こせいば 御成敗式目 貞永元年八月日 ( 抄 ) 一神社を修理し、祭祀を専らにすべき事 右、神は人の敬ひによって威を増し、人 は神の徳によって運を添ふ。然ればすなは によぎいれいてん ち恒例の祭祀陵夷を致さず、如在の礼奠怠 ごぶん 慢せしむるなかれ。これによって関東御分 の国々ならびに庄園においては、地頭・神 主らおのおのその趣を存じ、精誠を致すべ きなり。兼てまた有封の社に至っては、 かつがっ 代々の符に任せて、小破の時は且修理を 加へ、もし大破に及ばば子細を言上し、そ 一、つ の左右に随ひてその沙汰あるべし。 1 」んぎよう 2 一寺塔を修造し、仏事等を勤行すべき事 右、寺社異なるといへども、崇敬これ同 じ。よって修造の功、恒例の勤めよろしく ・ : つんれ 先条に准ずべし。後勘を招くなかれ。ただ し恣に寺用を貪り、その役を勤めざるの 輩は、早くかの職を改易せしむべし。 3 一諸国守護人奉行の事 右、右大将家の御時定め置かるる所は、 おおばんさいそく 大番催促・謀叛・殺害人〈住たり。夜討・強 南東 後本 倉写 目鎌古会 式 ( の徳 敗本期育 成岡初田 御鶴朝前 一可暑艸な秦北キ 4 小 ? 旦れ靃雇第 むさば しきかいえき うふ 盗・山賊・与〉等の事なり。しかるに近 / 、しーレつほ 年、代官を単郷に分ち補し、公事を庄保に おお 充て課せ、上司にあらずして国務を妨げ、 地頭にあらリして地利を貪る。所行の企て はなはだ当。 ' て無道なり。そもそも重代の 御家人たり ( 」一いへども、当時の所帯なくば かもよお 駈り催すに一たはず。兼てまた所々の下司 庄官以下、」の名を御家人に仮り、国司・ 領家の下知を対捍すと云々。しかるがごと きの輩、守役を勤むべきの由、たとひ望 もよおし み申すとい〈、とも、一切催を加ふべから ず。早く右ー将家御時の例に任せて、大番 役ならびに叛・殺害のほか、守護の沙汰 ちょうじ を停止せしむべし。もしこの式目に背き、 自余の事に交はらば、或は国司・領家の どみんしゅううつ 訴訟により或は地頭・土民の愁欝によ って、非法ハ〔・主り顕然たらば、所帯の職を ーさん 改められ、使の輩を補すべきなり。また 代官に至っては一人を定むべきなり。 ・、にゆ、つ 一国司・領 ( 豕の成敗は関東御ロ入に及ばざ る事 右、国衙・庄園・神社・仏寺領、本所の しんし 。しオき、 4 づ 進止たり。沙汰出来においてま、、 御ロ入に及ばす。もし申す旨ありといへど も敢て叙用されず。 きよじよう おっそ 次に本所の挙状を帯びず越訴致す事、 諸国庄公ならびに神社・仏寺は本所の挙状 ふ をもって訴訟を経べきの処、その状を帯び ずばすでに道理に背くか。自今以後、成敗 に及ばず。 一所領を女子に譲り与ふるの後、不和の儀 くかえ あるによってその親悔い還すや否やの事 右、男女の号異なるといへども、父母の ひと 恩これ同じここに法家の倫申す旨ありと いへども、ケ子はすなはち悔い返さざるの たの ざい ) うはばか 文を憑みて不孝の罪業を憚るべからず。 父母また敵・「〕の論に及ぶを察して、所領を ぜっおこ 女子に譲る一からざるか。親子義絶の起り よんもとい きようはい なり。教令違戀の基なり。女子もし向背 の儀あらば、父母よろしく進退の意に任す まっと べし。これ」」。 - よって、女子は譲状を全うせ んがために ~ ( , 孝の節を竭し、父母は撫育を ひと 施さんがために慈愛の思ひを均しうせん ものか。 あんど 一所領を子自」に譲り、安堵の御下文を給は るの後、その領を悔い還し、他の子息に譲 り与ふる事 つぶさ 右、父母の意に任すべきの由、具にもっ て先条に載せ崋んぬ。よって先判の譲につ きて安堵の御下文を給はるといへども、そ の親これを悔い還し、他子に譲るにおいて ・一ら・はール は、後判の譲し こ任せて御成敗あるべし。 みつかい 一他人の妻を密懐する罪科の事 ごうかんわかん 右、強姦・和を論ぜず人の妻を懐抱す るの輩、所領半分を召され、出仕を罷めら おんる るべし。所帯なくば遠流に処すべし。女の 所領同じくこれを召さるべし。所領なくば また配流せらるべきなり。 次に道路の辻において女を捕ふる事、御 家人においては百箇日の間出仕を止むべ し。郎従以下に至っては、大将家御時の例 びんばっそ に任せて、片方の鬢髪を剃り除くべきな り。ただし、法師の罪科においては、その しんしやく 時に当たりて斟酌せらるべし。 ぬひぞうにん れ一奴婢雑人の事 右、大将家の例に任せてその沙汰なく十 箇年を過ぎば、理非を論ぜず改め沙汰に及 ばす。 しよしよう 次に奴婢所生の男女の事、法意の如く ば子細ありといへども、同じき御時の例に 任せて、男は父に付け、女は母に付くべき なり。 ちょうさん に・」ば↓っ 貶一百姓逃散の時、逃毀と称して損亡せし むる事 ちょうだっ 右、諸国の住民逃脱の時、その領主ら 逃毀と称して、妻子を抑留し、資財を奪ひ 取る。所行の企てはなはだ仁政に背く。も し召し決せらるるの処、年貢所当の末済あ らば、その償ひを致すべし。然らすば、早 きよりゅう く損物を糺し返さるべし。ただし去留に - 一ころ おいてはよろしく民の意に任すべきなり。 一売買所領の事 右、相伝の私領をもって、要用の時沽 却せしむるは定法なり。しかるに或は勲 功に募り、或は勤労によって別の御恩に預 かるの輩、ほしいままに売買せしむるの 条、所行の旨その科なきにあらず。自今以 後、慥かに停止せらるべきなり。もし制符 に背き沽却せしめば、売人といひ買人とい ひ、共にもって罪科に処すべし。 起請 御評定の間、理非決断の事 ぐあん 右、愚暗の身、了見の及ばざるによっても きやく せんばん や きょ しいしゅ まが し旨趣相違の事、さらに心の曲るところにあ かたうど らす。その外、或は人の方人として道理の旨 を知りながら、無理の由を称し申し、また非 拠の事を証跡ありと号し、人の短を明らかに せざらんがため、子細を知りながら善悪に付 きてこれを申さずば、事と意と相違し、後日 ひびゅうしゆったい の紕繆出来せんか。およそ評定の間、理非 においては親疎あるべからず、好悪あるべか お らず。ただ道理の推すところ、心中の存知、 傍輩を憚らす、権門を恐れず、詞を出すべき ことき なり。御成敗事切れの条々、たとひ道理に違 けんばう はずといへども一同の憲法なり。たとひ非拠 おっと に行はるるといへども一同の越度なり。自今 以後、訴人ならびに縁者に相向ひ、自身は道 理を存すといへども、傍輩の中その人の説を もって、いささか違乱の由を申し聞かさば、 すでに一味の義にあらず。ほとんど諸人の あぎけ のこ 嘲りを貽すものか。兼ねてまた道理なきに おっそ よって、評定の庭に棄て置かるるの輩、越訴 いちをよう の時、評定衆の中、一行を書き与へられば、 自余の計らひ皆無道の由、独りこれを存ぜら ていれ るるに似たるか。者ば条々の子細かくの如 し。この内もし一事といへども曲折を存じ違 ばんてんたいしやく 犯せしめば、梵天・帝釈・四大天王、惣じ て日本国中六十余州の大小神祇、別して伊 は - 1 . ね ごんげん 豆・筥根両所権現、三嶋大明神・八幡大菩 けんぞく みよう 薩・天満大自在天神の部類眷属の神罰・冥 罰をおのおの罷り蒙るべきなり。よって起 くだん 請、件の如し。 貞永元年七月十日 しゃ 沙弥浄円 だいじよう なりとき 相模大掾藤原業時 げんばのじよう 玄蕃允三善康連 左衛門少尉藤原朝臣基綱 沙弥行殀 散位三善朝臣倫重 加賀守三善朝臣康俊 沙弥行西 前出羽守藤原朝臣家長 前駿河守平朝臣義村 摂津守中原朝臣師員 武蔵守平朝臣泰時 相模守平朝臣時房 きしようし 問註奉行人の起請詞同前と云々 ( 「中世政治社会思想』 ( 上 ) による ) はか 十 - か・つも み たん 324
じゅぜっ 2 、の小形種を含む科で、前翅に鱗粉の塊によるこ れるが、中国では樹舌の名でよばれる。癌の薬 ぶ状の隆起がある。白色あるいは灰色の地に黒 としては、一日量一五 ~ 二〇を約五〇〇 8 の 、ふ線や黒帯をもっ種が多い。日本産は四〇種はど 水で煎じ、三分の一に煮つめて、煎汁液を飲 ) む。 〈今関六也〉 ′」知られている。幼虫は草や木の葉を食べる毛虫 で、脱皮するたびに、頭の殻を頭部に重ねて付 コフキゾウムシ〔粉吹象虫〕 E き・ 着させ、特異な姿をしている種もあるし、虫こ ミ s 、ぎ c ミ s 昆虫綱甲虫目ゾウムシ科に属マ - ぶの中にすむという特異な生活をしている種も する昆虫。本州、四国、九州に分布している。 ある。成虫はすべて夜行性で、よく灯火に飛来 体長五 : リ内外。上ばねは卵形で、頭胸部は前方 する。分類上はヒトリガ科やャガ科に近縁とさ へ細まる。黒色で背面には淡緑から金緑色の りんもん れている。 〈井上寛〉 鱗を密に備え、上ばねの両側に斜めの鱗紋が 後深草天皇ごふかくさてんのう ( 一 = 四三ー ある。成虫は四月ごろから現れてクズの葉を食 0 四 ) 第八九代天皇 ( 在位一一一四六 ~ 五九 ) 。名は久 べ、五月ごろから交尾し、産卵する。幼虫は地 ひと そじっときわ とみのこうじいん 仁。法名素実。常盤井殿また富小路院殿と称 中にすむ。 〈中根猛彦〉 さいおんじさねうじ とよとみ した。後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏の 五奉行ごぶぎよう豊臣政権の職名。浅野長 むすめおおみやよしこ みつなりましたながもりなっかまさいえ 女大宮院姑子。父天皇の譲を受け位についた に達する。四国、・カ、 引にはこの種によく似たサ政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家 が、父の命により一二五九年 ( 正元一 ) 位を弟ツマコフキコガネミ . s ミきがおり、 をいう。豊臣氏は奉行制により政務を処理して かめやま ふしみ 亀山天皇に譲った。その後、子伏見天皇、孫後 また本州から九州にかけ海岸や川原に近い所に 、こが、そのうちとくに中心となったのはこの ふしみ 伏見天皇の代に院政をとり、九〇年 ( 正応三 ) 多いオオコフキコガネミ . 洋ミは、背面が五人である。一五九八年 ( 慶長三 ) 秀吉は、死 出家し、嘉元二年七月一六日没。京都の深草北 一様に濃い褐色で白っぱい短毛で覆われる。南後の政権安定を図り、五奉行の合議制により行 じみよういん 服立番ラ館 呉見のイ物 陵に葬る。後深草天皇は持明院統の祖であり、西諸島には別の同属種がいる。 政を処理することとし、分担を定めている。分 だいかくじ しよしだい , を対セ博 北朝皇統の祖にもあたる。