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検索対象: 日本大百科全書 9
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1. 日本大百科全書 9

ことう 務め、装剣金工後藤家の最後を飾る。家風にと は非常設の陪審員が解決し、また結婚・家族制引 体 らわれず獅子や竜以外にも広く題材を求め、写度も不要になる、と楽観的な理想社会を描き、 レ 生を取り入れ、素材も鉄を用いることに踏み切オーエンらに影響を与えた。↓ウルストンクラ 糸 ーフト 〈大木基子〉 った。光貨から光行、光代と銘を改め、一、 ていはっ 形ビ 四年 ( 文政七 ) 三四歳で剃髪して一乗と称し回白井厚訳『政治的正義 ( 財産論 ) 』 ( 一九七一・陽 丸 コ つば ャ ち 樹社 ) ▽同著『ウィリアム・ゴドウイン研 た。鉄を使用した作品 ( 主として鐔 ) には伯応 、レ 土 6 イ あみだらいごう そろいもの タ 究』増補版 ( 一九七一一・末来社 ) や凸凹山人と銘をきる。阿弥陀来迎図の揃物 袋 よしのたった しやっきよう ドヒ や石橋図鐔、吉野龍田図大小揃金具は有名。ゴドウイン 0 ウルストンクラーフト ャ ・氏 コ キ ド綿 五一年 ( 嘉永四 ) 江戸に移り、明治維新後、京コードウエル Christopher Caudwell レ レ 〈小笠原信夫〉 ( 一九 0 七ー三七 ) イギリスの批評家。本名クリスト 都へ帰り同地で没した。 コゴ編 ファー・セント・ジョン・スプリッグ St. John コドウイン William Godwin ( 一七五六 こんせき Sprigg0 スペイン内戦において共和政府側の が、用途や構造によって次のようなものがあもその痕跡を残してしるもの。広義には、近代天三六 ) イギリスの無政府主義者。中流の熱心 それ以前の人馬往来のなカルバン派牧師の家庭に生まれ、幼少期から義勇軍に参加して三〇歳で戦死した。マルクス り、いずれも ( 日本工業規格 ) で定めら的車道・新道に対し ( 、 れている。 道をさすが、所によ、 ) ては、江戸時代の旧街道権威に対する徹底的な反抗心と精神の自由への主義の立場にたっ鬼才で、航空術を身につけ、 〔ゴムコード rubber cord 〕屋内のつり下げを外れて残る古代・世の道を古道とよぶこと要求を抱く。初め牧師となったが、まもなくフ一フ航空雑誌を発刊したり、探偵小説を書くなど多 がある。歴史の諸時代にはそれそれ特有の道路ンス百科全書派の影響を受けて牧師を辞め、文才ぶりを発揮した。代表作は、マルクス主義に 灯などに用いられる。ゴムを絶縁体としている とひ へんそ 線路、地域間の支線路、筆活動に入った。以後、政治思想、小説、歴たちながら文化人類学や神話学の知識を投入し ので、耐熱性はビニルよりよいが、外部編組に網があり、都鄙間の幹 地域内の日常生活路、それらと重なりつつ独自史、伝記などの分野で著作を行うが、一七九一一一て、詩の源泉を跡づけようとした批評『幻影と 単心コードをよ 綿糸を用いるため湿気に弱、。 り合わせたよりコード、よりコードの上に綿糸のルートをとる信仰「道などが、それそれの役年に出版した『政治的正義』ゝミ Enquiry き〒現実』 ( 一九一一一七 ) 。ほかに、没後刊行された『没落 g po ミぎ ~ を s ( , ミミ its ミミミ ce ミする文化の研究』 ( 一九三七 ) 、同続編 ( 一九四九 ) 、拾 編組をした袋打ちコード、袋打ちコードの線心割を担い、交通様式レ変遷につれて興廃を繰り 返した。近現代の車・鉄道発達の陰で、無数 Ge ミ、ミミミミ and ミ ss で一躍有名と遺集『ロマンスとリアリズム』 ( 一九七 l) などが 間に介在糸を入れて丸く仕上げた丸打ちコード 〈出淵博〉 なった。九七年、女性解放論者メアリー・ウルある。 などがある。 の旧道が埋没し廃絶していったが、な力にし土 ことうがわ山口県西部を流れるⅡ ストンクラーフトと結婚、女児 ( のち詩人シェ厚東川 〔ビニルコード vinyl cord 〕扇風機や冷蔵庫域民間の暮らしのなかでなお生命を保ち、その ー夫人となったメアリー ) をもうけたが、妻ほば美祢郡と宇部市の範囲を流域とし、延長五 道筋、路相、遺跡、風物などに古風を伝えてい など、屋内で使用する電気器具に用いられる。 ながと さんじよくねっ は産褥熱で死亡した。一八〇一年の再婚後は九・九キ。、流域面積四〇五・三平方キ。。長門山 絶縁体にビニルを使用しているので、着色が自るものが少なくない。近年乱開発が進むなか あきよしだい かつらぎ で、これら古道を貴重な歴史的遺産として再評出版業などを営んだが、経済的にも困窮し社会地の桂木山に発し、石灰岩台地秋吉台を横断 由にできて外観が美しい し、大田川を合流する中流で県営厚東川ダム からまったく忘れられた存在だった。 〔ビニルキャプタイヤコード vinyl cabtyer 価し、沿道や周囲の史跡、文化財、自然景観と ( 一九四九建設 ) によって、宇部・小野田両市のエ 主著の『政治的正義』では、人間の理性への 一体のものとして保存・整備して、広域的な歴 cord 〕絶縁体の厚さを〇・六ミリメートルと薄く し、ゴムコード、ビニルコードより短いピッチ史の現地学習や、地域の望ましい文化的環境づ全面的な信頼をベースに、各人が理性に従って業用水を確保している。河口では近世の干拓新 すおうなだ かとう 利己心を滅却し、社会全体の利益促進のため行田地帯を貫流して、周防灘に入る。なお、河水 くりに役だてようとする動きが各方面で活発に で導体をより合わせているので、可撓性に富 み、巻込型電気掃除機などの電源コードに使用なってきた。文化庁による熊野古道など「歴史動すれば調和が生まれるし、そのような行動をに炭酸カルシウムを多量に含むことで知られ 〈三浦肇〉 〈佐久間照夫〉の道」の指定と整備事業はその例であり、環境正義だとしている。そして私有財産制度を、各る。 されている。↓電線 えち ことうがわ香川県中央部を北流する ことう ( ちょう ) 滋賀県東部、愛知庁が進めている「長距離自然歩道」計画にも同人の個人的利益を最優先させるがゆえに否定香東川 湖東 ( 町 ) おしたて 。讃岐山脈の最高峰竜王山 ( 一 0 六 0 ) 付近に 〈戸田芳実〉し、私有財産制度を前提とする政府を、人類の じ構想が組み込まれている。 郡にある町。一九五四年 ( 昭和二九 ) 東押立、 ごびゅう とよくら 水源を発し、北流して高松平野西部で瀬戸内海 無知と誤謬の産物として退ける。彼は末来に ごとう陰暦三月三日と九月三日に、 西押立、豊椋の三村が合併して町制施行。町名御燈 まっ 、流域面積一一五平方 に注ぐ。延長は三三キ は湖東平野に位置することと、四八年に三村に天皇が北斗星を祀って燈火を献じた朝廷の儀独立した生産者である個人の小集団から構成さ しおのえ 。上流部の塩江町には多目的ダム内場池が一 よる組合立湖東中学の名が浸透したことによ式。七九六年 ( 延暦一五 ) ごろ始まった公事。れる共産主義社会を構想し、各人の理性を啓蒙 りようがんじ すずか る。東部の鈴鹿山脈と愛知川の扇状地が町の大元来は北山の霊厳寺など、高い峰に火をともすることによって政治制度は不要となり、紛争九五三年 ( 昭和二八 ) に建設された。江戸時代 まくしんごんげん に現在の高松市街地を流下する派川 ( 分流 ) を 部分を占め、農業用水に乏しかったが、近年改して北辰権現を祀る信仰の行事だった。平安時 堤防で締め切り廃川とすることで、河道は現在 良が進んでいる。米作のほかに和牛飼育、麻織代中期から末期になると御燈を奉らず、「御燈 よしはらい ばんしよう 〈新見治〉 のようになったといわれる。 物、梵鐘鋳造などがみられる。国指定重要文を奉らざる由の祓」のみを行う、いわゆる「由 かすが こどうきせき bronzite 斜方輝石 古銅輝石 化財に春日神社や押立神社の本殿があり、花沢の祓」にすることが多くなった。由の祓も室町 の一種で、頑火輝石のやや鉄を多く含む変種。 〈山中裕〉 地区のハナノキ ( カエデの一種 ) は国指定天然時代には行われなくなった。 はんしよう 柱状結晶で、安山岩や玄武岩中に斑晶として 0 ・ ~ ・ンサキイカ ゴトウイカ 記念物で樹齢三〇〇年といわれる。人口九五一 よく産する。結晶表面や劈開面が青銅 ( プロン ごとう、しじよう ( 一七九一 〈高橋誠一〉 後藤一乗 よ、つかいち ズ ) 色にみえることがあるため、この英名がっ 八郎兵衛。幼名栄次郎、 江戸末期の金工。涌打 二万五千分の一地形図「百済寺」「八日市」 〈松原聰〉 けられた。 古道こどう古来使われてきた道で、いま京後藤の別派重乗の。。若くして宗家の代行を 体 ム ゴ ひやくさいじ 導体 ビニル コードの許容電流 , む線の大さ 調囲度記℃以物 30 / 0.18 50 / 0.18 37 / 0.26 45 / 0.32 70 / 0.32 第容第第 1 ム 11 ワ ゴドウインノースコート画 ロンドンナショナル・ポート レート・ギャラリー ロ さめき がんか ロ へきかい

