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検索対象: 日本大百科全書 7
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1. 日本大百科全書 7

おきとし の洞穴がつぶれてしまった。そして、これで母渋くて、半分甘い半渋柿があり、全部食べるこ いた布を切って接待したところ、それからの らせて往生させた。後年、伊予の領主河野息利 じようぶつ に一子息方が生まれたが、左手に「鉢塚衛門一一一ち、その布はいくら切 0 ても尽きることがな親も成仏したから安心するがよいと娘を慰めとができない。昔、大師が巡 0 てこられたと き、柿を所望されたのに、半渋だといって与え く、弥助夫婦は生涯、大師によく仕えたというて立ち去った。現に母川には、大師に封じ込ま 郎」と書いた小石を握っていたという。また、 へんろ なかったところ、その後は毎年、半渋の柿しか れたとき、大ウナギが暴れて割れた跡だとい 衛門三郎が焼山寺の麓で他界するとき、彼の遍 ( 『四国偏礼功徳記』 ) 。 実がならなくなった。 う、せり割り岩というのがある。 徳島県海部郡に母川 路杖を大師が墓標として土に突き刺した。それ母川のうなきなぎ , おおず ・一うばう 愛媛県大洲市徳森にある橋 十夜が橋が 栃木市大森に、弘法水とい 弘去生月 -* : ′、ー 1 ′しみず という川がある。そこに長さ一丈 ( 約三 ) に いオ ( 、も、こは が根づいて杉の大本に成長し、 じようさんあん も余る大ウナギが棲んでいた。あるとき、在所う清水がある。大師がここを通りかかり水を所で、昔、四国修行中の大師が、宿もないまま土 杖杉庵とよばれ、杉の大木と衛門三郎の墓が し。しかいて、橋の下で一夜を明かされた。冬であったので、 の母親が娘を連れて母川で洗濯に夢中になって望されたところ、老婆が汗を、つ、 ある ( 『石手寺縁起』 ) 。 はたおる いると、あっという間にウナギの主が現れて、遠いところまで水を汲みに行き、大師に接待し一夜が十夜にも大師には感じられた。いまも橋 土佐 ( 高知県 ) の高岡 機織る女房 にようば・つ 郡仁井田の庄に弥助という男がいた。貞享年母親をさら 0 て、淵の中へ沈んでしまった。娘た。このあたりは水がなくて村人たちが苦しんの下には大師の寝姿の石像があり、いつも新し しやくじよう い布団がかけられている。付近で病人が出る でいるのを知った大師は、持っていた錫杖を 中 ( 一穴四 ~ 分 、 ) のことであるが、その女房が布はそれから毎日、川のはとりで泣いていたとこ と、大師の布団を借りてきて病人に着せかけ、 ろへ大師が通りかかり、娘の悲しみを聞き、岩に突き立てると、清水がこんこんと湧き出る を織っていたところへ遍路の僧が通りかかっ 治るとまた別の新しい布団をこしらえて大師の た。女房は貧しくて接待するものがなにもなか「拙僧が二度と大ウナギが出ないようにして進ようになった。 きとう だいおんじよう はんし 〈宮崎忍勝〉 三重県鳥羽市堅神町に、半分石像にかけるのだという。 ぶがき ったので、手拭などの御用にもと、織りかけてぜよう」と祈疇をすると、大音声とともに淵半渋柿 イギ Raum そうという試みが行われている。しかしながら方向性に基づいている。 と主張した。 くうかん space ついて語ることには意味がない 空 一定の連動量 ( あるいは速度 ) をもっ力学系 この考えは、空間・時間の「観念性」の考えに現在の物理学では、時空と物質とを互いに密接 pace 翳物が存在しうる場所の全体をいう。 な関係をもっ独立な実在であるとみなしておを、その連動量 ( 速度 ) の方向になにほどかす 〔哲学における空間〕空間をめぐる哲学的考察つながる。 らした座標系からみても、力学系の連動量 ( 速 カントは、空間とはそれ自体でわれわれの外り、物質の運動が研究の対象であるのと同じよ は、哲学の歴史とともに古い。真空の存在、空 うに、空間の広がり方、その構造もまた研究の度 ) の方向や大きさは変わらない。逆にいえ に存在するものではなく、われわれが外界を認 間と物体との関係、空間的位置の絶対性と関係 ば、座標系のずらし、すなわち変位に対して不 性、空間そのものの実在性、幾何学と物理的空識する際の、主観の側の条件としての「直観の対象とされている。 〔空間の属性と保存性〕空間はどの点をとって変な物理量が運動量という物理量であるといっ 形式」である、と考えた。ただしこれは、物理 間との関係など、多くのさまざまな問題が論じ 学者が主張する空間の実在性と、ただちに対立も、また各点からみたどの方向に対しても同質てよい。このようにして、力学系が座標系の変 られてきた。 古代ギリシアのデモクリトスは、存在としてするわけではない。なぜなら、カントにとつである。これをそれそれ空間の一様性および等位に不変であれば、その力学系は一定の運動量 の無数の原子が空虚な空間の中で連動する、とて、物理学者が扱う世界は、表象としての「現方向性という。力学系の保存量は、以下に示すをもっことがわかる。すなわち運動量を保存量 ように、力学系の変換性と密接な関係をもってとすることがわかる。このように、座標系の変 いう考えに基づいて、この世界の現象を説明し象」の世界にほかならないからである。 いるが、このような関係は、空間の一様性と等換に対する力学系の不変性によって力学系の保 カントは、空間の先天的形式性に基づいて、 ようとした。しかし、空虚な空間 ( 真空 ) と 存量をみいだすことができる。空間回転に不変 は、「存在」に対する「虚無」であり、そのよュークリッド幾何学の必然性を説明しようとし 角 な力学系は角連動量を保存量とする。 たが、非ュークリッド幾何学や相対性理論の出 うな虚無が「ある」とはいかなることか、とい の 座標系として直交座標系、すなわち縦・横・ う問題を生する。そして実際、多くの哲学者た現に伴って、幾何学と現実の空間との関係が、 高さの工、軸からなる座標系と、図 < ' ホアンカレ ち ( たとえばアリストテレス、デカルト ) が、改めて重大な問題になってきた。。、 示 のようにこのうちいずれか一つ、たとえば 2 軸 真空の存在を否定した。存在しないものが、或は、幾何学の公理とは、現実の空間のもっ性質 座 をその反対方向に向けた座標系とを比較して る性質をもつ、ということはありえず、したがを記述するものではなく、「規約」あるいは みよう。同じ三角形を座標系からみた 標 って、「広がっている」という性質をもつもの「擬装した定義」である、という見解を述べて 座 とき三角形の各頂点の 2 座標はいすれも 〈丹治信春〉 いる。↓時間 も、なにか存在するものでなければならない。 の 負であって、座標系からみたときこれらと同 そこでデカルトは、「広がっている」ものは実〔物理学における空間〕広がりをもった連続体 占る じ座標をもっ三角形を座標系に書き込んだの で物質全体に同時にその存在の場所を与えてい 頂あ 体としての物体である、と考えるわけである。 各で が三角形しである。二つの三角形と デカルトにとっては、物体がすなわち延長である実在であると考えられている。時間・空間と のし 同 とは互いに鏡に映した像になっている。 物質とは互いに独立したものでなく、密接不可 と 二つの座標系ととの一方から一方への変換 空間的「位置」をめぐっても、物体と空間と分なものであることが、物理学の発展に伴いし 形座 を空間の反転という。空間反転によって力学糸 の関係が問題になる。「宇宙の中心」を考えるだいに明らかになってきた。 角 の座標は鏡像に映る。 空間の点の位置は、その縦・横・高さの三つ アリストテレスや、「絶対空間」を唱えるニュ 空間反転した二つの座標系からみても物理学 ートンにとっては、どの物体がその位置にあるの座標を用いて定めることができる。このこと 捌各 の基本法則は多くの場合同一であるが、素粒子 を空間が三次元であるという。時間の次元をあ んか ( あるいはないか ) ということとは独立に、 の崩壊現象では空間反転による不変性が成り立 カその位置について語ることに意味があるのであわせると、時空の次元は四次元となる。最近に 系 8 ) ま、コ。ハルト六 ( ) と一い、つ たない。図 ( し引 、フる。しかしライプニツツは、空間 ( および時なって、物理学の基本法則が成り立っために 座形原子核とこの原子核の回転の向きを示す。この 3 は、時空が四次元でなければならないことを示 間 ) を相対的、関係的に考え、絶対的な位置に 日 づえ てめぐい 力し、 空間 〔図 A 〕 座標系 / ) 座標系 Q かたかみ

2. 日本大百科全書 7

