いたが、十国の君主も五代の皇帝と対等である という意識をもっていた。それは、彼らが武人 として実力で政権を樹立したことによってい - 一うそう た。五代十国の皇帝や君主は、黄巣の乱 ( ハ七五 会四 ) をはじめとする唐末の争乱において群 盗、兵士、土豪などから身をおこし、武功によ って立身し、節度使となったのち、その地位を 確立したものである。 〔皇帝の出自〕五代の皇帝の場合、後梁の太祖 朱全忠は没落儒者の子であり、黄巣の部将とし ぎようめい て驍名を馳せたのち唐朝に投降して節度使と り、一くよう せきけいとう 国の なり、後唐の太祖李克用、後晋の高祖石敬珊、 韓内 さだとつけっ りゅうちえん 後漢の高祖劉知遠らはいずれも沙陀突厥族出身 山寺 台精巧 の軍兵であり、戦功によって皇帝の信任を得て 五月高 節度使となったものである。十国の君主の場 合、前蜀の王建は忠武軍節度使の軍規取締り将 五台山ごだいさん / オデサン大韓民国、江原て、五台山は清王朝の手厚い保護を受け、ラマ 道、太白山脈中にある山。標高一五六三。南教の色彩がきわめて濃厚になった。一九世紀後校から唐朝の皇帝親衛軍の神策禁車将校とな 漢江の発源地であり、奇岩奇石が多く、山勢が半に五台山を訪れたイギリス人宣教師ギルモアり、永平軍節度使へと昇進した。楚の馬殷は本 秀麗で国立公園に指定された。この山にある月 James Gilmour は、モンゴル人の熱烈なラマ 工職人から流賊となり、部下に擁立されて武安 しんら 精寺は新羅時代に慈蔵律師によって創建され、教信仰のありさまを伝えている。〈佐藤智水〉軍節度使となった。荊南の高季興は富商李七郎 ーくどう 朝鮮仏教三十一本山の一つとして朝鮮仏教の修回小野勝年・日比野丈夫著『五臺山』 ( 一九四一一・ の僮 ( 子供の召使い ) であったところを朱全 練道場であるとともに、多くの参拝客、観光客 座右宝刊行会 ) 忠にみいだされて側近に仕え、荊南節度使へ累 りゅうちよくりゅうげん ばんりようきよしゅう こだいさんき地質時代の時代区分進した。南漢の劉陟 ( 劉襲 ) は蛮の巨酋 が絶えない。月精寺境内には国宝の八角九層石古第三紀 の一つで、新生代の第三紀を五分したときの前 の子孫であり、広州に拠って静海軍節度使を継 塔がある。高山植物と薬草が多い。〈朴聖雨〉 五台山ごだいさん / ゥータイシャン中国、山半の、暁新世、始新世、漸新世の三つをあわせ承した。閊の王潮は光州固始県の県令であった おうしんち 西省北東部にある三〇〇〇前後の五峰 ( 五た時代の総称。およそ六五〇〇万年前から二四が、弟王審知と黄巣の乱兵に身を投じ、泉州に 台 ) をもっ仏教の聖山。初め神仙道の徒によっ〇〇万年前までの時代をいう。気候は比較的温拠って威武軍節度使に任用された。呉越の銭 りゅう一一う きようかく て開かれ、五世紀後半に北魏の孝文帝によって暖で、石灰質岩石に富む、ヒマラヤーアルプス鏐は杭州臨安県石鏡郷の侠客より郷村自衛団 の副将となり、杭州八県の自衛団である杭州八 仏光寺、清涼寺などの寺院が開基されたと伝えなど世界の大山脈が地向斜期から造山期へと転 もんじゅばさっ られる。このころから五台山は文殊菩薩の住む化した時期にあたる。生物地理区の分化はまだ都の部隊長から累進して鎮海軍節度使となっ た。呉の楊行密は孤児であったが、盧州と寿州 なく、生物は汎世界的に分布するものが多い 清涼山と信じられ、長く文殊信仰の中心となっ わいなん 王つけ た。隋・唐時代には法華、禅、華厳、天台、浄現生の生物と共通する種はきわめて少ない。植の自衛団の隊長となり、盧州刺史から淮南節度 土、密教などの高僧が続々と入山し、唐代中期物界では、中生代白亜紀に繁栄し始めた被子植使へ昇進した。南唐の徐温は呉の楊行密の元 じゅう には五台山仏教のピークを迎えた。とりわけ、物の発展が目だっ。海生の底生大形有孔虫のヌ従 ( 譜代の家来 ) として活躍し、楊行密の死 代宗の世に長安の不空三蔵は、朝廷の援助を背ムライト Nummulites の繁栄した時代で、ヌ後に実権を握り、養子徐知誥の代に南唐を樹立 〈山口寿之〉したものである。以上のように、五代十国の時 景に南台に金閣寺を建立 ( 七六七 ) 、五台山を鎮護ムライト紀ともいう。↓第三紀 こたいし 0 古詩 代は実力ある武人出身の節度使が群雄割拠し、 国家密教の奥の院と位置づけた。こうして文殊古体詩 ごだいじっこく中国で、九〇七年領国内の州県から郷村末端に及ぶまで武人を用 菩薩の住地五台山の名は、中国だけでなく朝五代十国 から九六〇年に至る約五〇年間に興亡した国、 いて支配体制を形成しており、武人政治の時代 鮮、日本、中央アジア、チベット、インドにま ちゅうげん で伝わり、各地から巡礼者が訪れた。日本からおよびその時代をいう。黄河流域の中原の地であったのである。この時代は政治的分立、社 - : つりし、つ・ : っレ」 - っ ちょうねん - 」うしんこうかんこうしゅう げんばうれいせんえんにんそう に後梁、後唐、後晋、後漢、後周の五王朝が会的混乱の様相を呈してはいたが、政治や文化 も唐代に玄昉、霊仙、円仁、宋代には奝然、 じようじん さんけい などの面で新しい気運が醸成されていた。 相次いで興亡し、中原の地以外には前蜀、後 成尋らが参詣した。五台山の繁栄は八四五年 ごえつけいなん びんそ かいしよう 〔政治・経済〕五代十国の諸国は、政治権力の の会昌の廃仏にあっていったん荒廃するが、蜀、呉、南唐、呉越、荊南 ( 南平 ) 、閊、楚、 維持および領国の安定を確立するため、富国強 じその後各王朝の保護を受けて復興し、元朝のフ岐、燕、南漢、北漢など一〇余国が分立してい しん > ビライのときからラマ教が入った。さらに清朝た。中原の五王朝を五代といい、他の諸国を十兵、殖産興業などの政策を実践していた。前蜀 しせん マンジュ たでは太祖ヌルハチが「曼殊師利皇帝」とよばれ国と称し、両者を五代十国とよんでいる。五代および後蜀の絹織物を中心とした四川の産業復 ーんい の皇帝は唐王朝の正統な後継者の地位を保って興や西南蛮夷との貿易、楚国の茶業振興による 」るなど早くから文殊信仰との結び付きがあっ 五代十国了韓熙載夜宴図』 韓熙載は南唐の学者 , 政治家。文芸 を愛好した南唐第 3 代の後主李煜が 顧闔中に , 韓熙載の夜宴のようすを 描かせた。後世に数多く模写された が , 図は北宋末に模写された最古の もの。北京故宮博物院 345
こふん 観音山古墳と埴輪・副葬品など ①覦音山古墳群馬県高崎市綿貫町にあ る 7 世紀初頭の前方後円墳。全長 97 後円部径 61 m , 前方部幅 64m , 高さは後 円部 9.4m , 前方部 9. lm , 墳丘は 2 段築 成で , 後円部は横穴式石室があり , 玄室 ( 長さ 8.17m ) の規模は毛野地方最大であ る。上野国群馬郡地方を支配した豪族の 墳墓とみられ , 優美な埴輪 , 百済武寧王 どうはん 陵出土鏡と同笵の獸帯鏡など多彩な副葬 品で知られる ②石室後円部の西側に加工した角藺石 安山岩を側壁に積んだ横穴式石室がある。 全長 12.6m, 玄室長 8.17 玄室奥壁寄 りの棺座相当部分には角閃石安山岩の小 円礫を敷き , 天井は砂岩の自然石 6 枚で 覆っている。写真は , 玄室内部から羨道 部入口を見たもの ぶねいおう ③④埴輪墳丘表面に葺石はなく , 墳頂部と中段平坦部に円 筒埴輪と人物・動物・器材・家型埴輪が樹立されていた。写 真は , 後円部に並べられていた祭祀集団の人物埴輪。③あぐ らを組み合掌する男子 ( 高さ 110Cm ) および@際具を捧げ持ち 坐る女子 ( 高さ 102cm ) ③④とも群馬県教育委員会 ⑤ ~ ⑨副葬品横穴石室から発見された 異形のものである。全高 29.0cm , 鉢部高 豊富な副葬品は , ほほ・埋葬時の状態をと さ 16.5cm ⑧金銅製鈴付大帯 20 個 ( 現存 15 個 ) の どめていた。上毛野の豪族にふさわしい , 豪華な金銅製品などが大量に納められて 鈴をほば等間隔に吊るす。長さ 1 0 5c 叫 帯幅 9.4cm , 鈴の径 2.85 ⑤獣帯鏡百済武寧王陵出土例と同笵鏡。 ⑨金銅水瓶古墳出土の水瓶としては珍 径 23.35 しい例である。文様はないが格調高い優 ⑥金銀装大刀四点出土したうち一点。 全高 31 .35 。以上副葬品はすべて重 ロロ 0 長さ 1 155 文文化庁 ⑦鉄製冑古墳発見例としては初めての 505
