こるべる しかし、官僚的な国家統制によ楽院で学んだのち、一九五三年に ローサンヌのノートルダム・ド・ るコル ~ 〉、ルティスムに対し、農村 ハランタン教会楽長に就任。ここ 地帯で成長する自由な半農半工の 館 手工業名は強く抵抗して、ギルドで合唱団を組織し、のちこれに器 ュ加入や工業規制に応ぜず、この面楽を加えてローザンヌ・ポリフォ イ L-n 尸 0 ワ 3 ゥー -0 っ 0 《 0 戸 0 ではコル・ ヘールの企図はあまり成ニック・アンサン。フルに発展させ サ 0 ・ ) -8 一戸 0 《 0 ワ」 -0- - は - 行 / -4 ・ -8 、 1 00 イ・ 4 ・つーっ レ ( 0 -4 ・ト 6 た。六九年、リスポンのグルべン 功しなかった。また、対外的に も、イギ リスの先進的な毛織物エキアン合唱団指揮者ともなった。 版 レ 年 CD 00 4 ・戸 0 戸 0 4- 0 ・ ) -4 ・ 11 ワ 3 ワ - -0 戸 0 ( 一 11 00 7 業、 オランダの海運業を打ち破るモンテベルディを中心としたバロ 1 ー 00 11 、 1 、 1 ゥー 1 よ -0 ・ 4 ・イ -8 Ch っ 0 -4 ・ (. 0 レ に至らなかった。そして一六 ック音楽の演奏には定評があり、 年 コ 年の彼の死 ( 七月六日 ) 後、政敵近年はバッハに意欲をみせてい お 0 ・ ) L.n 1 亠 1 ー - 00 -4 ・ -4- t•-- 1 亠 1 ーっ 1 人 11 、 1 一 -0 11 り 0 っ尸 0 ワ」ワ」 0 ・ ) 尸 0 00 ワ」版 〈今谷和徳〉 ー重臣ルテリエ LeTellier ( 一六る。 年 0 = ー会 ) 家一門ーの手に要職が移ったこともあコルホーズ KOJlx03/kol ・ コルべール Jean ・ Baptiste Colbert ( 一六 。シソ連における農業の経 一九ー公 (l) フランスの政治家。北フランスのラ って、特権マニュファクチュアや貿易会社は多 hoz ア 集 示 タ レ コルベルティスムは事実上崩れてい 営形態の一つで、 KOJlJleKTHBHOe く倒産し、 人プ ンス市に生まれる。毛織物商の家系出身。ルイ ヒ日 ル一一頭一 へ kollektivnoe hoz- X03fIüCTBO 、 \ った。これ以後、財政危機や農村の疲弊、ナン 一三世の宰相マザランの側近となり、ルイ一四 プタ 1 立思 一ク牛豚 ) 経 台民 世親政とともに、一六六五年財政総監 ( 首相トの王令の廃止 ( 一六盒 ) による新教徒産業家の yaystvo ( 集団の経営 ) の略称。礎 レ へのの くないきよう 2 戸者賃プ 0 地台台 ) 圓圓営営一邦 0 万 格 ) に登用され、さらに宮内卿、海軍卿など大量亡命などが市なり絶対王制に衰運が訪れロシア革命は古くからの地主制的 0 0 戸 ( ( も不。不タ連 。業労一い用 ) 。。 数入地化化クソ 数は就員い払農頭国則 諸要職を兼ねて、経済政策を中心に内外政務をる。 〈中木康夫〉土地所有を解体した。土地国有がズ ズ数営ズ金支ズ圓一ン家収用会会ラ 宣言されたが、一九二〇年代の土一 担当した。彼の時代が、フランス絶対王制の絶回吉田静一著『フランス重商主義論』 ( 一九六 = ・ 位一家経一賃の一口タイ農総農社社ト歔 ホ陣ホ農化ホ月日ホ牛ク 地保有は標準化、零細化した小農 未来社 ) ▽中・不康夫著『フランス絶対王制 頂期となった。 ノ目ル上会ル均人ル有ラン の構造』 ( 一九六三・・木来社 ) コルべールは、先進国イギリス、オランダに 体制であった。二〇年代の部分的コ項コ同社コ平 1 コ保トコ一コルホーズ平均注 で熱狂的な農業集団化とは質的に ール Claudette Colbert ( 一九 0 五ー 対抗してフランスを貿易大国に育成し、貿易差コルべ ) アメリカの映画女優。バリに生まれ、幼も異なる全面的強制的集団化が三〇年以降のソれてきたが、今日では職種ごとのノルマと賃率 額によって国富 ( 金銀 ) を増大することを目ざ 連農村で展開される。マルクス、エンゲルス、表に基づいた貨幣支給となってきている。自主 いときアメリカへ渡る。プロードウェーの舞台 し、絶対王制期の重商主義の典型とされるコル から映画界にスカウトされ、コメディとシリアカウッキー、レーニンという系譜で、小農体制的組織というのがたてまえだが、事実上は同じ ・ヘルティスム Colbertisme 体系を築き上げた。 あ ス・ドラマ両面で人気をよぶ。代表作は『或るは理論的に否定されていたのであり、大規模、職種の国営農場の賃率表が規準とされるように 彼の構想では、国際商業戦争に勝っためには、 なった。最高決議機関はコルホーズ員総会であ 輸出向け戦略商品 ( とくに毛織物 ) を安価かっ夜の出来事』 ( 一九一一四。アカデミー主演女優賞受機械化、集団作業こそが社会主義農業であると ひげ 賞 ) 、『青髭八人目の妻』 ( 一九三 0 、『卵と私』 ( 一九する理念がそもそもあった。ただし性急さは戒り、そこで議長、理事長などが選挙される ( 任 大量に生産することが必要であった。そこで、 〈日野康一〉められ、実物での説得という方法が主張されて期三年 ) ということになっているが、事実上、 穀物価格 ( 食糧費 ) の引下げ政策によって工業四七 ) 。 いたのであるが、二〇年代末ごろの穀物調達危大きいコルホーズなどの議長人事は上部機関が 生産者のエ賃の低下を図り、また織物を輸出適コルべンハイヤー Erwin Guid0 KOI- ー一九六一 D ドイツの作家、思機を契機に行政的方法での全面的集団化がスタ握っている。一九三五年第二回コルホーズ員大 benheyer ( 一八支 格商品にするため綿密な工業規制 réglements ーリンのもとで断行されたのである。クラーク会の模範定款が長く用いられてきたが、プレノ を生産者に強制した。同時に、全国の都市、農想家。プダベスト生まれ。ウィーン大学で哲 らくいん 村の生産者にギルド組織への強制加入を義務づ学、自然科学、心理学を学ぶ。処女作の戯曲 ( 富農 ) の烙印を押された人々数百万人が犠牲ネフ下で六九年第三回大会が開かれ新定款が採 け、そうした工業規制の徹底化と、製品の指定『ジョルダーノ・プルーノ』 ( 一九 0 三 ) 、スピノザとなったのみならず、農民は抵抗の一つの形と択された。コルホーズ民主主義の強化、農業の 輸出商への強制集中を図った。他方、王立またを主人公とする長編小説『神を愛す』 ( 一九 00 、して家畜を殺してしまったので、ソ連の家畜は工業化、個人副業経営の地位向上などが柱であ 一挙に半減した。この回復は五〇年代後半までるが、コルホーズのソフホーズ化、すなわち事 小説三部作『パラケルスス』 ( 一九一七 ~ = 六 ) など、 は国王特許による特権マニュファクチュア ( 作 しやし 実上の国有化はいっそう強まっているとみられ 業場 ) を各地に設けて、毛織物のほか奢侈品正統的な思潮に抗する歴史上の異端者の孤独でなされない。当初コムーナ、トーズ、アルテリ 悲劇的な生涯を題材とする作品が多い。「民族と三形態あった集団農場は、こうした小農の抵る。人事面での上部機関のカの増大もそうだ ( ゴプラン織など ) 、ガラスなどを生産させた。 こうした工業育成策を基に、徹底した保護貿易生物学」なるもののうえに個人と集団の関係を抗も考慮しつつ、住宅、家畜の一部、小生産用が、農産物買付価格システムは今日国営農場の けいじじよう 政策をとり、輸出を奨励すると同時に、輸入製意味づけようとする俗流形而上学的体系の書具、個人副業経営などを個人が保有することをケースとほとんど一体であるし、賃金もスター はじよう リン時代とは異なり国営農場員の賃率表が適用 品には禁止的保護関税をかけた。また、東・西『建築小屋』 ( 一九一三 ) にはナチズムとの内的親近基礎としたうえで、大圃場、施設、大畜舎など インド会社、レバント会社などを設立または発性が歴然とみられ、異端者崇拝と相まって、ナを社会化し共同労働で営むアルテリ型に落ち着されるケースが増えている。さらに装備や施設 いた。それゆえコルホーズは一般に協同組合農などへの投資 ( 基本投資 ) では国家投資の比重 展させ、海軍・海運を育成して海外経営に乗りチス時代の代表的な作家とされた。〈池田浩士〉 が増え、コルホーズ自身の投資といわれるもの 場と訳される。 出し、ついにオランダとの戦争 ( 一六七 = ~ 天 ) に回手塚富雄訳『神を愛す』 ( 一九五三・筑摩書房 ) 社会化経営でのコルホーズ員への分配は、労も、内実は国立銀行の融資を受けた資金に基づ 突入して、フランシュ・コンテやフランドルコノホ Michel ()orboz ( 一九三四ー くものが激増している。スターリンは、コルホ ールに生まれ、同地の音働の質と量に応じての作業日という単位で行わ イスの指揮者。フリゾ ( 毛織物地帯 ) 諸都市を獲得した。 0 1982 25 . 9 12 . 6 12 . 9 20 . 0 128.9 21 . 8 169 . 6 48 . 1 1 075 324 487 1 853 1 086 41 1 980 25 . 9 12 . 8 13 . 3 18 . 8 116 21 . 1 101 . 1 47 . 9 1 057 300 492 755 1 844 1 085 41 一三卩 650
この制度は、裁判官公選の弊害を痛感したアり、その論調は政界に大きな影響力をもった。 領域は、国民所得分析を主要内容とし、経済の報告 ) されるようになった ( それ以前の年次お メリカ合衆国において、一九三七年アメリカ法一九〇五年には日露講和条約支持で、一三年 現状分析、予測分析、計画分析や政策分析に広よび戦前のある期間についても部分的な試算な く応用されている。そうした理論体系の基礎 いし推計は行われている ) 。それらはおおむね曹協会によって、各州で行われている裁判官公 ( 大正一 I) の憲政擁護運動でも桂内閣を支持し て民衆の襲撃を受けたが、根強い蘇峰信者の支 。いくつかの先駆はあったが、 ・・ケイ五三年に発表された国際連合の国民経済計算の選にかわるものとして考案された。すなわち、 ンズの著書『雇用・利子および貨幣の一般理基準 ( 一般に旧 T)Z< とよばれるもの ) に沿っ法曹協会が裁判官の選任を一定の条件のもとに援を得て紙勢は衰えず、大正中期には二〇万 ~ 二五万部を維持した。しかし関東大震災 ( 一九 論』 ( 一九三六 ) によって与えられ、ケインズ革命て作成されてきた。この基準は、国民経済活動行政部にゆだね、一定期間後に国民投票によっ 一一三 ) で社屋、印刷所が被災、経営は苦しくな とよばれた展開を通じて、ケインズ経済学としの全循環過程を網羅したものではなく、そのうてこれらを罷免しうるという制度を考案し、こ かいちろう て発展した。その見方の基本は、国民総生産やちの財貨・サービスの「もの」についてその一 の方式を各州で採用するよう積極的な運動を起り、根津嘉一郎の援助を受けたが、蘇峰と意見 があわず、二九年 ( 昭和四 ) 蘇峰は退社した。 国民所得、雇用量など、経済全体の活動の規模定期間における流れ ( フロー ) の量を生産、分こしたのに始まる。しかし、その勧告に応じた 以後、経営者の交替相次ぐが、新聞統合で がどのようなレ・ヘルで決められるかの、因果配、支出の三面について計測すること、すなわのは現在までミズーリ州だけであった。 