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1. 日本大百科全書 9

こまつば はしゅ ーナショナル・ハ・ ーへスター社、西ドイツのマ播種し、正月から利用する。三、四月の春播き 、ノッドなどの作 ( 昭和六 ) 帰国後、マルロー 作家協会賞を受賞し、英訳されて海外でも反響 のものをつまみ菜として利用するが、若々しい イプレス社などと技術提携を進め、総合機械メ 品を翻訳紹介し、三四年の「行動主義文学論をよんだ。八五年 ( 昭和六〇 ) 『首都消失』で日 緑色と、ウグイスの鳴くころに出回るところか 〈厚木淳〉 ーカーに成長した。また七三年の小松プラジル 争」に参加、『行動主義文学論』 ( 一九三五 ) を刊行本大賞受賞。 の設立をはじめ、海外生産も活発である。資本ら、ウグイスナともよぶ。 した。三七年『報知新聞』特派員としてふたた 小松島 ( 市 ) こまっしま徳島県南東部、 ヒタミン < をカ 〈中村清司〉 〔食用〕可食部一〇〇等中に、、、 び渡仏し、四〇年帰国後『沈黙の戦士ーー戦時松島湾に臨む市。徳島市南部に位置する。一九金は約四〇九億円 ( 一九ハ五 ) 。 下のパリ日記』 ( 一九四 0 ) を刊行。戦時中はフラ五一年 ( 昭和二六 ) 市制施行。五六年坂野町を 小松帯刀こまったてわき ( 天三五ー七 0 ) 幕末ロチンで三三〇〇グラム、 0 を七五ミリグラム さつま てんばう ンス領インドシナに四年間滞在し、ベトナム独編入。国鉄喞第線、国道五五号が通じ、小松島の政治家。天保六年一〇月一四日、薩摩藩門閥含む。またカルシウム、鉄なども比較的多い きもっき くせがなく、親しみやすい味で、さまざまな料 立運動に参加して四六年帰国。半自叙伝小説港からは阪神、和歌山への定期船が発着する。肝付氏の三子に生まれ、のち小松清猷の養子と かんだせ 『ヴェトナムの血』 ( 一九五四 ) を著した。↓行動主市街地は神田瀬川の河口両岸にあり、北岸は なり帯刀清廉と称す。一八六一年 ( 文久一 ) 島理に用いられる。塩をすこし加えた湯でさっと づひさみつ 義文学 〈神谷忠孝〉港、南岸は商店街をなす。市の発展は、一九一津久光の側詰で側役勤となり、六二年家老、薩ゆで、水に放して冷やし水けをきる。おひた あ としみち し、和え物、炒め物、そのほか利用範囲が広 三年 ( 大正一 D 徳島市と小松島間の鉄道開通に摩藩公武合体運動を大久保利通らと推進した。 コマッコウ〔小抹香〕 pygmy sperm 一はにゆ - っ・ これ とくに江戸風の雑煮に欠かせない whale/8Kogia き哺乳綱クジラ目始まり、三四年の新港の完成で京阪神への玄関以後、京都を中心に幕府や諸藩との交渉に活 マッコウクジラ科の小形ハクジラ。マッコウクロの一つとなった。四八年開港場、五六年重要躍、六六年 ( 慶応一 l) 西郷隆盛とともに長州藩は、年頭に松の実と若菜を食べると、健康と長 たかよし ジラの子供の意味ではなく、近縁の別種であ港湾に指定された。さらに六四年の新産業都市士木戸孝允との間に薩長盟約を結んだ。六七年寿を得るという中国の古い風習に倣ったもの あき よしのぶ ふん る。体長三前後で、吻はないが、頭部前面が 指定に伴い、新港や湾岸南部の金磯に一万トン岸土佐、安芸藩代表とともに将軍徳川慶喜に対しで、その代用としてコマツナが用いられるよう 〈星川清親〉 になったといわれている。 三角形に突出しており、その下面に小さい口が壁が完成した。新港は商港としての機能が大きて大政奉還を進言し、その実現に寄与した。六 あり、細い下顎に一二 ~ 一六本の鋭い歯があく、 金磯は工業港として外材の輸入が多い。港 八年 ( 明治一 ) 明治政府の参与、外国官副知コマツナギ〔駒繋〕、こ。きト s ミ do ・ こんせき る。上顎の歯は退化し、歯茎の中に痕跡があ湾周辺にはバルプ、繊維などの大工場が立地す事。六九年賞典禄千石を賜ったが、翌明治三年ミざ、 Matsum. マメ科の草状小低木。茎 たっえ 〈毛利敏彦〉 は多数分枝し、高さ六〇 ~ 九〇。葉は奇数羽 る。体は背側が黒く、胸腹部は淡色、その境界る。西部の立江地区は旧土佐街道に沿い、四国七月二〇日大阪で病没した。 はばかされている。耳孔から細い白帯模様が下 八十八か所第一九番札所立江寺の門前町であコマツナ〔小松菜〕 8Brassica ミミを s ・状複葉で七 ~ 一一枚の小葉からなる。小葉は長 ようえき だえん 顎に向かっている。小さい背びれが中央より後る。また田野地区には第一八番札所の恩山寺が tris L. ア。フラナ科の二年草。植物学上はカ楕円形、長さ一 ~ 二・五。七 ~ 九月、葉腋の ちょうけいか かま ろに鎌形をして存在する。世界中の寒海を除くある。小松島湾西部の和田鼻は砂州状の半島でプやハクサイと同一の種で、カプから改良され総状花序に淡紅色の小さな蝶形花をやや密に ひんてい 海上自衛隊基地があり、浜堤列を利用してキュてできたものといわれる。栽培の起源はつまびつける。豆果は三 ~ 八個の種子を含み、細い円 海洋に分布し、ときどき陸にのし上がる。図 クジラ 〈西脇昌治〉ウリ、イチゴの施設園芸が盛んである。沿岸でらかではないが、江戸時代初期には各地で栽培筒形で、長さ約三、茶褐色に熟す。本州から はイカナゴ、シラス、イワシの漁獲があり、ワされていた。東京都江戸川区小松川も産地の一九州の山野のやや乾いた日当りのよい所に生 小松左一示こまっさきよう ( 一九三一ー つなよし ひのみね カメ、ノリの養殖が行われる。市街北部の日峯つであったが、五代将軍徳川綱吉がこれを好え、朝鮮の済州島、中国にも分布する。名は、 作家。大阪生まれ。京都大学文学部を卒業後、 よしつね 茎がじようぶで馬 ( 駒 ) をつなげるほどである 業界誌、時事漫才の台本作家などを経て、一九公園は好展望台で、恩山寺付近の旗山は源義経み、小松川にちなんで小松菜の名をつけたとい 六二年 ( 昭和三七 ) から短編を発表。処女が平家追討の際に上陸した地と伝えられる。人われる。明治になっていっそう盛んに栽培されという意味とも、馬が好んで食べるからだとも 〈立石庸一〉 いわれる。 〈高木秀樹〉るようになった。食用部となる根出葉はヘら形 長編『日本アパッチ族』 ( 一九六四 ) は鉄を食う新ロ四万四〇〇〇。 こまつばらえいたろう ( 天五一一 で切れ込みがなく、葉肉は薄く柔らかい。春に 小松原英太郎 人種の誕生と彼らによる革命をユーモラスな筆回『小松島市史』 ( 一九ハ一・小松島市 ) あわ おうせい ー一九一九 ) 明治・大正期の官僚、政治家。岡山 とう立ちして、美しい黄色の十字花をつける。 致で描き出世作となる。以後、旺盛な筆力で破囮二万五千分の一地形図「阿波富岡」「徳島」 かえい たっえ 花や果実、種子は力。フのそれに似ている。根は県出身。嘉永五年二月一六日生まれ。慶応義塾 「立江」 滅テーマの『復活の日』 ( 一九六四 ) 、超能力スパイ を中退して自由民権連動に関係し、筆禍事件に を主題にした『エス。ハイ』 ( 一九六五 ) 、一〇億年の 小松製作所 ( 株 ) こまっせいさくしょ建設機多少肥大するが、食用としない。 耐寒性が強く、積雪の下でも濃い緑を保ち枯より二年半投獄された。一八七八年 ( 明治一 時空という雄大なスケールで展開する過去改造械メーカーの国内最大手。一九一七年 ( 大正 計画を描く『果しなき流れの果に』 ( 一九六六 ) な六 ) 竹内鉱業 ( 炭坑経営 ) が自家用機械の生産れないので、各地で栽培されている。一般に秋一 ) 出獄して朝野新聞社に入社、翌年岡山で 『山陽新報』を発刊。八〇年官僚に転身して外 どを発表して創作界のリーダーの一人になのため開設した小松鉄工所が、一二年に分離独 ( 関東では九 ~ 一一月、東北では八、九月 ) に った。代表作『日本沈没』 ( 一九七三 ) は日本推理立して設立された。早くから素材の鋳鋼生産と 機械製作の一貫体制を敷き、三一年 ( 昭和六 ) に農耕用トラクターを国産化、四〇年には大型 油圧プレスの製作を開始した。さらに四三年に は航空基地建設の必要から、のちに国産プルド ーザーの原型となった小松—型均土車を完成し た。第二次世界大戦後は四七年 ( 昭和二一 l) デ ィーゼルエンジン、プルドーザー、産業車両の 製造を開始、六〇年代には資本自由化対策とし て、全社的な OO ( 総合的品質管理 ) 運動を 展開する一方、アメリカのカミンズ社、インタ 7 小松帯刀 かないそ たか ~ もい・ コマツナ コマツナギ ( 花 ) 527 ま

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えいろく ルフリルプリンであることを明らかにし、カイ さいとうりよくう ( 天六七ー一九 0 四 ) の永禄四年五月一一日病死した。美濃斎藤氏一一一斎藤緑雨 ぎんしん 1 ロい」れ・つ 代では道三の斬新性がいわれるが誤りであり、評論家、小説家。慶応三年一二月三一日、伊勢ネチン kinetin と名づけた。 しゆくろう かんだか かんべ すずか 義龍に至り宿老制、貫高制の採用や宗教統制神戸 ( 三重県鈴鹿市 ) の生まれ。本名賢。別号〔天然サイトカイニン〕最初に発見された天然 ほうが しようだゅう 策など戦国大名としての萌芽的諸政策がみられ江東みどり、正直正太夫、登仙坊など。明治法サイトカイニンは、一九六三年、オーストラリ きかくどう る。 ^ 谷口研語〉律学校 ( 明治大学の前身 ) 中退。俳諧を其角堂アのリーサム D. S. Letham によって、トウ かながきろぶん こんにち さいとうより ( 一公五ー一九五九 ) 洋画 永機、小説を仮名垣魯文に学ぶ。『今日新聞』モロコシの末熟種子から単離されたトランス・ 斎藤與里 家。明治一八年九月七日埼玉県の生まれ。本名を振り出しに、『東西新聞』『国会』『二六新報』ゼアチン trans-zeatin ( ゼアチン ) である。天 ちゅうかのこぎたけしろう よろずちょうほう 與里治。京都で浅井忠、鹿子木孟郎に素描を『萬朝報』など多くの新聞ジャーナリズムを然サイトカイニンは、ほかにも幾種類か単離さ 学んだのち、一九〇六年 ( 明治三九 ) 渡仏して渡り歩く。一八八九年 ( 明治二一 l) 『小説八宗』れているが、ゼアチンがもっとも広く植物界に ハリのアカデミー ・ジュリアンでジャン・ポー により文壇に登場、以後戯文批評に才筆を振る分布する。天然サイトカイニンは、ゼアチンの ひょうちゅう ル・ローランスに油絵を学ぶ。〇八年帰国して 、、『初学小説心得』『小説評註問答』『新体詩ように、普通、 6 位のアミノ基に炭素数五のイ やゅちょうしよう 東京に住み、新しい西欧絵画の紹介に努めた。