型で、浮遊生活を送ったのち、変態して底生生 , ん者が唄いながら踊るという技巧で、今日でも種、日本近海から約二八〇種が知られている。 ま四、五種残っているが、これはその代表的名曲〔形態〕体は丸い盤と細長い腕からなる。ロは活に入る。保育習性をもつものもあるが、その こうもん のう で、舞踊としても簡略な形での上演は続いてい 腹面の中心にあり、肛門はない。盤はヒトデよ場合には浮遊幼生期を経ず、生殖嚢内で直接発 も 雄 たが、歌舞伎では一九五五年 ( 昭和三〇 ) 六世り柔らかく、上面が革のような感じのものが多生して生殖嚢壁より栄養の補給を受ける。寿命 うたえもん っ 中村歌右衛門が渥美清太郎の台本で本式に復活 腕は丸くて細く、ヒトデとは違って、付け は三年ぐらいのものが多いが、長いものでは一 目 〈松井俊諭〉 根が盤の部分からはっきり分かれて伸び出てい 〇年以上と推定される。なお、クモヒトデ類の カ そうし 色 なかには、五本の腕の先が枝分れしてつる状に クモバエ〔蜘蛛蠅〕昆虫綱双翅目環亜る。腕の表面に多数の長い棘をもつものもい 赤 目クモバエ科 Nycteribiidae の昆虫の総称。る。腕は中心に骨の址が入っていて硬いが、腕絡まるテヅルモヅルという異様な形をした動物 の ね 体長三 = 、リぐらいの無翅のハエで、褐色の体に剛骨の一つ一つが筋肉で結ばれているため、しな群が含まれる。 〈重井陸夫〉 くるま くもべくるまづかこふん 0 車 毛が発達し、つめが大きい。体は一見クモを思やかに動く。ヒトデと違って腕の中に内臓は入雲部車塚古墳 づか、」ふん わせるので名づけられた。成虫はコウモリ類に っていない。盤の内部には袋のような大きな胃塚古墳 ウ ョ 体外寄生して吸血する。卵は子宮内で孵他し、 があり、腸はない。ロの周りは硬くぎざぎざし くもほうでん雷雲の中でおこる放 雲放電 チ ぜんよう うんない キ 幼虫も発育を完了し、前蛹で産み出され、ただちた骨からできていて、あごのようになってい 電。雲内放電ともいう。雷雲の中では絶えず電 マ ッ に蛹化する。この習性をもっグループはハエのる。棘皮動物特有の水管系は盤の部分から腕の荷の分離が行われていて、この結果、雲の一部 マ モ なかで蛹生群とよばれている。ケプカクモバエ中へ伸び、管足が腕の下部側面に対に並んで突 に正電荷が蓄積し、他の一部に負電荷が蓄積す ク P ミミ 3 は、頭部は円筒形で単眼出している。クモヒトデの管足は触手とよばる。この蓄積量が限度を超えると、両者の間に あし けいせつ を有し、毛を密生する。脚の脛節には先端部にれ、先端に吸盤がなく、体の移動に用いられる放電がおこり、正負の電荷が雲の中で中和す下出血の原因の半数以上を占める脳動脈瘤は、 四、五列の剛毛をもつ。ニホンユビナガコウモ ことはない。生殖孔はヒトデやウニのように体る。これが雲放電である。これに対して、雲と一度出血すると再出血しやすく、そのたびごと リに寄生する、ヘラズネクモバエ ~ 、 e の上面にはなく、下面の腕基部に近いところに大地との間におこる放電は落雷ということばでに重症となり、放置すれば半数以上は死亡す をきミ、ミカドクモバエ ~. ミ一。、。を裂孔として開く。雌雄は普通異体であるが、同区別される。雲放電のおこる頻度は落雷のそれる。したがって、くも膜下出血が疑われたら早 せきせつ などは蹠節側面が半円形を示す。いずれもまれ体のものも多い。雌雄異形で、雄が雌の一〇分より一般に高い 〈三崎方郎〉急に脳外科専門の医療施設へ搬送し、適切な治 レつ力い な種類である。 〈倉橋弘〉 の一ぐらいの大きさのものもある。色はさまざ 〈加川瑞夫・山本昌昭〉 くもまくかしゆっけっ頭蓋骨療を行うべきである。 くも膜下出血 まで、茶褐色、黄褐色、黒褐色などじみなもの クモハセ〔雲沙魚〕 brown goby/8Ba- の下にある脳は、外側から、厚い硬膜、その下クモマグサ〔雲間草〕 S 兵ミ。ミ ) だいだい 、を fuscus 硬骨魚綱スズキ目ハゼ科に が多いが、なかには鮮やかな赤や橙色、ある し薄い半透明なくも膜、さらにその下にある脳 ミ ~ Fisch. var. ミ s ミ、ミ ~ ・ (Fr. et Sav. ) En ・ 属する海水魚。暗灰色の地色に暗褐色の不規則 いは紫色の色調を帯びたものもある。 実質を包む軟膜という三層の膜に覆われ、くも gl. ユキノシタ科の多年草。根茎は細く横に はんもん な斑紋がある。左右の腹びれは合一して杯状を〔生態〕体の移動には腕を用い、五本の腕を平膜と軟膜との間は、くも膜下腔とよばれる空間 は、、枝は地上に出て葉を密につける。葉はく せきずい せんもう なし、大きい。全長九に達する。千葉県およ面上にくねらしてはい進む。付着生物の枝など があって脳脊髄液に満たされている。この中に さび形で先は浅く三裂し、縁に長い腺毛を列生 び長崎県以南の日本各地に分布。外海性の海岸に絡まって生活するものでは、腕が四方に柔軟出血がおこったものを、くも膜下出血という。 する。七、八月、二 ~ 一〇弩の花茎の先に一 ~ りゅう の潮だまりや浅所で、単独で底生生活を送る。 に曲がり、枝から枝へと腕をかけ渡しながら体〔原因〕五〇 ~ 七〇 % は脳動脈瘤の破裂であ四個の白い花をつける。花弁は広卵形で五個、 れきち ェビ、カ一一、巻き貝などの小動物を食べる。産を移動する。餌は小動物、腐食物、浮遊生物な り、ほかに脳動静脈奇形、高血圧や脳動脈硬化雄しべは一〇本。子房は上位。高山の礫地に生 卵期は夏季で、石の下面に卵塊を産み付け、雄どで、生きた大形動物をとらえて食べることは に伴う血管病変などがあげられる。↓脳出血 え、本州中部地方に分布する。〈若林三千男〉 しぎよ 親魚がそれを守る。仔魚は七ミリほどの大きさま ない。浮遊生物をとるものは潮の流れの速い所〔症状〕特徴的症状は、突然おこる頭が割れるクモマツマキチョウ〔雲間褄黄蝶〕 or ・ おう で浮遊生活を送る。同属の魚は世界の亜熱帯かの岩陰などに潜み、腕を三本、あるいは体全体ような激しい頭痛であり、多くは吐き気、嘔 ange t ぎ \ ゝミ斗 0 ュ s ミ、 d ミ es 昆虫 としゅうめい どう・一う りんし ら熱帯域にかけて広く分布し、日本からも六種を乗り出して小刻みに振る。そうすると、腕の吐、羞明 ( まぶしさ ) を伴う。また、瞳孔異綱鱗翅目シロチョウ科に属するチョウ。ューラ へんまひ 類が知られている。 〈道津喜衛〉側面に生えた棘のすきまや触手の表面の粘液に 常などの脳神経症状あるいは失語症や片麻痺な シア北部に広く分布するチョウ。ヨーロッパで クモヒトデ〔蜘蛛海星・蛇尾〕 brittle- 餌が付着する。餌は触手と繊毛流によってロのどの脳局所症状を呈することも少なくない。通は普通種であるが、東アジアでは産地は限られ きよくひ ・南 star 棘皮動物門クモヒトデ綱に属する海産動ほうへと運んでいく。砂泥上にすむもののなか常、これらの症状は一過性で、一 ~ 二週間で軽る。日本では本州中部地方の特産種で、 とがくし 物の総称。五本の腕をもち、クモのような動き には、腕を輪にして腐食物をかき集めたり、腕快する場合が多い。しかし、出血発作が激しい アルプスのほか、戸隠山、八ヶ岳、新潟県より ひめかわ 方をするヒトデに似た動物。漢字の「蛇尾」はを体の上に高く伸ばして振るものもいる。ま場合は、けいれん発作をおこしたり、頭痛と同長野県にわたる姫川流域、静岡県下の大井川上 腕の外観や動きがヘビの尾に似ているところか た、付着生物の個虫をかんで食べるものもい 時に意識を失う場合もあり、意識が回復しない 流域、そのほか富山県下の黒部川上流域、新潟 みよう - 一うせき つばめ ら名づけられたもの。つねに岩のすきま、転石る。夜行性のものが多く、発光する種類もいく まま死亡することもある。 県下の妙高山関温泉、燕温泉、岐阜県下の吉 ようついせんし かみたから たかわ の下、あるいは砂泥の中など、人目につかない つかある。発光は腕の側面や棘の表皮にある発〔診断〕従来は腰椎穿刺によって血性髄液を証城郡上宝村、大野郡圷恥孵村、高根村などの 所に生息する底生動物である。しかし、海洋生光細胞によって行われる。 明する方法が行われたが、最近はただちに oe 山間渓谷に産することが知られている。 態系のなかでは重要な位置を占め、とくに砂泥 生殖方法はさまざまで、体が二つに割れて無 ( コンピュータ断層撮影法 ) が行われ、くも膜 古くから日本の高山チョウの一つとして著名 中に生息するものはしばしば密生して大群集を性的に増えるものや卵胎生のものもあるが、多下出血が証明されたら速やかに脳血管撮影が行であるが、姫川流域のような低標高地に産する えさ われる。 なし、底生魚類などの餌となる。棘皮動物のな くのものは雌雄がおのおの放卵、放精を行い、 場合もある。はねの地色は白色、裏面には後ろ くさず かで種類数がもっとも多く、世界で一九〇〇海中で受精する。幼生はウニと同じプルテウス 〔治療〕原因疾患の治療が主になるが、くも膜ばねと前ばねの先端部に草摺り模様があり、雄 やっ へり 580