こだいじ 丹覇月 1 ・東平郡 五代十国 / 興亡表 創建者地位 赤字 : 五代青字 : 十国 940 950 960 970 五代十国 ■幽州 鎮川 唐・ ・西京太原 、鳳翔 大安府 興元府、 ( 西安 ) 後梁 / 成都府苅蜀 ( 彳 唐 ) 呉越 / ・建川 980 930 900 920 9 1 0 ′夏 丹 契 ( 907 、 916 第 ) 選と : す ) 913 ー 釥北漢劉 : : 石嘛遠 : 951 , 後唐 : 後晋 : : 後周宋埠い : 胤 923 後漢 : 951 960 ー 93 94 延州・ 979 劉守光幽州節度使 李克Ⅲ 河東節度使 後唐 イ川丿 注州宣武節度使後梁ミ 未全忠 李茂貞鳳翔節度使 岐 F. 建永平軍節度使 首行蜀 石季興刺南節度使 荊南 鎮海軍節度使呉越 : 銭鏐 馬殷武安軍節度使楚 淮南節度使 F. 審知威武軍節度使問 劉襲 静海軍節度使南漢 9 的 封府 河南府 ( 洛陽 ) 江、揚川 ) 蕃 7 923 90 / 朗川 924 彳蜀希知祥 : 901 荊南 ( 平 ) 、 詳柯・ 洪川 府 ー 925 907 934 南平唐によ卩南十以こ封せら : る 桂川 州 963 907 925 南詔 97 & 907 梧川 封川 興王府 ( 広 吉氏建い III 927 : 956 南漢 南 南唐 : は界 ) : 93 た 楊行密 0 975 : 951 : 902 交州 945 909 : 917 欽陵透視図 南唐初代の李界の陵。江蘇省江寧県にあり , 同地にある 2 代李璟の順陵とあわせて南唐二 陵とよはれ , 副葬品なども含め , 南唐芸術の 精華が集中されている ~ 棺座 後室 断面図 ム 0 0 ロ 21 .48m 特産化や南海舶載品の仲継貿易、閊、呉越、 6 呉、南唐、南海など臨海諸国の海産資源の開発 3 と海上貿易などは、諸国の国力充実に大きく寄 与していた。このような諸国の産業および貿易 の振興は、諸国間における交通を活発にし、修 好関係の維持と安定をもたらすこととなり、ま た商人の活躍も盛んであった。 政治面においては軍事と財政とが重視され、 そのために枢密使や三司使などの新しい官職が 創置された。軍事においては中央に強力な精兵 軍団が編成され、とくに五代王朝による禁軍の そう 拡充、整備は宋代の禁軍の母体となった。また 行政組織にも、地域性に立脚し、現状対応に有 効な方策がとられ、「軍」とよばれる新しい行 政単位がおこってきたのである。 〔文化・生活〕文化面においては、製紙や印刷 などの技術的発達によって経書、仏典、詩文な どの書籍の刊行が盛んであり、民間俗謡を取り 入れたロ語体の韻文もっくられ民間で愛好され ちょうすうそ た。趙崇祚の『花間集』は最初の詞集である。 じよき こうせん 絵画ではの黄筌や南唐の徐熙に代表される花 ーし・につ とうげん 鳥画、後梁の荊浩や南唐の董源らの山水画が発 びわ 達した。教坊を設置した南唐では歌舞琵琶が普 げいしようういのきよく 及し、唐の玄宗の霓裳羽衣曲が復興されて 宋・元戯曲の先駆となった。また前蜀王建墓や 南唐二陵などの遺跡、遺物によると、絵画、 ちょうそ 彫塑、窯業、服飾、習慣などの文化的特色が 唐から宋への過渡的要素を明示している。以上 のように五代十国の文化には、中央と地方との 較差が縮まり、庶民文化の発達をみることがで きる。 ところで、武人政治のもとでの庶民の生活は 過酷なものであった。当時の民衆は、田を基 準に課税された両税や、付加税である沿徴など の税負担以外にも、武人の不法な私的課税や商 人、富農らの高利貸付に苦しんでいた。とくに 沿徴は過重な税負担であった。沿徴には、武具 用牛皮の代価にあたる牛皮銭、鉄器具の製造・ 販売の自由化の代償である農器銭、酒と塩の自 きよう きく ・、ーしゅ 由化の代償である麹銭 ( 椎酒銭 ) や塩銭、橋 りトっ 梁保全のための橋道銭などがあった。また発 展していた都市の住民に対しても屋税や地税が 新たに課税された。当時の民衆は、武人による かれんちゅうきゅう 苛斂誅求の苦しみによく耐えて生活していた 〈畑地正憲〉 のである。 回周藤吉之・中嶋敏著『中国の歴史 5 五代・ 宋』 ( 一九七四・講談社 )
、宮内庁が治定している天皇・皇后陵のほとんどが前方けた形態であるという考え方もある。奈良県明日香村中尾山鮖 ん抑制を受け、帆立貝形古墳の築造にかえざるをえなかったと至る じとう てんむ 墳であり、古墳時代研究の重要な年代推移の物差しとな古墳、天武・持統天皇合葬陵古墳、群馬県吉井町神保一本杉 、かいう理解がなされている。日本最大の帆立貝形古墳は奈良県後〔〔〕 きたかつらぎ おとめやま 一」北葛城郡渺町の乙女山古墳で、全長一三〇、高さ一五 古墳などが知られているにすぎない 、東国最大例は群馬県太田市女体山古墳で、全長一〇六 罰方後円墳の墳丘の立地、形態の特徴、内部構造と副葬品 〔地下式横穴墓〕以上は墳丘をもっ古墳の形態であるが、例 、高さ七で周堀をもっている。 変化、埴輪配列の特色など、古墳に関する重要項目を比較外的な取り扱い方をしている古墳がある。その一は、地下式 〔方墳〕方墳は平面形が四角形かやや長方形を呈する墳丘を検討 して、前方後円墳の変化を明確にして、古墳編年が行わ横穴墓あるいは地下式古墳とよばれているものである。台地 有し、長方墳の存在も知られるようになってきた。一九三〇れる 。前方後円墳には四世紀中ごろから、くびれ部から外側上の平坦地に竪坑を掘り、その底面からさらに横に向かって すえじ よせむね 年代のころは、梅原末治による全国の方墳集成は三二基のみ 大出する「造り出し」がみられる。造り出し部の意味につ掘り進めて墓室を設けるものである。墓室の天井は、寄棟 まいちょう きりづま であったが、一九八〇年 ( 昭和五五 ) 段階では全国で二〇〇 ては、なお不明確な点があるが、陪冢や陪葬の出現時期造、切妻造に模してつくり、宮崎・鹿児島県下に多くみられ かしはらますやま 〇基を超える数に達している。奈良県橿原市桝山古墳は、一とも 合致し、前方後円墳の墳丘外における葬送儀礼の場、古る。五世紀以後、古墳時代全期にわたって営まれた可能性が 辺八五、高さ一五の日本最大の方墳である。東国では千墳祭祀の執行の場として、この地点が重要な意味をもってい 濃い いんばさかえ 葉県印旛郡栄町岩屋古墳は、一辺八〇、高さ一一一・四のたと 考えられる。 〔横穴墓〕横穴あるいは横穴墓とよばれ、ときには横穴古墳 周堀をもつ大型方墳である。方墳には四、五世紀型と六、七 則方後方墳〕前方後方墳は方形の主丘に長方形の前方部が とよばれる。凝灰岩や砂岩のような比較的軟質の岩石ででき 世紀型とがあり、前者の古墳は墳丘の一辺の方向が東西南北 付設されたもので、後方部が正方形のもののほかに、やや長ている丘陵・台地の斜面に掘り込まれた墓も、古墳としては に適合しない場合が多く、後期古墳例では各辺の方向は比較方形 を呈する例がある。前方部の変化は前方後円墳のそれと例外のものである。墳丘をまったく伴わず古墳の概念から外 せんどう 的方角と整合する例が多い。 軌を一にしている。前方後方墳は前方後円墳に比して、そのれるが、その内部構造は横穴式石室の構造に似て、羨道・玄 〔上円下方墳〕方墳との関係から特異な形態として注目され数が きわめて少なく、現在までに全国で約一一〇 0 基が発見さ室をもち前庭部を設ける場合もある。