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検索対象: 日本大百科全書 8
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1. 日本大百科全書 8

品 ) という中国風の白粉が国産されるようになったが、おして爪に紅を塗ることが高貴の女性の間で行われるようになっ ろいを顔ばかりでなく胸にまで塗る中国風の化粧法は、つい た。高貴の女性の間では昔ながらの厚化粧であったが、江戸 いえみつ に江戸時代まで行われなかった。平安時代から眉毛を抜い 時代に入って三代将軍家光のころから、遊女たちの間では厚 て、そのあとに眉墨 ( 当時これをこねずみといった ) で化粧化粧は卑しいものとされ、薄化粧が流行を始めた。これが一 することが始まった。こねずみは、油煙の中に、ツュクサの般の女性の間にも行われ、女の身だしなみとして、耳の下、 花を黒焼きしたものと、金粉とごま油を混ぜて練り上げたものど、胸まで残らす塗るようになった。 のである。当時は、三日月のように、ほのかに見える細い眉 このころになると、頭上に髷を置く結髪の風習が行われた くちびる 主として顔に紅をつけたり、おしろいをつけて装い、自分を好んだ。紅は頬ばかりでなく、唇にもつけるようになっ ために、髪形も複雑化した。それにつれて額のつくり方も、 おおびたい かとうぐち および他人に美しく見せることをいう。人類の誕生以来のも た。お歯黒はしだいに儀式化する傾向が現れ、またおしろい 生え際を剃るばかりでなく、大額、小額、火塔ロ、すりあ ので、現在では身だしなみとして欠くことのできないものと は男性の間にも薄くつけることが行われ始めた。これがまた げなどができた。火塔ロは瓦燈ロとも書き、後の富士額のこ うぐいすまゆ される。つまり化粧は、末開社会から始まって文明社会に及公家社会の特色でもあった。 とである。眉は太いのは卑しいものとされて、鶯眉のよう げんろく ぶものであり、同時に世界共通の事象であり、身分の上下の 鎌倉時代の武家社会は、質実剛健を尊び、簡素な姿を旨と よ細いものが喜ばれ、子供にはきしたて眉が喜ばれた。元禄 せいたい ない普遍的な事柄でもある。ことに晴の儀式や祭礼、耕作な したが、やがて公家風をまねるようになり、これとは反対に時代 ( 一六分 ~ 一七 0 四 ) には、お歯黒と青黛 ( 眉墨 ) は、女の元 どの年中行事のおりには、ひときわあでやかな化粧をして、 公家が武家風を取り入れることもあって、南北朝時代には、 服や婚礼との結び付きで通過儀礼の一つとなった。そればか 神の心を和らげ、豊年を祈念する風習は、宮中の盛儀や民間 京と鎌倉の風俗が混合した。武士が威厳を表すために、ひげ りでなく、太平の世が続き、生活にゆとりのできた町人たち かたわづら の行事として根強く存在している。 をたくわえることがはやり、ひげをたくわえない者を片輪面の間では物見遊山が盛んとなり、このための化粧にかける時 かぶき 〔日本〕〔古代から江戸時代〕石器時代の土偶をはじめとし といって卑しんだところから「かきひげ」や「かけひげ」を 間も多くなり、業界では自家製品を広めるために歌舞伎役者 ↓・冖」、わ て、古墳時代の人物埴輪では、左右の頬に朱を塗っている。する者もあった。公家はつねに決まりのなかに生活していたの口上、おひろめなどを利用した。 ゅうそく ぎしわじんでん かみがた 三世紀に書かれた中国の史書『三国志』の「魏志倭人伝」のところから有職というしきたりが生まれ、それをつかさどる 江戸後期には、江戸と上方では化粧面でも大きな差が生ま なかに、日本人がこのようなことをするのは中国の化粧のよ家柄さえあった。 れ、上方の厚化粧、江戸の薄化粧といわれ、ひいては、ほん うみ うであると記し、『日本書紀』の神話伝説のなかでは、海 公家勢力の衰退後、武家が国家の支配権を握ったが、公家のりと薫る白梅を江戸化粧、あでやかに飾る化粧を上方の化 ひこやまひこ に倣い武家の間にも一つの作法ができた。これを故実とい 彦・山彦の話にもあるように、顔に朱をつけるのは服従の意 粧とした。歌舞伎役者の間から、鼻を高く見せる鼻化粧が行 おがさわら 味を表すものとしている。歯を黒くするお歯黒の風習も、早 い、今川、伊勢、小笠原などの流派ができた。つまり武道にわれて、町人の間にも取り入れられた。口紅は、下唇に濃く あすか さキ」いろ くから行われていた。飛鳥・奈良時代以降、中国の模倣が急おける決まりが武家生活のなかにまで行われるようになつ重ね塗りをして玉虫色に光らせたのを笹色紅といったが、安 速に広まり、とくに平安時代初期には、天皇も詔勅を出し た。お歯黒の風習は室町時代になると九歳のときの儀礼の一価に行うには、唇の下地に墨を塗ってその上に紅をつけた。 まゆずみ て、あらゆる文化は中国に倣えというほどであった。眉墨をつとなった。一方、眉作りは武家から民間へも移り、おしろ洗顔にウグイスの糞を混ぜて用いることも、このころから始 じつけんふう 引くということも盛んに行われ、中国には十眉風というさま いを濃く塗ることが行われ、鼻を高くみせる鼻おしろいをすまった化粧法である。化粧下として「江戸の水」「京の水」 ざまの眉引が行われていたが、わが国でもいろいろの眉引がるのは醜いものとされていた。 「花の露」が用いられ、ヘチマの水も広く愛用された。女の さく干・ あずき ようがんびえんこう 行われた。おしろい、紅、澡豆 ( 粉末状にした小豆 ) という 桃山時代の終わりごろより、額つまり生え際を剃ることが身だしなみの本として『都風俗化粧伝』とか『容顔美艶考』 〈遠藤武〉 洗い粉がもたらされ、おしろいをつけた上から紅を塗る紅行われ、おしろいは中国における製法に倣って、銭屋宗安のという冊子も刊行された。 しよう 粧ということもあった。 銭屋おしろい、大坂・堺の薬種屋小西清兵衛発案の小西おし〔明治以降〕明治時代前期では、江戸時代の化粧をそのまま そればかりかハフニ ( 鉛製品 ) あるいはハラヤ ( 水銀製ろいが売り出された。紅は頬、唇ばかりでなく、爪紅といっ 受け継いだといってよい。一 八三年 ( 明治一六 ) 上流社会 シュタルト心理学がアメリカの風土に定着した Solomon Eliot Asch ( 一九 0 七ー ) 、ハイダー 後にかけての日本の心理学界はゲシュタルト、い た者は死刑に処せられるべきであるという思想 8 ろうやざんしゅ ことを示している。ことに社会心理学の領域で Fritz Heider ( 天九六ー ) 、フェスティンガ理学プームの時代で、いまもその影響が残ってから、牢屋で斬首される死刑の一種を示すのに はレビンの「場の理論」およびその人柄の与え しる。↓心理学 リピット Ronald Otis Lippitt ( 一九一四ー 〈宇津木保〉用いられた。死罪も同じく牢屋で斬首する刑 た影響が大きかった。レビンの周囲にはドイ ) 、カートライト Dorwin Philip Cartwright 回ケーラー著、佐久間鼎訳『ゲシュタルト心理で、利欲にかかわる殺人に科せられ、下手人は けんか ッ時代からゼイガルニーク B. V. Zeigarnik ) など多くの心理学者がレビンの影 学』 ( 一九穴・内田老鶴圃 ) 利欲にかかわらない喧嘩口論などによる殺人に ためしぎり ( 一九 00 ー ) のような若い研究者が集まってい 響を受けた。 げしゅにん江戸時代の死刑の一種。科せられた。死罪に比べ、下手人には様斬や 下手人 たが、アメリカでも彼を中、いに「アイオワ・ト 日本は早くからゲシュタルト心理学の強い影もともとは手を下して人を殺した者という意味家・屋敷などの没収はなかった。↓斬刑↓死 〈石井良助〉 ポロジー・グループ」が形成され、アッシュ響を受け、昭和初期から第二次世界大戦中や戦であるが、江戸幕府法上、手を下して人を殺し罪 化粧 、け・ーしょ , っ 〔日本〕古代から江戸時代 / 明治以降 〔西洋〕古代 / 中世 / 一八世紀 / 一九世紀以降 〔世界の習俗〕 〔民俗〕 はお おしろい つまべに ふん

2. 日本大百科全書 8

塵も積もれは山となる 古代の学問は主として知識の有無にかかわっていた。種々の事を記應し、知っていることが、なによりも大切 せきがく であった。碩学といわれた人々はすべて豊富な知識の持ち主であった。平安時代の公家の目は、もつばら中国の 古典に向けられていたから、中国の典籍を擁し、これを読破することが、不可欠の業であった。 武家が台頭し、新仏教が興った鎌倉時代に入ると、中国への知識欲はもちろん根強く存したが、それはかりで ちりくろ なく、仏教や自国の歴史・文学・思想・風俗など多方面の知識が要求されるようになった。中期の『塵袋』一 巻は和漢の故事、事物の起源などを六二〇項にわたって説いた類書で、百科全書の始めであるといってもよい あいのうしよう これを承けて約一六〇年後の室町中期には『墸嚢鈔』 ( 墸はちり、嚢はふくろ ) 七巻がつくられている。これに前 じんてん の『塵袋』の三分の一を添えた『塵添墸嚢鈔』が末期に編成されて、江戸時代以後も愛用されたらしい じん力い ところで、中世以降、このように書名に「塵」を付けたものが多いことは注目に値する。室町時代には、『塵芥』 しんけい ( 字書 ) 、『塵芥記』 ( 日記 ) 、『塵芥集』 ( 法制 ) 、『拾塵集』 ( 歌集 ) 、『塵塚物語』 ( 説話 ) 等々の書がある。『塵荊 しよう 鈔』は、『墸嚢鈔』などの影響を受けながら、比叡山の稚児一一人が問答するという形で、仏教諸宗をはしめ、歴代 しんてきもんどう 引いに答えて、歴史・ の天皇・将軍・文学・遊芸その他を記した一一巻の大冊であり、『塵滴問答』も僧が商人のド 社寺・文芸などについて語ったもので、ともに当時の要請に応じた百科的な読み物であった。こういう書名は、 塵埃のようなつまらぬものという、編著者の謙遜や卑下の心から付けられたのであろうが、「塵も積もれは山とな ことわざ る」という諺とも関連し、どんなものでも集積しておけは、 かならず何かの折に役にたっ、という気持ちがあっ そうせい たに相違なし辛丿 : 川日幽斎は門人の烏丸光広に、「学問は乞食袋のやうなるよきと、宗砌やらんが書きたるものにあ り。何をも取り入れて、さて選るなり」と話している。これは連歌論書『初心求詠集』の「物乞の時は何をも嫌 はすして、人の与ふるに從って、何にても一つ袋に取り納めて、我が家に帰りて、用に從ひて択り分けて受用す。 どんよく 歌道の学文これに同じかるべし」によったのであろうが、どんな知識でも貪欲に取り込んで、随時活用しようと した文学者の心構えが示されており、それゆえに百科全書的な類書も必要とされたのであろう。 江戸時代には『和漢三才図会』など一〇〇巻に及ぶ分類百科全書が出現し、近代に入るわけであるが、同書は 書名の示すとおり、挿図が多数入っていて、今日のそれの先駆というべきであった。 今日では世界も広がり、必要な知識の範囲も量も昔日の比ではない。万般にわたるおびただしい知識や情報を 網羅し整理し、的確簡明に示した百科全書が現在はど求められていることはない。だが、それをいかに活かして 用いるかは、読者の知恵にかかっていることも忘れてはなるまい ( 前古貞次 )