れた異甲類が最古の魚類と考えられている。古胸びれや腹びれが形成された。菱形の硬い鱗やかしやすいように変わり、胸びれや腹びれも遊〔硬骨魚類〕このグループは古生代デポン紀前硎 とうがいこっ 頭蓋骨などが部分的に硬骨化している点では、 泳に役だつよう進化した。しかし、約一億年前期に棘魚類のようなものから分かれ、初期には っ生代シルル紀からデポン紀にかけては、いろい ろな無顎類が出現した。鰓孔が一五対もあり、硬骨魚類の原始型に似ている。また、板皮類後に勢力を失い、それにかわって中生代後期か古代魚の特徴を保持しながら、内部骨格が硬骨 よ 頭部がよく骨化した甲板で包まれた骨甲類や、 は、体の前半または大部分がじようぶな骨板でら新生代第三紀にかけて現在のサメが出現し 化しだした。その一部のものは地上生活者とし そ・つき 一段と魚らしい形をした欠甲類がその代表であ包まれており、外形や内部の骨格がサメ類に似 た。現在のサメは各部の骨格がなお軟骨であるての進化の途をたどった。総鰭類 ( シーラカン る。しかし、これらの無顎類はデポン紀末期まているので、これから軟骨魚類へと進化したと が、ロが腹側へ移り、あごがいっそう動かしやス ) や肺魚類がそれである。この仲間はデポン でに勢力を失ってほとんど絶滅してしまった。 信じられている。これらの原始的な顎ロ類は約すくなり、各ひれを支える骨も整った。現在の紀から石炭紀またはベルム紀にかけて、地球上 ばんさい そのなかで、古代魚の基本的な特徴を現代まで二億年前の古生代ベルム紀 ( 二畳紀 ) に適応力サメの主流は板鰓類 ( 亜綱 ) に属し、種類数で に勢力を拡大した。しかし、その後はほとんど 維持しながら生存し続けるものに、ヤツメウナを失って絶滅してしまった。 絶滅してしまい、わずかにその一部が、外敵の 一一五〇種余りおり、そのうち一一〇種前後は淡水 ギ類やメクラウナギ類がある。この類は甲板を〔軟骨魚類〕約三億年前の古生代デポン紀前期にも生息している。なお、現存するサメ類で少ない南半球で「生きた化石」として生き続け 欠き外見上はウナギ型をしているが、えらが袋 に出現しており、いろいろな型の古代ザメ ( ク も、ラブカは古代ザメの形質を残し、またネコている。シーラカンスや肺魚は、背びれが二基 状で多く、五 ~ 一五対もある。内部の骨格もすラドドント型 ) が淡水域で栄えた。その代表的ザメ類は中生代のサメの形質を残している。 で体の後方にあること、胸びれや腹びれが腹面 べて軟骨であり、胸びれや腹びれがない なものがクラドセラケで、ロが前に開き、胸び 軟骨魚類のもう一つの系列は、ギンザメ類に にあって葉状に伸び、これで四足動物のように ぜんとう 〔顎ロ類の出現〕古生代シルル紀からデポン紀れや腹びれが体壁から変わった皮弁状であっ代表される全頭類である。この類は、現在、種体を支えたり、歩行したりした。また、鼻孔が ・つ - : っ いんとう は、魚類の進化上特筆すべき時代であり、真のた。古代ザメは中生代にはしだいに滅亡し、そ類数が少なくて劣勢であるが、古生代石炭紀に ロ腔や咽頭に開いて、うきぶくろが肺の働きを あごをもった原始的な顎ロ類が続々と出現してれにかわって現在のサメに連なる中間型 ( ハイ 進化の絶頂に達していた。鰓孔が一個で、第一し、空気呼吸も可能であった。 きよくぎよ 栄えた。その代表が棘魚類である。棘魚類でポドント型 ) が出現した。この類は種類数では 硬骨魚類の進化の主流は、水中生活者とくに 背びれに起伏できる棘があるなど、硬骨魚類に は、あごやえらを支えるための軟骨が出現し、古代ザメに及ばなかったが、あごが多少とも動似た形質を備えている。↓軟骨魚類 海洋での生活に適した方向へと進み、魚類とし グる の のあ 年 も 代万 る 生 8 す 新間 を コ 水サと っ ス イのニⅡ , キ すワス ノをイ 生力あ タ炎は皆 各低 のが フ 真ル 魚類 / 系統進化 古生代 3 億年 中生代 1 億 3000 万年 代 数 ( 一 00 万年 ) 各紀の継続年 40 25 25 30 第四紀 第三紀 白亜紀 ジュラ . 紀 三畳紀 。ヘルム紀三畳紀 ) ペンシルペニア紀 ミシンツヒ デポン紀 ノレレ rÜ ォルドビス紀 カンプリア紀 無顎上綱 翼甲綱 ( 異甲目 ) 頭甲綱 軟骨魚綱 板皮綱 棘魚綱 軟質上目 全骨上目 顎口上綱 点線は絶滅したグループ 真骨上目の各クループの系統進化 コイ トゲウオウミテング タウナギ メダカ ナマズ オステログロッサム ネズミギス スズキ キンメダイ アカマンボウ マトウダイ カライワシ ソコギス ウナギ クジラウォ ウバウォ ケ サ カサゴカレイ アンコウ シャチプリ ハダカイワシ

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くううん ) : っ Queen そのものが、ゼロという数の発見によって初めても、同文の空が反復されて、同一の主張がな 性格と教養などを論じる。幼児教育から説き起クイーン・メリー号 こす点に、従来の類書にみられない新味があ Mary イギリスのキュナード社の大西洋横断て可能なのであり、その発見はインド人 ( 人名される。これは思想史的には、有部への批判と はんこやきよう る。また、文法の概観、機知とユーモアの論定期航路の豪華客船。ジョン・ブラウン造船所不詳 ) による。同時に空の思想もまたインド人して、大乗仏教の先駆を果たした『般若経』 の独創であるが、いわゆるインド正統派哲学でのなかに、一種の否定的色彩の濃い空が繰り返 究、ことばのリズムの考察、広い教養と高い徳で一九三四年九月二六日進水。三六年六月一日 し説かれた。空の論理的基礎づけはその後に初 に処女航海。八万〇七七四総トン、全長三一〇・ は無ないし非存在についての詳しい考察はあっ 性を修める訓練の要求などにも特色がみられ る。とくに知られるのは、雄弁術の学徒のため五。タービン四基、出力一六万馬力。航海速ても、空はほとんど顧みられず、それを推進し期大乗仏教を確立し定着させたナーガールジュ りゅうじゅ ー一一五 0 ころ ) によっ ナ Nägärjuna ( 龍樹、一五 0 こ たのはもつばら仏教であった。 の読書案内として、ギリシア、ローマの多数のカ二八・五ノット、船客定員二〇三八人、乗組 空は「から」という訓に示されるように、そて完成される。彼は、すでに原始仏教以来説か 作家と作品を取り上げ、修辞学的視点から簡潔員一二八五人。三八年、大西洋横断で、フラン に批評した第一〇巻である。彼は中世には教師スのノルマンディー号のプルーリポン記録を破こに占めるものの欠如をいうが、「から」であれていた縁起説をいっそう深く徹底させ、いっ さいの存在が互いに本イ・相関しあっており、 った。西航三日二一時間四八分 ( 平均速カ一一一ることがかえって有用性を発揮する。たとえ として高く評価され、近世にはエラスムスをは じめとする人文主義者によって学習され、大き〇・九九ノット ) 、東航三日二〇時間四二分ば、コップは内部がからのために水を入れうその際それそれがおのおのに否定と肯定とを含 る。いわば欠如は消極的にも積極的にもある意み、矛盾しつつ相即していることを明らかにし な影響を与えた。 〈中山恒夫〉 ( 平均速カ三一・六九ノット ) 。これは五二年に た。こうして実体はまったく無となって空が輝 クイントウス Quintus 生没年不詳。四アメリカのユナイテッド・ステーツ号によって義をもっている。仏教で最初に空を説いた際に しよう く ( これを縁起ー無自性ー空という ) と同時 世紀ごろの古代ギリシアの詩人。スミルナに生破られるまでの記録であった。第二次世界大戦は、この欠如をさして、たとえば、「講堂に象 に、その空にとらわれることも空として否定さ まれたのでスミルナのクイントウスとよばれ中は兵員輸送に使用された。戦後商船として再馬などは空」といい、かつ「そこに比丘はい やくぶ る。叙事詩『ホメロス後日譚』一四巻が現存し就航したが、航空機発達による船客激減のたる」という。すなわち < は欠如し、逆には残れる ( 空亦復空 ) 。こうして真の自由は達せら リる。ここに「残るもの」への指向を空は示唆すれるが、これをわかりやすくいえば、煩悩・ ている。これはアキレスの戦死、トロイアの陥め、六七年にアメリカに売却された。現在カ かんばう 落、ギリシア軍の帰航など、ホメロスの『イリ フォルニア州ロング・ビーチ市に係留され、海る。こうして、いわゆる「空の観法」が成立し執着・凡夫にせよ、解脱・ニルバーナ ( 涅 みち アス』の後に起こる事件を語っており、『イリ 一種の修行の途となる。それは、むしろ積極的槃 ) ・来にせよ、それらを実体として固定さ 事博物館として使用されている。〈茂在寅男〉 に、ある目標だけを「残るもの」として集中専せず、凡夫もその煩悩を粉砕して、聖なるもの アス』と『オデュッセイア』の間をつなぐねらクイーン・モード・ランド Queen に近づく途が開拓された。なお、上述の「空ー いがうかがえる。