持明院、大覚寺両統 コフキコガネ亜科 Melolonthinae は、広く 担は、玄以が所司代として公家・寺社関係と洛 ろ物応一 あさはらためより だえん ちゅう ちぎようかたひょうろうかた こ反とカイ の対立が激化した伏見天皇の代、浅原為頼の伏分布するが、日本には約四〇種が産し、短楕円中洛外のこと、正家が知行方・兵糧方など財 中で客リデ 代先人メポ 見天皇殺害末遂事件があった。後深草天皇は、形で光沢のあるカンショコガネ属 Apogonia 政関係、長政・三成・長盛は一般行政事務とな 屋時店婦ア」 服治のる 三三年間にわたり一〇〇巻に余る日記を記したを除くと長めの種類が多く、ヒゲコガネ、シロ っている。しかし、掟などに五奉行全員が連署 すいかんしんき 呉明屋て頭ム と伝えられており、これを『水旱宸記』とも称スジコガネは毛の模様があるが一般に単調な色する形式は一五九五年 ( 文禄四 ) ころからみら したが、今日ではそのほとんどが失われ、わずの種類が多い。クロコガネ 0 ミ斗 ki 。、。・れるので、実質的な成立はこれ以前と考えられ丈四尺となる。↓漢織・呉織 〈藤本やす〉 か一〇巻だけが伝存する。 〈村田正志〉 ミミやコクロコガネ洋 c きなどは黒色る。秀吉の死後、五大老の一人徳川家康に圧せ牛伏寺ごふくじ長野県松本市内田にある真 とうしょ ちイ」ん ないし暗褐色で、同属種は南西日本の島嶼を含られその権限を失った。↓五大老〈佐々悦久〉 コフキコガネ〔粉吹金亀子〕 Me ミを・ 言宗智山派の寺。金峰山と号する。寺伝では聖 はちぶせやま 斗、 0 ミ昆虫綱甲虫目コガネムシ科コフめ一〇種はどおり、ナガチャコガネ、を ~ ・ 呉服ごふく和服用織物で小幅物 ( 並幅 ) 徳太子のときに鉢伏山に本尊を安置したのを開 ふはく げんそう キコガネ亜科に属する昆虫。本州に分布する。 c きはやや小さくて明るい褐色。いずれもを総称していう。また反物、布帛、布をさす。 創としている。寺号の由来は、唐の玄宗皇帝か ふともの だいはんにやきよう 体長二五 ~ 三〇ミリ。褐色でコガネムシとしては夏の夜に灯火に飛んでくる。 〈中根猛彦〉 江戸時代には、麻・木綿などの織物を太物と ら贈られた『大般若経』を牛車で善光寺に運 称したのに対して、絹織物を呉服と称した。 ぶ途中、当寺の門前で牛が動かなくなり、使者 長めである。頭部と前胸は色が濃く、上ばねはコフキサルノコシカケ〔粉吹猿腰掛〕 こそで 淡色で灰黄色短毛に覆われ、粉を吹いたように E 言ぎを 0 ミミ (Pers. ) Karst. 担 小袖 ( 着物 ) 一着できる長さを反物といし が当寺に経巻を納めたという伝承による。一五 けんじゅん みえる。成虫は六月ごろから現れて、クヌギ、 子菌類、サルノコシカケ目マンネンタケ科のキ布幅は着尺幅九寸四分 ~ 五分 ( 約三六 ) 、長三四年 ( 天文三 ) 中興の憲淳によって現在地 クリなどの葉を食べ、夜間灯火に集まる。幼虫ノコ。普通は半円形、ときに縣蹄形。多年生で二丈八尺 ~ 九尺 ( 約一一 ) 。 に移築。現在の建物は江戸時代のものが多い ゅうりやく おうじん かんのん しやか は地中で草木の根を食害し、成熟すると五〇 : リ 年々成長を続け、径五〇、厚さ四〇以上に 応神天皇・雄略天皇の時代に呉の国 ( 中国の本尊十一面観音像および脇侍、釈迦三尊像など きめいめくれはとり あやはとり もなる。表面は厚くて硬い殻皮をかぶり、灰白江南 ) より縫工女呉織 ( 呉服 ) ・漢織 ( 穴織 ) の仏像が国の重要文化財に指定されるほか、書 色ないし灰褐色だが、その上にココアの粉をま が渡来し、優れた絹織物を生産した。転じてそ跡、古文書など多くの文化財を蔵している。な やくよけ ぶしたように胞子が積もり、ココア色を呈するの手法によるわが国の織物の名称となる。 お、本尊は「うしぶせ厄除観音」といわれ人々 ことが多い。縦に割ると、上層はフェルト質で 呉服の名は『うつは物語』田鶴の村鳥巻にみの信仰を集める。 〈真柴弘宗〉 くんもうず じようばん やえす チョコレート色の肉、その下に垂直に配列するえる。『人倫訓蒙図彙』に上品の着物を呉服、 呉服橋ごふくばし東京都中央区八重洲一丁 くだあな えいたい 管孔が幾重にも層をつくっている。これが多年『女重宝記』に小袖はごふくとある。当時の小 目、外堀通りと永代通りの交差点付近の古地 そとーり 生であることの象徴てある。裏面は黄白色、微袖は絹物の綿入、太物の綿入を布子と称した。名。江戸時代、外濠に面して呉服橋門があり、 めいはくすりはく 細な孔が並ぶ。胞子は卵形、厚膜、顕微鏡では 小袖の着尺は江戸初期まで、縫箔、摺箔に加え橋は後藤橋ともよばれたが、門の外側に幕府呉 かのこ 淡褐色を呈する。広集樹の立ち木や枯れ木に生て鹿子類が多いが、のち染め模様に転じた。徳 服師の後藤家の宅地があったことに由来する。 がん え、材の白腐れをおこす。癌の民間薬として広 川禁令考によると、一六二六年 ( 寛永三 ) 反物第二次世界大戦前は呉服橋一 ~ 三丁目とよばれ ばいきせい く用いられ、漢方萃往商では梅寄生の名で売らの長三丈二尺、幅一尺四寸とあり、のちに長一一一たが、戦後濠は埋められ、橋と同様に町名も消 コフキコガネ ひさ コフキサルノコシカケ まさ うろ - 一 おきて わきじ 494
ようろうりよう んルめ・ゅ・つ ①公式様文書『養老令』公式令のなかで規定 合、または権利を認定する場合と、下の者が上 みられない。甲面の六個の顆粒は他種よりも強物などの典籍は含まないとされる。もちろん、 された様式の公文書。公式令には上から下への 。扁平な歩脚を使って砂の表面をすばやく泳 一般的・便宜的な用法としては、古文献を包括の者になにかを要請する場合も当然含まれる。 しようしよりようじ やえやま 八重山列島ではフアムレーガン ( 子守をすする概念として、古文書という語をより広く用そしてそれぞれの動機に応じて、またその時文書として詔書・令旨・符、互通文書として そうちょう いることもそれほどまれなことではないが、現代、時代によって、あるいは書き手と受け手の移、下から上申する文書として奏・牒 ( のちに るカニ ) とよぶが、これは、交尾に先だって、 りようげのかん 雄が雌の第四歩脚を挟んで歩く習性のためであ在の古文書学ではこうした用法はとらない。も地位の高下によって、その文書の書きようは異令外官などの発給文書として使われるように じ しんいち なる ) ・辞・解などが定められている。 るらしい 〈武田正倫〉 っとも、最近では佐藤進一のように、目録・帳なるものである。そこで、その異なる書きよう りつめよう ⑦公家様文書平安時代、律令制が崩れ摂 虎門寨追加条約こもんさいついかじようやく簿や訴訟記録などの、照合・点検を目的とするを分析することによって、文書の内容だけから しよう しん 一八四三年一〇月、中国、広州の虎門寨で、清文献の多くは、かならずしも文書と切り離さすではわからないこと ( たとえば時代判別とか、政・関白や院が政治の中心になるにしたがっ こう 国とイギリスの間に調印された清英南京 ( 江 に理解しようという考え方もある。一方、古文書き手と受け手の地位や相互の関係など ) を類て登場してきた新しい様式の文書。宣旨、符に ちょうせん ゅうひっ くだしぶみこくふ 寧 ) 条約の追加条約。輸出入税率、通商章程の書の素材は、そのほとんどが紙に書かれている推しようとするのが、文書様式の分類の目的でかわる下文、国符にかわる庁宣などや、右筆 ひっす ある。 が形式上の差出者となる書状様式から発達した ほか、イギリス人が開港場で「妨害または拘束とはいえ、それはけっして必須条件ではなく、 文書の様式分類法は研究者によって多少異な奉書系の文書 ( 事実上の差出者が天皇の場合は を受けることなく居住し : : : 土地家屋を建築、前述の条件さえ備えていれば、木に書かれてい いんぜん 、さんみ ようと、石に刻まれていようとなんら問題とは るが、佐藤進一の方法に従えば次のようにな綸旨、上皇なら院宣、皇族なら令旨、三位以上 賃貸する」権利 ( 租界の始め ) 、開港場におけ く学一よう みぎようしょ の公卿なら御教書とよぶ ) がおもなものであ るイギリス軍艦配置の権利、とくに最初の一方ならず、すべて古文書と考えるべきである。たる。佐藤は、様式の歴史的変遷を踏まえた①公 しきよう へいじようきゅうし とえば、前者の例としては、近年平城宮址、式様、⑦公家様、③武家様の三種に、④証文、る。 的最恵国待遇条項の規定 ( 「諸外国の臣民また ③武家様文書鎌倉幕府の成立以降に発生、発 ⑤神仏に奉る文書、⑥書状、の三種を加えて、 は人民のいずれかに対し、特権または免除をさ藤原宮址などから大量に出土している古代の木 げちじようじきじようかきくだし おくりぶみ かん らに増加して専与するときは英国臣民も同一の簡のうちのかなりの部分が、後世の送文と同六種に分類することを主張している。これらに展したもので、下文、下知状、直状 ( 書下、 ぶようにん けんもっ きんてん 判物など ) 、奉書 ( 御教書、奉行人奉書 ) 、印 特権および免除を均霑享有すべし」 ) を含み、趣旨のものであることをあげることができるついて以下に若干の説明を加える。 もうしじようちゅうしん . ーんじよう わどう こうずけたごのひ 判状などの下達文書と、申状、注進状、請 し、後者の例としては、上野国多胡碑 ( 和銅四 以後の清米望厦条約、清仏黄埔条約の原型とな ぐんちゅう ぶみ とか春て。にいるに理わ霊 つつ ) 0 文、軍忠状などの上申文書とがある。 〈小島晋治〉年官符写 ) のようなものをあげることができょ っ面壁るいぐ管が現 ゆずり よ・いけ・れは〕い ・」うちょう 饉目をな場のあてすのか権 ④証文譲状、売券、契状、和与状などが含ま コモンサンゴ〔小紋珊瑚〕腔腸動物門花う。さらに、中世には寄進状や制札などの文書 飢理米とる屋 , れ , 書う日庁 下修た僧い部てらの文が春内れる。 が直接木札に記されて掲示されることがあった 虫綱六放サンゴ亜綱イシサンゴ目ミドリイシ科 天寺い老てのげ貼でる端 こうもんがんもん 福てがし隣広てどれ一 6 神仏に奉る文書神仏に祈願する告文・願文 のコモンサンゴ属ミ。ミき。ミの海産動物の総のは、よく知られた事実である。 と 書興し神出のがねならのう 文 , 匿明ね室書束院いよ = = ロ や、都状、さらに神前で誓いをたてる際の起 称、またはそのなかの一種。太平洋、インド洋〔文書と古文書〕ところで、なお効力をもって しようもん 古き隠日跳寝文は寺用方れ験 請文、資財を奉納する際の寄進状などが含ま いるものを文書とよび、すでに実際上の効力を のサンゴ礁海域に広く分布。世界に約一〇〇 れよ , つ。 種、日本には紀伊半島以南に二〇種はどが知ら失ったものを古文書とよぶ、という説がある。 