3. 日本大百科全書 8

けい ( ご ) ーいただく」「ーていただく」の形で、補けいさい△ 〔荊妻〕妻の意。 げております」のように、知る対象に敬意を表ほうおく△〔茅屋〕家の意。「過日はわざわ 助動詞としても用いられる。「ーていただく」 ごー〔御ー〕 ( 接頭語 ) ①敬うべき人に及ぶしていうのに用いられる。 ざ茅屋までお越しいただき恐縮に存じました」 を用いた「ー ( さ ) せていただく」は、とくに 自分側の事物を表す漢語に付く。②「ごーすたてまつる〔奉る〕与える意。動詞連用形ほうてい△〔奉呈〕与えることの意。 へりくだった言い方として用いられる。「お手る」「ごーいたす」「ごー申し上げる」などの形 に付き、補助動詞としても用いられる。ただまいる〔参る〕行く・来る意。「ーて参る」 紙をいただきました」「ぜひご出席いただきたで、敬うべき人に及ぶ自分側の動作を表す漢語し、現在はほとんど使用されない語である。 の形で、補助動詞としても用いられる。「夏に ぶさた いと存じます」「司会をさせていただきます」 に付く。「ご無沙汰をいたしました」「ご説明申「お神酒を奉る」「ご清祥の御事と存じ奉りま は北海道へ参ります」「長年日記をつけて参り ②飲み、食う意。ただし、とくに女性語におい 1 しし亠、けオ 6 ー ) よ , つ」 き 61 し」」 て美化語化の傾向が認められる。「お菓子をおこちら〔此方〕自分。また、自分を含めた自ちょうだいする〔頂戴する〕もらう意 、。こも一つしあげる〔申し上げる〕言う意。「お いし / 、いたお」キ、まーした」 分側の者をさしていう。「おかげでこちらも一兀だし、単に「ちょうだい」あるいは「ーてちょ ( ご ) ー申し上げる」の形で、補助動詞として うかがう〔伺う〕聞く・尋ねる・訪問する気に過ごしております」 うだい」の形で用いられると、「 ( て ) くれ」のも用いられる。「臨時ニュースを申し上げます」 意。「先生のお話を伺いました」「ちょっと伺い さしあげる〔差し上げる〕与える意。「ーて意の親愛語となる。「お手紙をちょうだいしま 「私からご報告申し上げます」 ますが、郵便局はどちらでしよう力」日 ゝ「月日おさしあげる」の形で、補助動詞としても用いら した」「おばさん、これちょうだい」 も一つし一つける〔申し受ける〕引き受ける意。 宅に伺います」 れる。「あげる」より敬意が高い。「プレゼント ていじよう△〔呈上〕与えることの意。 「洋服の修繕申し受けます」 うけたまわる〔承る〕聞く・承諾する意。をさしあげます」「道を教えてさしあげなさい」 ーども〔ー共〕 ( 接尾語 ) 自分または自分側もうしでる〔申し出る〕意見・要求などを 「先生のお話を承りました」「よろしくお願いしさんじよう〔参上〕人のもとに行くことの の者を表す体言に付き、複数を表す。「私ども いって出る意。 承りました」 意。「明日、お宅に参上いたします」 はこのたび結婚いたしました」 もうす〔申す〕言う意。「お ( ご ) ー申す」 〔小生〕自分をさしていう。男はい おー〔御ー〕 ( 接頭語 ) ①敬うべき人に及ぶしようせい 〔拝ー〕 ( 接頭語 ) 自分側の動作を表の形で、補助動詞としても用いられる。「主人 自分側の事物を表す体言に付く。②「おーす性が用いる。 す漢語に付く。 がそのように申しております」「改めてお尋ね る」「おーいたす」「おー申し上げる」などの形しんじよう△〔進上〕与えることの意。 申したく存じます」 ーいカん△〔拝顔〕会うことの意。 で、敬うべき人に及ぶ自分側の動作を表す動詞 しんて い△〔進呈〕与えることの意。「粗品 はいけん「拝見〕見ることの意。「お庭を拝ろうおく△〔陋屋〕家の意。 の連用形に付く。③自分の心情を表す形容詞に を進呈いたします」 見しました」 ろうたく△〔陋宅〕家の意。 付く。「お返事をさしあげます」「お幸せをお祈すんし△〔寸志〕志・贈り物の意。のし紙に はいさっ△〔拝察〕推察することの意。「ごわたくし〔私〕自分をさしていう。敬意が 書くことも多い りいたします」「お懐かしゅうごギ、います」 多忙の御事と拝察いたします」 右回い。「、わ物ケーし、がい←ーしュまーしょ , つ」 おじゃま〔御邪魔〕妨げること、訪問するすんしょ△〔寸書〕手紙の意。 はいじ△〔拝辞〕去ること、辞退することのわたし〔私〕自分をさしていう。「わたくし」 あいさっ ことの意。「お邪魔さま」の形で、挨拶ことばせつー 〔拙ー〕 ( 接頭語 ) 自分側の人物や事意。 より敬意が低い。「わたしはこの歌が好きです」 として用いられることもある。「お邪魔をして物を表す漢語に付く。 はいしやく〔拝借〕借りることの意。「お道 美化語 申しわけございません」「お宅にお邪魔いたし 具を拝借いたします」 せつえい△〔拙詠〕詩歌の意。 ます」 せつこう△〔拙稿〕原稿の意。「拙稿をご覧はいじゅ△〔拝受〕受けることの意。 あちら〔彼方〕あっちの意。方向・場所・物 おみそれ〔御見逸れ〕だれであるか思い付 いただきたく同封いたします」 はいすう△〔拝趨〕人のもとに行くことのをさしていう。「あちらのほうが上等でござい あいさっ かないことの意。謝っていう場合に用いられせっさく△〔拙作〕作品の意。 意。「拝趨のうえ、ご挨拶申し上ぐべきところ、 ます」「受付はあちらです」 そうりよ る。「お見それをして、失礼いたしました」 せっそう△〔拙僧〕僧侶が自分をさしていう。 しカカ〔如何〕どのように、どうの意。「い おめにかかる〔御目に掛かる〕会う意。「一 せっちょ△〔拙著〕著書の意。 はいする△〔拝する〕受ける・見る意。「仰かがお過ごしですか」「お一ついかがですか」 度お目にかかりたく存じます」 せつぶん△〔拙文〕文章の意。 せを拝する」「お元気なご様子を拝し、うれし いかほと〔如何程〕どれほど、どのくらい おめにかける〔御目に掛ける〕見せる意。せつろん△〔拙論〕議論・論理の意。 く存じました」 の意。商品の値段を尋ねる際に用いられる。 「私の絵をお目にかけましよう」 せんけん△〔浅見〕見識の意。 はいちょう〔拝聴〕聴くことの意。「ご講演「おいくら」に同じ。「 いかほどですか」 おめもじ〔御目文字〕会うことの意。女性そー〔粗ー〕 ( 接頭語 ) 自分側の贈り物を表を拝聴させていただきました」 いたす〔致す〕する意。 . 「秋の気配がいたし 五ロ。「 4 わ。め 7 もドし。か、刀オし ゝよ、、うれしく存じます」 す体言に付く。 はいび△「拝眉〕会うことの意。「拝眉のう ます」 え、委細申し上げます」 おる〔居る〕いる意。「ーておる」の形で、そか〔粗菓〕菓子の意。 おー〔御ー〕 ( 接頭語 ) 体言や形容詞に付く 補助動詞としても用いられる。「私どもには子そさん△〔粗餐〕食事の意。「粗餐をさしあげびい△〔微意〕意志の意。 「おねぎを買って来てね」「毎日、お暑いですね」 供が二人おります」「どういうものか、うちのたいと存じます」 ひけん△〔卑見〕意見の意。 おかね〔御金〕金銭の意。「この苦労はとて 子は遊んでばかりおります」 もお金にはかえられない」 そしな〔粗品〕品物の意。のし紙に書くことびちゅう△〔微衷〕本心・真心の意。 おんー〔御ー〕 ( 接頭語 ) 敬うべき人に及ぶも多い 、かしょ一つ△〔不肖〕自分をさしていう。 おかん〔御燗〕燗の意。「一本、お燗をつけ 自分側の事物を表す体言に付く。「 厚く御礼申そしゅ△〔粗酒〕酒の意。 て下さい」 かねい△〔不佞〕自分をさしていう。 し上げます」 そちゃ〔粗茶〕茶の意。「粗茶でございます」 〔弊ー〕 ( 接頭語 ) 自分側の事物を表おさき〔御先〕先の意。「お先に失礼します」 オ , ~ 渓に付ノ、。 「どうそお先にいらして下さい」 かんけん△〔管見〕知識・意見の意。「管見そはん△〔粗飯〕食事の意。 によれば、次のとおりである」 そひん△〔粗品〕品物の意。 へいおく△〔弊屋〕家の意。 おさっ〔御札〕紙幣の意。「新しいお札にか えて下さい」 ー△〔愚ー〕 ( 接頭語 ) 自分側の人物や事物ぞんずる〔存ずる〕思う・知る意。「うれしへいしゃ△〔弊社〕会社の意。「弊社あてお を表す漢語に付く。「愚妻」「愚弟」「愚息」「愚く存じます」「詳しいこは存じません」なお、送り下さい」 おさと〔御里〕郷里・実家の意。「彼女のお 考」など。 里は、どこかし、ら」 「存じ上げる」は「その方のことはよく存じ上へいてん△〔弊店〕店の意。 みき

