こうしん 香辛料 / 外国料理用 ( 3 ) 香辛料名 ( 科名 , 植物名 ) 利用部位 別名 英名 学名 パセリ ( セリ科 , パセリ ) 葉 オランダゼリ れ 0 / 切襯ロ六第″川 ( Mill. ) Nym. parsley 料理適性 ①原産地 香味特徴 ②主産地 甘いもの以外のはとんどの科理に 快い芳香と , くせのある青くさい ①地中海沿岸 使われ , 風味を引き立てる。彩り ②アメリカ , 西ドイツ , 味がある カナダ , にふりかけてもよい。料理のつま フランス、スー、イン , ヾノレギー としても用いる ①中南米 若干はろ苦味と渋味はあるが , 辛 パプリカの赤い色を特徴とするハ パプリカ ( ナス科 , トウガラシ ) 果実 甜椒 , 甘唐辛子 , ノ、ン - ノア ②ノ、ンガリ 味ははんのわすかである。甘い香 ンガリアングーラッシュやチキン スペイン , プル リアンペパー 料理に欠かせない。 りと赤橙色が特徴 ドレッシング paprika ガリア やサラダ , 白身魚の彩りによい ①西アジア , 南東ョーロッパ 焦げた砂糖とメープルシロップの カレー粉に使われ , チャツネにも 胡蘆巴 フェニュグリーク ( マメ科 , コロハ ) 種子 あう。イミテーション・メープルシ ②インド , フランス , ギリシア , ような香りをもち , はろ苦味があ T 厖の尾〃〃 / 〃Ⅲル g 耀 : 〃川 L. fenugreek ロップの主成分として用いられる レバノン , エジプト る 魚のハープともよばれ , 魚料理に ①南ヨーロッパ アニスに似た快いほろ苦味と , 樟 フェネル ( セリ科 , ウイキョウ ) 果実 茴香 , 小茴香 よくあう。バン , キャンディ ②フランス , イタリア , 脳に似た香りがある F 能ル川Ⅷ〃尾 Mill. fennel ドイツ , スープ , ピクルス , 中国料理によ 東ヨーロッノヾ , 日本 く使われる あらゆる煮込み料理の香味を驚く ロ ①地中海東岸 , 小アジア わすかな苦味 さわやかな芳香と , べイリープス ( クスノキ科 , ゲッケイ 月桂樹 , ロ ーレノレ , はど引き立てる。マリネー ②ギリシア , トルコ , フランス がある ピク ジュ ) 葉 リエ ルス , プイヨン , シチュー bay leaves ん〃励市 s L. スに欠かせない ①南西インド ( マラバール ) さわやかな刺激性の辛味と芳香は あらゆる洋風・中国科理によく調 ( コショウ科 , コショウ ) 果実 , 黒胡椒 , 白胡椒 和する。ステーキには黒胡椒 , フ ②インド , インドネシア , 黒胡椒のはうが強い。白胡椒は上 bl ac k pepper, white マレ 種子 ランス料理 , 中国料理には白胡椒 品な香味をもつ P ゆ lg 翔襯 L. ーシア , プラジル pepper があう 西洋わさび , わさび大根①南東ョーロッパ 根をすりおろし , ローストビーフ , 根茎をすりおろすと , わさび風の ホースラディッシュ ( アプラナ科 , ワ 生ガキ , 薫製の付け合せとして用 ②アメリカ , カナダ , ッ 甘い刺激性の辛味と , 芳香が出現 horseradish サヒ、ダイコン ) ヨーー ロ いる。フランス料理のソースにも ノヾ , 日本 する Co んのの 7 〃 0 耀 c L. ①東ヨーロッパ , 小アジア パン , ケーキなどの焼き菓子に 乾燥している種子は香りか弱いな ポピーシード ( ケシ科 , ケシ ) 種子 けしの実 つぶしてケーキやパイのフィリン ②トルコ , イラン , ソ連 , オラ 煎ったり焼いたりすると香はしい poppy seed グに用いる。七味唐辛子の原科で , ナツツのような香りがする ンダ , ポーランド , ルーマニア 和生菓子の飾りにも使われる。油 はサラダ油に使われる ①地中海沿岸 繊細で快い甘い芳香と , ほろ苦味 野菜や肉料理 , レバーソーセージ , ② ) フランス , ポローニャソーセージ , チーズ料 がある ギリシア , メキシコ 理 , チキンや七面鳥のフィリング , スープ , ソースなどの香味づけに 適する ホワイトマスタードの甘い刺激的 練りがらしにして , ドレッシング , 白辛子 , 黒辛子 , 西洋辛子 ①南ョーロッパ , 地中海沿岸 マスタード ( アプラナ科 , シロガラシ , プラックマスタードより からし和えなどに用い , 用途が広 ②カナダ , 香味は , オランダ , インド , クロガラシ ) い。魚・肉料理やピクルスにあい , & 〃ゆな L. , 召耀 ss / nigra L. ・マイノレ ドである 中国 black mustard, white ソース , カレー粉などにも用いる mustard ミント , ①地中海沿岸 , ヨーロッパ 清涼感のある風味をもつ。 ミントリープス ( シソ科 , セイヨウハ 西洋薄荷 , ローストラムなど羊肉の臭みとり スペア ②アメリカ , イキリス、フラン ッカ ) 葉 ミントのほうがべパー ントより スペアミント のため , ミントソース , ミントゼ 財翩〃が加厖 L. , M の 2 〃 sPi- リーを付け合せにする。キャンデ mint leaves ス , 日本 , ルーマニア 甘い香りがする L. ィー , ゼリー , アルコール飲科 , デザートにも用いる ①中南米 熱に強いので , 煮込み科理 , 焼き 強烈な辛味 香りははとんどなく , 物科理に適す。麻婆豆腐などの中 ②インド , メキシコ , 中国 , 日 がある 国四川科理 , 朝鮮科理 , 辛い漬物 , 本 , アメリカ , パキスタン カレー , そはやうどんの汁の辛味 づけによい めいてつこう ①地中海沿岸 矯臭力があるので , 羊肉料理はじ ローズマリー ( シソ科 , マンネンロウ ) 葉 迷迭香 , まんねんろう , 甘い芳香と , 刺激的なはろ苦味が ② ) フランス , スペイン , ユー めその他の魚・肉料理 , スープ , まんるそう Ros 〃れ襯パ 0 切 4 〃 L. コ ある シチュー , 焼き肉のたれなどによ スラヒ、ア , 北アフリカ rosemary てれしよう ういきよう マージョラム ( シソ科 , マヨラナ ) 葉 マヨラナ , 花薄荷 イの 0 耀れ〃ん 0 e な Moench marjoram ばれしよ、 レッドベパー ( ナス科 , トウガラシ ) 蕃椒 , 唐辛子 果実 red pepper 756