あいまいな定義で用いられ、不透明鉱物 ( 薄片 明治以後は、それまでの各種技法を継承し、 れ、金工技術は飛躍的に発展した。飛鳥寺の丈接触して原型を回転させ鋳型をつくる。これを しやか にした場合光を通さない鉱物 ) や、単に金属光 引き型法といい、姿の美しい平等院の梵鐘、銘西洋の技術も導入されたが、社会的変革に伴う 六仏 ( 六 0 六 ) 、法隆寺釈迦三尊 ( 六一一三 ) は止利仏 師の作であり、いずれも蝋型鋳造で金めつきを文で名高い神護寺の梵鐘穴七五 ) などが知られ生活様式の推移により大きく変化し、また海外沢をもっ鉱物をさす場合もあった。 ^ 加藤昭〉 たまむしずし の万国博覧会などにも日本の金工が紹介される金属指示薬きんそくしじゃく metal indica- 施してある。また、法隆寺の玉虫厨子の扉背面ている。 たくさい さいちょうくう 仏教界では新しく密教がおこり、最澄、空ようになった。鋳金家として本間琢斎、鈴木長 tor キレート滴定において終点指示のために の千仏銅板には鍛金の押出し技法がみられる。 かのうなつおうんの じようん につとう これは贋から奈良時代にかけて流行した技法海らが入唐して宗義とともに多数の仏具を請来吉、大島如雲、彫金家として加納夏雄、海野用いる指示薬をいう。指示薬自身も金属イオン しようみん とキレート化合物を生成するが、その安定度定 したが、以後それに倣って多くの密教仏具がっ勝珉、香川勝広、鍛金家として平田宗幸らが で、刻印のように銅板の裏から仏像の形をした 活躍した。明治から大正、昭和にかけては津田数は、滴定試薬が金属イオンと結合して生じる 原型で打つか、半肉の原型の上に薄い銅板をのくられた。 せんろく のぶお かとりほっま 鎌倉時代は貴族にかわって武家が台頭した時信夫、香取秀真、清水南山、北原千鹿らの活躍キレート化合物の安定度定数に比べて小さく、 せて上からたたいて浮彫り風に肉づけしたもの である。当時の彫金の傑作には東京国立博物館代で、この時代の金工は武具、甲冑類の飾り金が目だっ。明治以後しばしば開催された美術工かっ指示薬自身の色が、金属イオンとキレート かすが あかいとおどしたけとら かんじようばん てんがい 化合物を生成したときの色と異なるような性質 法隆寺宝物館の金銅透彫灌頂幡がある。天蓋具に集中する。春日大社の赤糸威の竹虎文様芸展覧会によって作家は大きな刺激を受け、一 ちょうばん の下に銅板を組み合わせた長さ五余の長幡金物や義経籠手などに彫金技法がみられる。仏方、金工の需要が拡大するに伴って技術を発展をもつものが金属指示薬として用いられる。金 しやり ばさっ 〈香取忠彦〉属イオン ( 電荷は省略する。以下同じ ) を含 を下げ、仏、菩薩、天人、パルメット文を透彫教界では舎利奉安のための舎利塔の製作が盛んさせたことも見逃せない。 りにしてある。 に行われ、西大寺の金銅透彫舎利塔、長福寺の回蔵田蔵・中野政樹著『日本の美術金工』む溶液に金属指示薬 X の微量を加えてキレート しようむ のう寺」っしよう 試薬で滴定すると、最初は MX の着色がみ ( 一九七四・小学館 ) 奈良時代は金工の最盛期であった。聖武天皇金銅能作生塔など金工技術の粋を示している。 おもむき るしゃなぶつぎぞう の発願になる東大寺の本尊盧舎那仏坐像 ( 七五四 この時代の金工は重厚な趣をもち、鏡も厚手金属鉱物きんそくこうぶつ重金属元素を主られるが、当量点では、 かいげん MY + X MX 十 Y 開眼供養 ) は座高一五、重さ一一五〇トンの巨大となり、文様も写実的で仏具も重厚なものが好成分とする、金属ないし亜金属あるいは金剛光 沢をもっ鉱物の総称。分類上は、元素鉱物、硫の反応がほとんど完全に右に進んで、溶液は遊 な鋳物仏像で、二度の火災で当初のおもかげをまれた。 つばめめきこうがい れんべん れんげぞう 化鉱物、酸化鉱物などに属し、多くの場合その離の指示薬の色を呈し、色の変化を生じるので 失っているとはいえ、蓮弁に刻まれた蓮華蔵世 室町時代には鐔や目貫、笄、小柄など刀装 ゅうじよう おもむき 具にみるべきものが多い。彫金家後藤祐乗は元素の鉱石鉱物となる。主成分となる重金属一兀終点を判定することができる。キレート試薬と 界図は当時の壮大な趣をいまに物語っている。 とうろう じもんすかし してエチレンジアミン四酢酸 < ) を用 東大寺大仏殿前の八角灯籠は、斜格子地文透後藤家の祖となり、子孫は一七代にわたって活素としては、チタン、バナジン、クロム、マン おんじよう 、るマグネシウムイオンの滴定ではエリオク ガン、鉄、コバルト、ニッケル、銅、亜鉛、ガし の火舎の扉に音声菩薩を半肉に鋳出した蝦型躍した。 ロム。フラック ( ) が、また銅イオン リウム、ゲルマニウム、ニオプ、モリプデン、 鋳物で、量感あふれる金工作品である。東大寺 鎌倉時代から江戸時代にかけて鉄の精錬に使 三月堂本尊の不空羂索観音の銀製宝冠は、唐草う炉「たたら」が改良され、良品質の鉄鋼生産ルテニウム、ロジウム、バラジウム、銀、カドの滴定では 1 ーピリジルアゾー 2 ーナフトール ぎよく @<Z) がそれそれ金属指示薬として用いら 文を透彫りした銀板に琥珀、水晶、玉を飾った ; 可能になった。こうして青銅製品にかわってミウム、インジウム、スズ、アンチモン、タン 〈成澤芳男〉 華麗なもので、当時の金工技術の高さを示して鋳鉄製品が多く現れるようになるが、用途の大タル、タングステン、オスミウム、イリジウれる。↓キレート滴定 そうえん すきくわ しやくじようえ 1 一うろ なべかま いる。正倉院宝物にも、鏡、錫杖、柄香炉、部分は鍋、釜などの炊飯用品と鋤や鍬などの農ム、白金、金、水銀、タリウム、鉛、蒼鉛 ( ビ金属主義きんそくしゅぎ metallism 貨幣 くんろばん スマス ) 、トリウム、ウランなどがあり、ヒ素、の本質を素材価値に求める学説の総称で、名目 銀壺などの鋳造品、薫炉、盤などの鍛造品と多耕具であった。しかし、室町期に流行した茶の セレン、テルルが加わることもある。これらの主義 nominalism に対するものである。金属 湯によって、茶の湯釜が鋳造されるようになっ 種多彩な金工品がある。 あしゃ むさしちちぶ おんが げんめい わどう た。九州福岡県の遠賀川河口の芦屋釜、栃木県元素は、地球化学上すべて親銅元素に属し、金主義によれば、貨幣はもっとも広く受領される 元明天皇の和銅元年 ( 七 00 に武蔵国秩父か じはだ わどうかいちん てんみよう ら銅が献上されたのがきっかけで、和銅開珎と佐野の天明釜が有名。芦屋釜は地膚表面が滑属鉱物として濃集して産する場合、金属鉱床を商品であるから、それ自体が素材価値をもたな くてはならないのであり、貨幣史のうえで長く 形成し、これらの元素の鉱石を産する場とな よばれる日本最初の鋳銭がつくられた。金貨のらかで鋳出文様に風雅な趣があり、天明釜は いキ一ーしレ・・つー・・つ 開基勝宝も知られているが、その後何種かの荒々しい地膚と形のおもしろさに特徴がある。京る。また、単一重金属元素の鉱床も、幾種類か重要な役割を果たしてきた貴金属こそ本来的な なごしぜんせい どうにん 銭製造ののち発行が停止され、かわって中国銭都でも釜の製作が始まり、名越善正、西村道仁、の元素の鉱物の組合せによる複合元素の鉱床も貨幣である、とされる。このように貨幣の価値 たいせき つじよじろう が多量に輸入されて流通し、本格的な銭貨の鋳辻与次郎などの釜師が輩出した。刀剣小道具もある。前者に属するものは、堆積起源の酸化鉄を素材そのものの価値に由来せしめることか うめただ 発達し、前述の後藤家の各代、刀の鐔では埋忠鉱物 ( 磁鉄鉱、赤鉄鉱など ) 、酸化マンガン鉱ら、商品学説または貨幣貨物説ともよばれてい 造は江一尸時代をまっこととなる。 ・つそうデ みようじゅ えんりやく 〈石野典〉 る。↓貨幣 平安後期は延暦寺の宀玉相毛彫金銅経箱明寿が透しゃ象眼を応用した華やかで気品の物 ( 多く二酸化マンガンの鉱物 ) などがあり、 けまん いくつかの一兀金属せつけんきんそくせ 0 けん metallic ( 一 0 三一 ) や中尊寺の金銅華鬘 ( 透彫りで宝相華高い作品を残している。また桃山時代には書院造後者には多くの金属鉱床が属し、 かりようびんが soap 高級脂肪酸 ( 炭素数七 ~ 二一 I) 、樹脂 素の組合せを形成する。すなわち、亜鉛ー鉛、 を表し、打出しによる迦陵頻伽を付す ) にみの広大な邸宅や城郭が造営され、柱金具、引 られるように、当時の貴族の繊細優美な好みを手、釘隠など、建築の細部に金工が施された。銅ー亜鉛ー鉛、金ー銀、白金族元素、スズータン酸、ナフテン酸などのアルカリ土類金属および しようがん 重金属の塩をいう。高級脂肪酸のアルカリ金属 江戸時代には、刀剣は実用を離れた賞玩品グステンーモリプデンービスマスなどである。 反映した金工が多い。この時代、鏡は唐式から ちょう がんしよう 成因的には、直接の岩漿活動や高温交代作塩、すなわちせつけんとは区別される。 和鏡に変化した。鏡胎は薄くなり、草花、蝶、となり、小道具類は装飾的傾向を強めた。金工 まっしよう よく用いられる金属は、アルミニウム、亜 鳥などの文様を配している。また鏡の表面に御全般に末梢的な技巧にとらわれがちで、江一尸用、熱水作用などの産物になる初生鉱物と、生 しよ、ったい 後期には文人趣味の絵文様を浮彫り、透彫りに成後地表における風化などで生成した二次鉱物鉛、カルシウム、マグネシウム、鉛、コバル / 、正体といって、仏像、神像を毛彫りで表し、 ト、ニッケル、銅、マンガン、バリウム、ス とがあり、とくに区別する必要のある場合は、 した文房具類が蝋型鋳物で精巧につくられた。 ぞ 礼拝の対象とした鏡像も流行した。 えかがみ ズ、金、銀、鉄、カドミウムなどである。 初生金属鉱物というように用いる。この語は、 鏡は一六世紀後半に柄鏡が出現して、以後明治 ん仏教の隆盛に伴って梵鐘も奈良時代から多く 製法には次の三種類の方法がある。 metallic minerals の直訳で、過去にはかなり 初期まで流行した。 キ、つくられた。梵鐘は中心部を軸として鋳物砂に ぎんこ - 一づか 267