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こけいか 国連貿易開発会議 / 総会における主要決議 第 2 回 第 1 回 会期 ( 年・月・日 ) 1976 ・ 5 ・ 2 ~ 31 139 か国 参加国数 ベオグラード ジュネープ ナイロビ サンティアゴ ニューデリ 開催地 ( ユーゴスラビア ) ( スイス ) ( フィリヒン ) ( ケニア ) ( インド ) ( チリ ) おもな決議① UNCTAD の常設機①一般特恵制度実施の①非関税障壁の撤廃促①一次産品総合プログ①保護貿易主義の抑制①一次産品共通基金の ②多数国間援助の促進早期調印・批准要請 関化 原則合意 進 ラムの採択 ②国民所得 1 % 援助目② GNPI % の援助目標②開発融資と SDR との②一般特恵対象品目の③後発発展途上国対策②輸出所得補償融資制 の検討 度の検討 標設定 リンクの検討 拡大 日乂正 ③一次産品の貿易自由③一次産品の価格安定③政開発援助の GNP ③発展途上国の債務累 ③保護貿易措置の撤廃 ④後発発展途上国に対 化促進 化 比 0.7 % 目標実現の積に関するガイドラ 努力 インの設定 する政府開発援助の 拡充 第 6 回 第 5 回 第 4 回 第 3 回 1983 ・ 6 ・ 6 ~ 7 ・ 3 166 か国 1979 ・ 5 ・ 7 ~ 159 か国 1964 ・ 3 ・ 23 ~ 6 ・ 16 121 か国 1968 ・ 2 ・ 1 ~ 3 ・ 29 121 か国 1972 ・ 4 ・ 13 ~ 5 ・ 21 142 か国 みん の主要機関は総会、貿易開発理五軍都督府 ~ んととくふ中国、明代の最ることも通例であった。ともかく中世武家社会 しゅげんしよう の「後家」の地位は相当に高く認められ、亡夫 高統帥機関。明の太祖朱元璋は天下統一後、 事会、常設委員会、事務局である。総会は最高 の後を受けて「家」の中心的存在となりえた。 決定機関で、少なくとも四年に一回開催され元以来の枢密院を改めて大都督府としたが、一 しかし近世武家社会では女性の地位は低下し 三八〇年、これを左、右、中、前、後の五つに る。貿易開発理事会 Trade and Development Board はの中核的機関分け、五軍都督府と称した。五軍都督府は、兵て、「後家」は所領処分、家督相続、後見など いっさいの権利を失い、ただ貞節を守って再嫁 で、年二回開催され、各種の南北問題の討議お部が軍政を担当するのに対して、統帥の権をつ よび会議の諸勧告の実施状況の検討を行い、必かさどった。都督府には左右都督を長官に、そせす、とくに当主の嫡母は再婚、離縁を固く禁 せんじ じられてもいた。しかし庶民の後家は「家」の 要な措置をとる。の下部機関として問題れそれその下に都督同知、都督僉事などの各官 相続主体となり「後見」の立場ももっことがで 別に、一次産品、製品、特恵、貿易外融資、海が置かれ、都督には公、侯、伯および勲功ある き、さらには「後夫」を迎えることもできた。 運、技術移転、途上国間経済協力の七つの常設者が任ぜられた。都督府の管轄区域は地域的に せつ - : つりよっとう 委員会が設置されている。事務局は国連事務総分割され、左軍都督府は浙江、遼東、山東、とはいえ婚家を離れての自由な再婚などは社会 しせんせんせい 長によって任命される事務局長以下、約四〇〇右軍都督府は雲南、貴州、四川、陜西、広西、的に容認されなかった。明治民法では「後家」 名のスタッフで構成され、ジュネープに本部が中軍都督府は直隷、中都留守司、河南、前軍都の名こそ消失したが、なお家長に死別した妻の 地位はきわめて不自由で、後家の実質を久しく 置かれている。 督府は福建、湖広、江西、広東、後軍都督府は とどめてきた。現行民法のもと、「後家」の身 北平 ( 北京 ) 、山西をそれそれ統轄した。しか Z O < は、本質的に、各国が集まって し、永楽帝の時代に新しく三大営が設立される分はまったく解消したが、「末亡人」とくに 途上国の貿易と開発に関する諸問題を討議し、 関係国や関係国際機関がとるべき行動を提案すと、その提督が都督にかわって統帥の任にあた「女世帯主」の立場は、福祉法制の支えが若干 じゅうせい かせい る場である。したがって、強い拘束力のある決り、また嘉靖帝以後は新たに設けられた戎政あるものの、なおけっして安泰とはいえないも ふ 〈竹内利美〉 定を行って加盟国の行動を拘束する機関ではな府に権限が移り、五軍都督府の実権は失われのがある。 ごけい 0 五罪 い。対話を基本とするにおいて、 〈川越泰博〉五刑 いわしみず ごけい大嘗会、賀茂臨時祭、石清水 最近は討議テーマが、当初の貿易・開発問題かコケ一般的には、小形の植物を総称する御禊 ら、開発金融、国際通貨、累積債務、サービス場合と、コケ植物を特定してよぶ場合とがあ臨時祭などの前に天皇が行う祓の儀式。大嘗 会の御禊は一〇月下旬にいずれかの河原に臨幸 貿易、保護主義、構造調整などの諸問題に拡張る。小形の植物の総称として使われる場合は、 ばくじよう されており、その国際的調整はますます困難に種子植物のコケモモ、サギゴケなどのように高して行われた。その地はあらかじめト定され かもが - わ なりつつある。同時に、これらの Z O <t さ数のもの、あるいはシダ植物のコケシノるのであるが、平安時代以降は鴨川で行うこと がもっとも多かった。行幸には文武百官や供奉 のテーマが実施段階に入ってくるにつれて、発プ、マメヅタなどのほか、地衣類およびクロレ の女官が騎馬、車を連ねて従い、庶人に至るま ラなどの藻類をさしている。『古事記』などに 展段階、産業構造、政治体制、資源政策などの ひがしやま 相違に基づき、各途上国の南北問題への対応方出てくる「木毛」あるいは「蘿」はそれそれでそのようすを見物してにぎわったが、東山 法自体に格差が目だつようになり、 DZO+< 「こけ」と読み、小形の植物の意である。コケ天皇 ( 在位一六 ~ 一七 0 九 ) 以後河原への行幸は廃 は先進国と途上国との相互依存問題に加え植物をさす「苔」あるいは「蘚」がコケにあてされ、賀茂臨時祭以下と同じく、清涼殿の儀の られたのはずっとあとの、江戸中期になってかみとなった。また、伊勢斎宮、賀茂斎院が河原 て、重層的分化を進めつつある途上国相互間に みそぎ に出て行う禊も御禊と称したが、前者では、宮 おける利害関係の調整という困難な課題に直面らである。コケ植物を特定してコケというの しよさいいん ののみや している。 ^ 横川新〉は、ゼニゴケやスギゴケの仲間の植物をさして中の一画に設けた初斎院および野宮に入る際に せ かどの こくてつろうどうくみあい 島ー、伊勢に下る際に葛野川を、また後者の斎 いるが、形態的に類似した地衣類も含まれるこ 国労、一くろう 0 国鉄労働組合 とがある。↓コケ植物 〈井上浩〉院が賀茂に入る際には鴨川を、多く御禊の場所 コクワカタ〔小鍬形虫〕 8M ミ、 & ミ c ~ 、 s 〈杉本一樹〉 、き s 昆虫綱甲虫目クワガタムシ科に属する後家ごけ夫と死別した妻、寡婦。末亡人として用いた 登山、キャン 昆虫。日本各地および朝鮮半島に分布する。体と同義に通例用いられているが、「家」制度の固形アルコー 。黒色な もとで家長の没後も「婚家」にとどまり、中継プなどに用いられる携帯用燃料。せつけん類あ 長は雄一六 ~ 四五、リ、雌二〇 ~ 二八 いし黒褐色で雄は光沢が鈍い。雄の大あごは内的な家長ないしは若年の家長の後見の地位にあるいは酢酸セルロースにアルコールを含ませて 側にとがった一歯があり、個体が大きいときはる「妻」の身分をさすのが原義であろう。「後ゲル状にしたものである。缶に入れて市販され 中央前にあるが、小さくなると後方に近づきほ家」の用語は鎌倉期の文献にすでにみられるており、点火が容易なうえ、雨などで湿ってい 〈廣田穣〉 とんど消失する。雌は頭に一対の小隆起があが、そこでは夫の死後も貞節を守って婚家にとても燃える利点をもっている。 る。上ばねは小点刻で覆われる。五 ~ 八月ごろどまる者は、嫡子幼少の場合は「中継相続人」互恵関税ごけいかんぜい reciprocal duties 特定の二国間貿易において、貿易の拡大を図る 現れ、クヌギなどの樹液にくるが、昼間は根際として「御家人」の地位にあって所領を保つこ ために相互に関税面での便益を供与しあう制度 や樹洞に隠れていることが多い。幼虫はクヌギとができ、あるいは「相代行事人」として、幼 少の家長の後見にあたることもできた。またをいう。通常は第三国に対してよりも低い関税 3 などの朽ち木の中で育ち、卵から成虫まで約一一 〈中根猛彦〉「後家分」として亡夫の所領の一部を譲渡され率を特別に適用しあう、いわば特恵関税を双務 2 年を要する。↓クワガタムシ ′一イ 1 い だいじようえ

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source ( 資源 ) をオペレーティングシステムに指一小する制御 を、にきとの 商す 1 6 が > = つあ 4 、と一 2 商 4 で A 」 文をつける必要がある。制御文はジョブ制御一言語を用いて記 と一 1 だたる レ」 りの はしつ亠め で るを商りり 述する。 あ上 る 割商余なりは割での る ので以な 余値で 6 コンピュータシステムには、一度に一つのプログラムだけ よ ' 6 一 6 で ト ~ 4 8 = いとき う現 を主記憶装置に入れて実行する単一プログラミングシステム と絶をはの よ表 ちこつる大 みこるの 0 り よ 2 4 のト と、同時に、 しくつものプログラムを主記憶装置に入れ、機械 で みそ 1 余 なるるて のロで 例 て、ちる〃 レ」「 1 「 1 -0- -0- 11 1 、 -0 一 -0 一 1 、 1 -0 0 一 1 ~ 「 1 -0- -0 , 次 . 4 の使用効率を高めようとするマルチプログラミングシステム すななしだ \/II 7 き例 の しとわな 、との との と一 , よ「一一に「 0 4 -0- -0- -0- -0- -0- -0 11 1 、「 1 1 、 1 、 1 上「 1 1 、 がある。単一プログラミングシステムの場合には、ありった 上 ーレつ」 レ」 を川一 < い上 す しみ 般一〃 けのリソースを一つのプログラムで使用できるので、オペレ で き るが 一ろ ーティングシステムは単純になるが、マルチプログラミング う余余 一な値るよ調 。り . 4 、わ 7 もと 4 こ よ と一 、く対かのを 一なりの = 4 システムでは、リソースの使用に対し競合がおこる。これら 1 し 0 と一、 3 キ、絶わこ すよ 1 4 / 1--0 ・ 4- 00 っ 11 -0 一「 1 ワっ 0 4 ・【 0 「ー 00 っ には 0 一 一大にが関 8 朝。はつつ を適切にスケジュールしなければならないので、マルチプロ グラミングシステムのオペレーティングシステムはきわめて と一 二ので進 表 、刀寺 複雑になる。 通 1 法十 で る 五ロ 普と方 こキ」 る 1 三ロ 〔操作方式〕オペレーティングシステムを備えたコンピュー の 0 るとで すと み で 現 は、するの 表た て タシステムで、使用者のプログラムを一括してまとめて処理 1 し をつ 表 み には現する表 と ると表とき、、ゝ 数割るツ の する方式をバッチ処理方式という。↓バッチ処理 る のですビ る 値 す法をるで -0- 11 ワっ 0 4 ・ l.-o / し -0 一 1 上ワ〕っ 0 4 ・〔亠め バッチ処理方式では、プログラムの実行を依頼してから結 現数値あ現選 数 11 1 人 1 人 11 11 1 亠 表記数。