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しようにつねすけおおともよりやす , フ数々の剣術修行の眼目を指摘し、一般の通説のなどは、平均寿命 ( 零歳の平均余命 ) や死亡率な展開された。日本軍は少弐経資、大友頼泰の指 うに東路車が九州本土への上陸拠点とした志賀川 ごびゅう かげすけ 誤謬を正している。 〈渡辺一郎〉 どによって推測されることが多い。これらの統揮のもとに、経資の弟景資が前線の指揮をとり島も、日本軍の猛攻にあい上陸侵攻を阻まれ、 3 いしびや 回『日本武道大系第一巻』 ( 一九全・同朋舎出計によれば、世界的にみても、日本だけに限っ応戦したが、石火矢を使う蒙古の集団戦法に大壱岐から肥前の鷹島へと退いた。一方、江南軍 てみても、年々、平均寿命の伸び、死亡率の低 いに苦戦した。最終的な勝敗が決せぬまま、同は主将の更迭などで発船が遅れ、六月一八日に ナ . 版 ) ニンボー ひらど けんこう個人においては、日常生活下が認められ、健康状態はよくなっているとい 夜、蒙古軍は撤退を開始したが、さいわいにも慶元 ( 寧波 ) を出発。平戸島付近で東路軍と合 健康 を送るために必要な最低限度の身体と精神の両えるが、集団の健康をとらえる場合の決定的な いわゆる「神風」なる大暴風雨が吹き荒れ、蒙流し、一挙に博多湾に押し入るべく、七月二七 面の条件が十分に満たされている状態をさす概指標は、まだみいだされていないのが現状であ古の兵船は壊滅的打撃を受けた。未帰還者一万日鷹島に移動した。これを探知した日本軍は、 念である。身体面においては、重い疾病にかかる。↓健康管理↓健康教育↓病気〈小野三嗣〉三五〇〇余人といわれている。 大挙して鷹島の敵船に猛攻を開始した。ところ っている場合は明らかに健康とはいえないし、 〔防備体制の強化〕日本遠征の失敗のあと、フが七月三〇日夜から暴風が吹き荒れ、翌閏七月 元寇げんこう鎌倉時代のなかば、一二七 日常生活において、疾病の治療等のためになん四年 ( 文永一一 ) と八一年 ( 弘安四 ) の二回に ビライは、高麗の再征中止の勧めにもかかわら一日、蒙古軍ははば壊滅した。主将范文虎は士 も、つ - 」 ぶんえい らかの配慮が必要の場合は健康とはいいがたわたり行われた蒙古 ( 元 ) の日本侵略。文永のず、南宋への最終的攻撃を進めるとともに、日卒一〇余万を捨てて帰還し、残された士卒らは こうあん 。しかし反面、明らかに疾患があっても、生役・弘安の役、蒙古襲来ともいし 、当時は蒙古本再征の準備を整えていった。一二七五年 ( 建日本軍によりことごとく殺害、捕虜とされたと とせいちゅう かぶんちょ 活を変えなければならない状態でなければ健康合戦、異国合戦と称し、元寇の語は近世以後定治一 ) 四月、蒙古使者杜世忠・何文著が長門 いう。元軍の帰らざる者は約一〇万、高麗軍の むろっ たつのくち といえるし、身体に障害がある場合でも、直常着した。 室津に到着。使者一行は鎌倉へ送られ竜口にて帰らざる者七〇〇〇余人と高麗の記録は伝えて ・つら ざんしゅ 性の維持がその状態で保たれていれば健康とい 〔交渉の経過〕一三世紀中期、朝鮮半島の高麗斬首された。一二七九年 ( 弘安一 l) 六月にも、 える。精神面においても、身体面と同様に、日を服属させた蒙古のフビライ・ハンは、日本に 再度蒙古よりの使節一行が博多に到着したが、 〔戦後の状況〕フビライは以後も日本遠征を断 常生活を送るうえで特別な配慮を必要とする場対しても朝貢させ国交を結ばうとして、高麗を今回は鎌倉に上らすこともなく博多において斬念せず準備を進めた。中国南方やベトナムの反 合は健康であるとはいえない ーし・かーし、個・人、が 仲介とし日本に使者を派遣した。これは、蒙古らせるなど、幕府は厳しい態度を示した。同乱があったにもかかわらす、出兵計画を具体化 なんそう ある社会において社会生活を営むうえで、そのが最大の目標とした南宋攻略の一環であったと年、蒙古は南宋を完全に滅ばし中国全土の支配 していったが、一二九四年 ( 永仁一 l) 彼の死と ともにその計画は立ち消えとなり、フビライの 社会にうまく適応していける場合は健康といえ考えられるが、そのはか、一二二七年 ( 安貞者となり、日本再征は日程の問題となった。一 るわけである。 一 ) と六三年 ( 弘長三 ) に、日本の武士の来寇方、日本では、文永の役が終わると、幕府は同後を継いだ成宗が、一二九九年 ( 正安一 ) 禅僧 いっさんいちねい 一九四八年、世界保健機関 ( 0 ) で、 禁止を求める高麗の使者が来日したことがあ役の論功行賞を行い、 蒙古の再襲に備えて防備一山一寧を日本へ派遣して交渉を試みたのを最 いこくけい′」ばんやく 「健康とは、肉体的、精神的、そして社会的に り、そのことなどもフビライの日本への使者派体制 ( 異国警固番役 ) を強化した。博多湾沿岸後に、元は日本との交渉を完全に断念した。一 完全に良好な状態であり、単に疾病や虚弱さが遣の理由の一つといわれている。一一一六六年の防備は、九州内各国がそれそれ分担して順次方日本では、異国警固番役は依然継続され、漸 こくてき いん、」う そうくん かわさわさねまさ しかん ないというだけではない」と定義されている。 ( 文永三 ) 、蒙古使者黒的・殷弘、高麗使者宋君番役を勤めるという制規が定められ、金沢実政次弛緩してはいったものの、防備体制は幕府倒 きよさいとう ひきんさん 》かっレっ 肉体、精神、社会という三要素を、それそれ個斐・金賛らがともに巨済島まで至るが、風濤のが防衛の指揮をとるため幕府より差し遣わされ壊までともかくも維持された。九州の御家人た 別に切り離して論ずることは事実上困難なこと険阻を理由に引き揚げたのを第一回とし、七一一一た。また長門の警備も強化され、これには長ちは、蒙古襲来以前は、訴訟のとき鎌倉や京都 ちょうりようひっ すおうあき びんご ろくはら ではあるが、肉体、精神、社会というそれそれ年趙良弼の再度の来日に至るまで、前後六回 門、周防、安芸 ( のち備後も加わる ) の勢をも六波羅に参訴していたが、訴訟のため所領を離 の面から健康状態を論議する場合には、世界保 にわたる使者が派遣された。一二六八年の第二 って防衛すべき旨が定められた。また積極的にれて番役をおろそかにすることを案じた幕府 は、九州独自の裁判機関を設けた。一二八四年 健機関の定義にも認められるように、けっして回には、高麗使潘阜一行が蒙古の国書をもたら 日本から元の遠征基地である高麗へ征戦する せいばっ ちんぜい 消極的ではなく、積極的な考え方でとらえられしたが、日本はこれを侵略の先触れとして受け「異国征伐」も企てられ、そのための船舶、水 ( 弘安七 ) の特殊合議制訴訟機関、八六年鎮西 きとう だんしょ なければならない。したがって、病気ではない 取り、異国降伏の祈疇を寺社に命ずる一方、西主などの動員も行われたが、実現には至らなか談議所を経て、いわゆる鎮西探題が成立した。 ことがすなわち健康であるという考え方は否定国とくに九州の防備体制を固めるなど、国内は った。一二七六年 ( 建治一 l) 三月よりは、博多また蒙古襲来を機に、九州各国守護職の北条氏 にわかに緊張に包まれた。 される。さらに、肉体的に異常があったとして 湾沿岸の香椎から今津に至る二〇キ。の地帯に石一 門への集中化が図られ、その九州支配は強化 ぼうるい も、それを克服していこうとする前向きの心構〔文永の役〕一二七四年 ( 文永一一 ) 一〇月一一一築地 ( 元寇防塁 ) を築くことなども始められされた。また異国警固番役の勤仕を通じて、庶 しそうりよ・つ えがあれば、精神の健康は保たれるといえるわ日、蒙古・高麗の兵約二万八〇〇〇よりなる征た。これは御家人だけでなく、所領の広さに応子が惣領の統制を離れて別個に番役を勤仕す きんと こうちやきゅう しようえん がつほ けである。 日本軍は、忻都、洪茶丘らに率いられて合浦 じて一般荘園公領にも賦課されたものである。 る傾向が強くなり、庶子の独立化が進んだ。こ ばき、ん っしま きんほう 〔弘安の役〕元の第二回の日本遠征軍は、金方れは、幕府の存立基盤である惣領制の解体を促 日本国憲法においても、第二五条で、「健康 ( 慶尚南道馬山 ) を出発。一〇月五日、対馬に しゅごだい そうすけくこ で文化的な最低限度の生活を営む権利」がうた上陸。このとき、対馬守護代の宗助国以下が防慶、忻都、洪茶丘の率いる蒙・漢・麗合同軍四進する一因となった。戦後の恩賞配分も十分で はんぶんこ われており、これに沿って、健康維持のために戦のすえ戦死した。一〇月一四日、壱岐が襲わ万の東路軍と、范文虎の率いる旧南宋軍一〇万なく参戦者の要求を満たすことができす、加え ・かげ一・か 最低限必要な生活水準を保とうとする社会福祉れ、守護代平景隆以下が戦死。対馬・壱岐一一島の江南軍とからなっていた。一一一八一年 ( 弘安て、継続的な防衛のための経済的諸負担は御家 制度も整備されつつあるが、十分とはいいきれの百姓らは、男はあるいは殺されあるいは捕ら四 ) 五月三日、東路軍は合浦を出発。対馬・壱人の窮乏に拍車をかける結果となった。九州の じゅず ないのが現状である。健康に関しての国民の関えられ、女は一か所に集められ、数珠つなぎに岐を経て、一部は長門を侵攻。主力は六月六御家人たちを異国警固に専心させる目的で設置 げんそく しかのしま 心は高く、国民所得中に占める医療費の割合して舷側に結び付けられるなどの残虐な行為を日、志賀島 ( 福岡市 ) に来襲し、同海上およびされた鎮西探題は、北条氏の専制的九州支配の はかた すえなが は、一九八三年度 ( 昭和五八 ) で六・五九 % で受けたという。一〇月二〇日、元軍は、博多湾陸上の一部で交戦。肥後の竹崎季長、伊予の河機関としての性質をあらわにして、九州御家人 いまづももじばる そはらとり みちあり あり、一九六〇年度の三・〇九 % と比べると一一西部の今津ー百道原などに上陸し、麁原、鳥野通有らが小舟に乗り、元の大船に切り込みをたちの支持を失い、鎌倉北条氏と運命をともに かけ武名をあげたのもこのときである。このよ 男府、赤坂 ( いずれも福岡市内 ) と激戦が 倍強となっている。また、国民全体の健康状態飼、リ して、一三三三年 ( 元弘三・正慶二 ) 五月、滅 か はんぶ たかしま うるう し