みやこ 日本では、最高裁判所裁判官に対する民主的『都新聞』と合併、四二年一〇月『東京新聞』 的、相互依存的な解明にある。社会全体の有効ち国民所得勘定の計測に限定していたため、こ 〈春原昭彦〉 となる。↓東京新聞 需要は消費と投資とに大別することができる。れまでの国民経済に関する計算体系は「国民所なコントロールの方法として、国民投票によっ したがって問題は、いかなる要因によって消費得統計」とよばれてきたのである。一九六八年てこれを審査することが憲法に定められてい国民性、一くみんせい national character に国際連合は、旧を改訂し、一国の経済る。その国民投票は任命後の最初の衆議院議員一つの国家の構成員 ( 国民もしくは民族 ) に特 需要の水準が社会的に決まり、どのような誘発 要因に支えられて社会全体の投資需要が決まる活動の全循環過程を「もの」と「かね」および総選挙のときに行い、その後一〇年を経過した徴的にみいだされる、持続的な性格特性または 独自な生活様式をいう。民族性、民族的性格と のか、そしてこの両者からなる総需要よ、、、 。しカフローとストックのあらゆる側面から総合的のち初めて行われる衆議院議員総選挙のときさ らに行い、その後も同様とする。投票者の多数よばれることもある。行動の型から推測され に、かっ整合的に把握できるようにする新しい なる決定機構を通じて社会の総供給に対応する た、それそれの国民 ( 民族 ) に固有な心理的特 のか、これら諸点の仕組みが問われる。また、国民経済計算の基準 ( 新 T)Z<) を発表し、そが罷免を可としたときは、その裁判官は罷免さ 総生産の財貨市場に対して、貨幣市場の需給関れ以後、各国はこの基準に沿った統計体系へ移れる ( 憲法七九条三項 ) 。この制度は憲法第一徴をさしている。 五条の国民の公務員選定・罷免権の一つの表れ〔文化とバーソナリティー〕一般に、アメリカ 係、生産要素市場での雇用決定も、分析の主要行することになった。わが国では一九七八年八 課題となる。そして、これら諸市場相互間の全月以降、この新体系へ移行し、それにより、以であり、その働きは任命の事後審査とリコール人は自由独立の精神に富み、ロシア人は万事に 体的な相互依存を究明する分析の諸側面が加わ後の国民所得統計は、産業連関表、資金循環の二側面をもっている。国民審査が最高裁判所わたって大まかでのっそりしており、イギリス 人は法や規則に忠実でフェア・プレーを好み、 って、国民所得の理論体系は成り立っている。表、国民貸借対照表、国際収支表の四勘定とと裁判官にだけ適用される趣旨は、それが非常に 近年、マクロ経済学は、ケインズ派の需要面重もに整合的な国民経済計算体系のなかに、その重要な地位であり、その在任について国民の判中国人は祖先崇拝と面子を重んずる。そして日 視に対して供給面重視の復活、実物面経済に対中心的な勘定として組み込まれることになっ断の機会を認めることが民主主義のたてまえか本人は、いつも集団になって行動し、皆の前で 恥をかくことを恐れる。フランス人が芸術好き た。↓国民経済計算↓国民所得〈高島忠〉 ら望ましいと考えられたためである。 して貨幣面再検討の登場などで、新たな展開が なのに対して、ドイツ人は論理一点張りだし、 しかし、もともとこの制度は裁判官公選制に 進められている。↓国民経済計算〈宮沢健一〉 国民所得倍増計画 ) くみんしよとくばいそう 経済審議会の答申を基に、一九六〇かわるものとして考えられたもので、公選制のオランダ人は締まり屋だ、ラテン系の民族は陽 回宮沢健一著『経済学全集Ⅱ国民所得理論』 伝統のないわが国では、裁判官についての知識気で情熱的だ、などと評される。 三訂版 ( 一九会・筑摩書房 ) ▽経済企画庁国年 ( 昭和三五 ) 一二月池田勇人内閣により閣議 しかしこのような記述は、各民族の性格を印 民所得部編『新 GOZ< 入門』 ( 一九七九・東洋経決定された経済政策の基本方針で、高度成長政が薄いところから、この制度の是非がしばしば 済新報社 ) ▽経済企画庁編『国民経済計算策の基礎となった計画。一九七〇年までの一〇論議の対象とされてきた。事実、国民審査によ象批評的に語っているだけであり、かならすし もそこに科学的な根拠があるわけではない。国 り罷免された裁判官は現在まで一人もないとい 年間に国民総生産を倍増させることを目標とし 年報』各年版 ( 大蔵省印刷局 ) うだけでなく、罷免を可とする投票は、否とす民性を科学的に説明するためには、それぞれの て年平均成長率を七・一一 % に設定し、積極的な 国民所日統計、一くみんしよとくとうけい na ・ tional income statistics 国民経済がその生財政金融政策による社会資本の拡充と大企業中る投票の一〇 % 前後にすぎず、現状維持的な決国民がどのような文化のなかで生まれ育ったの か、そしてまた、その文化の特徴を反映した形 心の投資配分計画、労働力流動化の促進、人的定しか生み出していないとの批判もある。しか 産活動によって一定期間に生み出した純粋の し、なによりも主権者である国民に、最高裁判で、いかなる性格が共通に形成されているか、 ( 二重計算を取り除いた ) 価値額を、経済活動能力開発のための技術教育の推進に重点が置か の循環過程に即して生産、分配、支出の三面かれた。結果的には計画を上回る高成長が実現さ所の構成についてコントロールの権利を認めるといった点がはっきりつかめていなくてはなら 。こうした点を研究する分野は心理人類学 らとらえ、それらの等価関係としてまとめた統れたが、公害、物価上昇、格差の増大、社会保ことは、直接民主制にとって当然であり、少な くとも政府の情実人事に対する安全弁としての psychological anthropology とよばれている。 計の体系をいう。この統計は一国の経済活動の障の立ち後れなどのひずみを生んだ。また政治 もともと心理人類学は、文化とその成員のパ 水準をマクロの ( 巨視的 ) 視点で具体的に把握的には、日米安全保障条約改訂後の政治的緊張役割は果たしうると考えられる。そのためには ーソナリティーとの相互規定関係を明らかにす その審査・手続に関してよりよい手段が望まれ から国民の関心を転換させる役割を果たした。 するうえで重要なものであり、一八世紀ごろよ 〈池田政章〉る学問であるが、この立場から国民性の問題に 〈伊藤悟〉る。↓最高裁判所 ↓高度成長政策 り各国でその推計作業が行われてきた。わが国 こくみんしんぶん一八九〇年 ( 明最初に接近したのは、ベネディクト、マーガレ 国民新聞 では、第二次世界大戦後の一九四六年 ( 昭和一一 国民審査くみんしんさ national review いちろうそほう ット・ミード、ゴーラー Geoffrey Gorer ( 一九 一 ) に、連合国最高司令部 ((.EC) の作成勧直接民主制の一つで、一般に国民が直接に法治二三 ) 二月一日、徳富猪一郎 ( 蘇峰 ) が創刊 ) などのアメリカの文化人類学者であっ み・告を受けてから本格的な国民所得統計の整備作律、公務員などを審査する制度をいう。日本でした日刊紙。当初青年層の圧倒的人気を得てい につしん た。もっとも、それは、第二次世界大戦中に、 たが、日清戦争後、蘇峰が桂太郎に接近したた は、内閣が任命した最高裁判所裁判官を国民が / 、業が行われるようになり、五三年発表の「昭和 め、かわって官僚、軍人の支持を得るようにな敵国、同盟国、自国の民族的性格をよく知り、 一一六年度国民所得報告」以来、毎年作成 ( 閣議国民投票によって審査する制度をさす。 はやと かつら 217
長していった。 しかし国民政府内部の左右の対立は、蕗介石に ドの政治と社会』 ( 一九六九・法政大学出版局 ) ピ、トウリーナらの近代の作曲家にも受け継が なんしよう 第二次大戦後インドは、内外情勢の交錯する ▽中村平治著『世界現代史 9 南アジア現代れている。新大陸においてはアメリカのコープよる南昌占領後、決定的段階に達した。蕗介 シャンハイ ランド、ガーシュイン、アイプス、バ 動乱期に、パキスタンと分離する形をとったが 史—インド』 ( 一九七七・山川出版社 ) ーンスタ石は二七年四月一二日、ます手始めに上海でク ーデターを引き起こし、ここに第一次国共合作 こくみんかいへいせい近代国家イン、メキシコのチャベス、プラジルのビラ・ 一九四七年八月一五日に独立を達成した。この国民皆兵制 ぎせつ 〈アルバレス・ホセ〉 ロポスらがあげられる。 過程でも決定的な役割を果たした会議派は、五形成期の一八世紀末にフランスで成立した制 は終わり、国民革命は挫折した。それ以降、真 こくみんかくめい中国、第一次国の意味の国民革命の課題は、中国共産党と党が 〇年一月二六日のインド憲法施行後、第一回総度。フランス革命の発端となった一七八九年七国民革命 選挙において圧勝し、ネルー政権のもとで、対 月のバスチーユ襲撃の直前に組織された民兵が共合作期の革命運動。一九二〇年代に入り、中指導する人民大衆の新民主主義革命へと引き継 〈山下龍三〉 外面では、先の朝鮮戦争における和平提案に続その後、国民軍 garde nationale とよばれる国国民党が三民主義に反帝国主義、反軍閥の内がれていった。 めいりよう いて、日印平和条約の調 ノントン会議の主ようになった。一七九〇年に国民軍は義務制と容を明瞭に盛り込み、連ソ・容共・エ農扶助国民学校こくみんがっこう一九四一年 ( 昭 催と独自の平和外交、非同盟中立外交を積極的なり、さらに一七九三年の国民総徴集法によっ の三大政策を打ち出し、それにより国共合作が 和一六 ) の国民学校令の公布から四七年の学校 に打ち出し、内政面では、議会制民主制を堅持てすべてのフランス国民が常時軍務に徴集され成立して以後、五・三〇事件に始まる民族解放教育法の公布まで存続した、わが国の初等学校 しつつ、五か年計画の立案実施、社会・文化・ ることになった。こうして成立した国民皆兵の闘争が空前の高まりをみせた。これが国民革命 ( 小学校 ) の名称。従来の教科を国民科 ( 修身、 教育面での改革事業と取り組み、「社会主義型思想に基づく国民軍は、それまでの国内治安維とよばれるものである。この国民革命の高まり国語、国史、地理 ) 、理数科 ( 算数、理科 ) 、体 社会」の建設に着手し、ネルーの死 ( 一九六四持の任務から離れ、志願兵制の正規軍とともに のなかで、国民政府は中国共産党の支援、協力錬科 ( 体操、武道 ) 、芸能科 ( 音楽、習字、図 年五月二七日 ) 後の会議派内閣によっても、こ もつばら外敵と戦うこととなった。すなわち、 のもとで北方軍閥の打倒を目ざす北伐戦争を開画及工作、裁縫 ) の四教科に統合し、太平洋戦 ようへい しようかいせき の基本線は踏襲されてきたといえよう。しか国民国家の形成に伴い、国王の傭兵ではなく、 始することを決め、二六年七月蒋介石を総司争への総力戦体制に対応して言行一致・心身一 し、一九七七年の第六回総選挙にあたり、イン 一般市民が国家のために戦うという新たな状況令として国民革命軍を北上させた。北伐軍は早体の皇国民錬成の教育を目ざした。学校行事や せつけん ごはいふそんでん デイラ・ガンディー首相の強権政治にかねてか が生まれた。国民皆兵制はナポレオン遠征の影 くも年内に南方の六省を席巻し、呉佩孚、孫伝団体訓練が重視されたのも、この時代の反映で ちょうさくりんたいじ あろう。