けるとこ 膝分れラ d 館なてさ出英 血してケルト・イベロ人が形成され、一方、大 0 ' 十さグ巳物蓋め高方大 陸からのたび重なるケルト人の渡来によりプリ 2 に施ン。博や極 . , 地 あ うてイ英手をてヌン テン島のケルト化も進み、現在でも、アイルラ ン ス ' 域大把緻方一 座しデ館 精片レ ロ ンド語、スコットランド・ゲール、ウェール てをン物 ン器はのロ し頭グ専 さま縦 ズ語として、ケルト語は生き続ける。 ト容工ち , ろ イム やの , 高りを サン酒細うス 鶩生羊ク国 ②「東方のケルト人」前四世紀ごろ、一派は を牡一 いイロうのの、年 盾あ中しウど匠、ラ ポヘミア ( ポイ族からきた名称 ) 、モラビア、 のの , 美のろぷ意フ 枝手ン 製ごでが部こ製物一 の左デ一 ハンガリーを経てルーマニア北部に入り、他の 銅あの刻中紀銅動。 5 巳館 青らも彫ド世青のるコ物 一派はノリクムを経てダルマチアに移動した。 をる ①かなたン 2 ②どい土博 前二七九年ごろにはデルフィーを侵寇してい 神首てコ る。北に転じた一派はシンギドウヌム ( ・ヘルグ ト手従ろ ル右を ラード ) を建て、別の一派はトラキアに入って ケ , ち年 たでた o 王国を建設し、その影響力は南ロシア平原まで れ神物 一さス動 d 及び、ケルト、スキタイ混交文化も生まれた。 出ノの巳 さらに、小アジアのビテュニアの王位継承に干 ちヌ生 一「・ , 打ル野土 渉した一派は、その後、前三世紀初めフリギア にケ , 出 鉢がてプ高原に定着し、ガラティアとよばれる地域をベ 大のつッ のる握ル ルガモン王から与えられ、小アジアの地にケル レ 、製いをウ ① ト人社会の伝統を保持し続けた。 ケ ③ ③ったス しわゆるオッピドウム 〔後期〕前一世紀には、、 つくられ、湖の水位調節、泥流発生の防止に有ルト語およびプリタニック諸語では、インド・ が、南西ドイツ、スイス、東フランスの青銅器 ( 城市 ) 文化が中部ヨーロッパの戦士、農耕民 効であったが、六六年の噴火でトンネルが壊ヨーロッパ祖語における子音 kW(=qU) が p 文化の担い手であり、初期鉄器時代のハルシュ のケルト人の世界に確立した。しかし、カエサ れ、大泥流で死者二八二人を出した。火山観測の音で現れている。たとえば、ラテン語 quat- タット後期、後期鉄器時代のラ・テーヌ最初期ルのガリア戦争に対して続けられた自由を求め 所がある。 〈諏訪彰〉 tuor ( 四つ ) に対して、ゴール語 tor ・、ウに、シャンパ ーニュ、ザール、モーゼル、中部る闘争も、前五二年に終止符を打ち ( ウエルキ ほうき ごはインド・ヨーロッパ ケルト語派 エールズ語 pedwar のようにである。この事ライン地方において、民族としてのケルト人が ンゲトリクスの率いる大蜂起 ) 、前一六 語族中の一分派。ケルト人は紀元前五世紀 ~ 前実から、これらのケルト語をまとめて群 p ・ 形成されたと思われる。なお、ギリシア、エト 〇年には、大陸の最後のケルト人の拠点もロー 三世紀にかけて、原住地と目される現在の南ド Celtic とよぶことが多い。他方ゲーリック諸ルリア文化との交流も明らかな北西アルプス地マの支配下に入り、ケルト人の地、ガリアは完 ィッ地方から、ヨーロッパ各地へ広がっていっ 語は C 群 q ・ Celtic とよばれる。ウェールズ語方のハルシュタット文化は、彼らが担ったと推全にローマ化する。 た。プリテン諸島へ渡来したケルト人もその一 Pedwar ( 四つ ) に対するアイルランド語 ceat ・定される。ついで、前五世紀の、初期ラ・テー 〔政治・社会・文化〕ガリアやプリテン島で 部であった。このようにケルト語は広い地域で hair Ck'ahir 〕はその一例である。総じてケル ヌ時代のシャノヾ 、ノーニュ、中部ライン地方の貴は、政治的には、段階的なクリエンテス制 ( 上 話されていた。これらの言語をあわせてケルト ト語は、インド・ヨーロッパ祖語における語頭族の墳墓および出土品は、初期ケルト美術の精下の保護隷属関係 ) に基づく一種の貴族制的体 語派という。地理的観点から大陸ケルト語 ( ゴの子音 p を落とす傾向にあった。そのほか語頭華を示してくれる。 制が保たれたが、ついに統一国家を形成するこ とうしょ ール語、ケルト・イ・ヘリア語 ) および島嶼ケル の緩音化・鼻音化とよばれる変音現象、さらに 〔移動期〕①「西方のケルト人」イタリアに とはなかった。経済的基盤は、古くは血縁的な ト語 ( プリタニック語、ゲーリック語 ) の二つは語彙、形態、文構造にもこの語派には著しい 侵入したケルト人は、前三八七年 ( または三九共同体に属する土地にあり、貨幣の鋳造も行わ に分けることができる。 特徴がみられる。代名詞と融合して人称と数に 〇年 ) のアツリアの勝利後、ローマを荒らしれた。一般に、ケルト人の世界は、王、神官、 しん・一う 大陸ケルト語は五世紀にはラテン語に吸収さ応じて変化するいわゆる屈折前置詞の使用、動 ( ケルト人の侵寇 ) 、その後、北イタリアのアド 戦士貴族および自由農民からなったが、城市や れた。プリテン島では同じころプリタニック語詞文頭の >TO ( 動詞ー主語ー目的語 ) の語順 リア海岸に定着した。一派のインスプレス族は貴族の墳墓の発掘によって、その社会構成も明 しゅゅう がアングロ・サクソンの侵攻により語形が崩など。古い豊かな文献を有するアイルランド語 メディオラヌム ( ミラノ ) を首邑とし、ポイ族らかにされつつある。城市の建設、商・工業の れ、しだいにウェールズ語、コーンウォール語やウェールズ語はいまも活力のあるケルト語ではエトルスキの町フェルシナをポノニアとし発展によって貴族の権力が確立、伸長してゆく ( 一八世紀末に廃れた ) および対岸のプルター はあるが、その実勢力は英語の圧力に押されてた。またアドリア海岸にはセノネス族が定住すが、それとともに神官 ( ドルイド僧 ) 層のカ ニュ地方のプルトン語などの下位語群に分かれ漸減する現状にある。 〈土居敏雄〉る。前二九三年にローマ軍に敗れたのちは、北 も、宗教、文化、政治に及んでゆく。ドルイド ていった。他方アイルランドのゲーリック語か ケルト人ーーじん Celts インド・ヨーロ イタリアのケルト勢力も衰えたが、ローマも各教の教義、儀式は、文字化されすロ伝によるた らは、六 ~ 七世紀にかけて、、 しわゆる古期アイ ハ諸族の一派。紀元前五世紀から前一世紀に 地に植民市を設けてこれに相対した。ケルト人め、ギリシア・ローマ人の叙述、遺物、伝承に ルランド語が形成された。スコットランド・ゲヨーロッパ中部および西部で活躍した民族。のスペインおよびプリテン島侵入の時期につい よって再構成せざるをえない。彼らは、イン ール語およびマン島語 ( マンクス語 ) はその派ギリシア語でケルトイ、ガラトイ、ラテン語でては諸説あるが、ラ・テーヌ期にさかのばると ド・ゲルマン人的な宇宙神を中心とする独特の 生である。 ケルタ工、ガリイ ( ガリア人 ) とよばれた。 推定される。ガリアの地の大部分のケルト化も神の体系をもっていたと推定されるが、霊魂不 以上のうちケルト・イ・ヘリア語を除く大陸ケ 〔初期〕原住地、起源については議論がある進み、イベリア半島では、先住のイベロ人と混滅を信じ、自然崇拝が盛んで、聖樹、聖獣、聖 ②
