇 % が国有林を清沢満之きょざわまんし ( 一〈 ~ ( = 六主とする森林で、天然混交林と人工針葉林が多治時代の真宗大谷派の学僧。尾張藩士の家に生し、五位以上の位記と諸国に下す公文等に押さ新興星座。この星座には、南天の奇観の一つで し北部の平坦地と斜里川沿いに畑作地帯が開まれ、名古屋の医学校に学んだが、一六歳のとれた。明治維新後、一八七一年 ( 明治四 ) 新たある小マゼラン星雲があることで知られてい よ あぺいおとひと 〈藤井旭〉 に安部井音人によって、金印の御璽がつくられる。 け、ジャガイモ、サトウダイコンの作付けが多き東本願寺で得度し、大谷派育英教校へ入学、 キ、よして く、水田は皆無となった。南部は阿寒国立公園さらに東京大学に進み、一八八七年 ( 明治二た。角印で、大きさは方九・〇九垰一メートル 巨視的社会学・微視的社会学 ましゅう きしやかいがく・びしてきしやかいかく macrosocl- の一部の摩周湖湖岸にあたり、裏摩周展望台へ〇 ) 同大学哲学科を卒業。翌年、京都府尋常中 ( 三寸 ) 、重さ三・五五キ。グラム。御璽は、詔 フランスの社 ologie, microsociologie の道路が通じる。人口六七七四。〈岡本次郎〉 学校校長、一九〇一年 ( 明治三四 ) には真宗大書、法律、政令、条約書、認証官以上の官記 に、天皇の親署の下方に押される。戦前は、内会学者ギュルビッチの用語。一般社会学の研究 囮五万分の一地形図「斜里」「斜里岳」「摩周学 ( 現大谷大学 ) 初代学長となった。彼の思想 も・一と 大臣府が御璽を保管し、天皇の一泊以上の旅行分野は、①社会的交渉の諸形態、②集団、③包 湖」「藻琴山」 的テーマは宗教と哲学の問題にあったが、二八 なか 清里 ( 村 ) きよさと ( むら ) 新潟県南西部、中歳ころより禁欲的修道生活を営み、独自の主観には、内大臣秘書官が持参した。現在は、侍従括的 ( 全体 ) 社会に分けられ、そのうち①を微 視的社会学の領域とし、②と③を巨視的社会学 頸城郡にある村。高田平野南東部の農山村。関的信仰を説いた。 , 彼の宗教思想は精神主義とよ職が御璽を国璽とともに保管し、御璽と国璽に 〈村上重良〉の領域とした。微視的社会学での分析は、「わ 川右岸の複合扇状地を形成する櫛池川の上流地 ばれ、日本仏教の近代化に果たした功績は大き関する事務を管掌している。 おかみねすがわら きよしこのよる Stille Nacht, れわれ」における社会的交渉の諸形態と、各主 域にあたり、岡嶺、菅原などの古墳群の残る古 い。彼は精神主義、教学中心の立場から宗門の 清しこの夜 びきもののペ もののふごう 体相互の「他者関係」における社会的交渉の諸 、こ Heilige Nacht オーストリアのグルーバ 村で、古代久比岐物部一族の栄えた「武士郷」革新運動を行うとともに、一九〇〇年東京し ・一う・一うどう 会三 ) が一八一形態に分けて行われ、さらに前者はその結合の の地といわれている。高田駅から一〇キロ、国道浩々洞を開き門下生を集めた。そのなかには Franz Xaver Gruber ( 一大七ー一 かなえあけがらすはや げつしよう 八年、モール Josef Mohr ( 生没年など不詳 ) 強さに応じて大衆、共同社会、一体化の三つに 四〇五号によるバスの便があり、菅原神社、坊佐々木月樵、多田鼎、暁烏敏などがいる。翌 ケ池などがある。人口三四九五。〈山崎久雄〉年には雑誌『精神界』を発刊。彼はその二年後の詩に基づいて作曲した賛美歌。キリスト降誕分けられる。このような社会的交渉の諸形態は に早世したが、雑誌は一八年 ( 大正七 ) まで続の夜の情景 ( 『新約聖書』「ルカによる福音書」抽象的かつ一般的な分析単位であり、現象とし 囮二万五千分の一地形図「柳島」「野沢温泉」 力い・一つ 「高田東部」「新井」 いた。主著に「我が信念』司宗教哲学骸骨』な第二章 ) を歌ったもので、民謡風の単純な旋律ては日常的に反復して出現するものであるが、 どがある。 〈北西弘〉と % 拍子の牧歌的なリズムの親しみやすさによそれらが特定の構造をもつようになると集団と 生沢列きよさわきよし ( 天九 0 ー一九四五 ) ジャ して具体化されるようになる。 ーナリスト、評論家。明治二三年二月八日長野回暁烏敏・西村見暁編『清沢満之全集』全八巻って全世界に広まり、英語のダイトル "Silent 県北穂高村 ( 現穂高町 ) に生まれる。小学校卒 ( 一九五三 ~ 五七・法蔵館 ) ▽吉田久一著『清沢満 Night, Holy Night" によって現在もっとも広 この抽象的な社会的交渉の形態学に対して、 いくちき く愛唱されているクリスマス・ソングである。 