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ともに憲法に適合しないとして廃止され、かわからその料金の返戻を受ける現金給付とがあし、そこでの医療保険部門からの給付を受け府県単位で同業同種の健保適用事業所が集まっ って制定された現在の皇室典範 ( 昭和一三年法る。前者はドイツを中心に発展したのでドイツる。↓国民健康保険↓船員保険↓共済組合 て設立できる総合健保組合がある。政府管掌の 3 律三号 ) は元号に言及していないので、戦後長式とよび、後者はフランスにみられるのでフラ 〔保険給付〕健康保険では、職場での賃金に基健康保険と異なるところは、政府が定めている ん し間元号は法的根拠をもたない慣習上のものに ンス式とよぶ。とくにこの現金給付は医療費償づく標準報酬制による保険料を加入者と事業主法定給付を上回る付加給付を行うことができる すぎなかった。しかし、日本に伝統的に用いら還制度とよぶこともあるし、日本では療養費払 が折半 ( 労使折半という ) して納付し、傷病の点にある。通常は、家族が受診したときの療養 れてきた元号を法律上認知し、それに正式の位 いともよんでいる。しかし、現状では、現物給際に定められた給付 ( 法定給付 ) を受ける。なの給付で、政府管掌健保では法定給付として入 置づけを与えよとの声が高まり、一九七九年に 付の形をとっている国が多いが、民間健保の場お、政府管掌健保では賞与から特別保険料を徴院八割給付・外来七割給付となっていて、必要 元号法 ( 昭和五四年法律四三号 ) が制定され合には主として現金給付となっている。現物給収している。 とした診療料金の二割ないし三割を医療機関に 患者負担Ⅱ自己負担として支払う。健保組合は た。これは、元号は政令で定めること、元号は 付の場合には、保険者 ( 経営主体 ) と医療機関 加入者本人は、保険医療機関で療養の給付 この家族の支払った額のうちの何割かを付加給 皇位の継承があった場合に限り改めるとの一世または医師団体との間において診療内容 ( 保険 ( 診察、薬剤の支給、処置または手術その他の 一元の制度をとること、昭和の元号はすでに定診療 ) や診療報酬の支払い方法・支払額などの治療、入院、看護、移送 ) を現物給付として受付として本人に返戻することができる。本人の められたものとみなすことを定めているが、元契約を締結しなければならないが、患者としてけるし、賃金にかわる傷病手当金、死亡による一割負担も同じ扱いであるが、ただし、それに ぶんべん 号の使用を国民に強制する意味をもつものでは は受診しやすい。現金給付では、患者としては埋葬料を受ける。女子の場合には分娩費ならびよって一〇割給付になることは認められていな ↓年号↓一世一元の制 〈阿部泰隆〉診療料金を一時的に立替え払いしなくてはなら に出産手当金、育児手当金を受けることができ いので、足切り制といって一定額 ( たとえば三 ほきんしゃ けんこうほきんしゃ 0 保菌者 ず、受診しにく、 。西欧諸国では医療保険の対 る。家族の場合には、本人と同じ内容の療養の〇〇〇円 ) の負担を本人や家族に課す方法もと 健康保菌者 給付を受け診療料金を払い、それに要した費用られている。次に組合は独自の保険料率を設定 健康保険けんこうほけん雇用労働者 ( 被用象を被用者に限定しているところが多いが、」 者 ) を被保険者とする医療保険制度のこと。健欧諸国では広く国民一般を対象としていて、文の一定部分を返戻する家族療養費があるが、実し、保険料の折半原則ではなくて事業主負担が 保と略称されるが、この場合は国民健康保険の字どおりの国民健康保険となっている。これら際の扱いは現物給付の形で、保険医療機関で定被保険者 ( 加入者本人 ) 負担分を超えて負担す 国保と対比され、被用者の医療保険としての日 の制度は被用者の場合には、加入者の傷病が業められた金額を支払えばよいことになっているることも認められている。以上のことから、負 本固有の制度をさしている。すなわち、一九一一務外のそれであるときに給付の対象となるが、 ( 後述の自己負担を参照 ) 。そのはか家族埋葬担と給付で政府管掌健保と健保組合の間での格 二年 ( 大正一一 ) に制定され二七年 ( 昭和二 ) 業務上で発生した傷病の場合には労働災害・職料、配偶者分娩費、育児手当金がある。療養の差を生じているし、各健保組合間の格差をも生 から全面実施となった健康保険法 ( 大正一一年業病として認定され、別の災害保険・労災保険給付の場合は、本人、家族ともに同一傷病が治んでいる。この理由は労使の協力と運営上の経 法律七〇号 ) そのものである。被用者の傷病にでの補償となる。日本では労働基準法と関連し癒するまで無期限であり、傷病手当金は標準報営努力の結果であると説明されている。このは ついて必要な医療または医療費の保障と、休業ている労働者災害補償保険の扱いとなる。↓労酬月額の六割支給 ( 単身者入院は四割 ) で期間 か、健保組合は、保健施設として、健康管理の した場合の賃金にかわる傷病手当金 ( または休働者災害補償保険 は一年六か月で打ち切りとなる。 実施、保健体育施設、保養所などを独自に所有 業手当金 ) の支給を目的とする医療保険は、も〔日本の健康保険〕日本の健康保険は、第一次〔一部負担と自己負担〕健康保険の本人の療養でき、各種の行事も行うことができるのも特色 の給付の費用のうち九割を保険が負担するが、 ともと西欧では疾病保険とよばれていたが、日世界大戦後の社会情勢を背景として制定され、 である。しかし、それは企業の労務管理と健保 本では医療保険を総称することばとして健康保職場の強制加入で肉体労働者本人に限定して家この本人は、受診のたびに定率一割か医療費一一一組合の密着が指摘されることでもある。↓社会 〈佐ロ卓〉 険が使用されてきてもいる。また、アメリカで族は含まれなかった。保険の経営主体は政府五〇〇円以下のときに定額の一部負担を支払わ保険↓社会保障 はこの健康保険の名称が使用されてきてはいるで、これを政府管掌健保とよび、大企業では健なければならない。また、家族は外来診療は七回佐ロ卓著『医療保険論』 ( 一九七四・有斐閣 ) ▽ が、社会保険Ⅱ医療保険を欠いてきた背景もあ康保険組合を設立して独自の運営が認められ、割給付、入院は八割給付なので、残りの三割な 健康保険組合連合会編「社会保障年鑑』各年 いし二割を負担しなければならず、これを自己 って、生命保険会社や医療組合の行う私的な医これを組合管掌健保とよんで、一一本建てであっ 版 ( 東洋経済新報社 ) 療保険 ( 民間健保ともいう ) を主として示してた。その後に対象はしだいに拡大されて、末適負担として医療機関に支払うことで実際は現物健康保険保養所けんこうほけんはようしょ いる。厳密な意味ではないが、疾病保険という用であった職員も加入することになり、やがて給付の扱いとなっている。一部負担・自己負担健康保険制度は被保険者とその家族の病気やけ ときは、どちらかといえば傷病手当金の支給が家族も加えられるようになった。第二次大戦後 が設けられている理由は、乱診を防ぐための受がなどについて保険給付を行うことを本来の目 主であると考えられてきたし、健康保険という にはすべての民間企業や事務所の被用者とその診の抑制である。なお、これらの負担額は世帯的としているが、そのほかに被保険者や扶養家 ときは医療または医療費の保障が主となってい 家族を対象とするまでになり、一九六一年 ( 昭合算で一か月五万一〇〇〇円の上限で打ち切族の健康保持増進を図る目的もある。その目的 るといってよい。しかしムフ日ではこ , っした区別 和三六 ) に実現した「国民皆保険」の中心的制 り、これを超える分は高額療養費支給制度とし に沿うため設置されているのが健康保険保養所 は行われすに、広く医療保険という名称でこれ度となった。国民皆保険というのは、日本の国て負担についての保障を行っている ( 一九八四で、政府管掌の健康保険の費用を原資として建 らは一括されている。 民が本人または家族としていずれかの該当する年一〇月改正健康保険法施行 ) 。そのほか、歯てられた保養施設は全国に四四軒あり、いすれ 西欧で発展してきた医療保険Ⅱ健康保険で医療保険にかならす加入する体制をよぶのであ科診療ならびに入院の室料についての患者負担 も温泉地や観光地などの一等地に設けられてい は、医療の保障か医療費の保障かについて保険り、日本の社会保障制度の基盤をつくっているが認められているし、特定の医療機関では高度る。利用できるのは被保険者とその家族である ものである。しかし五人末満の従業員を雇用す先端医療に部分的に保険医療が認められるなど 給付の形が異なることに注目する必要がある。 が、室に余裕があれば一般人でも宿泊できる。 宿泊料は民宿なみの低料金であるが、利用期間 傷病に際し加入者日患者が必要とする医療を医る零細事業所 ( 法人を除く ) に働く人々は、健の特定療養費制度がある。 療機関で医療そのものの現物として支給される康保険の適用がなく、国民健康保険に加入する〔健康保険組合〕健保組合は、企業ごとまたはの限度は二泊三日までが原則で、申込みは各都 現物給付と、医療を医療機関で受けて請求されことになっている。また、同じ被用者でも、船同一資本系統ないしは同一人事系統の数企業の道府県の保険協会、保険課、社会保険事務所で 〈沢史生〉 た診療料金を患者は支払って、そのあとで保険員は船員保険に、公務員などは共済組合に加入合同によって設立できる単一健保組合と、都道行う。 へんれい