国民学校は初等科六年、高等科一一年と ら反対していた右派国民会議派が、社会党、ジ響でヨーロッパ各国で採用されるようになり、らの軍閥を破って北方の張作霖と対峙した。 ャン・サン、とともに新たにジャナタ党日本でも一八七三年 ( 明治六 ) の徴兵令で一定 し、この八年を義務教育と定めたが、実施延期 に諸さナ を結成し選挙に大勝し、会議派 ( インデイラ の年齢の男子に兵役義務を課す国民皆兵制が導 のまま終戦を迎えた。↓小学校〈津布楽喜代治〉 夜景的定ル 日光分決カ こくみんぎかい Assemblée na- 派 ) は史上初めて少数党に転落した。その後、入されたが、国民に近代的国民国家の一員たる 国民議会 4 場身が 月議で棄リ館 tionale 冖 ・デサイ内閣の内紛が続き、一九八〇年の第市民意識が乏しいこともあって、真の国民皆兵 普通、フランス革命初期に成立し 会 8 た議放。ハ物 議年れ会の。博 〈亀野邁夫〉 七回総選挙では、ふたたびインデイラ派が圧勝制を確立するには至らなかった。 たフランス最初の国会をさすが、第三共和政初 民田かの権たレ し、ジャナタ党は中央ばかりか、 期の国会、および第四、第五共和政の下院を、 国ⅱ開こ特れ 州議会におい国民木派くみんがくは nationalist school ても議席数を激減させた。しかし、その後パン 一九世紀中ごろから二〇世紀にかけて、主とし いずれもフランス民主主義の伝統にちなんで国 , ョニ一 ジャープ州を中心とするシク教徒の反政府連動てヨーロツ。ハ音楽の主流をなしていなかった地 民議会とよぶ。 が激化し、八四年六月ついに政府軍はアムリッ 一七八九年五月にベルサイユに招集され、フ 域を中心におこ 0 たナシナリズム ( 国民主一一「、こいー ツアルのシク教大本山ゴールデン・テンプルを義 ) 音楽を総体的にとらえた呼称。この一派の ランス革命の発端となった三部会から、第三身 爆破、同年一〇月三一日のインデイラ首相暗殺 作曲家は、ロマン派音楽の手法にもっとも強く 分のプルジョア代議員たちが分離、六月一七 へと事態は発展した。一方南インド諸州の地域影響を受けながらも、自民族に継承されていた 日、国民の代表として国民議会の呼称を採用、 同月二〇日、「テニスコートの誓い」で、王国 主義の動きも活発化し、反中央・反会議派の姿音楽や伝説などに着目し、創作活動を行った。 そうりよ 勢を明確にしつつあり、新しく誕生したインデ国民楽派の典型は、グリンカに始まり、いわゆ の憲法制定まで解散しないことを誓い、僧侶・ イラの長男ラジプ・ガンディー政権の前途は決る「五人組」と称せられているキュイ、バラキ 貴族の代議員も合流、王権もこれを認めた。七 へいたん リムスキ して平坦ではない。 レフ、ポロジン、ムソルグスキー 月九日「憲法制定国民議会」と改称され、反革 ・コルサコフに受け継がれたロシアにあると 会議派は今後も分派抗争を続けると予測され 命側はその弾圧を図ったが、革命的民衆の支援 いえよう。しかし、チェコスロパキアのスメタ るが、政党の内部対立はその本性上不可避とも のもとに議会は活動を開始した。八九年一〇 いえる。それは時の内外の政治情勢により左右ナ、ドボルザーク、ヤナーチェク、ハンガリー 月、バリに移り、国民主権、立憲王制、三権分 のバルトークとコダーイ、スカンジナビアのガ されるが、より根本的には、政党の拠ってたっ 立、制限選挙の一院制などを含むフランスで最 ーゼ、グリーグ、シ・ヘリウスも忘れてはならな 社会的基盤に起因する。多様なインド社会に国 初の憲法「一七九一年憲法」を制定後、九一年 - を宅、砂、 い存在である。一方、かっては他国に比して優 民的統一を生み出すための真の国民政党が期待 九月三〇日解散した。この間、「封建的諸権利 されるとすれば、目下会議派以外にはない。なれた音楽文化を一小しながら、しだいに影の薄く 廃止宣言」や「人権宣言」を発して近代化を進 め、教会財産没収と国有化、後の紙幣アッシ一一 お、一九八四年一二月の総選挙では会議派 ( ラなっていった国でも、国民楽派とよばれる作曲 0 ! なをイ ~ を んジプ派 ) が圧勝、改選五〇八議席中四〇一議席家が登場。イギリスではエルガー、ホルスト、 ャ発行、聖職者基本法制定などによって財政、 みを獲得した。 〈古瀬恒介〉ポーン・ウィリアムズらにその傾向が顕著にみ 宗教問題に取り組み、また行政機構・区画の整 2 、回山本達郎編『世界各国史インド史』 ( 一九られ、スペインでは、ドレルに続くアルべニス 備、司法改革を行い、国内関税やギルドを廃止 六 0 ・山川出版社 ) ▽坂本徳松著『現代インとグラナドス、さらにファリヤ、ニン、チャ して経済上の自由主義を発展させた。一方、戒 2
めに設置されている特別会計。この国債整理基 について、事業者または船主 ( 航空機、原子れてきた。メジャーのなかでも、八四年三月に 間国際組織 (—OO) といし 、民間の非政府組対 織 (ZOO) とは区別される。今日二五〇余あ 六、金にあてるべき資金は、一般会計または特別会力、海洋汚染による損害 ) のほか国家 ( 宇宙損はガルフ石油がカリフォルニア・スタンダード 計より国債整理基金特別会計に毎年度繰り入れ害 ) に対しても、条約上、無過失責任を課する石油 ( 八四年七月にシエプロンと改称 ) に買る国際組織のうち、すべての国に加入を開放す られている。国債の償還財源の繰入れについて例もあり、また、環境保全に関する国家の注意収・合併されて姿を消し、六大メジャーに集約る普遍的組織としては、国連、専門機関 ( 一 は、①前年度の四月一日における国債総額の一義務を国際基準化するなど、国際法上も危険責化されている。↓国際カルテル 〈秋山憲治〉五 ) 、国際原子力機関、国連の専門技術協力機 〇〇分の一・六に相当する金額を一般会計また 任主義の適用をみるようになっている。国際責 E)< ・サンプソン著、大原進・青木栄一訳『セ関 ( 国連開発計画、国連貿易開発会議など ) が は特別会計から繰り入れる ( 定率繰入れ ) とと 任を解除するには、加害国は、原状回復、陳 プン・シスターズーー不死身の国際石油資ある。また、一定地域の連帯を進めるため、加 もに、②前々年度一般会計決算剰余金の一一分の謝、損害賠償、責任者の処分、再発防止の確約 本』 ( 一九七六・日本経済新聞社 ) 入の範囲を限定した地域的組織もある、 一以上の繰入れ ( 剰余金繰入れ ) を行うほか、 などの措置をとる。 〈山本草二〉 O<TJ など )。次に目的・任務の面で、包括性 国際戦略研究所こくさいせんりやくけんきゅ うしょ lnternational lnstitute for Strate- こくさいせきゅしほん一般し をもっ政治的組織 ( 一九世紀の欧州協調を起源 ③必要に応じて予算措置による繰入れ ( 予算繰国際石油資本 入れ ) を行うことになっている。国債整理基金は国際石油カルテルを構成する国際的な巨大石 gic Studies 略称——cocoo 核時代の国際安とし、国連、、 0<G0 など ) と、目的が特 の資金は、原則として、国債を保有するか、資油会社七社をさす。メジャー Ma 」 or (lnterna ・全保障問題を研究する目的で、一九五八年ロン定の行政分野に限られた組織 ( 一九世紀の行政 金運用部への貸付にしか使えないが、例外的に tional 9 一 Majors の略称 ) ともいわれ、米系ドンに設立された民間の研究機関。会員制をと連合、専門機関、地域的組織 ) がある。国際組 歳入欠陥の填に使うことができる。一九八二 のエクソン、モービル石油、ガルフ石油、テキっているのが特徴で、六〇を超す世界各国から織はその基本条約の範囲内で固有の意思を設定 年度 ( 昭和五七 ) 以降は大幅な財政赤字が出てサコ、カリフォルニア・スタンダード石油、英順繰りに研究員が招かれている。個別研究の成し ( 全会一致、多数決、加重投票、コンセンサ らん いるため、定率繰入れは行われず、逆に歳入補系のプリティッシュ・ベトロリアム、英蘭系の果は『アデルフィ・ペー ーズ』ゝきミ Pa- ス ) 、国際法上の法人格性と法律行為能力 ( 特 填に使われている。 〈藤野次雄〉ロイヤル・ダッチ・シェルの七社で、これらが ) とよばれるパンフレットで随時発表され権免除、条約締結権、国際責任の当事者適格 ) せきじゅうじ 国際赤十字 こくさいせきじゅうじ 0 赤十字多くの面で結束をみせることからセプン・シスるほか、隔月刊の機関誌『サバイバル』 S ミ ~ ) ・ をもつ。国際組織は、超国家組織 (QO) によ こくさいせきにん international 国際責任 ターズ Seven Sisters ( 七人姉妹 ) とも称されミにも掲載される。情報提供も重要な活動のる統合機能を除けば、一般に調整機能 ( 情報交 responsibility 国際法上の義務の違反または た ( このほか仏系のフランス石油がメジャーに 一つで、毎年発表される『ミリタリー バラン換と行政事務の標準化の促進 ) 、助長機能 ( 加 不履行 ( 国際違法行為 ) に伴い、その事後救済加えられることもあるが、規模は前記七社に比ス』 M ミ、ミ B ミミミと『戦略概観』 S 、、ミ e を c 盟国内での条約目的の漸進的達成 ) 、行為規範 のため国際法上負う責任のこと。国際責任の成べるとかなり小さい ) 。これら巨大石油企業は、 S ミ -vey は、世界の軍備および軍事情勢に関す設定機能 ( 各国の行政事務の基準、立法措置を 立要件としては、 ) は国家による国際法違反の作探鉱、開発、採油などから、タンカーやパイプるもっとも権威ある資料のなかに数えられてい 定める ) 、職務執行機能 ( 集団的活動の決定、 為または不作為の存在 ( 客観的要因 ) 、図発生ラインによる輸送を経て、精製、貯蔵、販売、る。そのほか年次大会および各種のセミナーを私人に施設・便益・役務を提供するための事業 した違法行為の国家への責任帰属 ( 主観的要さらに石油化学に至るまで垂直的統合を成し遂主催し、各国の安全保障問題専門家に意見交換の執行 ) などを行い、決定または勧告により、 因 ) 、③損害の発生 ( 財産・人身に関する有形げ、世界的規模で支配、経営を行う典型的な多の場を提供している。 〈木村修三〉 加盟国の国内法と国内行政に対し介入し多くの 損害のほか、国家の保全・威信など無形損害を国籍企業である。これまで世界市場では互いに 影響を与えている。第二次世界大戦後、国際組 国際測地学地球物理学連合こくさいそく 含む ) がある。さらに、侵略、強力による植民激しい競争を展開しながら、必要に応じて協定ちがくちきゅうぶつりがくれんごう lnternational 織は国連と有機的に連関し、国連システムを形 〈山本草二〉 地支配、集団殺害、アバルトヘイト、大気・海をはじめとする各種の手段によって協力しあう Union of Geodesy and Geophysics 略称成している。 ツ、一ノ、き、し子′し、刀 / 、 洋の大量汚染など、国際社会の基本的利益の侵形をとってきている。 私立。一九八二 国際学術連合会議傘下国際大学 害は、国家の国際犯罪とみなされる。これは、 第二次世界大戦後、メジャーは中東地域などの地球物理学の国際学術組織。