見本』などで文壇人を揶揄嘲笑し、さらに九ソプレン骨格の置換基をもつ。サイトカイニン じよう れ・つ嚇 ~ い 一二年 ( 大正一 ) 高村光太郎らと後期印象派な六年、森外、幸田露伴と匿名合評『三人冗は、 9 位の窒素原子にリポフラノシル ribofu ・ いしフォービスム系のフュウザン会を結成した 』を雑誌『めさまし草』に掲載、「評壇最高 ranosyl 基、あるいはリポフラノシルリン酸 が、翌年解散し、官展に移った。一六年の文展の権威」 ( 松本清張 ) として重きをなした。一 rib0furanosyI—5-phosphate 基が置換した複八ロ で『収穫』が特選、のち大阪で矢野橋村と大阪方、うぶな男の色道修行の悲劇を描いた『油地型としても存在する。複合型は、植物体内の移 美術学校を設立して洋画部教授となり、二七年獄』 ( 天九 I) や、花柳界における恋のさや当て動のための形、あるいは貯蔵のための形と考え ( 昭和一 D 帝展で特選、翌年から無鑑査、のちのなかを巧みに遊泳する青年を描いた『かくれられている。サイトカイニンは、普通、根で合 とらお かいじゅ 審査員となった。この間に牧野虎雄らと槐樹社んば』 ( 天九 l) により小説家としての地位を確成され、木部樹液によって地上部に輸送され て、成長の盛んな若い組織に集められるほか、 を創立したが、解散後の三二年には東光会を創立、ほかに『門三味線』 ( 天九五 ) などがあるが、 しんらっ しかん 立した。第二次世界大戦後は日展参事を務め、 小説家としての才より辛辣かっシニカルな風刺篩管液によって植物体内に再分布される。 1 術の 」は一天去」 昭和三四年五月三日没。 〈小倉忠夫〉家として知られた。軽妙な文章とパロディー精〔サイトカイニンと〕サイトカイニン あん 真原と さいとうりゅうすけ ( 一九一七ー 神は明治文壇にあって異彩を放ち、「按ずるに は、植物のほか、動物や微生物から得られるー 写大た 斎藤隆介 なり 複 れ Z ( 転移 Z ) のなかに、アンチコドン 児童文学作家。東京に生まれ、明治大学文芸科筆は一本也、客は一一本也。衆寡敵せずと知るべ 木山さ がえる 重岡示 の末端の次に並ぶヌクレオチドとしても存在 を卒業。新聞記者、劇団文芸部などを経て、短し」は一代の名句。著書に『あま蛙』 ( 天九七 ) 、 義年 , 展 藤田年での編集『べロ出しチョンマ』 ( 一九六七 ) 、絵本『八 『あられ酒』 ( 天九 0 、『わすれ貝』 ( 一九 00 ) 、『みしている。しかも、サイトカイニンを含むー 斎円館も だれ箱』 ( 一九 0 三 ) などがある。明治三七年四月 Z < は、襯 Z < ( メッセンジャー Z ) の 郎』 ( 一九六七 ) などで注目を浴び、以後『ゆき』 〈石崎等〉 ( ウラシル ) で始まる三塩基の配列したコド サンバウロ・ビエンナーレ展で国際絵画賞を受 ( 一九六九 ) 、『ちょうちん屋のままっ子』 ( 一九七 0 ) 、 一三日没。 けた。多摩美術大学教授 ( 一九六四 ~ 七一 (l) として後『天の赤馬』 ( 一九七七 ) など多くの長・短編を発表回『明治文学全集囲斎藤緑雨集』 ( 一九六六・筑摩ン ( 遺伝暗号 ) に対して相補的な関係にあるア 進の指導にあたるが、六〇年代なかばから油彩する。写実的なものも幻想的要素を含むもの 書房 ) ▽橋爪政成著『斎藤緑雨』 ( 一九六四・九ンチコドンをもつものに限られている。しか ぎんしん し、このように、限られたー XZ< 種中だけに も、ともに豊かなイメージを連ねながら、描写 州文学社 ) 画を離れ、各種の素材を自由に用いて、斬新な 存在するということが、サイトカイニンの生理 三次元造形へと移っている。ヨーロッパ各地でカに富む簡潔な文体と堅固な構成によって、民サイドカー 0 オートバイ の個展のほか、七八年には東京国立近代美術館衆の生活、願望、エネルギーなどを明快に伝えサイトカイニン cytokinin 植物ホルモ作用と直接関係をもっとは考えられていない。 〔生理作用〕サイトカイニンは、オーキシンと で斎藤義重展を開く。八四年度の朝日賞を受て、幅広い読者をつかんでいる。〈神宮輝夫〉 ンの一グループ。 6 位アミノ基に置換基をもっ 賞。 〈小倉忠夫〉回『斎藤隆介全集』全一二巻 ( 一九全・岩崎書店 ) アデニン ( 6 ーアミノブリン ) の誘導体で、カ共同して有糸分裂を促進するほかに、植物器 さいとうよしたっ ( 一五一一七ー六一 ) 戦 ィネチンと同じ生理作用を示す一群の化合物の 官、とくに葉の老化を遅らせる働きをもつ。た 斎藤義龍 ときよりのりあいしよう どうキ ~ 人 総称である。 とえば、切除した葉を暗所に置くと、緑色は消 国大名。道三の子。俗説では土岐頼芸の愛妾 みよしの 〔カイネチンの発見〕アメリカ、ウイスコンシ えて黄色になるが、サイトカイニンを与えてお 三芳野が、頼芸の種を宿してのち道三に嫁して ン大学のスクーグ F. Skoog グループの植物 くと、この変化の進行を遅らせることができ 生んだ子で、後の道三・義龍の不和はこれに起 としひき一 はんか 寺 且織立ロ養こ関する研究の過程で発見された。タる。サイトカイニンには、また、培養組織から 因すると伝える。初め新九郎利尚、のち范可と ハコ茎の髄組織をオーキシン ( インドール酢の芽の分化の促進、葉の緑化と成長の促進、葉 号す。一五五四年 ( 天文二三 ) 道三より家督を ながら 阜酸 ) の存在下で、ニシンの精子から得た古くなの蒸散の促進などの働きがある。↓植物ホルモ 譲られたが、五六年 ( 弘治一 D 四月長良川畔に じぶだいぶ 〈勝見允行〉 った Z < といっしょに培養すると、著しく細ン 道三を討つ。五八年 ( 永禄一 ) 治部大輔に任 すき しようばんしゅう さいどきプラウや犂ですき起こした キ、官、翌五九年将軍相伴衆に列し、以後たびた 郵胞分裂が促進されることがっきとめられた。そ砕土機 でんとう べつでん の後、同じグループのミラー C. 0. Miller ら田畑は、大きな土塊が重なり表面に凹凸ができ とび織田信長と争う。六〇年末伝燈寺の別伝に美 義は一九五五年、の分解産物であるこの活て、そのままでは次の作物を作付けすることが > 濃禅宗寺院の寺統権を与えたことから、美濃の 斎性物質を単離して構造を決定し、 6 ーアミノフできない。そこで、大きな土塊を細かく砕き、 六、禅宗界を揺るがす別伝の乱が起こり、その渦中 まさる せ 879

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ん ら ら " ト什ー・らをよ , いを に変化する。たとえば江戸時代を例にとれば、娯楽本来の目的である楽しさを減殺することに 販売量を誇っている。 日本には第二次大戦後に にしきえ 見物なら芝居、鑑賞なら錦絵、ゲームなら矢なり、結果において娯楽が娯楽でなくなるおそ 6 進出した。 : コカ すもう 〔製法と成分〕コーラ飲料は、コカ・コーラの場、交際なら居酒屋、スポーツなら相撲、行れがある。また娯楽の画一化は、文化の発達・ 場合、原液を売り利益を得ている。その原液の楽・散策なら花見、手すさびなら細工もの、観進歩という点から考えた場合、けっして好まし 内容は厳重な秘密事項だが、コカノキの葉とコ光旅行なら伊勢参りなどが行われていた。その いことではない。現代娯楽のもう一つの大きな ーラノキのを子の抽出液が主体で、甘味料、酸味後、民衆娯楽時代の始まりといわれる大正中期 問題は、一部マスコミや風俗営業の「性」の売 料、香料なごと、着色にカラメルを加え、二酸 には、見物するものとして活動写真 ( 映画 ) り方に象徴されるような、著しく公序良俗を害 化炭素ガスこ吹き込んである。ガスの溶解性をが、交際場としてカフェーが流行する。そしてするとみなされる実態があることである。これ 高め気泡が纒かく、持続性をもたせるため、。、 ホ第二次世界大戦後になると、在来の娯楽とアメ は表現の自由とかかわる微妙な問題をはらんで リリン酸を加してある。糠分含有量はほば一 リカから入ってきた新しい娯楽が巧みに組み合おり、しかも少なからず大衆の支持もあるだけ 〇 % で、かなりエネル。 キーが高い。〈河野友美〉わされて、現在のような多彩な娯楽が行われる に、法や権力によって規制することは避けるの よ , つになった。 が望ましい この種の問題は、人間社会におけ 娯木ご・く entertainment 一般に人間 の心を楽しませ慰める活動をさす。したがって 〔大衆の日常生活と娯楽〕大衆の日常生活におる永遠の課題の一つともいえる。↓遊び↓レ 宝亭 。国雨 クリエーション↓レジャー 〈田村穰生〉 娯楽は、睡二・食事・その他の生理的必需行動ける娯楽は、その時々の各人の置かれた状況に 分。時 部筆家 や労働・学などの義務的行動の対極にあっ応じて選択されている。たとえば朝起きてすぐ 回仲村祥一編『現代娯楽の構造』 ( 一九七三・文和 抄の自泉 躰頭成冷 て、余暇時駕のなかで行われることが多い。そテレビを見る、通勤電車の中で文庫本を読む、 書房 ) ▽加藤秀俊著『都市と娯楽』 ( 一九六九・ 風冒俊 来巻原都庫の意味では、レクリエーションや遊びと近い概美容院で週刊誌を読む、夜自室でステレオを聴 鹿島研究所出版会 ) ▽石川弘義編著『娯楽 古上藤京文 念である。しかしレクリエーションは、心身のく、友人とスナックで一杯やる、会社の人とマ の戦前史』 ( 一一・東京書籍 ) ▽同編著『余 ージャンをやる、帰宅途中パチンコ店に立ち寄 集』に至る勅撰集抄出歌三九五首と若干の歌評緊張緩和・リフレッシュという役割・機能を重 暇の戦後史』 ( 一九七九・東京書籍 ) ▽河合良 とからなる。それまでの歌学書の知識偏重を批 くみる概念てあり、活動の内容や種類にはあま る : : : など、ごく日常の生活行動の流れのなか 紀・中山裕登著『レジャー産業界』 ( 教育社 りウェイトを置いていない。また遊びは、生理でさまざまな娯楽種目が適宜選択され、行われ 新書 ) 判して文芸性を重視し、和歌史の具体的な作品 例のなかから、美的本性を把握させようとした的必需行動 ~ ~ 、労働・学業などの日常生活から離ている。これらの娯楽種目は、大衆の日常生活娯楽施設利用税ごらくしせつりようぜい都 ところに特色がある。明確な和歌様式史観と、 れて、報酬ゃ損得や生産性を問題とせず、遊ぶのなかで発生する短い余暇時間あるいはごく限道府県がゴルフ場、パチンコ場などの娯楽施設 られた行動しかできないような制限っき余暇時の利用行為に対して課する普通税。