言語や文体はホメロスを模倣 Maud Land 南極大陸の大西洋に面した、西念し、その他のいっさいを欠如として否定す しているが、哀感に満ちた印象的な場面がみら経二〇度から東経四五度までの地域。この範囲る。この目標を徐々に向上させていくことによ残るもの」の説は、後の中期大乗仏教におい ゆいしき れる。 り、悟りに近づこうとする。これとは別に、原て、その唯識説でふたたび論議された例もあ 〈岡道男〉の決め方は国によって多少異なる。西からプリ ばんのう がしゅう 〈三枝充悳〉 ンセス・マルタ、プリンセス・アストリッド、 始仏教には無我が強調され、煩悩や我執などかる。 回仏教思想研究会編『空』全二巻 ( 一九〈一、 プリンセス・ラグンヒルド、プリンス・ハラル らの離脱をとくに曷げこ。 平楽寺書店 ) ▽三枝充悳著『中論縁起・ やがて部派仏教に移り、法 ( ダルマ ) に関す ド、宗谷、プリンス・オラフの諸海岸に分けら 空・中の思想』全三巻 ( 第三文明社・レグル れる。昭和基地が、宗谷海岸のオングル島にある教理の固定化とともに、そのうちの保守派 せついっさいうぶ ス文庫 ) ( とくに説一切有部、略して有部 ) は、種々に る。一九三〇年に、ノルウェーのリイセル・ラ くううん航空機を用いて人、貨物、 ルセンが東経三七 ~ 五〇度の間の空中偵察を行区分されたあまたの法 ( 有部は七五法 ) をそれ空運 モード女王の名をつけた。三九年ドイツの自体で存在する実体としてたて、ここに「法の郵便などを空中輸送すること。航空連送、航空 リッチャーは、東経二度付近の東西を空中偵察有」が主張される。この考えは、実はわれわれ輸送ともいう。陸運、海運に対するもので、一一 し、ノイシュワーベンラントと名づけた。内陸の日常的な考えを結晶させたものといってもよ〇世紀に入ってから徐々に発達し、とくに第二 く、かっそれによって実践の目標や過程も明示次世界大戦後、世界的な規模で急速に発展し、 部には山脈群が東西に連なっている。沿岸には くつがえ 西ドイツ、南アフリカ、ソ連、日本の基地があされるところがある。それを覆すのが空であ現在成熟期にある交通形態である。ここで解説 る。ノルウェーがこの地域の領土権を主張してって、存在するいっさいのものから、その自体するのは、日本の航空法 ( 昭和二七年法律二三 一号 ) でいう「他人の需要に応じ、航空機を使 いるが、南極条約により現在その主張は凍結さを奪い、さらに実体を厳しく否定して、すべて れている。日本隊はこの地域の調査を過去四半を「から」にするよう、空は強力に働く。そこ用して有償で旅客又は貨物を運送する」もので には無我説の復活もあり、こうして空によっあり、軍用飛行機や有事の場合の国による空 世紀続けており、八二年からセール・ロンダー ネ山脈や内陸氷床を調査している。〈楠宏〉て、法を含むあらゆる存在から自体や実体は消運、アメリカでとくに発達しているビジネスや レジャーなどのための自家用航空機による運送 くうサンスクリット語のシューンヤされ、我執などのとらわれもすべてなくなる。 空 しきそくぜくう éünya (éünyatä) の訳語。原語はもともと数有名な「色即是空」の句は、色や形をもっ客観は除外する。 の 0 ( ゼロ ) を表す。たとえば、 1 から 1 を引 的対象が「独立の実体」としては存在せす、す〔概観〕一九八〇年現在、世界で空運を目的と くうそくぜ いて 0 というのは無を示し、また川というのなわち空であると説き、さらにそれは「空即是する企業は定期・不定期あわせて六五〇ある。 しき は、一位の数の無を表すが、同時に 1 が十位に色」と続いて、実体を否定してとらわれない空アフリカ、東南アジア、ラテンアメリカなどの メ あること ( 有 ) を示す。後者の意味でのゼロ によってこそ、諸対象がそれそれの局面にその発展途上国が半数近くを占めている。空運は、 ン は、したがって単なる無ではなくて、実は十位対象として存在しうることを示す。その客観的それ自体が経営として十分成り立つばかりでな じゅそうぎようしき イ 、政府としては航空機工業や石油精製業の市 を支えている。さらに、本来このような位取り 対象から、主体すなわち「受想行識」につい ク たん しゅうじゃく はん げだっ 337

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オーセルの婦人像 B ℃ .630 年ころ石灰石 ループル美術館 咼 65cm バリ 出土地は不明であるが , 現存中最古のギリ シア初期彫刻の一つとされている。かって オーセル美術館にあった サモスのヘラ B ℃ .560 年ころ大理石 ループル美術館 高 192Cm バリ サモス島へラ神域から発見された同種のな かでも , もっとも有名なアルカイック期の 大理石女性像。銘にケラミエスと奉納者の 名が見える アナビソスのクーロス B ℃ .520 年ころ大理石 高 194Cm アテネ国立考古博物館 現在残るアルカイック期の 200 点近いクーロ ス ( 青年裸体立像 ) のなかでも発展の晩期に属 / する。銘にクロイソスの名が記され , 死者の 墓像と考えられる。 1936 年アナビソス出土

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物質的なものが、始的な信仰として、高等宗教であるキリスト教ような形態がある。理想社会に関する理論的な るものである。昼間に抱く夢のような白昼夢と偶像崇拝ぐうぞうすうはい よばれる幻想においても、夜の夢においても、神、祖霊、死霊などの超自然的存在の力を表象からは排除すべきものと強く考えられてきたの論説 ( モレリ、デシャンなど ) 、新しい社会の しているか、それを有しているとして、崇拝のである。そして偶像崇拝が顕著な他民族の宗教プラン ( オーエン、サン・シモンなど ) 、この 幻想的に願望は充足されている。だから、夢は 社会の建設のための企画と手段 ( プラン、ペク 対象にすること。偶像は、木、石、骨などの自を未発達なものとみなし、進化論的な宗教形態 願望を充足するものといわれる。 ールなど ) がそれである。 これに反して、想像とよばれる空想では、空然物を超自然的存在の形に似せて、あるいはそ論が展開されてきた。しかしながらこれらの議 内容も発展し多様である。モレリ、マプリら れを指標する形に加工されたもので、その実例論にもかかわらず、ヨーロッパにおいても偶像 想そのものが構想力をもつものと考えられてい としては、はとんどの民族・文化にみられる人崇拝の土壌は否定できない。カトリック文化の一八世紀後半の啓蒙主義時代の空想的社会主 る。たとえば、現実に縛られた考えしかでき 間形態の神像、祖先像や、古代ベルーのジャガは、とくに四世紀ごろからキリスト像、マリア義者は、モアーカンパネッラ風の空想小説を退 ず、想像力がないからいい考えが浮かんでこな ーの彫刻などの動物形態のもの、カトリック社像や十字架などをつくりだしてきており、それけているだけでなく、実際には自分の時代と国 いというときには、想像力は創造力をも意味し の材料をもってユートピアをつくったのであ に対する信奉は現在でも根強く続いている。 ている。この場合には、現実から空想に逃避す会の聖遺物崇拝に顕著にみられるように聖人や る。一九世紀以前と以後との相違は次の点にあ また、進化論的な宗教形態論に対しても、 るのでなく、空想から現実を把握しようとして祖先の身体、衣服の一部を崇拝対象にしている よりしろ いる。幻想と想像は空想の両極端をなすものでもの、さらには、日本の神社の御神体や依代で・・タイラーをはじめとした人類学者、民る。以前には社会的理想に抽象的思弁的性格を あり、空想のなかには二つの特徴が含まれてい ある鏡や刀剣などのように、超自然的存在の形俗学者による諸民族の宗教の調査と比較研究が授け、それを時間の外にたて、それの永久的な 効用と絶対的真理とを特筆する。一九世紀に入 る。だから空想は心理治療的にいえば、症状とそのものではないがその表徴として文化的に規積み重ねられた結果、偶像崇拝は文化の発展段 して現れるものであると同時に、症状をつくり定されている形のものなど多様である。また、階とは一致せず、多くの民族に存在することがると、歴史的要因を考慮に入れながら、彼らを 明らかになった。オーストラリア原住民などの取り巻く社会の批判的研究から出発して社会的 だすことによって治癒しようとする試みである偶像崇拝をいっさい認めないといわれるイスラ ように文化がきわめて未発達で、偶像作製に適理想を仕上げる。彼らはもはや現実についての 印刷されたり筆記されたコー ということができる。精神分析は、方法論的に ム教においても、 抽象的、直観的な知覚から出発するのではな いえば空想の研究であるということができる。 