6. 日本大百科全書 8

このように、ある国の資本主義生産の発展 にれている。剤は乳酸アシドーシス発生の可のが多いが、蛍光は多くの因子によって影響を 布 おける産業構成のなかで、軽工業に対して重能性があるため、特別の場合に使われるだけで受けやすいので、蛍光分析に利用するときには 線 め ( 化学 ) 工業の比重が大きくなることを「産業あり、剤が広く使われている。おもなもの使用条件を十分厳密に設定する必要がある。↓ 染 曲 構成の高度化」とよび、各国資本主義間の比較に低カ価短時間型のトルプタミド、高カ価長時蛍光分析 〈成澤芳男〉率¥ けいせし 射 を行う場合がある。 〈加藤幸三郎〉 けいこうせい 0 傾性 染 間型のクロルプロバミド、超高カ価短時間型の傾光性 回楫西光速他編『講座中小企業 1 』 ( 一九六 0 ・有グリ・ヘンクラミドなどがある。原則として成人京広線 けいこうせん / チンコアンシェン中国、光増 光 斐閣 ) 型の糖尿病で、しかも比較的軽症のものを対象 北京ー広州間の鉄道名称。延長二三一三キ。。保分 ていしゅう 蛍 けいごうきん軽金属に各種合金元素に使われる。また、剤間およびインスリン定、石家荘、安陽、鄭州、信陽、武漢、岳陽、 軽合金 ちょうさ しゅしゅう ちんしゅうしようかん を加えてつくられる合金。特徴は比強度 ( 単位製剤との併用は行わない。なお、剤は一定長沙、株洲、衡陽、梛州、韶関などの諸都市染 断面積当りの強さと密度との比 ) が高いこと量以上投与しても効果はあがらないので、適切を経由して、中国を南北に貫く幹線鉄道の一白 増 で、軽量で強いことを要求される場合に利用さ な食事療法を行い、最大常用量で効果が不十分っ。全線の約八三 % に相当する北京ー梛州間が れる。もっとも代表的な軽合金は析出硬化型アな場合は使用を断念する。 〈幸保文治〉複線化されている。ベルギーからの借款による蛍 けいこうけんびきよう紫外線を京漢鉄道 ( 北京ー漢ロ間、 一九〇六年全線開 ルミニウム合金 ( 代表例ジュラルミン ) であ蛍光顕微鏡 えっかん り、飛行機や自動車の材料として多量に用いら光源として試料を照らし、試料の発する蛍光に業 ) 、イギリスからの借款による粤漢鉄道 ( 武 反射率 ( % ) しよう 一九二五年全線開業 ) を前身と れている。またマグネシウム合金も、強さはアよって試料の観察を行う顕微鏡。タンパク質や昌ー広州間、 ートル ( = 、リミクロン ) の領域の光を吸収するよ ルミニウム合金より劣るが、比重はアルミニウ ハクテリアのようにそれ自体が蛍光を発する試する。中華人民共和国成立後、施設の改良が行 うになる。このような生地に紫外線を吸収して ムの約三分の二であるので多量に使用されてい 料の場合、および蛍光物質を試料に吸着させるわれ、複線化が推進され、また武漢長江大橋の る。最近はチタン合金も、その優れた耐熱性の ことができる場合に適用できる。紫外線を出す開通 ( 一空七 ) によって、京漢、粤漢両線が結ば赤紫色の発光をする物質を染めると、吸収の部 〈青木栄一〉分が補われて白く見えるようになる。四三〇ナノ ために航空宇宙機器材料として使用されてい 光源にフィルターをかけ、有効に蛍光を発するれた。 る。 けいこうせんりよう fluorescent メートル付近の発光をもつものであると、輝く 〈及川洪〉波長域の紫外線を取り出す。試料に紫外線を当蛍光染料 ほどの白さとなる。 けいこうくうき lighter ・ than-air- てたのちは、普通の光学顕微鏡で観察する。紫 dye 蛍光を発する色素を総称して蛍光染料と 軽航空機 蛍光による増白処理は、歴史的にはクライス aircraft, aerostat 空気より軽い航空機のこ外線が目のはうにこないようにするため、接眼 いう。もっとも代表的なものがフルオレセイン P. Krais がセイヨウトチノキの樹皮から得ら と。空気よりも比重の軽い気体 ( 水素、ヘリウレンズの後方に紫外線吸収フィルターを用い ( 強い黄緑色の蛍光をもっ ) である。水あるい ム、熱空気など ) を気密性の袋に詰め込み、そ紫外線をカットする。試料を封入するには、バ はアルコールに溶けて蛍光を出すものもあるれる 6 ・ 7 ージヒドロキシクマリンの配糖体 ( 工 の袋が排除する体積の空気との重量の差 ( 静的ルサムのかわりに水、グリセリン、流動バラフが、インダンスレン染料のなかには、有機溶媒スクリン ) を用いたのが始まりである ( 一九一一九 ) 。 揚カ ) を利用して空中に浮揚する。動力をもっ インなど紫外線を吸収せずまたそれ自体は蛍光に溶けて蛍光を出すものがある。プラスチックその後ウルトラリン ( 4 ーカルポキシメチルク ものと、もたないものとに分けることができ、 を発しない物質を使用しなければならなし糸 、。田や繊維、インキに蛍光をもった色調を与えるたマリンのナトリウム塩 ) などが発表されたが、 動力および操縦装置をもつものを飛行船、動力菌学、食品や繊維の鑑定、法医学などに利用さめに利用されている。溶媒に不溶な蛍光色素は繊維に対する親和性、耐光性ともに低く、かっ れる。 コスト高で問題とならなかった。今日の蛍光増 〈三宅和夫〉蛍光顔料として、印刷インキ、ペイント、絵の をもたないものを気球という。気球はさらに、 けいこうしじかん 0 マジックアイ具などに利用される。また、強い蛍光をもっ色白染料は一九四一年ドイツの—・社のプラン 地面と索で結ばれた係留気球と、気流に従って蛍光指示管 コホア ( ジアミノスチルペン系のもの ) が発明 けいこうしやく fluorescence 素はレーザー発光にも用いられ、近年色素レー 浮遊する自由気球とに分けられる。↓気球 蛍光試薬 され、展開された。ことに第一一次世界大戦後の 飛行船 〈落合一夫〉 spectrum 特定の物質と反応して蛍光を発すザーとしての活用が注目されている。 けいこ , つけ・つと , っこ , つかや / 、 るか、あるいは自らがもっ蛍光を失う消光の現 それ自身可視光を吸収せず色をもたないので発展は目覚ましく、現代社会の白物に対する新 経ロ血糖降下薬 内服で有効な糖尿病治療薬。従来のインスリン象を示す試薬。このような性質をもつ物質は蛍色素ではないが、近紫外線を吸収し赤紫の蛍光しい需要を生んだ。スチル・ヘン誘導体が主力で を有するものは顕著な増白作用がある。このよあるが、クマリン誘導体、オキサゾール誘導 注射に比べてその使用が便利なため、一九五〇光分析に用いられ、定性または定量分析が可能 うなものを蛍光増白剤あるいは蛍光増白染料と体、ナフタルイミド誘導体も種々利用されてい である。可視光で蛍光を発する試薬としてはフ 年代後半から七〇年代にかけて繁用されたが、 その使用法を誤ると低血糖症になったり副作用ルオレセイン、エオシン、エスクリンなどの水よんで、白地の増白に利用されている。↓蛍光る。有色染料と同様に、直接染料、酸性染料、 〈飛田満彦〉分散染料など種々の製品が開発されており、用 が現れるので、消えていった薬剤も多く、現在溶液、カナリーガラス ( 酸化ウランを含んだガ顔料↓蛍光増白染料 け・いャ : っ挈」、つは / 、せ・んり・よ、つ 途も繊維のみならず紙、パルプ、合成樹脂、洗 は投薬時に低血糖に対する注意文書を手交する ラス ) などが古くから知られており、フルオレ蛍光増白染料 ことが義務づけられている。化学構造上からスセイン、エオシンは沈殿滴定の蛍光指示薬とし fluorescent whiting dye 繊維に染着性を剤の増白にも広く利用されている。〈飛田満彦〉 けいこ、ったい fluorescent substance ホントクロム。フル ルホニル尿素 sulfonyl urea (T)D) 系と同系ても利用されている。また、。、 もち、それ自体は無色 ( あるいは淡黄色 ) であ蛍光体 ープラックは弱酸性領域でアルミニウムイるが、近紫外線を吸収して、赤紫色の強い蛍光蛍光を発する物質の総称。物質は光を受けると 統とみられるスルホンアミド系、およびビグア だいだい ニド biguanide (nt) 系の二系統に大別さオンと反応して橙色の蛍光を発するので、アを有するものをいう。白地の着色物質を酸化や状態のいかんによらず蛍光を出すが、とくに可 視光を発する物質を蛍光体という。 ルミニウムの蛍光分析における検出試薬として還元で除くことを漂白という。これに対して、 れる。剤と剤はともにその作用機序が 蛍光体には純物質と、賦活剤または活性化剤 明らかでなく、剤は小腸から容易に吸収さ用いられる。一般に蛍光測定は、紫外可視分光分光学的に着色物質の影響を消去するのが増白 すいぞう > れ膵臓のランゲルハンス島日細胞からのインス光度法による吸収スペクトル測定に比べて、はである。白地は可視部領域の光をすべて反射しを少量加えた不純物とがある。純物質蛍光体の た結果であるが、黄ばむと四〇〇 ~ 四五〇ナ / メ例は、無機物のサマリウム、テルビウム、ユウ 3 リン分泌を促進させる作用のあることが認めらるかに高い感度をもち、蛍光試薬には鋭敏なも 1 00 布 原 700 波長 (nm) 500 400 600