わ ① そ・つよう て刈り、株仕立てを行う。仕立ての方法には、切便不利などの治療に用いる。また、葉を桑葉と 6 りもどす主幹の高さや残す枝の数などによっ称して、解熱、鎮咳、消炎剤として感冒、眼 7 そうじん て、根刈り、中刈り、高刈りなどがある。暖地病、高血圧症などの治療に用いる。果実を桑椹 ししゃ では病虫害が少なくなる根刈り法が普及し、積と称して、強壮、鎮静、補血、止瀉剤として用 いる。果実の汁液を麹といっしょにして発酵さ 雪地帯では高刈りが適している。 しし、強壮の酒として有名で 葉はカイコの飼育期間中、毎日収穫する。カせた酒を桑椹酒と、 〈長沢元夫〉 イコの飼育時期は春、夏、秋などの季節があある。 り、カイコの大きさ ( 齢という ) によっても食鍬くわ田畑の耕うん、砕土均平、うね立 べ方が違うので、葉の収穫の方法もいろいろにて、中耕除草、土寄せ、根切り、掘取り、溝さ らいなどの農耕作業のほか、土工作業にも広く くふうされている。葉だけを摘むのは労力がか ③ かるので、葉のついた枝 ( 條桑という ) ごと切使用される農具である。種々の作業ならびに使 用場所の土壌条件に適するよう、その形態は数 りとる條桑収穫が広く行われる。若い柔らかい しんしよう 葉が必要な稚蚕用には枝先の新梢を摘む全芽多く分化発達し、形状は数百種にも及ぶ。 〔種類〕分類は使用法により打ち鍬、引き鍬、 収穫が行われる。 災害や病虫害としては、春の凍霜害などの気打引き鍬の三種類に大別され、また刃床部の構 いしゆく 造上から風呂鍬と金鍬に大別される。 象災害や、萎縮病などの病気、クワノメイガな 〈星川清親〉 打ち鍬は、打ち込み動作により刃床部を土の どの病気がある。 〔民俗〕クワを霊木とみる信仰があり、この木中へ打ち込み耕うんする。打ち込み動作を容易 えちょう っえ にするため柄角は六〇度から八五度、柄長は短 を死者の杖として、普段これをついて歩くのを 忌む地方が多い。しかし一方では、クワの木のく一内外である。刃床部は打ち込み作用に耐 はしさかずき ちゅうぶ えられるように厚くできている。使用法は、立 杖や箸、杯、桑の湯、桑茶には、中風を防い った姿勢で刃床部を高く持ち上げ振り下ろして だり治したりする効果があるという。これら により、ヤマグワ系、カラグワ系、ロソウ系に は、クワを聖樹とみる中国の古い信仰からきて土壌中に打ち込み、土を引き起こす前進耕法で の品種は一〇〇種を超すが、そのほとんどがヤ マグワ ( 山桑 ) とカラグワ ( 唐桑 ) 、およびロ分けられる。ヤマグワ系の品種は耐寒性が強おり、古代の中国人は桑樹を太陽の出入りするある。引き鍬は、引き込み動作により刃床部を ところの神木と考えていた。また中国の古礼で土壌中に引き込み、耕うん、土寄せ、中耕除 ソウ ( 魯桑 ) の三種を原種としてつくりだされく、春の芽吹きが早い。春の葉の収量は多い そっ・一ほうし は「桑弧蓬矢」といって、男児が生まれると、草、溝さらいなどの作業をする。別名作鍬とも ている。 が、夏から秋にかけての生産量は少なく、早い いわれ、管理作業によく使用される。柄角は引 ①ヤマグワ . ミを Koidz. 日本原産時期に葉が硬くなるので、春蚕や稚蚕に適してョモギの葉の矢羽でできたクワの弓矢を天地四 あかぎ いちぺい しまうちけんもちさんちゅうたかすけ いる。赤木、市平、島の内、剣持、山中高助、方に向けて射たが、これは、クワの弓矢が太陽き込み作用に適するように小さく三五度から四 で、東北地方を中心に各地に分布する。高さ八 しんそう 〇度、柄長は立った姿勢で作業ができるように 信仰と結合して、男児の前途を祝す儀式に用い に達し、葉は長さ五ンから十数とやや小形新桑二号などの品種がある。カラグワ系は寒さ 長く、刃床部は薄く軽量である。使用法は、立 晩られたことを伝えている。 で、鋸歯は粗く、葉先はとがる。小枝は赤褐色や乾燥にはさほど強くないが、葉質はよい。 東北地方で養蚕守護神として、また豊作祈った姿勢で刃床部を引き込む後退耕法である。 でざらっく。果穂は楕円形で紫黒色に熟す。材春から秋にかけて高い収量が保てるので、春蚕 打引き鍬は、打ち込み作用と引き込み作用の両 願、災難除けの神として信仰されている「おし が黄褐色ないし黄白色と美しく、床柱や家具調や秋蚕の壮蚕 ( 四、五齢のカイコ ) に適してい ・一くそう おおは る。一の瀬、改良ねずみ返し、福島大葉、国桑らさま」の神体はクワの木が多く、木の先には者を使い分けできるようにしたもので、柄角は 度品などに利用する。 たこわせ ⑦カラグワ . ミ L. マグワ ( 真桑 ) 、 二七号、多胡早生などの品種がある。ロソウ系女や馬の頭部を彫ったり、墨書きがしてある五〇度内外、柄長は打ち鍬より長く引き鍬より 短い中間的な長さである。使用法は、打ち込み 春の収量は少が、恋をした馬と娘が死んで蚕神に化したとい クソウ ( 白桑 ) 、カラヤマグワともいう。中国は寒さに弱いが、乾燥には強い。 ばじようこんいんたん そうじんき う馬娘婚姻譚も、中国の『捜神記』にある説動作と引き込み動作の二つがあるが、作業姿勢 北部から朝鮮の原産で、奈良時代にすでに植えないが、夏から秋にかけての収穫量が高く、ま はいずれのときでも中腰であり、使いこなすに られていた。高さ十数に達し、葉も大きくった葉の硬化が遅いので、夏蚕や秋蚕の壮蚕に適話である。また雷鳴のとき、落雷を避けるのに そう は熟練を要する。耕法は後側退耕法である。 「くわばら、くわばら」と唱えるとよいとい , っ やがあり、鋸歯はヤマグワほど鋭くない。小枝している。ろ桑、大島桑、赤芽ろ桑、改良ろ ひら すがわらのみちざね 風呂鍬は別名平鍬、並鍬、台鍬ともいわれ 俗信は、雷神になった菅原道真が、菅原家所 は灰色ないし灰褐色でやや滑らかである。果実桑、国桑二〇号などの品種がある。 る。刃床部は木製の風呂または台と鉄製の鍬先 繁殖には接木、取木、挿木などによって苗木領の桑原という土地を避けて通ったからともい は白色ないし暗紫色に熟し食用となる。 えつば とで構成され、風呂には柄を取り付ける柄壺が を育て、一〇当り五〇〇本ほどを春または秋われ、これも、雨水をつかさどる雷神と桑樹と ③ロソウミ . 一ミ ~ P0ir. ログワともい , つ。 そうえん の関連を説く中国の伝承に基づくものであろあいている。使用法としては、風呂鍬の多くは 中国の山東省が原産地とされ、カラグワの変種に定植して桑園をつくる。クワは自然のままに じゅ う。養蚕習俗から生まれたこれらの呪的信仰打引き鍬、引き鍬に属する。南部鍬、秋田鍬、 として扱われることもある。葉は大きく、丸葉生育させると、葉が小形で硬くなり、カイコの かわち 相馬鍬、野州鍬、江戸鍬、京鍬、河内鍬、肥後 は、養蚕そのものとともに中国から伝来したも で表面につやがある。小枝は黄褐色で滑らかで食草として品質が落ち、また採葉や手入れにも 〈内田賢作〉鍬などは地方的伝統のある風呂鍬であった。金 ある。 不便である。そこで、定植後から採葉を始めるのと思われる。 ふろなし そうはくひ 栽培品種はこれら三種の形質が混じっているまでの三 ~ 四年間に、樹形の仕立てを行う。ま〔薬用〕漢方では根の皮を桑白皮と称して、消鍬は風呂無鍬、板鍬などともいわれる。刃床部 ふしゅ ちんがい がいそうぜんそく は風呂がなく一体の練鉄でできており、柄壺は 炎、利尿、鎮咳剤として咳嗽、喘息、浮腫、 場合が多く、区分はむずかしいが、おもな特徴た採葉を始めて以降も、毎年一回枝を切り除い つぎき クワ①クワ畑。クワの木の管理と葉の収穫を容易にするため , 枝を毎年 伐採し , 主幹の高さを低くする刈り桑仕立てがなされる ②ャマグワの雌花。初夏 , 球形あるいは楕円形の穂状花序をつける ③カラグワの果実。甘く , 生のまま , あるいはジャムや果実酒にして 食される そう はる一 えかく
啼財嚇覊第い第ⅧⅧⅢ くうこう 空港 / 新東京国際空港ターミナル 空港平面図 9 ロワ司 新東京国際空港は , 1969 年 ( 昭和 44 ) 9 月に建 設工事に着手し , 78 年 5 月 20 日に開港した。 開港後 7 年間で , 利用客数は 6200 万人を超え , 現在では世界の航空界の要衝として重要な役 割を果たしている。図は , 北ウイングの一部 と第二サテライトの内部構造を示す ( 上図の赤枠部分 ) ⑧ド ノい 6 7 ①中央ビル ②航空会社カウンター ③出国審査場 ④出国ロビー ⑤ハイジャック防止検査場 ⑥フィンガー ⑦ポーディング・プリッジ サテライト ⑨乗ぎき待合室 ⑩入国審査 ⑩メイクアップコン・ ⑩プレークダウンコンべヤ ⑩税関検査場 ⑩到着ロビー 出発経路 今 , ーー , , 到着経路 4 ② 空港の設備 旅客および貨物を、安全・正確・快適、そし て能率的に輸送するのが空港の機能である。そ のなかでもっとも優先するのが安全、つまり飛 行場としての機能である。飛行場として必要な 設備は、運航関係と整備関係に分けられる。 〔運航関係〕着陸帯 ( 滑走路、誘導路 ) 、駐機 場 ( エプロン、スポット ) 、交通管制、離着陸 誘導、標識 ( 照明 ) 、気象通報、通信、給油、 救難などの施設がこれである。 〔着陸帯〕航空機が離着陸や滑走を行うための 区域である。航空機が直接離着陸を行うのは滑 走路であるが、横風や降雨で天候の悪いとき、 夜間や霧など視界が十分でないとき、計器飛行 による着陸などの場合に、航空機が滑走路の中 心から流されたり滑ったりして事故につながる のを防ぐために、両側と前後に余裕をもたせて ある。このうち、着陸方向の滑走路の延長方向 一フン・エリ・ - ア overrun area 部分をオー という。着陸帯は滑走路と安全余裕の総称であ る。着陸帯は—O<O の等級に従って航空法お よび同施行規則に規定されている。計器着陸帯 ( — O < O 等級の < から ) は三〇〇以上、 有視界飛行着陸帯、—) は一五〇以上の 第 幅が必要である。着陸帯には滑走路、安全余裕 のほかに誘導路が付属している。 ①滑走路 runway 長さ・幅・勾配などで、 ランク分けされている。国際空港、国内の主要 空港では、大型機が発着するので、の < 級、できればそれ以上の余裕があることが望 ましい。しかし、ジェット旅客機の離着陸性能 ・一は決定基準から、一万五〇〇〇フィート ( 約四五 , 、」当〇〇 ) が限度で、それ以上の長さはます必要 でない。滑走路は航空機の最大重量と着陸時の 衝撃に耐えうる強度が要求される。航空機が大 型・高速化すると長大な滑走路が必要となり、 広大な建設費と用地を要するため、以前のよう な多くの横風用滑走路を設置することはやめ、 もっとも頻度の高い横風に限定して設ける傾向 になっている。そして、離着陸を並行して行う ことで飛行場の効率をあげるため、一つの方向 に二本以上の滑走路を並列に配置することが望 滑走路の表面は、離陸のためには車輪の転が り抵抗が少なく、滑らかなほうがよく、また着 陸時の減速・停止には逆に大きな摩擦係数が必 358