表 でと 、刀、つ る トる を進ててがっ でをを語ど 果が手元に戻ってくるまでにかなりの時間がかかる。基本的 ト直て 寺 6 4 。り - 1 十 6 値二 ッす お 、ビと 数。用。ッ数 ま、余 にはバッチ処理方式であるが、結果をただちに手にすること 4 でるをヒの 方のでる 4 タいけ 4 でら がを一 しここ . な = の ができるようにする方式として、カフェテリア方式がある。 五ロ ~ 旦れ 表、そに 一法一用だがまか バッチ処理方式では、処理の途中で使用者は介入できない 数ュを数語 ので 数 VII ュ 4 の りる 記ピ法の 数ろいの ので、コンピュータと会話を交わしながら仕事を進めること ピ進ン数類 法 まき 0 るのこながと 1 二コ記種るら数 つでな負とき値た ; ができるようにした方式としてタイムシェアリング方式があ コ 4 進 2 あか記 現と で対 る。↓タイムシェアリングシステム でもタイムシェアリング timesharing ( 一つの装置を二つ コンピュータでは効率が悪いので、このような決まりきった また、発生したデータを直接コンピュータに入れ、必要に 以上の目的のために時間を細分化して使用すること ) を行う 作業は自動化し、本質的でないオペレーターの判断はできる応じて即時に応答する方式をリアルタイム方式という。リア のが普通になってきているが、規模が小さな構成のシステム限り排除するようになっている。これらの仕事を行うプログルタイム方式の場合は、とくに障害対策に留意してシステム せんこう で、穿孔カードまたは穿孔テープに基づいて処理を行う場合 ラムの集まりをオペレーティングシステムといい、核となるを設計する必要がある。↓リアルタイムシステム の操作方法を考えてみよう。この操作方法は第一世代から第部分は主記憶装置に常駐されている。 コンピュータと直結して処理を行う形態を総称してオンラ 二世代にかけてと、ミニコンビュータや小型のコンピュータ オペレーティングシステムは、プログラムを次々に自動的イン方式という。とくに通信回線を経由する場合には、デー では第三世代でも、ごく普通であった。 に処理するだけでなく、必要とする翻訳プログラムを外部記タを暗号化するなどセキュリティ対策を十分講じておく必要 まず、機械語で書かれた翻訳プログラムを穿孔カード ( ま憶装置から取り出したり、使用者のファイルを管理したりすがある。↓オンラインシステム↓暗号 たは穿孔テープあるいは磁気テープ ) から記憶装置に読み込る。さらに、使用者の確認をしたり、使用した機器の種類、 人間とのかかわり合い み、それが終わると、次に原始プログラムをカード ( または使用した量、使用していた時間・時刻・回数などを計測し、 テープ ) 読取り装置にかけ、翻訳プログラムに読み取らせ使用料金の計算、口座からの引き落としなどもする。これら〔加速度的な変化〕コンピュータ誕生のきっかけは、膨大な る。翻訳プログラムで原始プログラムを目的プログラムに翻の各種資料は、後刻の使用に備えて、自動的に外部記憶装置量の計算の必要性であった。具体的には弾道計算であり、暗 ゅ . 訳し終わると、引き続き目的プログラムが実行され、プログに記録される。必要な場合には、コンソールの前にいるオペ号の解読であった。こうしてできあが 0 たコンピュータの計 レーターに作業を指示する。 それほどの計算の必要性があろ 算能力は認められはしたが、 ひラムに従って結果が印字され、実行を終了させる命令によっ そこで、プログラムを実行させるためには、プログラムやうとは予測できなかった。現在となってはまったくの冗談の んて機械は停止する。 このような操作を一つ一つ行っていたのでは、とくに大型 データとともに、その実行に必要とする作業やリソース re ・ ような話であるが、一九五〇年代には、ユーラシア大陸での 7 ( 二進法 ) 0 0 0 1 0 0 1 0 0 0 1 1 0 1 0 0 0 1 0 1 0 1 1 0 0 1 1 1 1 0 0 0 1 0 0 1 1 0 1 0 1 0 1 1 1 1 0 0 1 1 0 1 1 1 1 0 1 1 1 1 〃「 / ( 0 【 0 -4 ・つ 0 つ」 11 -0- LO -4- CO つ」 11 -0 一 イ 1 「 1 1 亠 1 工 1 上 11 れ

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さいとう しんざえもんのじよう さいとういおえ ( 一公四ー一九六六 ) 新左衛門尉と称し、大きな力をもつに至った 部は九州山地に属して山村地帯だが、東部は洪 斎藤五百枝 ちょうせい いちのみや 積台地、沖積平野が発達する。国道一一一九号が 挿絵画家。千葉県長生郡一宮町に生まれ、東ものである。その子道三はカずくで美濃斎藤の としまィ一 土 通る。洪積台地西都原には全国でも有数の規模 京美術学校西洋画科を卒業。白馬会に属して油名跡を奪った。これが斎藤左近大夫利政、後の 出 の西都原古墳群があり、総数は三一一九基を数え 絵を描いていたが、一九一四年 ( 大正三 ) に道三である。斎藤氏はその孫龍興の代に織田信 おさほづかめさはづか くらぶ 〈矢田俊文〉 る。大規模な古墳としては男狭穂塚・女狭穂塚 『少年倶楽部』創刊号の表紙絵を描いたのを糸長に滅ばされた。 土 市 などがあり、貴重な出土品も多い。特別史跡、 ロとして挿絵に転じた。一般娯楽雑誌・婦人雑回小和田哲男著『戦国大名』 ( 教育社歴史新書 ) ふどき 風土記の丘に指定されている。そのほか、国指 誌にも筆をとったが、全盛期の『少年倶楽部』サイトウガャ 0 ノガリャス 省 ちゃうすばる き、いと一 , っキ、は / 、 ハ I) 教育 定史跡の茶臼原古墳群、松本塚古墳、常心塚古 に寄せた挿絵でもっとも有名。ペン画もある斎藤喜博 ちばたけ ひゅうが い甘高 墳、千畑古墳もある。古代日向の中心地でもあ が、木炭を使って現代風俗を描くのが得意であ研究家。群馬県佐波郡に生まれる。一九三〇年 壺化 り、妻に国府、国分寺、国分尼寺が置かれた。 った。また、一時期、染色美術に力を入れたこ ( 昭和五 ) 群馬県師範学校卒業。長く小学校教 耳文 とのこおり 双」韶 ともある。 〈上笙一郎〉員を務め、五二年 ( 昭和二七 ) 佐波郡島村小学 日向の戦国大名伊東氏も都於郡に城を築いた。 ほきた さぶかわ 江戸時代は、穂北、妻が天領、東米良、寒川が さいとううじ中世の武家。「芋がゆ」校長、六四年境小学校長となる。また戦後一時 斎藤氏 ひとよし さどわら としひと のぶもち 人吉藩領、その他は佐土原領であった。中心地 で有名な鎮守府将軍藤原利仁の子叙用に始ま期、教員組合役員としても活躍。民主主義教育 かんしゆく 寺一いぐうのかみ の妻は宮崎市に近いため、市街地形成は十分でとして、西は甘粛・青海 ( 甘粛仰韶文化 ) かる。叙用が斎宮頭に任ぜられたことから、斎のあり方を授業実践のなかで厳しく追究し、民 ようすこう せいれんこう よ、。 間教育運動や教授学研究に大きな影響を与え ら東は揚子江下流地方 ( 青蓮崗文化 ) に分布宮頭藤原を略して斎藤とよばれた。利仁の母が えちぜん た。主著に『末来につながる学力』 ( 一九五七 ) 、 農業は平野の施設園芸と台地の畑作、畜産が し、さらにこれに類する土器は中国東北地区や越前国 ( 福井県 ) 敦賀の豪族秦氏の女であった 〈三原芳一〉 盛んで、とくにピーマン栽培は全国一である。東南海岸地区でも出土する。彩陶は一般に、精関係から、斎藤は北国一帯に栄えた。加賀斎藤『授業入門』 ( 一九六 0 ) がある。 ほかにキュウリ、ダイコンの作付けが多い。一良な粘土を用いて巻き上げ法でつくられ、ろく 氏とその支流の富樫・林、越前国を本拠とする回「斎藤喜博全集』全一八巻 ( 一九七一・国土社 ) ひきた ッ瀬川には一ッ瀬、杉安の二発電所があり、前 ろは使用されていない。表面は滑らかにヘら磨疋田斎藤・溿斎藤などである。越前斎藤の流斎藤月岑さいとうげ。しん ( 一〈ー天 ) 幕 ゆきなり わん 者は出力一八万キ。ワットで県内最大の規模であきされる。器形は、黄河中流地方では鉢、碗のれでは、鎌倉・室町幕府職員の斎藤氏、また、末維新期の文人。通称市左衛門、幸成、幼名を しようとう てきそう えっさぶろう ちかよりみの つば る。都万神社や西都原資料館も知られる。ま類、甘粛仰韶文化では壺の類が多い。酸化炎で親頼が美濃国 ( 岐阜県 ) の目代となったのに始鉞三郎という。号は松濤軒、瞿巣、白雲堂。 とき ゆきたか しもずる うすだいこ た、下水流に伝わる臼太鼓踊は国選択無形民俗焼かれるため器胎は紅色系を呈する。彩文は普まる美濃斎藤氏が著名。美濃斎藤氏は守護土岐幸孝の四男。斎藤家は美濃 ( 岐阜県 ) 国主斎藤 おうこん たつもと 文化財、米良神楽は国の重要無形民俗文化財に 通、焼成前に描かれるが、それに先だち、地肌氏の守護代を代々勤め、応仁の乱 ( 一四六七 ~ 七七 ) 龍基の子孫で、代々江戸・神田雉子町の名主と みようちん 指定されている。人口三万八三七〇。↓西都原に赤、白、淡黄色などのスリップ ( 化粧土 ) をのころ妙椿の代には 古墳群 〈横山淳一〉 かける場合が多い。彩色は、鉱物質の顔料を用一国の実権を握り、中斎藤氏 / 略系図 おすず ⑩五万分の一地形図「尾鈴山」「妻」「椎村」 いた赤または黒の単色が一般的であるが、東方央の戦局にも大きな影 むらしょ すき ( 加賀斎藤 ) の青蓮崗文化や仰韶文化晩期の彩陶では多色の響を及ばすなど全盛期 「村所」「須木」 藤原利仁ー範胖ー吉信 ~ 頼ー吉宗ー宗助貞宗 さいとう中国における彩文土器の呼例もみられる。彩色された図柄は、当時の人々を迎えた。妙椿の没 ( 富樫 ) 彩陶 ぎようしよう 冢国 称。新石器時代の仰韶文化期を特徴づける遺の心象世界を映す精神的な所産でもあるが、仰後、後を継いだ利国は はんば おうみ ( 後藤 ) 物とされる。その形態と年代とに多様な地域色韶文化早期の半坡類型のそれは、人面、魚など近江の六角征討の最 ⅱ攴上ーーⅱ・月 目 ( 目ハも不目ハ日 を含みながら、黄河中流地方の仰韶文化を中心 の特定の動物文と、三角形文、網文などの幾何中、占領軍に反対する ( 進藤 ) 学文が特徴的であり、やや時期近江の土民数万と闘い びようていこう ( 疋Ⅲ斎藤 ) の下がる廟底溝類型では、動大打撃を被り、退却の 踊願の物文に鳥とカエルがあり、幾何途中近江で一族ととも ( 河合斎藤 ) 鼓祈る 則重ー助宗 太を 3 す学文は曲線的に流れるような構に一四九六年 ( 明応 な災さ舞 ( 占原斎藤 ) 壮息長乱成をもっといった、類型ないし五 ) 自害した。