ランの唱句の文字を神聖視するという事実があする物質にも乏しい社会ではあまりみられない く、その時代の社会関係の分析から、資本主義 ↓想像↓夢 〈外林大作〉 り、これも偶像崇拝の一変形と考えることもでが、むしろ、文明が高度化するとともに盛んに 社会の批判から出発する。彼らにとって社会的 なり、精細な偶像をつくるようになることも指 禺象ぐうそう idola 漢語としては単に金きる。 理想は、数世紀来の人間社会の発達の結果なの 属、石、木などでできた像を意味するが、ギリ ところで、偶像と超自然的存在の関係は、カ摘された。 じゅぶつ 現在、偶像崇拝はフェティシズム ( 呪物崇拝 ) である。それ以前の空想主義者は反対に歴史感 トリックにおける十字架のように、偶像が超自 シア語ェイドーロン eidölon ( 複数形ェイドー などの近似概念と同様に、宗教の発展の一段階覚の欠如によって区別される。 ラ eidöla) 、一フテン語イドルム idolum ( 複数然的存在の指標にすぎず、超自然的力をもたな 資本主義の確立が空想理論に新しい性格を刻 いと理論的に考えられている場合のほかに、両としてではなく、ある民族の宗教体系の一部を 形イドラ idola) の訳語としてみると、哲学 印する。啓蒙哲学者が祝福した理性の実際の成 的、宗教的に特殊な意味を帯びてくる。ェイド者の区別が明確に意識されながらも偶像に超自構成する宗教形態として研究されている。↓イ コノクラスム↓フェティシズム〈宇田川妙子〉果に失望させられた彼らは、間違いなく合理的 然的存在が宿りカをもっと信じられている場合 ーロンはもともと姿、影像などを意味するが、 くうそうてきしやかいしゅぎで科学的な社会の枠組みのなかに統合されるこ 哲学史上、知覚し認識する人間と、実在する対がある。たとえば、メラネシアでは祭礼の前に 空想的社会主義 utopian socialism エンゲルスが科学的社会とを願う。人類に仕える科学は、人間を不必要 マランガンとよばれる木彫の像がつくられ、祭 象との間に、なんらかの形で介在する像と考え られた。古代ギリシアの原子論者によれば、対りの間じゅう、そこに祖霊が宿ると考えられて主義 ( マルクス主義 ) に対比して名づけた社会な仕事から解放し、自由に自分の能力を発展さ いる。また、超自然的存在との媒介であるはず主義の種類。「空想的」という形容詞ュートビせることを可能にする富裕な状態に達すること 象から小さな像であるエイドーラが剥離して感 アンに対応する名詞『ュートピア』を題名とすを可能にするはずである。 覚器官に流れ込み、魂の原子と出会うことによの偶像が、それ自体に超自然的力が備わってい 科学的社会主義の出現に先だっ時期の空想的 る著書を一五一六年に刊行したトマス・モア って、認識は成立する。また・べーコンでるとして崇拝対象になってしまう場合もある。 は、真理の認識を妨げるものとして、先入的実際、偶像と超自然的存在の関係は崇拝者の心や、一六二三年に『太陽の都』を発表したカン社会主義者には、ユートピアに対する批判的態 びゅうけん とこにもな度と科学の知識への信頼とがみいだされる。フ パネッラなどのユートピア思想は、・ 謬見としてのイドラ ( 偶像 ) の除去が要求さ理のなかで連続しやすく、その区別を明確にす ーリエは、実現するための手段を指摘すること い架空の理想社会を詳細に空想的に描くという れ、種族のイドラ ( 人間本性一般に付随した先ることはむずかしい。神との直接的関係を主張 どうくっ 入主 ) 、洞窟のイドラ ( 個々の人間に付随したする高等宗教は、とくにこの点をさして、偶像性格をもっている。だがここにいう空想的社会なく、より正当な社会の夢想を示す理論を批判 していたし、オーエンは、プラトンからフーリ 先入主 ) 、市場のイドラ ( ことばに付随した先崇拝は真の信仰の退化であると蔑視する。仏像主義の空想性は、そういう点にのみあるのでは 工に至るすべての先行者を、「人間社会がよっ 入主 ) 、劇場のイドラ ( 学派や体系に付随したをあれほど多く創出した仏教でも、仏を表現すない。理想社会の単に架空の記述でなく、当該 みよう 1 一う 社会の分析から出発した社会主義思想でも空想て立っ原理を識らぬ」ゆえに空想主義者と名づ るには木像よりも絵像、絵像よりも名号がよ 先入主 ) が数えられている。 けた。サン・シモンは実証科学の信奉者であっ 的たりうる。『ュートピア』や『太陽の都』か いといわれ、偶像崇拝の危険性を説いている。 宗教的には、物質的なもの ( 石、骨、像その さて、宗教史的に、偶像崇拝に対する考え方ら一七、一八世紀の社会主義諸思想を経て一九た。この時代はまさに社会主義が空想から科学 他 ) に神が宿る、あるいは神性が含まれている はヨーロッパを中心に長い間否定的で、それは世紀なかばのそれに至るまで、ある共通点があへ変わろうとしていた時代であった。プレハ と信じ、それを礼拝することを偶像崇拝 idola- しばしば邪教・異教と同義であった。八世紀のることは否めない。それは、貧者も富者も存在ノフのうまい表現によれば、「ユートピアを否 tria 一冖テとよぶ。最近の民俗学によれば、偶像 イコノク一フスム , フ崇拝は宗教の第一段階ではなく、むしろその退ビザンティン皇帝レオン三世による偶像破壊令しない、人間が幸福な、人間の搾取のない新し定し科学を求めている空想主義」であった。 マルクスは一八六五年の書簡のなかで書いて そ し力なら い社会の創出という目標の同一性である。 化したもので、真の神観を失うときこ、ゝ と東西教会の分裂や、一六世紀の宗教改革は、 いる。「かかる空想主義者である彼 ( プルード だが思想の内容、その表現形態は多様であ 、フず偶像崇拝に陥るのだといわれる。↓偶像崇拝ある意味でキリスト教圏内での偶像崇拝の可否 ン ) は、歴史の連動ーーこの運動それ自体が解 3 2 、↓ペーコン 〈大谷啓治〉をめぐる論議といえる。偶像崇拝は低級かっ原る。先の架空の理想社会の記述のほかに、次の

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一一一一〔。しかし、こうした分布は古くからこのようを契機に、コイネーは、ギリシア本土、マケドであることを示す ) 。も早く失われた ( 線文である。 線文字文書では位置と道具を表す格があっ しに固定していたわけではなく、①②の特徴の成ニアはむろん、トラキア、小アジア、アルメニ字文書などではなおよく保たれている ) 。 立は比較的新しく、古くは①②と①はより近ア、シリア、パレスチナ、エジプト、メソボタ は閉鎖音の前後、語末以外では、語頭ではに たが、ともに消滅し、その機能は与格が果たす なり、語中では失われた。そのため、これらの 、関係にあったと考えられること、および① ミアから、一時はインドのインダス川流域にま ことになった。双数 ( 一つと三つ以上に対し が①および① 0 に近い特徴を有しているので至る広大な地域に行われるに至った。前三 ~ 音を介して並んでいた二つの母音が一つに融合て、二つを表す ) を残しているのはアッティカ 、①②による比較的後の影響によるもので、 前二世紀に訳された『七十人訳旧約聖書』およ 方言の古風な特徴であるが、コイネーでは失わ した。、、は位置によって、、、 むしろ古くは⑦グループに近かったと考えられび後一世紀後半に記された『新約聖書』の用語 または、、、または、 b0 、になれ、希求法も若干の場合に用いられる以外は消 ること、および 2 の歴史時代の分布は比較的も、基本的にはコイネーである。ごく大まか った。語末の子音は、、 以外はすべて脱滅した。アオリストと現在完了の区別もあいま 新しいことから、古くは①北ギリシア方言 ( ア いになり、現代では失われている。同じく現代 に、後六世紀なかばのユスティニアヌス帝のこ落した。母音は祖語の姿をよく保存している イオリス・北西ギリシア・ドーリス方言 ) と②ろまでが、このコイネーの時代とされる。 が、古典ギリシア語では、 = は = ⅱに、はでは与格も用いられなくなり、その機能は属格、 南ギリシア方言 ( イオニア・アッティカ・アル こうして、しだいに古典ギリシア語から乖離こ、は、 •- 、のあと以外では一になつあるいは前置詞と対格の組合せで表される。未 カディア・キプロス方言 ) という分布だったのしていったが、これに対抗して、古典ギリシアたかくして、母音は = 、、 ) 一・、 ) -1 、。、来と不定詞も失われ、その働きは小辞と接続法 ではないか、とする考えが比較的有力である。 語に倣おうとする運動がおこり、こうした擬古。・、ⅱ、 ) 一ⅱと・田、などの二重母音、子音はの組合せで代用されるようになった。