きようへき 6 書状私人の間に取り交わされる文書で、古 しかし古文書ということばがもともと歴史資料 れる。莢壁の内と外に、内莢と外莢を欠くこ しようそく しよさっ じようけ、 代に状・啓とよばれ、中世には消息・書札な としての文書に対してつけられた名称であるこ とにより、同じ科のアナサンゴ属ゝ s 、、きをき どとよばれる。書状は私的な文書であるといっ とを考えれば、こうした区別は意味をもたな と区別され、中軸個虫を欠くことによりミドリ ても、けっして自由な書き方ができるものでは 歴史研究のうえで、あるものを古文書とよ イシ属ゝ夷。をきと区別される。色彩は一般 ない。むしろ差出者・受取者相互の地位・身分 に暗褐色ないし暗緑褐色で、群体の先端部は明んでも文書とよんでも、それほど意味の違いが によって文書の書きようを変えることが強く求 らかに白色化する。群体は不規則な枝状の種があるわけではない。ただし、中世においてなに められ、これに反したときは礼を失したものと 多いが、なかには板状や被覆状また塊状になるを古文書と称していたかということは、はっき おうらい しよさつれい かさまつひろし みなされるため、各種の「往来」や「書札礼」 種もある。骨格表面は多孔性で、ところどころりしておくべきであろう。笠松宏至によれば、 といった書状の例文集、様式解説書がつくら に個虫の収まる莢が分布するが、莢は骨格表面中世において古文書とよばれたのは、罪科人の れ、利用された。 より突出しない。隔壁は発達が悪く、六枚か一発給にかかる文書や朽損しあるいは正当な由緒物 〔文書の作成〕文書の作成にあたっては、まず 二枚である。個虫は小さく、触手は一二本で短なく所持している文書であって、相論などに際 どだい 土代とよばれる草案がつくられ、これに手が加 コモンサンゴミ。ミき。ミミきき、ウスして特定の権利を証明しえない、すなわちすで しようもん えられたうえで清書され、正文が完成するの に価値の失われた文書のことをさすという。と コモンサンゴミ . ま召、サポテンコモンサ ; 一般的経過である。しかし、文書の種類によ ンゴミ . cactus などが含まれる。 3 しイシサりわけ鎌倉幕府の裁判のなかで、「平家以往」 って、だれが書くのか、どんな紙を選ぶのか、 ンゴ 〈内田紘臣〉 つまり、平氏政権やそれ以前の文書は「古文 といった文書作成過程の細かな部分は異なって 書」であるので証文に足らずとされたというこ 古文書こもんじよ歴史資料の一。 くろいた くる。たとえば書き手であるが、差出者の地位 〔古文書の定義と範囲〕現在の通説である黒板とは注目に値するといえよう。 、、ゝ高ければ、私的な書状でさえも差出者自身は じ美・伊木寿一らの定義によれば、第一人者〔古文書の分類〕文書作成の動機は、自分の意 ) 筆をとらす、右筆とよばれる専門の書記に書か ん ( 差出者 ) が第二人者 ( 受取者 ) に対してなん志を他者に伝えることであるが、その意志の伝 せる場合があるし、公的な文書であれば、事実 達の内容には、単なる意志の疎通だけではな もらかの意志を伝達するために作成した書類をい 「 ~ 「上の文書発給者自身が書くことはほとんどあり 上の者が下の者になんらかの命令を行う場 う。この場合、日記などの古記録や、経典、書 ナンキン もっ 583
とわざ から になってしまうとのたとえ。 類あなずる葛に倒さる類一寸の虫にも五分か、かえって大損をしてしまうとのたとえ。 ぜい集まれば侮りがたいものとなることのたと つのた ながたな たち 類角を矯めて牛を殺す反大事の前の小事 の魂類針は小さくても呑まれぬ 類昔千里も今一里類昔の太刀は今の菜刀 しかお 類枯れ木も山の賑わい 反一腐っても鯛 鹿を逐う猟師山を見す鹿を追いかけるの知らぬが仏本当のことを知らないからこ に夢中になっている猟師は、山のようすを見極そ、仏のような広い心で安穏でいられるとの 稼ぐに追い付く貧乏なし一生懸命に働け 腐っても鯛鯛のように高価な魚は、腐った ば、豊かになって貧乏することはないとのたと ものでさえ値うちがあるとの意。もともと価値める余裕などはないとの意。物事に熱中した意。真実を知れば腹もたち、平静ではいられぬ が、知らなければそのまま平気でいられるとの のあるものは、傷んでだめになったようでも、 り、欲に目がくらんでいる者は他の事を顧みな たとえ。転じて、当人だけが知らないで平気で それだけの値うちがあるとのたとえ。 いので、理性を見失いがちなことのたとえ。 反油断大敵 こそで おかめはちもく いるのを、あざけり半分にいう場合にも用いら 類ちぎれても錦類破れても小袖反麒麟も類欲には目見えす反傍目八目 形は生めども心は生まず親子は顔かたち 老いぬれば駑馬に劣る は似ていても、性質とか人柄は別であるとの 師匠の出しおくれ師匠が弟子の質問にそれる。 類見ぬが心にくし類見ぬが仏聞かぬが花 意。子供の賢愚や善悪は親のそれによって決ま光陰矢の如し月日の過ぎ行くのは、飛ぶ矢の場で答えられず、あとでとやかく講釈する るものではないとのたとえ。 のように早いとの意で、日のたつのがいかに早意。「支証の出しおくれ」のもじりで、手遅れ知りて知らざれよく知っていても知らないふ かぶと りをしろとの意。知っていてもそれをひけらか いかのたとえ。 になり効き目のないことのたとえ。 勝って兜の緒を締めよ戦いに勝っても兜 しゅうとめ さず、控え目にするのが奥ゆかしいとのたと の緒を緩めるような油断をしてはならないとの 類隙行く駒類嫁が姑になる 類宝の山に入りながら手を空しくして帰る 意。成功したあとも、それまでのように、用心 好事門を出でず善行やよい評判は人のロに 舌三寸の誤りより身を果たすむだなおし 深く事にあたらなければならないとのたとえ。 のることが少ないとの意。よいことは世間に広ゃべりが原因となって命を失うとの意。口先だ 類大名は大耳 へお ひも 類焼鳥に攣 ( 攣は鷹の足につける紐 ) まりにくいとの例えで、「悪事千里」と対で用けの弁舌や失言によって身を滅ばすことのたと親は泣き寄り他人は食い寄り不幸があっ いられることが多い た際、肉親や親類縁者は心から悲しんで集まっ 果報は寝て待て幸福 ( 果報 ) は運しだいで かえる わざわい てくるが、他人はといえば、そこで供される食 あるから、やってくるのを気長に待つべきだと 反悪事千里 類蛙は口から呑まるる類ロは禍の門 の意。焦らないで時期を待てば、幸運はかなら郷に入っては郷に従う住んでいる場所の四百四病より貧の苦しみあらゆる病気べ物目あてにやってくるとの意。逆境の失意の ずやってくることのたとえ。 ( 四百四病 ) よりも貧乏がつらいとの意。人生ときこそ、身内は頼りがいのある存在である 風俗や習慣には、逆らわすに従うのがよいとの ひょり たとえ。 が、他人の同情は見せかけだけで、あてにはな 経験のつらい部分を拡大したたとえ。 類天道人を殺さず類待てば甘露の日和あり らないとのたとえ。 類年問わんより世を問え類貧は病より苦し 類門に入らば笠を脱げ 川立ちは川で果てる川の辺で育った泳ぎ じゃ へび しの のうまい者 ( 川立ち ) は、油断して川で死ぬこ 志は木の葉に包め木の葉に包むほどのわ蛇の道は蛇蛇の通る道は蛇がもっともよく 世は元偲び すず とが多いとの意。得意な技や芸をもつ者が、そずかな贈り物でも、真心がこもっていればりつ知っているとの意。同じ仲間がその社会のこと雀の千声鶴の一声千羽の雀が一斉に鳴い ばなものであるとの意。 や仲間の行動をもっともよく知っているとのたても鶴の一声に及ばないとの意。つまらぬ者た れによって身を滅ばすことの多いたとえ。 かつば とえ ちががやがやいうより、優れた人物が一言いえ 類長者の万灯より貧女の一灯 類河童の川流れ類山立ちは山で果てる もち 木に竹を接ぐ木と竹のようにまったく性質言葉多き者は品少なしロ数の多い人は 紲の取り沙汰は人に言わせよ類餅は餅屋ば、物事はびたりと取まるとのたとえ。 しゅう 類大は小を兼ねる の異なる物を継ぎ合わせるとの意。前後のつじ軽々しくて品位に欠けるとの意。ロ達者な人は舅の物で相婿もてなす舅のふるまいに 招かれた姉妹の夫同士 ( 相婿 ) が、供された料雀百まで踊りは忘れぬ雀は死ぬまで飛び つまがあわないことや、不つり合いなことのた人柄が軽薄であることのたとえ。 理で互いにもてなしたり、義理を果たすとの跳ねる癖が抜けないとの意。若いときに身につ とえ。 類哥ロわぬは一一 = ロ , つにまさる くびかせ いてしまった習性、なかでも道楽は、い 油に水類竹に接木 子は三界の首枷子供は首枷となって、過意。身銭を切らぬ虫のいいふるまいのたとえ。 えびす なっても直らないとのたとえ。 類逃ぐる魚を恵比寿に参らする 機に因りて法を説け仏教の真理を説くの去、現世、末来の三世にわたり、親の自由を奪 類犬の尾を食うて回る類三つ子の魂百まで にも、聞く者の素質や能力に応じた適切な方法っているとの意。親が子供への愛にひかされ十人寄れば十国の者人が大ぜい集まると、 いろいろな国の出身者がいるものだとの意。世捨てる神あれば助ける神ありこの世はさ をとらなければならないとの意。臨機応変の処て、一生その自由を束縛されていることのたと え。 置をとらなければならないとのたとえ。 間は広いので、大ぜい集まっても生国が同じ人まざまだから、見捨てて相手にしてくれない人 もいれば、反対に拾い上げて援助してくれる人 は少なく、人はさまざまであるとのたとえ。 類思う人は絆となる 趙合わぬ蓋あれば合う蓋あり類捨てる神あ といろ ひとなか もいるとの意。非難されたり、つまはじきされ 類三人寄れば人中類十人十色 れば助ける神あり類人を見て法を説け 猿も木から落ちる木登りの得意な猿でも 昨日は今日の昔たった一日前の昨日のこと木から落ちることがあるとの意。その道に優れ十分はこほるる物事は十分に満ちると、あても、くよくよすることはないとのたとえ。 とはこばれるだけだとの意で、すべて物事はは 趙合わぬ蓋あれば合う蓋あり類機に因って でさえも、すでに過去のできごとであるとのた人でもときには失敗することがあるとのたと どほどがよいとのたとえ。 法を説く渡る世間に鬼はない 意。月日の過ぎ去るのが早いことのたとえ。 りゅうめつまず 類月満つれば虧く類満は損を招く 世間は張り物この世をうまく渡っていくに 類竜馬の躓き類弘法にも筆の誤り 類今日は人の上明日は我が身の上 へんび 京にも田舎ありにぎやかな京の都にも辺鄙触り三百ちょっと触っただけで三百文の損朱に交われば赤くなる顔料の朱の中に入は、外見をりつばにして体裁を繕う ( 張り物 ) のがよいとの意。見栄を張るのも処世術の一つ な所があるとの意。よい所にもどこか悪い所がをするとの意。争い事などにちょっとロ出しなれた物は、その色に染まって赤くなるとの意。 であるとのたとえ。 どして、思いがけぬ損害を被ることのたとえ。 人は環境や交遊関係によって、善人にも悪人に あるとのたとえ。 ちょうちん たた もなるとのたとえ。 類内裸でも外錦類月夜に提灯も外聞 都にも田舎反田舎に京あり ん匯らぬ神に祟りなし類見るに目の欲 背に腹はかえられぬ同じ身体の一部とは 類墨に近づけば黒し類善悪は友による 麒麟も老いぬれば駑馬に劣る一日に千里山椒は小粒でもびりりと辛い山椒の実 いえ、たいせつな腹を背といっしょにして、取 は小さくてもたいへんに辛いとの意。身体は小 小利大損少しの利益を得ようとして、大き を走る麒麟 ( 名馬 ) も年老いれば駑馬 ( 遅い り替えるようなことはできないとの意。大事を な利益を失うとの意。目先のわずかな利益にこ 馬 ) に及ばないとの意。いかに優れた人物でさくても、気性や才能が非常に鋭いことのたと だわると、利益をあげることができないばかり守るためには小事を犠牲にするのもやむをえな AJ 諺も、老人になれば、その能力や働きが凡人なみえ。 に一 つぎき さる ひま きずな - ごっ ~ 」 - っ きりん ぎた ふた 453
