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1. 日本大百科全書 9

がある。 に弾圧しつつ三月下】の総選挙に臨んだからではこの秘蹟によって許される。この秘蹟を受け 「国家学」はその内容において英米流の「政治 かいしゅん 〔外国の国会議事堂〕それそれの国の政体、伝ある。さらに事件の〕 ( 一二八日には、緊急令によるためには、自分の罪を究明し、悔悛して、 学」と多分に重なるので、わが国では政治学に ってワイマール憲法を事実上廃止し、ナチス党司祭にその罪を秘密裏に告白する。司祭は自分しだいにとってかわられるようになった。ドイ っ統に応じて種々の形式をもつ。二院制の国では 日本同様に同一建物に併置される場合 ( イギリ のテロ独裁樹立への第一歩が踏み出されておが聞いた告解の秘密を厳重に守る義務を負う。 ツでは政治を広く社会現象とせず国家現象とし ス、アメリカ、スイス ) が多いが、二院が同一り、高度に政治的な慧味がこの事件には与えら罪が許されるのは、キリストの救済のわざによて限定的にとらえたので、政治学ではなく国家 一、ナス 議場を交替で使用するもの ( タイ ) や、別個のれたからである。 〈吉田輝夫〉る。↓サクラメント↓告白 〈門脇佳吉〉 学が発達した。国家学においては、国家の社会 ぎじろく こっ力しー 建物に置かれるもの ( フランス、イタリア ) な こっ・いぎじろく 0 議 ~ 爭録 : まう広義には、国会に関す的側面と法的側面のいずれに力点を置くかによ 国会議事録 国会法 かいきせいどうめい国会る、憲法の諸規定と各種の形式の法を総称し って、その内容や取り扱い方法が異なる。法的 どの例がある。併設の場合も、左右対称 ( アメ国会期成同盟 リカ ) 、前後配列 ( スイス ) 、不均整配置 ( プラ開設請願運動の全国衂政治結社。一八八〇年 ( 実質的意味の国会法という ) 、狭義には、一九側面を重視する場合、それは「国法学」 staats- ジル ) などの諸例がある。 ( 明治一三 ) 三月一一」〔日に開催された愛国社第四七年 ( 昭和二一 l) 制定の「国会法」をいう rechtslehre ともよばれ、憲法学に接近する。 〔イギリスの議事堂 ( ザ・ハウズイズ・オプ・ 四回大会で、愛国社こは別に、全国の地方政社 ( 形式的意味の国会法という ) 。広義の場合は、 社会的側面を重視する研究は今日の「政治学」 バーラメント ) 〕ロンドンのテムズ河畔にあり、 の運動をつなぐ組織こして一七日に発足し、国日本国憲法第四章「国会」に定められた条規をや「政治社会学」と重なる。第二次世界大戦後 旧議事堂として用いられたウエストミンスター 会開設をかちとるまに会を存続させることを決中心に、「国会法」「国会議員の歳費、旅費及びのドイツでは依然「国家学」の名を冠する本が 宮殿の焼失後、公募に当選した 0 ・バリーおよめた。四月八日、一言三二県、九万六九二四人手当等に関する法律」「議院における証人の宣出版されているが、「政治学」の研究も盛んに いんか び・・ピュージンの設計により一八五二年の委託を受けた「国会を開設するの允可を上願誓及び証言等に関する法律」「議院事務局法」行われている。 〈飯坂良明〉 こうのひろなか こっかかんり統制経済を実施する 完成。大時計ビッグ・べン、ビクトリア・タワする書」が起草され、片岡健吉と河野広中が代「国会職員法」「議院法制局法」「国立国会図書国家管理 だじようかん ーなどにより象徴されるゴシック様式建築。一表で、太政官と元老院に提出したが、両方と館法」などの法律のはか、各議院の議決によるため、私企業の所有形態には変化を加えず、そ 部火災前の遺構も残る。下院議場は一九四一年も受理されなかったこれに激怒した全国各地「衆議院規則」「参議院規則」、両議院の議決に の経営管理を国家が強制的に一元化して支配す ドイツ機の爆撃による破壊後ほば旧態に復原さの民権派は続々と蕫や建白の運動を始めた よる「両院協議会規程」「常任委員会合同審査ること。日本では、第二次世界大戦中、軍需産 れた。議員は定席を有しない。 が、いずれも却下されるか、回答を得ることが会規程」、および各議院の議長が定める規則業において軍管理工場のような形で広く行われ できなかった。 〔アメリカの議事堂 ( ユナイテッド・ステー ( 「傍聴規則」など ) などを含む。議会に関すた。また、戦後も、経済復興のため、電力と炭 ツ・キャピトル ) 〕首都ワシントンのキャビト 同年一一月、東京て開かれた国会期成同盟第る定めは、諸外国では議院規則の形式で定める鉱について国家管理が行われた。戦時中の国家 ル・ヒルにあり、一七九三年起工後、数次にわ二回大会では二府二二県一三万人を代表する六 のが通例であるが、わが国では、憲法の委任に 管理は、戦争目的遂行のための総動員的性格の たる改修、増築ののち一八六一年ほば現状とな四人が集まり、関東や東北などからも参加があ基づく立法事項のため、また憲法の諸規定を補ものであったが、戦後のそれは、民主化の色彩 った。中央ドーム上の自由の女神像は一八六一一一り、運動は拡大した。この大会では、弾圧を受充する細目的規定として「国会法」を制定し、 を強く加えながら傾斜生産方式を実施するため 年取り付け。当初建築部分の設計は、競技設計 けた者の救援を図るための遭変者扶助法が定め他方で各議院の自主権にゆだねられている議院のものであり、両者は性格をかなり異にしてい に当選した・ソーントンによる。建物は東面られ、また翌八一年 ( 明治一四 ) の大会まで規則をも規定するという特異な形をとってい た。しかし、いすれの場合も、国家管理の実態 し、南北に下院、上院を配置する。日本国会の 、加盟各社が憲法見込案を持参し研究する合る。その理由は、明治憲法のもとで、「議院法」はかならすしも成功したとはいえず、官僚的統 議員会館に相当する建物や、国会図書館などの議がなされた。これを受けて各地で憲法起草の によって大綱を定め、その下で議院規則を制定制の放漫さが強く現れた。なお社会主義国では 付属施設は広範囲に広がり、専用の簡易地下鉄取り組みが始まったが、明治十四年の政変が起したという方式を、現行憲法の下でも踏襲した国家管理が経済の中軸を構成するため、同様の 〈福永和彦〉 道などによって結ばれている。 こり、ついに憲法草案の審議をすることなく、 ことによる。このため「国会法」は、憲法の補欠陥が明らかに露呈されている。↓統制経済 ↓傾斜生産方式 〈森本三男〉 国会議事堂放火事件こ。かいぎじどうほう国会期成同盟は自由覚結成への準備会と合流充規定と議会の内部法という二重の性格をあわ ッ ヒトラー政権し、政党組織へと変わっていった。↓国会開設せもっことになった。 