7. 日本大百科全書 8

けんだん で放牧草として盛んに利用さ 六、七年 ( 一七七七、七 0 のころ、拳玉というもの その ) 一と れ、この名が生まれた。踏みつできたり。 ( 略 ) 其玉を投げて猪ロの如きもの の凹みにうけ ( 略 ) 若うけ得ざる者に酒を飲ま けられることに対して強く、公 ス園や庭、ゴルフ場などの芝草と しむ」とあって、当時は酒席の座興に用いた。 ラ グする。また、地下茎が強く、よ 明治期以後は子供の玩具となり、明治末期から レ く張るので土砂流出防止の目的流行。大正、昭和初期にかけて「日月ポール」 プ で、裸地や斜面に植えられる。 の名で登場。子供らの人気を集めた。ヨーロッ 寒さには強いが暑さに弱く、 暖 パにもカップ・アンド・ポール cup and ball ッ 地では夏枯れをおこすので、盛とよぶ同じような遊戯具がある。〈斎藤良輔〉 タ ン夏の刈り取りは避ける。湿地でケンダリ Kendari インドネシア、スラウ よく育つが、夏涼しい地方では ェシ島南東部半島東岸の港市。人口二万九七六 は鈍くとがり、縁はざらっく。初夏に花穂が出 比較的乾燥した土地にも適応する。生命力が強五 ( 一九六一 ) 。ケンダリ湾に臨む。湾の入口は狭 ると高さ三〇 ~ 八〇垰一になる。穂軸には長い枝 一度繁茂するとほかの作物の導入が困難と い水道をなすが、湾内は波静かな良港をなす。 が輪生し、先に多数の小穂をつける。小穂は長なる。 ^ 星川清親〉第二次世界大戦中は日本軍の基地が置かれた。 さ三 ~ 六 : リで三 ~ 五個の小花からなり、穎には けんだま拳玉とも書く。一五垰一はど木材、樹脂などを輸出する地方商業の中心で、 剣玉 かきよう 縮毛が密生する。地下茎を伸ばして殖える。ョ の棒の先端を剣形にとがらせ、ほかの端は皿形華僑の居住も多い。水上につくられた杭上家 ひも ーロツ。ハからアジアにかけての地域の原産で、 〈別技篤彦〉 につくり、棒には底に穴のあいた球を紐で結び屋が町の特色となっている。 がんぐ 現在は北半球の温帯に広く分布する。北海道と 付けてある木製玩具。紐を振って反動をつけな ケンタール Antero de Quental ( 天四 = 本州の山野に自生し、平地のものは牧草としてがら球を剣の先に挿したり、皿に受けたりして ー九 l) ポルトガルの詩人。哲学の発達をみな 渡来したものが野生化したものと考えられてい 遊ぶ。江戸時代に中国あたりから渡来。一八一一一かったポルトガルにおける哲学詩人として、ユ きゅうしようらん あんえい えんせい る。アメリカのケンタッキーを中心とした地域〇年 ( 天保一 ) 刊の『嬉遊笑覧』には、「安永 ニークな存在であったが、厭世自殺をした。カ モンイスに次ぐ大詩人で、写実主義を導入した 一ン並のチ催園行は着 功労者。代表作に『近代詩集』 ( 天六五 ) 、『ロマ ビラと月ので公を口上 一フ賞 5 ル場立一入も ン的な春』 ( 天七一 D 、『ソネット全集』 ( 一会六 ) な ダ , プ年ビ馬国バので 一ラ毎イプリ窟夏し どがある。 〈浜口乃二雄〉 レ 一ビク 一 . 洞はし キ一一典 , ンケ一・。部涼 ケンダル Henry Kendall ( 一公一九ー全 ) 一ツダキ祭にウスコト内ど キタのツの日ダモエ一 , ほオーストラリアの詩人。ニュー・サウス・ウェ ンのポりな ツンスョ馬曜ル ールズ州南部海岸の農民の子。一〇歳で父を失 タケリジ歳土チるマ内光あ要 ン幻ギの 4 1 一れ〕窟観っ必 一四歳から捕鯨船員、法律事務所員、記 ケ「、イスぷャさ洞く 4 か 者、営林署員など生活のため各種の職業を転々 としながら詩作を続け、一八六二年、詩集『詩 と歌』をシドニーとロンドンで刊行。流麗なリ ズムで奥地の自然美を「歌う絵」に描いた叙情 詩人として、民謡の始祖 << ・ゴードンととも に、この国生まれの最初の古典詩人の名を得 1 た。代表詩集に『豪州森林の木の葉』 ( 天六九 ) 、 〈平松幹夫〉 『山の歌』 ( 一公 0 ) などがある。 がん kentallenite 橄 ケンタレン岩 欖石を含む優黒質のモンゾニ岩。ほば等量の輝 4 くろうん 石、橄欖石、斜長石、正長石からなり、黒雲 母、磁鉄鉱、燐灰石を伴う、アルカリに富む深 成岩である。日本では岩手県「一戸郡一戸町鳥越ーーに .... に要 . まー。 - み に小さな岩体が知られていて、かっては「黒御 影」として石材に使われていた。スコットラン ドのケンタレン Kentallen に産する岩石にち 〈千葉とき子〉 なんで命名された。 剣談けんだん 0 剣攷 へり 7 め・ーれんい け , れ、ごっ ①、、第 ⑤ 主 ? るンニラけん弖 剣玉 / 種類 ①カップ・アンド・ポール。ヨーロ ッパで発達したもので , 明治初期 , 教育玩具として日本にも紹介された ②鹿の角製の剣玉。剣玉の発祥は中 国といわれ , 鹿の角が使われていた ③竹製の剣玉。日本には江戸時代 , 中国から鹿の角製の剣玉が渡来した が , 安価な竹製のものも考案された ④明治・大正期の剣玉。玉と棒だけ の剣玉で , 同じタイプのものがフラ ンス映画「望郷』のなかに登場する ⑤大正・昭和初期の剣玉。皿胴のあ る剣玉がつくられ , 子供の人気玩具 となった ② ④ イ . 1 1 剣玉全日本ジュニアけん玉道選手権大会。 全身を使い , 神経を集中して各種の技を競う 427

8. 日本大百科全書 8

けものり や古語では、ウジ、ウッ、ワリ、カョイなどと もよばれる。イノシシやシカのよく使う通路に の観 は、ハイカーが登山路と間違って入り込み、迷 岩景る 武のれ 、つことがある。こ , ついう道はシシ道、シカ道と 玄有わ る特い もいわれる。 〈朝日稔〉 あ , と けものりゅう theropod/8Theropo- 端し後 da 竜盤目獣脚亜目に属する恐竜。シシ竜、 4 、・先和世 の調新 獣脚竜ともいう。中生代三畳紀の仲間は比較的 島が中 半と紀 小さく、コエルロサウリア Coelurosauria 下 た岩第 目に属し、二脚で最大のもので全長約三であ 」にゆ・つ しのは 出柱期 る。トカゲや小形哺乳類、昆虫や鳥類をとらえ き石成 て食べた肉食動物。手足の形状は鳥に似て、椎 突い生 骨や長い骨は空洞になっていた。三畳紀のプロ 灘 , る 界とい コンプソグナトウス P 、 0 きミト so ミ、 s 、コ工 玄海て ロフィシス Co ミを s 、ジュラ紀のコンプソ つみ場をたらグナトウス C をき so ミ、ミ s 、オルニトレステ ス 0 こ ~ 0 s s がその例である。ダチョウに 第」 ' 屋食っ 芥海を 似た白亜紀のストルティオミムス S 、、ミミ 0 、・ かひ ひこさんごんげんちかいのすけだち ミは歯をもたす、卵を常食と花は花被片四 ~ 六枚、雄しべ四 ~ 六本。雌花は毛谷村けやむら 0 彦山権現誓助剣 そうか していたらしい。もう一つのグル雌しべ一本で、花柱は二裂する。果実は痩果でケャリムシ〔毛槍虫〕 fan-worm/8Sa- へんべい ープの巨大なカルノサウリア Car ・ 一〇月ころ熟し、ゆがんだ扁平球形、径五广 ミ、ぎミき環形動物門多毛綱定在目 nosauria 下目は、恐ろしい肉食本州、四国、九州の低山地に生え、朝鮮半島、 ケャリ科に属する海産動物。三陸地方以南に広 も : 、り 動物で、ジュラ紀のアントロデム中国に分布。庭本や並本に利用するほか、本理 く分布する暖海性の種類で、大きな個体では体 スミきミミ s や白亜紀のティ が美しいので建築材、家具、船舶材として用い 長二四弩、環節数一七〇にもなる。体表から分 せいかん ラノサウルス ( シシ竜 ) などはそられる。名は「けやけき木」、すなわち顕著に 泌した粘液で泥を固めて太い棲管をつくり、そ の例である。カルノサウリアは竜目だっ本の意味という。欅の字は本来は中国の の中で生活する。棲管は干潮線付近の岩陰や岩 脚類にかみついた歯型や足跡の研シナサワグルミの漢字である。 〈伊藤浩司〉の割れ目などに着生している。管の先から体の えさ いとしま はんてん うけやのおおと福岡県糸島郡志上部を出し、黄褐色に紫色の斑点をもった大き 究から、竜脚類など草食恐竜を餌芥屋ノ大尸 えさ として襲っていたらしく、ロは鋭摩町西部、糸島半島北西にある海食洞。高さ六 なえらを広げて呼吸したり、餌をつかまえる。 おおとざき い歯で武装されていた。↓テイラ四の大門崎の北面は玄武岩の柱状節理を示す傘状に広がったえらが、昔、大名行列のときに けやり ノサウルス 〈小畠郁生〉 絶壁をなし、その下方に高さノト ,. 、メい、幅一〇の使った毛槍に似ているのでこの名がある。ケャ ケヤキ〔槻・欅〕 Japanese 海食洞の入口がある。奥行九〇、観光船で四 リムシは振動や光の明暗に敏感で、これらの刺 ちくぜんまえばる zelkova, keyaki tree/$Zelko ・〇まで入れる。国鉄筑前前原駅から芥屋まで激を受けると、えらをすばやく棲管の中に引っ se 、、ミ (Thunb. ) Makino ハス三〇分。芥屋漁港から観光船が就航してい 込めることができるが、これは神経が太くて敏 ッキノキともいう。ニレ科の落葉る。一九六六年 ( 昭和四一 ) 国の天然記念物に 感なためといわれる。 〈今島実〉 げんかい 高木。高さ三〇、径二に達す指定され、玄海国定公園に属する。〈石黒正紀〉解由状げゅじよう史料上では単に解由とも こずえ る。梢はほうき状に立つ。樹皮は 地〕二万五千分の一地形図「芥屋」 記される。奈良・平安時代に官吏が交替する 象皮状で灰褐色、初めは平滑で、ケヤマウコギ〔毛山五加木〕きミぎ・際、新任者が前任者に交付する事務引き継ぎの りんべん のちに鱗片状にはげる。小枝は繊をミミ ~ ミ、き s (Sieb. et Zucc. ) Seem. 終わったことを示す証明書。とくに国司の場合 細。葉は互生し、狭卵形ないし卵ウコギ科の落葉低木。高さ三に達する。枝は が有名で、一二〇日以内に解由状が新任国司か だいじようかん 状披針形で羽状脈がある。長さ一一一灰褐色で幅広い刺がある。葉は質が厚く、掌状ら前任者に渡され、これが太政官に上申され ~ 七、一呈二拜一、 先端は鋭くとが複葉で小葉は五枚。花は白色で、八、九月、長て承認を受けることで交替が完了した。解由状 えんすい り、基部は円形から浅心形、辺縁枝の先に円錐状に伸びた数個の散形花序に多数のない前任国司は帰京を厳禁され、手続が完了 きよし には鋭い鋸歯がある。花は四、五つく。果実は球形で黒く熟す。若枝、葉の裏面しないと次に任用されないことになっていた。 月、開葉とともに開き、淡黄緑脈上、花序に灰褐色の縮毛が密生することが特そのため新任者と前任者との間で争いが起きた 色。雄花は新枝の下部に固まって徴。北海道から九州の山地に生え、中国にも分ときは両者の間で引き継ぎ未終了の旨を記した ふよ つき、雌花は上部に一個つく。雄布する。若葉を山菜として食べる。〈門田裕一〉「不与解由状」が作成された。この制度では、 ひしん 260