幼少の 孝則ー助実 勇に。て地域による図柄の変化がみられため征討軍に加わらな る神るい わのれ抱る。また現在、世界各地の博物かった子利隆が後を継 . 伝・水らに いだが復興ならず斎藤 に・踊胸館に所蔵されている彩陶には甘 区火でを 地と所鼓粛仰韶文化のものが多く、それ宗家は没落した。斎藤 かもん どうさん る流穣各太 らは流麗な渦文に特色をみせ道三を油売りから身を す水豊めな る。彩陶の起源については、近おこした一世の風雲児 五は大 踊日内、 , 年の考古学的成果により、従来とするのは誤りで、道 鼓 1 境し 三の父はもとは京都の 太月の負一般に主張されてきた西アジア みようかく 臼 8 社背 暦神を起源説に再考の余地が生じてお妙覚寺の学僧で、初 にしむら 市旧方幟 り、かわって中国自生説が有力め西村を名のり、次に ~ 都年南の 西毎て本 となっている。 〈西江清高〉長井の名跡を奪い長井 台 つるが もくだい はた ( 長井斎藤 ) 夫遠ー実直ー実盛 ( 勢多斎藤 ) 成実ー実信ー実景 ( 美濃斎藤 ) つねなが 示景ー亠小長ー景頼ー親頼・ : 経永 ( 祐具 ) ー利明 ( 宗円 ) 利永ー藤 みようちんとしく・ 妙椿ー利国 ( 妙純 ) 利親 たつお、、 利降 ( 妙全 ) ・ : 利政 ( 道三 ) ー義龍ー龍興 伊傅公リ ( 吉原 ) たつおき 875

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こんへ、、 コンプリメンタリ回路 コンプリメンタリ ( 相補 ) ブッシュプル回路の動作 図中の矢印は交流入出 npn 型トランジスタ カ電流の径路。トラン ジスタは極性が逆で特 性のそろったものを用 大学教授、ウォ ーバーグ研究所所長などを務めも等しいトランジスタが必要となるので、これコンプレックス complex 辞書的にいえものもあるが、多くは一〇前後の小魚であ そくへん る。体は側扁し、ロが小さくて多少とがる。第 る。その間、英米の各地の大学で客員教授を歴に対応するダーリントン接続 ( トランジスタ一一ば、深く絡み合ってつくりあげられたものとい う意味であるが、精神分析では、強い情緒的反一背びれには一〇本の棘があり、その先端に一 任、英国アカデミー会員である。美術史研究に個を組み合わせて、一個の等価なトランジスタ おいて様式の問題を扱う際、現代の知覚心理学とする ) を用いた準コンプリメンタリ回路を用応を引き起こすような観念とか記憶の一群のか本から数本の糸状皮弁があるものが多い。胸び の成果を生かして独特な方法論を打ち立てた。 いることもある。インバーター回路には、コンたまりのことをいう。ほとんど意識されるようれ軟条のうち、下部の数本が長くて肥厚するの 主著に『美術の歩み』 ( 一空 0 ) 、『芸術と幻影』プリメンタリ >OT) の意味の O>OT) 回路が用なことはない。スイスの精神科医ュンクの連想が著しい特徴である。小さな種類は岩場の割れ たく ( 一九六 0 ) 、『木馬に托しての思索』 ( 一九六一 (l) 、『 T いられる。これは同一基板上にと実験においては、刺激語に対して反応語が現れ目やサンゴ類、ヤギ類の群体の間にすむが、波 Sense 、 0 e 、』 ( 一九七九 ) など。 〈鹿島享〉 OT の電界効果型トランジスタを構成したものるのに手間どるような場合には、コンプレックの荒いサンゴ礁の外縁部に生息するものもあ そう 1 、う 〈落合明〉 る。ほとんど食用にしない 0 総合で、入力に高・低レベルの信号を入れた場合、 スがあるからだといわれる。刺激語が特殊な強 コンプリへンシプ・スクール せいちゅうとうがっこう 制中等学校 いずれかのトランジスタは電流遮断状態にな い情緒をもっ語と結び付いているため、反応がコンペイトウ〔金米糖〕 round lump ・ かいろ com- る。静止状態では充・放電電流と漏れ電流しか遅れてくるのだという。連想実験は、こうした fish \ 尊、ミぎ、 0 、、、ミ s 、ミ一ミ・硬骨魚綱カ コンプリメンタリ回路 plementary circuit トランジスタでは電圧・流れず、消費電力は少なく、出力電圧振幅も電強い情緒をもっコンプレックスを明らかにしょサゴ目ダンゴウォ科に属する海水魚。日本海北 , っとする。 部、オホーック海、千島列島沿岸などに分布す 電流特性が等しく、その方向が逆のものが得ら源電圧に近いので、低電圧動作が可能となる。 る。体は若魚では球形であるが、成長すると長 れる。この性質を利用した回路で、相補対称回このため、電池を電源とする電卓やディジタル こうした意味で日常的にコンプレックスとい 〈岩田倫典〉 路ともいい、ブッシュプル増幅器やインバータ時計などに用いられている。 う用語が使われているが、専門的な意味でコンくなる。胸びれの内側にあたる体表を除いて、 えんすい ー回路などに用いられる。 コーンフレーク corn flake トウモロコプレックスといわれるのは、エデイプス・コン多数の大小の円錐形のいば状突起で覆われる。 ブッシュプル増幅器としては、バイボーラ型 シの粒でつくった乾燥状穀物製品。朝食用や菓プレックスと去勢コンプレックスである。父親腹面に腹びれが変化した吸盤がある。第一背び コンプレックス、母親コンプレックス、カイれは皮膚下に埋没し、先端部のみ露出する。体 のやトランジスタ、あるいは子用によく用いられる。トウモロコシを温水に ひ は暗赤色、腹面は黄色。水深八〇 ~ 一五〇の ( 金属半導体シリコン ) やトラン浸すかあるいは蒸気で蒸し、粗く挽き割ったの ン・コンプレックス ( 兄弟コンプレックス ) な ィ一れき みずあめはちみつ ジスタなどで、極性は違うが、電圧・電流特性ち、砂糖、食塩、水飴、蜂蜜などの調味料をあどは、エデイプス・コンプレックスの一側面を砂礫底にすむが、八月ごろに産卵のため浅所に のまったく等しいものを用いると、各トランジわせた液につけ、一 ~ 二時間加圧、加熱する。 とくに強調しているものである。↓エデイプ移動する。全長約一〇弩にしかならない。食用 としての価値はないが、ヨーロッパでは近縁種 スタの電圧の加え方と電流の流れ方が逆にな こうして蒸し煮の終わったものは冷やしてからス・コンプレックス↓去勢コンプレックス↓ カイン・コンプレックス 〈外林大作〉の卵をキャビアの代用品にする。〈尼岡邦夫〉 る。したがって、たんに並列に接続しただけ いくらか乾燥し、一日熟成させたのち、圧偏ロ あっしゆくき こんべいとう南蛮菓子のなかの砂糖 で、入力信号の正負の半サイクルごとに別々の ールで薄く平らに伸ばし、熱風でよく乾燥すコンプレッサー 0 圧縮機 金平糖 菓子で掛け物の一種。金米糖、金餅糖の字もあ トランジスタが働き、真空管のときのような位る。さらに釜で炒りあげて製品とする。このと コンフレナ 0 センニチコウ てる。菓名はポルトガル語のコンフェイト con- 相反転回路を必要としない。また、トランジス き香ばしい香りが生じる。通常食用とするときコンフロビッチ Witold Gombrowicz あめつぶ ( 一九 0 五ー六九 ) ポーランドのユダヤ系前衛小説 feito による。極小の飴粒を核にして、これに タの低出力インピーダンスを利用し、トランスは、砂糖と冷たい牛乳をかける。またケーキの ( 出力変成器用 ) を用いすスピーカーに接続で周りにつけたり、フライの衣として使用するこ家。ワルシャワ大学法学部を卒業後、一九三一一一氷砂糖を煮溶かした糖液をまぶし、かき回しな きて高忠実度再生増幅回路回路 ) が得ともある。アミノ酸、ビタミン、ミネラルなど年、日刊紙の風刺時評作家として出発、同年、がら加熱すると、糖液は順次固まって大きくな り、球形の表面に角状の突起ができる。糖液に られる。この場合、特性がまったく等しく極性を強化したものもっくられている。〈河野友美〉七つの短編よりなる『成熟期の日記』を出版し て評価を得る。三九年ドイツ軍の侵入前後に亡彩色して赤、黄、緑色の金平糖もっくられる。 命、アルゼンチンに定住していたが、のちフラ金平糖が国産化したのは渡来から約一二〇年後 絶縁層 じようきよう て反既よ ハ 0 とみられ、井原西鶴 の貞享年間 ( 一六会 ~ れはれ ンスに移り、バンスで死んだ。未成熟と成熟、 こつばんえいたいぐら さにれ 若さと完成のなかに人間実在の本質をとらえよの『印本永代蔵』 ( 一六公刊 ) 巻五には、「仕掛い 続め起こ 孑オ励 ろいろせんさくすれども成がたく」「南蛮人も うとし、その評価は国際的にきわめて高い カ流 コなる よきことは秘すと見えたり」などと紹介され、 七年フォルメントール国際文学賞を受け、また 入を叔れきカ ノーベル文学賞の候補にもあげられた。代表作その仕法が当時の日本人にはよほど不思議であ 流て入 一卩 っ電てが成 に『フェルデイドウルケ』 ( 一九五七 ) 、『トラン ったことがわかる。それに続いて「近年下直な かみ 一がし流構 ス・アトランティク』 ( 一九吾 l) 、『ポルノグラフること、長崎にて女の手わざに仕出し、今は上 かタっ千黽が 〈吉上昭三〉方にてもこれにならひて弘まりける。胡麻一升 ィア』 ( 一九六 0 ) など。 一ジー , ん素カ ゲンでとグ出 回工藤幸雄訳『ポルノグラフィア』 ( 一九六七・河を種にして、金平糖二百斤になりける」と書か のラのほン タトな , チ 出書房 ) ▽米川和夫訳『フェルデイドウルれるまでに普及した。当時は核にごまやケシ もりさだまん・ 1 う スの要はツ 粒、棒皮などを用いた。『守貞漫稿』による ケ』 ( 一九七 0 ・集英社 ) タジっ必ヘイ ぶんせい ンン二が点ス コンべ〔権兵衛〕 hawkfish 硬骨魚綱スと、製法が江戸に伝わるのは文政 ( 天天 メラの号地カ ス 以後のことである。金平糖つくりは掛け物職人 ズキ目ゴンべ科の海水魚の総称。太平洋からイ リトこ信接電 フの , のら費源ノ といい、手仕事で日に約七〇キロもこしらえたと ンド洋の暖海の浅所に生息し、日本では中部以 ン方が性か消 電 〈沢史生〉 7 コ両る極源低 いうが、いまは駄菓子である。 南から一二種が知られている。二〇を超える 負荷 入力 Lu pnp 型トランジスタ ス ( 入口 ) ドレーンドレーン ( 引出しロ ) ゲート 0. p 型半導体の島 n 型シリコン基板 nMOS トランジスタ pMOS トランジスタ がた ひろ