かじけん Reichstagsbrand 〈池田政章〉国家行政組織去こっかぎようせいそしきほう こっかがく Staatslehre 請願運動↓自由民権運動 ッ 普通形式的には、一九四八年 ( 昭和二三 ) に、 / 行政 が成立して一か月後の一九三三年二月二七日 〈新井勝紘〉国家学 「国家学」とよばれるものは、一九世紀ドイツ 官庁法にかわって、内閣統轄のもとの行政機 夜、ベルリンの国会議事堂で起こった放火事回内藤正中著『自由民権運動の研究』 ( 一九六四・ 青木書店 ) ▽後藤靖著『自由民権』 ( 中公新で発達した国家の原理、制度、体制などに関す関、その長、長の権限、職員の定員など、国の 件。事件直後、現場でオランダの元共産党員フ アン・デア・ルツベが放火犯人として捕らえら 書 ) ▽永井秀夫著『日本の歴史自由民る研究をさし、特定国家ではなく国家一般を取行政機関の組織の基準を定めた法律 ( 昭和一一三 権』 ( 一九七六・ 小学館 ) ▽色川大吉著『自由民り扱うものとして「一般国家学」の名でも知ら年法律一二〇号 ) として制定されたものをい れ、数日後にはドイツ共産党のトルグラー、。フ ルガリア共産党のデイミトロフら四人が共犯と 権』 ( 岩波新書 ) ▽江村栄一著『自由民権革れている。代表的学者としては、・イエリネ 、全文二五か条からなる。実質的には、国の 命の研究』 ( 一九会・法政大学出版局 ) ック、・ケルゼン、・ヘラーなどがあげら各行政機関の設置・組織・権限に関する法の全 して逮捕された。裁判ではトルグラーら四人は - くりつこっかい こっかいとしよかん 0 国立国会れる。ドイツでは国家に関する百科事典的な全体をいう。これらの定めは、明治憲法時代は天 証拠不十分で無罪となり、ルツベのみが死刑と国会図書館 としよかん 般的・総合的研究を称して「国家 ( 諸 ) 科学」皇の官制大権によって勅令の形で定められてい なった。この事件は今日でも不明な点が多く論図書館 Staatswissenschaften とよび、国家に関するたが、日本国憲法のもとでは、その基本的な定 議をよんでいる。ルツベの単独犯行説もみられ土ロ解の秘蹟こ。かいのひせき Sacramen- カトリック教会の七哲学的研究を「国家哲学」 Staatsphilosophie 、 めは法律によらなければならないとされて、国 るが、一般にはゲーリングらナチス首脳が深く tum Poenitentiae つの秘蹟 ( サクラメント ) の一つ。現在は「許国家に関する哲学的・科学的考察の歴史を総括家行政組織法のほか、内閣法、会計検査院法、 関与していたと信じられている。というのも、 ナチス政府は事件を機に国際共産主義の脅威をしの秘蹟」とよぶ。読礼を受ける前の罪は受洗的に「国家論」 Staatstheorie と名づけて「国国家公務員法 ( 人事院 ) および各府省設置法な 〈池田政章〉 どが制定されている。 あおり、共産党、社会民主党など左翼を徹底的によって許されるが、洗礼後に犯した重大な罪家学」と区別する。

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れるニュアンスがある。しかし、アメリカの黒第二〇条での諸目的の達成に寄与すべきもので型」と「後進型」とに分かれる。先進型は、ル務員および地方公務員はもちろん、国会議員や ネサンスや蒙思想の普及を通して個人主義を地方議会議員も含み、さらに公共企業体その他 人解放運動の一環として「公民権 civil rights ある。↓社会教育 運動」という訳語が用いられている場合の公民 法制定前 ( 昭和二〇年代 ) に全国に広がって経験することによってデモクラシーを理念としの公法人の役職員なども、公務に従事する限り 公務員である。日本国憲法第一五条にいう公務 は、市民とまったく同義である。同じことばが いた公民館設置運動は、大都市からの「疎開文てもち、国家権力から自由な市民 citizen 国連の国際人権規約の場合には「市民的権利」 化人」、復員軍人や海外からの引揚者のなかの citoyen を育成する。後進型は、個人主義員はこの意味に解されている。 しかし、一般に公務員という場合には、国会 と訳されているからである。 〈飯坂良明〉知識人、開明的な市町村長等が主要な担い手でを十分に経験せずに、先進諸国の帝国主義的資 皇民化政策 ) うみんかせいさく一九三七年あった。地域によっては、戦時中に強化された本主義に対抗する必要からナショナリズムを理議員や地方議会議員を除き、それ以外の国また は地方公共団体の公務を担当する者 ( 国家公務 ( 昭和一一 l) の日中戦争開始後、朝鮮人を侵略隣組組織をときに逆用もして展開された。目的念としてもち、国家への忠誠心をもった国民・ 員および地方公務員 ) をさし、また狭義におい 戦争に動員するため、「内鮮一体」の名のもと としては、民主主義の普及、地域文化の振興、新公民 Staatsbürger を育成する。 に、それまでの同化政策をいっそう強化し、朝しい地域共同社会の開発、科学の成果を導入す〔教科としての公民教育〕このような公民教育ては、行政に従事する職員だけをさしていう場 鮮人の民族性を抹殺しようとした日本帝国主義る殖産興業、保健衛生の進展などであったが、 は学校教育全体で行われるだけでなく、「公民合もある。なお、従来は、広く官吏および吏員 という語が用いられ、日本国憲法においても官 の政策。朝鮮総督府は、三八年に国民精神総動これの監督庁についても、地方自治庁 ( 自治省科」などの教科を特設しても行われる。教科と へきち 員朝鮮連盟を結成し、山間僻地にまで建てさせの前身 ) 、厚生省その他の省などがあったが、 しての公民教育では、憲法、法律、政治制度、吏・吏員の語を用いているところがある ( 憲法 ようは、 た神社の参拝、毎朝の宮城遙拝、日の丸掲揚な 結局、文部省社会教育課を中心とするグループ経済機構、社会組織などについての教科内容が七三条四号・九三条二項 ) が、官吏・吏員とい どを朝鮮人に強要した。また、「私共ハ大日本によって法案が作成された。その後これらの諸重視される。したがって、市民社会・国家の発う場合には、普通、公法上の身分的隷属関係に けんいん 帝国ノ臣民デアリマス」、「私共ハ心ヲ合セテ天機能開発の主要な牽引力になったのは、市町村達とともに成長しその社会・国家を発見し基礎たち、国または地方公共団体の公務に従事する づけてきた社会諸科学の内容を取り込み、実証ことを本務とする者のみをさすのに対して、公 皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス」、「私共ハ忍苦鍛練シ長またはその経験者で見識と熱意をもつ人々 テ立派ナ強イ国民ニナリマス」という「皇国臣や、地域性に根ざした青年団、婦人会等の意欲性や批判性などの社会科学の要求をいれ、社会務員という場合には、それよりも広く、たとえ ば、臨時的労務の提供をなすにとどまる者や、 民ノ誓ヒ」 ( 児童用 ) および成人用の「皇国臣的なリーダーたちであった。