一九一九年に測年 ( 昭和五七 ) 、国際社会に対応できる国際人 特定の他国に対して負う義務とは区別して、国世界の主要石油生産地の大半を支配していた 地、地震、地球電磁気、気象、海洋、火山の各の養成を目的として、経済界の支援により設置 際社会の全構成員に対して負う普遍的義務 ( 一 が、一九六〇年の ( 石油輸出国機構 ) 国際協会が連合して結成し、一九二一一年には陸された。日本で初めての大学院から発足した全 おおきたさぶろう 九七〇年バルセロナ電力会社事件、国際司法裁の結成に象徴されるように、資源保有国におけ 水学も加盟した。地球の気圏、水圏、岩石圏、寮制の大学。中山素平理事長、大来佐武郎学長 判所判決 ) の違反である。このような国際違法るナショナリズムの高まりとともに、産油国のさらに最近では、地球周辺の空間や惑星などに のもとで、修士課程の国際関係学研究科を開 行為の責任を追及するには、今後、現実に損害事業参加、国有化が進められ、メジャーの独占関連する、広い意味での地球物理学を発展させ講、国際関係学と地域研究の学際的統合を目ざ を受けていない第三国にも当事者適格を与え、的地位もしだいに低下していった。とくに七一一一ることを目的とする国際団体である。最近の総し、英語による授業を中心として外国人教師や 民衆的争訟の制度を認めることが必要である。年の石油危機では、原油の生産量および価格の会はソ連のモスクワ ( 一九七一 ) 、フランスのグル学生を活発に受け入れるなど、国際性を重視し また、右の三要件のほか、学説上対立はあるも決定権をに奪われるに至った。しか ノープル ( 一九七五 ) 、オーストラリアのメルポルている。初年度 ( 一三 ) の入学者数は五六名 のの、国家機関による故意・過失という要因し、メジャーは精製、販売、あるいは探鉱、開 ン ( 一九七九 ) 、西ドイツのハン。フルク ( 一三 ) でで、うち外国人は一五名、企業派遣学生は三三 も、かならずしもすべて①の客観的要因に包摂発技術などの面ではいまだに大きな優位性を保開催された。 〈河野長〉名、専任教師は二四名 ( うち外国人は四名 ) 。 できる ( 客観責任主義 ) ものではなく、私人に こくさいそしき international or ・民間による新構想実験大学の一つとして注目さ っており、また石炭、原子力などの石油にかわ国際組織 やまと よる侵害行為の防止・排除についての国家の注るエネルギー開発にも進出するなど、世界のエ ganization 多数国間条約 ( 基本条約 ) によれている。所在地は新潟県南魚沼郡大和町大字 〈喜多村和之〉 意義務を認定する基準として重要である。現ネルギー市場での支配力は依然として強いもの って設立され、国家を構成単位とする組織体で穴地新田七七七。 に、近年、科学技術の進歩に伴い、「高度の危がある。 あって、これら加盟諸国の共通利益を継続的に国際貸借説こくさいたいしやくせつ theory 一九七〇年代の二度の石油危機を経て、八〇達成するため、固有の常設機関 ( 総会、理事 of international indebtedness イギリスの 険性を内蔵する」事業活動の分野では、国際法 上禁止されていない行為から生じた第三者損害年代に入ると、国際石油業界の再編成が進めら会、事務局 ) と権能をもつもの。厳密には政府銀行家であり政治家であった・・ゴッシェ
こんいん 〔図 D 〕交差いとこ婚 まず、モルガンが唱え、社会主義者エンゲルスが継承した妹の子供同士たるいとこをさす ( 図 Q)O これらの婚姻がなる。ただ、この売買婚にも、花嫁代償の価値が低くて、嫁の とうた 「遺伝弊害Ⅱ自然淘汰説」がある。近親婚には遺伝的弊害が にゆえに優先的婚姻とされているかという理由については、人身に対する対価という意味が欠如している場合と、文字ど 伴うゆえ、近親婚を行う部族は衰微するが、近親婚を排除し おり嫁の売買という性格の備わった場合とがある。この後者 もちろん民族や社会ごとに異なるであろう。ただ、レビレー た部族は興隆するのであり、この自然淘汰の過程から近親姦 ト婚については、子供を残さなかった亡兄のための代理生殖の場合、経済力のある男性が多くの妻をめとり、一夫多妻制 禁忌や氏族外婚制が派生したとする説である。また、略奪婚の機能を果たす場合や、花嫁代償が高額に及ぶ所では、そのが派生するのである。 が慣習的となることによって外婚制が生じたとする「略奪婚支払いで求められた嫁は弟たちによって相続さるべきである〔労役婚〕労役婚とは、婿が嫁方の親族のもとで一定期間 起源説」が、マクレナン J. F. McLennan 、スペンサー とする要求が働く場合もあろう。また、レビレート婚とソロ労役に服したうえで嫁を自家に連れてくる婚姻である。この ラボックらによって提唱された。この場合、略奪婚が慣習化 レート婚が、兄弟型一妻多夫制や姉妹型一夫多妻制と連係し労役婚は売買婚と結び付くことがある。すなわち、花嫁代償 する要因については、論者によって見解が異なっていた。マている場合もあろう。交差いとこ婚については、母系制のもを全部もしくは一部、調達しえない男性が、その分を労役に よって肩代りすることがあり、他方、労役婚が慣習となって クレナンは、女児殺害の習俗による嫁不足をその要因とみ、とでも父系制のもとでも、それが外婚的規範に抵触しないと いる所で、富裕な男性が一定額の支払いをなして労役を免除 スペンサーは、略奪で得た婦人には戦勝記念品としての価値 いう理由があげられよう。ただ、単に外婚制に抵触しないと してもらうことがあるからである。つまり、婚姻の対価たる が伴うため、好戦部族の間で婦女略奪の習俗が生じたと考え いうためならば、「交差いとこ」がとくに好ましい配偶者と た。また、原始期に婦女共有制があったという立場にたってされる理由は成り立たず、別個の理由が求められねばならな花嫁代償と労役とは、多くの場合、互換しうる関係にあるの いたラボックは、略奪で得た婦人には個人的専有が成立する いであろう。なお、「交換婚」を優先的婚姻とみる立場があである。 とみなし、婦人の個人的専有への欲求から略奪婚が慣行的とるが、これは、後述の「対価を伴う婚姻」に含めて考察する〔居住規制と成立手続〕〔居住規制〕新婚夫婦が居住する場 所は「婚舎」といわれるが、この婚舎は、親族共同体が重要 なったとみた。さらに、エリスの性心理学の理論に基づいてほうが適切であろう。 ウエスターマークが提唱した「性的嫌悪の心理学説」が存す〔婚姻の対価〕〔対価を伴う婚姻〕近代以前の社会では、婚な意義をもっていた近代以前の社会では、夫の親族共同体の る。幼少期から共同生活を送ってきた近親者の間には、性的姻は個人相互の契約たるよりは、二つの親族 ( ないし家 ) 共圏域内か、妻の親族共同体の圏域内かのいずれかに設けられ た。そのいずれに設けるかが当事者の任意にゆだねられる場 な事柄を想起するだに穢らわしいとする性的嫌悪の感情があ同体の間の契約という性格を帯びるが、その場合、嫁 ( また 合もあったが、一般にそれは社会的に規制されていた。すな り、この感情から近親姦禁忌が派生したという考え方であは婿 ) の帰属が一方から他方へ移るために、共同体間に利害 る。最後に、レビ・ストロースが主張した「配偶者交換理得失の問題が派生することになる。ここに、配偶者を受け取わち、妻方の共同体に婚舎を置く「妻方居住婚」、夫方の共 論」がある。これは、近親姦禁忌や外婚制が集団間におけるる側は引き渡す側に対してなんらかの補償が提供されるので同体に置く「夫方居住婚」、母方の伯 ( 叔 ) 父のもとに婚舎を 配偶者の交換を図り、それによって部族社会全体の統合を期あり、この補償を人類学では「対価」といい》 、その対価の提設ける「伯 ( 叔 ) 父方居住婚」、前記の労役婚のように婚姻当 する掟であるとみる学説である。このように近親姦禁忌や外供が成立の要件とされている婚姻は「対価を伴う婚姻」とよ 初の一定期間を妻方で暮らしたのち夫方に移る「妻方ー夫方 婚制の起源についていくつかの見解が示されたが、この問題ばれている。そしてそれには、「交換婚」「売買婚」「労役婚」居住婚」、また夫妻が結婚後もそれそれの共同体のもとにと つまど どまって同居せず、婚姻生活が夫の訪問 ( 妻問い ) によって は、人類の生成にもかかわるだけに、永遠に解けない人類学の三婚姻形式が存在する。 居住規制によってさまざまの婚 的課題ともいえよう。 〔交換婚〕交換婚とは、配偶者を得る代償として自己の親族営まれる「訪婚」等々 〔優先的婚姻〕障害的婚姻とは逆に、社会が一定の間柄の人を相手方の配偶者として提供する取決めを伴った婚姻であ姻形式がみいだされる。なお、右の諸形式とは異なり、夫妻 のいずれの共同体からも独立した社会空間で婚舎を設定する との婚姻を好ましいものとみなし、人々がこのような相手をる。交換婚のほとんどは ( 後述の ) 夫方居住婚であるので、 配偶者に選ぶことを積極的に期待するような一群の婚姻が存交換されるのはほとんどの場合に妻であり、それゆえ、交換「独立居住婚」は、親族共同体の統制力が著しく減退した近 する。これを人類学上「優先的婚姻」と称する。これには、婚とは「婦女の交換」、とくに姉妹交換である。この交換婚代的な婚姻居住方式といえよう。 は、外婚的胞族からなる双系制的な部族社会では、その外婚〔儀礼と成立手続〕以上にみたように、婚姻の成立に対し 第一に、レビレート婚とソロレート婚がある。前者は、夫と 死別した女性が亡夫の弟と再婚する婚姻をいう。この場合、的規制から派生することがあるが、一夫多妻制によって適齢て、さまざまの面から社会的統制が及んでいるのであり、そ 再婚の相手たる弟が亡兄の身代りとみられ、そこから生まれ期の女性が少なく、かつまた多様な婚姻障害のため配偶者のれゆえ、婚姻が締結される際には、単にそれを祝うためばか る子が亡兄の子とみなされることが少な選択範囲が限定されているなどの状況のもとで、若者が結婚りでなく、その婚姻に対する社会的な承認を得るためにも、 麦者は、妻に死に別れた男性が難に陥る場合にも、姉妺の交換による結婚、つまり交換婚が婚姻儀礼があげられることが必要とされる。そしてこの儀礼 行われるのである。 自体が社会的に一定の形に様式化されているのである。 亡妻の妹をめとる再婚をいう。第二に 婚姻は、多くの場合に、当事者の一方を自己の生育せる共 交差いとこ婚が優先的婚姻となっている〔売買婚〕多くの未開民族や古代文明民族では、嫁をめとる 社会がかなりある。「交差いとこ」とは、条件として、嫁方親族に、ある種の物品ないし貨幣を給付す同体から離別させて、相手方の共同体に編入させるものであ = 兄弟の子供同士ないし姉妺の子供同士たる慣習がある。この物品ないし貨幣が「花嫁代償」とよばるから、婚姻儀礼はなによりもまず、「離別ー加盟儀礼」と る「平行いとこ」と対照的に、兄弟・姉れ、その給付を契約の要件とする婚姻が「売買婚」と称されして現れる。また、新夫婦の誕生を祝ってあげられる婚姻儀 6 おきて