たまろ ちゅうえ ゴング gong 一般に円盤形ないしはそれ圏 ん〇 ) 藤原田麻呂をも 0 て中衛権大将に任命した しんちゅう のが正規の権官の初見か。以後、平安時代に入 に縁のついた盆形の金属製 ( 青銅、真鍮、鉄 6 ると内外官ともに権官が増加する。〈渡辺直彦〉 など ) 打楽器をさす。語源は、インドネシアの こんかんいち ( 一九 0 九ー <lll) 小説家。 ガムランに用いられるゴンにあるといわれ、東 今官一 わせだ 青森県生まれ。早稲田大学露文科中退。一九三 南アジア、東アジア一帯にさまざまな名称で広 だざいおさむ かいひょう 三年 ( 昭和八 ) 太宰治らと同人誌『海豹』を く分布する。楽器分類学上では、容器の中心部 ろうまん 創刊、ついで『日本浪曼派』 ( 一九三五 ) に参加し を打棒などで打っ楽器を意味し、垂直に吊り下 んい一わ - っ つば た。四〇年創作集『海の章』刊行。五六年 げて使う円盤形や盆形のほかに、壺形で水平に ( 昭和三一 ) 創作集『壁の花』で直木賞受賞。 伏せて置き頂上部を打奏するものもある。いず ながと ほかに戦中「長門」に乗艦した体験に取材した れの形にせよ、発音する際には本体の中心部の 面 『幻花行』 ( 一九四九 ) 、『不沈戦艦・長門』 ( 一九七一 l) 、 振動が周辺部に比べて大きいものがゴング類と され、この点において、たとえ同じ外形をして 歴史小説『牛飼の座』 ( 一九六一 ) など。叙情性豊と 見グ かな芸術派的作風に特色がある。〈東郷克美〉 いても、本体の周辺部の振動が大きい・ヘル類と グ 。今官一作品』全二巻 ( 一九八 0 ・津軽書房 ) ン はっきり区別されている。 ゴ きようき ゆきなり ゴ ゴング類は、本体の中央部にこぶ状の突起を 権記ごんき藤原行成の日記。『行成卯言』 グ 状形 ごんのだいなごん 付 板盤 と一、もい もつものとこぶをもたない平板状のものに大別 権大納言であったことから、『権ン形 平円 ゴニ盆 される。 記』ともいう。九九一 ~ 一〇一一年 ( 正暦二 ~ 寛弘八 ) の二〇年間の日記であるが、その間 複数形。コロン。フスの「発見」 ( 一四九一 I) により 日記風ノートに見られ、末尾に一九三一 〔こぶ付きゴング〕一般に音高がはっきりと聴 欠けている部分は九九六年 ( 長徳一 l) である。 スペイン領とされた南北アメリカ大陸に渡り、〇・四とある。翌年の『赤い鳥』一月号に改筆き取れるので、音高の異なるゴング、つまり大 くろうどのとう 〈浜野卓也〉 行成は弁官や蔵人頭を勤め、宮廷での政治家原住民 ( インディオと総称 ) 征服、地理的探されて掲載。 きさや厚みの異なるものをいくつかセットにし としての生活を細かに記している。儀式にも大検、植民地経宮などの活動を行ったスペイン人回『校定新美南吉全集川』 ( 一久 0 ・大日本図書 ) て、旋律を奏する楽器として用いる場合が多 いに詳しく、「別記に有り」などの記述もみえをさす。彼らのなかには、原住民のキリスト教 ▽『ごんぎつね』 ( 偕成社文庫・講談社文庫・ これを欧米では一般的にゴング・チャイム と : っー ) ト ` フォア文庫・ポプラ社文庫 ) ることから、儀式についての別記も存したかと徒化を目ざす者も多かったが、大勢は金・銀な gong chime という。東南アジア島嶼部、イ いちじよう ごんぎよう本来は仏教徒が勤めて善 ンドシナ半島を中心に広く分布している。 も思われる。行成は一条天皇に信任があり、 ど貴金属の略奪・採掘を目的とした。キリスト勤行 みちなが ろくはら インドネシアのガムランには数種のこぶ付き また、藤原道長とたいへん親密であったことな教への改宗およびスペイン人への服従を拒否す法を行い、つねに仏道に精進する意で、六波羅 しようじん ゴングが使われる。最大のものは直径約一の どが事細かに書かれており、摂関政治史をみる る原住民は、神と国王に対する反逆者とみなさ蜜 ( 実践すべき六つの徳目 ) の精進波羅蜜を どきよう ~ つりく いう。読経、賛仏なども仏教徒の日常修すべき盆形ゴングを数個吊り下げたゴン ( ゴン・アグ うえにだいじな日記である。また、行成は筆跡れ、コンキスタドレスが彼らを殺戮したり、あ え が優れていたので依頼されて多くの書物を筆写るいは奴隷として大農園、鉱山などで酷使する行法であるところから、転じて仏前で読経、回ン ) で、何度も繰り返される基本旋律の終わ - 一うらいは、 ことは正義にかなうものとされた。一六世紀を向、礼拝する「おっとめ」を勤行と称するよう り、同時に始まりを示すために奏される。ゴン したことなどもみられ、平安朝の朝儀や学芸、 ぎようじゅうざが になった。行う時として、一切時 ( 行住坐臥、より小型で同形態のクンプルは、ゴンよりも細 風俗を知る好史料である。写本としては宮内庁通じ年平均万五〇 0 〇人が渡航したとされ、 しんじよう ふしみのみや 書陵部の鎌倉時代書写の伏見宮本一三巻が最古代表的人物に、メキシコのアステカ帝国を征服昼夜 ) 、六時 ( 昼三回、夜三回 ) 、四時 ( 晨朝、かい時間分割単位を表示すべく打奏される。ク さんしゅう トウやクノンは壺形で、クトウが単独で時間区 のものである。『増補史料大成』『史料纂集』 ( 一五一九 ~ 一一 D したコルテス、ベルーのインカ帝日中、黄昏、夜半 ) 、三時 ( 晨朝、日中、黄 ~ 三三 ) したピサロ、ミシシッピ昏 ) 、二時 ( 晨、昏 ) の別がある。〈石川カ山〉分を刻んでいくのに対し、クノンは数個を組み 〈山中裕〉国を征服 ( 一五一二 に所収。 ・一うちょう 川からカリフォルニア湾に至る探検を行ったヌ 崑曲こんきよく中国の歌曲の腔調 ( 節回合わせて使う。ポナンは、クトウやクノンをよ コンギク〔紺菊〕ゝ s 、 e 、ミ、ミ。斗 s り小型にしたものを組み合わせて使うゴング・ ーニエス・カペサ・デ・バカ、アマゾン川の発し ) の一つ。またそれが歌われる芝居をいう。 Turcz. subsp. 0 ミ ~ 、 s Nakai form 、 0 ミミジ みんかせい こうそこんぎんぎ 明の嘉靖年間 ( 一五一一一一 ~ 六六 ) に江蘇の崑山の魏チャイムで、旋律を装飾する楽器である。いず Ohwi キク科の宿根草で、日本原産のノコ見者フランシスコ・デ・オレリャーナ Francisco めっほ ひしん 〈山本哲〉良輔が、従来のメロディーにくふうを加えてれも桴で壺形の突起部を打奏する。音の歯切れ ンギクの栽培種。高さ約六〇ン、葉は披針形で de Orellana らがいる。 りようしんぎよ スなんきち きよし 粗い鋸歯があり、茎葉とも粗い毛がある。秋、 ごんぎつね親美南吉の短編童話。作者の創始した。崑山腔ともいう。梁辰魚がこの腔のよさが要求されるため、演奏には音を桴で消 かんさき 調にあわせて戯曲『浣紗記』を書いて好評を博す技術も必要とされている。 初期の代表作で、一え三二年 ( 昭和七 ) 『赤い 多数に分枝し、頭状花を多数つける。花弁は普 しんえい たずらぎつねの「ごん」し、また曲律を重んずる沈璟らの呉江派が、崑 フィリピンのミンダナオ島以南のゴング類 通は濃青紫色であるが白花もある。葉に覆輪斑鳥』に掲載されたい の入るものもある。鉢物、花壇用につくられは、村人兵十が病気の母に食べさせるためにと曲によるべきことを主張したこともあって、広は、形態やその使用法においてインドネシアの しんけんりゅう い地域に急速に流行した。清の乾隆年間 ( 一七ゴング類と似ている。クリンタン合奏の中心楽 る。性質はじようぶで、つくりやすく、半日陰らえたうなぎを盗む。ところが母に死なれてひ ベキン 地でもよく育つ。繁殖は三、四月に株分けするとりになった兵十を気の毒に思い、まったけや三六 ~ 九五 ) 以降北京を中心に京劇が流行するが、器としてのクリンタンは、八個の壺形ゴングを そのころまでは崑曲が劇界の主流を占めてい 水平に配置したもので、両手の桴で旋律を演奏 か、五月中に茎頂を切り取り挿芽し、六月中に栗などを兵十の家に投げ込む。しかし兵十は、 〈岡田正順〉 ごんを鉄砲で撃ってしまったあと、初めてそのた。他の地方劇を花部とよぶのに対し、崑曲がする。アグンは垂直に吊り下げるタイプで、拍 鉢上げするか花壇に定植する。 ことを知った。善意の食い違いを描いた話で悲雅部と称されたのは、音調が優雅で、読書人に節の表示に用いられる。 コンキスタドレス Conquistadores 〈岩城秀夫〉 ・バット編成の合奏で 感銘が深い。初稿は自由好まれたからである。 タイの伝統音楽ピー 征服者 ( コンキスタドール Conquistadör) の劇的だが、それだけに こ ふ 複式盆形 壺形 みつ 当り鉦形 盆形 - 一う、一ん いっ寺 ) い っ