一九五四年 韻律性や余情効果としての映像性に美的本質をこと自体をロ的とする自由な行動であり、行う 間にあったものが選択されている。つまり手軽 ( 昭和二九 ) に入場税が都道府県税から国税に とらえる和歌観を初めて示した点に、歌論史上人間にとっての意味づけを重視する哲学的な概 の功績がある。冷泉家に俊成自筆本 ( 初撰本 ) 念である。したがって、これらとの対比でいえな娯楽種目しか行いえないような余暇時間が大移管された際、第三種 ( ゴルフ場、パチンコ場 など ) の施設の利用者に対する入場税は、娯楽 の現存することが確認され、国宝に指定されば、娯楽は、レクリエーションや遊びのなかで衆の日常生活には意外に多い。大衆の娯楽のな かでマス・メディア利用の多いことがよく指摘施設利用税として都道府県に残された。課税標 〈松野陽一〉採用されることの多い行動のうち、人間を楽し 回有吉保他校注・訳『日本古典文学全集歌ませるような諸行動の総括名称であると同時されるが、生活実態から考えれば、それはやむ準は施設の利用料金であるが、ゴルフ場その他 これに類する施設の利用に対しては、利用の日 論集』 ( 一九七五・小学館 ) に、それを行う人間の活動そのものをもさす名をえないともいえる。その反面、連休や週末の 余暇時間は平日よりも制約条件が少ないから、 ごとに定額により課税される。またパチンコ場 コーラ飲料ーーいんりようコーラ・ナツツ称であると、」、うことができよう。 などについては、施設の特殊性にかんがみ、利 の抽出液を主材料とした発泡性の甘味清涼飲料〔娯楽の種類〕娯楽行動にはさまざまなものがそのようなときには娯楽種目の選択幅はかなり . 理的な刺激によって広がる。しかしそれにもかかわらず、ゴールデ用物件の数量などを課税標準として課税するこ 水。コーラ・ナツツはカフェインを含み、酸ゃあるが、大別すると、②、い ンウィークなどには特定の行楽地や娯楽施設に とができるものとされている。一九六六年に娯 楽しむもの、魵身体を動かすことによって楽し ガスによる爽快な味と、特有の香りをもつ。 楽施設利用税交付金が創設され、ゴルフ場にか 〔歴史〕コーラ飲料は、イギリスのスコットラむものの二種類がある。このうち 3 ( 心理刺激多くの人々が集中するし、週末の盛り場もたく 型娯楽 ) としては、①見物 ( 演劇やスポーツをさんの人々で大混雑している。つまり、連休やかる娯楽施設利用税収入額の六分の一 ( 現在は ンド地方で一八世紀から一九世紀にかけてつく 週末などにおいても、各人はほば似たような娯二分の一 ) が、そのゴルフ場所在の市町村に交 られた記録がある。コーラ飲料として確立させ見る ) 、②賞 ( テレビ視聴、レコードを聴く、 〈大川武〉 付されることとなった。 、六年こアメリカのジョージア州 読書など ) 、③ゲーム、ギャンプル ( パチンコ、楽種目を選択しており、その意味では、大衆は たのは、一、 マージャン、囲碁、行棋、テレビゲームなど ) 、 アトランタの薬剤師ジョン・ペンバートンが売 かなり画一化した娯楽行動を行っているのが実ゴラクプル Gorakhpur インド北東部、 ウッタル・プラデシュ州東部の都市。人口三〇 り出した「コカ・コーラ」が始まりである。一④交際 ( スナック、層酒屋、レストランなどで態である。 八九二年コカ・コーラ会社が設立され、独特の友人と歓談 ) などがある。また⑩ ( 身体型娯〔現代娯楽の問題点〕現代娯楽の大きな問題点万六三九九 ( 一九〈一 ) 。ガーガラ川の支流ラブテ イ川に臨み、交通に恵まれて古くからこの流域 商法でアメリカ人の間に普及したが、とくに第楽 ) としては、①「〈事ーツ ( テニス、ジョギンとしては、過密化と画一化があげられよう。こ 一帯の中心地として発達。植民地時代はイギリ ー楽・散策 ( ハイキング、れは人口の集中化・過密化、そして大衆の日常 二次世界大戦後は世界各国に市場を伸ばし、各グ、水泳なと ) 、ツ彳、 ドライプ、街歩きなど ) 、③ホビー、手すさび生活のパターンの画一化が基本にあり、一方でス軍が、独立後はインド軍が駐屯し、軍事基地 地に進出している。日本では大正時代に東京・ 最近では工業開発も進 ほとんど売れ ( プラモデル、日曜大工など ) 、④観光旅行、な娯楽を提供する側も大衆の大量動員をねらってとしての性格も強い。 京橋の明治屋が少量輸入したが、 どがある。このような区分で考えた場合、それさまざまな経営手法を用いていることがこれとみ、綿紡績、製糖などに加え、日本の援助によ なかった。一八九八年にはペプシ・コーラ会社 対応している。しかし娯楽における過密化は、 る近代的な肥料製造の工場も完成。〈中山修一〉 が創立され、コカ・コーラに次ぐコーラ飲料のらのなかに含まれる具体的な行動は時代ととも

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ごみむし ゴミムシ 色の濃さと顔盤の模様は、地方差とともに個体のもので、コキノコゴミムシ属 0 ミ。きや 〈竹下信雄〉 差が著しい アトパゴミムシ属 C ミまきを、 s などのものがあ る。ゴミムシの幼虫は細形で活動的なものが多 コミムシ〔芥虫〕 s & 冐一 s をミ , tus 昆虫綱甲虫目ゴミムシ科に属する昆虫。 、成虫と同じく肉食でほかの虫を捕食する が、地表の陰あるいは地中に隠れて夜間活動す 日本各地に普通で、朝鮭半島、中国、シベリ ア、ヨーロッパに広く分布する。体長一二 = 、リ内るので、ほとんど目につかない。なお、マルガ 外。黒色で頭に一対の赤い点紋がある。長形でタゴミムシ類の種には植物種子を食べる例が知 〈中根猛彦〉 られている。 、【・一・背面はやや平たく、光沢は鈍く、上ばねは点刻 がなく細い条溝を備える。地表性で昼間は石のゴミムシダマシ〔偽歩行虫〕 ~ ミき s 下や草の根際などに隠れ、おもに夜間活動し、 picipes 昆虫綱甲虫目ゴミムシダマシ科に属す る昆虫。日本各地のほか、シ・ヘリア、ヨーロッ 小虫など捕食する。灯火にもよく飛んでくる。 」アメリカに分布し、貯蔵穀類の害虫に数 幼虫は地中で幼根や腐植質を食べるという。成 えられるが害は少ない。体長一五 = 、リ内外。黒褐 , 虫で越冬する。 ゴミムシ科 Harpalidae は、広義のオサムシ色で長形、多少後方が幅広い。六 ~ 七月ごろか 科に含めることもあるが、甲虫のなかでも種類ら現れ、朽ち木にみられ、また倉庫や納屋など のなる地を柔蛹羽 の多い一群で世界中に分布し、極北域にも産にいる。幼虫は細い円筒形で黒褐色、成幼虫と 元す , ど , てで ム根卵後なしつ中 し、およそ二万以上の種が知られている。日本も穀類の屑などを食べる。 ミの産化虫長潜の 産だけでも九〇〇に達する種がある。オサムシ ゴミムシダマシ科 darkling beetlesZTene ・ ゴ長草に孵小成に 穴 きやくけいせつ タ成。中。てて土巣っ 類とは、前脚脛節の内側に強い入り込みがあ brionidae は世界中に広く分布し、とくに熱帯 ガ・虫土虫出しいる。待 ル態成の幼に食かす蛹を り、中胸の後側板が中脚の基節に達しないこと域に多く、一万五〇〇〇種以上が知られ、日本 マ変①ど②上捕ら化③化 で区別でき、両科は五節の附節と糸状の触角な産として二〇〇種以上が記録されている。体長 どの特徴で共通している。大部分の種類は地表二ど三五・、リぐらい。形はきわめて変化に富み、 にいてほかの虫を捕食し、一般に黒っぱく、多ほかの甲虫のどれにも似た形の種類があるとい くの亜科に分けられるが、樹上や葉上にみられわれるほどである。全体的にみると黒色の種類 が多いが、虹の金属光沢をもっニジゴミムシダ るものや、草地にいるものなどにはモリヒラ タゴミムシ類 Co き 0 斗 s 、ジュウジゴミムシ類マシのようなものや、モンキゴミムシダマシな ト、アオゴミムシ類 C ミミ、 ~ き s のように金ど赤い紋をもつものなど、いろいろある。形も 属色や色彩の美しい種を含む類がある。生息範テントウゴミムシダマシのように半球形のもの だえん から、卵形、楕円板状、円筒形、ときにはヒサ 囲は干潮線 ( ウミミズギワゴミムシなど ) から 高山の頂上 ( オンタケチビゴミムシなど ) までゴゴミムシダマシのようにひょうたん形などさ と広く、地中や洞穴中にすむメクラチビゴミムまざまである。触角は先端へ徐々に幅を増し、 ふせつ きやく シ類 Trechini など特殊環境に適応した一群を前脚の基節は後方が閉じ、附節は五節で後脚だ 除くと、前記のように石や倒木の下、落ち葉け四節、つめは単純であるなどの特徴をもつ。 日本には、海外の砂漠や不毛の地にいるよう 中、草の根際などに隠れ、おもに夜間活動して 枯れ木や朽ち本にいるキマ な種類はいないが、 ほかの虫を捕食する種類が多い。これらにはミ ワリ、ヒサゴゴミムシダマシ、オオゴミムシダ ズギワゴミムシ属洋ミ b 斗を、ナガゴミムシ マシ、エグリゴミムシダマシなどや、キノコに 属 P 、 e き s 、、 s 、ヒラタゴミムシ属 P 一ミ 、ミ s 、マルガタゴミムシ属ゝミき、ゴモクム集まるクワガタゴミムシダマシ、ナガニジゴミ ムシダマシ、キノコゴミムシダマシ、ツノゴミ シ属ミトミ、アオゴミムシ属 C ミミこ ~ 、 s 、 ョッポシゴミムシ属き s のような各属ムシダマシなどは多く、コケなどを食べるテン トウゴミムシダマシの類もいる。また、海浜や に代表される多数の種類が含まれる。樹上や葉 Ⅱ原に多いスナゴミムシダマシ、海岸にいるゴ 上、花上にはモリヒラタゴミムシ、ジュウジゴ ミムシの類のはかにアトキリゴミムシ類に属すモクゴミムシダマシ、ホネゴミムシダマシやハ マべゴミムシダマシの類もみられる。このほか るものが多いが、セスジヒラタゴミムシゝ・ ミミぎのように田畑の葉上でほかの虫や貯蔵穀類につく種類は世界共通や広い分布域を もつものが多く、日本にもコメノゴミムシダマ 卵を食べる有益なものもある。枯れ木やキノコ にみられる種類は主としてアトキリゴミムシ類シ、コクヌストモドキなど多く、ガイマイゴミ ①アオゴミムシ②セアカヒラタゴミムシ③ヤホシゴミムシ ④オオアトボシゴミムシ⑤オオョッポシコミムシ⑥ホソクビゴミムシ ふせつ 535