横穴墓は地域色が濃厚 るものに上円下方墳がある。墳丘の下段が方形で上段に円墳れているにすぎない 。しかも前方後方墳は、四世紀代から五 に表れ、高い棺台を設けたり、内部を家屋の天井のように表 やましなてんじ がのった形を示すが、類例が少ない。京都市山科区天智天皇世紀代にかけて築造された例がもっとも多く、六世紀以降の現する例など複雑な様相を示している。 陵古墳、東大阪市山畑一一号墳、奈良県桜井市カラト古墳、埼後期古墳に属する例は比較的少ない。前方後方墳の分布は、 横穴墓は横穴式石室の築造時期と並行しているが、なかに あすか 玉県熊谷市宮塚古墳例などが知られている。奈良県明日香村東北地方では宮城・山形両県から、西日本では北部九州の福 は火葬骨を納めた例もあった。古墳時代後期から奈良時代ま いしぶたい 石舞台古墳も横穴式石室が露出しているが、上円下方墳であ岡・長崎両県に及んでいる。宮内庁が天皇陵と治定した古墳で利用される場合もあった。横穴墓は一地域に数十基、とき った疑いがもたれている。 のなかには、前方後方墳は一基も含まれてはおらず、奈良県には数百基と群集して営まれており、六、七世紀を中心とし しんやま かめづか 〔前方後円墳〕前方後円墳は日本独特の墳形といわれ、江尸広陵町新山古墳と石川県鹿島町亀塚古墳のような陵墓参考地 た地域社会の共同墓地の性格を表現している。 がもうくんべい 時代に蒲生君平が『山陵志』 ( 天只刊 ) のなかで「前方後円」 とした二古墳例があるにすぎない。規模の点では奈良県天理〔古墳の編年〕古墳は、墳形の違いのほかに、石室、石棺、 の語を用い、以後この名がついた。円形の主丘と、その一方市西山古墳が最大例で全長一八〇である。 木棺などの内部構造と、鏡や武器、武具、馬具、装身具、土 すえ に方形の壇状部がついたものであり、前方後円墳は古墳時代〔双方中円墳〕前方後円墳の主軸上の反対側にも、前方部状師器、須恵器など多くの副葬品の形式変化と組合せの変化と いわせおやま の始まりとともに出現し、近畿地方では七世紀初頭ごろまでの突出部が付設された特異な古墳で、香川県高松市石清尾山 によって、時間的な移り変わりを分析して築造時期を決定 くしやま には消滅し、東日本の各地では七世紀中ごろまで築造されて古墳群の猫塚古墳や奈良県天理市櫛山古墳例がある。 し、編年の大系を整える。古墳は、前・中・後期という三期 いた。前方後円墳の築造が中止されてからのちは、七世紀終〔双方中方墳〕双方中方墳とよばれる例も、類例はきわめて区分を採用する場合は、前期が四世紀代、中期が五世紀代、 末ごろまで、東国では八世紀初頭ごろまでは、方墳や円墳が 少なく、前方後方墳の主軸上の反対側にも前方部状の壇状部後期が六、七世紀代という年代観が与えられてきた。これに あのうあけあい がつけられたものである。三重県安濃町明合古墳が唯一の例対し、三世紀末ごろから七世紀代に至る詳細な古墳の変化を 築造され続けていった。 である。 前方後円墳は全国的な視点からみると、西暦一一六〇 ~ 二八 追い求めるために、より細かな年代観を物差しとする方法も 〔双円墳〕二基の円墳が連結した形のもので、前円後円墳と用いられている。古墳を前・後の二期にわけ、前期を四小 〇年ごろには西日本に出現し、東日本では六五〇年ごろまで には築造されなくなったと考えられる。これは、大和政権のもいうべきものである。双円墳はわが国独特のものではな期、後期を三小期の計七小期に区分する方法である。以下は けいしゅ、フ ひょう むしろ朝鮮半島においては慶州地方に多くみられ、瓢この七小期区分に基づいて記す。 政治的支配力の各地への浸透の強弱度とも、おそらく関係し わりたけ 前—期の内部構造には割竹形木棺や組合せ式木棺を包んだ ていることと思われる。したがって時代の推移とともに刻々形墳とよばれている。日本ではきわめてまれな例であるが、 かなんかなやま ねんど 主体に横穴式石室・家形石棺をもつ大阪府河南町金山古竪穴式石室が顕著だが、前Ⅱ期の四世紀後半代には、粘土 と変化していく前方後円墳の特徴は、近畿地方のみならず全内部 知られている。 槨、木炭槨をはじめ割竹形石棺や舟形石棺が出現する。多量 国各地の前方後円墳の変化にも着実に表れる。このような前墳が 角墳〕比較的最近になって問題とされるようになった。 に副葬された鏡も、中国からの舶載鏡だけに限られた前—期 方後円墳は、畿内地方を中核に成立した大和政権の歴代の大 」」の平面形が八角形を呈し、中国の建造物の影響を強く受に比べて、前Ⅱ期には佐製鏡が登場する。前Ⅲ期には前方後 王が好んで採用した墳形であった。三世紀後半から七世紀に きない によたいさん ねこづか カく じ たて ま、っせい じんば
五胡十六国 五胡の原住地 匚コ鮮卑の国 [ コ匈奴の国 匚こ」羯の国 羌の国 匚コ氏の国 ロ漢人の国 ー 4 世紀末の前秦 と東晋の国境 国名は成立時 の位置を示す びんてい ちゅうげん て、『古語拾遺』は後人による命名。伊弉諾・ 三一六年には長安を落として愍帝を捕らえ、西る北魏が前者を中原から駆逐して強大化し、諸国はおおむね短命に終わらざるをえなかっ いぎなみ しん 伊弉冉の二神の国生みと、神々の誕生神話から晋を滅ばした。その後は、南方に東晋があり、 四三九年には華北統一に成功、五胡十六国時代た。その弱点のいちおうの解決は、部族解散を 筆をおこし、七五七年 ( 天平宝字一 ) の時代ま華北には五胡諸国の争覇という状況が続くが、 に幕を下ろす。以後は、東晋にかわって四二〇断行した北魏をまたねばならなかった。 そう 五胡の諸国は漢人統治の必要上、漢人豪族を でのことが記述されており、斎部氏の氏族伝承五胡の争覇の過程では東西に二大勢力が対立す年江南に成立していた宋と北魏が対峙する南北 ぜんちょう 地方官や将軍に任じてその秩序維持能力を利用 をはじめ、記紀に並ぶ古代史の貴重な文献である傾向がみられる。すなわち、前趙 ( 漢の改朝時代に入る。 せきろく る。 〈佐伯有清〉称 ) に対しては、もと劉淵の武将であった石勒〔五胡時代の背景〕十六国以外にも、短命の西する一方、積極的に知識人を登用した。後趙の じよう - 」く せきろく ちょうひん 回安田尚道・秋本吉徳校註『古語拾遺・高橋氏の建てた後趙が襄国に都を置いて対抗し、勝燕、魏や北魏の前身である代の諸国があり、さ石勒の設けた君子営は著名であって名臣張賓 ぎようよ ていれいてき 文』 ( 一九七六・現代思潮社・新撰日本古典文庫 ) ち残った後趙が内部崩壊したあとは、郊に拠るらには丁零の瞿氏などの小政権がみられ、このを出し、前秦の制覇には漢人名宰相王猛の寄与 ばよう ぜんえん ぜんしんたいじ 五胡十六国ごこじゅうろ。こく四世紀から慕容氏の前燕と、長安に拠る前秦が対峙し、五時代は政治的分裂を第一の特色とする。しかし が大きい。なお、五胡諸国においては、征服地 ふけん 五世紀初めの中国北部に興亡した国家群、なら胡第一の名君と評される苻堅統治下で前秦が前 五胡の活動のみがそれを引き起こしたのではな域の人民や兵士を国都の周辺に移 ( 徙 ) して自 きようどけっ ぜんりよう こうきん しみん びにその時代名。五胡とは匈奴、羯 ( 匈奴の別燕を倒し、ついで代、前涼二国をも滅ばして 黄巾の乱から三国分立と、二世紀末よりすらの支配を固める徙民政策が多くとられている きよう せん せいいき 種 ) 、氏 ( チベット種 ) 、羌 ( チベット種 ) 、鮮三七六年に華北統一に成功、西域にも勢力を広でに分裂の様相は深く、それは豪族勢力の伸張ことにも留意する必要がある。 卑 ( トルコ種説が強い ) をさすが、一六国中に げる。しかし中国統一を賭けた東晋遠征に三八 という中国社会内部の変化と深い関係をもって 五胡の諸君主は一般に仏教に深い関心を示し ひすい ぶっとちょう は漢人の国も含まれる。 