「公民館機能論」 科学教育としても機能する。 民ノ誓詞」を、学校はもちろん職場の朝会や映の時期は一九五五年 ( 昭和三〇 ) ごろまで続 現在の公民教育は、単に基本的な政治、経ほかに職業をもっことを許される顧問、参与、 画館での上映前など、人の集まるあらゆる所でき、「施設なき公民館」説が相当な説得力を発済、社会だけでなく、現代民主主義社会・国家委員なども含まれる。 ところで、旧憲法のもとでは、その公務員制 唱えさせ、「皇国臣民化」に努めた。さらに同揮もしたが、この時期の収穫の一つが、各地での発展に伴い現れてきた現在の社会問題 ( 科学 年の教育令の改定で、学校での朝鮮語の教育、の総合社会教育計画の樹立であったといえる。 技術、環境、国際社会、平和、人権など ) をも度は、天皇に身分的に隷属した官僚的な官吏制 度であった。すなわち、官吏は、すべて天皇の 占領行政終了の一九五二年、公立公民館の管内容とした学習を必要とする。 使用を禁止し、朝鮮語を使った場合は罰金をと り、それだけで落第させた。官庁でも日本語使理権が市町村長から一斉に市町村教育委員会に 現在の日本では教科としての公民教育は、社任官大権に基づいて任命される天皇の官吏であ って ( 大日本帝国憲法一〇条 ) 、「凡ソ官吏ハ天 用を強制する一方、四〇年代に入ると朝鮮語の移された。昭和三〇年代に国の公立公民館設置会生活を理解し、「民主的、平和的な国家・社 へんさん 新聞、雑誌を廃刊させ、朝鮮語辞典の編纂を進費補助基準が定められ、小地区の私設の類似施会の有為な形成者として必要な公民的資質」皇陛下及天皇陛下ノ政府ニ対シ忠順勤勉ヲ主ト シ」 ( 官吏服務規律一条 ) 、天皇の名において人 ( の基礎 ) を養うと規定された社会科を中核に めていた朝鮮語学会を解散させるなど、朝鮮語 設を分館に組み入れる道が開かれるなどがあっ の抹殺を進めた。三九年には朝鮮固有の姓名をて、法人立公民館の増加停止、中央公民館の大行われている。とくに中学校の「公民的分野」民を支配する特権階級であった。これに対し 日本式に変えさせる「創氏改名」を断行し、そ型化、公民館事業の「学級」「講座」中心の定や一九八二年度 ( 昭和五七 ) から高校で実施さて、国民主権主義を根本のたてまえとする現行 憲法のもとにおいては、公務員は当然に国民の のため自殺者も出た。さらに朝鮮民族を兵員資型化等の時期が始まった。その後、公私立の類れた新科目「現代社会」がその中心になってい 源として直接軍隊に動員するため、三八年に志似施設による豪華な講座の開設増加の傾向等のる。公民教育が教科として行われる際には、多公務員であり、国民全体に奉仕すべき国民のた ひょうばっ めの公務員でなければならない。憲法第一五条 なかで、社会教育の中心機関を標榜してきた様な内容をどのように体系づけ指導するかとい 願兵制を、ついで四四年には徴兵制を実施し に、「公務員を選定し、及びこれを罷免するこ 公民館体系も、いまや構造改善や進路調整をせう問題と、公民教育が要請する態度形成をどの た。このような圧政に対し、朝鮮民衆は一貫し とは、国民固有の権利である」 ( 一項 ) とし、 〈藤原英夫〉ようにその教科内で保証するかという問題が、 て闘い続けた。しかし一部の朝鮮人は、同化すざるをえなくなってきている。 また「すべて公務員は、全体の奉仕者であっ ることによって差別からの脱却、同等の権利の 公民教育こうみんきよういく近代市民社課題として残されている。↓公民〈池野範男〉 獲得を夢みたが、結局は日本帝国主義の民族性会・国家が封建的遺制を払いのけ、自らを再生回関口泰著『公民教育の話』 ( 一九四六・文壽堂出て、一部の奉仕者ではない」 ( 二項 ) と規定し 版部 ) ▽・ケルシェンシュタイナー著、ているのは、このことを示したものである。国 抹殺、侵略戦争の遂行に手を貸すことになっ産するために、近代市民・国民意識を意識的に 〈大和和明〉保持した担い手を育成することを目的にした教 玉井成光訳『公民教育の概念』 ( 一九ハ一・早稲家公務員法および地方公務員法を中心とする現 行公務員法のねらいとするところも、このよう 田大学出版部 ) 回宮田節子著『朝鮮近代史研究双書 2 朝鮮民育。つまり、現実的であるものや理想とするも こうむいん広義においては、国また な憲法の精神にのっとった民主的な公務員制度 衆と「皇民化」政策』 ( 一九会・未来社 ) のに関する、政治的、経済的、社会的な知識を公務員 こうみんかん社会教育法 ( 一九四九 ) に習得し、それに従って行動する態度をもった市は地方公共団体等の公務に従事することを職務を確立し、また同時に、現代の高度に技術化さ 公民館 とする者を総称していう。任命、嘱託、選挙それた複雑な行政をできるだけ能率的に遂行しう よって制度化された、第二次世界大戦後の代表民・国民に青少年を育成する教育である。 の他いずれの方法で選任されたかを問わす、まるような科学的な制度とすることにあるといえ 〔公民教育のニ類型〕近代市民社会・国家が、 > 的な新しい機関で、英語でシティズンズ・バブ よ、つ た立法、司法、行政のどの部門に属するかを問 リック・ホール citizens' public hall と特称産業市民層の成熟度によってイギリスやアメリ む 。この意味では、国家公務員法および地〔国家公務員〕国の選任により、主として国の 一フする。一定地区の住民のための、実際生活に即力やフランスの先進型と、ドイツや日本などのわない 公務を担当する国の職員をいう。ただし、地方 3 」する教育、学術、文化の諸活動を通して、同法後進型に類型されるように、公民教育も「先進方公務員法にいう一般職および特別職の国家公 およ

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ならない ↓召集 〔立法に関する権限〕立法とは、形式的意味で案件に先だって内背総理大臣の指名を行うこと 議員の有する不逮捕特権の例外として会期中に は法律を制定する作用で、発案、審議、議決、 になっている ( 窄、院の優越が認められる ) 。その議員の逮捕を許諾するかどうかを決定する ④休会日本国憲法は、明治憲法のような停会 3 っ署名 ( 主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣この権能は、衆議の内閣不信任決議権と相ま権能、および会期前に逮捕された議員についてを認めていないが、両議院一致の議決による国 が連署する ) 、公布 ( 天皇が公布し、官報に掲 って、議院内閣制基礎をなす。次に、裁判官会期中釈放を要求する権能などがそれである。 会の休会と、各議院の議決による各議院の休会 こ 載される ) の段階で行われる。法律案は議員に の弾劾についてけ、いわゆる同僚裁判を避け〔国政調査権〕国会が立法府としてまた国民代 ( 一〇日以内 ) を認めている。 