して独特の文化連続説を主張し、ヨーロッパ文それは同時に、経済史学がその成立とともに負 がランゲの論文「社会主義の経済理論」 ( 一九三六あるいは相当にまとまった形で取り扱った著作 ~ 三七 ) であった。ランゲはこの論文において、 は、カエサルの『ガリア戦記』やタキトウスの化発展の経済的基礎に関して実証的に研究したわされてきた理論か歴史かの問題に対して、新 ドープシュの仕事などは、ヨーロッパ世界の危しい解答を与えることを意味する。また史的唯 第一に、社会主義のもとでも合理的な資源配分『ゲルマニア』など、すでに古典古代から存在 を実現するためには、価格をシグナルとしてする。しかし、経済史が独自の研究目的と研究機意識を主体的に受け止め、その本質を確認し物論の経済史研究も、法則的認識を志向するあ まり史実を軽視するという実証史家の批判に十 個々の経済主体の意思決定が行われるという意方法をもって学問として成立するのは、一九世ようとする経済史の研究であった。 味での「価格のバラメータ機能」が保持されな 紀の中ごろである。それはまず歴史学派経済学〔史的唯物論の経済史研究〕一方、歴史学派経分に耐えうるためには、ヨーロッパ史学界の実 証的研究の成果をくみ取り、ますます内容豊か ければならないが、その際の価格はかならずし としてドイツで誕生した。この学派の経済史研済学と同時代に生まれたマルクスの史的唯物論 も市場価格である必要はなく、技術的代替率に 究は、当時のロマン主義の風潮のもとで、国民は、経済史研究のなかで独自の立場を形成してな理論体系に鍛え上げていくことが必要であ 基づく計算価格であれば十分であること、第二 の個性的統一の核心として国民精神を考え、そきた。それによれば、人間は生存の基本であるる。 に、その実際的解決の仕方として、企業に自律の本質を個別的な歴史研究によって解明しよう衣食住の物質的生活においてかならず一定の生〔アメリカにおける経済史研究の新動向〕第二 性 ( 生産上・販売上の自由 ) を与え、中央計画とするもので、歴史的個体性を強調する歴史主産関係 ( 人間の人間に対する関係 ) を取り結次大戦後にはまた、アメリカを中心に経済史研 び、生産関係はその社会の生産力 ( 人間の自然究の新しい動向が生まれ、経済成長史学として 当局は任意の計算価格をこれらの企業に伝達義の立場にたつものであった。それは同時に、 し、その結果生ずる需給の不均衡に応じて計算先進資本主義国イギリスの古典派経済学に対し に対する関係 ) と照応する。そしてこの生産関目覚ましい発展を示している。これは、経済成 価格を逐次修正してゆけば、価格の。ハラメータて、後進国ドイツの立場からの資本主義の理論係の総体がその社会の政治・芸術・思想などの長理論の精緻化を背景に経済の発展をできるだ 機能が果たされうることを明らかにした。このを樹立しようとするものでもあった。このよ , つ上部構造を条件づける。したがって、生産関係け数量化し、統計的に把握しようとするもの ランゲの見解は、「競争的解決」とか「市場社 なねらいは、この学派の創始者リストの経済発が変化すれば、それに応じて社会の上部構造もで、主として産業革命以後の工業化と経済成長 の分析の面で多くの業績を生み出している。こ 変化し、その変化の総体が人類の歴史となる。 会主義」とかよばれているが、社会主義経済に展段階説にもっともよく示される。 おける価格メカニズムの役割が重視されるあま ところで歴史学派経済学の研究は、方法論的それゆえ、社会発展の最終的な決定要素であるれらの研究は、今日の発展途上諸国の工業化と いう現実的課題に対し、先進工業諸国の工業化 り、社会全体の立場からする計画化の役割が薄 に普遍化 ( 理論的 ) と個別化 ( 歴史的 ) とい , っ生産関係を取り扱う経済史は、歴史研究全体の れてしまっているため、イギリスのマルクス経本来矛盾する傾向を含んでおり、彼らはこの矛なかでもっとも基礎的役割を担うものとされ過程の解明を通じ一定の政策的指針を提示しょ 済学者ドップからその点を批判された。しか盾を有機体説の全体と部分の関係でいちおう論る。史的唯物論は、生産力と生産関係の統一概うとするもので、きわめて実践的な研究であ し、一九三〇年代に早くも、計画経済と市場メ理的に統一していたが、歴史家の側からはその念である生産様式をもって、人類の歴史を原始る。その代表的研究としては、とりわけ、・ 共産制、古代奴隷制、中世封建制、資本主義社・ロストウの『経済成長の諸段階』 ( 一九六 0 ) カニズム ( 価格メカニズム ) のフィードバック歴史的実証性の欠如が批判され、また段階理論 会、社会主義社会の五つの社会構成の段階に区と、 < ・ガーシェンクロンの『歴史的展望から 機能との結合を内容とする分権的社会主義経済の論理的客観性に関しては、メンガーやウェー ーの厳しい批判を受けた。しかし、一九世紀分するが、この段階説は、段階区分の根本原理みた経済的後進性』 ( 一九六一 l) が注目される。し モデルを提唱した点で、ランゲの見解はやはり 画期的な意義をもち、最近の東欧諸国やソ連にを通じて歴史学派経済学は経済史研究の主流をが生産関係であること、また歴史が生産力と生かし、経済成長史学はまだ一つの体系を構成す なし、ヨーロッパ各国において多くの卓越した産関係の矛盾を契機として発展する連動法則をるには至っておらず、また、その方法に対して おける経済改革論 ( 市場メカニズム導入論 ) に 科学的に把握している点において、歴史学派のは、経済の発展を経済成長という数量的関係に 〈宮鍋幟〉研究を生み、その結果一九世紀末にはヨーロッ も大きな影響を与えている。 @< ・・・ハイエク編、迫間真治郎訳『集 ハの経済発展に関するほば共通の歴史像とその段階説とは大いに異なる。さらに歴史学派にお解消することにより、経済体制の差異や個人・ ける経済発展の一般的図式は、なんといって民族の生成発展における歴史的個体性が無視さ 産主義計画経済の理論』 ( 一空 0 ・実業之日本ための基礎的諸概念が確立された。 