ことわざ ちょうちん いとのたとえ。 に問いただされると用心して話さないが、自 大の虫を生かして 小の虫を殺す大きい虫提灯に釣り鐘提灯と釣り鐘とは形は似て人 ' せんだん 栴檀は双葉より芳し香気の強い栴檀は芽を生かすためにけ 小さな虫を殺さなくてはな いるが、その重さはまったく比べものにならな分から話すときはうつかりしゃべってしまうと 生えのときから香りが高いとの意。大成する人らないとの意。わしをえない場合には、一部分 いとの意。身分や財産などのつり合いがとれな の意。事実を隠しおおすことのむすかしさのた とえ。 物は、子供のときから並はずれて優れたところを犠牲にしても今澪を救い、あまり必要でない いことや、比較にならないことのたとえ。 はー」こ・つり、よ - っ があるとのたとえ。 物は捨てて重要な物をとれとのたとえ。 類箸に虹梁 類心内に動けば詞外に現る じゃ ちょうはん とうろうおの かまきり 類蛇は一寸より大概を知る 類葉をかいてを断つな 長範があて飲み人の金をあてにしたり、 蟷螂が斧を以て隆車に向かう蟷螂が前足 ただ酒を飲もうとして失敗することのたとえ。 を斧のごとくに振り上げて、高く大きな車 ( 隆 船頭多くて船山に上る船を指揮する船頭鷹は死すとも穂はつまず鷹は肉食である みの が何人もいると、水上を行くべき船が、いつのから、たとえ飢え死にしようとも、けっして稲平安末期の伝説的な大泥棒熊坂長範が、美濃国車 ) に立ち向かうとの意。自分の力を顧みす まにか山の上を行くようなことになるとのたとや麦などの穂けついばまないとの意。正義を守 の赤坂に金売り吉次を襲い、奪い取る予定の金 し弱い者が強い者に刃向かう無謀さ、身の程 え。 る人はどんなに貧しく、窮しようとも、節を曲をあてにして、一味ともども青野が原で大酒盛知らすのたとえ。 えんこう どじようじだんだ 趙一一 = ロい勝ち功名類一揆の寄合 げて不義の財宝を受け取ることはないとのたと りをしたが、その夜半、牛若丸に退治されてし 猿猴月を取る類泥鰌の地団駄猫の額 えばしおり ねずみ 船頭の空急ぎ船頭が、船を出すといって客え。 まった、と舞の本『烏帽子折』が伝えるところ の物を鼠の伺う による。 を急がせながら、その実、なかなか船を出さな類侍と黄金は理めど朽ちぬ類人は一代名は 遠きは花の香遠くにあるものは、花の香り たかようじ しことを一い , つ。 の芳しいように、実際以上によく思われるもの 末代類武士は食わねど高楊枝 類捕らぬ狸の皮算用 ちり 類一言い勝ち功名 だとの意。「近くは糞の香」と対で使われ、手 多勢に無勢ル人数では、しよせん、大人数塵も積もりて山となる塵のように微小な かや 近なものは軽く疎んじ、手の届かぬものはむや に敵対できないとの意。小さな力では、どんな物でも、積もりに積もれば山のようにうず高く 千日に刈った萱一日に亡ほす千日もかけ て刈った萱を、たった一日で焼き失うとの意。 にがんばってみたところで、大きな力にはかな なるとの意。きわめてわずかな物でも、積もりみとありがたがるとのたとえ。 ねずみとら 長年月をかけて営々と築き上げた成果を、一時わないとのたとえ。 積もって高大な物となることのたとえ。 時に遇えば鼠も虎になるよい時節に巡り いわお に失ってしまうことのたとえ。 類砂長じて巌となる 合えば、鼠でも虎のように威勢を振るうことが 趙雉と鷹を空寡敵せす 類烙千に槌一つ類千日の功名一夜に亡ぶ立っ鳥跡を濁さす鳥が飛び去ったあとの角を矯めて牛を殺す牛の角の曲がってい できるとの意。高い地位につけば、つまらぬ人 善は急げ善い事をするのにためらうなとの水辺は、濁ることなく澄んだままであるとのるのを直そうとして、ついには牛を殺してしま物でも権勢を振るうようになるとのたとえ。 意。善いことはただちに行えとのたとえ。 意。立ち去る者は跡をよく始末して、見苦しく うとの意。わずかな欠点を直そうとして、全体毒を食わば皿まで毒を食って死ぬと決ま ったものなら、 ないようにしておかなければならないこと、ま をだいなしにしてしまうことのたとえ。 いっそのことそれを盛った皿も 類旨い物は宵に食え図悪は延べよ 類枝を矯めて花を散らす きれいになめてやれとの意。いったん悪事に手 千里一跳ね大きな鳥は一気に千里の空を飛た、引き際が潔くりつばなことのたとえ。 とも たで ろうそく を染めた以上、あくまでも手を引かずやり通す ぶとの意で、遠い道程を短時間に行くことや、蓼食う虫蓼のように辛い草を好んで食べる爪に火点す燭や油のかわりとして、爪に 物事をつかのまに成し遂げること、たちまちの物好きな虫もいるとの意。少々悪趣味だとの意火をとばすとの意で、ひどいけちゃ、貧しくてとのたとえであるが、ここまでやったからに は、最後まで徹底的にやり抜くとのたとえにも うちに大成功することのたとえ。 味を込めて物好きな者を例えるが、人の嗜好は つましい生活を送ることのたとえ。 けんぎよう さまざまで、皆が皆同じ好き嫌いであるとは限 用いる。 類芥子を千に割る 類一夜検校 はす そで 泥中の蓮汚い泥の中に咲いても、蓮の花は 類とても濡れたる袖 袖すり合うも他生の縁道行く途中で、見らないというたとえでもある。 とびたカ ようきひ 知らぬ人と袖が触れ合うというようなことも、 類好きに赤烏帽子類面々の楊貴妃 清らかで美しいとの意。環境の悪さにもめげ鳶が鷹を生む鳶のような平凡な親が、鷹の ような非凡な子供を生むとの意。子が親より優 宿世 ( 他生 ) の因縁であるとの意。どんな小 放は道連れ世は情けひとり旅よりは、たず、高潔さを保ち続けるもののたとえ。 れていたり、美しかったりするときのたとえ。 類市の中の隠者 事、取るに足らぬ人づきあいといえども、このとえ道連れであっても、いっしょのほうがよい からすしろくそ たけのこ 類烏の白糞類筍の親まさり 世においては偶然におこるものではなく、すべし、世間を渡るのには、人々が互いに助け合っ 天知る地知る我知る人知るだれも知らな とら ていくのかよいとの意。世の中は、皆が思いや いだろうと思っても、天地の神々をはじめとし虎の尾を踏む凶暴な虎の尾を踏むとの意。 て前世からの深い因縁によるとのたとえ。 つまず て、自分も知っていれば、お前も知っているとその結果、虎が荒れ狂って手のつけられないと りの心をもって仲よく過ごしていくことがたい 類一樹の陰一河の流れ類躓く石も縁の端 の意。不正なことはかならず現れるものだとの ころから、非常な危険を冒すことのたとえ。 せつだとのたとえ。 類一村雨の雨宿り ひげ たとえ。 類竜の髭を撫ずる 類遠き親子より近き隣類旅は情け人は心 大海の一滴大きな海に一滴の水を落とすと 、一うもり きりふくろ 鳥なき里の蝙蝠鳥のいない所では、蝙蝠も の意で、広大な所にきわめて微小な物のあるこ玉磨かざれば光なし美しい玉も原石のま 神は見通し類錐嚢を通す おくびよう いつばし鳥気どりでいばっているとの意。優れ とや、ごくわずかなことのたとえ。 までは光りもしなければ、形も珍重するに足り闘雀人を恐れず雀のように臆病で弱い月 けんカ いちぞく とっ・かし 鳥でも、喧嘩に夢中のときは大胆で、人が近づた人のいない所では、つまらない者が幅をきか ないとの意。どのように優れた才能や素質をも 類九牛の一毛類滄海の一粟 いても恐れず、逃げることはないとの意。夢中せていばっているとのたとえ。 大事の前の小事大きなことをするには、取っていても、学問などに励んで修錬を積まなけ かまど になっている者が思いがけない強さやしたたか 類竈将軍類我が門にて吠えぬ大なし るに足らない小さなことにも漠重でなくてはなれば、その真価を発揮して、りつばな人となる ことはできないとのたとえ。 さを発揮することのたとえ。 泥棒を捕らえて縄を綯う泥棒を捕まえて らないとの意で、油断から失敗を招きやすいこ きゅうそ や かわら から、それを縛るための縄をようやく綯い始め 類窮鼠猫を噛む類痩せ馬鞭を驚かず とのたとえ。また、大事を成し遂げるには、ト 類瓦も磨けげ十となる 灯台下暗し明かり取りの灯明台の真下は暗るとの意。事が起こってから、あわててそのた 事などにはかまっていられないとの意で、事を知恵無い神に知志付ける純情無垢な者に いとの意で、身近な事情に疎いことや、手近なめの準備にかかることのたとえ。 行うには小事を犠牲にしなくてはならないとの余計な悪知恵をつけるとの意。気づいていない ことがかえってわかりにくいことのたとえ。 類戦見て矢を矧ぐ たとえ。 者にわざわざ入物知恵をして、物事をいたずら なお ははきぎ まっげ ) 一と たいこうさいきん にもつれさせる ) ・このたとえ。 類遠目ばかりの箒木類秘事は睫の如し 直き木に曲がれる枝まっすぐな本にも曲 類大行は細謹を顧みず図小利大損図角を 寝る子を起 ) ・ 問うに落ちず語るに落ちる秘密事は、他がった枝がついているものだとの意。清廉潔白 矯めて牛を殺す ひとむらさめ いっき たか きじたか つの た ためき むち 454
とのも ちよくし は筒井主殿が代官として管理することになり、 コオロギ「蟋蟀〕 cricket 昆虫綱直翅目 も知られている。精子はいったん精包という包叫 や域を縦断している。鹿児島市の近郊性を生かし た園芸農業、山地斜面の牧場、製材業などが行 一時衰微をきたした。その後、大坂の陣ののちコオロギ上科 Grylloidea の昆虫の総称。ケラみの中に入れて雌の生殖口につけられ、そこか ただひさ たんごのつばねまっ おわれる。島津初代藩主忠久の母丹後局を祀るふたたび大名配置が実施され、一六一五年 ( 元科を上科に置いて残りのコオロギ上科をまとめら雌の体内に注入される。地中産卵のもので 花尾神社、川田堂園供養石塔群や展望に優れた 和一 ) 水野勝成六万石、二〇年 ( 元和六 ) 松平ていうこともある。世界に約二〇〇〇種、日本は、先の鋭い産卵管を直接地中に刺し込んで産 ただあきら 入来峠などがある。人口八一三 一。〈田島康弘〉 ( 奥平 ) 忠明十二万石、三九年 ( 寛永一六 ) 本には約六〇種が知られており、そのなかには古み付け、植物組織内産卵のものでは、先が太く きよし 回『郡山町郷土史』 ( 一九七一・郡山町 ) 多政勝十九万石 ( うち嗣子勝行分四万石 ) 、七 くから鳴く虫として親しまれてきたものも多て鋸歯がある産卵管を用いて、組織に小孔をあ わきもと のぶゆき 二万五千分の一地形図「脇元」「鹿児島北部」九年 ( 延宝七 ) 松平 ( 藤井 ) 信之八万石、八五 コオロギの名は古く「古保呂岐」と書か けて産み付ける。変態は不完全。なお、生活史 いじゅういん 「薩摩郡山」「伊集院」 年 ( 貞享一 D 本多忠平十二万石と領主の交代がれ、黒い木を意味したもののようで、コオロギは光周性と強い結び付きがある。 の黒褐色の体色と関連させてその名となったな 〔分類〕コオロギ類 ( 上科 ) はケラ科を含めて 郡山城こおりやまじよう①南北朝期から戦相次いだ。本多氏は、忠常、忠直、忠村と続い わ、ま・し・つ ただつら ようせい 国期にかけての山城。広島県高田郡吉田町字郡たが本系が絶え、弟忠烈が家を継いだが、夭逝ど、いくつかの説がある。 一二科に分類され、日本産種はコオロギ科、ク あき しよう 山にあり、吉田郡山城という。安芸国吉田荘の絶家した。かくてその翌一七二四年 ( 享保九 ) 〔形態〕体長は、アリヅカコオロギのように三サヒバリ科、アリヅカコオロギ科、カネタタキ よしさと ゃなぎさわよしやす 地頭から国人領主化し、さらに戦国大名となっ 柳沢吉保の子吉里が甲府より十五万石で移封 、リほどのものから、台湾にいるタイワンオオコ科、クマスズムシ科、カンタン科、スズムシ もうり のぶとき やすひろやす た毛利氏の本城である。