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ためである。ヒノキやスギなどの裸子植物の紅法」などに規定がある。↓換地処分〈阿部泰隆〉保証する要件になることが多く、その公用語をと落葉広葉樹に分けられるが、熱帯から暖温帯 めいりよう までの湿潤地域は常緑樹、明瞭な乾期をもっ こうようぐんかん江戸初期につく 母語とする集団が圧倒的に有利になるという点 葉の色素はカロチノイドで、ルティンやビオラ甲陽軍鑑 地域では雨緑林を形成する落葉樹、地中海式気 にある。また、国として複数の言語を公用語と キサンチンの黄色色素に加えて、桃紅色色素のられた軍記。全二〇巻、五九品。甲州流兵法の おばたかげのり ロドキサンチンが新たにつくられてくるためで祖小幡景憲は、本書を基本的原典とし、これに しても、なんらかの順序づけを与えることもあ候の地域には硬葉樹が分布する。温帯地方は落 ある。 『末書』三巻・二七品、『結要本』九品、『竜虎りうる。さらに、国内に話される一一一一〔語の数が多葉広葉樹が主体である。日本では冷温帯に。フ 秋の落葉前に黄葉する植物にはイチョウ、 豹』三品をもって兵法講義の素材とした。戦国 く、しかも土着語で国全体の共通語として発達ナ、カエデ類、カンバ類、ミズナラ、コナラな しんげん どの落葉樹、暖温帯にタ。フノキ、スダジイ、ア ルニレ、ポプラ、シナノキ、スズカケノキなどの名将武田信玄一代の戦功・武略を中、いに、治 しているものがない国では、国の公用語のほか がある。これはカロチノイドによる発色で、葉政、刑法、軍法などについて記したもので、と に地方公用語をいくつか認めている場合があカガシなどの常緑広葉樹が分布する。これらの こる。たとえばザンビア ( アフリカ ) においては、常緑樹は葉面に光沢があり、照葉樹とよばれ が老化して葉の中に含まれるクロロフィルが分 くに陣営、兵伍、諸道具などの記述が詳しい かつより 〈大沢雅彦〉 解するにつれて、共存するカロチノイドの色がれに勝頼の一代記 ( 五〇品以下 ) 、最後 ( 五九国の公用語 ( 国語 ) は英語であるが、いくつかる。 こうようしゅうよう特定の公共の 現れてくるためで、新しい色素の合成がおこる品 ) に徳川家康の物語が付加されている。年代の土着一一一一口語 ( たとえば、べンバ語、ニャンジャ 公用収用 利益となる事業の用に供するために他人の特定 わけではない。黄葉に含まれるカロチノイドや事実の錯誤がみられ、武田氏の実録とはいえ 語、ロジ語など ) を地方公用語として認めてい は、ルティンやビオラキサンチンなどのキサンないが、甲州武士の思考や行動が生々しい迫力る。これらはもともと地方共通語として力をもの財産権を強制的に取得することをいう。公用 しょギ、むらい っていたものであるが、そのいすれもが国全体負担の一種。公用徴収ともいう。憲法第二九条 トフィル類が主体で、カロチン類はほとんど存で綴られており、「上下諸侍の作法の資」とし 在しない。常緑樹では春の終わりに新しい葉が ようとする作者の意図が随所にうかがえる。 の共通語にはなっていなかったため、旧宗主国三項に基づく一般法として土地収用法があるほ か、「公共用地の取得に関する特別措置法」、鉱 出ると古い葉が黄葉して落葉することがみられ 本書の成立については、すでに江戸時代からの言語を国語とする一方、このような措置をと ったものと考えられる。同様の事情は隣国ザイ業法、都市計画法などにその特例が定められて るが、この場合も秋の黄葉と同じ過程をとるも偽書説や多くの異説があるが、明治中期以後は、 ちょうしん かいづ 〈湯川恭敏〉 いる。被収用者には収用の前後においてその財 のと考えられる。秋に葉が褐色となる植物にケ信玄の寵臣で信州 ( 長野県 ) 海津の城代を勤 ールなどにも認められる。図要 こうさかだんじようのじようまさのぶ ヤキ、クヌギ、ブナ、コナラ、クリなどがあるめた高坂弾正忠昌信 ( 一五 = 七ー七 0 、通称高坂コウョウサン〔広葉杉〕国 0 、こや産的価値の総額に増減のないよう完全な補償を かすがそうじろう が、これは葉の中に含まれる無色のカテキン類弾正の一 = 口を籍りて、彼の縁者春日惣二郎・大蔵 3 斗ぶミき ~ ミ (Lamb. ) Hook. スギ科のすることとなっている。↓公用負担〈阿部泰隆〉 こうようじゅりん常緑硬葉をもっ が葉の老化に伴って酸化重合して褐色のフロバ 彦十郎らが編集・加筆し、これを小幡景憲が増常緑高木。中国では本種を杉と書き、和名の杉硬葉樹林 フェンに変わったためである。褐葉の初期には 補・集成したものとみられてきた。しかし近年とは異なる。別名オランダモミ、リュウキュウ高木または低本の群落。亜熱帯の冬雨夏乾の地 黄色のカロチノイドが共存しているために、変本書の分析が進み、昌信を原作者とすべきであスギ。大きいものは高さ三五、直径一に達域に発達する常緑広葉樹林、照葉林 ( 照葉樹 林 ) に近似するが、樹木の葉は小さくて硬く、 化に富んだ美しい色彩になる。 〈吉田精一〉るとする説が唱えられている。 〈渡辺一郎〉する。樹皮は赤褐色で縦に裂け、スギに似てい こうよう / ホンヤン中国、湖南省中南回磯貝一・服部治則註『甲陽軍鑑』 ( 一九六五・人る。枝は水平に長く伸びる。葉は互生するが、乾燥に対する耐性が強い。地中海沿岸、カリフ 衡陽 ようす・」う ひしん ォルニア、南アフリカのケープ地方、オースト 部の工業都市。省の直轄市である。揚子江水系 物往来社 ) 枝の両側にやや平らに並び、硬質で鎌状の披針 しよう・一う らいすいじようすい ラリアの南西部にみられる。地中海沿岸では日 こうようご公の文書や公の場での会形をなし、先は鋭くとがる。雌雄同株。四月に の湘江とその支流の耒水、蒸水との合流点に 公用語 だえん 位置する。五岳の一つである衡山がその名の由話に用いられることが認められた一一一一口語。日本の開花する。雄花は楕円状球形で枝先に集まり、本のウバメガシに近縁のイレックスガシの林が ずい 来である。漢代は承陽、鐘武二県に属し、隋代ように、 一つの国のなかで一言語しか話されて雌花は卵状球形で、長さ三、四、枝先に一個中心であるが、伐採、野火、放牧などによって りん・ヘん に臨烝県とあわせて衡陽県が置かれ、衡州州治 いないといえる状態である場合、当然その一 = ロ語ずつつく。球果は卵球形、鱗片は革質で先はと破壊され、高さ一以下のコッキフェラガシな がり、外方に反り返る。種子は一鱗片に三個すどの低小な硬葉樹の群落に退行している所が多 となり、歴代路治、府治であった。一九四三年が公用語 ( 国語 ) となるが、複数の言語が話さ 中近東とイ・ヘリア半島では樹種がさらに多 市制施行。湖南省南部の水陸交通の要衝で、京れている場合、そのうちのどれかを公用語と定つつき、翼がある。中国大陸南部、台湾に自生 ー ) ト弩つけ、 い。カリフォルニアでもイレックスガシ近似の 広鉄道から、湘桂鉄道が分岐し、湘江の河港める必要が生じる。国によってそうした公用語する。日本には江戸時代に渡来し、仙台市以南 の社寺境内、公園、学校、庭園などに植栽され常緑のカシの林が主体で、これも野火で破壊さ でもある。金属、機械、セメント、化学肥料、が一つである場合と、複数である場合がある。 多一 = ロ語の国では、どの言語を公用語とするかる。材は建築、屋内工作、箱、棺、天井板、マれるとチャパラルとよばれる低木林に退行す 紡織などの工業が立地する。周辺農村部は米、 ちょま ッチの軸本、農具などに用いる。〈林弥栄〉る。ケープ地方ではプロテア、ロイコデンドロ サツマイモ、タバコ、苧麻、豆類、ハスを産がしばしば紛争の種となる。その理由の一つ ンなどのヤマモガシ科の樹木が多く、オースト こうようじゅ針葉樹の対語で、大き し、地下資源としてはカオリンを産する。石鼓は、公用語を使いこなせることが社会的地位を広葉樹 し 力いがーれは・つ ラリア南西部でもバンクシアなどのヤマモガシ 〈河野通博〉 な葉をもっ被子植物のうちの双子葉類の樹木の 嘴、回雁峰などの名勝がある。 かつよう 科の種類が多い。硬葉樹林帯はどこでも植物の こと。濶葉樹ともいう。熱帯に起源し、落葉性 こうようかんち土地の宅地または 公用換地 のような寒冷適応、硬葉性のような乾燥適応の種類が多く、固有種に富んでいる。〈大場達之〉 農地としての利用を増進するために、一定の地ぎ こうようせいげん特定の公益事業 獲得とともに北方に分布を広げた。風媒花を主 区内における土地の区画および形質を変更し、 公用制限 とする針葉樹に対して、大形の花をもち、昆虫の需要を満たすために特定の財産権に固着して その結果、権利者の意思いかんにかかわらず、 雄を誘引して受粉する様式が発達している。現課せられる公法上の制限。公用負担の一種であ 強制的に、土地所有権その他土地に関する権利 る。おもな例は土地に対する公用制限で、これ ン在、地球上でもっとも広く分布し、優占してい 、フ ( 永小作権、地上権、賃借権 ) に交換分合その る植物である。広葉樹の材は硬材とよばれ、繊を公用地役という。公用制限には、私人の所有 よ他の変更を加えること。土地区画整理法、土地 ウ 物を公益事業に供するための制限である公物制 ョ維が基本的な組織となっており、一般に硬い , フ改良法、新都市基盤整備法、「大都市地域にお コ葉は網状脈で、内皮はみられない。常緑広葉樹限 ( 私有道路など ) 、公益事業に便宜を図るた ける住宅地等の供給の促進に関する特別措置 せき - 一