三年瀧水で敗れると、前秦支配下の各種族は一 いた。その背景のなかで直接に五胡の蜂起を触た。後趙が仏図澄に対したような高僧のもっ神 りゅうえん しゅうらん 〔五胡時代の大勢〕匈奴の劉淵が漢王を称し、斉に独立に向かい、四〇〇年の時点で九国が分発したのが八王の乱による晋の中央政府の弱体異的能力の利用、あるいは人心の収攬を図っ はばん りゅう 巴蛮 ( 氏の一種 ) の李雄が成都王を称し、三〇立するという極度の分裂状態を現出した。その化であり、しかも八王らは異民族の武力を導入たのであるが、その結果仏教の盛行を招いた。 とんこうせつくっ 四年、五胡十六国時代が始まる。漢は三一一年うち中心となったのは前燕の系譜を引く後燕と して互いに争ったのである。 敦煌の石窟の開かれたのは前秦統治時期におい えいか に洛陽を陥落させて懐帝を捕らえ ( 永嘉の乱 ) 、長安に拠る後秦であったが、旧代国の後身であ また五胡諸族は、多く漢以降の中国の対外発てであった。君主の尊崇を受けた僧としては、 くまらじゅう 展の結果として中国の支配下に取り込まれた存ほかに前秦の道安、後秦の鳩摩羅什が名高く、 ごかん 在である。一世紀に後漢に下って長城南辺に置とくに後者の訳経事業は貴重である。 かれた南匈奴は、三世紀には山西省全域に分布 五胡時代は政治的分裂を特色とするが、胡族 かんしゆく し、西方の氏や羌も後漢の討伐を受け甘粛やという新要素を含み、隋・唐へつながる第一歩 せんせい 陜西に移されていた。しかも南匈奴にみられるを記した時代として評価すべきであろう。↓魏 〈窪添慶文〉 ように漢人に圧迫され隷属的地位に落とされて晋南北朝 いた。蜂起はそのような状況における自立性回ココシュカ Oskar K0koschka ( 天 復の試みであった。 一九含 ) オーストリアの画家、劇作家。三月一 このように中国社会の内部的、対外的発展の 日ペヒラルンに生まれ、ウィーン工芸学校に学 招いた矛盾が五胡時代を生んだといえよう。 んだ。一九〇八年ごろからアール・ヌーポーの 〔胡族による支配〕この時代における特色の第影響を脱して表現主義の傾向に向かう。一〇年 あらし 二は、胡族による漢族支配の成立にある。支配・ヘルリンの「シュトウルム ( 嵐 ) 」のサークル 種族を中心とする非漢族 ( 胡族 ) が、遊牧時代 に加わり、「絵筆の占師」の異名をとった独特 の部族制を維持しつつ組織され、国軍の主要構の心理的肖像画によって注目される。第一次世 人成員として胡族による支配の中核を形成する。界大戦に従軍して戦傷を受け、一九年ドレスデ 漢国軍を分掌するのは多く宗室の一員である諸王ン美術学校教授、二四 ~ 三一年中近東、北アフ である。一方、漢族に対しては多くの場合、 リカ、ヨーロッパ各地を旅行して、広大な視野 秦・漢以来の郡県制を適用し、官僚を媒介とすをもっバロック的な風景画を描く。三七年ナチ 氏 る統治を行った。漢族と胡族と形態を異にするスによって作品を没収され、三八年ロンドンに 二重支配体制が実施されたわけであり、その全亡命。同地でギリシア神話をモチーフとする作 羌体を統治したのが皇帝もしくは天王であった 品を描いて、戦争とナチスへの抗議を行った。 ( 王や公の称号にとどまった国もある ) 。なお胡肖像、風景、神話のほかに幻想的な絵も描いて かいちょう いるが、鮮やかな色彩の諧調を特色とし、思 族を統治する称号として前・後趙などでは大単 于があったが、前燕では帝号をとるとともに廃想的な内容を盛った石版画の連作も試みてい されるなどその存否は一定せず、かっそれへのる。四六年ウィーン名誉市民となり、五三年以 . 奴 匈就任者が皇太子など次期皇帝候補者であること降はスイスのレマン湖畔のモントルーに住み、 〈野村太郎〉 八〇年二月二二日同地に没した。 にみられるように、皇帝号の下位に置かれてい 劇作家としては表現主義演劇の先駆者の一人 た。ところで、以上の体制は、国軍を分掌する 鮮 諸王の内部抗争によって動揺しやすく、五胡ので、一九〇七年執筆の『スフィンクスとでくの らくよう 城 . 竜 ⑩北魏を 平 酋沫酒北潺 張腋 後趙 臧姑新ー第 南涼・ 平 雲崗・ ・薊 ・中山 ・襄国 西燕 龍門 統万 ・広固 ー、南燕 酉第 上邦・ 麦積前秦 蒲聞 平涼 康 いざなぎ 成 王朝交替表 300 350 400 315 386 376 北魏 397 4 0 ・北涼 397 04 40 も西涼 414 後涼 4 3 407 43 4 9 夏 43 40 西秦 94 軽代 439 421 386 317 376 則冫京 304 385 ・漢 ( リ趙 ) 51 51 粤←則秦 350 352 384 384 ・「秦 4 394 409 彳当 398 南 417 後趙 337 436 0 370 ゴロし 384 き 304 347 317 。 = 、成 420 告 を ほくぎ 一は・つキ一 ぜん ずい
こふん 古墳 さきたたなみ ①佐紀盾列古墳群 ( 主として前方後円墳 ) 奈 良盆地北部の佐紀丘陵南斜面の東西 3km , 南 北 1 .5km の範囲に約 50 基の古墳群が点在する。 西群 ( 写真下方 ) には手前より成務陵古墳 , ひばすひめ 日葉酢鍰陵古墳が並び , その後ろ ( 写真の外 ) には踴皇后陵古墳がある。東群 ( 写真上方 ) にはコナベ古墳 , ウワナベ古墳が並び , その後 ろに磐之媛陵古墳がある。また , 平城宮北端 ( 写真中央右端 ) に位置する平城陵古墳 ( 市庭 古墳 ) はかって最大の円墳と考えられていた が , 復原全長 250 m の大型前方後円墳の前方 部が平城宮造営のために破壊されたことが近 年確認された。以上 7 基はいすれも全長 200 m 以上の大型前方後円墳であり , 陵墓・陵墓 参考地に指定されている。ほかに全長 1 0 0 m 前後の前方後円墳・円墳が数基ある。西群は 4 世紀後半 ~ 5 世紀前半ころ , 東群は 5 世紀 中第後半ころ奈良市山陵町 , 歌姫町 , 法 華寺町 , 佐紀町 ②入第茁古墳 ( 円墳 ) 愛知県下最大の円墳で 径 82 , 高さ 1 2 の墳頂は平坦である。都市 公園として整備されている。北東 4 圓の地 にあった一本松古墳 ( 円墳 , 径 36m ) は消滅し た。 5 世紀中葉ごろ名古屋市昭和区山脇町 ー ) のひめ おとめやま 504 紀末ころ石川県加賀市勅使町 穴の多いことで知られる。 6 世紀前半 ~ 7 世 営まれている。構造の多様性と整った大型横 基以上の横穴墓が 10 グループほどに分かれて ⑨法皇山横穴群 ( 横穴墓 ) 凝灰岩質地盤に 80 はうおうざん ろ奈良県天理市杣之内 そまのうら 円墳を重ねた形となっている。 4 世紀後半こ 最下段が前方後方墳 , その上に 2 段の前方後 最大の規模をもつ。全長 180 , 3 段築成で ⑧西山古墳 ( 前方後方墳 ) 同形古墳のなかで 半 ~ 5 世紀初頭ころ奈良県天理市柳本町 ている。全長 76 m , 中円部径 48 m 。 4 世紀後 部に短い方形部 ( 後方部 ) を加えた形になっ ⑦櫛山古墳 ( 双方中円墳 ) 前方後円墳の後円 市新庄下 第 4 位となる。 5 世紀前半 ~ 中葉ころ岡山 だけで比較すれば , 畿内大王陵古墳に伍して m , 高さ 24m 。周堀は認められす , 墳丘の規模 に由来する。罟備地方最大の古墳で , 全長 350 を切り盛りして築造したもので , 名称もこれ ⑥造山古墳 ( 前方後円墳 ) 独立丘陵の先端部 っ ( やま 大阪府堺市大仙町 前方部石室は 5 世紀末 ~ 6 世紀初頭の築造 の長さでは日本一の超大型古墳。全長 486 mo ている。百舌鳥古墳群の盟主的存在で , 墳丘 ⑤大山古墳 ( 前方後円墳 ) 仁徳陵に指定され 葉県印旛郡栄町竜角寺 基の横穴式石室がある。 7 世紀中葉ころ千 れる。一辺約 80m で 3 段築成の墳丘南側に 2 ④岩屋古墳 ( 方墳 ) 竜角等岩屋古墳ともよば 良県北葛城郡河合町 墳の半数以上の 7 基がある。 5 世紀ころ奈 古墳群には , 奈良県下に分布する帆立貝形古 中にある。全長 1 3 0 m , 後円部径 94 m 。馬見 端 , 馬見丘陵の東斜面に分布する馬見古墳群 うまみ ③乙女山古墳 ( 帆立貝形古墳 ) 奈良盆地の西