よって発議されるほか、内閣もこれを提出するて、国会議員によて構成される裁判官訴追委表機関としての職責を果たすためには、国政に 休会は、国会または議院が活動を休止するこ 、国の行事、年末年始、そのほか議案 ことができる。内閣にも法律案の提出権がある員会 ( 各議院から各一〇人を選挙 ) が訴追し、関して一般的な調査権をもっことが必要であとをいし かについて学説は分かれるが、通説はこれを認 弾劾裁判所 ( 各議院から各七人を選挙 ) が、裁る。そのため国政調査権は、広く立法、行政、の都合によって行われる。俗に「自然休会」と め、実際にも行われており、実状は内閣提出法判官に重大な職務トの義務違反や非行があった司法、財政に関する事項など国政全般に及び、 よばれるのは、議決によらず慣例上または申合 案の数が全体の七割近くを占めている。議員が かどうかを判断しの適否を決する。弾劾裁それらに対する監督的権能 ( とくに行政に対しせによってする休会で、年末年始の休会などが これにあたる。↓休会 法律案を発議するには、衆議院においては議員判所は国会の機関てはないので、閉会中もそのて ) を果たすことが期待されている。事実、こ れまでに、国会はこの調査権に基づいて、昭電 ⑤衆議院の解散解散は議員の任期をその満了 二〇人以上、参議院においては議員一〇人以上職務を行うことが一 - きる。 前に終結させる行為で、内閣の助言と承認に基 ( 予算を伴う場合は、それそれ五〇人以上、一一 〔財政に関する権〕憲法は「国の財政を処理事件、炭鉱国管事件、ロッキード事件など数々 づいて天皇が行う。衆議院だけに認められ、参 〇人以上 ) の賛成が必要である。法律案が発議する権限は、国会議決に基いて、これを行使の汚職の摘発などに大きな成果をあげてきた。 または提出されると、議長はただちにこれを所しなければならな」 ( 八三条 ) と規定し、財ただし司法権の独立を侵すような調査、これに 議院にはない。解散は国会会期中に行われ、会 管の常任委員会に付託し、審議はこの常任委員政立憲主義の原則を定めた。まず租税を課し、準する検察権に対する調査、公務員の守秘義務期もそれと同時に終了する。参議院は閉会とな 会を中心に展開され、本会議にはそれほどのカ現行の租税を変え二ときは法律によらなければ に属する事項に関する調査については限界がある。日本国憲法によれば、内閣は、衆議院で不 点は置かれていない。法律案は両議院で可決し ならない ( 八四条これを租税法律主義とい り、また人権侵害になるような調査方法は行わ信任の決議案を可決し、あるいは信任の決議案 を否決したときは、衆議院を解散するか、総辞 たとき法律となる。衆議院で可決した法律案に う。次に、国の取入をどのように支出するかにれてはならないとされる。 ついて、参議院でこれと異なった議決をしたとついて国民が監督才、へきであるから、予算は国〔内閣不信任決議権〕衆議院のみがもっ権能で職するかのいずれかを選ばなければならない あり、議院内閣制を基礎づける重要な権能であ ( 憲法六九条 ) とされているが、右に述べた場 きは、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数会の議決が必要レ」される ( 八六条 ) 。さらに、 でふたたび可決すれば、衆議院で議決した内容予算によって定められた支出が現実に守られたる。これに対して内閣は衆議院の解散権をも合に限らず、憲法第七条に基づいて、内閣は理 かどうかを検査する必要があり、会計検査院がつ。参議院の場合は、内閣の責任を追求する手由があると認めたときは随時、解散の決定を行 で法律として成立する ( 憲法五九条 ) 。 うことができると解されている。たとえば、衆 憲法改正案については、各議院はその総議員それを行うが、国会は検査報告とともに内閣か段として問責決議案を提出することがあるが、 の三分の二以上の賛成による発議だけをなし、 ら提出された決算を審議し、内閣にその責任を法的な効力はなく、事実上の責任追求手段にす議院がそのときの国民の世論を代表する程度に つき疑いがあると認められる場合、新たに重大 問うことができる ( 九〇条 ) 。内閣は国会に対ぎないと解されている。↓不信任決議 最終決定は国民投票の結果にゆだねられる。 して国の財政状況について報告しなければなら〔国会の活動〕①会期国会の活動がなされるな政治上の事件が生じた場合、内閣がその政策 予算の議決については、法律案と異なり、ま の根本的な変更を行おうとする場合などが考え ず先に予算案が衆議院に提出される ( 衆議院のない ( 九一条 ) 。↓予算 期間を会期といい、常会、臨時会、特別会の三 られる。衆議院が解散されたときは、解散の日 〔議院の権能〕両議院が共同して行う権能を国種類がある。↓会期 予算先議権という ) 。予算審議で問題となるの ⑦常会・臨時会・特別会常会は毎年一回一一一から四〇日以内に衆議院議員の総選挙が行われ は、国会が修正権をもっかどうかという点であ会の権能というのに対し、各議院が単独に行使 る。↓解散 月に召集され、会期は一五〇日間。臨時会はい るが、減額修正は自由にでき、増額修正は内閣しうる権能を議院の権能という。このなかに ⑥参議院の緊急集会国会はつねに開会できる は、両議院に共通に認められるものとして、法ずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求が の予算作成権を害しない程度なら認められると 律の発案権、自律権、国政調査権、請願の受理あった場合、臨時に召集され、特別会は総選挙態勢にあることが望ましいが、衆議院解散後新 解されている。 後三〇日以内に召集される。臨時会・特別会の国会が成立するまでの間は、国会を召集するこ などがあり、衆議院にのみ認められるものとし 条約の承認は、内閣が締結した条約につい て、原則として事前に、またときによって事後て、予算の先議権、内閣不信任決議権などがあ会期の長さ、および会期の延長は、両議院一致とが不可能である。そこで、この期間中に国会 の議決で定めるが、一致しないときに、参議院の議決を要する緊急の必要が生じたとき、参議 になされる。国会の承認がなければ条約の効力り、参議院は緊急集会中の権能を有する。 〔自律権〕両院はそれそれ独立して議事を開が議決しない場合には、衆議院の議決が優越す院に国会の権能を臨時に代行せしめるために設 は生じないと解する説が有力である。また国会 き、審議・議決する。そこで各院は他の機関かる。通常、議院内閣制のたてまえから、政府のけられたのが、参議院の緊急集会の制度である が条約の修正権を有するかという点について、 肯定説、否定説の両説があるが、否定説が有力ら干渉を受けることなく十分に審議を尽くすた意図が実現されるので、政府の便宜的な会期延 ( 憲法五四条二項 ) 。