かりでなく、一家族内でも、兄弟や父子がその ある。内藤は中国文化の発展を基準に時代区分隷制の中国的特殊性を主張して、西周封建制説料解釈のうえにたってはいるが、しかしまだ一 ごかん りよしん・つ を行い、後漢 ( = 五 ~ = = 0 ) の後半までを上古とを唱える呂振羽と対立したが、その後郭沫若般論としては承認されてはいず、したがってこ属する部を異にして、家族分解さえもたらす混 乱を生んだ。 こでは通説に従う。 し、これを、中国文化が形成された前期と、中は、奴隷制の下限を春秋戦国 ( 前七 0 ~ 前一一一一一 ) 国文化が外部に発展していわゆる東洋史に変形の交とし、この説が長年主流となってきた。も〔古代社会の成立〕日本の原始共産制社会に関〔公民制社会〕大化改新は、こうした部民制の した後期の二期に分け、ついで後漢の後半から っとも、当時から、奴隷制の下限を漢代にまでする史料は乏しく、文献に現れる時点では、す矛盾と、この部民制を基盤とする大氏族の覇権 せいしん 西晋 ( = 六五 ~ 三一六 ) までを第一過渡期、五胡十六引き下げる王思治などの意見も存在した。文化でに古代社会の段階に入っていたようである。争いの解決のために行われた政治革新である。 ぜんかんじよ したがって、政治的には氏族制的な政治体制の ~ 九 0 七 ) の中ごろま大革命後、論争が活発となると、郭説批判が百それは、『前漢書』『後漢書』にみられる紀元前 国 ( 三 0 四 ~ 四三九 ) から唐 ( 六一八 せい・一う でを、外部種族の自覚によってその勢力が反動出して多くの意見が提出されたが、それはおお後の倭は、部落国家形成の段階にあり、生口が廃止、社会的には部民制の廃止を最大目標とし くにのみやっこ きょよし た。臣、連、伴造、国造による政治体制を廃 国王の中国皇帝への貢献物となっていることに よそ、①殷末 ( 前一一世紀 ) 、②西周末 ( 前 的に中国内部に及んだ中世とした。宇都宮清吉 めいりよう は、内藤の見解には中国文化の内的発展が軽視世紀なかば ) 、③春秋末 ( 前五世紀末 ) 、④秦のもうかがえる。しかし明瞭になるのは、三世止して、新しく官人制による八省百官制の採 やまたいこく 紀なかばの邪馬台国の社会である。その女王卑用、私地私民制を廃止して公地公民制の実施が、 されているとして、中国文化があらゆる可能性統一期 ( 前三世紀後半 ) 、⑤秦・漢交替期 ( 前 を極度にまで推し進め、展開したのが古代で、 三世紀末 ) 、⑥前漢末 ( 後一世紀初 ) 、⑦後漢末弥呼は、シャーマン的性格によって国王に擁立改新政治の進行を示す尺度となった。旧氏族の うじのかみ しん されたが、常時一〇〇〇人の女奴隷をはべらせ族長の地位は、氏上としてその社会的地位は存 秦・漢帝国はその総帰結であったが、同時に ( 後三世紀前半 ) の七種に大別できる。ただ、 たいじんげこ 秦・漢時代は自律的な中世の始まりでもあった郭説のように古典古代的な奴隷制を想定する説ていたし、その社会には大人と下戸という身分続されたが、政治を行う者の地位は官位制によ って秩序づけられ、職務を分掌することとなっ とした。同じく内藤説を継承する宮崎市定は、 は少なく、奴隷制のアジア的形態を考えようと上の差別があり、罪を犯した者は奴婢の地位に いう意見が多いが、その場合に、マルクスが落とされるという国法が行われていた。当時のた。地方は、中国風の国郡制が敷かれ、中央政 世界の歴史は都市国家、領土国家、大帝国とい う発展形態をとったが、中国の場合にも後漢末『べラ・ザスーリッチへの手紙』のなかで指摘生産様式は奴隷の万働力を基本とするものであ府の任命した官人が治めることになった。全国 画一的な様式による戸籍が中央政府の命令とし までの古代は、無数の城郭都市が集合した時代した農村共同体の概念、あるいはアジア的生産ったと推測される やまと で、人民の城郭外の居住はまれであった。これ様式の概念をもってこれを解釈しようとする試〔部民制社会〕四世紀後半になると、大和王権て作成され、全国の住民は直接国家の公権力に による国土統一が完了するが、その権力構造把握されることになった。部民は、その一部を が三国以降隋・唐に至る中世になると、都市とみが多い。 一方、中国における階級国家の成立については、天皇氏族を中心とするヤマト地方の諸豪族除いて、すべて公民とよばれることになった。 農村とが併立したとしている。 これに対して内藤説を批判的に継承した前田は、日本を含めて議論が少なく、わが国には殷の連合政権という性格が強く、その経済的基盤七〇一年 ( 大宝一 ) に制定され翌年から実施され たどころ みやけ りくちょ ) っ た大宝律令は、こうした政治体制、社会体制の 直典は、秦・漢・六朝期の耕作者は奴隷であまたは殷・周を王国とよんで、春秋以降の国家としての屯倉、田荘の設定や、その労働力とし り、均田農民はその負担からみて半奴隷的であと区別する考えがあり、中国では夏以来とするての部民の編成が行われた。その編成される経法文化を完了したものである。公民は「調庸の ばん一一う ったとして、唐の中ごろまでを古代とした。こ説のほか、盤庚の遷都、周初の諸侯封建以後と過をみると、①旧来の村落がそのまま部民とさ民」ともいわれたように、国家に調、庸を納め の前田の見解は日本古代史の研究の影響が強する説などがあるが、その場合、城郭の築造をれたもの、②本来の居住地から引き離して、新る人民として把握され、本籍地以外の地に移住 たんべ もって国家成立の指標とする意見がある。↓奴たに設定された屯倉、田荘の田部に編成されたする自由は制限された。当時約六〇〇万 ~ 七〇 く、また東アジア諸民族の歴史発展の連関性が 考慮されており、唐の中ごろまでを東アジア文隷制〔中国〕↓アジア的生産様式〈五井直弘〉もの、③犯罪によって部民の地位に落とされて〇万人と推計される全人口の大部分を占める。 令制では、六年ごとに全国民の戸籍をつくって 編成されたもの、④大和王権の朝鮮半島経営に 明圏もしくは東アジア世界形成の時代とする考 日本 より日本に移されて部に編成されたもの、など登録し、六歳以上に達した者に対し、男子は田 えがこれから導き出されてくる。一方、前田が おみむらじ 部民の成因は多様であるが、いずれも臣、連、二反、女子はその三分の二、奴婢に対しても、 「古代社会」という語を、今日の学界の通念に 根拠とした奴隷制論は、史的唯物論の発展法則 かばわ おびと とものみやっこ を中国史に導入したものであるが、中国におけ従って「奴隷制社会」とすると、その奴隷の概首、あるいは伴造などの姓をもっ豪族の支奴は良男の三分の一、婢は良女の三分の一のロ ぶんでん 配を受け、その豪族の名のる氏の名に「部」の分田を班給する、班田収授法を行った。この法 る奴隷制のあり方については、労働奴隷制の存念については諸説分かれるにしても、いちおう は、律令国家の公地主義を貫徹する基本的施策 否、マルクスの遺稿『資本制生産に先行する諸日本にも古代社会が存在していたことを認める一字を加えた名を負うて、豪族のための生産に 従事し、あるいは豪族を通じて大和王権の賦役として、かなり忠実に実施することが努力せら 形態』に示された総体的奴隷制、これと関連すことが一般化している。日本では西洋の奴隷に るアジア的生産様式、農村共同体などの解釈なあたるものを奴婢とよび、それはいずれの時代や貢納物の生産に従った。こうした部民は、大れた。班給額は人別割であったが、現実的に りつりよ・つ にもみられるところから、これが生産上の基本化改新後の律令制から逆推すると、奴隷制的は、戸主がまとめてこれを経営し、反別稲二束 らびにその中国史への適用をめぐって、多くの なものに近かったということができる。もちろ二把 ( まもなく一束五把と改定 ) の田柤を国家に となっていた社会がどの時期にあたるかについ 議論がある。ただ、わが国の研究に共通する点 ますぶちたつお こしじまさだお は、西嶋定生の個別人身的支配論、増淵竜夫のては、多くの説が分かれている。その成立の時ん、部民とよばれるもののはかに、奴婢とよば納める。戸主の経営労働力は、戸内の正丁 ( 二 郡県制成立論、木村正雄の治水灌漑論などに代期を三世紀から七世紀末とし、八世紀から一〇れる階層もあって、部をもたぬ大社寺では、数一歳から六〇歳の間の男子 ) を主力とする成年 表されるように、秦・漢統一国家を皇帝による世紀の中ごろまでを全盛期、以後一二世紀の末百、数千を数える奴婢を擁し、大氏族の族長も家族であり、奴婢もその一員として動員される。 中央集権的専制支配体制の成立ととらえ、そのまでを崩壊期 ( 農奴制社会Ⅱ封建社会への移行また数百の奴婢をもった。部民制は、大和王権こうした意味で公民が生産の主体であった。 ぞうよう しかし一面、公民には、調、庸、雑徭などが が政治権力によって強制的に編成したものであ 形成、存立の諸条件を考察することに力点が置期 ) とする説が通説とされているのに対して、 し 三 ~ 四世紀を最盛期、五 ~ 六世紀をすでに崩壊るので、その進行につれて、幾多の矛盾を生じ義務として国家から課せられる。調、庸は、農 かれていることである。 > 〔中国の学説〕中国においては、古代はいうま期とする説、あるいは一四 ~ 一五世紀がその崩た。なかでも、旧来同一村落内の成員が、それ耕のかたわらに生産される絹、布などの手工生 かくまつじゃく オでもなく奴隷制である。郭沫若は古典古代的壊期とする説、さらに一六世紀末までを古代社それ異なった氏族の名を負う部に分割されて、産物であり、雑徭は、年間六〇日以内公共工事 9 Ⅱ官舎の修造、道路、堤防、池溝の構築などの 3 」集団奴隷労働を想定して西周奴隷説を唱え、奴会とする説などがある。各説は、それぞれの史地域的な共同体が解体される危険性を高めたば ずい いん ペみん
し公務執行妨害罪らむし。こうばうがいざい 学校の目的を達成するため、学校運営の組織機や友人など少数の信頼関係にたつ者の共同企業たって、幕府が事前の了解を求めた際にこれを いなおすけ む公務員がその職務を執行するにあたり、これを構に即して仕事を分担することをいう。たとえ形態として利用されている。合名会社も形式的拒否、井伊直弼の決断による調印を「専断」と 、フ暴行または脅迫によって妨害する罪であり、 = 一ば、学年主任、生徒指導主任、教務係などの名には社団法人であるが、その実質は組合的な性非難した。退位の意向も示したが、攘夷強硬派 の公卿に動かされ、八月水戸藩に幕府改革を求 一」年以下の懲役または禁固に処される ( 刑法九五称によ 0 て、それそれの学校で校務分掌が行わ格を有し、人的会社の典型である。 条一項 ) 。広義では、刑法第二編第五章の「公れている。学校教育法第二八条において「校長〔設立・出資〕合名会社の設立手続は簡単で、 める密勅を発した。六〇年 ( 万延一 ) 井伊暗殺 は校務をつかさどり、所属職員を監督する」と 務ノ執行ヲ妨害スル罪」を意味し、ここには、 一一人以上の社員となろうとする者が定款を作成後、幕府は朝廷との妥協によって実権を回復し ようとし、天皇も、攘夷の維持のためには公武 本罪のほか、職務強要罪、封印破棄罪、強制執定めているが、校長はさらに各種の校務を教職し ( 商法六二条・六三条 ) 、設立登記 ( 同法六 行免脱罪、競売入札妨害罪および談合罪が含ま員に分掌させることができることを、各都道府四条 ) をすることによって会社は成立する ( 同の合体による国内一致が急務であると判断、妹 かずのみや れる ( ただ、本稿では狭義の公務執行妨害罪に県の学校管理規則は定めている。校務分掌は究法五七条 ) 。そして、社員およびその出資は定和宮の江戸降嫁を認めた。六二年 ( 文久二 ) いえもちドうらく ひとつばしよしのぶ 極において、教育の成果をあげるための教職員款で確定しているほか、社員が原則として会社 ついて述べる ) 。 