はくぎよく 籍にみえている。さらにまた『柏玉和歌集』 堺の有力商人に糸割符仲間をつくらせたが、 コカシラアプ〔小頭虻〕 spider-parasite 河川にすみ、夏は灯火によく集まる。 そうし コガシラミズムシ科 Haliplidae は、世界各『後柏原院御百首部類』という歌集も伝存して 一六三一年 ( 寛永八 ) 江戸、大坂の商人も加 flies, small-headed flies 昆虫綱双翅目短角 〈村田正志〉 え、五か所商人とよばれた。↓糸割符↓糸割亜目ア。フ群コガシラア。フ科 Acroceridae の総地に分布し、約二〇〇種が知られている。日本 ゆいしよがき 符由緒書 称。この科は頭部は球形で小さく、胸部に対し産は約一〇種で、ヒメコガシラミズムシ属や五ケ瀬 ( 町 ) ごかせ ( ちょう ) 宮崎県北西部、 こしうすき 五ヶ所湾ごかしょわん三重県中南部、志摩て著しく下方につき、胸部は大きく、背方に著募の種が大部分を占める。水中の水草や石西臼杵郡にある町。西は熊本県に接する。一九 くらおか 一んしょ こうふん の下にすむが近年は少なくなった。〈中根猛彦〉五六年 ( 昭和三一 ) 三ヶ所村、鞍岡村が合併し 半島の基部近くにある湾。熊野灘に向かって開しく膨出している。ロ吻は小さいものと、よく ごかしわばらてんのう ( 一四六四ー一五て町制施行。五ケ瀬川の源流部にあたり、町名 き、奥行八・四キ。、湾ロの幅二・五キロ。隣接す発達して体長よりも長いものがある。はねは小 後柏原天皇 る英虞湾とともに沈降によって生じた典型的な さく、横脈はほとんどない。はねの基部後方に 一一六 ) 第一〇四代天皇 ( 在位一五 00 ~ = 六 ) 。名は勝は川名にちなむ。九州山地内にあり、五ケ瀬川 そよう あし ごっちみかど リアス式海岸地形である。湾の周辺は英虞湾に は胸弁がよく発達していて袋状となる。脚は細仁。後土御門天皇の第一皇子。母は贈内大臣庭は蘇陽峡などの深い峡谷をなす。国道二一、 のべおか きゅうしゅん じよくばん たながかたむすめ 比べて急峻で、侵食の進んだ標高一五〇 ~ 一一 く、末端には一対の褥盤のほかに、中央褥盤田長賢の女朝子。一五〇〇年 ( 明応九 ) 父天皇号、一一六五号が通る。近世は延岡藩領。山村で 五〇の山地が迫り、入り組んだ支湾の奥に五が発達する。腹部は太く、紡錘形またはほとん死去の後を受けて位についたのであるが、当時あるが、林産物のほかに、タバコ、クリ、茶な しゆく たそ おうか おうにん ヶ所浦、宿浦、田曽浦、相賀浦、礫浦などの浦ど球形に近い種類もある。成虫は春に花に集ま は応仁の乱後の朝廷衰徴の極にあり、即位の大どの栽培も盛んである。中心地は五ケ瀬川沿い らん 村がある。南に開いた湾形のためやや波が荒い り蜜を吸うが、幼虫は寄生性で、クモやその卵 礼を行うことができず、二一年後の一五二一年の鞍岡と三ヶ所川沿いの三ヶ所に分かれ、両者 まみはら のう いかだ が、真珠、ハマチなどの養殖筏が水面を埋め、嚢につく 〈伊藤修四郎〉 ( 大永一 ) 三月になって、大坂本願寺僧光兼のは熊本県蘇陽町の中心地馬見原を経由して結ば なす はん 宿田曽漁港は古くから遠洋漁業の基地として知コガシラウンカ〔小頭白蝦虫〕昆虫綱半献金により、これを挙行するをえた。大永六年れている。なお鞍岡は、源氏の那須大八郎が平 られる。湾周辺ではミカンを産する。伊勢志摩翅目同翅亜目コガシラウンカ科 Achilidae の四月七日没。深草北陵に葬る。なお、後柏原天氏の残党を討っために椎に入る際この地まで へんべい 国立公園区域に属し、近年は観光地化が進み、昆虫の総称。体はやや扁平で細長く、頭部はや皇は応仁の乱後、朝儀の復興に努めたことは著馬できて鞍を置いて歩いたという伝説があり、 ぎおん そう 別荘地、ヨットハー 、民宿、キャンプ場なや狭い。はねは膜質で、前翅の爪状部脈は先端聞するところでもあり、また『後柏原院御記』鞍置が鞍岡になったという。祇園山 ( 一三 0 七 ) は古生代化石産出で知られる。県の無形民俗文 ども多い 〈伊藤達雄〉まで達し、この点でほかのウンカ類 ( ハゴロモと称する日記が伝存し、今日は伝わらないが あらおど おゅどののうえのにつき 囮二万五千分の一地形図「五ヶ所浦」「相賀浦」上科 ) と区別される。日本には約一〇種が知ら『御湯殿上日記』を自ら記したことなども史化財に荒踊がある。人口五八〇九。〈横山淳一〉 もろっか 五万分の一地形図「三田井」「諸塚山」「高 れており、体長 ( 翅端 ケど代太物にが 森」「鞍岡」 まで ) が一〇ミリ前後の 三な時 , 鳴束手の , 社国鐘の装りも こがせいり ( 一七五 0 ー天一七 ) 江戸 やや大形の種を含む。 古賀精里 旬神戦 , ど者踊な かんえん 下と登。ちな武た壮 スジコガシラウンカ 中期の儒者。寛延三年一〇月二〇日生まれ。佐 月亠中るも貝 , っ勇 ・一くどう まくあざなじゅんぶう R ぎ、、ミやナ 町 9 , れ ? 螺に持る賀藩の人。穀堂の父。名は樸、字は淳風、別 瀬。社わ源は法奏をす ワコガシラウンカ R 、 . ゲ踊神行起 , 伴器舞号は復原。京都に遊学して福井斎、西依成斎 びとうじしゅうらいしゅんすい 五荒所でに鼓を武乱 に入門、また大坂で尾藤二洲、頼春水と親交、 ミミはスギに寄生 内 : 浦 朱子学を尊崇するようになった。帰郷後、藩政 湾「津するといわれ、灯火に ・一うどう に参与し、藩校 ( 弘道館 ) の創設とその教授に る町も飛来する。越冬態を せ勢 もあたった。一七九一年 ( 寛政三 ) 藩侯に従っ はじめとして、生活史 み南 しようへい・う をる はまだよくわかってい 形あ 一て江戸に出、藩臣として初めて昌平黌で経学 〈林正美〉 一を講じ、さらに幕府の儒官として林祭酒、光野 岸部 栗山、尾藤一一洲らと学政を振興し、栗山、一一洲 錬コガシラミスム とともに「寛政の三博士」と称された。一 沈 6 シ〔小頭水虫〕 一年 ( 文化八 ) には祭酒とともに聯で朝鮮の 激落 ~ 、 s 昆虫綱甲虫目コガ の集 シラミズムシ科に属す 入央 出中る水生昆虫。日本各地 丿写に分布し、おもに平地 にみられる。体長三 ~ 部盛 三・七 : リ。短い卵形で 南が の殖黄色く光沢があり、前 島養 半の胸後方の両側に黒いく ばみがあり、上ばねは 志マ 湾各一〇行の黒い点刻が 所珠 ある。触角は細く短 ケ真 / 、、肢、も田、。 池沼や ) かい なだ イ一ら 一阜耋 ) みつ あし たいえい 古賀精里画像東京国立国会図書館 101