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ぎよううんもんほうげん くられたものとみられている。成立年代は平安 〈宇田敏彦〉片仮名や万葉仮名で書かれるのが例であった 大戦後、家の制度の廃止とともに廃止された。仰、雲門、法眼をいう。 そうりよ 時代の初期であり、おそらく僧侶の学問研究の ↓家↓家族制度 〈高橋康之〉梧州ごしゅう / ゥーチョウ中国南部、広西が、近年では平仮名で書かれることも多い りつりよう じん - 」う 〈近藤泰弘〉 五十音図は、原理としては、それぞれの仮名世界で生まれたものであろう。 〔令制の戸主〕律令制下の編戸制に伴い採用チワン族自治区東端の市。潯江と桂江の合流点 よ しゅ された戸籍制の用語。「へぬし」とも訓む。戸 に位置する。珠江水系の水上交通の要地であの発音のうち、子音要素の共通するものを行回大矢透著『音図及手習詞歌考』 ( 一九天・大日 本図書 / 復刻版・一九六九・勉誠社 ) ▽山田孝 の代表者で家長を戸主とした。律令国家は、儒り、商業都市として発達した。現在は造船、機 、母音要素の共通するものを段にまとめたも 雄著『五十音図の歴史』 ( 一九三八・宝文館 ) ▽ 教的家族観による家父長制を中心に人民支配を械、製紙、電子、化学、紡織、光学器機などの のである。したがって、本来は五〇の異なった まつやに 橋本進吉著『国語音韻の研究』 ( 一九五 0 ・岩波 行った。これまで地方豪族の村落支配に全体と工業が立地し、また竹細工、木製家具、松脂な発音を示しているべきであるが、現在では同音 カントン 書店 ) ▽馬淵和夫著『日本韻学史の研究』 して編成された人々は、制度上は戸主を中心と どの特色ある工業もある。広東料理に欠かせな となって区別のないものも多く ( イとヰなど ) 、 ひょうせい ( 一九六三・日本学術振興会 ) する郷戸に編成され、郷戸単位に、班田収授 いへビの養殖場が有名。市内には名泉氷井や音節の一覧表としては不十分なものとなってい そようちょう かた なんえっちょうだ かぎんゅうえん 肩関節周囲炎に相当す 制、租庸調収奪を受けることになった。戸主南越王趙陀が剣を埋めたと伝えられる火山タ焔る。また、古くさかのばっても、ヤ行のイ、ワ五十肩ごじゅうかた 〈青木千枝子〉 は、国家に対し、籍帳作成の責任、戸口の納などの名勝がある。 行のウなどは、ア行のものと別の音韻として存るものをさし、肩関節の周囲組織の老人性変化 とう しかし、日を基盤とした病変によっておこる。中老の人に ごしゅういわかしゅう院政期在したことは確かめられていない。 税、賦役の責任をもった。しかし、唐の尊長後拾遺和歌集 ちよくせん 制、家長制がどこまで日本律令制に継受された に成った第四番目の勅撰和歌集。本来『後拾本語における各種の音韻変化や、活用形にみら多いところから五十肩とか四十肩とよばれる。 けんしよう みちとしせん か問題であり、共同体首長を軸とする日本古代遺和歌抄』といった。藤原通俊撰、一一〇巻、一れる音韻交替 ( あめーあまがさ、書かない、書関節周囲の変化としては腱炎、腱鞘炎、腱板損 傷、滑液包炎、関節包炎などがある。急性に発 社会の構造のなかで戸主制はなじまなかった側二一八首。院政期初頭の王政復古政策の一環と きます等 ) を説明する表としてきわめて便利な しらかわ 面が指摘されている。 〈野田嶺志〉 して、白河天皇により企図され、一〇七五年ものであり、現在でもャ行・ワ行を改編した形症するものと慢性に症状が増悪するものがある とうつう くろうどのとう が、主症状は肩関節の疼痛と運動制限である。 ( 承保一 l) 命が下ったが、通俊が蔵人頭の激務で学校教育を中心として広く用いられている。 ゴーシュ Ajoy Kumar Ghosh ( 一九 0 九ー 上肢を動かすと肩関節の疼痛が強く、また夜 六 (l) インドの政治家。インド共産党の書記長 にあったため、九年後ようやく着手、一〇八六 さらに、仮名をすべて含んでいて体系的で記憶 ( 一九五一 間に疼痛のため睡眠が妨げられることもある。 ~ 六 (I)O カーンプル市の医師の家に生まれ年 ( 応徳三 ) 春、草稿本の成立をみた。そのしやすいことから、辞典・名簿などで語の配列 すおうのないし はくのやすすけおう つねのぶ 運動制限の程度はいろいろであるが、上肢を挙 る。二六年アラハ ード大学に入学。二九年反後、周防内侍、伯 ( 康資王 ) 母、源経信などの基準 ( 五十音順 ) として用いられている。 せそんじこれふさ 英テロリズム運動で、指導者のバガット・シン 現存する最古の五十音図は、醍醐寺蔵の『孔上できず、また上腕が回らない ( 外旋、内旋が の内覧を経る一方、名筆世尊寺伊房に清書を依 じゃく らとともに逮捕、翌三〇年釈放。カーンプル市頼したが、不都合があって結局これを撰者の手雀経音義』 ( 平安時代末期写 ) に付記されたもできない ) ので頭髪がとかせないとか、手が後 いえほん の労働運動に参加し、ふたたび投獄されるなか元にとどめ ( 家本 ) 、撰者の甥、隆源法師が奏のである。これは行も段も現行の順序とは異なろに回らないので帯が結べない、ズボンの後ろ のポケットに手が入らないなど、日常動作がで で三三年に共産党員に転ずる。同年の党再建会覧本を書いた。この過程で歌界の第一人者源経り「キコカケク」から始まっている。このよう 議後中央委員、三六年政治局員となる。インド 信との間に取り交わされた『後拾遺問答』 ( 逸 、古い時代のものは配列の順序が一定せず、きなくなる。ほとんど上肢が挙上できなくなる こともある。このように運動障圭口が強いことか 独立後の五一年には、四八年以降の極左路線を文を『袋草紙』に収める ) により、撰入歌を切現在の形に一定したのは南北朝時代以降のこと しったん 批判し書記長に就任。インドの民族民主革命のり出したり修正を加えたが、経信は飽き足りである。なお、現在の順序は明らかに悉曇章ら、凍結肩 frozen shoulder ともよばれる。 症状が初めは軽く、だんだんと重くなって連 路線を自主的に確立する努力を払った。ネル ず、『難後拾遺』を著し、これが勅撰集論難書 ( サンスクリットの字母表 ) に基づくものであ 政権が非資本主義的発展の道を歩んでいるとすの嚆矢となる。通俊は論難を重くみて奏覧本をるが、五十音図の起源自体は、むしろ日本語の動制限が高度になっても、その後は徐々に症状 わいろ 多くは六か月、遅くとも一年 るソ連の学者ルビンスティンの論文への批判で再訂した ( 再奏本 ) 。撰歌に賄賂を認めたとの音韻表あるいは漢字音の反切の便宜のためにつが軽快してい 以内に症状は消失する。両側の肩関節に同時に 〈佐藤宏〉風評から『小鰺集』と異名がつくなど芳しくな 知られている。 五十音図 くることはほとんどないが、 ~ 冶ってから他側の ゴーシュ 0 オーロビンド い世評が伝わる ( 袋草紙 ) 。しかし『古来風躰 しよう いちじよう せつこう 肩関節に発生することがある。 抄』が評価するように、 一条朝以来の勅撰集 こしゅう / フーチョウ中国、浙江省北 湖 アイウェオ 治療としては保存的療法が行われる。すなわ 部の市。人口約九二万。杭嘉湖平原の中心都市空白期に累積した名歌は多く、とりわけ、和泉 せのたいふ けいしゅう 寺一がみ カキクケコ ち、局所の温熱がよく、鎮痛消炎剤の内服や局 で、絹織物工業が盛んである。徳清、長興、安式部、相模、赤染衛門、伊勢大輔などの閨秀 みん 所麻酔剤などの注射が疼痛を除くために行われ 吉の三県を管轄する。明代後半から周囲の農村歌人、能因法師とその先達、後輩の顔ぶれも多 サシスセソ る。疼痛の強くない程度に肩関節の自働連動を での養蚕業の興隆に支えられ、製糸、絹織物業彩で、詠風、歌題意識も三代集と一線を画し、 タチッテト することが必要で、家庭では入浴と上肢の体操 が発展した。一九四九年呉興県を中心に市が設冷えさびた純粋叙景や四季、恋題意の細分化な を十分に行うようにする。予防にも、上肢の連 〈後藤祥子〉 けられ、六二年廃止されたが、七九年ふたたびど中世和歌の萌芽をみうる。 ナニヌネノ 動を日ごろからよく行っておくことがよいと考 〈林和生〉回藤本一恵著『後拾遺和歌集全訳注』全四冊 設置された。↓呉興 ヒフへホ えられ、また上肢の無理な急激な動作をしない ( 講談社学術文庫 ) ▽上野理著『後拾遺集前 ごしゅう仏教で、大乗仏教の五宗派 五宗 〈永井隆〉 よ , つに、いがけることである 後』 ( 一九七六・笠間書院 ) をいうが、時代によってどれをとるかは一定し マミムメモ ゴジュウカラ〔五十雀〕 nuthatch 広義 ない。古くは奈良時代以来の南都六宗のうち華五十音図ごじゅうおんず五〇字の仮名を、 くしゃ じようじっ ごん さんろん はっそう ャイユ工ョ には鳥綱スズメ目ゴジュウカラ科に属する鳥の 縦に五字ずつ一〇行に並べた下のような図表。 、フ厳宗、三論宗、法相宗、倶舎宗、成実宗をい 総称で、狭義にはそのうちの一種をさす。種と 古くは「五音」「五音五位之次第」などとも ゅ - い、平安時代には華厳宗、法相宗、三論宗、律 リルレロ してのゴジュウカラ S ミミ、、、きは全長一 3 じ宗、天台宗をいった。また中国における禅宗のよばれた。また、縦の五字を「行」といい、横 そうとう りんぎい ワヰウヱヲ 四弩の小形の鳥。背面は灰青色、腹面は白、下 2 」五つの流派 ( 五家 ) をさし、臨済、曹洞、譌の一〇字を「段 ( または列 ) 」という。古くは おい ′一らいふ ) ってい はんせつ

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はくぎよく 籍にみえている。さらにまた『柏玉和歌集』 堺の有力商人に糸割符仲間をつくらせたが、 コカシラアプ〔小頭虻〕 spider-parasite 河川にすみ、夏は灯火によく集まる。 そうし コガシラミズムシ科 Haliplidae は、世界各『後柏原院御百首部類』という歌集も伝存して 一六三一年 ( 寛永八 ) 江戸、大坂の商人も加 flies, small-headed flies 昆虫綱双翅目短角 〈村田正志〉 え、五か所商人とよばれた。↓糸割符↓糸割亜目ア。フ群コガシラア。フ科 Acroceridae の総地に分布し、約二〇〇種が知られている。日本 ゆいしよがき 符由緒書 称。この科は頭部は球形で小さく、胸部に対し産は約一〇種で、ヒメコガシラミズムシ属や五ケ瀬 ( 町 ) ごかせ ( ちょう ) 宮崎県北西部、 こしうすき 五ヶ所湾ごかしょわん三重県中南部、志摩て著しく下方につき、胸部は大きく、背方に著募の種が大部分を占める。水中の水草や石西臼杵郡にある町。西は熊本県に接する。一九 くらおか 一んしょ こうふん の下にすむが近年は少なくなった。〈中根猛彦〉五六年 ( 昭和三一 ) 三ヶ所村、鞍岡村が合併し 半島の基部近くにある湾。熊野灘に向かって開しく膨出している。ロ吻は小さいものと、よく ごかしわばらてんのう ( 一四六四ー一五て町制施行。五ケ瀬川の源流部にあたり、町名 き、奥行八・四キ。、湾ロの幅二・五キロ。隣接す発達して体長よりも長いものがある。はねは小 後柏原天皇 る英虞湾とともに沈降によって生じた典型的な さく、横脈はほとんどない。