〈根本久雄〉 も、ヨーロッパという限られた世界を場としてれるという批判が強い。 〔ヨーロツ。ハ文化の危機と経済史学〕この間ゾ 社 ) ▽ O ・ランゲ、・・テーラー著、 〔日本における経済史研究〕わが国の経済史研 ・・リピンコット編、土屋清訳『計画経ンバルトは、独特の「経済体制」概念によって構想された歴史発展の過程であるのに対して、 済理論』 ( 一九五一・社会思想研究会出版部 ) ▽歴史学派の理論と歴史の矛盾を克服し、理論的史的唯物論は世界史的発展過程についての偉大究は、明治期に、明治政府の貿易立国政策 ( 商 な構想であり、それだけに経済史研究でもその業資本擁護政策 ) の立場から、欧米先進国の通 ・。フルス著、鶴岡重成訳『社会主義経済のかっ実証的に近代資本主義の発展を解明した。 商実例に範を求めて、ます商業史研究から始ま またウェーバーは、理想型的概念構成の方法に影響は大きかった。 機能モデル』 ( 一九七一・合同出版 ) った。明治三〇年代に入り財閥系大企業が成立 〔ヨーロッパ経済史学の現況〕しかし、現代の よって、経済史を含む経験科学の科学性の確立 経済権利義務憲章けいざいけんりぎむけんし けいギいけんりギ、むけんしよう ヨーロツ。ハに関する限り、そこでの経済史研究すると、富国強兵・殖産興業政策推進のため、 を目ざした。彼の理想型に基づく類型的把握の よう 0 国家の経済権利義務憲章 けいざいしがく通常、人間の経済方法は名著『プロテスタンティズムの倫理と資の主流は歴史主義的研究であり、西ドイツの地「保護主義」の政策論としてドイツ歴史学派経 経済史学 生活の発展過程および経済生活とその他の社会本主義の精神』 ( 一九 0 四 ~ 0 五 ) を生んだ。ところ域史研究に代表されるような、個別的地域・時済学が導入され、経済史研究が始まる。第一次 代・問題についての徹底的に実証的な研究であ世界大戦は日本資本主義の飛躍的発展の時期で ノーが「ヨーロッパとは何か」とい 現象との関連を解明しようとする学問をさすで、ウェーヾ う文明史的問題を提起したときの彼の関心の根る。これらの研究は一九世紀的歴史像を支えたあったが、一九一八年 ( 大正七 ) の「米騒動」 が、その方法や目的は研究者の立場によってか 。ここでは、ヨーロ底には、ヨーロッパの崩壊を憂える危機意識が基礎的諸概念を実証的に批判し、古典学説の権に始まる小作争議、労働争議など種々の社会問 ならずしも一致していない ツバ、アメリカおよび日本における経済史研究あった。第一次世界大戦後にはこのような危機威をほとんど全面的に崩壊せしめたが、まだそ題を発生させ、歴史学の関心もこれら「社会問 れにかわる総合の理論や体系を生み出すには至題」の解明とかかわりをもっこととなり、社会 の発達を概観し、経済史学の基本的な性格をみ意識に発する多くの経済史研究が発表された。 史、農村史、百姓一揆の研究が行われた。大正 っていないそこで今日、彼らに課せられてい カトリックの立場からヨーロッパ世界の本質を 六、ることにしたい。 > 〔ヨーロッパにおける経済史研究〕〔古典学説その成立過程において探究したドーソンの研る課題は、実証的研究の積み重ねのなかから新末から昭和初頭にかけて日本資本主義の諸矛盾 、、ゝ激化したため、社会問題はより深刻化し、労 4 究、あるいは、古代世界の没落という通説に抗しい総合の理論と体系を確立することであり、 の形成〕人間生活の経済的な側面を断片的に、 こっか いっき
監修 : 中根猛彦画 : 関口俊雄 , 大片忠明 甲虫 / 世界の甲虫 亠 ~ 1 第をい ノ、ンミョウ 日本全土 アリガタハンミョウ アフリカ中央部 ドリオニハンミョウ アジア西部 ウルリッヒオサムシ ヨーロッパ中南部 ホソクビナガオサムシ ( 雌 ) シュレンククビナガオサムシ 朝鮮半島北部 , シベリア極東部 シベリア極東部 キンイロオサムシ フランス イボカプリモドキ 中国南西部 : み、 0 ゼ シ ジ ワ ョッポシヒラタシデムシ 日本全土 アカオオキバハネカクシ 中国東北部 , シベリア極東部 ョッポシオサモドキゴミムシ 中央アジア , イラン , インド レーマンエンマゴミムシ 中央アジア南部 845
香辛料 / 外国料理用① 香辛料名 ( 科名 , 植物名 ) 利用部位 学名 アニス ( セリ科 , アニス ) 果実 乃〃ゆわ尾〃 4 〃 S ″川 L. 姫茴香 , ローマンクミン カレー粉やチリーパウダーに欠か チーズ , ソーセージ , チャツネ , スープ , シチュー , 米料理などに オニオン ( ュリ科 , タマネギ ) 球根 月〃襯化加 L ・ オールスパイス ( フトモモ科 , オール スパイス ) 果実 乃川の 7 / 〃 Q 伝 L. オレガノ ( シソ科 , オレガノ ) 葉 0 厖川ィ襯Ⅷ / の℃ L. カシア ( クスノキ科 , カシア ) 樹皮 別名 英名 遏泥子 amse おおる 大蒜 , : garlic 小荳芝 たまわぎ 玉葱 0n10n 百味胡椒 , allspice oregano 肉桂 cassla ①原産地 ②主産地 ①小アジア , ギリシア , エジプト ②メキシコ , スペイン , トルコ , フランス ①西南アジア インド , 工ル , ハンガリー , フルガリア ②アメリカ , エジプト , イスラ 三香子 香味特徴 甘草 ( リコリス ) に似た芳香は主 成分のアネトールによる。かすか に甘味がある 刺激性の甘い香りと , 辛味 , はろ 苦味がある ナツメグ , クロープ , シナモンの 3 つの香辛科を混せたような香味 をもち , ペパーのような辛さはな いが , 甘味とさわやかさとはろ苦 味がある 樟脳に似た芳香と快いスパイシー な辛味があり , トマトによくあう シナモンよりその甘美な芳香 , 刺 激性の甘味は強い 強烈なにんにく臭と辛味があるが , 乾燥したものは , 不快臭・辛味とも にマイルドである 樟脳に似た芳香が強く , 辛味とは ろ苦味がある 甘いさわやかな香りとやや刺激の かんぞう こうしん 料理適性 クッキー , ケーキ , キャンディー シロップ , リキュールなどのアル コール飲科によくあう 中国・メキシコ・イタリア・フラ ンス料理の下味として , またスー プ , ソース , サラダ , チャーハン , ノ、ンノヾーーク第 く使われる ートソースにと広 ①地中海沿岸 ①ジャマイカ , ②ジャマイカ メキシコ ガーリック ( ュリ科 , 〃ル川廂襯 L. ンニク ) 鱗茎 ②ギリシア , メキシコ , フラン ス , トルコ , イタリア , ソ連 南部 ①ベトナム南部 , 東ヒマラヤ ②ベトナム , インドネシア , 中国 ①中央アジア ②アメリカ , エジプト , プルガリ ア , ハンガリー , 中国 , 日本 ①インド南部 , スリランカ ②インド , グアテマラ , タンザ こんにく clove 丁字 らようじ cumln caraway ひめういきよ、 cardamon cmnamon 桂皮 , ニッキ saffron 慕缸花 , サフロン coriander 胡娑実 , こえんどろ 甘・辛どちらの料理にも適する万 能香辛料で , カキのシチュー マトスープ , サラダドレッシング , ヒ・一フシチュー スノヾケ・ツテイソ ト ーキ , パイによくあう ートローフ , フルーツケ キュンメルに欠かせない チーズ科理 , ザウアークラウト , ピスケットなどのべーキング製品 , ライムギパン , ケーキ , クッキー ンにふりかけると秀逸な味となる ピクルス , ソースにもあう。