には、将軍家茂の上洛を求め、一橋慶喜、松 よしなが の協働体系であり、学校の実態に即して校務分の機関となり、かっ社員が無限責任を負うた平慶永の登用による幕政改革を指示、さらに攘 本罪は、沿革的には、旧刑法の官吏抗拒罪 このよう夷の布告発布を迫り、翌六三年「攘夷断行」を ( 一三九条 ) に由来し、国家の権力的作用に対掌組織がつくられている。校長は教職員の希望め、出資の事前の履行は必要でない。 に、相互に信頼関係ある社員の人的結合の面が幕府から上奏させるなど、かねてからの攘夷の する抵抗罪としての性格を有する。本罪の典型や意見を勘案しながら、適材適所に人を配置し ぶんきゅう 強く、資本的結合たる株式会社の場合における立場で幕府を強く指導した。しかし、「文久三 的事例として、警察官によるデモ規制や、現行ていくことが期待されている。↓学校経営↓ 〈宇留田敬一〉 ような複雑・厳格な設立手続を定める必要はな年八月十八日の政変」 ( 一会三 ) にあたっては、 犯逮捕に対して実力で抵抗する場合があげられ校長 さんじようさねとみ いからである。二人以上の社員の存在は、会社攘夷派公卿とたもとを分かち、三条実美ら七 る。本罪における行為の客体は日本の公務員で郷村断層ごうむらだんそう京都府北部、竹 野郡網野町にある地震断層。一九二七年 ( 昭和成立の要件だけでなく、その存続のためにも必卿と長州藩兵を京都から追放した。一橋慶喜、 ある。公務員とは一般に、「法令により公務に よス′レ」う たんご 一 l) の丹後大地震の際に旧郷村 ( 網野町字郷 ) 要で、社員が一人になったときは会社は解散す松平慶永、山内容堂ら雄藩藩主を中心とする公 従事する職員」をいう ( 刑法七条参照 ) 。この ともみ 八キロにわたる地震断層が生じた。郷村る ( 同法九四条四号 ) 。社員の出資は、財産出武合体を目ざし、岩倉具視ら一部公卿の王政復 場合の公務員には、法令により公務員とみなさで延長一 ′、ド ) しっ ー公庄間の道路には、上下で〇・六、左右で資のほか、労務出資や信用出資も認められてい 古倒幕論には批判的であった。六六年 ( 慶応 れる者を含むから、たとえば国鉄や郵便局の職 一 l) 七月、第二次長州征伐中に将軍家茂が死去 員もこれにあたる。ただ、本罪における公務員二・五の食い違いを生じた跡が残り、国の天る ( 同法八九条 ) 。 〈織田武雄〉 〔社員の権利義務・社員の変更〕社員は利益配 すると、天皇は征長の停止を幕府に指示し、幕 の行う職務 ( 公務 ) のなかに、権力的公務のほ然記念物に指定されている。 当請求権をもっ反面、損失を分担する義務を負府の統制力の崩壊は決定的となったが、第一五 かに国鉄職員や郵便職員などの行う非権力的ま回『奥丹後震災誌』 ( 一九天・京都府 ) う。また、社員の信用が重視されるため、社員代将軍慶喜の就任直後の一二月二五日急死し たは私企業的公務も含まれるか、につき争いが囮二万五千分の一地形図「峰山」 げん もちぶん ー含 ? ) 中国の元 の入社および社員の交替 ( 持分の譲渡 ) には他た。強硬な尊攘派公卿、とくに岩倉具視らが京 ある。判例は両者を含むものと解しているが、 一咼明こうめい ( 一三 0 五 ? さっちょう みん ずいあん せつこう 学説上は今日では、権力的公務に限るとする説末明初の詩人、劇作家。瑞安県 ( 浙江省 ) の の総社員の承諾が必要である ( 商法七二条・七都回復をねらい、薩長による武力倒幕の動き あぎなそくせい とうか 人。字は則誠、号は東嘉。一三四五年 ( 元の至三条 ) 。ただ、社員の投下資本の回収の便を考が具体化していたときだけに、陰謀による毒殺 がむしろ一般的である。 本罪における職務執行は適法なものであるこ正五 ) の進士。 いくつかの地方官を歴任したの慮し、会社に対する退社の一方的申入れの方法との説が有力視された。享年三六歳。墓所は京 れきしゃ ひがしやませんにゆうじのちのつきのわ ぎん により、持分の財産的価値の払い戻しを請求で都東山泉涌寺の後月輪東山陵。↓王政復古 とを要するか、また、この場合に適法性の要件ち、五六年に引退して邨県 ( 浙江省 ) の櫟社の きぐう びわき 〈河内八郎〉 ↓和宮降嫁↓公武合体論 は何か、が問題となる。この点につき法律上の沈氏のところに寄寓し、戯曲『琵琶記』を執筆きる ( 退社の自由ー同法八四条 ) 。また、社員 明文はないが、一般に、本罪が成立するためにするなど、文筆生活を送った。明の建国後、太の除名の制度もある ( 同法八六条以下 ) 。定款回宮内省編纂『孝明天皇紀』全五冊・附図 ( 一九 しゅげんしよう 六七 ~ 七一・吉川弘文館 ) 祖朱元璋に招かれたが、老齢と病身を理由に の変更のほか、会社の基本的事項の決定 ( たと は、職務の適法性を要するものと解されてい じゅうこくさい にちれんしようしゅう わいめ】し こうめいとう日蓮正宗の信者組織 る。したがって、警察官の違法な職務執行を実辞退し、寧海県 ( 浙江省 ) で没した。『柔克斎えば解散・合併 ) には総社員の同意が必要 ( 同公明党 ししゅう 〈佐藤保〉法七二条・九四条二号・九八条一項 ) だが、他創価学会を母体とした中道政党。人間性社会主 力で妨害しても、本罪は成立せず、むしろ正当詩輯』一巻がある。↓琵琶記 防衛が可能となる。ただ、職務の適法性とは何合名会社ごうめいがいしや社員の全員が会方、総社員の同意があれば、定款に定めた事業義の実現を掲げている。 をいうかにつき、公務員の行う行為が当該公務社に対して一定の出資義務を負うほか、会社債目的の範囲外の行為をすることもできる ( 同法〔沿革〕創価学会は現世的利益実現と、宗派の 員の抽象的職務権限内のものであり、かっ、彼務につき、会社債権者に対して直接・無限・連七二条 ) 。↓会社↓無限責任社員〈戸田修三〉教義に基づく国立戒壇建立のため、一九五五年 こうめいてんのう ( 天三一ー六六 ) 江 ( 昭和三〇 ) 以来地方議会と参議院に進出、公 帯の責任を負う無限責任社員だけからなる会社 が具体的権限を有する場合でなければならない 孝明天皇 にん・一う が、さらにその職務行為が法令上の手続や方式 ( 商法八〇条 ) 。社員は会社債権者に対しこのよ戸末期の天皇 ( 在位一会六 ~ 六六 ) 。仁孝天皇第四明政治連盟を経て六四年公明党を結成、衆議院 おさひと てんはう に進出した。この際、憲法に抵触する国立戒壇 をどの程度満たしている必要があるか、が争わうな重い責任を負う反面、原則として会社の業皇子。天保二年六月一四日生まれ。名は統仁。 せんそ の主張は民衆立戒壇に切り替える。七〇年創価 れている。この点につき、「重大かっ明白な瑕務執行権および代表権をもっ ( 同法七〇条・七一八四六年 ( 弘化三 ) 二月、一六歳で践祚、翌 し 疵」があり、行政法上も無効でない限りその職六条 ) 。このように、合名会社では、各社員が年九月即位式をあげる。四六年八月、対外関係学会の一一一一口論出版妨害事件で批判を浴び、宗教政 が急迫の度を強めたため、幕府に対して海防を党から国民政党への脱皮が課題となる。このと 務行為は適法であるという見解もあるが、少な会社債権者に対し直接・無限の責任を負うだけ ィ一たしょ くとも市民の自由や人権に重大な影響をもたらでなく、社員資格と機関資格が一致しているか厳重にするよう沙汰書を出した。その後も幕府きの政教分離決定と同年の京都府知事選敗北が いかん す場合には、この要件を厳格に解すべきであろら、対外的に社員の人的信用が重視される。他に外交問題で遺憾のないようにとの指示を与路線の「左旋回」を促し、共産党とも部分的共 闘を認めるようになった。だが七五年創価学会 〈名和鉄郎〉方、社員相互の信頼関係を必要とし、社員の個え、幕府も朝廷の意向を無視できなくなった。 こうむぶんしよう学校の教職員が性が会社企業のうえに強く反映するから、親族五八年 ( 安政五 ) 日米修好通商条約の締結にあと共産党との歴史的和解 ( いわゆる「創共協 校務分掌 0 しん あみの ごう
あたみ を有していた 〈樋口隆一〉 して、平安時代に装飾経 ( 美しく飾る目的で華すことになり、裏切られたとして熱海の海岸で経」「紫紙金字準厳経」などの遺例を残す。平 ゴンサレス FeIipe GonzåIez Mårquez 美に装飾した特殊な写経 ) として華麗な流行を宮に「来年の今月今夜になったならば、僕の涙安時代には紺紙金字経が主流となり、多種の装 くのうじきよう のうきよう ) 現代スペインの政治家。貧農の子みた。とくに『久能寺経』や『平家納経』なで必す月は曇らして見せる」と悲痛なことばを飾経が制作されるにつれ、銀字経や、金銀交書 〈久保木彰一〉 の経典もみられるようになる。 としてセビーリヤに生まれる。セビーリヤ大学どが有名である。 〈町田誠之〉残して行方をくらましてしまう。その後、貫一 ふくしゅう は復讐のため高利貸となり、親友荒尾の忠告コンシデラン Victor Considérant ( 天 法学部在学中の一九六四年に、当時非合法であ婚資こんし bridewealth, brideprice エコール・ポリテニク ー九三 ) フランスの社会主義者。理工科大学 にも耳を傾けない。結婚後悔悟した宮は貫一に ったスペイン社会労働党に入党した。卒業後は婚姻に際し、これを正式なものとするために、 八一一三年フーリエ カそ出のエ兵士官であったが、一 労働者側の弁護士として活動する一方、七四年花婿ないし花婿の親族から花嫁の親族に対して許しを請うが、それも聞かれなかった。 ; 、 パリ郊外で開かれた党大会で亡命旧世代幹部を贈られる財や金品。広く世界各地にみられる習の貫一もようやく宮からの手紙を開封するようの思想に共鳴してユートピア的協同体「ファラ ンジュ」建設運動に参加。三七年、師フーリエ 押さえて党書記長に選ばれた。七七年以来マド 慣である。一般的に婚資は、花嫁のもつ出産力にはなった、というところで中絶。紅葉一代の いちむらぎ リード選出代議士。八二年一〇月の総選挙で大ないし労働力に対する代償として贈られると考大作で、好評を得、早く一八九八年三月市村座亡きあとフーリエ派の総帥として『平和的民主 勝利を収め、四〇歳で首相に就任。指導方針は えられており、とくにこの方面の研究が盛んな初演以来、たびたび新派劇で上演されて圧倒的主義』紙などを中心に理論活動や選挙改革運動 しま・つほ - っ に取り組んだ。四八年の二月革命では臨時政府 穏健で現実主義的であるが、貧しい生い立ちとアフリカの事例では、すでに性関係のある男性な人気を博し、伊井蓉峰、高田実らの当り芸と 〈岡保生〉を支持、ルイ・・フランのリュクサンプール委員 してうたわれた。映画化も多い 飾らない態度で大衆の人気を集めている。国際でも十分な婚資を払いきるまで女性を性的に独 会にも加わった。社会的共和主義の立場を明確 的にも知名度が高く、七六年以来社会主義イン占できないばかりか、自分の親族のもとに連れ回『日本近代文学大系 5 尾崎紅葉集』 ( 一九七一・ にして四八年四月以降国会議員を務めたが、四 ターナショナルの副議長を務める。〈平瀬徹也〉てくることも、子を自分のものとすることもで 角川書店 ) きんでい こんじきよう金泥によって書写され九年六月、ルイ・ナポレオンのローマ出兵に抗 回野々山真輝帆著『スペインの紅いバラーーーフきないことが多い。逆に婚資を払いきっている金字経 しつぼう ランコからフェリ 議する共和派の蜂起に連座して訴追され、ベル ーベへ』 ( 一九〈四・白水社 ) 夫婦で妻が離婚を望むときには、妻の親族は夫た経典。