標高約四〇〇の山頂となり定着する。以後、信鴻、保光、保泰、保オロギのような四〇 = 、リ前後のようなものまで変科、マッムシ科、ケラ科の九科に含まれる。工 おき やすのぶ に本丸を設け、南に二の丸・三の丸、西に姫丸興と続き、六代目保申のとき一八七一年 ( 明治 化に富む。体型は背腹に平たく、地上生活に適ンマコオロギやッヅレサセコオロギはもっとも くるわ ッ 0 ン」 . はい・ などの曲輪があり、毛利元就はこの城を本拠と四 ) 廃藩置県となった。 応した形となっている。体色は地面の色に似せ普通にみられ、カンタン、スズムシ、マッム ふだい して各地に転戦していった。一五九一年 ( 天正 シ、カネタタキ、キンヒバリ、クサヒバリなど このように郡山に有力譜代大名が配置され頻た黒褐ないし褐色系のものが多いが、例外的に てるもと 一九 ) 元就の孫輝元のとき、広島に城を移して繁な交代が実施されたのは、この地が京・大坂アオマッムシのように明るい緑色型のものも知は鳴く虫として日本人には古くから親しまれて 廃城となった。 に近く軍事的、政治的に重要視されていたためられている。複眼はそれほど大きくなく、触角きた虫である。スズムシの飼育は江戸時代から ひらやまじろ やまとこおりやま ふた ⑦戦国期 ~ 江戸期の平山城。奈良県大和郡山である。この間、藩内の主要な事件としては一 は糸状で長い。前胸背板は箱の蓋のような形一般化している。 市城内町にあり、普通、大和郡山城とよばれ、 六七一年 ( 寛文一一 ) 本多政勝没後、跡目相続で、おおむね後頭部の幅と同幅。左右の前翅 コオロギ類は、直翅目のなかでも、前翅に共 くろく 犬伏城ともいう。奈良盆地の中央に位置し、佐をめぐって起きた「九六騒動」と称する御家騒は、静止時体の側部を覆う前縁域を除き大部分鳴部のある発音器をもっことや、前脚脛節に鼓 あぎしの とみお 保川の支流、秋篠川と富雄川の中間に突き出た動が著名である ( 幕府裁定で養子政長に九万が重なる。雄前翅の脈相は複雑で、発音器がよ膜があることなどによって、キリギリス類とき ちゅう 形の台地の上に築かれた。織田信長から大和一石、実子政利に六万石を分割 ) 。また、柳沢吉 く発達している。発音は右前翅裏面の第二肘わめて近い関係にある。生活圏の違いが両者の つついじゅんけい へいしゅう みやく 国を与えられた筒井順慶が一五七八年 ( 天正保が甲府在城時代から儒者細井平洲の議をい 〈山崎柄根〉 脈下面のやすり部に、左前翅の後縁部にある分化を大きくしたのであろう。 とよとみ 六 ) 以降築城に着手、さらに八五年豊臣秀吉のれ、大和を中心に山陵調査を行ったことや、入肥厚部をこすりつけて行い、前翅その他を共鳴〔民俗〕日本では、コオロギは家の中で鳴く虫 ひでなが そうけい - 一じよ 弟秀長が入城し、紀伊・和泉・大和百万石の大部早々吉里によって藩校総稽古所の設立が行わ部としてよい音を出す仕組みになっている。雄として親しまれている。その鳴き声を「肩させ、 守にふさわしい城に大増改築を施した。そのれたこともよく知られる。なお、一八七一年でありながら発音器をもたない種もある。雌の裾させ、寒さがくるそ」と聞きなして、冬支度 ました さかい 後、増田、水野、松平、本多と城主はかわり、 ( 明治四 ) 郡山県設置後は、奈良県、堺県、大前翅にはケラ科を除き発音器はなく、脈相は一を早くするように勧めているのだとしている。 ゃなさわよしさと 一七二四年 ( 享保九 ) 柳沢吉里が入り、歴代阪府を経て、八七年再置の奈良県に編入され般的に単純。前翅と後翅の長さには変化が多 ヨーロッパでは予兆を表す昆虫とされ、一般 〈小和田哲男〉 〈平井良朋〉 相継いで明治維新に至った。 、両者を欠くものもある。前脚と中脚は歩行 にコオロギが家の中にいることを幸運のしるし やまとそうのしも 肢で、前脚脛節の基部近くには鼓膜がある。後 とし、殺すと不士ロなことがおこるともい , つ。イ 郡山藩こおりやまはん大和国添下郡郡山回『大和郡山市史』 ( 一九六六・大和郡山市 ) たいせつ ギリスでは、雨、幸運、不運、近親者の死、恋 ( 奈良県大和郡山市 ) 周辺を領した藩。この地郡山盆地こおりやまばんち福島県中央部、ろ脚は跳躍肢で、一般的に腿節は頑丈で太い。 おおなぐら ふせつ ぐんけ あぶくま は奈良時代の郡家の地であり、中世には郡山阿武隈川中流部の盆地。狭義には大名倉山以各脚の附節は三節。雄の亜生殖板は舟の舳先状しい人の到来などを知らせるといし アイルラ しようやくおん うしにわはら やり 荘、薬園荘が置かれた所である。郡山城は室南、牛庭原以北に広がる盆地、広義には北方ので、尾突起はない。雌の産卵管は槍状か錐状、ンドではとくにクリスマス・イプに鳴き声を聞 もとみや すかがわ なぎなた おだぎりはるつぐとりで 本宮盆地および南方の須賀川盆地を含めること または薙刀の刀身状を呈する。 町末期に小田切春次が砦を築いたのが初めとい くのを喜ぶ。また中部ヨーロッパのシレジア地 かわげた つついじゅんけい ひたいどり われ、一五七八年 ( 天正六 ) 以降、筒井順慶もある。西は川桁山、額取山、東は阿武隈高 〔生態〕大部分が地表性であるが、樹上性、家方では、死者の幽霊や盗人がくると鳴くという。 よ ばんだいあたみ がここに拠って本格的な築城を始めた。その地に挟まれている。西部には磐梯熱海、源田な住性、またアリの巣に共生するものなどがあ かって中国には、エンマコオロギの類を飼 とよとみ ました カ 後、豊臣氏、増田氏時代を通じて大規模な増改どの温泉を伴う断層がある。東縁は緩く傾いたる。ウミコオロギのような海浜性の種も知られ 、金を賭けて闘わせる風習があった。そのた かこうせんりよく さんろく 築が行われ完成した。八五年筒井氏にかわり、花崗閃緑岩からなる阿武隈高原西縁の山麓階ている。普通、雑食性であるが、肉食の強い種め、強いコオロギは高値で売買され、コオロギ はしばひでながたじまいずし 豊臣秀吉の実弟羽柴秀長が但馬国出石より、大を郡山層が被覆している。この郡山層は泥炭も もある。前翅に発音器をもっ種の多くはよい声を入れるための焼物の器もっくられて、工芸的 そしゅう いずみ ちうしん 和、紀伊、和泉三か国百万石の大守として入含み、表面近くでも更新世 ( 洪積世 ) 中期の堆で鳴くが、種によっては、さえずったり、縄張に発達した。蘇州では「秋興」といって、寒露 せき おおっき ひでとしひでやすようせつ り ( テリトリー ) を主張したり、けんかをしたのころの行事になっていたが、これを専門的に 部。その養子秀俊 ( 秀保 ) 夭折後、一五九五年積とみられている。この層の上に大槻扇状地が ごひやく おうせ 寺一さはら 〈小島瓔禮〉 ( 文禄四 ) には豊臣政権の五奉行の一人増田長広がったとみられ、五百川、逢瀬川、笹原川な り、近くの雌を交尾に誘ったりするときに、そ職業とする者もいた。 もり こうや こうたん 盛が二十万石で封ぜられ、城下は繁栄を遂げ どはこれらを開析して、対面原、広谷原、庚坦れそれ音調を変えて鳴き、交尾中の鳴き方にも〔文学〕古くから文学にも登場し、『万葉集』 こほろぎ こほろぎ た。しかしながら、関ヶ原の戦いが終わると大原、大槻原、牛庭原などの台地を形成した。中違った調子で鳴くものがある。一方、雄の腹背 に「蟋蟀」「蟋」の形で七首の歌がみえるが、 とうどうたかとら せん 〈安田初雄〉 心地は郡山市である。 和国の勢力配分は一変し、郡山城は藤堂高虎の にある誘惑腺からの分泌物によって近くの雌をこれは秋鳴く虫の総称ともいう。平安時代に入 預りとなり、また一六〇八年 ( 慶長一三 ) 以降囮五万分の一地形図「郡山」 ひきつけるカンタンやアオマッムシのような種ると、「きりぎりす」とよばれるようになり、 いりき なが けいせつ へさき きり すそ
こうひに レルギー性鼻炎、感冒など上気道炎に伴う鼻 用いられることが多い。↓謄写版↓スクリー 紅斑性狼瘡こうはんせいろうそう 0 エリテ陰茎とよぶ交尾器官によって交尾が行われる。 がいそうせき ノ卩リ 両生類のカエルの仲間では体内受精は行われ汁、くしやみ、咳嗽 ( 咳 ) の治療に用いられ 、 - ヒ届 〈山本隆太郎〉 マトーデス こうはんがん 0 ランプロファイア こうはんちょう船舶の甲板部の職長。ず、雌は水辺で産卵し雄が精子をかけるが、こる。副作用として眠気をもつものが多く、その 煌斑岩 甲板長 きようおう 作用の大なるものは睡眠薬として用いられる。 ごうはんしき神人饗応の祭りの場で古くは水夫長といった。一等航海士の指示を受の際、雄は雌を抱きかかえ生殖口を近づける。 強飯式 ジフェンヒドラミンが代表的な薬剤であり、こ これは交尾とはいわず抱接という。魚類は多く 高盛飯を無理強いして食わせる作法を、 しし、そけて甲板部員を指揮監督するとともに、船体・ 1 」くう の例は多い。神の御供はけっして粗末にしては船倉・船用品の整備、荷役準備、貨物の保全・ の場合体外受精であるが、ソードテールのようれより作用が大きく副作用の少ないものが開発 に臀びれが変化した交尾器官をもち体内受精をされた。 ならぬと新婿の通過儀礼として強要する儀礼も保安、船内の見回りを担当する。最近の大型外 アレルギーの原因としてはヒスタミンのみで ある。しかし、普通、強飯式として知られるの航船では、甲板長のもとに甲板手約四人、甲板行うものもある。サメの仲間にも、臀びれの変 りんのう は栃木県日光市輪王寺の強飯式である。同寺の員約三人が配置されている。船員法 ( 昭和二一一化した交尾器が発達したものが多い。無脊椎動はなくセロトニンも関係することから、抗セロ 物では昆虫やミミズ、カタッムリなどが交尾をトニン作用のあるものや中枢神経に対する作用 三仏堂で毎年四月二日に行われ、「日光責め」年法律一〇〇号 ) では、七〇〇総トン以上の船舶 ともいわれる。山伏姿の僧が黒塗りの椀に飯をの甲板部員は最低六人となっているが、「船員行い、独特な交尾器官が発達しているものもあとして静穏作用をもったもの、鎮吐作用、鎮咳 かみしも ちょうだいにん 盛り上げて出て、裃姿の頂戴人に向かって激制度の近代化」のもとで、航海士の職務の一つる。また、雄は、交尾可能なところまで雌に近作用や抗パーキンソン作用をもったものも開発 しい口調で口上を述べ、飯と菜を強いるのであである船橋当直のみを行う半航海士化 ( 運航士づくために、さまざまな求愛行動を行う。↓求され、抗ヒスタミン作用はその一部であるかの さんしようたで 〈和田勝〉ように考えられるようになった。またアレルギ る。菜は唐辛子、生大根、山椒、蓼といった しし、限定免状が必要 ) や、機関部員の作業愛行動 あんき ーを抑制する抗ヒスタミン薬が注射によりショ もの。 