メロ ミタスコーヒーに使われ , カレー 中近東のカルダモンコーヒーやデ リア・メキシコ料理に欠かせない き立てる。中国・フランス・イタ 各種科理に少量使うだけで味を引 トーストに最適。カレーにもあう ーキ , アイスクリーム , フレンチ ケーキ , プディング , フルーツケ アップルバイ , ドーナッ , ホット ム肉料理 , シチューに適する マトを使った料理 , オムレッ , ラ ートソースやト は欠かせない。 イタリア料理 , とくにピッツアに カルダモン ( ショウガ科 , カルダモン ) クミン ( セリ科 , クミン ) 種子 朝川襯電 / L. 種子 キャラウェー ( セリ科 , キャラウェー ) E / 襯 / イ〃川 0 襯″襯 Maton 種子 シナモン ( クスノキ科 , シナモン ) 樹皮 クロープ ( フトモモ科 , チョウジ ) 蕾 C 川口パ・ , L. サフラン ( アヤメ科 , サフラン ) 雌しべ Co / 刃市 7 ィ川川 L. 種子 コリアンダー ( セリ科 , コ工ンドロ ) ①東ョーロッパ , ②オランダ , ポー マーク 西アジア ランド , テ。ン ①エジプト , トルコ ②インド , イラン , トルコ , クライナ , モロッコ あるはろ苦さがある 強い芳香と辛味に加え , がある はろ苦味 ウ せない。ケーキ , よくあう ノヾン , ピクルス , ①インドネシア ( モルッカ諸島 ) ②マダガスカル , サンヒ、ア , モル ッカ , マレーシア , タンサニア トルコ , インド ①南ヨーロッパ , 小アジア アメリカ ソ連 , モロッコ , ポ ①南ョーロッパ , 地中海沿岸 ②スペイン , ーランド , ②インド , ②スリランカ ①スリランカ オイゲノールを主成分とし , 刺激 的だがさわやかなバニラ風の香味 がする 甘い特徴的な芳香とかすかな辛味 がある 独得のスパイシーな香りと快いほ ろ苦味がある。水によく溶け黄金 色になる さわやかな芳香と甘味のある上品 な風味をもっ ハムやソーセージ , 肉料理に欠か せない。ソース , 焼きりんご , フ ルーツケーキ , スープ , シチュー などによくあう ピクルス漬けに欠かせない。カレ ー粉 , クッキー , キャンディー ソーセージ , チョコレート , リキ ュールなどに用いる 香味より着色性を生かした使い方 をされる。プイヤべース , パ工ー ジャなど魚貝類 , 甲殼類の科理や , スープに欠かせない 甘い菓子にも , 辛い料理にもよく あう。果物を煮るときやピクルス を漬けるときに用い , 紅茶 , カク テル , ジュースなどにはスプーン のかわりに使われる 754
けおりも していった。第一次世界大戦中には、毛織物輸末染色の粗野な織物であった。低地地方 ( 現在 入の途絶、戦争景気に伴う消費の増加からさらのオランダ、ベルギー、ルクセンプルクなどを に発展を遂げ、昭和初期の不況期には過剰生産含む地方 ) では、ローマ占領時代からゴール人 となって現れた。第二次大戦中には原毛の輸入 ( アトレベート族 ) が染色毛織物をローマに輸 が絶え、生産も縮小せざるをえなかったが、戦出し、人気を博していた。 西ヨーロッパの毛織物生産が新たな展開をみ 後には復興が順調に進み、早くも一九五二年 せるのは八世紀ごろのことである。庶民の日常 ( 昭和二七 ) には毛糸生産が戦前の水準に達し、 五九年には戦前最高の織物生産高を超えるに至の、自家製毛織物生産がしだいに発展し、地域 った。しかし一方、発展を遂げつつあった合成内の週市に売り出されるようになり、それが中 繊維との間に繊維間競合を引き起こしている。世都市の手工業に吸収され、どこでも中心的手 工業の一つとして発展していった。このなかか そのため生産の伸びは鈍化傾向にある。 ら、国際的商品として取引される上質毛織物 生産は、原毛を主としてオーストラリアから 輸入しているが、輸入量は年間約二億一六〇〇 ( 染色仕上げされた高級毛織物 ) を生産するフ ランドルなど低地地方の諸都市や、フィレンツ 万キ。 ( 一九ハ三、中間製品の羊毛トップを含む ) に 達し、これにより国内生産が行われている。国工などイタリア北部の諸都市が「商業の復活」 内における原毛生産はごくわずかである。毛織とともに台頭してくる。 しやし 〔奢侈的高級毛織物〕一〇世紀にイギリスの良 物の生産は年間約三億二七〇〇万平方、その 質の羊毛を輸入して生産を拡大した・フールジュ うち梳毛織物の生産は約二億三二〇〇万平方 を中心とするフランドルの毛織物は、一二世紀 ( いずれも一九八四年 ) に達している。 織物生産地は、発展の経過からみて、地域的には全ヨーロッパの商人の集まるシャン。ハー ュ大市やサン・ドニの大市で売りさばかれ、一 に集中化の傾向があった。明治後期にモスリン いちのみや 製造から始まった愛知県一宮市を中心とする尾三世紀にはイタリア諸都市を経て東方に、ハノ 西地方が主要な毛織物生産地帯を形成しておザ商人の手で北欧に運ばれたが、一三世紀末に いずみおおっ り、また大阪府泉大津を中心として毛布が生はフィレンツェに末染色・末仕上げの白布のま 第産されている。それに加えて、従来の絹織物生ま輸出されるようになった。この白布は、フィ レンツェ近在で組合アルテ・ディ・カリマーラ 産地において、ウール和服地を生産するように よっこ。 に参加した仕上げ業者によって染色加工され、 用途としては、ヨーロッパでは、綿織物が安東方諸国に再輸出されたが、これはフィレンツ 工産の毛織物 ( イギリスからの輸入羊毛を織布 価で大衆的衣料として供給されるようになるま では、ほとんどの衣料が毛織物であったが、やエに前貸しし加工させる問屋制前貸しによって がて、毛・綿・麻などの繊維種類によって衣料つくられた ) と並んで、香辛料など東方からの 分野を分担することになった。