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のたたかい 景北舎をもつ。『源氏物語』の主人公光源氏のコシャマインの戦い 室町軈 おしま ず . 開発されたが、その間造成された 母はここを居所としたため、桐壺の更衣とよば中期に北海道渡島半島を舞台にして起きたアイ み・新田は一七五新田、九二〇〇わ ' れた。 ヌ民族の蜂起。一四五六年 ( 康正一 l) 春、箱館 しに達した。明治時代になって藤田 しのり かじゃ わ こきでん はこだてしのり ふじつば 画 モ 〔飛香舎〕 ( 藤壺 ) 弘徽殿の西に位置し、清近郊志濃里 ( 函館市志海苔町 ) の鍛冶屋村で和 組が大規模な干拓を行い、第二次 りしっ わたどの じん 涼殿とは渡殿で結ばれている。東西五間、南人がアイヌの青年を刺殺したことが発端とな 世界大戦後は農林省に引き継が 北二間の母屋の四面に廂、東西北に孫廂があり、翌五七年 ( 長禄一 ) 東部アイヌの首長コシ れ、合計五六一七診タが干拓され ポイ る。庭に藤が植えられ、中宮などが住んだ。現ヤマインに率いられたアイヌ民族の大蜂起へと た。旧藤田村は資本主義的農業経 イフ在の京都御所には、平安内裏の様式を取り入れ発展した。この蜂起によって、当時渡島半島南 営をした藤田農場であり、旧興除 デウ メ て一八五五年 ( 安政一 l) に建てられたものがあ端に館を築いて群雄割拠していた和人小豪族の 村は機械化農業発祥地で知られ もべつかみいそも 工 る。江戸後期には、女御が入内するときの儀式諸館が相次いで陥落、わずかに茂別 ( 上磯町茂 る。なお、児島湾干拓地は広義に はなぎわ ン 辺地 ) と花沢 ( 上ノ国町 ) の二館を残すのみと の場であった。 は江戸時代以降のものすべてを含 かき早、きすえしげ ジイ 〔凝華舎〕 ( 梅壺 ) 母屋の大きさは飛香舎と同なったが、花沢館主蠣崎季繁のもとにあった武 めるが、通常は興除新田以降のも のぶひろ 田信広 ( 松前氏の祖 ) が和人軍を指揮して反撃 じ。四面に廂、東に孫廂がある。南庭に紅梅・ のをさす。一九五九年 ( 昭和三 を加え、ついにコシャマイン父子を射殺、これ 四 ) 児島湾締切堤防建設で児島湖が生まれ、わ新興の有力者にのし上がったが、そのため政敵白梅が植えられていた。 かんなりのつは によりアイヌ軍の勢力は急速に弱まり、鎮圧さ が国最初の複式干拓が実現した。干拓地の農業に憎まれ一四三三年に追放される。しかし翌年〔襲芳舎〕 ( 雷鳴壺 ) 凝華舎の北にあり、大 つつつんルし 〈榎森進〉 れるに至った。 フィレンツェに帰還筱は、老獪な政治手腕を振きさは昭陽舎、淑景舎と同じ。通称の由来は、 経営規模は西南日本のなかでは広く、一農家の 経営耕地面積は一・五 ~ 二タ。現在は大部分るってこの都市国家の事実上の支配者となる。庭に雷が落ちた木があったからなどといわれて回海保嶺夫著『日本北方史の論理』 ( 一九七四・雄 なださき 〈吉田早苗〉 山閣出版 ) ▽榎森進著『北海道近世史の研 いるが、明らかではない。 が岡山市、一部が玉野市、灘崎町に属し、はと他方、学芸にも深い理解を示し、大ぜいの学 究』 ( 一九全・北海道出版企画センター ) んどが兼業農家である。水田地帯であるが、玉者、芸術家、建築家を保護し、ルネサンス芸術コシャクシギ〔小杓鷸〕 little whim- の開花に多大な貢献を行った。死後、国家より bre 一 \ ~ ミミ斗冫 3 斗 ~ ミ ~ 、 s 鳥綱チドリ目シコシャリン Koszalin ポーランド北西 野市と灘崎町にまたがる七区ではナスのハウス 〈在里寛司〉ギ科の鳥。中部シベリアで繁殖し、冬は南へ移部、ポモジェ ( ポメラニア ) 地方の行政、エ 「祖国の父」の称号を贈られた。 栽培が盛んで、はかにも園芸農業が行われてい こしもとに流の商家の人々の側に仕動、南半球にまで渡るものもある。日本には旅業、文化の中心都市。コシャリン県の県都。人 る。児島湾は魚類の豊富な浅海であったが、干 腰元 、一十つん ~ い きようあい ロ九万六二〇〇 ( 一 <ll) 。バルト海沿岸、ポモ 〈由比浜省吾〉 えて雑用をたす侍女 ( 小間使 ) をさし、身の回鳥として渡来するが、その数は多くない。九州 拓や淡水湖化で狭隘化した。 っしま まちはま ジェ平野の中央にあり、砂州の内側の低湿地と 囮二万五千分の一地形図「岡山南部」「浜」りにおいて使うことから腰元使ともいう。またや対馬では、比較的記録が多い。全長約三一 、翼長約一八・五、褐色の体に黒褐色の背後の氷河性丘陵との間の狭小な平野に位置す 遊女屋の主人の居間や帳場で雑用に使われる女 「倉敷」「茶屋町」 くちばし じゅうはん る。周辺の農村との結び付きが強く、亜麻加 しオ一般には江戸時代に武家方の奥向縦斑がある。嘴は下に曲がっており、海岸に 小嘴水 ( 町 ) こしみず ( ちょう ) 北海道東部、をも、つこ。 あばしり 工、食品加工、製紙業、農業機械工業が盛ん。 きに仕える女中と同義に解釈しているが、三田近い農耕地や草地にいて昆虫などをあさる。日 網走支庁管内の町。一九五三年 ( 昭和二八 ) 町制 くっしやろ えんぎよ 一三 ~ 一四世紀の建造物が多いが、第二次世界 施行。北はオホーック海に面し、南は屈斜路カ村鳶魚は、武家方の女奉公人のうちには腰元の本では、一羽か二羽でいるときの記録が多い せんもう ルデラの外輪山に至る。海岸沿いに釧網本線、称はなく、おそらくそれは京・大坂の上流の商が、鹿児島県で二 0 羽以上の群れが観察された大戦後急速に発展した都市である。〈山本茂〉 ギ一よく こしゅ 0 座浴 ことがある。飛びながらクイーックイクイクイ腰日 国道二四四号が通じる。市街地は町域の中央部、家にあったと思われるものを、いつのまにか芝 〈高野伸一一〉 コシュ Erih K05 ( 一九一一一一ー ) ューゴス 国道三九一号と主要地方道の交点付近にある。居のほうで武家方へ持ち込んだものではなかろと鳴く。 ラビアのポスニア系セルビアの小説家。一九三 〈北原章男〉 うか、といっている。 コジャノメ〔小蛇目蝶〕 lilacine bush ・ 主要産業は農業で、寒冷地畑作が展開し、作付 りんし brown \ ミ ) き募旁洋ミ s き昆虫綱鱗翅五年ベオグラード大学法学部卒業後、パルチザ けは根菜に偏ってジャガイモ、サトウダイコン五企ロごしゃ平安宮内裏にある後宮の五つ によう 1 の殿舎。中宮、女御などの居所。またそこに摂目ジャノメチョウ科に属するチョウ。本州、四ン戦を闘い、第二次世界大戦後外交畑、法曹界 で七〇 % を占め、酪農、養豚も伸長を続けてい っしま しよう じきろ で活躍しながら作品を発表。戦争を主題とし、 る。小清水原生花園として知られるオホーック政・関白の直廬 ( 控室 ) が置かれたため、叙国、九州に分布。北海道、対馬および種子島、 やくしま レ」・つ , 6 っ ポスニアを舞台にして現代生活を鋭い風刺感覚 位・除目なども行われた。内裏の北辺から東側屋久島以南の南西諸島には分布しない。本州 海と濤沸湖間の細長い海岸砂丘は、網走国定公 しょ・つようしゃ しゅうはうしゃぎようかしゃ おける分布北限は岩手県中部。外国では朝鮮半をもってアイロニカルに描き出す。『巨大なマ に淑煢舎、昭陽舎、西側に襲芳舎、凝華舎、 園内の重要な観光地で、濤沸湖には初冬と早春 も , 一と ひぎようしゃ ック、ある巨鯨の不思議な物語』 ( 一九五 0 、『雪 島南部、台湾、中国、ベトナム北部、タイ、ビ にオオハクチョウが飛来。外輪山の一つ藻琴山飛香舎と並び、どの殿舎も南向きであった。 ルマ、ヒマラヤなどに産し、典型的な西部中国系と氷』 ( 一九六 l) 、小説集『第一人称単数』 ( 一九六三 ) は屈斜路湖を眺望できる景勝地で、自然休養林襲芳舎を除いて、中庭に植えた花や木の名をと 〈栗原成郎〉 などが代表作。 の分布を示す種。はねの開張は五〇 = 、リ内外。は 〈岡本次郎〉 った通称でよばれた の施設がある。人口七三四七。 なしつば しやり こしゅ第二次世界大戦後に民法が改 五万分の一地形図「斜里」「斜里缶」「小清〔昭陽舎〕 ( 通称は梨壺。以下同じ ) 東西五ねは黒褐色、前翅の表面に大小二個の眼状紋、戸主 ひ亠こし 日 、南北二間の母屋・の四面に廂がある。庭に梨後ろ翅は雄では無紋、雌では一個の眼状紋があ正される以前の日本の家族制度の中心をなした 水」「藻琴山」 が植えられ、北に昭陽北舎をもつ。九五一年る。ヒメジャノメに似るが色彩はより濃色。暖概念で、家の統率者・支配者。一家にはかなら コジモ・デ・メディチ Cosimo de' どころ ( 天暦五 ) 初めてここに和歌所が置かれ、「梨壺地では年三回の発生、五月より現れる。幼虫のず一人の戸主がおり、祖先の祭祀財産と家の財 Medici = Vecchio ( 一三八九ー一四六四 ) イタリ ごせん 食草はチチミザサ、ススキ、アシポソ、ア・フラ産を承継するとともに、家族の婚姻・縁組みな ア、フィレンツェの富豪。メディチ家繁栄の基の五人」が『後撰和歌集』の撰進を行った。 きりつば ススキなどのイネ科植物であるが、タケ・ササどに許可を与える権限などを有していた。戸主 〔淑景舎〕 ( 桐壺 ) 昭陽北舎の北にあり、大き 礎を築いた人物。銀行家として成功し、莫大な の地位は家督相続によって承継された。第二次 さは昭陽舎と同じ。庭に桐が植えられ、北に淑類も食べる。越冬態は幼虫である。〈白水隆〉 財をなす。民衆の人気を背景に政治力を蓄え、 0 もや だいり じゅだい たわがしま たて ほ・つキ一