やや具体的な個別の集団の諸類型を研究する分 業後、郷里の研成義塾 ( 内村鑑三門下の井口喜 之』 ( 一九六一・吉川弘文館 ) ▽橋本峰雄著『日 なお、作曲者グルーバーは田舎町オペンドルフ野と、この集団によって構成され、もっとも具 源治が創設 ) に学び、ピューリタニズムの影響 本の名著清沢満之・鈴木大拙』 ( 一九七 0 ・ 中央公論社 ) の教会音楽家で、この作品以外にはまったく無体的に歴史上実在する包括的社会の諸類型を研 を身につけた。一九〇六年 ( 明治三九 ) 渡米。 〈三宅幸夫〉究する分野とが巨視的社会学の領域である。集 名の存在であった。 ホイットウォース・カレッジで政治経済学を学魚山ぎよさん中国、山東省東阿県の西北 ぎそうち び、のち、シアトル、サンフランシスコの邦字 八里 ( 約四キ。 ) にある山。魏の曹植は魚山を愛御史台ぎよしだい旧中国の監察をつかさど団は、社会的交渉の諸形態が特定の構造化を示 しゅうえん る官庁で、今日の日本の検察庁に相当する。そす社会的枠組みであるから、抽象から具体へと 新聞社に勤めた。二〇年 ( 大正九 ) 帰国してし、魚山を終焉の地と定めて墓を造営した。 ばんてん 『中外商業新報』 ( 現『日本経済新聞』 ) の外務曹植がこの地で空中からの梵天の声を聞き、その権能は甚だ強大で多くの官吏にとって恐怖の自己を実現し、したがって観察が可能となる。 たいふさんこう ーんまい 包括的社会は、一方で集団と社会階級、他方で 部長となり、中国を訪問、有力政治家の会見記の音節を写して梵咀 ( 仏教音楽 ) をつくったと的となった。秦・漢時代の御史大夫は三公の一 ごかん の伝説で知られる。曹植によって始められた梵人で行政の中枢に位置したが、後漢時代に官庁社会構造の研究によって類型化が可能となる。 を書いた。二七年 ( 昭和一 l) 「東京朝日新聞』 ちゅうじよう 〈田原音和〉 組織が整い、御史中丞を長官とする御史台が確彼は微視的社会学を重視した。 の企画部次長に迎えられたが、著書『自由日本唄は、三国の呉の支謙に継承されて、支謙は ないおん す 寺一んかい こうそうえ あさ あまかす を漁る』 ( 一九一一九 ) のなかの「甘粕と大杉の対話」「梵唄三契」をつくり、さらに康僧会は「泥立した。唐代には台院、殿院、察院の三部局を統・ギュルヴィッチ著、寿里茂訳「社会学の しどんやく ろくごん 現代的課題』 ( 一九七 0 ・青木書店 ) がもとで右翼の攻撃を受けた。これを機に二九梵唄」を、支曇籥は「六言梵唄」をつくり、後べ、それそれに侍御史、殿中侍御史、監察御史 につとう ひえいぎんえんにん きよしてきぶんせき macro 年フリーの評論家に転じ、三〇年『中央公論』世に流布させた。入唐した比叡山の円仁がこのが所属した。元代には地方に行御史台を設け、 巨視的分析 しようみよう みん analysis 経済全体をマクロ的に経済循環とし 明初に御史台は廃されて都察院がその役割を引 特派員としてロンドン軍縮会議を報道。三八年梵唄を日本へ伝えたので、天台宗の梵唄声明 しん みん らいごういん たんざん 、京都大原の来迎院がその本拠き継ぎ、清朝に及んだ。明・清の各省長官総督、てとらえる分析手法。マクロ分析または所得分 『東洋経済新報』評議員となり、石橋湛山と交を魚山流といし じゅんぶ 〈鎌田茂雄〉 巡撫も御史の肩書を帯び、専制支配の耳目と析ともよばれる。経済を、人間が生きてゆくに 友を結び、三九年、三木清、嶋中雄作らと国民となった。 そんぶん して御史は重視された。民国の孫文の五権 ( 立必要な財を生産し、分配し、消費し、消費がま きよし葉の葉身の周縁にあるぎざぎ 学術協会を結成、第二次世界大戦直前に『第一一鋸歯 た生産を可能にするという循環として考えると 次欧州大戦の研究』 ( 一九四 0 ) などを刊行。清沢ざをいう。歯状、毛状、波状などさまざまな形法、行政、司法、考試、監察 ) 政体の一環をな き、第一に必要なのは循環の幅を決めることで がある。鋸歯のない葉身は全縁とよばれる。力す監察院も、御史台の伝統に連なるものである。 は内村の影響を受け、リべラルな自主独立の評 だんじよう りつりよう 論家として生涯、筋を貫いた。その強さは戦時エデの類の葉身にみられる大きな切れ込みは欠日本の律令制の弾正台にあたる。〈池田温〉ある。経済学は、これを通常、純生産物 ( 一年 さん・一う 間にある国でまったく新しく生み出された財の ぎよしたいふ中国の官名で、三公 中の日記 ( 戦後『暗黒日記』として刊行 ) に余刻とよび、鋸歯とはいわない。