ところが合成繊輸入品に対する対価物として重要な位置を占め 3 縮厚 るに至り、一四 ~ 一五世紀を通じて、ジェノ・ハ 維の発達によって、毛織物の分野は蚕食され、 ンほう カきい 毛織物は不要とされるようにみえたが、天然繊や・ヘネチアの商業上の利益の多くをフィレンツ 工に引き寄せたのである。 維本来の特性が認められ、衣料としての根強い をグ 足密 気毛ン 〔新大陸発見以後〕新大陸の「発見」と東方貿 利用がなされている。また、毛布、カーベット てを 〈角山幸洋〉易路の転換は、毛織物工業を、各国重商主義の としても用途が広い でめコ っ組 場染は 回政治経済研究所編『日本羊毛工業史』 ( 一九盛衰を決定する重要産業に押し上げた。銀を代 物せ 大しま 六 0 ・東洋経済新報社 ) ▽山根章弘著『羊毛価とする新大陸植民地への毛織物の輸出は、当 織ま とグ 毛縮 初スペインの毛織物工業の発展を促したが、一 文化物語』 ( 一九七九・講談社 ) だを 織る落ン いデるん物 けおりものこうぎよう毛織物を六世紀の南ネーデルラント ( フランドル、プラ 毛織物工業 で洗一織包織 亠鋏をカてで バント ) における薄手毛織物 ( ゥーステッド ) 生産する工業。製造工程、用途などについては け一曲はる 乍を土る紡か の生産の発展がスペインの毛織物工業を圧倒 , とあ「毛織物」の項で取り扱い、本項においては、 毛やけををに絨で し、スペインによるこの地方の武力的制圧は、 の脂か糸糸液絡程主としてこの工業の歴史について記述する。 ウてをで経ん。工 北ネーデルラントその他への織物業者の大量亡 〔ヨーロッパの毛織物工業〕毛織物は、ヨーロ 物ョるしき機にけるす ンす毛す梳毛機っせ出 ハ全域で、古くから家庭で部族長のためや自命とオランダの独立 ( 一六 0 九 ) を引き起こした。 独立後のオランダではライデンその他の諸都市 毛①剪」③⑤み家消費のために加工されていたが、その大半は 147
現代美術 てら 現代美術は , 一般には親しみにくいもの , 奇を衒ったものと思わ れがちであるが , けっしてそんなことはない。親しみにくいかど うかは単に慣れや美術教育の間題であることが多いし , 奇など衒 っているわけではなく , むしろ近代美術の流れのなかから必然的 に生まれたもので , 資な表現の結果なのである。 こではとく に一般の人々にあまりなしみのないと思われる日本の現代美術も 含めて , それらの作品をあげてみた。 『べンの店』は , いろいろな意味で現代美術の特性をよく表して いる。マレーピチ , クレー , デュシャンは , ヨーロッパの第二次 世界大戦前の美術のいくっかの傾向のうち , 抽象絵画 , 幻想絵画 , ダダを典型的に示すものである。 ポロック , ステラ , シーガルは , 戦後のアメリカの例 , コスス , ポイス , クーネリスはコンセプチュアル・アート ( 概念芸術 ) や ヨーロッパの戦後の代表例であり , 河原温は , アメリカとヨーロ ッパで活躍している日本の美術家である。 白髪一雄 , 村上三郎は 1950 年代の「具体」の「アクション」を もっともよく表し , 中西夏之は 50 ~ 60 年代にかけての日本の「反 芸術」を代表する。彼らの「行為」による美術は , 60 年代なかばのグ ループ「位」に受け継がれ , さらに 60 年代末から 70 年代初めにかけ て菅木志雄 , 関根伸夫を中心とする「もの派」のなかで , 別の形の 達成を迎える。他方 , 60 年代から一貫してきわめて特異な日本的 コンセプチュアル・アートを展開しているのが松澤宥である。 そして 1970 年代以降 , 堀浩哉 , 北辻良央 , 野村仁らを中心とす る次の世代が , 美術の根底をもう一度とらえ直すところから , 新 たな作品を実現しようとしている く構成千葉成夫〉 N S 月 ( 、一 MO 勉 DE L' 心一 QE EXPRESSION !BEN- 00 朝 TE DETOUT べン ( 本名べン・ポーチェ ) 「べンの店』 1958 ~ 73 年ミック スト・メディアによるインスタレーションバリポンヒ。ドー センター ( 国立近代美術館 ) ースを中心とする南フランスは美術が盛んで , 「モノクロミ スム」 ( イプ・クラインほか ) の一つの温床 , 「シュポールーシ ュルファス」 ( クロード・ビアラほか ) の中心地であり , そして さまざまな前衛的活動を生んだ所である。ペンはその中心人物 で , ネオ・ダダ的ないし環境芸術的な作品によって一貫してき 警句に彩られたこの「ペン ている。いろいろなことば , の店』は , 作品であると同時にペンの拠点であり , ペンの辞典 でもあるという意味で , ーっの集大成をなしている 417
ウェーバー「社会学」の方法的特徴が集大成さ策の必要性を訴えた。これが好評を得て、以後のうちに、昔の土地の支配と同じような圧迫的れんがためには、それを受け入れなくてはなら なかった。日本がその代表的例である。しかし れている。なお、第一部には、第二部で展開を毎年報告書が発表されることになった。一九五な貨幣と資本の支配が始まる。信用経済とは、 意図した諸問題を分析するうえに必要な概念装一年度から『年次経済報告』と表題が固定してその弊害を改め、一一つの以前の経済の長所すな第一次、第二次世界大戦を経てヨーロッパの地 わち連帯性と活動性を結び付けた新しい未来の位の低下とともに、このヨーロッパ中心の世界 置が配列され、第二部は、経済社会学 / 社会的現在に至っている。各種の白書中もっとも古い よの おおきた 史観は歴史学からなくなってしまった。 0 ・シ ならびに政治的共同体の社会学。人種、民族、ものであると同時に、大来佐武郎、後藤誉之生活秩序である。 すけ ) きさか ししどとしお ュペングラーの西洋没落論、 < ・トインビーの 後期歴史学派のシュモラーは、経済と政治の 国民 / 宗教社会学 / 法社会学 / 支配社会学 / 国助、向坂正男、宍戸寿雄、金森久雄、宮崎勇、 たけお 家社会学、などを内容とする。 〈村上義和〉高橋毅夫等々、有能な官庁エコノミストが編集密接な関係から、政治組織を中心として、家族歴史研究にみられるとおりである。したがって 十・・、いギ、。い 近代執筆にあたったことで、その水準が権威づけら経済、村落経済、都市経済、領邦経済、国民経経済発展段階説も理論的重要性を失い、その歴 経済ナショナリズム 済、世界経済とした。