はねの基部後方に 一一六 ) 第一〇四代天皇 ( 在位一五 00 ~ = 六 ) 。名は勝は川名にちなむ。九州山地内にあり、五ケ瀬川 そよう あし ごっちみかど リアス式海岸地形である。湾の周辺は英虞湾に は胸弁がよく発達していて袋状となる。脚は細仁。後土御門天皇の第一皇子。母は贈内大臣庭は蘇陽峡などの深い峡谷をなす。国道二一、 のべおか きゅうしゅん じよくばん たながかたむすめ 比べて急峻で、侵食の進んだ標高一五〇 ~ 一一 く、末端には一対の褥盤のほかに、中央褥盤田長賢の女朝子。一五〇〇年 ( 明応九 ) 父天皇号、一一六五号が通る。近世は延岡藩領。山村で 五〇の山地が迫り、入り組んだ支湾の奥に五が発達する。腹部は太く、紡錘形またはほとん死去の後を受けて位についたのであるが、当時あるが、林産物のほかに、タバコ、クリ、茶な しゆく たそ おうか おうにん ヶ所浦、宿浦、田曽浦、相賀浦、礫浦などの浦ど球形に近い種類もある。成虫は春に花に集ま は応仁の乱後の朝廷衰徴の極にあり、即位の大どの栽培も盛んである。中心地は五ケ瀬川沿い らん 村がある。南に開いた湾形のためやや波が荒い り蜜を吸うが、幼虫は寄生性で、クモやその卵 礼を行うことができず、二一年後の一五二一年の鞍岡と三ヶ所川沿いの三ヶ所に分かれ、両者 まみはら のう いかだ が、真珠、ハマチなどの養殖筏が水面を埋め、嚢につく 〈伊藤修四郎〉 ( 大永一 ) 三月になって、大坂本願寺僧光兼のは熊本県蘇陽町の中心地馬見原を経由して結ば なす はん 宿田曽漁港は古くから遠洋漁業の基地として知コガシラウンカ〔小頭白蝦虫〕昆虫綱半献金により、これを挙行するをえた。大永六年れている。なお鞍岡は、源氏の那須大八郎が平 られる。湾周辺ではミカンを産する。伊勢志摩翅目同翅亜目コガシラウンカ科 Achilidae の四月七日没。深草北陵に葬る。なお、後柏原天氏の残党を討っために椎に入る際この地まで へんべい 国立公園区域に属し、近年は観光地化が進み、昆虫の総称。体はやや扁平で細長く、頭部はや皇は応仁の乱後、朝儀の復興に努めたことは著馬できて鞍を置いて歩いたという伝説があり、 ぎおん そう 別荘地、ヨットハー 、民宿、キャンプ場なや狭い。はねは膜質で、前翅の爪状部脈は先端聞するところでもあり、また『後柏原院御記』鞍置が鞍岡になったという。祇園山 ( 一三 0 七 ) は古生代化石産出で知られる。県の無形民俗文 ども多い 〈伊藤達雄〉まで達し、この点でほかのウンカ類 ( ハゴロモと称する日記が伝存し、今日は伝わらないが あらおど おゅどののうえのにつき 囮二万五千分の一地形図「五ヶ所浦」「相賀浦」上科 ) と区別される。日本には約一〇種が知ら『御湯殿上日記』を自ら記したことなども史化財に荒踊がある。人口五八〇九。〈横山淳一〉 もろっか 五万分の一地形図「三田井」「諸塚山」「高 れており、体長 ( 翅端 ケど代太物にが 森」「鞍岡」 まで ) が一〇ミリ前後の 三な時 , 鳴束手の , 社国鐘の装りも こがせいり ( 一七五 0 ー天一七 ) 江戸 やや大形の種を含む。 古賀精里 旬神戦 , ど者踊な かんえん 下と登。ちな武た壮 スジコガシラウンカ 中期の儒者。寛延三年一〇月二〇日生まれ。佐 月亠中るも貝 , っ勇 ・一くどう まくあざなじゅんぶう R ぎ、、ミやナ 町 9 , れ ? 螺に持る賀藩の人。穀堂の父。名は樸、字は淳風、別 瀬。社わ源は法奏をす ワコガシラウンカ R 、 . ゲ踊神行起 , 伴器舞号は復原。京都に遊学して福井斎、西依成斎 びとうじしゅうらいしゅんすい 五荒所でに鼓を武乱 に入門、また大坂で尾藤二洲、頼春水と親交、 ミミはスギに寄生 内 : 浦 朱子学を尊崇するようになった。帰郷後、藩政 湾「津するといわれ、灯火に ・一うどう に参与し、藩校 ( 弘道館 ) の創設とその教授に る町も飛来する。越冬態を せ勢 もあたった。一七九一年 ( 寛政三 ) 藩侯に従っ はじめとして、生活史 み南 しようへい・う をる はまだよくわかってい 形あ 一て江戸に出、藩臣として初めて昌平黌で経学 〈林正美〉 一を講じ、さらに幕府の儒官として林祭酒、光野 岸部 栗山、尾藤一一洲らと学政を振興し、栗山、一一洲 錬コガシラミスム とともに「寛政の三博士」と称された。一 沈 6 シ〔小頭水虫〕 一年 ( 文化八 ) には祭酒とともに聯で朝鮮の 激落 ~ 、 s 昆虫綱甲虫目コガ の集 シラミズムシ科に属す 入央 出中る水生昆虫。日本各地 丿写に分布し、おもに平地 にみられる。体長三 ~ 部盛 三・七 : リ。短い卵形で 南が の殖黄色く光沢があり、前 島養 半の胸後方の両側に黒いく ばみがあり、上ばねは 志マ 湾各一〇行の黒い点刻が 所珠 ある。触角は細く短 ケ真 / 、、肢、も田、。 池沼や ) かい なだ イ一ら 一阜耋 ) みつ あし たいえい 古賀精里画像東京国立国会図書館 101

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こりんと 、、 : 紀元前一一世紀に、おそらくアルゴスから と述べるに至り、「五倫の教え」として確定し から既成宗教と狂信を厳しく批判するが、意志 ラーゼはおもにニューロンの細胞体で合成さ ちゅうよう ごたつどう じくさく た。『中庸』ではこれを五達道とよび、君臣関れ、軸索を通って神経終末部に蓄積する。そこ の自由については、他の多くの理神論者と異な遠征したドリス人の支配に移ったと考えられ 係を第一に数える。仁義礼智信の五常とともにで伝達物質として働いたアセチルコリンを急速り、決定論をとる。彼の聖書の自由な吟味は後る。前八世紀にポリスを形成し、コリント地峡 〈廣常人世〉 儒教倫理説の根本である。 のヒュームらの宗教の歴史的批判への道を開くを抑える海陸交通の要地を占め、サロニコス湾 に分解する。 にケンクレアイ、コリント灣にレカイオンの港 回赤塚忠他編『中国文化叢書 2 思想概論』 ほかに、単にコリンエステラーゼ、または ことになった。主著に『自由思想論』 ( 一七一三 ) 、 ( 一九穴・大修館書店 ) ▽宇野精一著『儒教思 非特異的コリンエステラーゼとよばれる酵素『人間の自由と必然についての哲学的研究』 ( 一七を擁し、商工業ポリスとして発展した。 想』 ( 一九会・講談社学術文庫 ) 〈小池英光〉 ()C 3 , 尸 1 , 8 ) があり、プチリルコリンがよ一五 ) などがある。 前八世紀後半からバッキス氏族が政権を独占 けっしようすいぞう コリンウスラ bobwhite/8CoIim 、 s ) して寡頭政を敷き、そのもとで前七三三年にシ い基質となる。血漿、膵臟などに分布し、ヒコリンス WiIIiam WiIkie CoIIins ( 天 をを鳥綱キジ目キジ科の鳥。北アメリカト血漿の酵素は分子量約三五万、四量体とされ = 四 ー兊 ) イギリスの小説家。風景画家ウィリ ラクーザとケルキラに植民市が建設されたが、 の中南部の低木林や耕地にすむ鳥で、「ポプ、 ている。 〈池田加代子〉 アム・コリンズの長男。少年時プルワー・リッ 前六五七年ごろキプセロスがバッキス氏族を倒 せんしゅ トンに、い酔し、小説『アントニーナ』を書く。 して僭主となった。キプセロス家三代の支配下 ホワイト」と、この鳥の英名にあるとおりの声コリングウッド Robin George Colling- で鳴く。全長約二〇、全体に褐色の羽色をし wood ( 一公九ー一九四三 ) イギリスの哲学者、歴一八五一年弁護士資格を獲得。同年デイケンズで、陶器の生産や植民市の建設を中心に繁栄の ており、顔やのどの白色部分と上胸部の黒紋と史家。オックスフォード大学教授。『ローマを知り、彼の雑誌に寄稿、この親交を通じて互頂点に達したが、前五八〇年ごろ僭主政は崩壊 ちみつ がよく目だっ。雌は顔やのどが黄色つばい。地 ン・。フリテン』 ( 一九三六 ) の研究では歴史家とし いに影響を受ける。コリンズの小説は緻密な筋して穏和寡頭政になった。前六世紀後半にペロ 上を歩きながら昆虫や植物の種子をとって食べても一流であるが、彼の本領は哲学にあり、哲立てに優れ、『白衣の女』 ( 天六 0 ) は圧倒的な世ポネソス同盟に加盟したが、アテネとも友好を る。季節的移動はあまりせず、冬には一〇 ~ 一 学と歴史とを関連づける歴史哲学にその核心を評を得た。目の痛風に悩まされ、そのため体験維持し、前四八〇 ~ 前四七九年のベルシア戦争 なぞ 五羽ぐらいの群れで暮らしている。繁殖は一雄置いた。それは「すべて歴史とは思想の歴史でしたアヘン常用癖が『月長石』 ( 一会 0 の謎解ではベルシア軍と戦った。ベルシア戦争後アテ 一雌のつがいで行い、地上に皿形の浅い巣をつある」という命題に集約される。そして『哲学きの鍵に生かされている。↓月長石〈佐野晃〉 ネとの関係が悪化し、それが前四三一年のペロ ナいじじよう ばつばっ コリント Lovis Corinth ( 天夭 くり、一〇 ~ 一五個の卵を産む。狩猟鳥として的方法論』 ( 一九三三 ) 、『形而上学研究』 ( 一九四 0 ) 、 ポネソス戦争勃発の大きな伏線になったが、前 よく知られる。 〈樋口広芳〉 『自然の観念』 ( 一九四五刊 ) 、『歴史の観念』 ( 一九四六 ) ドイツの画家。東プロイセンのタピアウで生ま四世紀初めのコリント戦争では、逆にアテネと などの著述によって、歴史的観点から構想されれる。ケーニヒスペルク ( 現力 コリンエステラーセ cholinesterase コリンエステルを加水分解する酵素で、次式のる一大哲学体系を求めたが、業なかばに終わっ リーニングラード ) で教育を受 反応を触媒する。 た。だがその願いは、今後の哲学思考にもろも け、その後ミュンヘンとアン・ヘ (CH3)3N + ()H し 20COR ろの課題を残したといえよう。 〈神川正彦〉ルスで絵画を修業する。一、 ーー↓ (CH3)3N + (CH)20H + RCOOH 回小松茂夫・三浦修訳『歴史の観念』 ( 一九七 0 ・ 四 ~ 八七年バリのアカデミー アセチルコリンエステラーゼ ( 酵素番号 EC 紀伊國屋書店 ) ▽近藤重明訳『芸術の原理』 ジュリアンでアドルフ・プグロ 3 , 1 , 1 , 7 ) はがメチル基のアセチルコリンに ( 一九七三・勁草書房 ) ▽平林康之・大沼忠弘訳 ーに学んだ。八〇 ~ 九〇年ミュ 特異的に作用するもので、脳、神経組織、赤血 『自然の観念』 ( 一九七四・みすず書房 ) ▽玉井ンヘン、以後は主としてベルリ 球に広く存在する重要な酵素である。