↓葉〈原襄〉 御史大夫 ↓三公 価値 ) に求めるが、これは経済全体の所得にほ ぎよじ天皇の印。角印で「天皇御の一。 すところなく現れている。終戦直前の昭和二〇 御璽 ようろうりよう かならず、またこれを統計的に把握できるよう 年五月二一日、急性肺炎で死去。〈高須正郎〉璽」の四文字が刻まれている。養老令に内印きよしちょう座〔巨嘴鳥座〕きよしちょう にしたのが国民所得であった。かくて循環を分 ざ天の南極付近にある小星座のため、日本か 回橋川文三編・解説『暗黒日記』 ( 一九七九・評論として規定されており、「おおみしるし」とも よばれた。材質は、普通、銅と錫の合金で、幕らは見ることができない。一六〇三年ドイツの析する経済学の分野は、まず国民所得の生産を 社 ) しまなか しん

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くびなが ひろさき ンのように、四肢を翼のように水てみられる。土製で姉様遊び首人形は、弘前クビワオオコウモリ〔頸輪大蝙蝠〕 Jap- 中で流したものらしい。鼻孔は頭 ( 青森県 ) 、仙台堤 ( 宮城県 ) 、柏 ( 千葉県 ) 、清 anese collared fruit bat/8PteroPus dasy- みず の頂上の眼前にあり、あごはとが 水 ( 静岡県 ) 、西尾・起 ( 愛知県 ) 、松山 ( 愛媛ミ s 綱翼手目オオコウモリ科の動物。 くちのえらぶ った歯で武装されていた。エラス県 ) 、大分 ( 大分県 ) などの各地にある。から ロ永良部島から与那国島まで分布し、世界の モサウルス E s os ミ、ミ s では くり仕掛けのものには、鳥取 ( 鳥取県 ) の要蔵オオコウモリ科のなかで最北端に分布する種で 頸骨 ( くびの骨 ) が七六個もあるでこ、熊本 ( 熊本県 ) のお化け金太などがあある。地理的変異が顕著で四亜種に分けられ ほど長かった。胃の中に胃石をもる。浄瑠璃人形芝居ものには、佐渡 ( 新潟県 ) る。すなわち、ロ永良部島と宝島のエラ。フォオ し・し むや ち、翼竜、魚、頭足類の遺骸を含 の野呂間人形、撫養 ( 徳島県 ) の首でこなどが コウモリ、沖縄本島のオリイオオコウモリ、大 ある。 んだ化石が発見されている。最小 〈斎藤良輔〉東諸島のダイトウオオコウモリ、石垣島・西 ちんぜい おもて で全長二ぐらいから、全長一三 首引くびひき狂言の曲名。鬼狂言。鎮西表島・与那国島などのヤ工ヤマオオコウモリ ためとも にまで及ぶ種類がある。頭の大 八郎為朝 ( 大蔵流では鎮西ゆかりの者 ) が西国である。頸部に淡黄色の輪があるのが名の由来 きい種類では頭長三もあるものから都へ上る途中、鬼に襲われる。親鬼 ( シで、四亜種を総称してエラブオオコウモリとい ヾゝ、つ ) 0 、刀し十 / 〈小畠郁生〉テ ) は自分の娘の姫鬼に人の食い初めをさせよ うこともある。前腕長一二七 ~ 一三七、リ、頭胴 ハナナ、パイナップル、 うと呼び出す。姫鬼は親鬼に促されて為朝に近長二〇二、二〇三、广 首人形くびにんぎよう土製な どの首に竹串、木串を挿したも寄るが、扇でたたかれて恐れをなす。為朝は、 フクギ、クワの果実などを食べる。↓オオコウ の。合点首、串人形ともいう。首勝負をして負けたら食われてやろうといい、腕モリ 〈吉行瑞子〉 すわ にはほかに、木、練り物、張り子押しゃ臑押しをして、簡単に姫鬼を負かしてし クビワカモメ〔頸輪〕 Sabine's gull などを用いる。一六八六年 ( 貞享まう。最後に、両者の首に綱をかけて引き合うトミ s ~ 鳥綱チドリ目カモメ科の 三 ) 刊の『好色一代女』 ( 井原西が、これも姫鬼の形勢が不利なので、見かねた 鳥。全長三五ぐらいの小形種で、繁殖期に成 鶴著 ) に、「衣類と首は各別に違親鬼は一族郎党の鬼を呼び出して加勢させる。 鳥の頭部は暗灰色で、下縁にその名の由来とな がてんがしら ) 一と えんび ひ、合点頭の如し」とあり、首為朝はしばらく引き回したのち急に綱を外し、 る黒色の頸輪ができる。燕尾をもっ点、他のカ 人形は衣装とは別に独立したもの鬼たちを将棋倒しにして逃げ去る。怖い鬼が、 モメ類と異なる。北極圏で繁殖し、南アメリ であった。合点頭は合点首ともい 父性愛を示したり、人間に負けたりするおかし力、アフリカ両大陸の西岸海域で越冬する。 ふあく おと 、首ばかりの人形のことで、首さを描く。鬼たちは武悪の面、姫鬼は乙の面をカモメ ^ 長谷川博 え はこのほかにカクズクビナガムシ、ツメポソク人形の柄の上部に十字に細長い薄板を置いて人着ける。 