をも行う両用部員化 ( 船舶技士という ) が進め合肥ごうひ / ホーフェイ中国、安徽省中部 そう ひすい ックをおこした例もみられ、注射での応用はき 同じ日光市でも七里の上野の生岡神社の強飯られようとしている。なお船舶には、甲板部員にある市で、同省の省都。肥水に沿い、南に巣 かんちゅう 式は素朴である。毎年一一月二五日に行われ、 以外に、機関部では操機長、操機手、機関員、湖を控え、水路網が縦横に走る皖中平原の中わめて少なくなった。現在、かぜ薬の中に配合 しちゅう ちゅうげん ぞうしき めかごぎる されて一般用医薬品として使用されているほ 雑式装束を身にまとい頭に目籠笊をかぶった太事務部では司厨長、調理手、司厨員が乗り組ん心地で、中原と江南を結ぶ交通路上の要地と じよ・」く 1 一うりき か、眠気などの副作用の少ない薬剤がアレルギ 〈篠原陽一〉 して発展した。春秋時代は舒国の地で、漢代に 郎坊・次郎坊に扮する大人を、山伏・強力に扮でいる。↓船員 なんそう ろしゅう ずい ー性皮膚疾患やアレルギー性鼻炎の治療に用い こうひ石碑に刻んだ文が長く残るの合肥県が置かれた。隋代に廬州が置かれ、南宋 した子供が責めるのである。この行事は、強飯ロ碑 はる・」ま になぞらえて、ロ承に残った言い伝えをこうよ代には金に対する最前線となり交易場が置かれられている。また乗り物酔いの薬としてもジメ 式、御飯食に案内申す、春駒と三つに分かれて みんしん こんせき た。明・清代は廬州府治であった。一九四九年ンヒドリナートがよく用いられる。 おり、収穫祭と予祝を含んだ農耕儀礼の色彩をぶ。前代の生活の痕跡を語る昔話、伝説、語り ことわざ わらペうた おもなものをあげると、塩酸ジフェンヒドラ に市が設けられ、安慶から省都をここに移し 多分にみせていて甚だ興味深い。〈萩原秀三郎〉物、民謡、童唄などのほかに、唱え一一 = ロ、諺、 なぞ た。解放前は消費都市であったが、解放後、各ミン、タンニン酸ジフェンヒドラミン、マレイ 謎などが含まれる。口から耳へと、世代を繰り 飯黒にら強栃 ン酸クロルフェニラミン、塩酸クレミゾール、 強た膳が理。寺返しながら伝えられる文芸で、一定の形式をも種工業が急速に発達し総合工業都市となった。 のつ丸な無日王 って、時代の習慣・風俗が変わった今日でも生鉄鋼、鉱山用機械、電動機、紡織、化学、電子塩酸トリプロリジン、塩酸イソチベンジル、塩 姿盛 , べに 2 輪 伏をを述人月 機器、建材などの工場が立地している。旧城壁酸プロメタジン、塩酸メトラジン、酒石酸アリ 命を保ち、同じ内容が場所を変えて点在してい 山飯椀を戴 4 市 じよう′一う こ大よ頂。光る。特定の作者がなく、多くの人に語られ聴かの取り払われた跡が環状道路となり、城濠のメマジン、塩酸ジフェニルピラリン、塩酸イプ 式 , のロのる日 飯がりせ姿す県れてきたことが特徴。記録にとどめられないた跡が包河公園に姿を変えた。旧市街南方に広大口へプチン、塩酸シクロへプタジン ( 体重増加 強僧塗の裃い木 な新市街地が形成されている。名勝旧跡にはの目的でも使用される ) 、塩酸ホモクロルシク めに、古い時代の確証が定められず、考証の限 しようようしん きようどだい リジン、フマル酸クレマスチン、マレイン酸カ 〈林和生〉 界はあるが、庶民資料の大半はこの形態で伝承逍遙津園、教弩台などがある。 しんせかい ルビノキサミン、マレイン酸ジメチンデン、ナ こうびえんるい 0 新世界ザル された。 〈渡邊昭五〉広鼻猿類 、。ノノレ酸メプヒドロリン、メタキシンなどが こうひしよう全身の皮膚が潮紅してノ、、、、ノ 交尾こうび coitus, copulation 体内受紅皮症 らくせつ ひ - 、う 精が行われる動物で、生殖口を密着させて雄の落葉状あるいは粃糠 ( ぬか ) 様の落屑を伴ったあり、抗アセチルコリン作用、抗プラジキニン 精子を雌の体内に送り込む行動をいい、交接と状態。種々の原因によっておこる一種の皮膚反作用など抗ヒスタミン作用以外の作用もみられ しっしん はんばっ 〈幸保文治〉 もいう。進化の過程で陸にあがった動物は、魚応型の症状。汎発化した湿疹とみられる湿疹続る。↓ヒスタミン かんせん むせきつい こうひーーこう磁硫鉄鉱 や多くの水生無脊椎動物のように、生活してい 発性紅皮症、乾癬などが汎発化した各種皮膚疾紅砒ニッケル鉱 患の続発性紅皮症、抗生物質などの薬剤による群の鉱物の一つ。深熱水鉱脈鉱床、ある種の正 る場にある水を精子の運搬手段として使えなく がんしよう なった。そこで雄が直接、雌の体内に精子を送中毒性紅皮症、自家中毒などによるとみられる岩漿性鉱床中、変成層状マンガン鉱床中など しゅよう に産し、他のニッケル硫砒化物などと共生す り込む必要が生じた。このため、多くの種で落屑性紅皮症、細網内皮系の腫瘍や白血病にみ られる腫瘍性紅皮症が含まれる。〈山田清〉 は、精子を送りあるいは受けるための交尾器官 こうーーやく antihista- ~ 赤 が発達している。普通、雄の交尾器官を陰茎、抗ヒスタミン薬 きっ・ ) う , 方 5 圏 銅属灰し 雌のものを腟という。もっとも典型的な例は哺 minics ヒスタミンと特異的に拮抗する薬物。鉱 ・炎金褐な レ Z O 六 5 7 、冫 冖」ゅ、つ 乳類で、よく発達した陰茎を腟に挿入して交 アレルギーの一つの原因としてヒスタミンがあケ名式 り、このヒスタミンと拮抗することから抗アレ ッ英成 尾が行われる。多くの鳥類では交尾器官はとく ニ・組分系 ルギー剤として用いられる。すなわち、急性じ に発達せず、総排出口を密着させて交尾する。 砒名学成晶度重沢痕開 こう しん はちゅう イ副結硬比色光条劈 爬虫類では総排出腔の内壁が発達してできた半んま疹をはじめとしてアレルギー性皮膚炎やア紅学 ふん うわの わん 1 あんけい
とわざ ひなた はさだかではない。諺の諺たるゆえんは、簡潔て、「陽ごばうに陰なすび」と雨の多寡によっ 対しては「下手の横好き」「器用貧乏」などがて中国の古典からの格言が多いように、人口に ごろ かいしゃ で語呂がよく、的確に人生のある一面を浮き彫てできる作物の違いをついたり、「貧乏サンマあり、「渡る世間に鬼はない」に対しては「人膾炙しているが、同時に民衆の体験的な知恵や りにしていることで、上手に使用すれば多大の 賢者のことばが言い伝えられている。一六世紀 に福イワシ」とサンマが豊漁のときは農作は不を見たら泥棒と思え」がある。 効果をあげ、聞く人を感心させる反面、乱用す作、イワシが豊漁のときは農作も豊年というこ 格言となると襟を正して聞かなければならなのオランダの哲学者エラスムスが、『金言集』 じようとう つくば ると嫌みになり、常套語に堕する危険がある。 とを表したりする。「朝富士にタ筑波」という いような倫理的、道徳的なものが多いのに、諺斗 g を書き、イギリスではジョン・ヘイウ 諺はその機能に応じて、批判的諺、教訓的諺は、江戸での天気を的確に表現したものだ となると日常生活のややもすればどろどろとし ッドが一五四六年に英語の諺集を編纂したこと 諺、経験的諺、遊戯的諺に分けられる。批判的が、この種の諺には迷信が入り込むことが多たものが含まれ、その点に強く興味をもつ人が もあって、一六、七世紀にとみに諺が日常生活 諺は、「馬鹿の一つ覚え」「怠け者の節句働き」 において好まれるようになった。また同時代の く、「戌の日に岩田帯」は、犬に安産が多いこ多い。「隣の花は赤い」とか「隣に倉建っと腹 かわず ひのえうま 「井の中の蛙」というように、舌し相手の弱点 とにちなむ風習を表すが、「丙午の女は夫を食たっ」「隣の宝を数える」などは西欧の諺「隣劇作家シェークスピアの作品にも諺となる表現 をついて機先を制し、自分を有利に導くために い殺す」となると弊害のはうが多くなる。 が多くみられ、それが民衆に喜ばれた。まさに の芝生は青い」に等しく、「隣千金に替えん」 しんげん しんせき Proverbs are the wisdom Of the streets. 用いられる。教訓的諺は、格一一一一口、箴一一一一口、金言と 形式的には語呂のよさが第一であって、二息 とか「遠い親戚よりも近くの他人」というよう ちまた よばれるものに近い でいえる長さのものが多く、「雨降って地固ま に、「向こう三軒両隣」をたいせつにしなけれ ( 諺は巷の知恵 ) にほかならない じよ - つず べた 〔日本〕日本の諺の多くは中国の古典や仏教のる」と五五調、「話上手の仕事下手」と七五調ばならない諺と裏腹になっている。この正反対 形式的にはやはり語呂のよさが珍重され、 経典に由来し、「衣食足りて礼節を知る」「三界を用いたり、「地獄に仏」と極端な対比をしたの考え方が一つの緊張関係を生み、人間関係の Never shoo (. never hit. ( 撃たなければ当た に家なし」のようなたぐいのものと、体験的な り、「急がば回れ」と逆説的な表現を用いたり複雑さを的確に表現している。よしんば諺には らぬーーまかぬ種は生えぬ ) というように対句 生活の知恵である「出る釘は打たれる」「早起して強烈な印象を与えるものが多い。このよう格一言にみられるような格調の高さはないにせを用いたり、 As を or as a church mouse. きは三文の得」のような表現がある。しかし日 な効果をねらうには、数字を用いて「一寸の虫よ、下世話の知恵を軽やかに表現することによ ( 教会のネズミのように貧しい ) というように ひゅ 本的な諺はどうしても保守的になり、危険を避にも五分の魂」というような表現をとったり、 って、ともすればぎすぎすしがちな庶民の人間 比喩を用いたり、 ueath 号ま s the 号 c ( or. おやじ けマイホーム主義的になるものが多く、「長い 「地震、雷、火事、親父」のように語の並列に関係の、また日々の生活の潤滑油的な役割を果 ( 死は医師を無視する ) というように頭韻を用 ものには巻かれろ」とか、世知にたけて「地獄 よって印象を強めることが多い しているといえよう。 いたり、 What soberness conceals drunken- さた しんげん の沙汰も金次第」というようになる。経験的諺 内容的には、一面の真理のみを伝えることが 〔西洋〕西洋においては、聖書の「箴言」や ness reveals. ( しらふでは隠せても、酔えば は前者にほば似るが、もっと農業や漁業に密接多く、そのため逆の真理を伝える諺が対をな 「福音書」に基づくもの、ギリシア・ローマの現れる ) というように脚韻を踏んだりしてい る。 に関連したものが多く、四季や天候に関連しす。