内閣の求めによって開か めに、おのおのその内部組織や運営、および内長に対し、野党が強く反対して国会が混乱に陥れ、そこで決められたことは、次の国会開会の である。 のち一〇日以内に衆議院の同意を得る必要があ 〔一般国政に関する権限〕内閣総理大臣の指名部規律について自主的に決定しうる権限が与えることがある。延長は、常会が一回、臨時会・ 権、裁判官弾劾裁判権のほか、法律が定める緊られている。議員の資格に関する争訟を議院自特別会は二回しか許されない。↓常会↓特別る。緊急集会はこれまでに一九五二年 ( 昭和二 七 ) 、五三年の二回開かれたことがある。↓緊 急事態の布告の承認 ( 警察法七四条 ) 、自衛隊らが裁判する権限、議長その他の役員を選任す会↓臨時会 急集会 ③召集会期を開始させる行為を召集といし る自主組織権、議院規則制定権 ( 衆議院規則、 の防衛出動・治安出動の承認 ( 自衛隊法七六 〔国会の議事法〕国会の議事手続は、その活動 条・七八条 ) などを有する。まず、内閣総理大参議院規則、参議院集会規則などがあり、その内閣の助言と承認により天皇が召集するが、い 効力は法律に劣る ) 、議員の懲罰権 ( 懲罰の種ずれかの議院の総議員の四分の一以上の要求がを能率的に行わせることを目的とする。したが 臣は、国会の議決によって国会議員のなかから って、多数派の発言に対し権威を認めると同時 指名されるが、その際、国会は、他のすべての類に、戒告、陳謝、登院停止、除名がある ) 、あれば、内閣は臨時会の召集を決定しなければ

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こくじん 例もあったので、守護領国制の概念にかえて国数えている。最初の黒人大学は、南北戦争以前 に自由黒人を対象として北部でつくられた ( リ 人領主制を提唱する研究者もある。しかし一五 ンカーン大学など ) が、もっとも急速に増加し の天ら世紀にはおおむね守護の被官として家臣団に組 たのは南北戦争後の三〇年間、南部においてで み込まれ、国内の主要な戦略的拠点は郡代など あった。今日有名な大学としては、フィスク大 の内衆が城郭を構築して国人を監視する厳しい 、「る働 れ労統制を敷いたので、彼らの守護に対する抵抗も学、ハワード大学、ハンプトン大学、タスキー ャ〔 - ぬ重 多くは一時的であった。一荘、一郷程度の規模ギ大学など。その多くは、解放民局担当将軍に 雨隷 ま又 より設立され、アメリカ伝道教会の援助とロッ から、摂津の池田氏のように一郡単位の巨大な ′、メ クフェラー、モルガンなど北部の博愛主義的大 領主もあり、戦国大名に成長した例もあった。 綿み やましろ 。っ反守護闘争では一四八五年 ( 文明一七 ) の山城資本家の資金によって支えられてきた。多くの 国一揆がもっとも著名。↓国一揆↓山城国一黒人運動指導者がこれらの大学から育ってい るす 〈今谷明〉 る。しかし黒人大学の存在は、ある意味で人種 、 4 を ~ を ' 〕すら揆 こノ、じんしゅ , つかい、つん、ど , っ 差別社会の産物であり、したがって近年人種統 黒人集会運動 合が進み、一般大学への黒人の進出が始まると、 にね Negro convention Movement アメリカム〕 , を、 ( みれ っさ衆国において自由黒人 ( 奴隷身分でない黒人 ) 黒人大学の独占的な黒人工リート養成機関とし 綿穫 - 第い一⑤収 ての機能は解消され始めている。〈上杉忍〉 が、地方、州、全国的規模の各種集会を開い こくじんどれいせいど Negro を二て、彼らの地位向上と奴隷制廃止のために闘 0 黒人奴隷制度 Slavery 一般的には、プランテーション ( 商 た、黒人自身による民衆運動。一八一七年一 月、設立直後のアメリカ植民協会に反対して、業的大規模農園 ) や鉱山などの労働力をアフリ 0 ↓ リッチモンドやフィラデルフィアで大衆的抗議カ黒人奴隷に依拠して成立した前近代的な経済 制度。新大陸では、一六世紀から一九世紀にか い一集会がもたれたのが始まりである。 一八三〇年には、リチャード・アレンらを中けて、アメリカ合衆国、カリブ海域諸国、プラ 2 卩 - ジルなどで発達したが、本項で取り扱うのは合 $ 1 、七州からの各界代表ーーー「フォーティ・ インモータルズ ( 不滅の四〇人 ) 」とよばれて衆国における黒人奴隷制度である。 いるーーがフィラデルフィアに集まり最初の全〔プランテーション奴隷制度〕アメリカ合衆国 、ト第・→」、一 ~ 」国大会が開かれた。以後、頻繁」年次大会も各 0 黒人奴隷制度は、本源的蓄積期 0 イギリ = 重 地で開催され、集会運動は南北戦争に先だつ一商主義政策のもとで、プランテーションと不可 〇年間に最盛期を迎えた。なかでも意義深い集分に結び付いた近世植民地奴隷制度として、イ 会の一つは一八五三年のロチェスター大会だっギリス領アメリカ植民地の南部に成立、発展 ~ 六五 ) によって廃止される たが、一一四人の代表が参集したこの大会で全し、南北戦争 ( 一会一 国黒人協議会が結成されるとともに、自由黒人まで二〇〇年以上にわたって存続した。そのプ の窮状とその改善を強く訴えた「アメリカ国民ランテーションとは、北アメリカにおけるイギ リスの植民活動の過程で、最初のうちは漠然と への呼びかけ」が発せられた。 集会運動を通して、彼らは、なによりもアメ植民地Ⅱ開拓地の意味に用いられていたが、や リカ植民協会に代表される自由黒人のアフリカがて南部の農業生産の一つの型として発達し、 さらに黒人を動産とする奴隷制度 chattel slav ・ 送還Ⅱ海外追放に反対したばかりでなく、アメ リカ人としての自覚のもとに、黒人の市民的諸 ery と結び付いたとき、それは南部社会の構 々った ら 0 る地 人シたフ 権利の実現と奴隷制度の無条件廃止を要求し造的特質のみならす、広く思想や文化も含めて か 8 あ各 黒一つの ば出ルきて部 。テあ た。このような自由黒人の活動は、たとえば植南部社会の全般的性格を規定する「特殊な制 たラ欠ニ 親ば場月に書は 民協会に対するギャリソンの考え方に根本的変度」 peculiar institution となった。プランテ りと隷 やし市 フ可ジ隷 一婦も硺 3 きと 奴 , 不一奴 ーションと奴隷制度とのこうした緊密な結び付 化を与えるなど、白人の奴隷制廃止論者にも大 のはにバの 夫と 奴つひ入 のこの きから、黒人奴隷制度は、アメリカ経済史上、 部働済は家 きな影響を及ばし、奴隷制廃止運動の重要な一 隷るスラり 奴でした 南労経真一 度奴れンビと女ルとれ④隷ン写ラ翼を担 0 た。↓奴隷制廃止運動〈本田創造〉プランテーション奴隷制度 plantation slav ・ リ告ひしド品ら ery ともよばれている。 こくじんだいがく negro college 黒人大学 一広隷若商れ にオの又 の入 〔制度の法制化と黒人奴隷の増加〕イギリス領 おもにアメリカ合衆国南部において、黒人の高 又の手一入男ルら場 ドか市買 アメリカ植民地への黒人の輸入は、早くも一六 3 等教育のために南北戦争 ( 一会一 ~ 六五 ) 以後創設 奴買 し O レおら →右ノ . 女 . カ 3 黒①のた②「 1 された大学で、一九七三年には一〇〇校以上を一九年までさかのばるが、このとき、ただちに 3 こ 0 F ミミヾいミ ) ③追われる逃亡奴隷。厳しい逃亡奴隷取締法にもかかわらす , 奴隷の重要な抵抗形態の一つとして , 逃亡は絶えなかった。 彼らの首に賞金がかけられ , 大と銃ロの追跡を受けた