この段階説は、ドイツの史的役割を終えた。また、マルクス・レーニン ナショナリズムにおける経済的側面であり、自れている。しかし当初は、国民にわかりやすい 立的な国民経済の形成と発展を目的として、こ説明であったものが、日本経済の高度化ととも国民経済的統一の実現を求める彼の政策的立場主義の歴史家も、教条主義に凝り固まった者以 外は、史的唯物論の段階説の世界史的考え方を にのっとって構成されたものである。 に、しだいに高度な経済学用語を用いて難解に の目的を達成するための政策手段と制度の体系 カール・ビュッヒャーの封鎖的家内経済、都うのみにする公式主義をとらなくなった。 〈一杉哲也〉 のことをいう。そして、ここでいう国民経済のなってきている。↓白書 しかし、例外はある。アメリカの・・ロ 形成と発展の究極的目的は、国民経済的統合に回経済企画庁編『現代日本経済の展開ーー経済市経済、国民経済の段階説は、形のうえではシ ュモラーのそれに似ているが、まったく別なもストウは、経済成長の諸段階として、伝統的社 求められる。 企画庁三〇年史』 ( 一九七六・大蔵省印刷局 ) のである。彼は、財が生産者から消費者に到達会、離陸のための先行条件期、離陸期、成熟 一九世紀における経済ナショナリズムは、ま済発展段階説けいざいはってんだんかいせ wirt- する過程の長さを基準として、ヨーロッパ民族期、高度大衆消費時代をあげている。これは資 ず関税政策となって発現した。やがて関税政策っ theory of economic stages の全経済発展を三段階にしたのである。封鎖的本主義国はもちろんのこと、社会主義国、共産 は国内産業育成政策と結び付くことによって、 schaftliche Entwicklungsstufentheorie 書 家内経済では、財は生産される同一経済内で消主義国にも共通したものとみている。その離陸 ドイツ歴史学派の所説。先駆者フリードリヒ・ いわゆる幼稚産業保護論が出現することになっ た。すなわち、幼稚産業は保護関税によって国 リストは、諸民族の経済発展には未開状態、牧費される。これは古代ギリシア・ローマの貴族 ( ティク・オフ take 0 うの理論は経済成長万 しようえん 際競争から保護され、国内市場向けの生産を拡畜状態、農業状態、農工状態、農工商状態の五の領土、および中世の荘園の経済である。都能の一時期、しばらく注目をひいた。しかしこ 大し、それによって規模の経済を実現し生産コ 段階があるとし、それそれの段階においてとる市経済では、財は生産者より消費者に直接引きれはアメリカ的社会あるいは生活様式を最高と べき経済貿易政策は異なるとした。未開または渡される。これは中世封建時代に手工業者によみ、すべての遅れた経済が目ざすべきものとみ ストの低減を図って、国際競争力をつけるもの ってつくられた自由独立都市の経済である。市る、アメリカ中心の世界史観で、歴史学の現状 と考えられたわけである。今日に至るまで、先牧畜状態にある国民は、農業状態に発展するま 進工業諸国はほばこの発展路線に従って、関税では先進国との自由貿易が有利であるが、農業民社会の芽の時代のものである。国民経済でを無視したアナクロニズム史観というほかな 〈山田長夫〉 政策による工業化を基軸にして国民経済の形から農工あるいは農工商状態に進もうとする国は、財は一般的には企業的に生産され消費者に 民は、他に上位の段階にある国民が存在する限至るまでに数多くの経済を通過する。これは資・ビュッヒャー著、権田保之助訳『国民経 成・発展を推進してきた。 済の成立』 ( 一九四一一・栗田書店 ) ▽・・ロ 一方、今日の発展途上諸国は第二次世界大戦りは、保護貿易によらなくてはならない。重要本主義の経済である。ビュッヒャーはこの経済 ストウ著、本村健康他訳『経済成長の諸段 後、政治的には独立しえたものの、経済的独立なことは工業力を育成することで、幼稚産業を発展の重要な要素を工業とみて、工業組織発展 階』 ( 一九六一・ダイヤモンド社 ) 段階の主たるものを次のようにあげている。家 をかちとるまでには至らなかった。この経済的先進国との競争から守らなくてはならないから けいンごいひょ , っ tableau econonuque 内仕事、賃仕事、手工業、問屋制 ( 家内工業 ) 、経済表 独立という課題を達成するために、新たに工業である。当時、最後の段階にあったのはイギリ フランスの重農主義経済学者であり医者で 工場制工業の順序である。 スで、フランスがそれに接近していたが、アメ 化を中心とした国民経済の形成を目ざすことに もあった・ケネーが、人体の血液循環を模し ドイツ歴史学派の経済発展段階説はこのほか リカとドイツは農業状態から上位に移ろうとす なった。こうして、ここに南北問題が展開され にも数多くあるが、いすれも共通点として、ヨてつくった経済循環表。経済表には各種の版が ることになるが、南側の主張の理論的基礎となるところであった。リストは、スミス流の自由 ーロッパ中心の世界史的進歩のビジョンのもとあり、一七五八年に発表されたものを「原表」、 ったのはプレビッシュによる中心国ー周辺国理貿易ではイギリスの制覇にいつまでも甘んじる に構成されているのが特色である。リストの場 > ・・・ミラボーの『農業哲学』 ( 一七六三 ) ことになる、と説いた。現実の政策の必要から 論であって、周辺国たる発展途上国の工業化は に掲載されたものを「略表」、ケネーの論文 合、遅れているドイツを先進国イギリスに追い 国内努力によっては達成困難であり、先進国側つくった感があり、真に歴史的なものをみてい 付かせることが急務であるというもので、無条「経済表の分析」 ( 一七六六 ) が一七六七年にデュポ の協力を必要とするとしている。〈入江成雄〉るわけでないが、注目すべきことは、近代化 件に保護貿易を主張していたのではない。自国ン・ド・ヌムール編「フィジオクラシー』に再 経済白書けいざいはくしょ経済企画庁が毎工業化という経済発展の思想が強く出ているこ の工業が完全に発達してイギリスと並んだら自録された際に付加されたものを「範式」とい 年夏発表する、前年の日本経済の動向に関するとである。 リストの段階説を批判した・ヒルデ。フラン由貿易のほうが有利であると説いていた。一九う。それそれ基礎表と数種の応用表からなる。 分析と問題点指摘の報告書。一九四六年 ( 昭和 ケネーは経済表のなかで、フランスの階級構 一二 ) 八月に発足した経済安定本部 ( 経済企画トは、自然経済、貨幣経済、信用経済の三段階世紀後半ドイツの近代化がなりイギリスと並ぶ そ・つりよ ようになると、経済発展段階説は世界のどこに成を、地主階級 ( 僧侶、貴族、土地所有者 ) 、 庁の前身 ) が、翌年七月発表した『経済実相報説を唱えた。