ぎよううんもんほうげん くられたものとみられている。成立年代は平安 〈宇田敏彦〉片仮名や万葉仮名で書かれるのが例であった 大戦後、家の制度の廃止とともに廃止された。仰、雲門、法眼をいう。 そうりよ 時代の初期であり、おそらく僧侶の学問研究の ↓家↓家族制度 〈高橋康之〉梧州ごしゅう / ゥーチョウ中国南部、広西が、近年では平仮名で書かれることも多い りつりよう じん - 」う 〈近藤泰弘〉 五十音図は、原理としては、それぞれの仮名世界で生まれたものであろう。 〔令制の戸主〕律令制下の編戸制に伴い採用チワン族自治区東端の市。潯江と桂江の合流点 よ しゅ された戸籍制の用語。「へぬし」とも訓む。戸 に位置する。珠江水系の水上交通の要地であの発音のうち、子音要素の共通するものを行回大矢透著『音図及手習詞歌考』 ( 一九天・大日 本図書 / 復刻版・一九六九・勉誠社 ) ▽山田孝 の代表者で家長を戸主とした。律令国家は、儒り、商業都市として発達した。現在は造船、機 、母音要素の共通するものを段にまとめたも 雄著『五十音図の歴史』 ( 一九三八・宝文館 ) ▽ 教的家族観による家父長制を中心に人民支配を械、製紙、電子、化学、紡織、光学器機などの のである。したがって、本来は五〇の異なった まつやに 橋本進吉著『国語音韻の研究』 ( 一九五 0 ・岩波 行った。これまで地方豪族の村落支配に全体と工業が立地し、また竹細工、木製家具、松脂な発音を示しているべきであるが、現在では同音 カントン 書店 ) ▽馬淵和夫著『日本韻学史の研究』 して編成された人々は、制度上は戸主を中心と どの特色ある工業もある。広東料理に欠かせな となって区別のないものも多く ( イとヰなど ) 、 ひょうせい ( 一九六三・日本学術振興会 ) する郷戸に編成され、郷戸単位に、班田収授 いへビの養殖場が有名。市内には名泉氷井や音節の一覧表としては不十分なものとなってい そようちょう かた なんえっちょうだ かぎんゅうえん 肩関節周囲炎に相当す 制、租庸調収奪を受けることになった。戸主南越王趙陀が剣を埋めたと伝えられる火山タ焔る。また、古くさかのばっても、ヤ行のイ、ワ五十肩ごじゅうかた 〈青木千枝子〉 は、国家に対し、籍帳作成の責任、戸口の納などの名勝がある。 行のウなどは、ア行のものと別の音韻として存るものをさし、肩関節の周囲組織の老人性変化 とう しかし、日を基盤とした病変によっておこる。中老の人に ごしゅういわかしゅう院政期在したことは確かめられていない。 税、賦役の責任をもった。しかし、唐の尊長後拾遺和歌集 ちよくせん 制、家長制がどこまで日本律令制に継受された に成った第四番目の勅撰和歌集。本来『後拾本語における各種の音韻変化や、活用形にみら多いところから五十肩とか四十肩とよばれる。 けんしよう みちとしせん か問題であり、共同体首長を軸とする日本古代遺和歌抄』といった。藤原通俊撰、一一〇巻、一れる音韻交替 ( あめーあまがさ、書かない、書関節周囲の変化としては腱炎、腱鞘炎、腱板損 傷、滑液包炎、関節包炎などがある。急性に発 社会の構造のなかで戸主制はなじまなかった側二一八首。院政期初頭の王政復古政策の一環と きます等 ) を説明する表としてきわめて便利な しらかわ 面が指摘されている。 〈野田嶺志〉 して、白河天皇により企図され、一〇七五年ものであり、現在でもャ行・ワ行を改編した形症するものと慢性に症状が増悪するものがある とうつう くろうどのとう が、主症状は肩関節の疼痛と運動制限である。 ( 承保一 l) 命が下ったが、通俊が蔵人頭の激務で学校教育を中心として広く用いられている。 ゴーシュ Ajoy Kumar Ghosh ( 一九 0 九ー 上肢を動かすと肩関節の疼痛が強く、また夜 六 (l) インドの政治家。インド共産党の書記長 にあったため、九年後ようやく着手、一〇八六 さらに、仮名をすべて含んでいて体系的で記憶 ( 一九五一 間に疼痛のため睡眠が妨げられることもある。 ~ 六 (I)O カーンプル市の医師の家に生まれ年 ( 応徳三 ) 春、草稿本の成立をみた。そのしやすいことから、辞典・名簿などで語の配列 すおうのないし はくのやすすけおう つねのぶ 運動制限の程度はいろいろであるが、上肢を挙 る。二六年アラハ ード大学に入学。二九年反後、周防内侍、伯 ( 康資王 ) 母、源経信などの基準 ( 五十音順 ) として用いられている。 せそんじこれふさ 英テロリズム運動で、指導者のバガット・シン 現存する最古の五十音図は、醍醐寺蔵の『孔上できず、また上腕が回らない ( 外旋、内旋が の内覧を経る一方、名筆世尊寺伊房に清書を依 じゃく らとともに逮捕、翌三〇年釈放。カーンプル市頼したが、不都合があって結局これを撰者の手雀経音義』 ( 平安時代末期写 ) に付記されたもできない ) ので頭髪がとかせないとか、手が後 いえほん の労働運動に参加し、ふたたび投獄されるなか元にとどめ ( 家本 ) 、撰者の甥、隆源法師が奏のである。これは行も段も現行の順序とは異なろに回らないので帯が結べない、ズボンの後ろ のポケットに手が入らないなど、日常動作がで で三三年に共産党員に転ずる。同年の党再建会覧本を書いた。この過程で歌界の第一人者源経り「キコカケク」から始まっている。このよう 議後中央委員、三六年政治局員となる。インド 信との間に取り交わされた『後拾遺問答』 ( 逸 、古い時代のものは配列の順序が一定せず、きなくなる。ほとんど上肢が挙上できなくなる こともある。このように運動障圭口が強いことか 独立後の五一年には、四八年以降の極左路線を文を『袋草紙』に収める ) により、撰入歌を切現在の形に一定したのは南北朝時代以降のこと しったん 批判し書記長に就任。インドの民族民主革命のり出したり修正を加えたが、経信は飽き足りである。なお、現在の順序は明らかに悉曇章ら、凍結肩 frozen shoulder ともよばれる。 症状が初めは軽く、だんだんと重くなって連 路線を自主的に確立する努力を払った。ネル ず、『難後拾遺』を著し、これが勅撰集論難書 ( サンスクリットの字母表 ) に基づくものであ 政権が非資本主義的発展の道を歩んでいるとすの嚆矢となる。通俊は論難を重くみて奏覧本をるが、五十音図の起源自体は、むしろ日本語の動制限が高度になっても、その後は徐々に症状 わいろ 多くは六か月、遅くとも一年 るソ連の学者ルビンスティンの論文への批判で再訂した ( 再奏本 ) 。撰歌に賄賂を認めたとの音韻表あるいは漢字音の反切の便宜のためにつが軽快してい 以内に症状は消失する。両側の肩関節に同時に 〈佐藤宏〉風評から『小鰺集』と異名がつくなど芳しくな 知られている。 五十音図 くることはほとんどないが、 ~ 冶ってから他側の ゴーシュ 0 オーロビンド い世評が伝わる ( 袋草紙 ) 。しかし『古来風躰 しよう いちじよう せつこう 肩関節に発生することがある。 抄』が評価するように、 一条朝以来の勅撰集 こしゅう / フーチョウ中国、浙江省北 湖 アイウェオ 治療としては保存的療法が行われる。すなわ 部の市。人口約九二万。杭嘉湖平原の中心都市空白期に累積した名歌は多く、とりわけ、和泉 せのたいふ けいしゅう 寺一がみ カキクケコ ち、局所の温熱がよく、鎮痛消炎剤の内服や局 で、絹織物工業が盛んである。徳清、長興、安式部、相模、赤染衛門、伊勢大輔などの閨秀 みん 所麻酔剤などの注射が疼痛を除くために行われ 吉の三県を管轄する。明代後半から周囲の農村歌人、能因法師とその先達、後輩の顔ぶれも多 サシスセソ る。疼痛の強くない程度に肩関節の自働連動を での養蚕業の興隆に支えられ、製糸、絹織物業彩で、詠風、歌題意識も三代集と一線を画し、 タチッテト することが必要で、家庭では入浴と上肢の体操 が発展した。一九四九年呉興県を中心に市が設冷えさびた純粋叙景や四季、恋題意の細分化な を十分に行うようにする。予防にも、上肢の連 〈後藤祥子〉 けられ、六二年廃止されたが、七九年ふたたびど中世和歌の萌芽をみうる。 ナニヌネノ 動を日ごろからよく行っておくことがよいと考 〈林和生〉回藤本一恵著『後拾遺和歌集全訳注』全四冊 設置された。↓呉興 ヒフへホ えられ、また上肢の無理な急激な動作をしない ( 講談社学術文庫 ) ▽上野理著『後拾遺集前 ごしゅう仏教で、大乗仏教の五宗派 五宗 〈永井隆〉 よ , つに、いがけることである 後』 ( 一九七六・笠間書院 ) をいうが、時代によってどれをとるかは一定し マミムメモ ゴジュウカラ〔五十雀〕 nuthatch 広義 ない。古くは奈良時代以来の南都六宗のうち華五十音図ごじゅうおんず五〇字の仮名を、 くしゃ じようじっ ごん さんろん はっそう ャイユ工ョ には鳥綱スズメ目ゴジュウカラ科に属する鳥の 縦に五字ずつ一〇行に並べた下のような図表。 、フ厳宗、三論宗、法相宗、倶舎宗、成実宗をい 総称で、狭義にはそのうちの一種をさす。種と 古くは「五音」「五音五位之次第」などとも ゅ - い、平安時代には華厳宗、法相宗、三論宗、律 リルレロ してのゴジュウカラ S ミミ、、、きは全長一 3 じ宗、天台宗をいった。また中国における禅宗のよばれた。また、縦の五字を「行」といい、横 そうとう りんぎい ワヰウヱヲ 四弩の小形の鳥。背面は灰青色、腹面は白、下 2 」五つの流派 ( 五家 ) をさし、臨済、曹洞、譌の一〇字を「段 ( または列 ) 」という。古くは おい ′一らいふ ) ってい はんせつ