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る ール資金を貸し手 ( 出し手 ) の側からはコー 六 0 ) などの歴史 地水火風空の五大五輪にかたどって五巻に編成 ( 一公九ー一九五九 ) イギリスの経済学者、社会主義会主義思想史』全五巻 ( 一九五三 ~ されている。武蔵独自の兵法観、および二刀兵理論家、労働運動研究家。オックスフォード大書のほか、『産業自治論』 ( 一九一、『社会主義経ル・ローン call loan とよび、借り手 ( 取り たち 法の太刀筋の正当性について、簡潔平易な文章学在学中から・モリスなどの影響を受けて労済学』 ( 一九五 0 ) など多数に上り、また伝記や推手 ) の側からはコール・マネー call money とよぶ。コール資金の取引金利がコール・レー 〈藤田勝次郎〉 で力強く表現されており、近世初期の流派武道働運動や社会主義に関心をもち、一九〇八年独理小説なども書いている。 はくび ト call rate である。日本でのコール市場の創 〈渡辺一郎〉 伝書の白眉とされている。 立労働党とフェビアン協会に参加し、一四年にコ ール Nat "King" Cole ( 一九一七ー六五 ) 設は一九〇一、〇二年 ( 明治三四、三五 ) ごろ はフェビアン調査局の書記となって労働運動のアメリカのジャズ・ピアノ奏者、歌手。アラバ 回大河内昭爾訳『五輪書』 ( 教育社現代訳新書 ) しん マ州生まれ。少年時代にプロ入りし、一九三九といわれ、もっとも古い歴史を有する短期金融 こりんよく ( 天一一一 ー六 I) 中国、清調査研究に従事した。しかし当時のフェビアン 胡林翼 代、太平天国軍の鎮圧に功績のあった政治家、協会の保守的傾向に不満をもち、ギルド社会主年にギターとべースを加えたトリオを結成、ス市場である。 あぎなきようせい じゅんし 〔仕組み・機能〕コール取引はすべて、東京、 武将。字は生、号は潤之。湖南省益陽県の義にひかれてその運動に身を投じ、一五年にはマートな演奏で好評を博した。四八年にレコー ド『ネイチャー・ポーイ』がヒットして彼の歌大阪、名古屋にある短資業者六社 ( 東京短資、 人。一八三六年の進士。初め貴州省各地の知府ナショナル・ギルド連盟の結成に参加し、指導 を歴任。その間、同地方の秘密結社の反乱を鎮的な役割を果たした。しかし第一次世界大戦唱の人気が高まり、五一年トリオを解散、歌手山根短資、日本割引短資、名古屋短資、上田短 活動に専念。『モナ・リザ』ほかの大ヒットで資、八木短資 ) を仲介として行われる。また、 圧するのに腕を振るった。その後、太平天国の後、ギルド社会主義運動の分裂を機に身を引い にて、二五年にオックスフォード大学の経済学講ポピュラーなスターになり、映画にも出演し半日物を除いて、国債などの担保がっき、取引 乱が起こると、この貴州省の兵を率いて湖南 は取り手振出しの約束手形により、出し手は短 た。温かい人間味と洗練されたセンス、黒人ら 師となった。三一年にはウェッ。フ夫妻らととも 出兵し、太平天国軍と死闘を繰り返した。戦い じゅんぶ の間に湖北巡撫となる。彼は軍事だけでなく民 に新フェビアン調査局を設立して社会問題の調しい哀愁感が魅力。長女ナタリー・コールも歌資会社振出しの約束手形を受け取る。なお、一 でんふ 〈青木啓〉九八五年 ( 昭和六〇 ) 七月に無担保取引も発足 政にも留意し、田賦などは減じたが、その一方査活動を行い、またフェビアン協会の再建にあ手として知られる。 りきん した。コール市場は個別金融機関の間の短期の ) ドイ 一九哭 ~ 五 0 ) や会長コー で釐金 ( 国内関税の一種 ) をいち早く徴収してたってその議長 ( 一九三九 ~ 四六、 ル Helmut Kohl ( 一九三 0 ー そう - 」く 財政の基礎を固めることも忘れなかった。曽国 ( 一九五 = ) にも就任した。この間、四四年から五ッ連邦共和国の第六代首相。ライン川沿いのル資金調整の場であると同時に、日本銀行の政策 はんさそうとう ートウイヒスハーフェン生まれ。第二次世界大的金融調節の場でもある。すなわち、日本銀行 藩、左宗棠とともにもっとも大きな功績をあげ七年までオックスフォード大学で社会政治理論 あんき ・ステ戦後、一七歳でキリスト教民主同盟は日々の金融調節を通じて金融機関の支払準備 たが、太平天国から安徽を奪還する戦中に没しの教授を務め、また進歩的雑誌『一一ユー おくりな に働きかけ、また短資業者に対しては資金の放 に入党。フランクフルト、ハイデルベルク両大 ーツマン・アンド・ネーション』の編集に携わ た。死後「文忠」と諡された。『胡文忠公遺 ったこともある。 学で学んだのち、党活動に専念。市会議員、州出・吸収を行って、その時々の政策方向に即し 〈倉橋正直〉 集』などの著書がある。 とうげ 彼の理論的立場は、当初からギルド社会主義議会議員を経て、三九歳でラインラント・プフたコール市場の需給地合いを形成するようにし コ 0 峠 アルツ州首相。一九七三年党首に選出さている。 ー四 0 アメや大陸のサンジカリズムに傾倒し、またマルク ル Thomas Cole ( 一含一 〔種類〕コール資金の種類には、現在、無条件 リカの画家。アメリカ最初の画派ハドソン・リ ス主義を高く評価しながらも、それとは一線をれる。八二年一〇月、社会民主党の ー派の創始者で風景画家。イギリスのランカ画するものであった。彼の社会主義論は、労働シュミット政権崩壊後、自由民主党物、半日物、期日物がある。無条件物は、取引 ・うかんじり との連立内閣の首相に就任、翌八三年三月の総日の翌日の交換尻決済以降であればいつでも決 シャーに生まれる。一七歳のときオハイオに移者階級の階級的利益の立場にたちながらもヨー ロッパの伝統的自由主義を堅持するものであっ選挙で保守中道政治を掲げて圧勝、政権の座を済されるもの、半日物は取引の当日中に、期日 住。フィラデルフィアのペンシルべニア美術学 〈藤村瞬一〉物 ( 二 ~ 七日物の六種類 ) はそれそれの定めら 校で学ぶ。一八二五年ニューヨークで発表したて、労働運動における人民の自発的意志に基づ固めた。 れた期日に決済されるものである。