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えさ ひじかた で、若い個体は木にも登る。餌はシカ、イノシ藩土方氏一万二千石の城下町であった。近畿日 、コモディティ・フロー法 ・エにゆ - っ commodity flow method 国民所得統計やシ、サル、ヤキなどの乳類で、獲物は強力な本鉄道湯の山線が通じる。主産業は農業で伊勢 で よっかいち も国民経済計算において、家計消費や固定資本形あごとつめで襲うが、大きな獲物や敵は強大な茶の産地。近年は四日市のべッドタウン化が著 成などの最終需要、あるいは原材料などの中間 尾で打ち倒す。若い個体はトカゲ、ネズミ、鳥しい。町の北半は鈴鹿国定公園区域内で御在所 需要を金額ベースで推計するに際して、各商品 やウミガメの卵を餌としている。性質は荒いが山、湯の山温泉、朝明渓谷などがあり、東海自 ごとにその生産額あるいは出荷額の数字から出人を襲うことはほとんどなく、現地住民は「オ然歩道も通じる。人口三万〇七七五。↓菰野藩 〈伊藤達雄〉 ↓湯の山温泉 発し、それぞれの流通経路を追いつつ輸出入額ラ」 ( 兄弟 ) とよんでたいせつにし、また一九 を 長 の調整を行い、 需要分野ごとの配分比率、各流三一年以来政府の手で保護されている。↓オオ回『菰野町史』 ( 一九七四・名著出版 ) トカゲ 通段階ごとの運賃率とマージン率を用いること 〈松井孝爾〉囮二万五千分の一地形図「阿下喜」「菰野」「四 いふな レ」、つ Pulau Komodo イン 日市西部」「御在所山」「伊船」 によって、最終的な処分の形態とそれそれの金コモド島 こものなり江戸時代における雑税の 額を得る方法。コモ法と略称する。家計や企業ドネシア中南部、小スンダ列島のフロレス島と 小物成 ほんとものなり などの経済主体の需要額から推計する人的接近スンパワ島レ一の間にある島。南北四〇キ。、東西総称。本田畑に課せられる本途物成 ( 本年貢 ) 法に対して、この方法は物的接近法の一つに数一九キ。、面珒四六〇平方キ。の小島。海岸線は複に対して、それ以外の雑税を小物成 ( 小年貢 ) えられる。わが国では、一九七八年 ( 昭和五雑で全島密せに覆われる。一九一二年に、体長とよんだ。主として山年貢、野年貢、野手米、 うるし かしやく ~ 三の「モドオオトカゲが発見され有名と池役、河岸役、茶年貢、漆年貢などの山林、原 三 ) の新しい国民経済計算体系への移行によ うんじよう よっこ。 〈上野福男〉野、河海に対する課税と、水車運上、問屋運 り、国民所得勘定と産業連関表との統計的接合 を図ることが要請されるようになったため、最コモドロ・リバダビア Comodoro Ri- 上、鉄砲運上、酒屋運上などの商工業やその他 終消費額の推計に際してコモ法が全面的に採用 vadavia アルゼンチン南部、チュプト州南東の営業に対する課税に大別できる。その種類と てそのめいもくおびただ されることになった。この方法は、このように部にある都市。サン・ホルへ湾に臨む港湾都市名称は、「国々所々ニ而其名目夥シク有テ、 じかたはんれいろく の公か 産業連関表との接合や商品別流通経路の分析なで、同国の石油、天然ガス採掘の中心地であ其品々書尽シ難ケレバ」 ( 地方凡例録 ) といわ 家奉多 どの点で有効なものであるが、その一方で、各る。人口九万六八六五 ( 一九八 0) 。一九〇一年、れるはど多い。毎年一定額を納入するものと、 てがろ うきやく ししとこ真ム館 流通段階における需要分野の配分比率、運賃乾燥・寒冷気候下での粗放的牧羊業の積出し港それ以外に浮役といわれて、年季を限ったり、 貧とこ年写ラ物 は守る色イ博 率、マージン率を実際の取引内容に即して毎年として建設され、〇七年に付近で同国初の油田臨時に納めるものがあった。↓浮役〈吉永昭〉 て子れ着セ一 せ 守っ , さ ( ェイ こものはん江戸時代、伊勢国 ( 三重 変更することが資料上の制約からむずかしいと が発見されたことにより、一躍石油開発の基地菰野藩 おわり 子かが出た人力デ いう問題もある。↓国民経済計算↓産業連関となった。四九年首都プエノス・アイレスと結県 ) 三重郡菰野周辺を領有した藩。尾張犬山城 かつうじ ひじかたおひさ 日に二二歳で没した。京都市東山区の月輪陵に 表 〈高島忠〉ぶバイプラインが完成、石油化学など工業開発主土方雄久の長男雄氏は一五九九年 ( 慶長四 ) ひたち しんき 〈今井圭子〉徳川家康に疑われ、父ともども常陸水戸城主佐葬る。日記『後桃園天皇宸記』八冊、和歌『後 コモ一アイニ Komotini ギリシア北東部、も発展して、」、る。 たけよししげ ちつきょ ひでただ ごてん 、一びと 〈山田忠雄〉 竹義重のもとに蟄居。関ヶ原の戦い後、秀忠に 桃園院御点』一冊がある。 こしの奉公人の一種。小人ともい ロドピ県の県都。人口三万四〇五一 ( 一犬 I)O ありあけ こもり九州島西部にある有明海沿岸、と トルコ支配時代にはギュミュルジナ Güm 三 う。武家などに雇われ、走り使いなど雑役に従仕えて一万二千石を与えられ菰野に入封、当藩籠 かったか かっとよとよよし ひさなが ひがた くに佐賀県域に多い干潟荒野開発の干拓地地 na とよばれた。トラキア地方の中心都市で、事した。室町時代以降からみられ、年李を切っを興した。雄氏、雄高、雄豊、豊義 ( 叔父久長 ちゅう いさはや に一千石分与。一万一千石領有、以下同様 ) 、名。長崎県諫早市域などにもみる。佐賀平野の タバコなどの農産物、家畜、皮革のもっとも重て随時雇い人れるところが多い。武家では中 かわそえ かんえい かんぶん かっふイ ~ かつま寺一 かつなが かっさだよしたわかつおき かつよし 川副町域などでは、寛永 ~ 寛文 ( 一六一一四 ~ 七三 ) ご 間の下位に置かれ、車役の員数外とされた。江雄房、雄端、雄年、雄貞、義苗、雄興、雄嘉、 要な集散地。マカズ峠を越えて。フルガリアに至 ていとう ど かつなが かっゆき 戸時代、幕第や諸藩の職制中では、中間ととも雄永、雄志と一三代在封した。一八七一年 ( 明ろの築造とされる潮止め第一堤塘の松土居 ( 本 る交通の要衝にあたる。一九一三年よりギリシ かや あのつ 〈真下とも子〉 にさまざまな名称で使役されている。このうち治四 ) 廃藩、菰野県、安濃津県を経て、三重県土居 ) の内側に、次郎三籠、茅土居籠ほか多く ア領。 からみ 〈原田好雄〉 に編入された。 の籠名が分布する。それらは松土居外側の搦名 幕府では、五役の者と総称されるのが中心であ コモドオオトカケ Komod0 dragon はちゅうゆうりん 回菰野町史編纂委員会編『菰野町史』 ( 一九七四・ 干拓地に比し、内陸にあり、また成立年代も古 きミきミ od ミ爬虫綱有鱗目オオった。 ( ろくわのものぞうりとり く、異なった形態を一小す。しかし、佐賀市嘉瀬 名著出版 ) 五役は、黒鍬者 ( 草履取、荷物運送 ) 、中 トカゲ科のトカゲ。別名コモドドラゴンともい かしま ーーほう 0 コモディティ・フロー法町域や鹿島市域では、明治以後の干拓地でも籠 、トカゲの世界最大種として知られる。イン間、、 月人 ( 伝令、用品運搬 ) 、駕籠者、掃除者コモ法 かえい ろくだか 名をみる。諫早市域では、嘉永年間 ( 天哭 で、いずれも世襲である。禄高は役職により異コモモジロ 0 ダイサギ ドネシア、小スンダ列島のコモド、リンチャ、 ごももぞのてんのう ( 一七夭 ー七九 ) 五四 ) ごろまでの干拓地に五左衛門籠など籠名の ハダール、フロレス各島に分布する。全長二、 なるが、十俵一人扶持から十五俵一人扶持くら後桃園天皇 ひらき 〈佐々悦久〉皇統譜に第一一八代とされる天皇 ( 在位一七七 0 ~ 干拓地が多く、それ以後は開名などに移行す いであった。↓小 三の大形で、体長については諸説があるが、 ひでひと 現存個体では最大三ぐらいに達する。長さで菰野 ( 町 ) こもの ( ちょう ) 三重県北部、三重七九 ) 。名は英仁。桃園天皇の第一皇子。母は恭る。籠の由来については、潮止め築堤工事に石 じやか′」 ほうれき 礼門院富子。宝暦八年七月二日誕生。一七五九や土を入れた蛇籠を用いたことによるというエ はニューギニアオオトカゲミ s ミき d 。の四郡にある町一九二八年 ( 昭和三 ) 町制施行。 うがわらたけなが 〈川崎茂〉 に一歩譲るが、太い胴、強大な尾、発達した五六年 ( 昭和三一 ) に鵜川原、竹永の二村を合年 ( 宝暦九 ) 五月立太子、六二年父帝没後、幼法説など諸説がある。↓搦 ) 」さくらまち あさけ こもり幼児のめんどうをみること、 四肢とつめは、「ドラゴン」 ( 竜 ) または「陸の併。五七年に朝明村を編入。町名は中世以来の年のため伯母の後桜町天皇が中継ぎとして在子守 とうろくみたき すずか ワニ」の名にふさわしい。丘陵地帯の森林にす郷村名による。町域は鈴鹿山脈東麓の三滝川扇位して、七〇年 ( 明和七 ) 一一月に禅を受け翌またはそれを行う者。単に「もり」ともいう。 み、草原やときには海岸にも現れる。地上性状地上に広がり、中心の菰野は江戸時代に菰野年四月一四歳で即位した。安永八年一一月一九近年は託児所、保育所、幼稚園などがあって、 あんえい て 578

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とくげん 本思想大系燔』一九七一・岩波書店 ) れた。その後、一九〇七年 ( 明治四〇 ) 六月一一藤徳元の『俳諧初学抄』 ( 一六四 l) もこれに次ぐ 庭裁判所が定めることになっている ( 民法八九 しげより けふき さいしゅ伊勢の神宮に仕える祀職名 九日には、「神社祭式行事作法」が内務省告示俳諧式目作法書で、ほかに松江重頼の『毛吹七条 ) 。↓相続 〈高橋康之〉祭主 やまのい の一つ。神宮祭主ともよばれ、神宮にだけある をもって公布された。これは祭式のうち行事と草』 ( 一六四五 ) 、北村季吟の『山之井』 ( 一六四 0 な さいしそしき祭祀、まつりを実行 祭祀組織 おおみてしろ 作法とを定めたもので、ここにいう行事とは、 どが江戸初期のものである。貝原益軒の『日本するための組織。①聖職者・司祭者と一般信徒職名で、天皇にかわって祭祀に仕える大御手代 しゅばっかいひ きげん として、皇族または皇族であった者のなかから 祭典を構成するところの修祓、開扉および閉歳時記』 ( 一穴 0 は一般に知られている。其諺とを合体しての組織、②聖職者のみの組織、 たかっかさ けんてつ ごへいもっ たま こつけいぞうだん 扉、神饌の献撤、御幣物の献撤、祝詞奏上、玉の『滑稽雑談』 ( 一七一三 ) は本草学、地誌、行事一般信徒を中心とした組織、が存する。①は神選ばれる。現在の神宮祭主は鷹司和子である。 ぐしほうてん おおかしまのみこと 串奉奠などを、 、乍法とは、これら行事を行などの研究を取り入れ、その出典故実も考証 社氏子会など古くより自然に構成されてきた組この起源は、神宮鎮座のとき、大鹿島命が祭 やまとひめ うための基礎となる行儀礼法をいうのである。 し、季題の数も一八〇〇余と倍増している。曲織である。②はその祭祀をより効果的にするた主に任ぜられたのに始まるという ( 『倭姫命 ばきん こうした祭典の施行細則に対して、祭祀の根亭馬琴の『俳諧歳時記』 ( 天 0 三 ) は、従来のもめ、その祭式、作法、次第などの検討より、聖世記』ほか ) 。初めは伊勢への幣使をいった なかとみ 本法ともいうべきものが「祭祀令」である。こ ( 「大神宮式」 ) が、のちに中臣氏を選んで祭主 のが京都中心であったのに対し、初めて江戸中職者の身分、階級、職務についての規定、それに じようえ れは「皇室祭祀令」 ( 一九〇八年九月一九日、 心に編まれた歳時記で、のちにこの書を改訂し伴う淨衣装束の考慮、諸行事の神学的・教理学とし、朝廷と神宮との仲執り持ちの役をさせ ごなら らんていせいらん しおりぐさ 皇室令 ) 、「神宮祭祀令」 ( 一九一四年一月二四た藍亭青藍の『増補俳諧歳時記栞草』 ( 一会一 ) 的追究より、その教化などについて、さらに後 た。