くわばら さだよしさだしげ 〈井上寛〉ミと、 い出したのが『桑名の殿様』である。もとは伊美濃大垣より入封、定良、定重に伝えた。定重シロドクガ しい、かっては本種の学名を、間違って せ きやり がも - っ あづち 〈井上寛〉 クワノメイガに適用していた。 勢神宮の遷宮に必要な木材を運ぶ際の「木遣は一六五七年 ( 明暦三 ) 襲封以来一七一〇年桑実寺くわのみでら滋賀県蒲生郡安土町に じゅ きぬがさぎん 唄」で、それが諸国の船頭たちに伝わり、桑名 ( 宝永七 ) まで長期間治世を行ったが、郡代野ある天台宗の寺。四三三の繖山の中腹にあくわばら〔桑原」落雷を避けるための呪 えちご もん ますえもん てんじ 文。雷鳴のするときに「くわばら、くわばら」 の港では三味線のついたお座敷唄になった。こ村増右衛門の事件により失政を問われ越後高田る。六七七年 ( 天武天皇六 ) 、天智天皇の勅願に じよ - っえ くにがえ ただまさ かまたり よ の場合の殿様は、藩主ではなく、女たちの相へ国替。ついで松平 ( 奥平 ) 忠雅 ( 十万石 ) が より、藤原鎌足の子、定恵によって創建された と唱えると、雷除けになるとされる俗信で、転じ ただひらただかっただともただすけただたか 手、つまり座敷の客のことをさす。〈斎藤明〉入封、忠刻、忠啓、忠功、忠和、忠翼、忠堯と と伝える。寺名の由来は、定恵が唐から持ち帰て桑の木にもその力があるとされた。起源につ すがわらのみちざね きそ えんぎ びながら ほうれき 桑名藩くわなはん江戸時代、伊勢国 ( 三重在封。この間、木曽・揖斐・長良三川の宝暦治った桑の実を植えて養蚕を教えた因縁による。 いては、九〇八年 ( 延喜八 ) 菅原道真の霊が雷 てんめい ぶんせい いっき 県 ) 桑名周辺を領有した藩。一六〇〇年 ( 慶長水と、天明・文政の二大一揆が発生した。一、 歴朝の祈願道場として栄えたが、しだいに荒廃電となって京都をたびたび脅かした際、かって むさしおし 五 ) 関ヶ原の戦いで西軍にくみした桑名城主氏二三年 ( 文政六 ) 忠堯は武蔵忍へ転封。陸奥白し、一五七六年 ( 天正四 ) 安土城を造築した織道真の所領であった桑原の地には一度も落ちな いえゆきひろ さだなが いずみ 家行広 ( 二万五千石 ) は除封となり、翌年三河河へ移っていた久松松平家の定永 ( 十一万石、田信長によって再興された。江戸後期以降、火かったことに始まるという説や、和泉国に桑原 ふだいほんだただかっ さだのぶ の古参の譜代本多忠勝 ( 十二万石 ) が入封して松平定信の子 ) のとき、ふたたび桑名に入封。災や暴風雨により諸堂を失い、現在、桃山期のという所があり、あるときそこの桑原井という さだかずさだみちさだあき ふた 当藩成立。彼は町割を開始し、いまの桑名市の藩校立教館を開設。定和、定猷、定敬と続き、 建築様式を示す本堂 ( 国の重要文化財 ) 、開山井戸に雷が落ち、村人たちが蓋をして閉じ込め ただまさ ただ ん ~ たも - り やくしこよらい くわみわ 基盤をつくり、嫡子忠政に伝えた。忠政の子忠定敬は会津藩主松平容保の弟で、一 八六四年堂などがある。本尊の薬師如来は地域では桑峯たので、雷は「以後けっしてここには落ちな とき せんひめ 刻は家康の孫千姫の婿となり化粧料一万石を加 ( 元治一 ) 京都所司代、六八年 ( 慶応四 ) 鳥薬師と称し、難病救済の霊像として信仰されて い」と約束して天に帰ったのによる、などの説 はりまひめじ ばふしみ はこだて れいげん 増されたが、一六一七年 ( 元和三 ) 播磨姫路へ 羽・伏見の戦いで幕軍として戦い、転戦後箱館 〈宇田敏彦〉 いる。薬師如来の霊験を描いた絵巻『桑実寺縁が知られる。 移封。かわって家康の異父弟松平 ( 久松 ) 定勝 に渡った。この間、国元では恭順派が指導権を起』二巻があり、国の重要文化財に指定されて桑原隲蔵くわばらじっそう ( 天七 0 ー一九三一 ) さだゆき さだのり つるが いる。↓桑実寺縁起 ( 十一万石 ) が入封、二男定行襲封。一六三四握り、先代定猷の遺子定教を擁し新政府軍に降 〈塩入良道〉東洋史学者。福井県敦賀に生まれ、京都府立中 あのつ 年 ( 寛永一一 ) 定行は伊予松山へ移封。かわっ った。七一年 ( 明治四 ) 廃藩、桑名県、安濃津桑実寺縁起くわのみでらえんぎ滋賀県桑実学校、第三高等中学校を経て、東京帝国大学漢 さだつな やくしによらい れいげん て定勝の三男松平定綱 ( 十一万石、鎮国公 ) が県を経て、三重県に編入。 〈原田好雄〉寺建立の由来と本尊薬師如来の霊験を描いた絵学科を卒業し、引き続き大学院に入り東洋史を かいびやく 回近藤杢・平岡潤編『桑名市史本篇・補篇』巻。二巻。天地開闢のとき一株の桑樹があり、専攻した。当時まだ東洋史の学科がなく、この 場 語郎助 劇 ( 一九五九、六 0 ・桑名市教育委員会 ) ▽西羽晃著その実が落ちて山となり、いまの桑実山ができ名が定着するには実は大学院時代に書いた名著 てんじ 立 物城 頃玉東 『桑名歴史散歩』 ( 一九七四・新光堂書店 ) ▽片る。のち天智天皇の第四皇女が病にかかるが、 『中等東洋史』が果たした役割が大きかったと びわ イ東坂 琵琶湖の水中より生身の薬師如来が現れ、皇女 いわれる。第三高等学校、東京高等師範学校の 山恒斎著『桑名志』 ( 一九五三・北勢史談会 ) 蔵場坂世月寅 世 7 徳の の病気がたちまち平癒した。そこでこの薬師如教授となり、一一年間清国に留学し、各地を旅行 ( 8 上桑名屋徳蔵入舩物語くわなやとくぞういり 屋灘 ( 蔵年活 名州霊徳復 ふねものがたり 歌舞伎脚本。時代物。五幕。並来を本尊として桑実山に御殿を建立し、桑実寺して帰国し、京都帝国大学教授に任ぜられ、東 しょ・つぞ - っ そうそうたん 桑遠のとの 木正三作。一七七〇年 ( 明和七 ) 一二月、大がおこったとの草創譚が説かれる。絵は室町時洋史を講じた。その学風は科学的に正確な歴史 うたえもん みつもち 坂・中の芝居で初世中村歌右衛門らにより初代 ( 一六世紀 ) の画家土佐光茂の筆。全巻を通学の建設に志し、従来のシナ史から、漢民族と 演。海坊主と問答をしたという伝説で知られた して金地に極彩色を用いて濃麗な画面を展開し周囲諸民族との関連を重視した東洋史、さらに こんびら ことば 1 、なら しようれんいん 船頭桑名屋徳蔵の話に、当時流行の金毘羅信仰ている。なお、詞は後奈良天皇、青蓮院宮尊は東洋と西方との交渉へと、研究範囲を広げ おいえ 寺、がみ じせき さわたかよりあいがき あしかがよし はドレゅ・ : っ を取り入れた御家騒動物。相模入道高時の遺子鎮法親王、三条西実隆の寄合書で、将軍足利義た。『宋末の提挙市舶西域人蒲寿庚の事蹟』が あしかがよしみつ はる 五郎時行が足利義満の天下をねらう話を背景晴が寺に寄進したものである。重要文化財。桑代表作で、学士院賞を受けた。ほかに多数の著 だいえん に、これを阻もうとする讃岐高丸家の若殿亀次実寺蔵。 〈村重寧〉述があり、なかでも「大宛国の貴山城に就い くらきち 郎や、五郎の双生児である船頭徳蔵の活躍を描回小松茂美編『続日本絵巻大成桑実寺縁起て」の論文を出し、以後東京の白鳥庫吉・藤田 けいせいひがき とよはち 豊八両博士と、華々しい論争を展開したのは有 。序幕は亀次郎の心をとらえた傾城檜垣が徳 他』 ( 一九全・中央公論社 ) 〈宮崎市定〉 蔵に殺され、その霊が海上に現れて徳蔵と忠義クワノメイカ〔桑野螟蛾〕 Gly 。斗 s 名である。 りんし ゅ・つみ ~ ′、 の問答をする場面で、深川の遊廓が一転して遠 ぎ = s 昆虫綱鱗翅目メイガ科に属するガ。回『桑原隲藏全集』五巻・別冊一 ( 一九穴・岩波 州灘の船中となる舞台転換で評判になった。明 書店 ) ▽同著『中国の孝道』 ( 講談社学術文 はねの開張二三ミリ内外。はねは白色半透明、茶 治以降、長く上演は絶えていたが、一九六三年褐色の帯状の紋があり、後翅は外縁部だけ茶褐 いけ花 ( 昭和三八 ) および七七年、郡司正勝改修によ色で、その内側は黒帯で縁どられている。本州 桑原専慶流くわばらせんけいりゅう りつか げんろく ~ 一七 0 四 ) 立花の名手桑原 り、序幕を主体として部分的に復活されてい 北部から九州まで分布し、灯火に飛来する。幼流派。元禄年間 ( 一六分 ふしゅんけんせんけい る。 八六八年 ( 明治 〈松井俊諭〉虫は、クワの害虫としてよく知られる。緑色の富春軒仙渓を流祖とする。一 ィモムシで、年四回発生し、幼虫態で樹幹や根一 ) これを継承する桑原専慶の没後、後継者が クワノキンケムシ〔桑金毛虫〕昆虫綱 りんし 鱗翅目ドクガ科のモンシロドクガの幼虫名。こ際、落葉の間などで越冬。葉を折り曲げたり、 とだえ、その名跡の断絶を憂えた西本願寺華方 はなた の幼虫は、寒冷地では黒っぱいが、温暖地ではつづり合わせて中から食害するので、クワノス「花太」こと西川太郎兵衛が桑原専渓を名のり、 黄色いので、このようによばれる。クワ、その ムシ、クワノハマキムシなどともよばれる。関桑原専慶流をおこした。二代桑原専渓は、流儀 花のみでなく積極的に創作いけ花にも取り組 ほか多くの樹木や低木の葉を食べる害虫で、近東地方以西から沖縄県に分布し、幼虫がクワに み、一九三〇年 ( 昭和五 ) の「新興いけばな宣 7 畿地方以西ではこの型が多くみられる。↓モン寄生する近縁種をチビスカシノメイガ G. をす 4 ちんこく さだかっ 4 さめき くだ と そう