さいたま てんま 礎として本県の南部に勢力和一 ) 末、県域を中心に中山道沿いに起こった伝馬騒動 ( 武硎 じよう を張ったのが太田氏で、岩上騒動 ) は、中山道の交通量増大を理由に幕府が課した増 いっき すけ′一う 槻、河 ( 川 ) 越などの城が築助郷に反対する農民の一揆で、参加者二〇万といわれ、江戸 かれた。 期最大の広域闘争であった。↓伝馬騒動 ただ また、幕府は鋭意治水・開発に努め、関東郡代伊奈氏の忠 戦国時代に至り、本県の地 ′一まうじよう びぜん つぐただはるただかっ 荒川の流路変更、備前 は上杉、後北条、武田諸氏次、忠治、忠克三代によって利根川、 要り の角逐の場となり、深谷、河用水や葛西用水の開削などが行われ、県の東部低地一帯は ・よしむね 越、岩槻などの城を挟んで攻新しい水田地帯に一変した。八代将軍吉宗が紀州からよんだ みめま いぎわやそべえ 防が行われたが、大部分は後井沢弥惣兵衛は、見沼、その他の池沼を干拓し、これにかわ かん力い 北条氏の治下に置かれた。そる、利根川水系最大の見沼代用水を完成し、灌漑に利用する のぶつな とよとみ の後、豊臣秀吉の小田原征伐ほか、水運も開いた。武蔵野台地は、川越藩主松平信綱によ よしやす さんとめ のびどめ により、後北条氏は滅び、かる野火止新田や同柳沢吉保による三富新田開発によって、開 しんがし わって徳川氏が関東に入国拓が進められた。また信綱は、新河岸川の舟運も開いた。こ し、本県の地もその支配下に の江戸前期から中期の開発で、県内全体では約三六〇の新田 置かれた。 村落が増加し、農業生産力は著しく発展した。 〔近世〕徳川氏は各枢要の地〔近・現代〕一八六七年 ( 慶応三 ) 江戸幕府の大政奉還があ ふだい に譜代の家臣を配置し、そのり、地方制度に関しては、府藩県三治制が採用された。本県 後、徳川氏の覇権が確立する域では、県内に本拠を有していた忍、川越、岩槻藩と、本拠 ひとつばし や、これらを整理して、忍、 をもたない前橋ほか一三藩と一橋家領がそのまま置かれると あげ 川越、岩槻、岡部の四小藩をともに、旧幕府蔵入地および、旗本知行地、寺社領などが上 置き、他を直轄領とし、旗本知されて、新しく大宮県 ( 後、浦和県 ) ほか五県 ( 岩鼻県・ ちぎよう にらやま かっ . しか こすげ 知行地以外には、郡代や代官韮山県・葛飾県・小菅県・品川県 ) となった。さらに、一 七一年 ( 明治四 ) 七月の廃藩置県によって藩が県に変わった を置いて支配した。 本県の地は、江戸に近接すが、上記の県が依然としてそのまま置かれたので、同年一一 る地域であり、また幕府の交月になってそれらの諸県を整理統合して、埼玉・入間の両県 いんば 通政策により、県内を通過すを設定するとともに、印旛県 ( 後の千葉県の一部 ) を含ませ なかせんどう る中山道、奥州街道、日光御た。その後、一八七三年入間県は群馬県とあわせて熊谷県と なり 成街道などが整備され、そのなったが、七六年に分離して埼玉県に合併され、ほば現在の 沿線には多くの宿駅が置か県域が確定した。新政が行われ、八三年には初めていまの高 れ、交通、輸送量の増加に伴崎線が開通したが、翌八四年には秩父事件が起こった。明治 ってそれらは非常に繁栄し時代は水害が激しかったが、しだいに河川改修が行われ農産 た。かくて、川越、忍、岩槻の豊かな近郊県となった。 画にには色み。で . の線西に茶進る取 一九二二年 ( 大正一一 ) 川越に本県最初の市制施行があ などの城下町および宿場町 影造東陵げがか採 撮構の丘焦化わ岩尹 り、三三年 ( 昭和八 ) に熊谷、Ⅱ 丿口が、県庁所在地の浦和が は、地方農村の経済的中心と 子地や。市が灰 ッ王山地る都布石 なり、農村における商品生産市制施行したのは三四年である。一九五三年 ( 昭和二八 ) の こサ八父台えは分は 秩の見部の色る ていた町 を刺激した。特産物として有「町村合併促進法」の公布によって、明治以来続い ン紅と部に南地白あ ~ 第 - 【イ ラ贏野西色 , 街ので 星間平。緑で市山肌 名な川越ィモ、狭山茶、秩父村が大幅に変化し、町村の合併が大々的に行われ、それ以前 たび 衛約東るくどの甲山ッ杯 測度関れ多ない武 の八市、三一五町村が、合併の結果一八市、三九町、五二村 絹、行田足袋、岩槻人形、 いもの 観高 , さが物沿のし 分木建道父出 となった。さらに五六年の「新市町村建設促進法」の公布に ロ鋳物、小川和紙などは、こ 地像よニ樹は鉄秩露 より、五九年四月までに二三市、三三町、三九村と大きく変 のころにその基礎を確立した ものである。一七六四年 ( 明わった。その後は首都圏における人口増によって新市が続々 いしずえ
う。両眼、額、後頭の囲む部分である。 脈で、基部から始まり五条以内に分岐する。 厚した脈をいう。 昆虫 / 主要用語解説 とうぶ head 体の前端部で、胸部と明 きよう prothorax 第一の胸節で、前脚頭部 ロ器 * こうき mouth 消化管の前部開口で、上前胸 を : っ力し しようさい しんだいさい しは、この囲みの中における関連を示す。 らかに区別され、頭蓋に覆われ分節は明らかで を備えるがはねはない。普通、背板、腹板、側 唇、大腮、ト腮、下唇と付属肢に囲まれる。 に本項目があることを示す。 ないが、七原節が融合したものといわれる。 きよう metathorax 第三の胸節で、後板が区別される。双翅類短角群などでは縮小し 後胸 背管 dorsal vessel 体内の背部中央を 脚 ( 肢 ) あし leg 胸部三節に各一対つく付属脚と後翅を備える。背板、腹板、側板が区別さ中胸と癒着して明らかでない。 じゅんばん 肢。体下面の基節窩に基節で関節し、転節、腿れ、背板はさらに前楯板、楯板、小楯板に んばん praescutum 胸節の背板のも走る管で、心臓に相当する。 前楯板 せつけいせつふせつ 節、脛節、附節 ( 一 ~ 五節に分かれる ) があ側板は前側板、後側板に分けられることがある。 っとも前の区分をいう。 翅はね wing 普通、二対あり、中胸と後胸 り、先端に普通、一対のつめがっき、ときに 消化管の後部で、 消化管の前部で咽の両側につく。上下の二層の膜からなり、間に 後腸 ちょう prOCtodaeum ちょう stomodaeum しみやく そうかんばん こうもん そのう は、つめの間に爪間板がある。 幽門部、小腸、大腸、直腸および肛門が含ま頭、食道に続き、拡大した哢嚢があり、終わり網状か放射状に走る翅脈がある。 びかく cercus 第一〇腹節 ( 腹部末端 ) 亜前縁脈 んみやは subcosta はねの前縁の直れ、前端部に数対のマルピーギ管がつく。 の前胃の後部は中腸に入り噴門弁をつくる。 尾角 つはいし 後を平行して走る脈で、通常分岐しない。 の付属肢で通常一対あり、細長く節がある。鱗 後胚子発生 はっせい postembryonic devel- 月日一とう ふか 囲蛹 いよう pupa coarctata 幼虫の外皮が硬 opment 卵から孵化したのちの成長をいう。 