〈林和利〉クビワコウモリ〔頸輪蝙蝠〕 Japanese ほにゆ・つ ビナガムシ、クビカクシナガクチキムシがい 形の肩とし、棒を持ち、首の後部の紐を引くとクヒライ・カン 0 フビライ・ハン serotine bat/8Eptesicus 、、 0 、ミ、哺乳 かみあがた る。 〈中根猛彦〉首が合点する ( うなすく ) 仕掛けになってい クビル遺跡ー丨いせき長崎県上県郡上県綱翼手目ヒナコウモリ科の動物。日本特産種 がんぐ えど やよい 首長亠黽くびながりゅう plesiosaur/8Plesi- る。一七七三年 ( 安永一 l) 刊の玩具絵本『江都町佐護クビル所在の弥生時代後期の遺跡。対馬で、本州の中部以北に分布し、原生林に生息す きりゅう ふざん osauria 分類学上は鰭竜目中の一亜目を構成二色』 ( 北尾重政画 ) にも、この人形玩具の合 北西部で、韓国釜山市へ直線距離約六〇キ。の対る。前腕長四〇ミリ、頭胴長六三 = 、リ前後。耳介の はちゅう きんびら のろま する海生の化石爬虫類で、中生代に繁栄した。 点首系統のものとして、金平人形、野呂間人形馬でも朝鮮半島に至近の位置にある地区。一九基部から胸の前方にかけて体下面に黄土色の頸 ちょうけい じやけ、 長頸竜あるいは蛇頸竜ともいう。外観はヘビの図が掲載されており、江戸時代の子供の遊び二一年 ( 大正一〇 ) 、雑木林の尾根で青銅製の輪があるのでこの名がある。耳介の先が丸く、 のような首がウミガメのような胴につながって道具として親しまれた。首人形とよばれるよ , っ鍍一点と銅矛四点などが発見され、帝室博物館耳珠はキノコ状。体上面の毛色は黒褐色で、正 いるものがある。二大別され、首の長い種類で になったのは明治期以後で、その種類には人形 ( 現在の東京国立博物館 ) に届けられた。平石中部は光沢がある淡黄土色。翼は幅が広い。比 は頭が非常に小さく、首の短い種類では頭が非遊びや姉様遊びのほか、からくり仕掛けのもで築いた組合せ式石棺状の石室内より出土した較的低空を飛びながら、小さな甲虫やガなどを まえあし じようるり たかみくま さんろく 常に大きかった。前肢と後ろ肢はオールのよう の、浄瑠璃人形芝居の影響から生まれてきたも という。ほかに弥生後期の高三瀦式の土器片、捕食する。北アルプスの山麓地帯で発見された に変形していた。泳ぎ方は、ウミガメやペンギのなどがあり、現在も全国各地に郷土玩具とし 漢式土器片などが出土した。 〈江坂輝弥〉もので、富士山の原生林には少なくない。北海 ニらっ掛 生もお 十と , に期。わ地し巡 神ス中具変の模の こを 福ラ戸玩と ノ / 目」 七モる江 一あくる 。人鳴 ュて。らく 県のの 県をつ県かが島居波 葉情く本る玉徳芝阿 千表っ熊れ目す ( 璃呶城 のに ( わと出こ瑠 ~ 傾 いくをで争『 形ど用太 人なけ金と引舌首波は弓 土物掛けたをいの阿真お 形の動壁化れ糸長や養た写母 人冖柏の , おらのいむ撫れ。と 首①支え②くけ赤③まの鶴 ① 首長竜 / 復原図 釜 ② ひも ③ かしわ し 514

8. 日本大百科全書 7

くまで おおとり たり、東京・浅草の鷲神社などの一一月の酉 ます の市に、桝やおかめの面を熊手につけ、福徳を かき集めるということで売られるのが有名であ る。西日本では熊手をこくばかき、こくまかき などとい , つが、こくば、こくまは松葉のことで、 これが熊手の語源と考えられる。古くは武具と 〈小川直之〉 しての鉄製の熊手もあった。 熊取 ( 町 ) くまとり ( ちょう ) 大阪府南西部、 泉南郡にある町。一九五一年 ( 昭和二六 ) 町制 施行。中世の熊取莊の地。泉南丘陵と佐野川の ためいけかんがい 河谷平野にあって、古くから溜池灌漑の発達し た農業地で、現在も米と泉州タマネギの産地。 いずみさの はんわ 国鉄阪和線が通じ、工業も隣接の泉佐野、貝塚③ 両市の影響でタオル、綿布、敷布、スフ織物な ど中小規模の繊維工場が多い。陵地に京都大 井家書院、旧中家住宅、室町時代初期の来迎寺 クク 本堂は国の重要文化財に指定されている。人口 〈位野木寿一〉 花冠裂片に互生する。子房は上位につき二 ~ 四二万五四三二。 ジ式 たるい そうか っ、ノ 麦雑⑤ 公 ) 彳 室、珠は各室に一、二個ある。果実は痩果、一地二万五千分の一地形図「内畑」「樽井」 るんケのの とウ 核果または分果。世界に約一〇〇属二六〇〇種隈取 くまどり歌舞伎の化粧法の一つ。顔② たいしゃ の』土車 がおもに熱帯から亜熱帯に分布し、日本にクサ面を紅、藍、代赭 ( 茶墨 ) 、墨などの線で彩り、 隈隈 ギ属、ムラサキシキブ属など七属二二種が野生表情を誇張するもの。