また、 前一二〇〇年ごろの線文字文書によって知主義 ( アッティカ主義 ) に基づく作品もようや、、、 数、人称、相、法、時称のほかに態 ( アスペク ト ) によっても活用するようになっている点が られるギリシア語には、方一言差がみられず、こ く多くなって、後二世紀にはこの傾向は頂点に 、 E 、。アクセントは高低アクセ れは南ギリシア方言に近い 達した。四世紀から一四五三年までのビザンテ ントで、位置も制限がなかったが、語末から一一一注目される。語順はなお比較的自由である。 音節以内の音節に限られるようになった。 〔語彙〕文法形態と基礎的な語彙を別にすれ 前八世紀中葉から前六世紀中葉にかけての大イン帝国の公用語は、この擬古主義の影響を深 植民活動によって、西方はシチリア、南イタリ く受けており、ビザンティン・ギリシア語と、 かなりの数の語彙は借用語であるらしい コイネーではアッティカ方言のにイオニアば、 方言その他のがとってかわった。、・はそのうちの多くは、ギリシア語民族到来以前に ア、さらにフランス南岸やスペイン東岸、北方われる。 はエーゲ海北岸や黒海沿岸、南方はアフリカ北 コイネーはビザンティン時代に分化し始めた ⅲは、・ 5 はになった ( 母音の長短の 行われていた言語からのもので、植物、動物、 岸キレナイカなどにギリシア語は広まったが、 と考えられる。そして、スラブ、イスラムの進区別は後三世紀ごろまでには失われて、は 鉱物、容器、料理、衣服、履き物、武具、家屋 それそれ母市の方言の特徴を示している。 出、トルコの侵入・支配によって、通用する範に、一 0 と。・は 0 に、ⅱはになった ) 。そこで建築、海事、歌舞音曲、宗教、神名、社会制度 これらの方言のうち、イオニア方一言を基調と囲を狭められ、かっ分化を重ねて成立したのが母音は、、、 0 、、ⅱの六つ。さら など広範な分野に及んでいる。しかし古典期の こ、ままたはに ギリシア語に入った借用語はきわめて少ない し、アイオリス方言などを交えて、叙事詩『イ現代のギリシア語諸方言である。現在行われる こ、まオ ( には訂し 、、はそれぞれ— コイネーのなかには、アッティカ方言以外の リアス』と「オデュッセイア』が前八世紀には範囲はギリシア共和国、キプロス共和国、それ にイスタンプールのギリシア人居住区である。 はそれそれ、う、になり、は失われ、方一一 = ロ、とくにイオニア方言から多くの単語が入 まとめられ、その用語は以後の叙事詩その他に つまさき かかと 対して、標準語として大きな影響を与えた。アなお、イタリア半島の・「爪先」と「踵」のそれⅱは•- になるなどの変化を経て、またアクセンり込んだ。 ビザンティン時代の初期には多くのラテン語 イオリス方言にも優れた叙情詩が生まれ、ドー それにわずかに行われているギリシア語は、ペ トは強弱アクセントに移行して現代に至ってい が入った。合成、派生による造語能力はあらゆ 丿ス方言は合唱隊歌の用語の基礎になった。こ ロポネソス半島南東のごく一部に行われているる。 おうせい 〔形態〕実体詞、形容詞、代名詞、動詞、副 る時期を通じて旺盛で、きわめて豊かな語彙が れらの文学方言は、いすれも他の文学方言の要ツアコ一一ア方言とともに、コイネー以前の方言 ヒザンティン後期に 素を交えるなど、多かれ少なかれ「人工的な」 に由来する。 詞、前置詞、接続詞、小辞の八品詞がある。初つくりだされてきたが、、、 もので、一定の時および地域で実際に話されて 一八二九年ギリシアは独立を回復したが、こめの四つは活用する。実体詞は性 ( 男、女、も、手持ちの要素を組み合わせて、豊富な合成 いた方言と一致するものではない。 のときにも、一方では古典ギリシア語をモデル中 ) を有し、数 ( 単、複、双 ) と格 ( 呼、主、語が形成された。 ディモティキの単語の大部分は古来のもので 前六世紀には、イオニアの地に散文用語が形 にした古風な公用語が定められた。これをカサ属、与、対 ) によって、形容詞はさらに性によ レ。フサ ( 純正語 ) という。これに対して、ペロ 成され、ギリシア世界に広く用いられるように っても活用する。代名詞のうち人称代名詞は実ある。古来の要素を組み合わせて新しくつくら なった。前五 ~ 前四世紀にはアッティカ方言にポネソス半島の諸方言を基礎にした共通語もし 体詞のように、指示代名詞などは形容詞のよ , つれた派生語、合成語も多い。カサレ。フサを通し 、、トレコ五ロ、イ て入ったものもある。そのほカ おいて、優れた悲劇、喜劇、散文作品が生まれだいに形成されていった。これをディモティキ に活用する。 た。この期のアッティカ方一言はとくに古典ギリ ( 民衆語 ) という。このほかに中間的なもの、 動詞は数、人称 ( 一、 三 ) 、相 ( 能動、タリア語、フランス語などからの外来語もみら シア語といわれる。 超純正語的なもの、超民衆語的なものがあり、 れ、英語からのものがしだいに増加してきてい 中動、受動 ) 、法 ( 直説、接続、希求、命令 ) 、 アッティカ方言は、アテナイが政治的、経済どれを公用語とするかをめぐって深刻な「一一一一口語時称 ( 現在、末完了過去、未来、アオリストる。 的、文化的に優勢になるにつれ、有力になっ 問題」がおこったが、近年カサレ・フサが公用語 〈無限定過去〉、現在完了、過去完了、末来完 ギリシア語は、現在もなお、国際社会に対し た。ギリシア世界がしだいに衰退して、前四世の地位を退き、一九七六年九月以来、ディモテ了 ) によって活用し、さらに各相の、現在、末て、ラテン語と並び、学術用語を豊富に提供し続 紀後半マケドニアによって統一されると、アッ イキがすべての学校で教えられている。 来、アオリスト、完了時称のそれそれに、不定けているが、それは今後も変わらないのではな 詞、分詞がある。そのほかに動詞的形容詞があ いかと思われる。↓アルファベット〈田中利光〉 ティカ方一一 = 口を基礎とし、イオニア方言の要素を〔ギリシア語の特徴〕古典ギリシア語を中心に 交えた共通語 ( コイネー ) が形成され、他面、述べ、時代により、方言により異なる点は適宜る。こうした活用があるため、語順は比較的自回田中美知太郎・松平千秋著曰ギリシア語入 補足する。 由である。また、不定詞、分詞がさまざまに用 門』改訂版 ( 一九六 = ・岩波全書 ) ▽同著『ギ ごく特別な例外は別にして、諸方言はしだいに いられて、しなやかで、こみいった表現が可能 リシア語文法新 ( 一九六ハ・岩波書店 ) 消滅していった。アレクサンドロス大王の東征〔音韻〕印欧祖語のを失った ( * 印は推定音

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くうてい などを戦闘機のミサイルで要撃する空中戦闘ま法のほかに、遊離窒素を生物学的に利用しやす が射撃も担当するために、操縦席前方に機関銃た。第二次大戦後はジェット戦闘機の出現で、 〈青木日出雄〉 い窒素化合物に変える窒素同化は窒素固定とい を固定装備させたが、射撃が自機のプロペラに 空中戦は高速化し、朝鮮戦争での戦闘を最後でが研究・開発されている。 くうちゅうちっそこてい fixa- われる。↓窒素固定細菌 も命中するために、金属の防御板を使った。一 に、格闘戦闘が姿を消した。それは、空対空ミ 空中窒素固定 九一五年にフォッカーがプロペラとの同調装置サイルの装備 ( ミサイルによる最初の空中戦は tion of atmospheric nitrogen 空気中の窒回塩川二朗編『無機工業化学』 ( 一九ハ 0 ・化学同 人 ) を考案し、やっと自機を損傷せずに戦闘の可能 一九五八年秋の台湾海峡の戦闘 ) によりさらに 素から、種々の窒素化合物を合成することをさ しようちょう な単座戦闘機が完成した。 くうちょう 0 月腸 加速された。戦闘機の装備はレーダー火器管制す。近代化学工業の発展以前は、窒素資源とし空腸 く・つきちょ・つわ くうちょう 0 空気調和 第二次大戦前には、同調機銃のほかに、プロ装置が中心になり、ミサイルの射程も延びて、 てはチリ硝石が唯一のものであり、アンモニア空調 は石炭を乾留する際の副産物として得ていた。 ペラ軸内を通過させる機関銃装備法や、主翼内遠距離からミサイルを射ち合う方式に変わっ 尢エ . 挺作戦くうていさくせん airborne opera ・ tion 陸上作戦のうち、航空機を使って重要な に複数の銃を装備し、射弾を一定距離に集中交た。とくに要撃戦闘はレーダーによる全天候戦しかしアンモニアをはじめとして窒素化合物の 用途が増加するにつれて天然資源に頼ることが 目標地域に戦闘部隊を投入し、かっ補給支援を 差させる方式ができた。装備銃も七・七ミリから闘が主体で、地上のが高性能コンピュー 行う強襲作戦をいう。パラシュートを使う降・投 二〇 = 、リと大口径になり、徹甲弾や焼夷タを装備し、データリンクを使って指示をする しだいに困難となり、一九世紀末には大気中に 弾も使われた。