後奈良天皇 ( 在位一五一一六 ~ 五七 ) 以降は、中臣氏 日、勅令 ) 、「官国幣社以下神社祭祀令」 ( 同 ) は季題数三四二〇余、明治以前のもっとも価値継聖職者養成について、時代・社会の推移ととのなかでも藤波家が神宮祭主職を世襲し、一、 の三令で、皇室祭祀は大祭と小祭、神宮・神社ある歳時記として、明治に至るまで広く用いら もに、組織内の重要課題として考慮することが七一年 ( 明治四 ) の神宮改正後は、皇族祭主の 祭祀は大祭・中祭・小祭とに区分され、それそれた。 要求されている。③も、その家父長中心の血縁制が定められ、大御手代とされた。なお、祭主 すじん みこしとぎよ れの年中の祭祀が定められている。 明治以降、太陽暦の採用により李題の時期の集団組織、神輿渡御などに活躍の地縁集団組織の語は、早く『日本書紀』の「崇神紀」七年八 これら祭祀令の制定に伴い、祭式も制定され調整、あるいは新しい文化の流入によって新季があり、さらに特殊信仰を中心として、遠隔地月の条にみえ、そこでは祭り往も。 ( または - 一う 寺一んけい 〈沼部春友〉 「つかさ」 ) と読む。↓神職 た。皇室祭祀令の祭式はその附式に、神宮祭祀題が多くたてられるようになり、新しい歳時記の寺社へ定期的に参詣する講組織、また共通し みやざ 令の祭式は神宮明治祭式に準拠し、神社祭祀令 さいしゅ植物の繁殖源としての種子 が数多く編まれた。第二次世界大戦後には自然て神社を所持運営する宮座組織なども含めて、 採種 の祭式は、一九一四年 ( 大正三 ) 三月二七日に 科学、民俗学、気象学などの新しい学識を採用それそれに時代・社会の変化とともに、その組をとること、およびその目的で行う種とり栽培 〈鎌田純一〉をいう。同じく種子を収穫目標とする栽培で 新たに「官国幣社以下神社祭式」 ( 内務省令 ) した歳時記が現れ、広く一般にも風物および庶織の効率化が要求されている。 しゆくさいじっ も、その種子を食用とする目的の場合は採種と が定められた。ここにおいて、祭式は祭祀の区民生活の事典として利用されるようになった。 示日さいじっ 0 祝祭日 分に従い、大祭式、中祭式、小祭式とに分けら歳時記は俳句実作者だけではなく、広く日本人材質腐朽病ざいしつふきゅうびよう木材のはいわない れた。このほか太平洋戦争の終戦前には、朝鮮の美意識や生活感情を歴史的に知るうえに重要構成細胞を分解、消費する一群の菌類 ( 木材腐〔採種の方法〕作物の種類によって異なり、と りゅうまく 神宮祭式、朝鯡における神社祭式、台湾におけ な資料でもある。↓季語 〈沢木欣一〉 くにその作物の繁殖の様式に深いかかわりがあ 朽菌 ) が、枯れ枝や傷口から生立木の幹や太 る。ィネやコムギなどは、雄しべの花粉が同じ る神社祭式などが定められた。しかし、これら回高浜虚子編『新歳時記』 ( 一九三四・三省堂 ) ▽枝の材部に侵入し、腐れをおこす場合をとくに 山本健吉編『新俳句歳時記』全五巻 ( 一九五六・ 材質腐朽病という。壮・老齢木では年間の材積花の雌しべについて種子ができる。このよう の法令は終戦後廃止となり、戦後は、皇室の祭 に、自家受粉で種子が実る植物は、自殖性植物 式は宮中で、神宮の祭式は神宮司庁で、神社の 光文社 ) ▽富安風生他編『俳句歳時記』全成長量より腐朽量のほうが上回ることが多く、 といわれ、その集団は遺伝的に均一 ( ホモ ) で 祭式は神社本庁で、それそれに定められ、その 五巻 ( 一九五九・平凡社 ) ▽『図説俳句大歳時樹齢の増加とともに腐れは急速に進行する。こ 内容は官制時代のものをもとに一部改定された 記』全五巻 ( 一九六四 ~ 六五・角川書店 ) ▽松尾のため幹の空洞化や強風による幹折れや落ち枝あって、自殖 ( 自家受枌 ) の繰り返しによって 品種を維持することができる。このような自殖 の原因となる。サルノコシカケ科 Polyporace ・ が、大綱は伝統を継承している。神社本庁の規 靖秋編『俳句辞典近世』 ( 一九七七・桜楓社 ) げんげんしゅほ 程には、「神社祭祀規程」「神社祭式」「神社祭 ▽水原秋桜子・山本健吉他監修『カラー 日本 ae に属する硬質キノコの仲間によっておこり、性植物は、原原種圃で品種を維持し、原種圃で 式行事作法」がある。 大歳時記』全五巻 ( 一九ハ一 ~ 全・講談社 ) 林業上あるいは風致保存上、重要な樹木病害の採種用の種子を殖やし、採種圃で採種するとい まっ 〈小林享夫〉 う三段階のシステムをとる。原原種とは、採種 さいしざいさん祖先を祀るための 一つである。 祭式に定められている祭典の構成は、前儀に祭祀財産 に用いる大もとの種子で、原原種を得るための ざいじゃりん仏教書。三巻。鎌倉新 清めの修祓、本儀は一同一礼に始まり、開扉、財産。民法では系譜・祭具・墳墓の総称として摧邪輪 仏教の興隆に対して、南都旧仏教復興運動の旗栽培を行う圃場が原原種圃である。原原種は、 神への供饌、祝詞奏上、奏楽、拝礼、供物の撤用いられる。一九四七年 ( 昭和二一 l) の改正前 けごん ほうねん みようえばうこう・ヘん 下、閉扉、最後に一同一礼、さらに後儀としての民法では、単独相続人である家督相続人が当手の一人であった華厳宗の明恵房高弁が、法然品種の特性を正しく伝えた、遺伝的に均一の種 せんちゃくほんがんねんぶっしゅう なおらい ばうげんくう 〈沼部春友〉然祭祀財産を承継することになっていたが、家房源空の主著『選択本願念仏集』 ( 略して子を得ることを主眼として栽培され、種とりの 祝宴の直会がある。 さいじき季題 ( 李語 ) を四季または督相続が廃止され共同相続が行われる現行民法『選択集』ともいう ) を披読して、その邪見を効率はかならすしも高くない。原原種をさらに 歳時記 一二か月に分けて分類整理し、解説を加え、例のもとでも、祭祀財産は分割に適しないので、反するために著したのが本書である。法然が増殖する圃場が原種圃である。こうして十分な しようみよう 相続法上一般の相続財産と異なった取扱いを受称名念仏を浄土往生の正業とする立場に対し量にまで増殖した原種を基にして採種圃で採種 句をあげて集大成された、自然、民俗、日本語 きよせ れん ほっぱだいしん のエッセンスである。古くは李寄と称した。連けることになっている。すなわち、祭祀財産のて、そこに大乗仏教の発菩提心の意義が欠けてが行われ、作物栽培に必要な量の種子が確保さ - とば ひらく いることを、激しい口調で非難している。一二れる。 歌では発句あるいは平句に季の詞を詠み込むこ所有権は共同相続人間で分割される相続財産か なお、わが国では、自殖性作物のうち基幹的 ゅ - とが約束とされ、『白變集』『連歌至宝抄』『無ら除外されて、祖先の祭祀を主宰する者に単独一二年 ( 建暦一 l) に著されたが、翌年、明恵は しよう′」ん に承継される。祖先の祭祀を主宰する者は、①『摧邪輪荘厳記』一巻を著して、さらにその論食糧として公共性の高いイネ、コムギ、オオム し言抄』などの作法書に季題があげられ分類さ 〈柏木弘雄〉ギ、ダイズについては、主要農作物種子法その > れた。俳諧最初の季寄が収められているのは、被相続人の遺言による指定で、②指定がなけれ旨を補足した。 め・ゅ、つほ まなひぐさ 、野々ロ立圃の『花火草』 ( 一六三六 ) であるが、斎ば慣習により、③慣習も明らかでないときは家回鎌田茂雄・田中久夫校注『鎌倉旧仏教』 (r 日他の関係法令等に基づき、種子の生産、流通に 8 くもっ せ たね

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〈梶原敏宏〉 た。六七年 ( 慶応三 ) 六月に幕臣となり、見る。 認められる。すなわち、債権と債務が同一人に ているといえよう。主著に『実証哲学講義』六 まわりよがしらかく 巻 ( 天三 0 ~ 四 = ) のほか『実証政治体系』四巻帰したときは、その債権は消滅する ( 民法五一一廻組与頭格に任ぜられた。六八年一月三日鳥コンドウクジラ〔巨頭鯨〕 pilot whale ばふしみ ( 一会一 ~ 五四 ) や『実証主義問答』 ( 一会 = ) などが〇条本文 ) 。たとえば、子に対して貸金債権を羽・伏見の戦いでは副長土方歳三が指揮をとっ哺乳綱クジラ目マイルカ科ゴンドウクジラ属に ある。↓実証哲学講義 〈足立和浩〉有する父が死亡したときには、その債権は子のたが敗れ、のち残った隊士を集め東帰した。江含まれるハクジラの総称。この属 0 斗ぎ ・一うようちんぶ には暖海性のコビレゴンドウ G. ミ c き、を〒 回霧生和夫他訳『世界の名著コントスペ相続分の限度で消滅する。ただし、その債権が戸で近藤は主戦論を唱え、甲陽鎮撫隊を組織し やまと chus と寒海性のグロビセファラ・メレーナ G. ンサー』 ( 一九七 0 ・中央公論社 ) 第三者の権利の目的であるときは、この限りで隊長となり大久保大和と名のった。三月五日に ふん しもうイ一 コント conte 短編小説。短くおもしろない ( 同条但書 ) 。右の貸金債権上に質権が設甲州 ( 山梨県 ) 勝沼で官軍と戦い敗走し、下総ミきの二種がある。イルカと異なり吻がな けいおう ながれやま く、頭が大きく太鼓のようである。歯は上下左 、一三ロ 、舌のこと。本来はモーパッサン、ツルゲーネ定されていたようなときである。〈川井健〉 ( 千葉県 ) 流山で官軍に捕らわれた。慶応四年 ぎんしゅ あくたがわりゅうのすけ こんどうあずま ( 一九 0 四ー ) 詩人。四月二五日江戸板橋で斬首され、首は京都・三右とも一〇本前後あり、直径一〇 = 、リぐらいであ フ、芥川龍之介、アナトール・フランスらの近藤東 きようしゅ かわばたやすなり てのひら 小品をさすが、日本では川端康成の「掌の小 東京・京橋に生まれる。明治大学英法学部卒条河原に梟首された。年三五。東京都町田市る。胸びれは細長く、前後に広がった背びれは の小島資料館に史料が保存されている。↓新選雄ではとくに顕著である。胸部、目の上、背び 言」のようにごく短い作品をよぶことが多い 業。年少より短歌や詩をつくった。『詩と詩論』 コント・ドロラティク 〈小島政孝〉れの後方を除き全身黒褐色。数十頭の群れをつ 一般にはバルザックの『風流滑稽譚』 Contes 創刊 ( 一九一一 0 以来の同人。『詩法』の編集者で、組 くり、イカを食べる。 d ミミミ s に代表される、軽妙なユーモアに『新領土』の編集同人でもあった。昭和モダ一一回小島政孝著『武術天然理心流上』 ( 一九大 えんしよう 寒冷種は体の白色部が明確であり、胸びれが 小島資料館 ) 満ちた小話、艶笑ばなしなどをさす場合が多ズムの中枢を歩んだ詩人である。