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集積回路技術の基礎となったように、基礎、応法人」といわれている。その多くが国の産業・ 確に記録され、授業後にはその記録や学習資料業体に準ずる扱いを受け、その職員に対しては 用、開発の区分は絶対的なものではない。 車事両面にわたる技術開発に密接にかかわって に即して分析・検討が加えられる。研究授業を 公共企業体等労働関係法が適用される。財政面 このように技術開発はさまざまな技術や研究 からみると、これら四現業は特別会計という形 いる。また、日本の動力炉・核燃料開発事業団通して授業を研究することを「授業研究」とい の成果を結合して行われるので、多くの経費、のように国の出資する特殊法人組織の研究機関 、日常的にも組織的計画的にも広く行われてで一般会計の枠外で扱われている。特別会計も などもある。 人員、期間をかけた組織的な活動となってい 〈慈道裕治〉 いる。また、授業研究の科学的な方法も大きくその性格によりいくつかに大別されるが、四現 〈大槻和夫〉業の特別会計は事業特別会計に入り、公共企業 る。個々の発明・発見と組織的な研究活動のう・・バナール著、坂田昌一他訳『科学の進展してきている。↓授業 きよう えに研究・開発は成り立っている。このような けんきよう 0 ゾロアスター教 体に準じた独立採算制をたてまえとし、会計経 社会的機能』 ( 一九〈一・勁草書房 ) ▽市川泰治教 研究・開発は歴史的には国や企業による大規模 郎著『アメリカの研究産業』 ( 一九七一・鹿島研検校けんぎよう検校とも書く。点検典校理の方法も企業会計にもっとも近い発生主義を とっている。↓三公社五現業 な研究投資によって開始され、技術進歩の方向 究所出版会 ) の意から、中国では経籍をつかさどる官名など 〈林正寿〉 に大きな影響を与えるようになっている。 に用いる。日本では、事務を検知校量すること 研究校けんきゅうこう文部省、教育委員会、 兼業農家けんぎようのうか農業のみを営む しようかん 〔研究・開発の歴史〕工業的研究を重視して、教育研究所などから委嘱を受けて、教育課程のから、平安・鎌倉時代の荘官の職名に用いら専業農家に対して、自家農業以外に世帯員のう そのために企業や国が研究機関を設置する動き改善や当面する教育問題の解決を目ざして研れた。しかし、とくに僧職の名として用いられちだれかが他の業をあわせ営む農家をいう。わ は一九世紀後半から一一〇世紀初頭にかけて先進究・開発する学校。研究の程度などによって研る場合が多く、寺社の事務を監督する職掌をい が国では農家の全世帯員を単位として定義され 諸国で始まり、両世界大戦を通してますます全究指定校、研究協力校、研究奨励校、研究推進う。常置の職としては、八九六年 ( 寛平八 ) 東るが、欧米諸国では農業経営主の兼業従事の有 やくしんいわしみずはちまんぐう 体的傾向へと発展していった。 校などとよばれる。研究の内容は、各学校段階寺の益信が石清水八幡宮検校に任ぜられたのが無により規定されることが多い。わが国ではさ こうやさん ドイツでは、一八七〇年に、理工学研究所別の各教科、道徳、特別活動の教育課程に関す初出で、高野山、熊野三山、無動寺などにおい らに、兼業農家をその収入源からみて、農業収 へきち ほうえ Physicalische Technische Reichsanstalt をるもののほか、僻地教育、同和教育、性教育、ても、一山を統領する職名であった。法会や修入が主である「第一種兼業農家」と兼業収入が 設立し、産業の基礎となる測定法などの工業的障害児教育、教育機器利用、帰国子女教育、体理造営の行事を主宰する者の呼称としても用い 主である「第二種兼業農家」とに分類してい とうどう びわほうし 研究に着手している。クルップやジーメンスなカづくりなど多岐にわたっている。〈白石克己〉 られる。中世には盲目の琵琶法師仲間 ( 当道る。一九五〇年 ( 昭和二五 ) には六一八万農家 もろもり じようじ 座 ) の長老も検校とよばれ、『師守記』貞治二 のうち専業農家は五〇 % 、第二種兼業農家は一一 どの企業では一九〇〇年代初頭には、すでに数研究社 ( 株 ) けんきゅうしや英語学習書中心 ・ル / 、い女′ 百人に及ぶ研究者を擁して工業的研究を実施しの出版社。一九〇七年 ( 明治四〇 ) 小酒井五一年 ( 一三六三 ) 条の「覚一検校」が初見とされる。 二 % であったが、八四年の総農家数四四七万戸 ていた。 郎の手で設立され、当初は英語研究社と称し、 江戸時代には当道座が幕府によって認められ、 に占める割合はそれそれ一四 % 、七一 % となっ そう - 一うとう、とう アメリカでは一九〇一年に、国立度量衡局『初等英語研究』をはじめ数種の学習雑誌を刊惣検校の下に検校・別当・勾当・座頭などの官 た。第二次世界大戦後、とくに高度経済成長期 US National Bureau of Standards が、イギ行していた。一九一六年 ( 大正五 ) 研究社と改位があった。また、江戸には関八州の盲僧を管に入って、専業農家が激減するなかで、第二種 そうろく リスでは一九〇〇年に物理学研究所 National め、辞典の分野にも進出し、『和英大辞典』『英轄する惣録検校も置かれた。平曲のほか地歌、兼業農家は急速に増加してきたのである。また そうきよくしんきゅうあんま Physical Laboratory が設立されている。工業和活用大辞典』などを発刊したが、第二次世界箏曲、鍼灸、按摩などに従事する者で官位を兼業の職種によって、農業以外の事業を営む自 きんす 的研究と同時に「開発」の独自な役割が重視さ大戦中、英語関係の出版は不自由となり、一九目ざす者は試験を受け、多額の金子を納めてこ営兼業農家と、恒常的勤務や日雇いなどに従事 の職名が授けられた。↓当道 〈石川カ山〉する被雇用兼業農家とに分けられる。高度経済 れ、組織的に追究されるようになったのは第一一四五年 ( 昭和二〇 ) 一時休業のやむなきに至っ 次世界大戦後である。アメリカではすでに一九た。敗戦とともに業務を再開、英米語への需要顕教けんぎよう密教に対する概念。真言成長の初期までは日雇い労働や出稼ぎなどの臨 四一年に国防に関連する科学的・医学的研究をの高まりに従い、出版活動も拡大していった。 宗では自らの宗の教えと他の宗の教えとを、密時的で不安定な職種が多くみられたが、今日で 組織化するために、科学研究開発局 Offce of 四八年『英語青年』『時事英語研究』などの雑教と顕教に分け、密教に思想的優越性を与えは恒常的な職員勤務や賃労働勤務が中心となっ ほっしん Scientific Research and Development が大誌、単行本部門を株式会社研究社出版として分た。密教とは法身 ( 仏の本身たる永遠不滅のている。兼業農家の農業経営の特徴は、稲作、 だいにちによらい 統領直属の機関として設置されている。原爆開離独立させ、研究社は辞典類専門の出版社とな法 ) の大日如来が自らの悟りの世界をそのまま ミカン作、露地野菜作など、労働節約が可能な つ ) 0 〈海老原光義〉説いた教えで、けっして表面上では知りえない 発は科学研究開発局の指揮下において実行さ 品目に偏っており、畜産や施設園芸などの比重 れ、戦後の技術開発体制の原型となった。第一一研究授業けんきゅうじゅぎようよりよい授秘密の教えである。これに対し、顕教とは人々は小さい。 まうじん 兼業農家が戦後急増してきた理由としては、 次大戦での軍事技術開発の経験をもとに、一九業のあり方を求めて、研究的、実験的に行う授の能力とか性質に従って、報身 ( 善業の報いと おうじんしゅじよう ①だれかに授業をみして現れた仏身 ) 、応身 ( 衆生に応じて現れた高度経済成長により他産業への就業機会が増加 四七年に出されたスティールマン報告は開発段業をいう。研究授業には、 したこと、零細規模の稲作所得では都市勤労者 階を独自な段階として位置づけて、アメリカにてもらって批判や指導・助言を受け、授業の改仏身 ) により説かれたもので、迷いを除き悟り 善に資しようとして行う授業、②集団として共を開く教え、あるいは修行をしてその結果唐り世帯並みの所得が得られなかったこと、稲作の おける科学研究の組織化を方向づけている。 〔研究機関〕研究・開発のための研究機関には同で授業研究を行う場合、また、その研究の素を開く教えといわれている。密教では自らの教機械化の進展によって農業労働が大幅に省力化 されたこと、などがあげられる。 企業研究所や国立研究所があり、ベル電話研究材提供の意味で行う授業、③新しい教育方法をえ以外は顕教であるとしている。〈由木義文〉 こうした農家の兼業化傾向は、農村の都市化 所のように約八〇〇〇人 ( 一九〈三 ) の専門研究者実験的に取り入れてその効果を試すために行う現業げんぎよう国または地方公共団体の を擁する大規模なものもある。そのほかに、ア授業、④優れた授業者や先輩、あるいは権威者業務のうち原則として権力的、支配的作用を伴や工業の地方分散化によって、わが国のみなら よメリカのランド・コーポレーションやバッテル が、後進を指導する目的で演示する授業などがわないものをいう。国の場合は、造幣局、印刷ず欧米諸国を含めて世界的にみられる。しかし キ、記念研究所のように研究それ自体を事業としてある。一般に、研究授業においては、十分な準局、国有林野事業、および郵政事業がこれにあわが国の特徴としては、第二種兼業農家の比率 たり、政府直営の企業という内容をもってい が極端に高いこと、稲作を中心として農業部門 ん経営する研究所があり、これらは民間の研究所備とそれに基づく授業計画が用意され、それに における兼業農家の占める地位がいまなお高い ではあるが、企業研究所に対して「非営利研究従って展開される。また、授業はできる限り精る。これらは一般に四現業とよばれて、公共企 けいせき 301