空中戦も大規模になって、編隊ことで、大幅に自動化されるようになった。地無尽蔵に存在する窒素の利用の必要に迫られ下が代表的なものだが、輸送機やグライダーを での戦闘が通常になり、爆撃機が高高度爆撃や上の要撃管制官も、戦闘機の操縦士も、最終的た。こうして一九世紀末から一一〇世紀初頭にか使用しての降着輸送も含まれる。とくにヘリコ 夜間爆撃を行うために、要撃戦闘の高高度・高な判断をするだけの存在になってしまった。 けて種々の方法が考案され空中窒素固定工業がプターを使っての降下・着陸などについては、 ヘリポーン heliborne 作戦とよんで区別して その空中戦が、ふたたび人間を中心にする機出現した。 速化や、夜間戦闘機、全天候戦闘機も出現し 空中窒素固定法をその固定の様式から分類す いる。第一次世界大戦以後に、航空機から落下 た。またイギリスの本土防空戦で初めて実用化動戦闘に変わる契機をつくったのが、ベトナム した (Ground Contr01 lntercept) 方戦争である。目標の敵味方識別の必要から、ふると、①石灰窒素法、②電弧法、③アンモニア傘降下による兵力投入、強襲作戦の研究が各国 式は、レーダーを使って地上から要撃管制、指 たたび近距離戦闘が復活し、戦闘機も機関砲を合成法、に分けられる。①は炭化カルシウムとで行われ、とくにソ連では一九三五年に五〇〇 揮を行うもので、要撃戦闘の方式が確立され装備するようになった。エンジンの発達によっ窒素とを反応させて石灰窒素を得る方法で、石〇人の大部隊の降下演習、三九年にはフィンラ て、レーダーで発見困灰窒素からのアンモニア製造も以前工業的に実ンド戦で実戦初参加があった。続いてドイツ軍 難な低空で進攻するこ施されていたが、現在はアンモニア合成工業のもオランダ進攻やクレタ作戦に使い、日本も四 ハレンバンで降下 二年 ( 昭和一七 ) にメナド、 とが可能になり、電子発達により石灰窒素の製造までにとどまってい 妨害などの手法で相手る。②は電弧炉中に空気を通じ、窒素と酸素を作戦を行っている。大規模な降下・降着作戦 かくらん は、四三年にアメリカ軍が実施したシチリア のレーダーも攪乱す直接反応させ酸化窒素とし、これを冷却しさら る。遠距離の全天候戦 に酸化して二酸化窒素を得、水に吸収させて硝島、四四年のノルマンディー上陸、オランダ反 始編 がの 闘能力だけでは、制空酸をつくるものである。ノル 闘 9 権の獲得が不可能な時ウェーで工業化されたが、多 の し軍代に入った。同時に、 量の電力を消費し経済的に成 、つス 戦闘機自体も、発達し立せず、現在ではアンモニア 機ギ た空気力学の適用と、酸化法に切り替わった。③は 空イ 航 小型コンピュータを使窒素と水素から酸化鉄を主成 った操縦装置を使っ分とする触媒の存在下、高温 装闘館 高圧反応によってアンモニア 武戦物て、極度に高い運動・ を合成する方法である。アン てカ機動能力をもつように っツ戦よっこ。 オオここに新しい モニア合成法は、肥料工業と 伴オ国 にフ帝格闘戦闘の時代を現出密着して伸びてきたが、有機 達軍 発ツンしたのである。 合成化学工業の発展とともに のイド さらに現在は、戦場飛躍的に発展した。 機ドン 空のロ の対戦車攻撃などの主 アンモニアからの誘導品と 航体 , 機面力になってきたヘリコ しては、硫安、硝安、塩安、 』はい場 で赤るプターを、同じくへリ リン安、・尿素などの化学肥料 尢はてコプターを使って排除が、また、染料、爆薬、セル 界絵し 世撃する格闘戦闘とか、飛ロイド、医薬品、シアン化物 次た追 来する巡航ミサイル、 などがあり、硝酸工業、窒素 , イ、一 ~ 一 ~ キ第ま隊対艦ミサイルなどに対 肥料工業、染料工業、医薬品 する要撃、さらには宇工業と深い関連がある。 宙空間を飛ぶ人工衛星 なお、これらの工業的な方 だん デ 1 1 空中窒素固定 F. ハーバーの実験的な装置 369

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きるぎす キルギス ンチモンは世界の数十か国に輸出されている。 % ) 、タタール人、カザフ人などからなる ( 一九や森林が広がる。 この物語はオリエント各地で好まれ、シュメ 〔産業・資源〕国土全体の約六〇 % が農業に利石炭、石油、天然ガスも産出し、石炭の採掘で ール語版、バビロニア語版、アッシリア語版の七九 ) 。北部のフルンゼと西部のフェルガナ盆地、 用されている。ブドウ、綿花、タバコ、アンズは中央アジアの共和国中第一位を占める。シル ほかにヒッタイト語、フルリ語などにも部分的東部のイシク・クリ湖畔に集中して住んでい に訳され、また円筒印章などのモチーフにも用る。イシク・クリ、ナリン、オシュ、タラスのなどの栽培に適した気候条件下にあり、なかでダリヤ水系を主とする潜在水力は、ロシア、タ ジク両共和国に次いでソ連第三位で、発電量は いられた。今日では十数か国の現代語に訳され四州があり、首都フルンゼ ( 人口五七万七〇〇もフェルガナ盆地は綿花の単一栽培地域として 一九三六年に共和国としてソ連邦に加入して以 名高い。また、イシク・クリ湖畔では薬用ケシ 〈矢島文夫〉〇、一九〈三 ) ほか一四の都市がある。 ている。 〔自然〕東西九〇〇キ。、南北四一〇キ。の比較的が栽培され、その生産量はソ連第一位である。来飛躍的に増大し、一九四〇年の五〇〇〇万キ。 回矢島文夫訳『ギルガメシュ叙事詩』 ( 一九六五・ ワット時から八二年の一一四億キロワット時へと 従来多くの地域で水不足に悩まされていたが、 短い距離にもかかわらず、地形の変化が著しい 山本書店 ) キルキス KH"H3/Kirgiz ソ連南部、中山国である。高峰ポべーダ峰 ( 七四三九 ) を擁す豊富な万年雪や氷河を水源とし、これらから水急増した。工業は、かっては手工業主体であっ んね・れんねい たが、現在は織物、食品、製糖の軽工業のほ 央アジアの北部に位置する共和国。ソ連邦を構る天山山脈の大半を占める。チュー川やナリンを引き入れることによって砂漠地帯の灌漑が飛 か、金属切削台や農業機械などの機械工業、金 躍的に発展し、古くから営まれている牧羊業に ー、タラス川などの河谷が山地部を刻んでい 成する一五共和国の一つ。正称キルギス・ソビ 加えて、果樹、穀物、テンサイ、タバコなどの属・建材工業などの重工業の発展が著しい。交 る。南西部はフェルガナ盆地の東縁にあたり、 エト社会主義共和国 KHprH3Cl<afl CCP/Kir- ナリン川など多くの河川はシルダリヤ水系に属栽培が盛んになった。また、大麦、小麦も栽培通、運輸はおもに自動車によって行われている gizskaya SSR 。別称キルギジア KHP1*H3Hfl が、モスクワやタシケントへの航空路も開かれ Kirgiziya0 南東部は中国と境を接している。する。平均気温は、河谷で一月零下六度 0 、七され、これによって穀物は完全に自給されてい はしゅ 〈山下脩二〉 ている。 面積一九万八五〇〇平方キ。、人口三八〇万一〇月一五 ~ 二五度 O を記録する。年降水量は中央る。なお、これら農作物播種地の約六〇 % が、 〔歴史〕キルギジアには紀元前七 ~ 前六世紀に 収北西斜面で八〇〇ミリ程度であ大チュー運河、オルト・トコイ貯水池、アト・ 〇〇 ( 一九ハ三 ) 。住民はキルギス人が四七・九 % 部で二〇〇「 バシ川などの灌漑網によって耕作されている。階級社会が生まれた。紀元後六 ~ 一二世紀には を占め、ほかにロシア人 ( 二五・九 % ) 、ウクる。そのため植物相は砂漠的ないしは半砂漠的 % ) 、ウズ・ヘク人 ( 一二・ であり、山岳部では山地ステップ ( 短草草原 ) 牧畜ではヒッジの飼育が伝統的に盛んで、ウマカラ・ハン朝などトルコ系の国家に、一三世紀 ライナ人 ( 三・ にはモンゴルに支配され、一五世紀後半にキル やウシの飼育とともに全国土の ギス民族体が成立した。フェルガナ地方は一九 半分以上に山地放牧されてい る。養蚕はおもにオシュ州で行世紀前半コーカンド・ハン国に征服された。帝 政ロシアの中央アジア進出に伴い、一八六〇 ~ われている。 地下資源は、アンチモンと水七〇年代に全域がロシアに含まれることにな 銀の豊かな鉱床があり、ソ連第り、ロシア農民の移住地となった。 一九一七年十月革命後、一一月から翌一八年 一位の採掘量がある。とくにア なかばまでの間に、スリュクタ、キ ジル・キヤをはじめとして、ソビエ ト政権が全土で勝利し、キルギジア は五月に成立したトルキスタン自治 ノイ ( 地 共和国の一部となった。ヾ 主 ) やイスラム僧は一八年春からバ スマチ運動とよばれる反ソ暴動を組 織したが、二〇年一一月ごろまでに ほば鎮圧された。一一一 ~ 二二年には 反植民地主義的土地・水利改革が行 われ、六〇〇〇人の農民が一九万九 〇〇〇デシャチナ ( 一デシャチナⅡ 一・〇九二タ ) の土地を受け取っ た。二四年、中央アジア民族的境界 区分によって、キルギジアはトルキ スタンから分離し、ロシア共和国内 のカラ・キルギス自治州となり、一一 六年自治共和国に昇格、さらにのち 三六年に現在のキルギス共和国とな った。その間、二七 ~ 二八年には、 南部で土地・水利改革が行われ、多 妻制およびカリム ( 婚約金 ) 廃止、 レンセ トクマク ぐ / , ′ノ・クリ ー 608 # 2 お、イ 竏ルカ ムイル・・ アト・・ノ「い ' 、一にう : / ナリン ジャラル・ア / ・ド 川亠 スリクタ サルイ・シ ' 200km キルギス 〔上〕天山山脈北側の標 高 1608m ( 湖面 ) にある イシク・クリ湖。塩湖 で , 夏の水温は 22 ℃に 達し , 雪山を見ながら 水浴が楽しめる 〔下〕首都フルンゼ市街。 チュー川の河谷にあっ てよく緑化され , 樹木 の中に建物が点在する 169