風刺と逆説に コント・ド・フェ こんどうえいそう ( 天 ー一九六五 ) 体長の二二 ~ 二七 % 、体長は六・二に達す く、フランスでは妖精物語 conte de fée のおよる批判精神を漢字と片仮名の表記によって書近藤栄蔵 とぎ話までも含める。日本では寸劇をコントと いた。長く国鉄に在職し、朗読詩運動や勤労詩社会運動家。東京市生まれ。小学校卒業後、薬る。南北両半球に分布する。日本からは半化石 じよじよう が知られているが、北太平洋では現生は末確認 よぶこともある。 〈船一尸英夫〉を提唱した。詩集に『抒情詩娘』 ( 一九三一 D 以下屋に丁稚奉公。一九歳で渡米、働きながらカリ がらん 八冊や少年少女詩集、風刺詩集『えびつく・とフォルニア農学校を卒業。一九一〇年 ( 明治四である。 金堂こんどう七堂伽藍の中心となる堂舎 一方、コビレゴンドウは生態、形態ともにこ 〈角田敏郎〉 三 ) 帰国するが、一三年 ( 大正一 l) 以後も三度 びつく』 ( 一九五 D などがある。 で、本尊仏を安置してある堂をいう。一般にい われる本堂や仏殿に相当する。堂内が金色に塗回『日本の詩近代詩集一一』 ( 一九七九・集英渡米。滞米中に片山潜と知り合い社会主義運動れに似るが暖流域に生息する。日本近海産二系 こんじき 装された堂という意味ではなく、金色の仏像を 社 ) ▽木原孝一著『近藤東』 ( 『現代詩鑑賞に入る。日本共産党結成を企図して一九年に帰統の一つマゴンドウでは、胸びれは体長の一五 ~ 二〇 % である。四、五月に交尾し、一五か月 国。二一年五月、上海のコミンテルン極東部委 安置したので名づけられたのであろう。代表的 講座 9 』所収・一九六九・角川書店 ) しものせき あすか とうしようだいじ な金堂には、法隆寺 ( 飛鳥時代 ) 、唐招提寺近藤勇こんどういさみ ( 天三四ー六 0 幕末期、員会に日本代表として出席するが、帰途下関で後に一子を出産する。二、三年で離乳し一〇年 たかっせいどうぎようみんかい むろうじ だい 1 一じ ( 奈良時代 ) 、室生寺 ( 平安時代 ) 、醍醐寺 ( 鎌新選組局長。武蔵国多摩郡上石原村 ( 東京都検挙。釈放後八月、高津正道ら暁民会のメンで成熟する。出産は三 ~ 五年に一回。寿命は約 ちょうふ きゅうじろう - 一うふくじ ーと「暁民共産党」を結成。一三年七月日本六〇年。三陸方面には同種の別系統タッパナガ 倉時代 ) 、興福寺 ( 室町時代 ) 、教王護国寺 ( 東調布市 ) 宮川久次郎の三男として生まれる。 てんねんりしん 寺、桃山時代 ) などのものがある。〈阿部慈園〉幼名勝五郎のち勝太。剣を天然理心流宗家三代共産党創立に参加。二三年六月第一次共産党事が知られている。マゴンドウより体が大きく、 しゅうすけ しえいかん 混同こんどう同一の物につき所有権と他近藤周助の試衛館に学び、一八四九年 ( 嘉永件の直前にソ連に亡命、プロフィンテルン常任斑が顕著であるが、その分布、形態、生活史 などは明らかでない。図クジラ〈粕谷俊雄〉 の物権が同一人に帰したときに、その物権が消 (l) にその養子となった。周助にかわって多摩委員となる。二六年帰国ののち、日本共産党と でげいこじよう ひこごろう 滅することを混同という ( 民法一七九条一項本郡の出稽古場を歩き、日野宿佐藤彦五郎、小野の関係を絶ち、二八年 ( 昭和三 ) 日本労農党、近藤憲ニこんどうけんじ ( 天九五ー一九六九 ) 無 日本大衆党に参加。その後、国家社会主義に転政府主義者。兵庫県生まれ。一九一一一年 ( 明治 文 ) 。たとえば、父が所有する土地について子路村の小島鹿之助らと義兄弟の契りを結んだ。 わせだ いえもちじようらく しもなかやさぶろう が地上権を有していたところ、父が死亡して右六三年 ( 文久三 ) 二月将軍徳川家茂上洛に先向、三二年には下中弥三郎らと新日本国民同盟四五 ) 早稲田大学専門部政経科入学。在学中読 寺 ~ かえ そうじゃまなみけいすけ ひじかたとしぞう の子が唯一の相続人となったときには、子が土んじて、門下の土方歳三、沖田総司、山南啓助を結成。戦後は全国戦災者事業団を組織、身体んだ大杉栄『生の闘争』に感銘を受け、大杉を まさたろう 障害者福祉事業に力を注いだ。一貫して理論よ訪問。それを機に無政府主義者渡辺政太郎の主 らを引き連れて浪士組に加わった。清河八郎と 地の所有権を取得することになるので、子が自 せりざわかも 分の土地に地上権をもち続けることは無意味で意見を異にして京都に残留し、芹沢鵯らと京都りも運動を重視し、また人間の生命的・身体的宰する研究会 ( のち北風会 ) などに出入りす 寺一かいとしひ・一 〈北河賢三〉 る。早大卒業後、東京毎日新聞社や堺利彦の あるから、地上権は消滅する。しかし第三者の守護職支配下に属して新選組を組織し、京の治な側面をより尊重した。 回同志社大学人文科学研究所編『近藤栄蔵自売文社で働く。一九年 ( 大正八 ) 大杉らの第一 権利を害することができないので、その物また安維持に努めた。芹沢暗殺後は局長となり、六 次『労働運動』の同人となり、二〇年には日本 伝』 ( 一九七 0 ・ひえい書房 ) はその物権が第三者の権利の目的であるとき四年 ( 元治一 ) 六月の池田屋事件で功をたて こんと , つがんしゅ・ひょ , っ 社会主義同盟の創立に参加、機関紙『社会主 は、この限りでないとされる ( 同項但書 ) 。た 根頭がんしゅ病 〔根頭癌腫病〕ほとんどすべての植物に発生す義』の編集にあたった。また大杉の死後『大杉 とえば右の例で、土地や地上権について第三者 栄全集』全一〇巻 ( 一九一一六 ) の編集・刊行に力を る病気で、とくにナシ、リンゴ、カキ、クリ、 のために抵当権が設定されているようなときで ブドウなどの果樹類やバラ、ポケなどの花木類尽くした。アナ・ポル対立が激化するとアナキ ある。所有権以外の物権およびこれを目的とす じぎわ によく発生する。根や幹の地際の部分に表面がズム陣営にたって争議の応援、講演会などに活 る他の権利が同一人に帰したときは、その権利 かさぶた状になった大きなこぶができる。病気躍した。一一六年には黒色青年連盟結成に参加す は消滅する。この場合においては前項但書の規 にかかると樹勢が衰え、枯れることがある。病るが、その後「純正アナキズム」派の暴力的傾 、フ定を適用する ( 同条二項 ) 。地上権とこれを目 原はアグロバクテリウム・トウメファシェンス向に反対して脱退。また日本労働組合自由協会 と的とする抵当権が同一人に帰したようなときで 勇 g きミ、ミミミ斗という細菌で、接派を支持した。第二次世界大戦後は四六年 ( 昭 んある。前二項の規定は占有権には適用しない 近木や移植時の傷口から植物に侵入して発病す和二一 ) 日本アナキスト連盟を結成、書記長と AJ ( 同条三項 ) 。債権についても混同による消滅が でっち シャンハイ み 737

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ことだま ・一としろ が保たれていたらしいが、その後東ゴート族と はずである。ここで現在あるいは過去といって土壌生成の変遷を通じて、地質時代の過去にお神の託宣神的性格を示している。元来言代とは いるのは、地質学的時間のことである。過去のける土地の諸環境を推論することに意義があ神託を管掌する神人の意で、これを神格化した西ゴート族とに分裂したと思われる。ゴート族 やまと 環境が現在と同じであれば、過去の土壌は単なる。↓土壌 〈浅海重夫〉もっとも巨大な像が、西南大和の賀茂氏が信奉の名称の由来は、原住地にいたころ、一部がゴ ん ~ も - つは トランド島に分かれ住んでいたからとも、また ことじりしゅう江戸後期の歌文集。した事代主命であった ( 奈良県御所市の鴨都波 る埋没土とみなされるが、新生代第四紀中 ~ 末琴後集 はるみ 期にかけての気候変化に対応して、現在の気候村田春海著。全一五巻。九巻までが歌集で、あ 八重事代主神社が著名 ) 。この神はその後、大陸に渡るとき同島を経由したからだともいわ みこがみ と違う環境で生成したと考えられる種々の土壌との六巻が文集。一 八一三年 ( 文化一〇 ) 刊。神の総帥である大国主命の御子神に包摂され、れる。紀元後二世紀中葉以後にゴート族はさら が発見されており、それらを現成土壌に対して『琴後集別集』は末刊のまま写本が伝わってい 託宣神としてよりも皇室の守護軍神としての性に黒海北岸に移動し、東ゴート族はドニエプル 川河口を中、いに、西ゴート族はドナウ川河口北 古土壌とよぶことになった。かって化石土と称る。歌風は古今調をもとにしたもので、「とま格を深めてゆく。『古事記』の国譲りの条で、 しづく しぐれ したものと同じである。古土壌としてもっとも り舟とまの雫の音たえて夜はの時雨そ雪になり大国主命が「この神が天孫の前後に立って仕え岸一帯に定住した。三世紀中葉以降、ローマ領 せぎおうしよく 重要視されるのは温帯地方に残存する赤黄色ゆく」などの作がある。典雅ではあるが、理知るならば従わない国神はない」と述べるのがそ内に侵入を繰り返したが、一一六九年クラウディ ど ろう しもすえよし ウス帝によって撃退された結果、侵入はやん 土である。日本では下末吉面 ( 第四紀末の最後的な技巧を弄した歌が多いと評される。青年時れで、このような皇室の守護軍神的性格は、 てんむ いずものくにのみやっこのかんよごと じんぐうき コート人の司教ウルフィラの布教 の間氷期に形成され現在台地をなす地形面 ) に漢詩文を学んだ教養を生かしたような作が目 「神功紀」、「天武紀」、『出雲国造神賀詞』 じんむ に、間氷期中ごろから最終氷期の直前までの温だつほか、長歌も多く収める。また名文家と称 にも示されている。初代天皇の神武、二代綏活動により、アリウス派のキリスト教を受け入 あんねい 、三代安寧の各天皇の皇后は、『日本書紀』れ、ウルフィラは聖書のゴート語訳も行った。 暖期に生成した赤黄色土 ( その風化殻すなわちされただけに、文章も数多く収録されており、 じん ぎんがい によればこの神の子孫である。なおこの神は神民族移動期、西ゴート族はスペインに、東ゴー 土壌断面の上部を侵食された残骸をも含めて ) 江戸派の歌論を知ることができる。〈揖斐高〉 ぎかん がそれで、現在の段丘面に残る古土壌としてと回『校註国歌大系近代諸家集一一』 ( 一九一一九・ 祇官八神殿の祭神の一柱でもある。〈吉井巖〉ト族はイタリアに建国した。