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けんちくし建築物の設計、工事監理 ( アーチ式 ) の架構を可能とし、大ドームが構が大震災でれんが壁が破壊したり、被覆材が崩建築士 築年年 成できるようになった。以来、中世から近世にれ落ち、火災によって鉄骨が曲がったりして大などを行う技術者のことで、建築士法 ( 一九五 0 ) 0 1 上上年年 ち る 造築木同同 3 7 かけてヨーロソバはもちろん中近東からインド 被害を受けた。以後、鉄骨造は工場、体育館な によって定められた資格試験に合格し、免許を ん て において、この構造による教会、宮殿などの大ど大スパンの平屋を中心に普及したが、鉄骨高受けたものをいう。建築士には一級建築士と二 建築物がつくられた。 士年年 層ビルは、第二次世界大戦後の東京オリンピッ 級建築士および木造建築士がある。一級建築士 0 1 上上年年 〔鉄骨構造とその材料〕一八世紀後半に鉄の生クを契機とする超高層ホテルや貸ビル建設のラ はすべての建築物の設計、工事監理ができる数建 築木同同 3 7 年級 建上 産が急激に増えると、錬鉄や鋳鉄を用いたス。ハ ッシュを迎えるまでまったく建設されなかっ が、二級建築士は、木造建築では延べ面積が一 ンの大きい屋根や梁がフランス、イギリスなど た。近年における超高層ビルはいずれも大形〇〇〇平方以下か階数が一のもの、非木造建 士 を中心に架けられるようになった。一八四〇年形鋼を用い、石綿、ロックウールなどで耐火被築では延べ面積、高さ、軒高が一定以下の小規実築 年年年 年 る建 4 課 代にはヨーロッパでは八階建ての鉄骨造の精糖覆している。 模建築などに限定されている。木造建築士は、 す級 の 工場が建設されている。以後ロンドン万国博覧 鉄筋コンクリート造の建物は関東大震災まで階数が二以下で延べ面積が三〇〇平方以下の関一 会 ( 一会 I) 、次の。ハリ万国博覧会 ( 天五五 ) を契に相当数つくられたが、震災による被害が少な ものの設計・工事監理に限られている。また、 機として鉄骨建築は一気にヨーロツ。ハからアメ 、耐震・耐火性が実証され、以後都市の不燃建築の種類により資格試験の受験資格も異な建学 学 リカへと普及した。鉄の量産化と時を同じくし 化の要請と相まって、日本の五、六階までの建る。一級建築士は建設大臣、二級建築士は都道格す て、構造材料ではないが、 大形ガラスが生産さ築の主流をなした。第二次大戦後は壁式アバー 府県知事が試験を実施し、それぞれ免許を交付資除腋学 木 学等リ れるようになった。その象徴的な建物として、 トが多数つくられ、公営・民営アパートの主流する。 受土 大高 大 ロンドン万国博覧会におけるガラスと鉄だけでをなしている。 一般に、建築士でないと建築物の設計、工事 短学校築 短 構成した水晶宮 ( 幅一二四、長さ五六三 ) 鉄骨の骨組をさらに鉄筋コンクリートで固め監理は行えない。 この場合の設計とは、建築物士 制大学校建 築築学年期等学級 があげられる。今日では超高層建築は形鋼をて耐震・耐火性を確保する鉄骨鉄筋コンクリー の建築工事実施のために必要な図面および仕様 建建大 3 短高中二注 用い、耐火被覆を施工したものとなっている。 ト構造は日本独特のもので、関東大震災後急速書 ( 設計図書という ) を作成することであり、 〔鉄筋コンクリートとその材料〕一九世紀末か に普及し、六 ~ 九階のビルはもつばらこの構造工事監理とは、工事を設計図書と照合し、それ たえ ら二〇世紀初頭にかけて鉄筋コンクリートの開 によっている。近年では十数階のビルでもこのが設計図書どおりに実施されているかどうかを ま超 発がドイツを中心に行われ、アメリカ、日本に構造による場合がある。また防災拠点として用確認することをいう。このほかに建築士が行う を いられる高層住宅なども鉄骨鉄筋コンクリート 業務としては、建築工事契約に関する事務、建 おいて大発展を遂げた。鉄筋コンクリート構造 造でつくられている。 は、引張りカを鉄筋に負担させ、圧縮力をコン 築工事の指導監督、建築物に関する調査または 高軒 〔建築材料学〕建築材料はきわめて多様である鑑定、建築に関する法令、条例に基づく手続 クリートに負担させるもので、鉄筋はコンクリ 下上 ートのアルカリ性によって保護されて錆びず、ため、これを学問として系統づけにくいが、大 ( 確認申請など ) の代理などがあげられる。建 造 いい かっ火災の際も鉄筋はコンクリートによって被きく次の五つに分類される。 築士は、これらの業務を誠実に行い、建築物の E 3 覆されているので安全である。現場で自由な寸 ①基本建築材料学木材、石材、鋼材、コンク質の向上に努めなければならないとされてい 高階 リートなど基本建築材料について、それそれ物る。建築士が設計、工事監理などの業務を報酬 法のものがつくれ、安価であるので、耐震・耐 理的・化学的性質、特徴、用途について系統づを得て業として行う場合は、都道府県知事から 火建築の主流をなしている。 下よ 級 〔日本における近代建築構造の変遷とその材ける学問。②用途・性能別材料学構造材料、建築士事務所の登録を受けなければならない。 2 で 建築士法に基づいた日本の建築士制度は、建 料〕幕末から明治初年にかけて、れんが造建築仕上げ材料、断熱材料などの用途、性能を主題 数れ が導入された。一八七二年 ( 明治五 ) 東京の銀として系統づける学問。③部位別材料学屋根築士の資格の対象者が設計、工事監理などを専 高 つきじ 座から築地にかけて大火があり、そのあと銀座材料、外壁材料、内壁材料、天井材料、床材業とするもののみならす、教員、官公吏、施工 れんが街の建設が始ま 0 ている。本格的なれん料、開口部材料など建築の部位を主題として系業者などのすべてを含んでいることに大きな特象 。 ) 材料設計法材料の性質、性徴がある。とくに施工業者との兼業を認めてい がの生産は一八八七年からである。れんが造の統づける学は の 理 る点が、施工業者と独立した職能として位置づ 建物は一八九一年の濃尾大地震で大被害を生能、施工性、耐久性、経済性などを要求条件に 監 けられている諸外国のアーキテクト architect じ、さらに関東大震災 ( 一九一一三 ) で倒壊するもの対応させながら材料の選定設計を組織的に行う 事造数 2 木階 学。 ) が多数あり、以後完全に衰退した。 材料科学材料の性質、性能はその組 ( 建築家 ) と異なる。建築士法が資格法であるエ といわれるのはこのためである。〈秋山哲一〉 鋳鉄円柱は一八六七年 ( 慶応三 ) にすでに輸成 ( 成分 ) 、構造 ( 原子の配列、結晶状態な 級 第、 - っげキ一 二年 ( 明 入されている。国産の鋳鉄柱は一八八 ど ) 、組織 ( 密実な組織、空隙組織、繊維組織、建築十書けんちくじっしょ 0 ウイトルウィ で ま れ級級 治一五 ) 東京鉄道局が鋳造して使用した。本格複合組織など ) によって決まるという立場からウス 計 設 〈笠井芳夫〉 材料を系統づける学問。 けんちくしゅじ建築物の建築、大 的な鉄骨造は一九〇〇年 ( 明治三三 ) ごろから 建築主事 始まり、関東大震災までに、アメリカの建設会回ノーマン・デビイー著、山田幸一訳『建築材規模修繕工事などを行う場合に、建築基準法に 1 よ 0 -0- ちょうへき 士 社の請負で輸入鉄骨による帳壁式七、八階の 料の歴史』 ( 一九六九・工業調査会 ) ▽日本建築学基づいて行われる工事着工前の建築確認業務、築造さ数 建構高階延べ面積 ( E ) 会編『近代日本建築学発達史』 ( 一九七一一・丸善 ) および工事完了後の完了検査業務などを行う行 貸ビルが相当数つくられた。これらのほとんど 一級建築士 注 : * 学校 , 病院 , 白・貨店 , 劇場 , 映画館 , 観覧場 , 公会堂 , 集会場 ( オーデイトリアムを有しないものを除く ) の場合は一級建築十 456