単に「隈」ともいし し、ほかに帰化種や栽培種にバ ーベナ属やランれを顔にかくことを「隈をとる」とよぶ。発生 げんろく ~ 一七 0 四 ) ご の年代は末詳であるが、元禄 ( 一六公 タナ属などがある。有用材のチークもこの科の 〈高橋秀男〉ろには存在し、初世市川団十郎が創始したとい 仲間である。 熊手 = = 「、山で冬季」肥料・燃料用 0 落う。力を誇張して表現する「荒事」 0 演出」伴一」一 ち葉をかき集めたり、収穫した穀物を天日で干って発達し、一一世団十郎が白枌地に紅で隈をと ①十④⑤⑥ むしろ すのに莚の上に広げたり、清掃に使う竹製の道り、ばかしをつける技法をくふう、同年代の初 具。縁起物にもなっている。割り竹の先端を鉤世中村伝九郎や山中平九郎らによりその他の基① も隈をとるが、今日では隈の模様を描いた肉襦 面のような臉譜にはみられない特色である。 形に曲げ、それを十数本細縄で編んで竹の柄を本形がつくられた。 〈松井俊硼〉 種類は一〇〇に及ぶが、大別して陽性の正袢で代用することが多い 発生には、能面など木彫りの仮面や仏像の怒 つけたものであるが、用途によって割り竹の太 っ第 : っ さと編む間隔が異なっている。縁起物の熊手りの相貔の影響をあげる説が多く、中国古典劇義、カ、熱情などを表す紅隈系と、陰性の邪クマナ Cumanå南アメリカ北部、・ヘネズ おんりよう れんぶ 11 つも・つ エラ北東部の港市。スクレ州の州都。人口約一 は、正月の初詣でや節分にその模型が授与されの「臉譜」にヒントを得たという説もある。し悪、怨霊、鬼畜などを表す藍隈、代赭隈系に すけろく かし「隈」とは、奥ま分けられる。前者にむきみ ( 『助六』『対面』三万 ( 一 0 ) 。一五二〇年に建設された南アメ こくせんや わとうない リカ最古のスペイン人の都市である。イワシの って隠れたところ、かの五郎 ) 、一本隈 ( 『国性爺・楼門』の和藤内、 しーらく すじ てらち げのあるところを意味『菅原・賀の祝』の梅王 ) 、筋隈 ( 『怦』の主缶詰工場があり、コーヒーとカカオの輸出港で くるまびき しかま もある。北方のマルガリータ島へフェリー するものであり、「隈人公、『国性爺・紅流し』の和藤内、『車引』 と代の くさずりびき あさひな 物時酉 トが発着する。アヤクーチョ戦争 (l<ll 四 ) を 起戸月堂取」とは顔面にかげをの梅王 ) 、猿隈 ( 『対面』「草摺引』の朝比奈 ) 、 かえん 記念する博物館やサン・アントニオ城は訪問者 縁江霜嘉つけることでもあって火焔隈 ( 『千本桜・鳥居前』の忠信 ) など、後 ら , 内静 ーしぶ・らく くるまびき くげあれ 〈山本正三〉 はノ顔面の骨格に沿って線者に公家荒隈 (r 怦』のウケ、『車引』の時が多い はんにや 意習月京 ・る風ニ東を描き、ばかしをつけ平 ) 、般若隈 ( 『道成寺』の蛇体 ) 、鬼女隈クマネコ 0 ビンツロング っちぐも っち もみじがり もどりばし める十 ( 『紅葉狩』『戻橋』の鬼女 ) 、土蜘蛛隈 ( 『土クマネズミ〔熊鼠〕 black rat' roof rat 集れ「ちて筋肉とかげを印象づ ほこゅうげつし はん きら貞、つ R ミき s 、ミき s 哺乳綱齧歯目ネズミ科の けるものである。この蜘』の後ジテ ) など、両者の混合したものに半 か売国の かげきょ なまず をで川絵ように俳優の表情を生隈 ( 各種の景清 ) 、鯰隈 ( 『暫』の鯰坊主 ) 、蟹動物。熱帯アジアが分布の中心であるが、今日 福市歌錦 ぞうしき あさがお の。続かしながら役の性格や隈 ( 『車引』の雑式 ) 、朝顔隈 ( 『助六』の朝顔では世界中に生息し、五〇以上の亜種に分けら せんべい 手〕酉た枚 熊のれ三感情を表現する点、仮仙平 ) などがある。なお、役によっては手足にれている。染色体数から、四二本のアジア型、 ムラサキシキプ 樹形 しよう らい ) につ とり ふる ・ : 、いしゅ 530

9. 日本大百科全書 7