黒海北岸の原住地 そく Goten 響ゲルマン民 に残ったゴート族は、フン族や、ついでスラブ 国民図書 ) くに東海、北陸以西の同位面、およびそれより ゴート族 ことしろぬしのみこと日本神話の族のうちの東ゲルマン系の部族。原住地はスカ族に吸収されたが、クリミア半島の東岸の、 古期の丘陵面にも確認される。それらの多くは 事代主命 おおくにめしのみことおおなむちのかみ 大国主命 ( 大己貴神 ) の子。『古事記』でこ ンジナビア半島南部と考えられるが、キリストわゆるクリム・ゴート人だけは、一四七五年オ 現地表に褐色または黄褐色の表土が薄く覆い たかまがはらあまてらすおおみかみ 古土壌自体は埋没した形になっている。一方、の神が父神にかわって高天原の天照大神の使の降誕前後ごろ、近縁のゲピート族とともに大スマン帝国に征服されるまで独立を保った。 〈平城照介〉 ↓西ゴート族↓東ゴート族 氷期の寒冷気候下に生じたはずの古土壌は、ほ者に国譲りの意を伝えるのは、神が神人のロを陸に渡り、ウイクセル ( ビスワ ) 川河口付近に コート・ダ ) ンユール Cöte d'Azur フ とんど発見された例がない。古土壌の研究は、借りて託宣するという神話的表現であり、この姿を現す。このころまではまだ部族全体の統一 ランス南部、地中海岸の一部につけられた名称 モ レ で、「紺碧海岸」という意味。初めはカンヌと マントンの間、すなわちアルプ・マリティーム 県の海岸だけをさしていたが、その後、西に延 び、マルセイユ以東、イタリア国境までの海岸 を総称するようになった。コート・ダジュール は気候に恵まれ、冬は暖かく、夏は雨が少な く、背後の山地で風も遮られ、絶好の海水浴 場、保養地となっている。一九世紀にニース周 辺に療養者やイギリス人が、またカンヌ、モナ コ、マントンなどに貴族や金持ちが集まり、避 寒地として発展。第一次、第二次世界大戦の間 にマルセイユからカンヌにかけての地域も海水 浴場として開発され、第二次大戦後はいっそう の発展がみられた。なおイタリアの地中海沿岸 一帯からコート・ダジュールまではリビエラと 〈青木伸好〉 よばれる。↓リビエラ ことだま〔言霊〕言語に宿ると信じられ た霊妙な力。言語に霊的な力があると信する傾 向は、末開の民族に普遍のことであるが、古代 日本人は「かみこと ( 神言・神語 ) 」 ( 日本書 紀、万葉集 ) の霊力を信するだけでなく、人 間のことばにも善いことばは吉事を招き、不 吉なことばは凶事をもたらす力があり、「こと ( 言 ) 」は「こと ( 事 ) 」であると考え、「敷島の 4 イリア ンシュゝ ンテプ民ム アン・レ・バンゝ / ティープ岬 ムテウ「ル : ・レラン諸島 ル・トス . , ・ ) ・ ・ファ工ルム吟 ント・マキシムムノ ・トロべム カマラー岬十や コート・タジュール 直美術館 十景勝地 凩海浜リゾート ゝョットノ、一 / ヾー ドラギン ノエロ、。亠 一 777 ス・ , しス マ フレシ レ ノ 1 : 1 , 5 〇〇 , 000 0 ・ラ / ヾン・一を . ルバン島 十代 , 、クロール島ポール・クロ島十 43 。、 。 7 かみ コート・タジュール早くから開けた ースの海涬。産業革命で利益を あげたイギリス貴族が訪れて発展 , 20 世紀に入って大衆化した こんべき

10. 日本大百科全書 9

・カナ . コルドーニ carlo Goldoni ちライターで印字したものを写真製版して印刷す ( 一七 0 七ー九一 (l) イタリアの劇作 る方法も含めることがある。この場合、清刷タ 紀描 、ど コメディア・デラルテ 世が館家。在来の仮面即興喜劇の類型 イプライターといって、とくにきれいな印字が 家物 る 画博的人物を排して、卑俗な茶番劇 得られる装置を使う。印刷法は一般にオフセッ 像の劇 肖派演を脱し、一八世紀の合理的精神 〈山本隆太郎〉 ト平版であることが多い の と市民的リアリティに基づく性 コールド・チェーン cold chain 低温 右 格喜劇を提供し、演劇の革新に 流通体系とも訳される。生鮮食料品を生産者か 街 ルのの 貢献した。二月二五日ベネチア ら消費者まで、冷凍、冷蔵、低温の状態で一貫 市 ゴはも に生まれる。一七三一年パドバ して流通させるシステムをいう。生食料品 中 と に帰還。表現主義の俳優として名をあげ、古典大学で法律を修めて弁護士とな は、その性格から生産状態が安定しないため、 マる 価格の変動など、消費者だけでなく生産者にと的な作品においても伝統にとらわれない新味をり、イタリア各地を遍歴するか たわら劇作に精進する。四八年 っても種々問題を内包している。そこで、生鮮示した。『ウイルヘルム・テル』のゲスラー ロ連 るか 『リチャード二世「「 " 。へニスの商人』のシャイ法曹界を離れ、メデバック劇 食料品を生産地で低温処理し、冷蔵 ( 凍 ) トラ カ土 ロックなどが当り役とされた。第二次世界大戦団、続いてサン・ルカ劇場の座 ックないし貨車により運搬し、冷蔵 ( 凍 ) ショ ーケース、家庭の冷蔵 ( 凍 ) 庫と一貫して流通後は主として演出家として活躍し、古典劇に現付作者となり、共通語およびべ させることにより、鮭度の維持、価格の安定、代的な意味を与えることに努力した。映画にもネチア方言による傑作を矢つぎ ばやに舞台にのせた。代表作に 衛生状態の確保に大きく寄与することができる早くから出演し、監督作品もある。〈宮下啓三〉 ダ背 『二人の主人を一度に持っと』 ナ Cortona イタリア中部、ト ようになった。第二次世界大戦後アメリカで急コルトー グク ( 一七四五 ) 、『コーヒー店』 ( 一七五 0 ) 、 スカナ州アレツツォ県の都市。人口二万二七二 速に発展し、日本にも導入されて、流通革命の ス モ 二 ( 一九ハ一 ) 。・十世末期以来の非常に長期にわた『宿屋の女主人』 ( 一七五三 ) 、『広 有力な担い手として普及してきた。〈森本三男〉 ン いなかもの 大 イ・ コールド・ドーム cold dome 中緯度る開墾と土地改良の結果、今日では肥沃な農業場』 ( 一七五六 ) 、『田舎者』 ( 一七六 0 ) 、 『キオッジャ騒動』 ( 一七六一 l) 、 地帯となったバル・ディ・キアーナ地方の中心 地帯において孤立した切離低気圧を形成してい 『扇』 ( 一七六三 ) があり、現在もさ ~ 前七世紀 る寒帯気団。この気団を断面図解析すると、図地で、農産物の集散地。紀元前八 まざまな演出により上演されて に、エトルリア人の拠点都市の一つとして建設 のように寒気がドーム状に解析されることから コ大 しよくだい この名称がある。日本海側にもたらす大雪と関された。城壁跡、墓、燭台など、当時の遺跡 ん ~ ・れねい 〈堺憲一〉 作品は平等を自明の理として、車隊、法廷、灌漑施設が整備され、穀物、。フドウ、オリー。フ 〈饒村曜〉や遺物が多觜残されている。 係が深い 貴族に対する風刺、対照的に女性の権利や百などの畑が広がり、町はこれら農産物の集散地 コールドナー Alvin Ward Gouldner コルトナ 0 ピエトロ・ダ・コルトナ 姓、漁夫の仕事の擁護など庶民の生活感清に共となっている。伝統工業としてコルドバ革の製 含 ) アメリカの社会学者。ニューヨー コルトナー Fritz Kortner ( 天九 = ー 造、宝石や金銀銅細工などがある。また、近年 クに生まれ、コロンビア大学に学ぶ。一九五一一一感を示す。このため保守層から政治的圧迫を、 七 0 ) オーストリア出身の俳優、演出家。ウィ はグアダルキビル川とその支流の水力を利用し ーン生まれ。一九一一年以後ベルリンのドイツ年学位を取得。ィリノイ大学教授を経て、五七とくに劇作家のキアーリやカルロ・ゴッツイか た発電や、付近の石炭、銅、鉛などの鉱産資源 劇場、ついで州立劇場の座員。三三年に亡命年来セントルイスのワシントン大学教授。このらは芸術的にも排撃され、一七六二年には。ハリ 間アムステルダム大学 ( オランダ ) の教授などの「イタリア劇団」の招きに応じて不本意ながの開発により、郊外に近代工業も立地し始めて し、三八年からアメリカに滞在、四八年ドイツ 〈田辺裕・滝沢由美子〉 も務める。今日、彼の業績は「自己反省の社会らフランスへ移住。六四年以降ベルサイユ宮で ( ー 0 4 ・つ 0 田℃℃一日皿 〔歴史〕ローマ軍によるイベリア征服の過程 学」 reflexive sociology などでよく知られて王室子女のイタリア語教授を担当するが、フラ 一気 ンス革命のためパリに退き、九三年一月六日まで、紀元前一六九年ごろに創設された。やがて いるが、五 C 年代までの彼の業績は産業社会学 イベリア南部におけるローマ文化の中核都市と たは七日、同地で没。フランス語による『回想 の領域にかかわるものであった。その後は、パ なった。住民は学芸愛好で知られ、そのなかか ーソンズを中心とする現代アメリカ社会学の批録ーーわが生涯と演劇』は西欧演劇史上貴重な 判と社会学の動向をめぐり議論の展開がみられ文献とされる。↓宿屋の女主人〈里居正美〉ら紀元後一世紀には哲学者セネ力が世に出た。 八世紀初頭、イベリアを征服したイスラム教徒 た。社会学者の自己の隔離ではなく、自己の変回田之倉稔編訳『ゴルドーニ劇場』 ( 一九盒・末 はその首都をコルドバに定め、ついでダマスカ 来社 ) 革を目ざす「自己反省の社会学」は、生き方と スを追われたウマイヤ朝がここに亡命政権をた , 」いての一見解であり、知的なパ 全体的実践「つ コルドバ C6rdoba スペイン南西部、ア ンダルシア地方コルドバ県の県都。グアダルキてた。一〇世紀、コルドバは東のバグダードと フォーマンスの確実性よりは創造性にいっそう ビル川中流右岸、標高一〇六に位置する。人コンスタンティノープルに比肩する西方随一の かかわりをもつ。卞著に『 T CO C 、、 ロ二七万二三〇九 (IR<II)O 平均気温は一月都市に発展し、「西方の珠玉」とまで評された。 、ミ ) こ - Soc ミ 00 』 ( 一九七 0 / 邦訳名『社会 だが、一一世紀前半には内戦の場と化し、さら 〈山岸健〉九・一度 0 、七月二七・九度 O 、年降水量六六 学の再生を求めて』 ) かある。 にその二〇〇年後にキリスト教徒の支配下に入 回岡田直之他訳『社会学の再生を求めて』合本四・三ミリと、気候は比較的温和で乾燥している ひょく ってからは西のセビーリヤに繁栄を奪われてい が夏は暑い。 付近の平野は肥沃な農業地帯で、 版 ( 一九天・新曜社 ) ドーム / モテル コーノレド・ 気圧 300 mb 高度 50 圓 m 500 700 寒気団 一一一コー丿レド ひょく 634