くまもと れき る。いずれの表層も黒色ローム、赤土で、深層を帯びる。葉は卵状楕円形で、長さ四 ~ 六セ めいりよ・つ 地下水の揚水が普及するまでは桑園・雑穀地帯側脈は明瞭、裏面は白色を帯びる。花は白色 えんすい であったが、現在は水稲、スイカ、メロンの施で、七、八月、枝の先の大形の円錐花序に多数一 がくへん 設園芸、乳牛、肉牛、プタ、ニワトリなどの畜つき、五数性で、五個の萼片、花弁、雄しべが ノ経文 産が多様な組合せで行われている。しかし、 貢ある。果実は核果で、緑色ののち赤色に変わ 本市ならびにその周辺地域への人口集中が衰えり、翌年の夏黒く熟し、甘く食用となる。枝は ないうえ、高度技術集積地域開発促進法によるじようぶで、かんじきの材料などになる。葉や せん と志 地域指定も加わって、県下ではもっとも農地潰枝を煎じて健胃整腸剤とする。日本全土の山野 る同 廃 ( 宅地化・工業化による ) の進行している台 に普通に生える。関東地方以西の本州から沖縄 を都 〈山口守人〉 地となっている。 には葉が大きい変種オオクマヤナギがある。ク チ′人伝 本京 ハ目ハ マヤナギ属は世界に約二〇種があり、日本には 熊本洋学校くまもとようがっこう が襄 たいせい 〈門田裕一〉 ズ島年 ( 明治四 ) 熊本城内に「純然たる泰西文明風本種のほか四種が分布する。 ン新 あかいわ の学校」として創設された学校。一八七〇年の熊山くまやま岡山県南東部、赤磐郡熊山 びぜん 工山而 ジ左藩政改革で教育改革に着手し、藩校時習館を廃町、瀬戸町、備前市の境にある山。標高五〇八 止して、西洋の文物技術・思想を輸入すること かっては熊山権現と霊山寺のある神仏混交 しようへい 二を : れ度 を主目的に、アメリカ人ジェーンズを招聘しの地であった。山上には三層からなる方形の石 ン学 て開校した。四年制、学生数二〇〇人。学科目積み遺構があり、熊山遺跡 ( 国指定史跡 ) とよ は読方、習字のほかに、演説、地理学、万国ばれる。また中世には熊山城があり、一三三六 国供 こじまたかのり の志 3 社同史、測量学、化学、星学、人体学などの西洋学年 ( 延元一・建武三 ) 新田車の児島高徳がここ ・のー」ん ~ が 志は 査月 を中心とし、原語・原書による徹底した英語教 に拠り、足利軍と戦ったと伝えられ、合戦の模 ^ 由比浜省吾〉 。の育授業であった。特色は開発的自学自習、班別 様は『太平記』に言される。 ンん 指導、演説 ( 英語 ) の練習で男女共学方式をと囮二万五千分の一地形図「和気」「万富」 鳩を こイ、きひろみち ときよしえびなだん 本ほ った。生徒には小崎弘道、横井時敬、海老名弾熊山 ( 町 ) くまやま ( ちょう ) 岡山県南東部、 しようよう みちとも いいちろうそほう あかいわ 熊の 正、金森通倫、徳富猪一郎 ( 蘇峰 ) らがみら赤磐郡にある町。吉井川が町の東部を南東流 して迎え、西明閣および逍遙園で訳経に従事 くまもとへいや九州のほば中央にれる。とくにジェーンズのキリスト教教育は、 川に沿って山陽本線が走る。一九五三年させた。長安における彼の訳経と講説は中国仏 熊本平野 ある平野。地形区分では、狭義の熊本平野であ生徒にキリスト教思想を鼓吹した。生徒らは、 ( 昭和二八 ) 熊山、可真、小野田、豊田の四村教を大乗仏教に方向づけるうえで決定的な役割 る熊本低地を中心に、広義の場合に加える北の七六年一月三〇日には花岡山 ( 熊本市 ) で奉教が合併して町制施行。農業が主で、吉井川の谷を果たした。彼が翻訳したおもな経論には、 だいまんはんにやきよう - アれ 1 につ みようほうれんげきょ・つ 菊池 ( 玉名 ) 平野、菊鹿 ( 菊池 ) 盆地、隣接の 結盟を行い、熊本バンドを結成し、近代日本プ底平野や支流の可真川、小野田川沿いに水田が『大般若経』『金剛般若経』『妙法蓮華経』 ゆいまをよう たいち やっしろ あみだ 肥後台地のほかに、南の八代平野も含める。面ロテスタントの一潮流となった。七六年八月、 ある。可真地区は岡山県のモモ栽培発祥地で、 『維摩経』『阿弥陀経』などの大乗経典、『大智 じようじっ どろん 積約七七五平方キロ、九州第二の熊本平野と称すジェーンズの任期切れをもって廃校となる。生現在はモモ、ブドウなどの苗木の産地。山陽町度論』『中論』『百論』『十二門論』『成実論』 じゅうじゅりつ る場合には、沖積層からなる熊本低地と、段を徒たちのなかには同志社 ( 現大学 ) に移った者との間に民間造成の大住宅団地岡山ネオポリスなどの哲学的な論書、『十誦律』『十誦比止戒 ほん 〈森山恒雄〉 礫層からなる肥後台地とに限る。熊本県人口のも多い がある。人口五九四九。↓熊山〈由比浜省吾〉本』などの戒律文献がある。なかでもとくにカ を傾注したのは、大乗の空思想の的確な把握と 四二 % 強が居住し、産業、文化、行政の中心地クマヤナギ〔熊柳〕 Be 、斗き ce き ? 回『熊山町誌』 ( 一九七三・熊山町 ) せり りゅうじゅ ちゅうがん となっている。熊本低地の北半は白川、井芹 Sieb. et Zucc. クロウメモドキ科のつる二万五千分の一地形図「和気」「万富」 その宣揚であった。中国仏教に龍樹系の中観 かせ はまど , 、坪井川などの、南半は緑川、加勢川、浜戸性落葉低木。枝は光沢があり、古くなると紫色鳩摩羅什くまらじゅう ( 三四四ー四一三 ) 西域の思想を初めて紹介し、インド大乗仏教の正系と たいせき 川などの河川堆積物によって形成されたもの クチャ ( 亀鉉 ) 国出身の大翻訳僧。サンスクリ 直結させたのは羅什およびその門下の功績であ だいじようだい >•J ろぎん えおん ット名クマーラジー で、それそれの地先に一八世紀以降の干拓地を Kumärajiva0 「くもらる。廬山の慧遠の質問に答えた『大乗大義 しよう 伴っている。北から東の肥後台地との境界部に じゅう」ともいい、羅什と略称される。生没年章』には彼の仏教理解の特質がよく表れてい ゅうせん は豊富な湧泉があるほか、海岸に至るまで各所 は通説に従えば前記のとおりであるが、三五〇る。国家によって手厚く保護された羅什の仏教 きギ ) に自噴泉がみられ、一部は上水道水源に利用さ ー四〇九年という新説も提唱されている。いす学に腐敗の萌しがなかったわけではない。羅什 かき れんげ たと れているほか、水田、花卉、養殖など多目的に れにしても四世紀から五世紀初頭にかけて活躍 は自らを泥中の蓮華に喩え、華のみをとって泥 活用されている。他方、阿蘇火山起源の堆積物 した天才的な学僧である。羅什の西域におけるの濁りに染まるなと戒めた。羅什の門下は三〇 そうじようそうえい ぜんしんふ が覆って形成された肥後台地には、堆積環境の 名声はすでに中国に及んでいたので、前秦王苻〇〇人と称されたが、とりわけ僧肇、僧叡、 としま どうしようどうゆう こうぞの 異なりからか、群山、戸島山、神園山などに代 堅は三八二年 ( 建元一八 ) クチャ国を攻略して道生、道融は四哲として有名であった。三論、 りようしゅ・つかんしゆく 表される中生代白亜紀岩質の小山が点在してい 、ギ羅什をとりこにした。十数年間涼州 ( 甘粛成実、天台などの中国諸宗がのちに開かれる基 るほか、台地面も大まかに標高一〇前後、四 ー′ャ省 ) に滞在したのち、四〇一年 ( 弘始三 ) 後秦礎は、羅什一門によって準備されたといってよ ちょうこう げんじよう 〇前後、一〇〇前後の三段に分かれてい の都長安に迎えられた。後秦王姚興は国師と 羅什は唐代の玄奘と並ぶ大訳経僧であり、 むれ だえん せいいき 548
〈寿岳文章〉 き滅ばした事実は記憶に新しい 〔中国〕中国における禁書のもっとも古い例はみ戻しをし、書中に一言半句でもキリスト教に 酒類に関する法律の制定促進を熱心に連動し、 しん 〔第ニ次世界大戦後の状況〕思想や表現の自由 関する記事があれば、その部分を墨で消すか、 一九二二年に末成年者飲酒禁止法が実施され秦である。すでに戦国時代、李斯などの献策に が基本的人権の一つとして重んぜられる潮流が た。その成立の主旨は、全面的禁止は事実上不よる例もあるが、著名なのは統一後の紀元前一一 一葉全部を破り取った。しかし、禁書中には きようしよりつ 強まる一方で、体制に不都合な思想の規制を依 可能であるから、ともかく末成年者の飲酒を禁 一三年、始皇帝が挟書律を定めて、秦の記録、『幾何原本』などキリスト教とは無関係の技術 よしむね じて、将来の飲酒を防ごうという意図のほうが占ト、医薬、農業などの書を除くすべての書物書や科学書が含まれていたので、八代将軍吉宗然として必要とする例が少なくない。そのた ふんしょ ずいようだい は一七二〇年 ( 享保五 ) 禁制を緩和し、これらめ、単純な禁止と併行して、事前の検閲による 強かった。日本国民禁酒同盟は第二次世界大戦を焼き払った焚書である。以後、隋の場帝は、 後は解散してまた各種団体に分かれた。戦後、 漢代から流行し、歴代の皇帝がしばしば禁じて科学・技術書の輸入を認めるようになった。た内容への干渉、紙などの資材や印刷・複写機器 しん だし、国内出版物に関しては一七一三年に出版の管理、書籍発刊・輸入の一元化などにより実 飲酒の習慣はますます一般化し、また欧米と違 いた讖緯の書を厳禁し、四方に捜し求めて焼い ろうしナ - 一きよう って宗教的禁制感も薄いため、禁酒運動も柔軟た。唐代では偽書と断じられた『老子化胡経』令を布令し、本屋仲間の結成などの規制強化を質的な統制を図る国も多い。さらに、限られた 行った。これらの方針は幕末まで続く。江戸幕研究者などにのみ特定の書籍の閲読を許す制度 化し、「断酒友の会」のように、禁酒を強く推や仏教の一派であった三階教の経典が焼却さ そう し進めるよりも、まず節酒を、そしてすでに害れ、宋代では実録、正史、会要など政治に関す府はこのほかに、治安維持のため著作中に将軍も広くみられる。もっとも規制の少ない国の一 つであるアメリカにおいても、マッカーシズム を覚えている人たちには断酒を勧めようというる書、あるいは天文書、刑法書、兵書などが禁家・大名家などに言及することを禁じ、あるい 方向にある。 〈梶龍雄〉書となった。宋代になると、印刷術の普及によ は時代の新しい動向を盛り込んだ書物の出版、の例や、一部地域での進化論を教える教科書の 抑圧などの例がある。禁書は人類の永遠のテー って書物の大量出版が可能となり、社会への影 また風俗取締りのために好色本の出版を厳しく 林酉去きんしゅほう Prohibition Law ア ↓検閲↓言 メリカ合衆国における酒類の製造、販売、運送響力も激増してくる。