入港できる。クアラ・ルンプールとの間に毎日 定期航空の便がある。サラワク博物館は生物標 〈別技篤彦〉 本で知られる。 クチン化 植物細胞の細胞壁がクチ 1 ンの蓄積によってクチクラとよばれる層となる 底 こと。クチクラ化ともいう。クチンは不飽和度 っ の高い脂肪酸の重合体を主とし、化学的にきわ る スあ板あ 体 めて安定で、空気や水の流通を遮る性質が強 チ べを円を 本 ス孔製孔 い。植物細胞の外気と接する面に多く、陸上植 製 グ 物とくに陽地や乾燥地の植物に顕著である。ク として注意してゆかねばならぬ問題である。たチン化は節足動物などでもみられ、外骨格の形 とえば福島市松川町の羽山神の神託などはその成をきたすが、この場合のクチクラはタンパク 〈佐藤七郎〉 一例である。本来は日を定めて神意を伺うこと質を主成分とする。 が必要であり、ロ寄せはその一形態といえよクチンスキー Jürgen Kuczynski ( 一九⑥ , つ。↓いたこ 〈鎌田久子〉 0 四ー ) ドイツ民主共和国の経済学者、経済 グーチるつぼ Gooch's crucible 化学分史家。父は統計学者ロベルト・ルネ・クチンス 析に用いられる濾過るつばの一種。一八七八年キー、夫人マルゲリーテ・クチンスキーも経済 にアメリカのグーチ Frank Austin Gooch 学者。ベルリン大学、ハイデルベルク大学を卒 ー一九一一九 ) が考案したのでこの名がある。業後、アメリカに留学、一九三〇年代にはドイ ッ労働総同盟で統計学者として活躍した。ナチ 本体は磁製であり、底には多数の小孔がある。 ス政権樹立後は非合法活動に従事し、三六年イ 良質のアスベスト、小孔をあけた磁製円板、さ らにアスベストを底に敷き込んでから、沈殿をギリスに亡命。戦後四六年に帰国してからフン 母液とともにグーチるつばに移し、吸引濾過すポルト大学の経済史教授、同大学経済史研究所 ると、沈殿がるつば上に濾別される。これをそ長、科学アカデミー経済史研究部長を歴任。マ のまま加熱して重量分析する。濾紙を用いるのルクス主義経済理論を基礎とする統計的・実証 ↓化学実験 が不都合なときに利用される。 的研究を行い、著作は、社会科学、人文科学の るつば 〈岩本振武〉多方面にわたっているが、わが国では、とく 、労働者状態史の研究者、窮乏化法則の実証 ロ和 ( 町 ) くちわ ( ちょう ) 広島県北東部、比 郡にある町。一九六〇年 ( 昭和三五 ) 町制施家として知られる。その体系的著作『資本主義史 みよし 行。三次市からバスで四〇分の距離にある。中下の労働者状態史』は、亡命時のイギリスでの 国脊梁山地中の山間の村で、西条川の支流宮『産業資本主義下の労働者状態小史』として発洋 たけちたに 西 刊されて以来、三回の改訂を経て、三八巻四〇 内川や竹地谷川が南流し、その沿岸にわずかに 耕地が開ける。米作のほかに和牛飼育やシイタ冊本で刊行された ( 一九六 0 ~ 七一 D 。主著としては 靴 かなお ケ栽培、林業などが行われる。町の北部の金尾そのほかに、『ドイツ経済史』 ( 一九四 0 、『世界経 県にはろう石採取場やスキー場がある。人口三済史』 ( 一九五一 I) 、『ドイツ児童労働史』 ( 一九五 0 、 〈北川建次〉『労働の歴史』 ( 一九六一 I) 、『労働者階級の成立』 ひっ 囮二万五千分の一地形図「比和」「永田」「櫃 ( 一九六七 ) 、『国家・経済・文学』 ( 一九六九 ) などがあ た かみふの る。 〈村橋克彦〉 田」「上布野」 クチン Kuching マレーシア領ポルネオ回良知カ訳『労働の歴史』 ( 一九六三・法政大学出 版局 ) ▽同訳『労働者階級の成立』 ( 一九七 0 ・ 島、サラワク州の州都。州の北西部にあり、ダ 平凡社 ) ▽宇佐美誠次郎訳『国家・経済・ トウ湾に注ぐサラワク川河口から三一キロ上流に 文学』 ( 一九七一・法政大学出版局 ) 位置する。人口約一二万 (I*<O)O 古くからポ くっ足に履いて歩く履き物の総称。靴は ルネオ島北岸の要地であったが、一八四一年ジ靴 「かのくつ」と読み、本来は革製の足を覆う履 エームス・プルークがサラワク王国をつくり、 その首都としてから急速に発展した。後背地のき物を意味したが、今日では、もっと狭義に、 げたぞうりわら っ林産物や石油の積み出しが盛んで、一九七四年日本在来の庶民的履き物である下駄、草履、草 ふとう 2 、完成のクチン埠頭は一万五〇〇〇トンまでの船が鞋などを除く、主として西洋風履き物の総称と① 0 ④ ④ 14 ~ 15 世紀には , 足の先が異様にとがった靴が流行した。足の先 がとがっていることが社会的地位か高いとされた。ロンドンビク トリア・アルバート美術館 ⑤ ② ⑤ 16 世紀 , ベネチアの 貴婦人の一部と高級娼 婦の間で流行したチョ ビン。背を高くみせる 木の台に , つつかけ式 の白革がついている ⑦ ⑥車服や狩り着などに履いていた プーツが , 17 世紀前期には男性の 一般ファッションとなった。写真 はバケッ型プーツ ( 右 ) と , 17 世紀 中ころから登場したリポンで装飾 された短靴 ( 左 ) 。レンプラント 「夜警」部分アムステルダム 国立美術館 ⑦ 18 世紀 , シルクやリネンでつく られ , ルイ・ヒールとよばれる婦 人の靴。ロココ時代の女性のファ ッションは足元を小さくみせるモ ードを流行させた ①古代エジプトのバヒ。ルスで編んだ サンダル。温暖なエジプトでは , 開 放的な履き物として広く愛用された。 フランスドローム県ロマン履物 博物館 ② 1 枚革でつくられ , 前中央で打ち 紐を交差させて締めた古代ローマの 工トルリア式プーツ ③古代ローマ以来の伝統的なサンダ ルに東洋趣味の豪奢な装飾性を加え たビザンティン時代の婦人用サンダル ③、 475