たとえば、「好きこそものの上手なれ」に古典に由来するものが、ちょうどわが国におい さび ったもので、矛盾することやありえないことの っ類身から出た錆 合わせ物は離れ物もともと別な物を合わ 日本の諺 たとえでもある。 しずれ離れるときがくるも せてつくった物は、、 類は意味の同じあるいは似ている諺、反は悪に強ければ善にも強し強悪非道な大悪 のであるとの意で、夫婦別れなどにいう。転じ 人がいったん改心すると、かえって及ぶ人もな 類恩を仇で返す類余り寒さに風を入る 反対の意味をもっ諺 いほどの善人となるとの意。一念を込めて物事後の祭祭の済んでしまった翌日との意。時て、人間の身体が地、水、火、風の四大よりな ると考えられていたので、人間はいっか死んで 期を失したり手遅れとなったことのたとえ。 藍より出でて藍より青し青色の染料は藍を行えばできないことのないことのたとえ。 あやめ からとるが、原料の藍よりもはるかに濃い青色 類仏もなき堂へ参る類六日の菖蒲十日の菊元の四大に帰ることのたとえ。 類善に強い者は悪にも強い類念カ岩を徹す 類会うは別れの始め類揺るぐ杭は抜ける であるの意。弟子が師より優れていることのた 悪は延べよ悪いと思うことや考えはすぐに 由に水油に水を溶かしても、互いにはじき とえ。 行わず、いったん延期するのがよいの意。悪い 合って混じり合わないとの意。不つり合いに異合わぬ蓋あれば合う蓋ありこの世の中の しゆっらん ことは」れにでもよいとい , つわナ・こま、 類出藍の誉類氷は水より出でて水より寒分別は一時の気の迷いであるから、時間がたて質な物はどんなにしてみたところで、しつくり が、かといって、だれにも都合が悪いといった と融和しないことのたとえ。 ば事情や考えが変わり、実行しないで済む場合 ものでもない。ある人によければ、ある人には も多いとのたとえ。「善は急げ」と対で用いる。 水に油類木に竹を接ぐ 秋茄子嫁に食わすな秋ロの茄子は味がよ しゅうとめ ぐあいが悪いといったように、それそれに使し いので、姑が憎い嫁には食べさせないの意と 反善は急げ 網の目に風とまる風を防ぐために網を張 よも ) 道があることのたとえ。 っても、風はその目を通り抜けてしまって、き されるが、秋茄子は灰汁が強いので、かわいい 麻に連るる蓬麻のようにまっすぐに育つも わめてまれにしか役にたたないとの意。ありえ 類捨てる神あれば助ける神あり類人を見て ののなかに生えれば、蓬のように曲がりやすい 嫁の身を案じて食わせないことのたとえともい 法を説け ものも、まっすぐに育っとの意。善良な人々のないこと、まれにしかありえないことのたとえ なかにいれば、おのずからよい人間となることであるが、何事をするにも、相手をよく選ぶこ 言い勝ち功名ことばの多い者が勝っという 類嫁姑の仲よきはもつけの不思議 とがたいせつであるとのたとえにも使われる。 意で、黙っていてはよい意見も通らないことの 悪事千里を走る悪い行いや評判は瞬くうちのたとえで、教育よりも環境の重要さを説く。 たとえ。 類善悪は友による類水は方円の器に従う 類上げ舟に物を問え に一千里の遠くまでも知れ渡ってしまうとの いっき 、、。ゝナよ、手近な所雨降りて地固まる雨が降るのはうっとう 足下から鳥が立っ思し力しオし 類一揆の寄合類船頭多くて船山に上る 意。悪い評判のたちやすいことのたとえ。 で、意外なできごとが生じるとの意。にわかな しくて嫌なものであるが、そのために、あとで家売れば釘の値段大金をかけてつくった 反好事門を出でず 地面が固まり、よい結果を生み出すこともある家も、売ろうとすれば釘の値段ほどの捨て値で 悪事身にとまる犯した悪事は、結局は自分できごとにまごっき、あわてることのたとえ。 との意。いざこざや争いのあとで、かえって物なければ売れないとのたとえ。 のところに返ってきて、自分自身が苦しむこと寝耳に水 あだ きりん 類麒麟も老いぬれば駑に劣る類昔の太刀 になるとのたとえ。 仇を恩にして報する恨みのある人に、か事がうまく落ち着き丸く治まることのたとえ。 ながたな のろ は今の菜刀 えって情けをかけるとの意。真反対のことをい 類思いを包むは罪深し 」諺類因果は車の輪のごとし類人を呪えば穴二 またた へんさん 451
ごるふ ゴルフ / 歴史 ①セント・アンドリューズでプ レーするメアリー 1 世。 1 6 世紀 中ころ ②スコットランド反乱勃発 ( 1 6 40 ) の報を手にしたチャールズ 1 世は , 臣下に「これをすまし てから帰る」といってゴルフを 続けたという ③草創期の特殊な形のゴルフク ラブ。初期のリンクスコースは 自然そのままで , 馬車のわだち からポールを出すためのクラブ など , 状態に応した何種類もの クラブが使われた。セント・ ンドリューズ・ゴルフ博物館 ② ① ④トム・モリス ( 左 ) と ャング・トム・モリス ( 右 ) 。中央のメダルは 1872 年にヤング・トム・ 7 FIRST GOL ド CllAMPtONSlliP : 、ル D ・ : モリスが全英オープン に優勝し , 獲得したも R 円引まんト c»lf ト↓ー心 ー Goli ・ 0 、ト“′ のである 0 ぃ ⑤第 1 回日本プロゴル フ選手権は , 1926 年 7 月 4 日 , 茨木カンツリー 倶楽部で行われた。参 加選手は 6 名。右から 朝冖いは・ 2 人目が安田幸吉 , 左 端が宮本留吉 にな 寡れプ し コ 神マお去 クびまー ココずのいゴ し至ス マーコう コ死展 一変 リ コ ト 冫 / よ 実た ド沿に 、て、 。五フドれ 芟ルル中後ァうル ンも たり四 ン洋ル去 を 調 コ ノレ ロ る証も固革よそ打 状ー沿 主な彼年ルイ 国を 0 き五 、世のカ 。促理ピ 0 ↓ サ フビゕ継 モト亠ビ発 ー発ピ フ シ の有 ち ス / ル革 に大元の つれ 義研の 兄兄は ラトッハ し = ック ⅱ冊 ア ンリ三ノ振 分振ツ ゴてま継上 ゴ 技な 。究文イ大語イ と 三訳都王命 ユらぐ ク ) た と ツ ス 初 プ学学 , 回 回ッ いす も ル優 で ぎに 五全対学 と ル用 まジ姿者の〇す に朝を シ発時 : コ 割 フ - ツ 0 に路回 フ 劣 に 、静 フ 目 を五象史 しが る をが大七な の受 ス振代 の ツ教・ル ク 丿レ ä 工 イ授文べツ のを要定止 用 / 消赴司年と と っ好けコ教フ て が巻はは 丁回を フ ユ ク ) 0 弯任大し ス 説す ロロ : 基コ 主かド理 兄兄 しめ し ヒ、学ル ム路開 の遇 丿レ・会ラ らイ念大二をク ビ最ン当 源 ' コ四がる た ら 都て 教を一 っ 著 の をし て せ 正 ルとず 説 ツ世あ スれし 技ス 学と子 の信 云侍 ノ初シ ジ改発オ 兄兄 。なツ史 イ・ る古的教犖ぶポ史 = ト 糸己 つ技 たる に 、彼大徒 っ と ト 堂て九ののス ャ 善明 還ヵま 典方授ギ。ン家 コ ロホポ 、い なキが五を死四生中コ にて フ は 大司〇建ぬ年ま国会 す側 ノレ ン現 、オて 競技 ジ無ま周 つリ ろ ビ たス都教〇てま大をれ伝の るの 九大ブ ド行 技方 フは ク し、 一線た波 丿レル 形 で に〇 ま を 学レ コ 0 0 、で都と。道修 のの ト コ技 州 ン シ教 没 任人聖布教者道 ダ のイ ス 打球杖 庶形だ ル術 オ話 同年哲メ 西時ィ 、エ・ o も コ 数孔う状 民 式に 日基 力、 は 叩を書教北・、皇 呈 ピで 。士 レ 事 ノレ 潟代ッ 倉ひ の地義 る さ得 間と決 本本 ら を 示 ) ニ南 の を・ の ン ー業 ッ重 ン / に ツ フ 子 和 光 に方定渡 の的 とれた ト ヘク の フ お と モ を 、て、 ッ要 ク ) ク ) コ イ シ の ロ ノ、 宏 雄 親法的 フ 多 現ル タヒ ノ、 ンよ生全 ま そた ン 事 と で 発のな フ フ 余 時ア ス手 ルプ も の衆西 よ と し し よ 本幅 の る は めたイ る な カ シ き に名 ぇ ' 技こ ま な つが止仰に し 認かポ権 裕 中 メ 疲て いこ国洋ゴ るロ フやゴゴ改ゴ基規公のル 。ギ ズ 、ク よ て 、のはま でいん L- ス つ の のし、 を も リ 弊いそ ー競認に技ポルル正 。めな ル盤則平 宝艮 で に ル コ に事あ妨それ っ と ノヾ リ し、 兄兄 兄兄 フ つ 小ゴカ ツ技め な 0 しる 渡 フ ら がフ と がな製 ッ及技 れ にちでお わフ 技は実るげれオ し、 フ ス フ し れ場で 協 行協 ルは っ も ルが な つ規ク に ・ゆ に る にあ ト し い と が事 しナ つは の王は 組ス 、フ大ゴイ は ムは もれた長を盛・ヘ . ェ、・オつ - 会。 っく 睾勺ー ク る が フてま 、る 、はな盛実 っ る 織 て フ 戦大 戦ルギ 第いたイ 、開 。じ専んがれ フ・ ラ選 いが と て ら ゴ新九 執こ安るん カ ; ンい が 王 . ー付 る多オ催アやて 門に . ル る プ 現 存 ド に フ リ 。ギ のいれ必 っ 、ル大世 の息 も の に明 の 中 ハ のでよ 界 ス 次き がい にな 。協るた要 権 し、 イ のた展 リ そ フ陸 紀 マ ィ し のなら 兄兄 日 の 好赤る も は世 、〇 はがプれチて 日議 奪ニ た つ る 糸己一 に後 に小 ル ギ て 技のと り ス ク ) コ そる 景十被沈大 、の く にを 本 つ 世 に後 の現こあ いは都 、以 が フ。、 ン . る き すし ー移半 ュ し風 害滞戦大 アプで 刄 い紀迫 っ定でも在 る つが る世市 や降 わ に 兄兄 才 1- も レ れ き、 ス入 貴 コ て潮 一始 スが界セ しを 戦ににる イ崔 に義は 口実者れめは す ル技運 と はがて が ク ) き く と 、てれ イ 族 、と め ゴ 身 六 援ほた勝がそ入ほか誕れギ よ フ技がてて 、に同 、最 と 見 て 当 階禁勅 に ン 、て フ いな ら ルー古 と 。ち大のる どに生た つを 工教で 行 れ っ級止令 リ 時ではな ト い に 国い 、とれフ八と と ンの こ抜き王やの のツ習き使るれ四ラ て試ん ス かは懇っ 0 よ たになし こ民る の し 。を年フ・ゴか公称た協世いア グ上称 な座ア実〇一ア本 ゴみどれく シに 、用 ら最親たオ 基ごとル条式し 会紀わン ラ下さ にた役さメカ年八メ土 ョも彼す な の高的 ルた まもる武一 本とアフか競て最中れ ド ンをれな 反め割えリをも八 伝のなほブナ携らる く るれ莚あ全道五 リか フほ 、し国を奪カ備た八カら にメ総ら技実初が ド問る のど 統大意かンルわは ク に 大の戦てカ占つはえた年合大 に会義の選とる ゴ、 フ 日大リ 則なに物はでろ同ユ にわゆ 、た禁信紀 639 」三イ え