七宝の筆頭である金を使用して経典に - 一んし しようん に婚資を返還しなくてはならない。また婚資が荘厳を加えたもので、料紙は紫紙や紺紙が普ギーに亡命した。五四年末アメリカのテキサス ゴンサレス N. V. M. GonzaIes ( 一九一七 りよう に渡り、再度「ファランジュ」建設を試みたが ) フィリビンの作家。英語短編小説の名払いきれないとき、男性が女方に住み着いて肩通である。中国では、文献によると梁時代 ( 六 ちみつ 手といわれ、流麗で熟慮された文体と緻密な描身の狭い思いをしつつ女性の親族に労働奉仕を世紀 ) につくられたとされ、唐代にもっとも隆失敗に終わり、六九年に帰国後は第一線を退い 盛した。わが国へは奈良時代にその技法が移入た。主著『社会主義の原理』 ( 天四七 ) はマルク 写を特徴とする。幼少年期の体験を生かして、するという形式もしばしばみられる。 され、「正倉院文書」に金字紫紙経・金字紺紙スの『共産党宣言』 ( 天四 0 に多大の影響を与 婚資となるものは、その文化、社会で貴重と 故郷ミンドロ島の住民とその生活を描く一方、 - 」ん - 一うみよう寺 ~ いしようおう 〈谷川稔〉 経と記されている。「紫紙金字金光明最勝王えたといわれている。 マニラやアメリカに住む中産階級フィリピン人考えられている動産であることが多く、アフリ かっとう コン ) ンーベ一フム Co 三 eeveram インド の生活と葛藤を取り上げる。一貫して、フィリカの牧畜民の間ではウシ、ヤギ、ヒッジなど、 。と涬を画 絵た海方舟刊南部、タミル・ナド州北部の都市カンチプラム ピン・インテリのアイデンティティ ( 主体性 ) またニューギニア高地では。フタなどの家畜であ ロれの行桂 の別称。↓カンチプラム 編ら海し内引 の問題を扱い、それを確立できないのは、西欧り、また狩猟民の間では弓矢などの武器であっ 前切熱倒武治 こんじゃくものがたりしゅう平安 教育から学んだ価値観が発展途上国の現実に即 たりする。市場経済の導入されている地域では 今昔物語集 明 叉はり蹴す 後期の説話集。一〇五九話 ( うち本文を欠くも さないこと、および故郷の喪失に起因すると示現金で代用されることが多い。婚資は通常、夫 夜一しをま年 色貫の宮ら田 の一九話 ) を三一巻 ( うち巻八、一、 唆している。長編に『恵みの時』 ( 一九五六 ) 、『竹の婦関係を安定させる機能をもつが、それと同時 金間ので 欠 ) に編成する。 に、しばしば、二つの姻族の間の正式な社会 踊り子』 ( 一九五九 ) 、短編小説集に『七つの丘を越え 〔成立〕一一二〇年 ( 保安一 ) 以降まもなく、 て』 ( 一九四七 ) 、『ミンドロ島の向うに』 ( 一九七九 ) な的、経済的、また象徴的な関係を生み出した しらかわ きようべん 白河院政のころ成るか。編者末詳。中心的編者 り、強めたりする互酬の始まりとなっている。 ど。国立フィリピン大学で教鞭をとっていた のもとで複数の人の協同作業であったか、一人 〈山下美知子〉 なお、婚資とは逆に、花嫁方から花婿方に渡さ が、現在はアメリカに在住。 の手に成ったかについても、説は分かれてい 混酸えさん mixed acid 一一種以上の酸れる財を持参金という。↓持参金〈山本真鳥〉 ひらいずみ ちゅうそみ る。ただ、構成、素材、文体などを総合的に判 の混合物を一般に混酸というが、化学では普通金色堂えじきどう岩手県平泉町の中尊 びようどう 断して、仏教界に属する者の編であろう。すべ に混酸というときは濃硝酸と濃硫酸の混合物を寺境内にある廟堂。一一二四年 ( 天治一 ) の まっ きょひらもとひらひでひら ての説話に文献資料があったとみられる。中国 建立。藤原清衡、基衡、秀衡の三体を祀る。堂 いうことが多い。これは有機化合物のニトロ化 めいはうき さんばう きんばく の仏教説話集『三宝感応要略録』『冥報記』『弘 剤として常用されるためである。また化学分析の四壁が金箔で塗装され、金色に輝くのでこの 、んほっけでん ひかり 賛法華伝』および船橋家本系『孝子伝』、日本 などで試料溶解用にしばしば用いられる、濃硝称がある。光堂ともいう。↓中尊寺 ^ 阿部慈園〉 りよういき 寺 ~ んまうえ・一とま の『日本霊異記』『三宝絵阿』『日本往生極楽 こんじきやしゃ尾崎紅葉の長編小 酸と濃塩酸の混合物である王水や逆王水なども金色夜叉 としよりずいのう はつけげんき 記』『本朝法華験記』『俊頼髄脳』が主要な確実 〈中原勝儼〉説。一八九七年 ( 明治三〇 ) 一月一日 ~ 一九〇 混酸とよばれることがある。 たかく・ な資料である。また、現在伝わらない源隆国作 二年五月一一日『読売新聞』に断続連載。〇三 こんし藍で紺色に染色した和紙。 紺紙 うじだいなごん の『宇治大納言物語』や、いくつかの仏教説話 「こんがみ」ともいう。『正倉院文書』にある染年一 ~ 三月『新小説』に『読売』連載の終わり しんしよく 集も有力な資料となったと考えられる。こうし の一部を『新続金色夜叉』として再掲のまま、 やめ紙の名称「深」はこの色のことをさし、 て、本書は、それまでの説話集のさまざまの系 じ実物が『色麻紙』一九巻のなかにみられる。紺未完中絶。一八九八 ~ 一九〇三年春陽堂刊、五 はぎまかんいちいいなずけしぎさわ 統を集大成するものとなっている。 ん紙に金尼または銀泥で写経した例は、七四四年冊、末完。高等中学生の間貫一は許婚の鴫沢 てんじく とみやまただつぐ みや けごんきよう 〔内容・特徴〕巻一 ~ 五を天竺 ( インド ) 、巻 7 」 ( 天平一六 ) に書かれた『華厳経』をはじめと宮を愛していたが、宮は資産家の富山唯継に嫁 ( 一九四 = ー みのる ほうき
↓家族↓家族制度 〈増田光吉〉「ブナルア家族」という二段階の集団婚を想定した。そして新 んの自由な交際を制限する社会では、配偶者の選択にあたって 当事者以外の第三者の媒介による選択と結婚の推進、すなわ 「血縁家族」のもとでは、同世代の男女が互いに集団的な結 婚姻の起源と歴史 婚を営んでいるが、世代を異にする男女の間では結婚が禁じ んち媒介結婚 ar 「 anged ma 「「 iage が行われる。媒介結婚は、 どうせい 結婚は、単に一時的な男女の性関係や私的な同棲と異な 」①当事者以外の第三者による判断と推進、②自主的な婚前交 られていたとみなした。ところで、同世代である限り社会の 際の欠如、③愛情の欠如、④過程における伝統的形式の重視 り、社会的に承認された持続的な男女間の結合であって、そすべての男女が集団的に結婚しているというこの集団婚のあ などを特性とし、男女の自由な交際から出発して結婚を愛情の当事者の間に一定の権利・義務を生じさせる制度をいう。 り方は、実は同じ世代の男女の間に乱交的な関係が繰り広げ の結実としてとらえる自由結婚と対比される。わが国でよくそれが社会的に承認されるものであるがために、結婚はそのられていたことにほかならないのであり、それゆえこの「血 知られる見合い結婚は媒介結婚の日本的典型であり、最近主形態 ( 両当事者の数 ) 、配偶者の選択、ならびに新夫婦の居縁家族」以前の段階では、世代の障壁がなく、社会のすべて 流となってきた恋愛結婚 love match は自由結婚の典型で住の場所、成立のための手続ないし儀礼等において、社会的の男女が無差別に交わり合う一般的な乱交制が存在したに違 な統制に服するのである。 いないと推定したのである。 ある。かって日本の家族を支配したイエ制度のもとでは、結 婚姻の形態〕〔結婚形態論の展開〕一九世紀の中ごろまで モルガン以後の進化主義人類学者は、モルガンのこのよう 婚は家と家との結合であり、個人のそれに優先していた。若 い男女の自由な交際を認めない儒教的な観念がイエ制度に対 一夫一婦制が太古の昔から今日まで変わりなく続いてき な原始乱交制の仮説を裏づけようと、文明社会における放縦 た人類の唯一の結婚形態とみなされており、そのため、結婚な性習俗を競って取り上げ、それを原始期の乱交の遺制とみ 応して支配的であったため、結婚の取決めにあたっては仲人 なそうとした。たとえば、女性が一生に一度、とりわけ結婚 の役割が重視された。多くの場合、親族や両親の知人が仲人の形態が学問の研究対象となることはなかった。だが、一 しんびよう となり、両家の家としての「つりあい」を判断し、両家の両六一年にスイスのバッハオーフェンが『母権論』を著し、原前に、神廟や寺院で売淫するという、西アジアからインド 親の意向を代弁した。 始段階では乱交的な性関係が営まれ、「母権制」が形成されに及ぶ地域に分布した、いわゆる宗教的売淫の習俗、祭礼の うたがき 第二次世界大戦後の新しい民法のもとでイエ制度がなくなていたとの説を唱えた。ついで一八七七年にアメリカのモル際の性的無礼講の習俗 ( 日本の「歌垣」もこの一種 ) 、花嫁 どうきん るとともに、見合い結婚すなわち媒介結婚は本来の意義を失ガンが、乱交制から二種の集団婚と対偶婚を経て最後に一夫が結婚初夜に花婿以外の男性と同衾させられるという初夜権 、単なる結婚相手紹介の手段に変質してきた。見合いにお一婦制に到達したという婚姻Ⅱ家族の発展図式を提示し、こ に似た習俗、日本でも「よばい」という語でよばれていた婚 前交渉の習俗などがそうである。だが、原始乱交の遺制と考 いては、当事者の意向が重視され、見合いの時点で合意があこに初めて結婚の形態が学問 ( とくに人類学 ) のうえで研究 えられたこれらの習俗については、その後の人類学において っても、ただちに結婚の取決めに移ることなく、一定の交際されるようになった。 ところで、モルガンの婚姻発展図式は、その後の人類学者別の解釈が提示され、たとえそのすべての習俗について原義 期間を設けて当事者の愛情の成熟を待つなど恋愛結婚に近い が明らかにされたわけではないにせよ、原始乱交遺制説の妥 によって継承され、いわゆる進化主義学派が形成されたが、 内容が取り入れられてきている。これらの変化と並行して、 一九世紀末から、この発展図式に疑問が提示され始め、反進当性が否定されるに至った。もっとも、祭礼の際の無礼講や わが国の恋愛結婚の件数は急増し、一九六五年 ( 昭和四〇 ) 化主義の諸学派が登場し、二〇世紀の初期まで、人類学界初夜権に似た習俗が行われている所では、一定の限界内では ごろを境として見合い結婚から恋愛結婚へ主流が変わった。 〔結婚観の変遷〕これまでに認められてきた日本の結婚形態 は、原始乱交Ⅱ集団婚説の当否をめぐって二大陣営に分かあるが、婚姻外性交渉が社会的に許容されているのであり、 の特徴は、第一に高い結婚率、低い独身率である。人口一〇れ、大きな論争が繰り広げられた。フィンランドのウエスタこのことは、これらの習俗が行われている近代以前の社会 ーマーク、オーストリアのシュミット、イギリスのマリノフ ( とりわけ原始社会 ) における婚姻の本質的特性を究明する 〇〇人に対する一年間の結婚件数を普通結婚率というが、一 九八〇年の日本の普通結婚率は六・七で諸外国に比してかなスキーらは、今日の一夫一婦制が原始期の人類のもとにも存際、考慮されねばならない点である。 原始乱交制説し , しいかに原始 ことってもっとも致命的な点ま、 在したと主張し、原始乱交Ⅱ集団婚説をまっこうから否定し り高い。日本では男女とも五〇歳代までに大半が結婚してい るが、欧米諸国では一割近くが一生独身で過ごす。第二は女たのである。