10. 日本大百科全書 7

を経てリスポンに至る交通路上に クアールトノ Enguerrand Quarton んは市内でもそれぞれ歴史的に居住地区を異に し、宗教、言語、文化、職業などの差異も著し位置し、陸路でポルトガルを訪れ ー六六以後 ) フランスの画家。北フラン ら 一般に官僚、軍人、警察官などはマレー系る人々の大部分がここを通る。大 ス出身らしいが、生没年、生涯など不明の点が あ が占めるのに対し、商業、工業および専門職従聖堂は一三九〇年から一五〇年を 多く、クアールトンのつづりも Charreton な 事者は圧倒的に中国系が多く、交通、運輸関係費やして築造され、中世ポルトガ どいくつかある。資料的には、一四四四年ェク る れ 従事者はインド人が多い。この差異は同時に生ル建築様式の変遷を知る好個の例 ス、四六年アルル、四七 ~ 六六年アビニョンで さ あわれ E 出る 活水準や経済力の差異ともなって、いっそう民とされる。付近にルノーの自動車 制作したことが判明している。確実には『隣み 族的な対立を引き起こしている。一九六九年の 工場がある。〈田辺裕・柴田匡平〉 の聖母』 ( シャンテイイ、コンデ美術館 ) 、『聖 0 繰て たいかん ・ 0 かえ 母の戴冠』 ( ビルヌープ、レザビニョン施療院 ) マレー、中国両民族の衝突事件はその一例であグアルディ Francesco Guar ・ ら X ~ コ央と つ ) 0 di ( 一七一一一ー九三 ) イタリアの画 の二点のはか、『二人の聖者と聖母子』 ( アビニ 中を 市内には、国会議事堂、元首の宮殿 ( イスタ家。ベネチアの画家一族グアルデ ョン、プチ・バレ ) が彼の作品とされる。さら 彩ロわ 油一ぎ ナ・ネガラ ) 、国立博物館、大モスク、独立記 に「ビルヌープ・レザビニョンのビエタ』 ( ル イ家の一員。父ドメニコの後を継 念スタジアム、マレーシア大学、バトウー・ケ いだ長兄ジョバンニ・アントニオ ープル美術館 ) の作者にも擬せられている。一 ろンの しようにゆう′」う ープ ( 鍾乳洞 ) などがあり、熱帯樹の緑とと に画業を習い、初めはこの兄のも 」年プ祭五世紀プロバンス画派のもっとも重要な画家の 団舟で もに美しい都市を形づくっている。ハイウェー とで主として宗教画を手がける。 一人であり、ファン・アイクなどのフランドル の彩 が市街を貫き、南西一一三キ。にスパン国際空港が しかしその一方で彼は、マルコ・ 祭色派の写実性とイタリア画派の影響下に、プロバ めいせき 一口彳し ある。 〈別技篤彦〉 リッチが広めた「カプリッチョ」 ンス的な明晰さと明るい色調を加え、フラン クアラントッティ・ガンビーニ Pier とよばれる仮想の風景画や、ベネ ス・ゴシックの成熟期、さらに近代への第一歩 の ン を画している。 〈中山公男〉 Antoni0 Quarant0tti Gambini ( 一九一 0 ー六五 ) チアの街をカメラ・オプスキュラ 天景 イタリアの小説家。イストリア半島の町ピシー ( 暗箱 ) で、正確に描写したカナレ っ昇背グアルネリ Guarneri イタリアのバイオ トを ス物 ノに生まれる。トリエステに出て、詩人サー ットの絵に早くから興味を示し リン製作者一族。クレモナに生まれ、そこでニ 造 へ と交わる。作品には、生まれ育った町を背景に た。後年、とくに一七六九年の兄 コラ・アマーティに学んだアンドレア Andrea の G. ( 一六一一六こ 少年期から青年期へ移行する若者の性の目覚めの死後は、もつばらこの種の作品 ー九 0 を始祖とし、代々クレモナ 館々 術数 を扱ったものが多い。代表作は三部作『ノルマを制作する。ベネチアを描いた彼 に工房を構えた。アンドレアの息子のうち、ビ イ美の の遊び』 ( 一九六四 ) のなかの中編『塹壕』 ( 一九四一 l) 、 の風景画はカナレットのそれとは エトロ・ジョバンニ Pietro Giovanni G. ( 一六 ルプチ ア一ネ 長編『巡洋艦の波』 ( 一九四七 ) など。