この説は、物々交換から貨幣の使 ひろお 生産階級 ( 借地農民 ) 、不生産階級 ( 商工業者 ) 告ーー経済緊急対策』に始まる。和田博雄長官用へといった単純なものではなく、自然経済でも通用する進歩の体系となった。ヨーロッパ つるしげと 、のもと、都留重人らが編集執筆をしたが、従来は、中世的・封建的な土地の支配する階級・職文化が人類発展の頂点にたっているとの自信がの三階級に分類した。地主階級は生産階級に土 地を貸して地代を受け取り、それで生産階級か そうさせたのである。事実このころヨーロッパ 六、の政策が「知らしむべからず、由らしむべし」業・技術の固定した時代をさし、貨幣経済は、 > であったのを排して、経済危機の実体を客観的貨幣の採用によってもたらされた流動的な活気は全世界を支配し、植民地にヨーロッパの生活ら食料を、不生産階級から工業生産物を購入す かっ率直に国民の前に明らかにし、経済緊急対あふれる現代資本主義社会をさした。しかしそ様式を強制した。非ヨーロッパ世界は滅亡を免る。生産階級は地主階級から土地を借りて地代 5 フラ
ロビー邸フランク・ロイド・ライト作 1909 ~ 10 年シカゴ 近代建築の巨匠 , ライト初期の「草原住宅」 の典型。西部大草原の広がりを感しさせる水 平線を強調したデサインは , 従来の箱型建築 を打ち破り , 内外空間の相互貫入を実現した。 また , 壁面をあたかも方向指示器のように用 いて流動的な空問をつくりだす手法は , デ・ スティルなどヨーロッパの近代建築運動に大 きな影響を与えた グッケンハイム美術館フランク・ロイド・ ライト作 1946 ~ 59 年ニューヨーク ライト後期の代表作。トップライトを頂く大 きな吹抜け空問を中心にして螺旋状の斜路が 巡り , 人はその斜路に沿って絵画を鑑賞する という独特な構成をもつ。しかも , それは直 接外部に表現され , 彫塑的な外観を形づくっ ている。斜路が絵画鑑賞に適さないという批 判はあるものの , その流動する内部空問は , 「空問としての建築」を目ざした近代建築の一 つの到達点であろう 448
こうしん 工 , みるカおらの , 台俗 ツはない娘だめ " 堀は屋風 ンにちてのい始」研 1 にを本 レ章につ家嫁 薬 9 末子絵 イ紋易ら同によ国幕辛 フの貿し , 世に両 家スあも 2 ク戸問うのた 紋チイを理 江年いど 政となて ノ字ネ のデス スアた 子寛た味し スメた ( ンがしう辛がし一 料イ豪しプラヌ行い唐門出十売 富な一フ一同と色衛 , 辛大を口代ー 一七右売色量来 れ②徳に七で往③ 香①の財ク近トり テゴリーで説明されている。 つばみ、葉茎、木皮、根塊などで、刺激性の香れ、ピラミッドを建てる奴隷たちの疲労回復、岸の都市国家、とくにベネチアは交易の仲介暴 政策的には、たとえばロンドン大都市圏にみ味を有し、飲食物に風味や着色を施し、食欲増食欲増進のためにガーリックやオニオンが与え利をむさばり大いに繁栄したのである。このイ るように、これまでの「ニュータウン」政策か進、消化吸収を助ける働きをもつものの総称。られたという。古代ギリシア・ローマ時代になスラム教徒国家の独占を切り崩す引き金となっ 日本では昔から薬味といわれていたが、最近でると、香辛料の薬としての効果が明らかにな ら、中心市街地域のインナーシテイ政策へと、 たのが、マルコ・ポーロの「東方見聞録』であ 重心が移行してきている。アメリカ東部のポスは英語名のスパイス spice が一般的で、香味り、多くの薬用香辛料のリストがまとめられ、 った。このなかには、ヨーロッパの人々のあこ がれの的であったコショウ、ナツメグ、シナモ トン、ニューヨークの既成市街地域でも、都市料ともよばれている。 植物学、薬学、医学も学問の形態を整えてき 〔歴史〕人類と香辛料の結び付きは、いまから 再活力化の政策だけではなく、郊外人口の中心 た。当時、インドのペバーなどは、金や銀と等ン、クロープの産地のことが詳述されており、 部への呼び戻し運動 Back ・ to-the ・ CitY Move ・およそ五万年も前の狩猟民族が、獲物の肉を香量で取引されるくらい高価なものであった。同冒険家たちは競って帆船による香辛料獲得のた せん ments が講じられている。日本でも、大阪市りの高い草の葉に包んでおいたところ、よいに じころ東洋では、草根、木皮を煎じて飲む湯液めの東洋探検に乗り出すようになった。まず、 をはじめとする関西都市圏とか東京都心外周区おいがっき、おいしく食べられることを知った医学が発達し、いわゆる漢方医学も誕生した。 ポルトガルのバルトロメオ・ディアスが、アフ のが始まりといわれている。 こうした香辛料の売買に介在していたのは、 が、大都市「衰退化」現象を経験している。↓ リカの南端喜望峰を発見 ( 一哭 0 、ついでスペ 〈奥田道大〉 インのクリストファー 都市問題 古代エジプト・バビロン時代になると、イン地理的にインドやインドネシアなどの主産地と ・コロン。フスが西に航海 ドやセイロン ( スリランカ ) からペバーやシナヨーロッパとの中間に位置していたイスラム教し、サン・サルバドル島に到着 ( 一四九一 D 、さら 回吉岡健次・崎山耕作編『大都市の衰退と再 生』 ( 一久一・東京大学出版会 ) モンがエジプトに伝えられ、薬や香料として使徒国家である。片道に二年もかかる香辛料貿易にアメリカ大陸を発見した。この発見によっ ノナモン、クミン、カシア の中間搾取により、幾世紀にもわたって巨大なて、オールスパイス、レッドベパー、ヾ ノニラと 香辛料らしんりよう主として熱帯、亜熱われ始めた。また、。 帯、温帯地方に産する植物の種子、果実、花、などがミイラをつくるときの防腐剤として使わ利益を得ていた。また、ヨーロッパの地中海沿 いった新しい香辛料が、ココア、タバコととも とン一入 乾カカス たイヤに ま強 くフ 皮もめはジ袋レ熱 ラ 始るンン麻 ト多風 の香れすタジが一る どア 枝でる枯穀ス , ス なシ マネ 側厚すが脱キクイベ燥 や肉燥ンてバッパ 一乾 ロンろ くにクた ) メのチ陰 ア粗ずはた、一 ン。と トるた シりせ穫でスタ多 カよさ収棒 一れと が発し 0 宝一 るは燥人のバる燥 皮、乾商スペい乾燥理カ売ラ て樹でスイクての乾 ンてト 皮しだ穀日イ れ一日る一キ台ス 似い脱天バスラさバ天すレチ屋レ の類剥の。スにプりべのカ , が にでンうのも , 売 のタ理ド シンフミ行頭とン 一 0 台オ料一 カモイクに街とミ量チパ .3 ③ナナ④き⑤ドクり⑥ペ燥⑦リレト 物こし 752