前蛹 prepupa 完全変態をする昆虫の翅類などの幼虫の尾端にある突起 caudal horn さなぎ なギ一 化し、そのまま蛹を保護する殻になっているも交尾器 phallus 雄の挿入器 ( 中片、陰幼虫が蛹になる前に摂食をやめ、体が太く短くをいうこともある。 の。イエバエなどにみられる。 茎 ) とその基部の陰体 ( 基片、しばしば一対のなった時期をいう。 尾脚 2 い caudal leg 幼虫の尾端にある肉 一対のつめの間に質の脚をいう。 縁紋 pterostigma はねの前縁の先端寄側片を伴う ) をいう。 爪間板 んば pulvillus びし尾脚 尾肢 りにある不透明な紋をいう。トンボ、チャタテ蛹 * さなぎ pupa 完全変態をする昆虫で、幼ある柔らかい突出物。 びせつ 腹部の最後部の露出した背板。 ムシ、シリアゲムシ、ハチなどにみられる。 虫と成虫の間の休止時期。 尾節板 印板 pleuron 胸節の背板と腹板の間に ばん しば 1 レば硬一化し、大 . キ、い 外部生殖器師せい external genitalia 交翅鞘煢 elytron 甲虫などの肥厚した前翅。ある両側の骨板をいう。 びもう「・ 尾角 尾および産卵に関与する器官。雄では交尾器と上翅ともいう。 哢嚢そのう crop 前腸の一部で袋状に膨れ、尾毛 把握器、雌では産卵管がこれにあたる。 しすい jugal lobe はねの内後方の葉片食物を一時蓄える。前腸 被蛹ひょう obtecta pupa はね、触角、脚 翅垂 さなぎ おお かしん などが体表に固着した蛹で、チョウなどの高等 mandible 大あごともいう。第一 下因頃 ロ日一と、つ かいん hypopharynx 下唇の上面に部をいう。とくに後翅によく発達する。 大腮だ小 めんし ある感覚器を伴う構造。味覚に関与する。 な鱗翅類にみられる。 楯板 scutum 中胸と後胸の背板の中のあごで、噛む昆虫では頑丈である。 とうじゅん 額カく frons 頭蓋の会合線と頭楯の間の部央部を占める骨板。 きやく abdominal leg 昆虫は腹部に真 腿節 femur 脚の一部で転節に続き、腹脚 あし けいせつ の脚がないが、カマアシムシは前三節に退化し 分。通常、複眼間にあり頭の前面に位置する。 末端に脛節がつく。普通もっとも太い。脚 消化器 かきう alimentary canal 口から肛卩 . こんせき いんとう かしん labium 頭部下面にあり口部の だっぴ moulting 成長にしたがい昆虫た脚があり、シミ、ナガコムシでは痕跡があ 下唇 に至る管状の器官で、前腸 ( 咽頭、食道、哢脱皮 りんし る。鱗翅類、シリアゲムシ、 バチの幼虫の腹 下床を形成し、後方から亜基節、基節、舌がある。嚢、前胃 ) 、中腸 ( 胃 ) 、後腸 ( 小腸、大腸、直が外皮 ( クチクラ ) を脱ぎ新皮を形成すること。 かしん labial palpus 下脣枝ともい 腸 ) の区分がある。 ししよく polyembryony 一卵から部にある肉質の脚 proleg は二次的なもので分 多胚生殖第いせ 下唇鬚しゅ しよう facet 複眼を構成するレンズ状二以上多数の胚、さらに成虫が生じる現象。コ節がないが、これも腹脚という。 う。下唇につく一対の一 ~ 四節の付属器官。 がん ふくきやく ふくし”“′ 腹脚 かせい brood 昆虫が年に何世代を繰の小部分をいう。個眼ともいう。 バチなど内部寄生性の膜翅類にみられる。 腹肢 化性 * しよう * たん ふくぶ abdomen 体の第三または後部 り返すかをいう。一一化性とは年一一回発生するこ maxilla 小あごともいう。第一一単眼 ′ - 見きい がん ocellus 成虫の頭部にある単純腹部 の区分で、基本的には一一節からなるが、前部 のあごで、大腮の後方にあり、外葉と内葉に分な円丘状の目。一 ~ 三個で後方にある。 とで、同種でも地域によって異なる。 らせん ちゅう mesothorax 第二の胸節で、中または後端部の節は退化ないし変形し内部に隠 きよう 気管きかん trachea 螺旋状に補強された弾かれる。 中胸 ぜんし されることも多く、各節には背板と腹板がある。 脚と前翅を備える。背板、腹板、側板が区別さ 力のある呼吸のための管。 見振彡さいしゅ maxillary palp ・。胤レ じゅんばん tracheal 一水生の幼虫のも一 ~ 七節の付属肢である。小腮枝、小あごひげれ、背板はさらに前楯板、楯板、小楯板に、側附節ふせつ tarsus 脚の先端の分節した部 気管鰓 そうかんばん と一 7 もい , つ。 分。脛節の先につき、つめと爪間板を備える。 板は前側板と後側板に分けられることがある。 っ葉片状か毛状の突起。内部に気管が分布、水 ちゅう ちょう ゅんん scutellum 中胸と後胸の背中腸 mesenteron, mid ・ gut 消化器の付属肢 appendage 体の各体節に一対 との間でガス交換をする。気管えらともいう。 小楯板 ~ ピつの・つ 板後方の区分で、甲虫や異翅類では背部に露出中央を占める部分。前端に数個の盲嚢や環状のずつ関節する器官あるいは部分。昆虫では腹節 基節きせつ coxa 脚のもっとも根一兀の節。 の付属肢は胚期に現れるが、退化消失する。 膨らみをもっこともある。中胃ともいう。 きもん spiracle 胸部と腹部の両側に した中胸の三角部をいう。 気門 レ」、つ力し ある呼吸孔で、気管の開口部である。 上唇 う labrum 頭蓋前端につく小片で、中脈 media はねの径脈と肘脈の間を吻ふん proboscis 吸うロをした昆虫の細く だいさい 走る縦脈。まず前後に二分し、さらに分岐する。 延長したロ器。甲虫では頭部の前 ( 下 ) 方へ延 休眠 * う diapause 生活に不適当な時期大腮基部を覆い、ロ背部をなす。 そうかんばん はいさなぎ じよく 要爪間板 に活動を休止し、卵内の胚や蛹では発育が止ま褥盤 ばん 肘脈 みや cubitus はねの前から五番目の長した部分 rostrum をいう。 ようたい まゆ cocoon 蛹体を保護するため終齢幼 micropyle 精子の侵入する卵の小 縦脈で、基部から発し、普通一一分する。 ることをいう。冬眠、夏眠はこれである。 繭 * 精孑 あし あし 虫によって絹糸あるいは他の繊維を用いてつく 孔を しし - 卩 .. と了もい , っ きよう thoracic leg 要脚 転節駁 trochanter 脚の基節と腿節の間 説胸脚きやく られる被覆。 解胸部 thorax 頭部に続く体の第二の区成虫芽 imaginal bud 完全変態をすにあり、ときに二分される。脚 語 らよう pupa libera はね、触角、脚な る昆虫の幼期に、将来の成虫の器官や付属肢を臀脈 みやく anal veins はねの基部から肘裸蛹 分で、前胸、中胸、後胸に分かれ、三対の脚と みやくしすい ゅ用 どが体表に固着せす、離れている蛹をいう。 つくる細胞群が皮下にみられる。これらをいう。脈と翅垂の間を走るすべての脈をいう。 要通常二対のはねを備える。 翳ん clypeus 頭部の前端部、額の直齢れい instar 幼虫の脱皮から次の脱皮まで 前胃ぜんい proventriculus 前腸の終わりの頭楯 ち主脛節 tibia 脚の一部で、腿節につき、 ふせつ をいい、第一齢は孵化から第一回の脱皮までで 部分。前腸 前 ( 下 ) にあり、前方に上唇がつく。 先端に附節がつく。脚 vertex 頭部の上面 ( 後部 ) をい ある。蛹になる直前の齢を終齢という。 costa はねの前縁をなす肥頭頂 く radius はねの前から三番目の縦前縁脈く 」昆径脈 か し - つもーれ とう ちょ、つ たいせつ ちゅう さなギ一 びきやく びかく さなぎ 7 引