禁書は以前にもましてし禁じた。明治から昭和にかけては、一八九三年マの一つといえるかもしれない 〈大川哲也〉 を禁じた一九一九年一月成立の合衆国憲法修正ばしば行われるようになった。元代では『太乙 ( 明治一一六 ) 、検閲制度のもとに発売禁止 ( 発論統制↓発禁 第一八条およびその細則の通称ポルステッド法雷公式』『推背図』などのいわゆる妖書や道教禁 ) や輸入禁止を規定する出版法が施行され、回『筆禍史』 ( 『宮武外骨著作集 4 』所収・一九 みん 〈五・河出書房新社 ) ( 一九年一〇月成立 ) 。アメリカにおける禁酒運の書が禁じられ、明代では反儒教的思想をもち一九二五年 ( 大正一四 ) の治安維持法と相まっ きんじよ ? クムソン大韓民国南西部、 動は、二〇世紀に入ると急速に高まり、すでに 希代の危険思想家とされた李贄の筆禍事件が有て猛威を振るい、第二次世界大戦中は紙などの 全羅南道の新興都市。面積六〇・六平方キ。、人 一九一七年初頭には二六の禁酒州を数えた。そ名である。彼の著作は既刻・末刻を問わずすべ資材配給を絡めた出版統制が行われた。さらに らしゅうゆう 、小′、いーれ の運動は、一面で福音主義的プロテスタンティ て焼却された。このように禁書は歴代にわたっ戦後はアメリカ軍の占領政策によって、かって口五万九二九七 ( 一一 ) 。一九八一年、羅州邑 えいぎんは ( 町 ) と栄山浦邑が合併して錦城市となった。 ズムに依拠する宗教的教化運動であったが、まて行われたが、もっとも大規模かっ徹底的であの軍国主義思想書はすべて禁止されるなど、さ しん けんりゅう た他面では、禁酒によって労働者の工場規律、ったのは清朝の乾隆帝である。彼は漢民族のまざまな理由で発禁となった出版物はおびただ羅州平野の中心に位置している。栄山浦は古く 〈金子和正〉 しい数に上る。 は河港であったが、栄山江の川床の上昇で閉鎖 生産能率の改善を求める実業的利害がかかわる反満思想を除くために、統治に不利益と認めら された。潮の干満が本市付近にまで及び、満潮 〔西洋〕紀元前三八七年に、未成熟な読者を惑 など、政治的、経済的な二〇世紀初頭の社会規れる書物は容赦なく焼却、その数は五三八種、 時に洪水があれば被害が大きい。竹製品の特産 制運動の一環でもあった。一七年の第一次世界一万三八六二部に及んだ。また彼はこの時期わすとの理由で、プラトンはホメロスの『イリ そうしょ 大戦への参戦は、生産能率向上の声をさらに高 に、中国最大の叢書『四庫全書』の編集を命じアス』や『オデュッセイア』の追放を提言して地として知られるが、ナシ、モモも有名であ 〈朴聖雨〉 め、同年一二月、憲法修正第一八条は議会を通ているが、これも実は全国各地の書物を集めており、その『オデュッセイア』を、ローマ皇帝る。 ? ー三七五 ) 朝 り、一九年確定公布された。しかし、連邦法と検閲するためであったともいわれる。一七八 カリグラは紀元後三五年に、ローマの独裁帝政近肖古王きんしようこおう ( ひやくさい しての禁酒法の成立はかえって法の尊厳を傷つ年 ( 乾隆五三 ) には『禁書総目』を刊行した に危険な自由思想を鼓吹するものとして読ませ鮮、百済の第一三代の王 ( 在位三四六 ~ 三七五 ) 。高 ないようにしたなどの例からみても、禁書の観句麗の侵入をよく防ぎ、三七一年には平壌を攻 けただけであった。すなわち、同法成立後、密が、これに登録された禁書のなかには、すでに 造、密売が横行した。このため、三〇年代に入日本に舶載されていたため焼却を免れたものも念はずいぶん古くまでさかのばり、古代、中世撃した。高句麗の故国原王はこの戦中、流れ矢 に当たって死んだという。この年、都を漢城 ると同法廃棄の声が高まり、三三年、議会はこ少なくない。禁書には書物・版木ともに焼却をを通じて連綿と続いた。なかでも、ローマ・カ ぜんき トリック教会の公布した禁書目録は有名であ ( いまのソウル付近 ) に移し、また博士の高興 れを廃棄する憲法修正第一一一条を可決し、ここ 命ぜられた全燬書、一部分の訂正削除を命ぜら きんべいばい る。↓禁書目録 を得て書記のことを任せたが、これが百済にお に禁酒法の時代は終わった。 〈紀平英作〉れた抽燬書がある。このほかに『金瓶梅』『水 とうしん ける記録の開始とされる。三七二年東晋に使節 絶対主義王政下では当然のことながら王権に E)Norman H. Clark 】 D ミ、 Us 洋 0 き Evil 滸伝』などの小説が風俗惑乱、社会不安をきた らくろう . ・ミ 7 ミ e き、ミミ ~ をき e ュ c を P き・すおそれのあるものとして、また科挙受験のたすこしでも疑問を抱かせるものは禁書とされを送り鎮東将軍領楽浪太守に封ぜられたと『晋 た。フランスではルイ一四世が広範な書籍を禁書』にある百済王餘句とはこの近肖古王のこと = を ( 197P W. W. Norton 年 Company, めの模範答案例のようなものも禁じられた。 〈浜田耕策〉 lnc こ New York) 〔日本〕一六三九年 ( 寛永一六 ) 、江戸幕府は書とした。一八世紀以降でも、思想と表現の自であろう。 錦城斎典山きんじようさいてんざん講釈師。 林聿冖きんしょ国内の治安維持、信仰上のキリスト教を厳禁し、ポルトガル船の来航を禁由がもっとも大幅に認められたイギリスにおい 問題、風俗取締りなどのいろいろな理由から、 止する鎖国令を発布したが、それに先だつ一六 てさえ、一七七四年に出版されたジェフアソン 〔初代〕生没年、生涯など末詳。金上斎。弘化 ( 天四四 ~ 四 0 ごろの番付『古今軍談名人揃』 政府や教会の命令によって書物の発売、輸入、 三〇年には禁書令を発布してキリスト教関係の の『英植民地アメリカの権利』が発禁処分に付さ 所蔵、閲覧を禁止すること、またそれによって書物三二種の輸入を禁止した。以後、長崎会所れている。また Q ・・ローレンスの完本『チ「伊賀ノ水月」を得意とするとあり、門下より しよもつめきき いちりゅうさいていぎん あらためやく よ禁止された書物。広い意味の言論統制の一つ。 に書物目利、長崎聖堂に書物改役を置いて、 ャタレイ夫人の恋人』の公刊がイギリスで許さ 初代一竜斎貞山を出した。〔二代〕生没年、生 じ一方、規制される側による書籍の隠匿や秘密回中国より舶載される書物の検閲をすることになれたのも一九六〇年のことである。なお、第一一涯など末詳。二代貞山の弟。世話物を得意とし 覧、地下出版などの手段による抵抗も、洋の東った。検閲は厳しく、禁書、または疑わしい書次大戦中、ヒトラーがマルクス主義的、自由主た。俗に鼻かけ典山。〔三代〕 ( 一会四ー一九三五 ) 本 ん たけじろう キ、西を問わず多くの国にみられた。 物は、有害の程度によって焼き捨てあるいは積義的、ユダヤ的、反ナチス的な書物を大量に焼名青山嶽次郎。江戸神田生まれ。母は女義太夫 2 せんばく ちゅうき すい ぎだゅう
く倉 とう きしゅ・つ・一うすい に反対方向に回ってゆくと、人々は説明する。 文学と同義に扱われる。また『左氏伝』が歴史たっ」とも。中国、唐初の学者。冀州衡水旅することもいとわない。 さいれいおん あぎなちゅうたっ クラとは、具体的には、バイグアとよばれる両者がクラにおいて巡り会い交換されるとき、 ( 河北省 ) の人。字は仲達。少時より崔霊恩の 的なのに対して、『公羊伝』は理論的なので、 さんらい ソウラバとムワリが結婚したといわれる。 礼学を二種類の品物の儀礼的交換をさす。バイグアに 公羊学も純理的、思想的な学風となり、『公羊「三礼義宗」に学び、北朝系の春秋学・ りゅうしやく クラ交易に参加することは大きな名誉であ は、ソウラバという赤い貝の首飾りと、ムワリ 伝』の叙述が簡略なため、公羊学は創造的な拡修め、算学・暦法にも通じ、大儒劉悼 ( 五四四ー という白い貝の腕輪があり、両者が互いに交換り、そこで有名なバイグアを手に入れること 六一 0 ) に質疑して畏敬された。隋初より学官と 張解釈を特色とする。 ようだい かん される。この二つのバイグアは、クラが行われは、たとえ次にはそれを手離さねばならぬにし 『公羊伝』が書物として整理されたのは漢初のなり、煬帝が全国の学士を集めた際、先輩をし ことであり、その研究解釈学ともいうべき公羊のぎ、刺客を放たれたりした。唐の六一一六年ているすべての地方で、人が手にすることがでても、男に高い威信を与える。だれでもがクラ とうちゅうじよ に参加できるわけではなく、クラと男の社会的 学は、前漢の董仲舒に始まる。董仲舒を継承 ( 武徳九 ) 国子博士、六三八年 ( 貞観一一 D 国きる宝物のうちでも最高のものだと考えられて して、漢代公羊学を集大成したのは後漢末の何子祭酒 ( 学長 ) に累進。その間、太宗への忠おり、有名なバイグアには固有の名前や、その成功とは密接に結び付いている。クラに参加す ぎちょう かんげん きゅう る各人には、何人かの特定のクラ相手がおり、 休である。公羊学は、①左伝学派が周公を尊言、皇太子への諫言をしばしば行い、魏徴らと歴史にまつわる数多くの伝承が伴う。バイグア 一れい この関係は生涯持続する。 には、クラで他のバイグアと交換されること以 ぶのに対して、孔子を尊崇する。②父子の道を正史『隋書』を編集、顔師古らと「大唐儀礼」 クラ遠征は、バイグアを手に入れる目的で、 重んじ家族道徳を至上視する。そのほか倫理学を制定。また顔師古の「五経定本」をもとに司外にはいっさいの実用的な価値はなく、また他 きよう ばしよう 交換相手のいる両隣の島に一回すつ行われる。 のいかなる品物とも交換することはできない 的には行為の結果を問題にせずに動機を重ん馬章・王恭らと経書の統一解釈を行い、六四二 ごきようせいぎ しかのち さらに、人は特定のバイグアを長期間自分の手通常のクラとは別に、大船団によるウバラクと じ、「経に反して然る後に善なる」権を肯定し、年その『五経正義』 ( 一八〇巻 ) を完成し、六 ちょう あだ 君父の仇は「百世といえども討つべし」と復朝以来の経学集成を遂げ、科挙 ( 官吏登用試元にとどめておくことは許されず、通常一 ~ 一一よばれる大規模なクラ遠征が、数年に一度行わ しゅう 讐を強調し、「国じゅう人びと喜ぶ」ならば武験 ) に標準を与えた。