そして今日では、この原始単婚制説が人類学界的な末開民族のもとでもつねに婚姻制度が存在し、乱交制の の大勢を占めるに至っている。 もとで生活する民族が一つとして発見されなかったことであ 性における低い再婚率である。たとえばアメリカなどに比べ て、ひとたび離・死別した女性の再婚率はきわめて低い。第〔架空の原始乱交制説〕原始期に乱交制があったとする説る。人類は、いかに原始的な段階にあろうと、なんらかの社 は、バッハオーフェンのそれであれモルガンのそれであれ、会的に統制された婚姻制度を有していたのである。 三は適齢期という考え方の存在である。これに似た考え方は 〔原始社会の婚姻〕集団婚に関しても、少なくともモルガン アメリカにもみられるが、日本ほど一般的でない。最近、結 理論的推定のうえにたてられたものであった。たとえばモル 婚の形態が見合い結婚から恋愛結婚志向へ大きく変わったこガンの場合には、彼が最初の家族形態とみなした「血縁家や進化主義人類学者たちの考えたような形態のものは、今日 おいめい と、および、いわゆるキャリア・ウーマンとして職業に携わ族」から推定されたのである。すなわち彼は、甥姪と子、伯否認されている。モルガンが往古の集団婚の存在を証明する ) 父伯 ( 叔 ) 母と父母を区別しない特殊な親族用語の体系ものとみなした「類別的」親族名称の体系については、その る女性の増加などに伴って、以上の諸特徴は徐々に薄れてき 後、多くの異なった解釈が試みられ、集団婚的解釈は、後述 いわゆる「類別的」な親族体系ーー・に注目し、この類別 ている。また世界的には、結婚という形式にこだわらないで どうせい 同棲をする人々 ( 無登録夫婦家族 ) や、生涯にわたって独身的体系がみられる社会では過去に一定の「集団婚」が存在しの夫妻名称を除いては支持されなくなっている。未開民族の 考え、その類別的な親族体系の分析から「血縁家族」と もとでときおりみいだされる集団婚的な習俗も、モルガンが 生活を望む人々 ( シングルズ singles) が現れてきた。↓家たと
イエリ、不ックらにより で、従来の国家補償の概念からははみだすもの ーヾノト、ケレヾ リックの秩序観や・ ~ ( - ンブズの政治学説にもみらの対象とする理論。したがって、なんらかの政 も であるが、国家補償の目的は、結局のところ国れる。しかしそれを系的国家学説として主張治組織を有する社会にはつねに国家論が存在し 「国家有機体説」「国家主権論」「国家法人説」 3 したのは、フランス阜命後の反動期に現れたド たことは、古代ギリシアの都市国家時代に、プなどが唱えられたが、これは、絶対君主論もと っ民の身体や財産に生じた被害を救済することに 帰着すると考えられるから、政策的・行政的救ィッの政治的ロマン王義が初めてであった。そラトンの『国家』、アリストテレスの『アテナれず、さりとて国民主権論もとれない、民主主 済措置としてのこれらの被害者救済制度も国家れは、フランス革命によって成立した近代民主イ人の国制』『政冶学』が現れたことからもわ義的に不徹底な当時のドイツの政治状況を反映 補償の問題と考えてよいというのが、最近の学制国家の原理たる眥蒙主義的な自然法思想の原かる。しかし、本格的な国家論が登場したのしたもので、ドイツにおいて国民主権主義が憲 説の傾向である。狭義の国家補償法における判子論的・機械論的な山家論に対抗して、中世のは、近代国家が生誕した一七、八世紀の市民革法において明記されるのは、第一次世界大戦後 例による救済拡大の傾向と相まって、国家補償封建的身分秩序原理を理念化した国家有機体説命期以後のことであろう。そして、この国家論 のワイマール共和国の出現までまたねばならな は社会保障的志向を示しているといってよいのを主張した。それによると、国家は部分が先に は、とくに、一九世紀後半以降、国家の変革・ 一方、日本では、天皇の神聖不可侵性に結 やまと かもしれない 〈池田政章〉あってそれから組み立てられたメカニズム ( 機革命・崩壊・消滅などを問題とする社会主義、び付いた神国日本の観念によって大和民族の優 国家目標こ。かもくひょう国家目標とは、械 ) ではなく、神から与えられた内在的目的をマルクス主義、アナキズムなどが登場するなか秀性と他民族支配の正当性が早くから説かれ、 国家が行動する際の一般的で持続的な目的をさ もったオルガニズム ( 有機体 ) であるとされで政治・経済学の中心テーマとなった。 また「家族国家観」と天皇主権主義を基調とす す。それは政策決定に影響をもつ人々の相互作 た。そして中世の身分秩序が人体の機能の差異 近代国家に関する最初の国家論は、ホップる明治憲法体制下においては、天皇や国家に対 用の所産として選択されてくるが、国家のカ、 によって説明され、ネ平等な人間関係が有機体ズ、ロック、ルソーなどの社会契約説にみられする忠誠義務が最優先され、個人の利益や自由 統治体制、他の国家に対する依存度といった多説によって正当化された。 る。ここでは、権力の基礎は国民の同意に基づは、国家目的のためには犠牲にされる、という くの要因から、国家を取り巻く自然的、地政学 一九世紀中葉 , をおいてドイツで市民革命が切 く、また国家や政府の設立の目的は国民の生考え方が一般化され、一九三〇年代以降、数々 的条件や歴史的条件まで多くのものに規定され迫し、そして一へ四八年にそれが失敗したの 命・自由・財産の保護にある、そして国家の機の侵略行為や戦争手段に訴え、敗戦という悲惨 るために、選択の範囲は無限ではない。ただち、自然法思想から導き出された人民主権論に 能については、経済における自由放任主義を前 な結果を招くことになった。 し、基本的な選択目標としては一般的に、領土対抗して国家有機体読が保守主義勢力によって提として、国家の役割は最小限の治安と国防に ところで、資本主義の急激な発展により周期 保全や安全保障といったものから、国民福祉の支持された。それは、当時飛躍的発展を遂げつあり、国民の経済活動には介入しないのをよし的に発生する恐慌やそれに伴う貧困・失業など 向上、文化価値の維持などがあげられよう。 つあった自然科学の権威を借りて国家を生物有とする「夜警国家観」がとられた。また国家との社会・労働問題が顕在化してくるなかで、資 これら国家目標は、追求・達成するうえでの機体との類推で説明し、君主主権を正当化し 社会、国家と個人の関係については、国家形成本主義国家においても一九世紀末ごろから、弱 時間の幅を設定することで、短・中・長期目標 た。その際、国家を生物有機体とみて生物学の以前の社会生活において人間が有していたとさ者救済のために国家は積極的に施策すべし、と として分類できるが、それはまた、より具体的知識をもって説明する「生物有機体説」や、される個人の自由や生命の安全を第一義的に重視 いう「福祉国家観」が登場した。数々の社会政 目標から、抽象的、あいまいなものへの移行をらにそのうえに人間の心理学の知識を付け加えすることが説かれ、悪法・悪政には抵抗し、場策、労働立法、また社会保障制度の拡充などが 表している。たとえば、日本においては、まずて説明する「心理学的有機体説」などの多様な合によっては政府や国家を変更・解体することそれである。さらに、一九二九年の世界大恐慌 現存する経済水準の維持や国民生活の向上など国家有機体説が展開された。前者の代表者がフもありうる、という国民主権的立場が強調され以後、経済の安定と成長を確保するために、各 が短期目標とされるならば、中期のそれには国ランツ ( 天一七ー九一 ) であり、後者の代表者が。フている。この意味で社会契約的国家論は、国民国家は、ケインズ理論の影響なども受けて、経 わゆる ルンチュリ ( 天一 9 ・・・ 家的脅威の減殺、市場・資源の確保、国際社会 <ll) であった。同時期にイ主権主義、基本的人権の尊重、法の支配を基調済の分野にも介入する度合いを強め、い における威信確保など、そして長期のそれにはギリスでは、社会を有機体との類推で説明するとする現代民主主義国家の理論モデルとなった「混合経済」といわれる新しい政治・経済状況 世界平和の確立といった目標が想定できよう。 スペンサーの社会有機体説も現れ、その権威をものといえよう。 が出現し、現代国家はほとんどこの「介入主 今日、日本の政策決定者たちによって主張され援用して、ドイツでは国家有機体説はビスマル これに対し、イギリスやフランスなどよりも義」によって政治・経済の運営を行っている。 ク体制を弁護するイデオロギーとして大きな影一、二世紀遅れて近代国家を形成したドイツやなお、マルクス主義の立場からは、こうした る目標には、国際政治・経済の安定化に、おも 響力をもった。 日本では、富国強兵策がとられ、それとの関連「混合経済」を「国家独占資本主義」としてと に日本が保持する経済力を通して貢献するとい ったことがあるが、その目標は短・中・長期の すべての保守主義政治思想の核心に普遍的にで、国家の個人に対する優位、また国家の利益らえ、国家権力の拡大化による資本主義の延命 各目標と密接なかかわりをもっており、その意みられる国家有機体説は、部分より先に有機体のためには個人の自由や利益は制限されてもや策と搾取の強化であると批判している。 という全体があって、部分はこの全体に奉仕すむなし、とする国家観が説かれた。すなわち、 さて、二〇世紀に入って、とくに第一次大戦 味でも、明確な時間的枠を設定するのはむずか しし。かりにそれが可能であっても、短期目標るものとして位置づける理論構成をとっておドイツでは、国家生活において人間は最高度の後、イタリア、ドイツ、日本に新しいファシズ 自由を享受できるとするヘーゲルの国家観が支ム運動が起こり、一九三〇年代にはファシズム の追求が中・長期のそれを妨げることもあり、 り、団体主義の国家論の一種である。 わが国では明治初期に。フルンチュリの国家有配的地位を占め、また歴史の各時代には「世界国家が成立し、また一九一七年にはロシアに世 首尾一貫した目標の設定はむずかしいといえ ひろゆき はんろん る。 〈青木一能〉 機体説が加藤弘之訳『国法汎論』 (IQII) によ精神」を実現する民族が出現し、それがゲルマ界史上初めて社会主義国家が誕生した。イタリ って紹介され、それは明治国家の保守主義国家ン民族であるというへーゲルの歴史観は、ドイア、ドイツなどのファシズム国家は、初めは大 国家有機体説こっかゆうきたいせつ organ ・ みぞう 〈安世舟〉 論の基礎となった。 ッ民族は他民族を支配する権利をもっという理戦後の末曽有の経済的危機を乗り切るために、 ismic theory Of the state 凵ギ die orga ・ れんぼう こっかれんごう 0 連邦 論となり、またこのゲルマン民族の優秀性とい 世界大恐慌後には、経済的発展と資源の獲得を nische Staatstheorie り・国家を一種の有機国家連合 う考え方は、のちにナチス第三帝国による世界求めて植民地再分割を目ざす戦争を準備するた 体とみる国家学説。国家ないし社会を生物有機国家論こ。かろん国家の本質・起源・目 体との類推において説明することはすでにプラ的・機能、国家の変革・崩壊・消滅、国家と社支配の理論的根拠となる。ところで、ドイツでめに、全国民を国家目的の遂行に動員すべく、 いっさいの人権と自由を抑圧し、政治に経済を 会あるいは国家と個人の関係などを主たる考察も一九世紀末に立憲君主制の時代になると、ラ トンの国家論に現れており、その後、中世カト