電気ウナ 治訳『思索への旅ーー自伝』 ( 一久一・未来社 ) ンで活躍。ドイツ印象主義を代 ギの電気器官から精製された酵素は、分子量約五厘沢温泉ごりんざわおんせん北海道南西表する画家の一人で、ベルリン えき一し あっさぶ 一一六万、四量体よりなる糖タンパク質で、等電部、檜山支庁江差町にある温泉。厚沢部川河口分離派同盟の有力メンバーであ に近く、日本海に面す。慶喜温泉ともいうが、 ったが、晩年には表現主義的な 点は四・五 ~ 五・〇。活性中、いにセリンを含 む。神経毒である一群の有機リン酸化合物によ これは湯守福原某の亡父の戒名によったとか、激しさが加わっている。代表作 よしのぶ は司ミュンヘンのアトリエから って阻害され、これらは殺虫剤、農薬として用将軍徳川慶喜から拝領の松にちなむとかいう。 いられる。工セリン、ネオスチグミンも特異的泉質は炭酸アルカリ泉。国鉄江差線江差駅からの眺め』 ( カールスルーエ芸術 阻害剤として知られる。アセチルコリンエステ ハスの便がある。 〈瀬川秀良〉ホール ) 。また、出生地には彼 おとべ 囮二万五千分の一地形図「乙部」 の美術館がある。オランダのザ ンクト・ポールトで没した。 コリンズ John Anthony Collins ( 一六七六 〈野村太郎〉 ー一七一一九 ) イギリスの理神論者、自由思想家。 ロヤ ギケンプリッジ大学に学ぶ。晩年のロックと親交コリント K6rinthos 古代 画 を結び、彼の遺産管理人の一人となる。彼は、 ギリシア、ペロポネソス半島北 レ 、レあらゆる主題、とりわけ宗教について理性によ東端にあったドリス人のポリス る自由な吟味と探究の必要性を強調する。認識 ( 都市国家 ) 。わが国ではコリン がいぜん 能力の分類ではロックを踏襲し、蓋然的知識に トと呼び習わされるが、正しく 属する信仰においても自然本性である理性に反はコリントスという。英語名は ン ナ ひせぎ することはできないとし、この点で秘蹟や奇跡コリンス Corinth0 ミケーネ コ シ などを退ける。自由な思考と宗教的寛容の立場時代にはイオニア人が居住した ひやま かぎ コリント紀元前 44 年 , カエサルに再建された町の遺跡。レカイオンとの間を結ふレカイオン 道路と , 後方はアクロコリントの丘。突き当たりがアゴラで , 付近にバシリカや商店があった 619 ン第

10. 日本大百科全書 9

こせは 〈高山茂〉あげられ、外側の政治的圧力に左右される状況 れたものである。 褒状を受け、また一〇年の日英博覧会に際して五節会ごせちえ正月に行われる元日節会・ もとざね とうかのせちえ あおうまのせち - ス イギリスへ渡り、「日本古代より現代に至る風白馬節会 ( 七日 ) ・踏歌節会 ( 一六日 ) の三節コセック Franqois Joseph Gossec ( 一七となり、藤原氏の嫡流は基実の長子基通 ( 近 とよのあかりのせちえ たんごのせちえ 三四ー一全九 ) フランスの作曲家。ベルギーに生衛 ) と、蒹実 ( 九条 ) の二流に分かれた。その 俗変遷図」のジオラマを制作して名誉賞状を受会に、端午節会 ( 五月五日 ) と豊明節会 ( 一 みちいえ たっ 後、兼実の孫道家は朝幕の間に勢威を振るい まれ、一七五一年パリに移り指揮者を務めた。 けた。後年、明治時代を回顧した歴史風俗画を一月の辰の日 ) を加えて、五節会という。 よしざね さわっわ のりざわ 多く描いた。 〈小倉忠夫〉五節舞ごせちのまい宮廷儀礼に用いる楽舞七〇年にはオーケストラを編成、公開演奏会を教実 ( 九条 ) 、良実 ( 二条 ) 、実経 ( 一条 ) と相 てんむ よしのの の一つ。女舞。伝説によると、天武天皇が吉野始める一方、劇音楽、交響曲、室内楽曲などを次いで摂関となった。ついで摂政となった近衛 五姓田義松ごせだよしまっ ( 天五五ー一九一五 ) かわっわししもとひら てんによ そで 一は・つめ・ゅ・つ みや 宮で弾琴のとき、天女が出現して袖を五度翻し多数作曲。フランス革命が起こると、これに共兼経は嗣子基平が幼少であったので上表して弟 洋画家。初世五姓田芳柳の次男として江戸に たかっかィ一 かわひら しようむ 生まれる。幕末父とともに横浜に移り、ワーグて舞ったのが始まりという。初見は聖武天皇の鳴する祝典劇、吹奏楽曲、祝典的合唱曲、大衆兼平 ( 鷹司 ) に摂政を譲り、以後はこれら五 ごせちのたまい てんびよう マンに洋画を習って神童と称せられた。東京で天平一四年 ( 七四一 l) に「五節田舞」とみえ、そ歌などを作曲、そのうち吹奏楽曲『帝国の守家によって摂政・関白は回り持ちとなる。五摂 ・」うけん 家の確定した時期は、兼平が摂政となった一二 り』はナポレオン時代に公式行進曲として用い 画塾を開くが、一八七六年 ( 明治九 ) 工部美術の翌年には阿倍内親王 ( 後の孝謙天皇 ) が自ら リ音楽院の設立に努め、九五年には五二年 ( 建長四 ) 一〇月とされる。〈橋本政宣〉 学校に入りフォンタネージに学ぶ。翌年退学五節舞を舞ったという古い記録もある。東大寺られた。パ だいぶつかいげんくよう こせと中世から近世初頭までの瀬 し、八〇年渡仏してレオン・ポンナに師事、サ大仏開眼供養 ( 七五一 l) にも久米舞などの楽舞と 視学官に就任、また一〇年以上にわたり同音楽古瀬戸 〈美山良夫〉戸焼の製品を俗に「古瀬戸」と称している。瀬 ロンに入選。滞欧作に『人形の着物』『操芝居』ともに五節舞が舞われており、もうすこし時代院の作曲の教授も務めた。 がある。八八年帰国、翌年明治美術会の結成に が下ると五節舞と田舞とは分離したが、五節舞五節供ごせ。く一月七日の七草、三月三日戸焼は鎌倉時代を迎えた一三世紀に入って、愛 さなげよう たなばた 」・」くま、つじよっ じゅじゅっ 参加する。父芳柳とアメリカに旅行するが、帰はもともとは五穀豊穣を祈願する農耕呪術的の雛祭、五月五日の午、七月七日の七夕、九知県の猿投窯の延長上に発展して開窯した窯で ちょうよう 国後は健康が優れず、第一回文展 ( 一九 0 七 ) に出な田舞に発するといわれている。それが雅楽寮月九日の重陽の五つの節供をいう。これらのあり、瀬戸盆地一帯に古窯址が密集している。 せちにち 〈小倉忠夫〉 しすれも中国伝来の要素がみられる。一輸入された中国陶磁の模倣を基本にして、中世 品のほか晩年は不遇であった。 に組み込まれ教習されるようになって様式が整節日は ~ せゅう にあっては唯一の施釉した高級器皿を焼く窯と 、宮中の式楽として大月七日は中国で人日という。これは東方朔の占 11 嘗会や新嘗会において書に、正月一日に鶏を占い、二日には狗を占して焼造活動を行い、全国に製品を販売した。 んいゅ・つ 釉は灰釉を基調とし、鉄を加えた黒褐釉を一四 三日には羊を占い、四日には猪を占い 重要な位置を占めるよう なか になった。一一月中の丑五日には牛を占い、六日には馬を占い、七日に世紀初頭に開発した。↓瀬戸焼〈矢部良明〉 ちょうだいこころみとら の日には帳台の試、寅は人を占うとあることによったという。三月一一一回井上喜久男著『名宝日本の美術肥古瀬戸と み じようし ごぜん 小学館 ) 古備前』 ( 一九ハ一・ 日は上巳といい、本来は三月初めの巳の日で、 の日には御前の試という 新第三紀中新世 舞姫天覧の儀があり、卯五月五日の端午も五月初めの午の日であった 古瀬戸内海こせとないかい 以降、現在の瀬戸内海地域には、ほば東西に伸 が、のちにそれそれ三日、五日と固定されるよ の日の童女御覧の儀 ( こ たっ 内の夜が新嘗会 ) の翌日辰うになった。七夕は七月七日であり、九月九日びる細長い低地があり、この低地に沿って進入 とよのあかりのせちえ の日が豊明節会となの重陽は九が陽数でありそれが重なるからであしていた海のこと。海の進入は、海成層の存在 によって、二回知られている。一つは中新世中 紀って、大歌所の大歌にあった。日本におけるこの五つの節供は、文献に 本 よるとかならずしも固定したものではなかった期であり、もう一つは第四紀になってからであ わせ五節舞が舞われた。 たいせき る。最初の時期の堆積物を第一瀬戸内層群、次 蚣初めから女舞とは限ってようである。宮廷を中心とした年中行事では、 いなかったようである五節供の日が宴を催す日であっても、節日としの時期のそれを第二瀬戸内層群とよぶ。後者は が、平安時代には明白にて祝われたかは上代においてはかならすしも明前者を顕著な不整合で覆っている。〈伊藤谷生〉 〈大藤時彦〉巨勢派こせは平安時代前期から室町時代 女舞となっており、舞姫白ではない かなおか せっしよう ほっけ ないきようまう 、つ は内教坊に所属してい 五摂家ごせ。け藤原北家の主流で、摂政、後期まで続いた画家の家系。巨勢金岡 ( 九世紀 ぶぎ 後半 ) を始祖とし、日本において最古かつもっ 第てる舞妓ではなく、貴族諸関白となる五家。五つの摂関家の意。摂関家は このえもとみち ずりよう とも長く存続した画系。『大乗院寺社雑事記』 一、、っ氏、受領などの子女が選すでに平氏政権のもとで近衛基通が摂政に推さ かねざね ぶんめい の文明四年 ( 一四七一 l) 一二月二三日の条に載る 任されて、これにあたつれ、ついで鎌倉幕府によって九条兼実が摂政に 「巨勢氏系図」にその家系の大要が記されてい 窈た。その人数も大嘗会に えどころ ん人 る。平安時代には宮廷絵所の絵師として、世俗 は五人、新嘗会には四人 大 五摂家 / 略系図 やまと 画、とくに大和絵の発展に重要な役割を果たし 一のと定まっていた。室町時 た。日本絵画の和様化は、金岡によって初めて 歌代にはすでに衰微してい おうみ 進められた。その継承者である相覧 ( 相見とも た五節舞は、一四六六年 書く。系図には欠 ) は一〇世紀初めに、紀貫之 会 ( 文正一 ) 以降廃絶に至 節 の同時代人として活動した。さらに次世代にあ り、一七五三年 ( 宝暦 明 きみただきみもち たる公忠と公望 ( 公茂とも書く ) 兄弟の活動 三 ) に再興されたが、現 は、一〇世紀なかばに新しい画風がおこったこ 舞在伝わるものは大正天皇 とを推測させる。一一世紀初め、藤原文化の全 五即位のおり新たに復活さ い鸞 ′ 1 だい ひな もとざねもとみち いえざわ 悪通基実ー基通ー家実兼経 ( 近魲 かねひら 兼平を 実ー良経ー道飃応を よしざね さねつわ たみ・つ じんじっ きのつらゆき 329