↓五経正義〈戸川芳郎〉年以内に、次の交換相手へと手渡さねばならなれる。クラ遠征には、出発に先だって、カヌー きようき こうして二種類のバイグアはクラの円環の建造をはじめとする、長期にわたっての大掛 カ革命をも是認し、さらには侠気の礼賛、文実クラ kula メラネシア人の行う儀礼的交 しん りな準備が必要である。クラを成功裏に終わら を、互いに反対方向に、とどまることなく回り 換。クラ交易は、ニューギニア島東端とその北 の二元論など、注目すべき主張が多い。清朝に じゅじゅっ 至ってアヘン戦争 ( 天四 0 ~ 四 = ) 以後、公羊学は東および東にある島々を円環状に結んで行われ続けるのである。ソウラバは時計回りに、ムワせるための種々の呪術は、個々人の秘伝とし リは反時計回りに、二年から一〇年かかってて注意深く守られている。共同体の仲間を出し 学問研究の対象として、また変革のイデオロギるが、この円環の周囲は数百キ。メートルにも及 ーとして取り上げられ、とりわけ夷狄観や復讐ぶ。クラはこの地方の人々の、生活の中心とも島々を一周する。ムワリは女性の性質をもち、抜いて、よりよいバイグアを手に入れること 〈日原利国〉 いうべき重要な行事であり、人々は、クラをすソウラバは男性の性質をもっているとされ、ちは、人々の大きな関心事である。 論、進歩史観は高く評価された。 実際の交換は、数多くの伝統的な約束事に従 ようど男性と女性がひきつけあうように、互い るために、カヌーで何日もかけて危険な海上を 孔穎達くようだっ ( 五七四ー六四 0 「こうえい って儀礼的に執り行われる。交換は一方的な贈 郡宮 り物の形をとり、公衆の面前でぎようぎようし 奄野庭都 県大真宇市 く行われる。この際、贈り手は、むそうさに怒 島県県県形 ったような態度でバイグアを投げ出し、受け手 児阜山木山 ぶべっ 鹿岐岡栃 も冷淡で侮蔑的な態度を装う。一一種のバイグア 倉倉村蔵町蔵谷座 は同時には交換されず、一回の遠征で。ハイグア 高島板川土山石大蔵 ①大②白③勝④市⑤を受け取るのは訪問者側だけである。これによ って、逆に訪問を受けたときに、等価のバイグ アを贈る義務が生じるのである。 。いかなる意味において クラ交易そのものま、 も経済的交易ではないが、クラの場を借りて、 相当な量の物資の取引もみられる。クラの場は また、異なる地域の人々が情報やゴシップを交 換し、潜在的には敵対関係にたつ人々の間に同 盟と友好が再確認される機会でもある。一見、交 換のための交換ともみえるクラの制度は、それ に参加する広大な地域の人々を結び付け、諸地 域間に連帯と協力の関係を維持するための制度 であるともいえる。↓交換↓贈答〈浜本満〉 宿回マリノフスキー著、寺田和夫・増田義郎訳 『西太平洋の遠洋航海者』 ( 『世界の名著』 所収・一九六七・中央公論社 ) 倉くら蔵とも書き、食料、家財道具、衣類 おもや などを貯蔵、収納する建物。倉は母屋と離して ①② いてき ) 一かん ふく がんし - 」 583
ど、金融機関が日常業務を行うに際して作成、融・外部金融の程度、直接金融・間接金融の比キンユゴイ〔銀湯鯉〕 flagtailZ8Kuhlia め、鈞窯の名が生まれた。八卦洞窯の出土品 でんせいゅう 取得される記録や情報に基づいて、一定時期ご率、死重債務の大きさなどである。もし企業のミ硬骨魚綱スズキ目ュゴイ科に属する海は、俗に鈞窯とよばれる澱青釉や紫紅釉のほか とに業務の結果を整理、分析、報告する目的資金調達が内部金融で行われるならば、この比水魚。南日本から太平洋の熱帯海域に広く分布青磁や鉄絵陶にも及び、作域は広い。これらは で、集計、加工、編成することによって得られ率はゼロ ( 実物資産は増加するが、金融資産のし、日本の沿岸では三 ~ 四の幼魚が潮だまり華北の窯の製品と大きく相違しないが、青磁や る業務統計の一種である。したがって、金融統増加はゼロ ) であるが、外部金融のうち直接金 ( タイドプール ) にみられる。全長三〇に達鉄絵は他地域に有力な窯が発見されており、鈞 だえん そくへん 計相互間、あるいは他の種類の統計や指定統計融で資金調達を行うと、この比率は 1 ( 実物資し、体は長楕円形で側扁する。体色は背方は青窯の場合は澱青釉と紫紅釉陶器が特色をなすと ころから、本来窯の名称である鈞窯は、独特の などとの間に、完全な整合性を求めえない部分産増と金融資産増は同額 ) となり、間接金融な色で、腹方は銀白色。尾びれに五条の幅広い黒 褐色縦帯がある。本種は熱帯性の魚で、南方海澱青釉や紫紅釉の代名詞として今日大いに用い もあるが、その一方で、日常業務に基づくためらば 2 ( 実物資産の 1 に対し、本源的証券と間 域で産まれた卵や稚魚が、黒潮の流れに乗ってられ、釉そのものをさす場合が多い。澱青釉は 接証券が 1 ずつ発行される ) となる。 速報性や正確性が高いという長所ももつ。 ゅうすい 日本の沿岸にたどり着いて生息するが、冬に水ケイ酸含有率の高い青磁の一種で、幽邃な失透 金融連関比率はアメリカの経済学者・・ わが国の金融統計を内容の面から分類する ) によって考案され温が低下すると死滅する。姿が美しいので観賞青白色釉となっており、これに銅分を加えたも と、通貨の発行・流通に関する統計、それに基ゴールドスミス ( 一九 0 四ー のが紫紅釉である。この二つの釉は鈞窯以外に づいた分析統計、金融取引に関する統計、金融たものであるが、彼によれば、アメリカではこ魚として飼育される。近縁種のユゴイ K. ミミ・ も各地の華北の窯で使われており、遺品の窯の をきは、淡水の混じった汽水域を好み、と 機関の経営状況に関する統計に分けられる。通の比率は一般に上昇傾向にあり、物価変動によ 〈矢部良明〉 〈片山正夫〉帰属はなかなかむずかしい 貨統計においては、現金通貨に関して日銀券発って影響を受けるとされており、経済成長と金きには淡水にも入る。 行高、入出超高が、預金通貨について流通高、融構造の変化が密接に関連することが知られて金底信きんゅしんー毫 = ) 朝鮮、三国ギンヨウアカシア 0 アカシア しんら 0 リュウカデンドロン いる。わが国でもこの比率は一貫して上昇して統一に貢献した新羅の将車。五三二年新羅に併ギンヨウジュ 回転率などが示される。分析統計は、通貨の増 そうそ かや きんきゅうがい きんようもうひキリシア申舌に現 〈村本孜〉合された金官国王金仇亥を曽祖にもっ加耶系金羊毛皮 減要因や流通状況を国民経済全体のなかで集おり、およそ 2 となっている。 じゅふつ の人物。しかし、一族は代々、骨品制においてれる呪物的宝物。ポイオティアの王アタマス 約、分析するものであり、日銀券発行還収要回原司郎編「テキストブック金融論』 ( 一九〈 0 ・ しんこっ 有斐閣 ) ▽山田良治著『金融構造分析』 ( 一九聖骨とともに新羅の王族である真骨貴族としては、先妻ネフェレーとの間にフリクソスとヘレ 因、通貨増減要因分析 ( マネー・サプライ ) 、 かろう ーの兄妹をもうけたが、後添いのイノは継子た 活躍している。一五歳で花郎 ( 新羅貴族の青年 ・サ 会・新評論 ) 経済部門別通貨増減要因分析 ( マネタリー 戦士団の指導者 ) となって衆望を集め、とくにちを憎み、殺そうとする。イノは、煎った麦を ー・ヘイ ) 、資金循環勘定 ( マネー・フロー ) の の州ら墓塚そ体浮とにる 後の武烈王となる金春秋と親交があった。六四蒔かせて国土を凶作にしたうえその対策をデル 一慶ての高。身の南位 各統計からなる。金融取引統計に含まれるもの ひどん 統 , 立信のる , 支は方て としては、公定歩合、市中金利、コール・レー 羅れが廬こあにニ「午のれ七年に善徳女王を廃そうとした砒曇の乱の鎮圧フォイの神託に尋ねさせ、使者に「フリクソス ・一うくりひやく寺一い 新さ像金るに石十 , そさ とヘレーを犠牲にすべし」との偽りの神託を伝 に功があり、高句麗、百済を滅ばし、さらに トなどの利子に関するもの、手形交換に関する , 崇銅。れ郊腰はりに置 お尊はるら価の顔あう配唐との対立にまで発展する新羅の三国統一戦争えさせる。しかし、二人が犠牲の祭壇に引き出 ものなどがある。また、金融機関に関する統計 一言 にいえ丼部でかよて 庚日雄郊て伝慶下人りうつではつねに先頭に立つなど、車事面で大いに活されたとき、ネフェレーがヘルメスより授けら は、銀行・政府金融機関等の財務諸表、預金・ 金今英北れとはのは彫い従 〈木村誠〉れた金毛の羊を彼らに与え、二人はその背に乗 躍した。 貸出の状況などを含んでいる。以上のほかに、 かわせ って空を飛んで逃げる。ヘレーはのちにヘレス 有価証券、外国為替についての統計も金融統計 均輸法きんゅほう中国、前漢の武帝時代の ポントスと名づけられた海に墜落したが、フげ 経済財政政策。財貨の円滑な流通を目的とし、 に含まれる。 そう・一うよう クソスは黒海のかなたコルキスの地に到着し、 桑弘羊の立案と指導により、紀元前一一五年か これらの統計は、作成機関によって種々の形 ら部分的に施行され、前一一〇年から全面実施そこのアイエテス王に婿として遇される。そし で公表されているが、もっとも一般的で総括的 となった。地方の郡県に均輸官を置き、中央にて羊はゼウスへの犠牲とされ、その金の毛皮は な資料としては、日本銀行の『経済統計月報』 だいしのう アレスの杜の竜の監視下に置かれた。のちに、 は大司農に均輸令を長官とする均輸があった。 および『経済統計年報』、大蔵省の『財政金融 商品価値のある地方の特産物を賦税にかえて納この羊毛皮を求めて、アルゴ船の乗組員たちの 〈高島忠〉 統計月報』などがある。 〈中務哲郎〉 入させ、国家はこれを他の地方に転売して物価冒険旅行が行われる。 