9. 日本大百科全書 7

ぐんま 群馬県 / 気温と降水量 成 ロ男女 圦呂 男年 年 一フ′「 / (. 0 ( 0 に 0 」っ 4 ・ 4 ・つ 0 っっ 0 (C) 0 (C) 0 【う ) O (¯) CD 【う ) 0 LO O (¯) O 0 っー「 / よ .0 《 0 一 -0 【う ) 4 ・ 4 ・「 0 っ 0 つ」っ」 1 ー 1 ー 前橋市の気象 ℃ 30 25 20 0 0 100 300 400 500 等温線 ( ℃ ) 2 月 8 月 1960 年一一男 女 1 2 3 4 5 6 7 8 9 1011 12 月 3 単位 : 人 6 全国総数 1 76 81 3 注 : 国勢調査 ( 1960 ・ 1980 年 ) による 9 万人 100 歳以上の人口 ( 1980 年 ) きゅ・つはく ばんそう ひょ - っ 館林市の休泊堀や勢多郡の女堀がある。 役にたった。晩霜害、雹害、冷害、干害もまれではない。 〔近世〕徳川家康が一五九〇年 ( 天正一八 ) 江戸城に入って 〔歴史〕〔先史・古代〕群馬県は、古代東国文化の中心地で か、かけ から上野国も落ち着いてきて、産業や交通が発展した。幕府 あったことに特色をもつ。一九四六年 ( 昭和二一 ) に笠懸村 いわじゅく で発見された岩宿遺跡は、わが国で最初に発見された旧石は県域に約二〇の譜代藩を置き、天領・旗本領・国外諸侯の あかぎ たきぎわおにしゆずりはら 領地 ( 飛び地 ) も散在して、江戸城外郭としての位置的重要 器時代の遺跡として知られ、赤城村滝沢、鬼石町譲原など いたくら えびせはなれやま の住居跡、板倉町の海老瀬離山貝塚などの縄文遺跡や、県性を示した。その後藩主などに変更はあったが、幕末の諸藩 おおこうち えちぜん やよい は、松平氏 ( 越前家 ) の前橋藩十七万石、松平 ( 大河内 ) 氏 西部には弥生文化の遺跡も多い。とくに目だつのは古墳で、 あきもと 県は畿内、北九州と並ぶ日本の古墳地帯を形成し、一九三五の高崎藩八万二千石、秋元氏の館林藩六万石、土岐氏の沼田 おくだいら おばた 年 ( 昭和一〇 ) の調査で八四二三基を数え、赤城南麓、榛名藩三万五千石、板倉氏の安中藩三万石、奥平氏の小幡藩二 南東麓や前橋・高崎・藤岡の周辺では古墳群になっている。万石、酒井氏の伊勢崎藩二万石、前田氏の七日市藩 ( 富岡 ) 四 ~ 八世紀につくられたもので、その形式にも前方後円墳、一万石、松平 ( 吉井 ) 氏の吉井藩一万石の九藩で、これらは 方墳、上円下方墳、円墳の各型がみられ、国指定史跡だけで現在の都市の基礎になった。 てんぐいわぜき そうじゃ ふたごやま 産業面では、利根川から引水した天狗岩堰や渡良瀬川を取 も前橋市総社町の二子山古墳など一七基 ( 一九八五年現在 ) おかのばりぜき えみし やまと 水した岡登堰などで新田開発が行われたが、田畑の割合は があり、群馬県が大和政権の対蝦夷政策の前進基地であり、 一対三で畑が多かった。そこで、クワを栽培して養蚕に努 古代文化の中心地であったことを一小している。 わたらせ 県の地域は古くは毛野国とよばれ、五世紀ごろ渡良瀬川のめ、製糸、絹織物の生産に特色を表した。すでに江戸初期に キ一りゆ、つ おおまま しもつけめ かみつけめ に繭市や絹市が伊勢崎、大間々、桐生、前橋などで開かれ、中 西を上毛野国、東を下毛野国 ( 栃木県 ) といい、大化改新 ちんばた おおとも もとそうじゃ よって国府が現在の前橋市元総社町・大友町付近に置かれ、期以後は絹織物業に工場経営や賃機が現れ、横浜開港による 奈良初期に上野と二字で書き「こうづ ( ず ) け」とよぶよう生糸の輸出と絹織物とで県の主産業に発展した。このほか特 ・つ十 , い せたみどのかんら になった。そして、群馬、勢多、緑野、甘楽、碓氷、片岡、産物として、甘楽・吾妻両郡の麻、北毛の木材と木炭、邑楽 と」わ お・つら にった あがつま とね 吾妻、利根、佐位、洳、新田、山田、邑楽の各郡に加え郡の綿、下仁田の和紙、甘楽郡砥沢の砥石 ( 幕府の御用砥 ) などがあった。交通面では、主要な街道と宿駅が整備され、 て、八世紀に多胡郡が設置されて一四郡になり、それを記念 る なかせんどう して、上野三碑の一つ多胡碑が吉井町に建てられた。国分寺中山道には七宿、高崎から越後に通ずる三国街道には一五 くらがの 表 いちしろまき えんぎしき 年 量 こま市代牧、新屋牧など宿、また倉賀野から日光に通じる例幣使街道に五宿が置か の礎石は群馬町に残り、『延喜式』しし わき 温水度科 気降経 九牧があり、毎年五〇頭の馬と絹を貢納したので、当時の一一れ、脇往還もできた。また利根川などの舟運も倉賀野を終点 均均 として多くの河岸 ( 河港 ) が発達した。 平平度高誨大特産物は馬と絹であったと思われる。 しようえん にったのしよう 月月緯標 〔中世〕一〇世紀ごろから各地に荘園が発生し、新田荘を〔近・現代〕一八六七年 ( 慶応三 ) 江戸幕府の大政奉還、七 はじめ一四か所の荘園が記録にみえ、また伊勢神宮の所領と一年・ ( 明治四 ) の廃藩置県で、八県で群馬県ができ、県庁を みくりゃあおやぎ 高崎に置いたが、東毛の邑楽、新田、山田の三郡は栃木県に しての御厨が青柳 ( 前橋市青柳町 ) など九か所にみえる。こ くまがや れらの牧や御厨もやがて荘園化し、荘園管理者としての武士属した。のち熊谷県となったこともあるが、一八七六年東毛 が成長した。その顕著なのは、新田荘を経営し、東毛地域をの三郡が復してふたたび群馬県を成立、八一年県庁所在地が 在中心とした新田氏で、一三三三年 ( 元弘三・正慶一 l) には新前橋に確定して現在に至る。市町村数は一八七八年に一四郡 ) 一う よし一だ 所 田義貞は一井郷 ( 新田町 ) に挙兵し、鎌倉街道を進撃し、鎌一一四五町村、八九年市町村制施行によって二〇六町村とな 恭署 り、九二年に前橋が市制を施行した。 倉幕府を滅ばした。室町時代は群雄割拠の時勢で、各地に 象 じようさい 明治以降の産業の特色は、蚕糸王国として躍進した点にあ 気城砦が設けられ、榛名山東麓の箕輪城、利根・吾妻両川の えち かなやま 0 合流点に近い白井城、太田の金山城などが著しい。そこへ越る。一八七〇年には、わが国最初の洋式機械製糸所が前橋に さがみ 後の上杉、甲斐の武田、相模の北条氏などが侵入して混乱し 創設され、七二年には、これまた日本最初の官営富岡製糸場 上 乙・ CD 00 -A つ」ワ」 た。当時の城砦の遺構を現存するものには前記のほか吾妻町がフランス人指導のもとに操業を開始、七七年には官営の屑 しんまち いわびつ O O O CD の岩櫃城、大胡町の大胡城などがあり、城下町を形成したも糸紡績所が新町に開業した。やがて前橋に製糸工場が林立 うす かんら めまた あんなか たてばやし うまやばし 1 里・ム・ O ( 0 " 水 のに厩橋城 ( 前橋城 ) 、沼田城、安中城、館林城などがあし、西毛に組合製糸の碓氷社、甘楽社、下仁田社ができるな ん、 , れかい 降 年 る。この時代にも土地開発のために灌漑用水路がつくられ、ど製糸業の地位を築いていった。一方従来の家内工業である 8 年平均気温 13.8 ℃ 年降水量 1155mm 36 。 24 ・ N / 1 39 。 04 ' E 1 12.1 m おおご みのわ せ なんろく まゆいち いせさき ふたい おんな あさ と・き

10. 日本大百科全書 7