これらのう く小自治組織を核とする社会改革を目ざすものコー ル call 金融用語で、請求ありしだい 風景作品が注目され、彼とデュランドを中心と するハドソン・リヾ ー派が形成された。おもにであった。また、彼は第二次大戦後、朝鮮戦争決済される ( 呼べば戻る ) 短期の資金の意。金ち、無条件物の取引比重がもっとも高い ( 一九 八四年の平均残高で全体の六二・二 % ) 。なお、 に参加した国連軍を批判したり、ハンガリー事融機関が支払準備の過不足を、相互に、ごく短 ハドソン川の流域の景観を描いたため、その名 たいそう がある。彼は大自然を聖書と見立てて忠実に描件におけるソ連の行動を批判し、また半植民期に調節する市場をコール市場 call money 従前、月越物が市場取引の大宗を占めていた ぐうい market と、 が、手形売買市場の創設に伴い、一九七二年六 しし、その市場において取引される 地・発展途上国の民衆の運動を支持するなど、 写することに努めたが、ほかに寓意的な作品も 描いており、『人生航路』『帝国の道程』などが有自由な社会主義の立場を貫いた。著書は、イギ資金をコール資金という。わが国では普通、コ月に廃止された。また、期日物のうち七日物は リス労働運動の通史として著名な『イギリス労 名。一九世紀の思想家エマソンの超越主義に ワ】 LO ′ 0 4 CO -0 CD 0 ・ ) -0- 00 -8 0 対応する画家として評価されている。〈桑原住雄〉働運動小史』全三巻 ( 一九一一五 ~ = 七、改訂版一九四 0 、 11 -8 -0 -0- -0 O 尸 0 っ -9 、 成 1 人 1 人 C) フランス革命以降の社会主義の通史である『社 ル George DougIas Howard CoIe 報 の -8 「ー 11 っこ 1 人 " 0 -8 -4 -8 月生・ -8 - 材 ) LO 「ー《 0 4 -0 ワ戸 0 《 0 ′は・ -0- 11 -0 ・ ワ】一 1 画 ( / -8 0 こ一一 客円 金 -4 -8 (. O -8 っ 0 ・ 4 ・ 14 C'0 1 よ L-n -4 ・ -8 ワ 11 っ 0 ・ 4 資成金他 4 済 経 場構 会 4 す 4 す 市別 局 合関会会 る ル手 冲一機 ~ 融険 高 前庫融金保 金金金券害 コ取均 行 行・行行用行 行行用行行用用統証損 他男銀銀銀信銀他銀 銀銀信銀銀信信系 ル手年 手方託期国互国・林券命の計手市方託期国の計林 一し し地信長外相全農証生そ合り都地信長外そ合 出 コ出 H. コー丿レ G. コール 621

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イング、教会、公園よりなるコミュニティ・セ ところで原型の概念規定を再検討する場合、 に対する社会資源の調整に関心が向けられた受してもらうためには、自宅にいてもらったほ うがよい。②インスティテューショナル・ケア ンターを住区中心部に設定している。彼は、そ ②を厳密に満たすには、まったくの未開社会は が、これらの段階では一方的な慈善にとどまる が対象者に及ばすマイナスの影響、たとえば養れが住民の相互交流を可能とし、さらに住区統 別として、現代社会では一国をはるかに越えるか、または少なくとも対象住民は活動の主体に 一のシンポルにもなることから、緊密な近隣関 範囲にまで地域を拡大させねばならず、反面③は加えられなかったことになる。しかし、公私護施設でのホスピタリズムを防止するためにコ 対象者の係や住区との一体感が醸成されることを期待し については、思考、行動の多様化を考慮すれの関連諸機関や諸団体の協議を必要とする段階ミュニティ・ケアがより望ましい ば、近隣の範囲でも過大となる。この矛盾から に入ってからは、住民代表もそれに参加するよ活動能力、家族の援助能力を活用し、低下させたのであった。現在でも評価されている構想で 現代への適用を求めて定義の修正も一方では進 うになり、さらにその後には住民自体が活動のないためにはコミュニティ・ケアのほうがよあるが、センターという物的条件の整備だけが ↓ホスピタリズム められており、たとえば③に焦点を絞り、居住主体に置かれるようになっている。つまり、一一 期待される効果を生むか否かは断定の限りでな の地理的近接性がないとしても、利害や関心の ↓都市計画 〈中村八朗〉 ードや問題の発見、手段と目標の設定、必要資 以上に述べた概念は、イギリスやアメリカ合 きようどうばきん 一致する同一職業の人々をコミュニティと規定源の調達、リーダーシップの開発、住民の組織衆国で比較的一般的に使われているものであコミュニティ・チェスト 0 共同募金 するような動きが現れており、ほかにもいくっ化と実践行動などの過程は、すべて住民の側かる。これは、専門家が行うコミュニティにおけコミュニティ・デベロップメント かの修正が試みられている。 らおこるべきものであり、専門家の役割はこのるケアと、住民たちが行うコミュ一一ティによる community development 発展途上国の農 〔日本が受容した概念〕日本での外来語として過程の開始、育成、展開の側面的援助とみるよケアに区分される。なお、日本では、コミュ一一村地域社会における生活向上のための計画と方 のコミュ一一ティは、経済成長が都市の生活環境うになったのである。また各国で社会運動が活ティにおける全社会福祉サービスという意味法およびそれによる活動をさす。第二次世界大 や人間関係の荒廃を招いたとする認識の広まっ発になった現在では、急進的要求運動を加えるで、インスティテューショナル・ケアを含ん戦後国連が提唱して国際的に普及するようにな た一九七〇年 ( 昭和四五 ) ごろ、その克服策と ことも必要視されている。 だ、より総合的、高次元のコミュニティ・ケア った。向上を図るにあたり、上からの一方的援 して官民の指導的部門が一斉にコミュニティの 日本では社会福祉協議会がコミュ一一ティ・オという概念もある。↓社会福祉 〈副田義也〉助はまったく考えられていない。むしろ農民の 創設を提唱してから一躍脚光を浴びることとな community 側から主導性、自助努力、相互扶助のおこるこ ーガニゼーションの推進にあたっているが、最コミュニティ・スクール った。説かれている内容は、、 月学校区程度の近近は多くの地方自治体がコミュニテイ政策を重 school アメリカで一九三〇年代から「進歩とを期待し、それを政府の進める全国的経済・ 隣の範囲ごとに、内部の住民の間に樹立される視する傾向にあることから、これと呼応してそ派」が率先推進した教育運動の一つで、地域社 社会・文化条件改善計画と結合させようとする べき市民的連帯性、つまり自主性や個性の確立 の展開が図られている。↓コミュニティ・デベ 会学校と訳される。当初は、新教育への学校活ものである。 