〈川名公平異なり、独特の叙情性と幻想性に 五五ー一七一一 0 ) はマントバの宮廷で働き、弟のジュ グルペ ・バッティスタ Giuseppe グアリーニ Guarino Guarini ( 一六一茜ー あふれている。また軽妙で暗示に ゼッペ・ジョバンニ <lll) イタリア・バロックの代表的建築家。哲富んだ筆致が描き出すその世界は、一九世紀の存主義に近いが、広く現代の問題を視野に収め Giovanni Battista G. ( 一六六六 ー一七四 0 ころ ) は父親 学者、数学者としても有名。モデナ生まれ。一 印象派の絵画に通ずるところがある。彼はカナようとするその立場は、文化カトリシズムとよの工房を継いだ。後者の息子のうち、ピエトロ 六三九年テアチノ会の修道士となり四七年までレットのように外国人の注意をひくこともなぶこともできる。 〈田丸徳善〉 Pietro G. ( 一六九五ー一七六一 l) は・ヘネチアで活躍、 ローマに滞在、神学や数学を学ぶ一方、ポロミ その弟のジュゼッペ Giuseppe G. ( 一六九〈 く、七三歳になってようやくアカデミーの会員クアルテット quartet Quartet ト フラ ーニの建築から強い影響を受ける。モデナ、メ に選ばれたほど、その生涯はつつましく、その quatuor quartetto 西洋音楽におけ 四四 ) は一族最大の製作者となった。「デル・ジ ッシナ、 リでいくつかの聖堂を設計したの制作態度は職人的であった。だが彼の作品は特る合奏、合唱の概念の一つで、四人で奏される 工ズ」として知られるジュゼッペの楽器は、ス ち、六六年ごろからトリノに定住、サポイ公に有の近代性を有しており、・ヘネチア・ロココ美あるいは歌われる音楽のこと。四重奏とか四重トラディバリのものと並び称され、バガニーニ 仕え、ミラノに没した。代表作はすべてトリノ術のなかでも異彩を放っている。〈石鍋真澄〉唱と訳されるが、狭義には前者をさす。なかでが使用しただけでなく、二〇世紀の名バイオリ も、とくに弦楽器のバイオリン属だけによる編ン奏者たちの多くが愛好した。なお、彼らの製 に残されており、トリノ大聖堂内のサンタ・シグアルディーニ Romano Guardini ンドネ礼拝堂とサン・ロレンツォ聖堂は高度の ( 天会ー一九六 0 ドイツのカトリック神学者。・ヘ成 ( バイオリン二、ビオラ、チェロ各一 ) が代品のラベルには Guarnerius ( グアルネリウ 〈今谷和徳〉 数学的知識を駆使した複雑で幻想的な作品であローナでイタリア外交官の子に生まれたが、ド表的で、これを弦楽四重奏 string quartet とス ) と記されている。 る。またバラツツオ・カリニャーノには、湾曲ィッを故郷とし、神学を修め、・フレスラウ ( ・フ いう。これは一八世紀後半に生まれ、古典派、グアルネリ弦楽四重奏団ーーげんがくし する正面部や卵形プランのサロンがみられ、き ロッワフ ) 、ベルリン、四五年以後はチュービ ロマン派時代を通じて、そして今日まで、もっ じゅうそうだん Guarneri String Quartet ア わめて動感に富んだ宮殿である。〈篠塚二三男〉 ンゲン、ミュンヘンの諸大学で教えた。一九一一とも広く愛好された室内楽のタイプであった。 メリカの弦楽四重奏団。一九六四年、アメリカ グアルダ Guarda ポルトガル北東部、べ〇年代からのカトリック青少年運動や典礼運動とりわけ、一七五七年ごろから一八〇三年の間 のマールポロ音楽祭中に、クリー・フランド管弦 イラ・アルタ県の都市。シェラ・ダ・エストレ の指導者の一人。文化の諸領域にも広く関心をにハイドンが書いた六八曲の弦楽四重奏曲は、楽団の首席バイオリン奏者アーノルド・スタイ ラの山岳地帯、標高一〇六〇に位置する。同抱き、その著作活動は狭義の神学、哲学の分野このジャンルの最初の大きな金字塔である。ま ンハルトを中、いに結成され、。ヒアノのルドル 国の都市としては最高所にあり、空気がよいこ に限らず、文学やヨーロッパ精神史、さらには た、このような楽曲を演奏するための弦楽四重フ・ゼルキンと協演して活動を開始、翌年には とから保養地となっている。人口一万四五九一一教育や社会の問題にまで及んでいる。信仰が人奏団が、クアルテットの名でよばれることもあ欧米各地へ演奏旅行を行い、アルトウール・ル ( 一九七 0 ) 。スペインのサラマンカからコインプラ格的なものであることを強調する点において実る。↓弦楽四重奏 〈大崎滋生〉 ビンシュティンとの協演などで高く評価され ざんごう ( 一四一五ころ 330