金融連関比率きんゅうれんかんひりつ finan- きんようもうひ Das goldne Vlies の調整を実現し、その利益は国庫の収入となる金羊毛皮 cial interrelations ratiO 経済社〈ムにおける 制度という理解が古典的解釈である。しかしこオーストリアの劇作家グリルバルツアーの戯 資産には「かね」の側面と「もの」の側面とが の解釈には疑問もあって、均輸法の機能を尽く曲。ギリシア伝説に題材をとり、『客人』『アル あるが、それを金融面と実物面との比重として ゴーの人々』『メディア』の三部よりなる。一 しているとはいえない。均輸には賦税の運輸の 表したものが金融連関比率である。具体的には 八二一年ウィーンで初演、一三年刊。ギリシア 負担を均平にする意味があったと考えられ、ま 金融資産を実物資産で除して得られる値で示さ ふはく た均輸法の実際の連営では布帛の強制的賦課との英雄ャーゾンは金羊毛皮奪還のためコルヒス れる。この場合の実物資産には、企業の設備資 に渡る。王と王子を殺害し、金羊毛皮を手にし その均輸官への大量の集積があった事実が認め 産、道路・港湾などの社会資本、個人の住宅な られ、制度の機能と運営の実体については不明て、王女メディアとともに帰国するが、野蛮人 どが含まれる。金融連関比率が大きければ、金 〈影山剛〉を妻としたため王にいれられず、彼の心は、 の点が多い 、フ融構造が高度化されていること、つまり金融の そうげん きんよう中国、宋元時代の名窯。代っての許婚者クレゥーザに移る。異国の風習に よ仕組みがさまざまに発展していることを示し、 鈞窯 ようし はつけどう 表的な窯址は河南省禹県八卦洞に発見されておなじみ、夫の心をつなぎとめようとする努力も また、金融資産の蓄積が進んでいることを示し ん みん り、この地が明代初めに鈞州とよばれ始めたた報われず、子供たちにも背かれるメディアは夫 3 キ、ている。この比率に影響を与えるのは、内部金 しっと・つ
きんとう きわめて重要な指標であることに変わりはな キントキ 0 ェビスダイ 〈中村裕一〉 金時山きんときざん「きんときやま」とも あしがらしも は・一わ 回堀敏一著「均田制の研究』 ( 一九七五・岩波書店 ) いう。神奈川県南西部、足柄下郡箱根町の北端 おやま ▽西村元祐著『中国経済史研究ーー均田制度 にそびえる山。箱根町、南足柄市、小山町 ( 静 編』 ( 一九穴・東洋史研究会 ) 岡県 ) の境にあたり、静岡県境をなす。箱根火 山の古期外輪山の最高峰で、標高一二一一一 近東きんとう Near East 西ヨーロッパ を中心にした地域概念で、東方のうちの「近い 古くは猪鼻岳とよばれていたが、童話や童謡の きん イ 東方」を意味し、中東 ( 中ほどの東方 ) 、極東主人公「足柄山の金太郎」として名高い坂田公 ときやま・つげ - ( 極めて遠い東方 ) と対をなす。具体的には、時が山姥とここに住んでいたという伝説があキ よりみつ 第一次世界大戦前、オスマン帝国によって領有り、また公時が奥州征討から帰った源頼光にそ ン されていた東ヨーロッパのバルカン半島から始の力量を認められた地とも伝えられ、明冶以 キ まり、クレタ島、小アジア半島、ロードス島、後、金太郎が小学校教科書にのせられてからは さんろく キプロス島、レバント地方 ( レバノン、シリ 金時山とよばれるようになった。山麓に金時神キントキマメとよばれる品種がある。赤紫色の ア、イスラエルなどの東部地中海沿岸地方 ) な 社があり、五月五日に金時祭が行われる。 豆につけられた名称であるが、インゲンには白 どの範囲をさす。ただ、中東との境界は明確で 金時山はまた明治初期に、日本で最初に近代金時もある。 だえん ササゲのキントキマメは楕円形で、米に混ぜ なく、中近東という便宜的な名称で一括される植物分類学の研究が行われた所としても有名。 ことも多一い 〈末尾至行〉 フランス人サバチェーの金時山基本標本や、ロて炊いても煮くずれせず赤飯用に賞用される。 シア人マキシモビッチの金時山頂のハコネコメ インゲンのキントキマメは主として煮豆用で、 金冬心きんとうしん ( 一六ー一実四 ) 中国、 しん あざな 清代の詩人、書家、画家。名は農。字は寿門。 ツッジの研究報告 ( 天七 0 ) は、その先駆的業甘納豆にも用いる。アズキのキントキマメはア 冬心はその号であるが、ほかに多くの別号があ績。五月に開花するゴョウッツジは「金時のウズキのなかでは煮くずれしないほうなので、赤 せんとうせつこう ・一うしゅう あん 図 る。銭塘 ( 浙江省杭州 ) の人。初め詩人とし バツッジ」とよばれる。またこの山中には声の飯用のほか、つぶし餡用とする。〈星川清親〉 墨館 ぶつぼうそう 本引物 紅 きんとほう ) 「キムトボン ( 天〈九ー て名を出し、諸方を歩いて金石文を研究して隷仏法僧 ( コノハズク ) をはじめ、野鳥や昆虫も金料奉 しよかいしょ 紙新博 書や楷書に特異な作風を生み出し、書家として多い。山頂の金時茶屋からの展望は広大。小田朝鮮民主主義人民共和国の学者、政治家。慶尚 心年 8 国 え せんごく 冬彩京 一家をなした。画は余技で、五〇歳を過ぎてか原駅から仙石までバス四五分。下車後姥ケ茶屋南道機張に生まれる。普明中学校卒業後、教育 おとめ 金卩淡東 ら描き出したという。晩年にかけて、個性の強 ー乙女峠ー長尾山ー金時山のハイキングコース に携わり、ハングル学者として名をあげた。一 しようえん かいげんてんはう しやだっ 亡、荘園制の発達により開元・天宝期 ( 七一三 ~ い独特の洒脱味をもっ画を完成していった。山がある。 〈浅香幸雄〉九一九年の三・一独立運動に参加したのち上 ごてんば 海に亡命し、大韓民国臨時政府に参加。四〇年 七五五 ) を頂点に急速に崩壊し、土地私有制が展水、竹、梅、馬、仏像などを描いたが、とくに囮二万五千分の一地形図「関本」「御殿場」 ていしよう 延安に入り、延安政治学校校長となり、四二年 開し、七八〇年、土地私有に基礎を置く両税法墨梅が名高い。三十代より揚州に遊び、鄭燮、キントキダイ〔金時鯛〕 red bulleye 、一うしよう かがん が成立することになる。 高翔、華嵓らと交わり、晩年はこの地に住ん P 、ミミ s ききミ s 硬骨魚綱スズ朝鮮独立同盟主席に就任。四五年、帰国後新民 とん・」う 唐代均田法の実施状況に関しては、敦煌発見で、没した。揚州に集まった八人の個性的な画キ目キントキダイ科に属する海水魚。本州中部党を創立し、四六年北朝鮮共産党との合党によ しんきよう きんにっせ、 の戸籍や新疆ウイグル自治区トルファン出土家、いわゆる揚州八怪の第一にあげられる。晩地方以南、台湾、フィリピン、アフリカ東岸な る北朝鮮労働党委員長となる。以後、金日成大 の唐代文献により、具体的状況が解明されつつ年の弟子に羅聘がいる。 〈星山晋也〉どに広く分布し、沿岸の岩礁近くの砂泥底にす学総長、最高人民会議常任委員長 ( 国家元首 ) 、 しようえん だえん そくへん ある。初期の研究においては、敦煌発見の戸籍均等名荘園きんとうみようしようえん 0 荘園む。全長四〇弩に達し、体は長楕円形で側扁す祖国統一民主主義戦線議長などの要職を歴任し きんとうり / キムドンニ ( 一九一三ー る。ロは大きく、下あごは上あごより突出。目 た。五六年、反金日成運動に加担したため、五 から、農民が所有していた田土を名目上、ロ分金東里 けいしん ふん 田、永業田に分類したにすぎず、均田法施行に 八年に党を除名され、奥地山村の農牧場に追放 大韓民国の作家。慶尚北道慶州出身。傲信高等も大きく、眼径は吻長より長い。腹びれは胸び ふじよず 否定的見解が有力であったが、トルファン文献普通学校中退。デビュー作『巫女図』 ( 一九三六 ) 、れより前方にあってはるかに大きい。尾びれのされた。その後、消息不明となり、死去したと 〈玉城素〉 『岩』 ( 一九三六 ) のときから、土俗的な世界を素材 後縁はほば直線的。体色は鮮紅色で、背びれ、 いわれる。 の分析によって、田土の還授は規定どおりでは しり <> ハクョウ ないが実際に行われていたことが実証されるよ 、人間の運命的なものを描き出していくのが臀びれ、腹びれなどに暗黄色の小円紋が散在すキンドロ うになった。トルファン文献の出土と研究の深本領の作家で、そこから、解放後は左翼文学とる。日本近海には近縁種として四種ぐらい知らきんとん甘煮したものに衣をかけた料理 対立、政治に隷属せぬ「純粋文学」の主唱者・ 化が期待される。きわめて特異な均田法という れるが、もっとも普通にみられる種類はチカメをいい、橘飩、金団、金糖、金唐などの文字が かんえい 土地制度を中国史上に位置づけようとすると実践者となった。以後、文壇の中心人物としてキントキ P. s である。この種は体高が高使われている。寛永二〇年 ( 一六四三 ) 版の『料理 き、その田土は国有か私有か、田土の班給を受韓国文人協会の理事長、芸術院会長などを歴任 くて目が大きく、腹びれがきわめて大きく、鰭物語』のなかでのきんとんは、葛枌をこねてみ ける農民は総体的奴隷と位置づけられるか否か している。代表作に『黄土記』 ( 一九三七 ) 、『駅馬』膜が黒いことなどでキントキダイと区別されそ汁に入れたものとしている。名は、色彩が黄 をめぐって見解が対立し、一致点に達していな ( 一九四 0 、『サヴァンの十字架』 ( 一九五五 ~ 五六 ) 、『等る。両種は底引網や釣りでやや多量に漁獲され、金色であることからついたものと思われる。き 。均田農民を奴隷とする見解では、唐代まで身仏』 ( 一九六一 ) など。 〈田中明〉煮つけなどにして食用にされる。〈片山正夫〉んとんには大別して豆きんとんと栗きんとんが を古代社会、唐代以降を中世社会と規定する。回金素雲訳「サヴァンの十字架』 (r 現代韓国文キントキマメ〔金時豆〕マメ科の重要栽ある。豆きんとんにはインゲンマメを使う場合 いすれにせよ、中国の時代区分を行ううえで、 学選集 2 』所収・一九七六・冬樹社 ) 培植物のササゲ、インゲン、アズキにそれぞれが多い。豆は一晩水に浸しておいてゆでるが、 2 、 1 まく いのはな キントキダイ チカメキントキ 284