日の軍艦は、あらゆる科学技術の成果を取り入水艦のいちばんの敵は相手の哨戒攻撃潜水艦〔軍艦の建造費〕今日の軍艦が、いってみれば電 ん駆潜艇などが、だいじな水上兵力としてクロー ズアップされるようになった。また揚陸作戦専れたきわめて複雑巧緻なものになっており、そで、全般的にも潜水艦がもっとも警戒しなけれ子装備のかたまりのようなものになっているこ の整備と連用にも高度の科学技術が必要であばならないのは相手の潜水艦である。目に見えとは先に述べたが、それだけにその建造費は甚 ん用の各種艦艇が考案され、おびただしく建造さ ない海面下で、潜水艦どうしのもつばら聴音に だしく高価である。一九八二年に竣工した米原 れたのも、この時期である。 る。その特色を列記すると次のようになる。 頼る感性の戦いが不断に続けられているのが、子力空母カール・ビンソン Carl Vinson の建 レーダーの発明と進歩も、海戦の性格に大き ①ミサイルが中心的な攻撃兵器となった。 ハワーの特徴的様相といえよう。 造費は実に六〇〇〇億円を突破しており、これ な影響を及ばした。優れた探知装置として登場 充実したセンサーが不可欠の装備になってい 現代のシー る。 に搭載機のコストをプラスすると、優に一兆円 したレーダーは、ほどなく射撃指揮システムに ②航空母艦には、カタバルトと着艦制動装置を 組み込まれて、攻撃面でも積極的に威力を発揮 ③各種の戦闘機能がコンピュータ化され、電子備えて固定翼機を運用する大型のものと、よりを超える。最近の米攻撃潜水艦ロサンゼルス 小型で対潜を主体にヘリコプターないし > / Los Angeles 級も、一隻の単価が一七〇〇億 するようになり、その有無は艦艇にとってまさ装備の充実が決定的な要素となった。 円余りになっている。基準排水量で三〇〇〇ト一 に死活の問題となった。 ④主機は原子力機関とガスタービンが主体にな機のみを運用するものがある。 〔第二次大戦後〕戦後、水上艦では戦艦にかわりつつある。 ③水上戦闘艦艇として一括される艦艇の種類に満たない海上自衛隊の護衛艦「はっゆき」級 って空母が主役となり、とくにアメリカでは、 ⑤静粛性が強く求められている。 は非常に多い。戦艦、巡洋艦、駆逐艦、護衛艦、フでも一隻当り約四〇〇億円もかかるのである。 このような驚くべき高額の建造費は各国の建艦 リゲート、コルべット、高速艇などがそのおもな 原爆搭載機を運用できる大型空母が、戦略兵器 ミサイルは大別すると対空用、対艦 ( 地 ) 用、 ものである。いずれも高速で、最近ではなんら政策に大きな影響を及ばしているが、それは国 ( 核抑止力 ) としての機能を期待されるように 対潜用に分けられるが、対空用はさらに、広い かのミサイルを備えているのが普通である。 防と経済、国防と国民生活との関連においても なった。しかし、それ以上に革命的なできごと空域をカバーできる艦隊防空用と、射程の短い は、原子力推進の実用化、とりわけ原子力潜水個艦防空用に分類できる。対艦 ( 地 ) 用のミサ④機雷戦艦艇は、ミサイル、大砲、魚雷と並ん無視できない課題になっている。〈石渡幸二〉 で、現代のもう一つの重要な海戦兵器である機回福井静夫著『日本の軍艦』 ( 一九五六・出版協同 艦の出現である。その第一艦はアメリカのノー イルも射程には大きなバリエーションがある。 社 ) ▽堀元美著『現代の軍艦』 ( 一九七 0 ・原書 チラス Nautilus で、一九五四年に就役した。 いずれにしても、早く相手を発見し、有効な先雷を扱うもので、機雷を敷設する敷設艦と、敷 制攻撃を加えうるかどうかが死活の問題なの設された機雷の除去を任務とする掃海艇があ 房 ) ▽同著『現代の艦載兵器』 ( 一九ハ一・原書 水中では電池を使って航走する以外に方法のな かったそれまでの潜水艦は、潜航時間の短いこで、そのための方策がいろいろと講じられてい り、掃海艇には、その使用海域、掃海方法の相 房 ) ぐんかんき海車に属する艦艇に掲揚 とと水中速力の遅いことが大きな弱点であったる。各種の探知装置の働き、これと連動した攻違によって、いくつかのタイプがある。 軍艦旗 が、原子力推進の採用は一挙にこの問題を解決撃諸元の計算、兵器の使用が、電子機器を駆使⑤揚陸作戦艦艇は、上陸作戦にあたって、所要される旗。陸・海車旗が制定されている国では してくれた。運用上、無限と考えてよいその航 した一つの流れとして体系化されつつある。探の人員、兵器、物資を迅速に陸揚げするための海軍旗が、とくに制定していない国では国旗が ぎまん 続力と、飛躍的な水中速力の向上は、それまで知に対する逆探知、妨害、欺瞞など、現代の軍専用艦で、揚陸指揮艦、揚陸侵攻艦、ドック型それにあたり、軍艦旗を掲げている間は、その 揚陸艦、戦車揚陸艦、貨物揚陸艦、そのほか各国の主権・名誉と軍艦の特権を表し、外国の権 の潜水艦が、本質的に、必要に応じて潜航でき艦の戦いはまさに電子戦の様相を呈している。 る可潜艦の域を出なかったのに対して、常時水 主機は原子力機関のほかに、操縦、整備の両種の揚陸艇など、大小さまざまの種類がある。域外にあることを示す。日本では一八九〇年 きよっこう アメリカ海軍の揚陸侵攻艦タラワ Tarawa 級 ( 明治二三 ) 一〇月、一六条の旭光を配する 中を自在に行動できる真の意味の潜水艦を生み面で簡便なガスタービンが広く採用されるよう きよくじっき などは、全通する飛行甲板を備えた満載排水量旭日旗が制定された。戦闘中はマストに掲げ、 出したのである。今日では主要海軍国の潜水艦になっており、かって艦艇主機の主体であった 戦闘旗となった。海上自衛隊でも同じ図案の旗 は、原子力潜水艦が主体となっており、その傾蒸気タービンは、原子力艦を除いて、急速に過四万トンに近い大艦である。 向はますます強まりつつある。 去のものになりつつある。行動中できるだけ騒⑥支援艦船は、以上の各種戦闘用艦艇以外を一を自衛艦旗として使用している。〈寺田近雄〉 他方、大戦中にその芽をみせたミサイル音を発生しないように配慮されている点も大き括した総称で、戦闘用の艦艇が必要に応じてそ軍管区制ぐんかんくせい 0 テマ制 な特色で、水上艦、潜水艦の双方とも、ソナー が、戦後着実に実用化の段階を歩んで、まず対 の能力をいつばいに発揮できるように、数々の軍艦島ぐんかんじま長崎県南部、長崎半島 空ミサイルが水上艦に装備され始め、ついで長 による探知から逃れるために、発生音の減少と支援任務を果たす艦船である。洋上補給艦のよの西方海上にある小島。端島ともいう。面積 うに積極的に艦隊と行動をともにするものか〇・〇六平方キ。。旧高浜村、現在高島町に属す 射程のミサイルを潜水艦に搭載し、これを戦略外部に漏れる音の遮断に、多くのくふうを凝ら えいせん る。日本有数の海底炭田の島として知られた。 兵器として用いる構想が生まれた。高度の隠密している ( マスカー装置や主機の弾性支持装置ら、入港時に接岸・離岸の手助けをする曳船に なべしま など ) 。 至るまで、その種類は多岐多様であるが、おも 開坑は明治初年で、鍋島氏を経て、一八九〇年 性と機動性を備える原子力潜水艦の出現が、こ みつびし なものには、洋上給油艦、洋上弾薬補給艦、洋 ( 明治二三 ) 三菱の経営に移り、以来発展して の傾向に拍車をかけたことはいうまでもない。 〔軍艦の種類〕海戦の性格の複雑化に伴って、 長射程の弾道ミサイルを搭載した原子力潜水今日の軍艦の艦種名は非常に多くなり、しかも上物資補給艦、駆逐艦母艦、掃海母艦、潜水艦年産約二五万トンに達した。島の周りは高さ一〇 のコンクリート壁で固められ、その中に選炭 母艦、潜水艦救難艦、海洋観測艦、情報収集 艦の第一号は、一九五九年に竣工したアメリカ同じ性格の艦でも、国によって呼称が違うケー のジョージ・ワシントン George Washington スが少なくないので、すべてを列挙するとおび艦、工作艦、砕氷艦、病院船、浮きドックなど場、接岸施設など諸施設のほか、人口約五〇〇 がある。通常、兵装は備えていないか、備えて〇人を収容する七 ~ 九階建てのアパート群が建 で、はどなくソ連もこれに続き、現在では米ソ ただしい数になるが、機能的に大別するとおよ いても自艦防御用の限定されたもので、狭義にち並んで、人口密度五万 ( 一平方キ。当り ) を示 両国のこの種の戦略潜水艦が、核抑止力の重要そ次のとおりである。①潜水艦、②航空母艦、 した。緑なき島といわれ、遠望すると車艦に似 な担い手になっている。今日では米ソのほかに③水上戦闘艦艇、④機雷戦艦艇、⑤揚陸作戦艦は車艦と目されない性質の船である。しかし、 このような縁の下のカ持ち的な支援艦船が後ろているので軍艦島とよばれた。一九七四年 ( 昭 イギリス、フランスも同様の戦略潜水艦を保有艇、⑥支援艦船。 とら に控えていない艦隊は、、 しわゆる張り子の虎的和四九 ) 閉山。現在は昔の無人島に戻り、アパ しており、中国も最近その仲間入りをしたと報①潜水艦はさらに戦略潜水艦、巡航ミサイル潜 ー ) レつか、 ート群が廃墟として残っている。〈石井泰義〉 じられている。 水艦、哨戒攻撃潜水艦、特殊用途の潜水艦な存在に堕してしまうという意味で、海車力が 囮二万五千分の一地形図「端島」 〔現代の軍艦〕以上のような発達過程を経た今 ( 兵員輸送、救難など ) に区分できる。戦略潜有効に機能するための不可欠な要素である。