ロップメント↓社会福祉協議会 を伴った連帯性と必要関連施設の整備であり、 発展途上国では長期に及んだ植民地支配の結 〈中村八朗〉動改革運動により、諸種の圧力団体が勢力をも 当然、規範的用法に属する意味が与えられてい っ地域社会での初等学校からカレッジに及ぶ学果、農民は無気力に陥っており、したがって彼 コ、ニュニティ・カレッジ community ることになる。 college アメリカの主として二年制の公立短校体系の確立を目ざすものであったようであるらの間に向上意欲と自助努力が生まれない限り この提唱に呼応して多くの自治体がコミュ一一期大学で、中等学校卒業生または成人に、とく が、一九四〇年代には社会科をカリキュラムの生活条件改善の見込みはたたす、ひいては国民 テイ政策に取り組んでいる。しかしこの場合も に地域の要求や関心に適合した教育を施す機核にして、地域社会を生徒・学生の拡大された生活向上への重大な障害になると認識されてい た。そのためこの計画では農民自体の努力を重 意味の多義性が影響し、その理解が個々に異な関。無選抜入学、授業料無償または低廉を特徴学習の場とすることに力点が置かれるようにな とし、州、郡、市、学区などの地方の設置・維った。そのため、学校を開放し、カリキュラム視し、政府の役割は、地域社会に関しては自助 るところから、具体的政策にもかなりの相違が 現れている。また市民的連帯というとき、延長持するものが多く、第二次世界大戦後、教育のも地域生活の経緯や問題をめぐって編成されと向上への意欲の喚起、いったん喚起されてか として町内会の否定が意図されていたが、実際機会均等と社会奉仕の理念に支えられて急速に た。そこには一般社会人をも参加させ、地域のらは必要に応じて提供される技術的援助にとど め、あとは個々の地域社会で推進される活動と にはこの政策の推進にあたり町内会に大幅に依成長発展した。一般教育、職業教育、四年制大諸機関 ( 学校外教育の ) との調整を図りつつ、 ↓共同社会↓ 存している場合も少なくない。 学への進学課程をもち、准学士号をも授与すあらゆる人間関係の民主化に努めたりした。学全国的計画との調整にあるとされている。とこ 共同体↓結社↓地域社会 〈中村八朗〉る。 〈金子忠史〉校体系側からの生涯教育論の先駆ともいえる。 ろで発展途上国では、農村地域と並んで、都市 ↓コミュニティ・カレッジ 〈藤原英夫〉 にあってもそこに数多く出現しているスラム地 回中村八朗著『都市コミュニティの社会学』 コ、、、ユニ一アイ・ケア community care ( 一九七三・有斐閣 ) ▽松原治郎著『コミュ一一テ社会福祉事業の処遇方法の一つ。社会福祉事業コミュ一一ティ・センター community 域では生活条件が劣悪を極め、深刻な都市問題 となっている。そのため、この計画は都市のこ イの社会学』 ( 一九天・東京大学出版会 ) ▽ における対象者へのケアあるいはサービスの過 center 地域社会の社会文化活動の中心とな R. M. MacIver ed. 【 C ミミミ ( 1917 , 程は、対象者を社会福祉施設に住まわせて行 , つる各種公共施設の集合をいう。集会所、図書れらの地域にも導入されるに至ったが、さらに Macmillan, London) ものと、自宅に住まわせて行うものとに区別さ館、小学校、体育施設、児童公園などで構成さ最近では先進国に関しても、地域住民が自主的 コミュニティ・オーカニゼーションれる。前者をインスティテューショナル・ケアれる。起源は一九一〇年代のアメリカで活発に連帯性に基づいて環境改善に取り組むような場 community organization 地域社会の住民 institutional care 、後者をコミュニティ・ケなったコミュニティ・センター運動にさかのばムロについて、このことばが用いられるよ , つにな の福祉ニード ( 要求 ) を充足させるために、地アとよぶ。社会福祉事業の現代的特質の一つはる。このときは公共学校校舎をセンターにあてっている。↓コミュニティ・オーガニゼーション 〈中村八朗〉 ↓地域開発 域の組織化を進める手続をさす。社会福祉事業対象を貧困層から一般の住民や国民へと拡大して地域住民の政治的啓蒙と相互交流が図られて community の主要技術の一つ。発端は、地域内の各種慈善てゆき、その結果として、在宅の対象者に対すおり、それにより民主主義の再建の道を開く コミュニティ・ペー るコミュニティ・ケアの意義が拡大したところと予想されていた。この影響を受けたペリー paper アメリカの大都市郊外の町に発達した 団体の不統一な活動から、要救済者のある者に ー一九四四 ) は、の新聞 suburban paper や、郡 ( カウンティ ) にある。コミュ一一ティ・ケアの必要性は、主と CIarence Arthur Perry ( 天七一一 ゅ - 慈善が重複し他は放置される結果を招いたの して次の三点で説明される。 ちに近隣住区 neighborhood unit 計画を作成などを頒布エリアとして定着している新聞の総 9 み・で、その是正として、これら団体の連絡を図っ たことにある。ついで住民のニード把握とそれ ①対象者に市民生活のなるべく広い範囲を享し、そのなかで図書館、コミュニティ・ビルデ称。このような新聞のつくり方は、第二次世界 5

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つくが、国王の裁判問題で足並みを乱し、九一一一ドイツの国内統合政策、文化闘争などを指導、の二つのイギリス市民革命 ( ピューリタン革命 に人民主権論へと発展したのである。したがっ 年一月のルイ一六世処刑の投票で、山岳派に勝国会選挙でも三割近い票を得た。八〇年、保護 と名誉革命 ) 期に、ホッブズやロックによってて、現在では、国民主権論と人民主権論はほば ちを譲った。 関税に反対するグループが党を脱退して勢力をまずその論理が形成された。古来、主権をだれ同じ意味に用いられている。第二次世界大戦 ばんかい 一敗地にまみれたジロンド派は挽回を策し、 弱めたが、その後も第二帝政のほとんど全期をがもっかによって、君主政、貴族政、民主政の後、現代資本主義国家の多くは、普通選挙制を 山岳派に攻撃を加えたが、自党と親密な将軍デ通じて与党的立場にあった。九〇年以降はドイ三種に分類する方法がとられてきた。ついで、実施し民主政治が実現されたが、依然としてさ エムリエの変節により人気を失ったうえ、自由ツの帝国主義的進出をもっとも強く主張、工業一六世紀のフランスの政治思想家ポーダンは、 まざまな社会的矛盾を抱えている。このため、 主義政策に固執して、戦時下の生活苦にあえぐ 界の利益代表としての性格を強めた。第一次世立法権をもつ者が主権者であるとして、主権の社会主義国家の側からは、労働者・農民を中心 小市民、無産者層から見放され、一七九三年六界大戦中は併合政策を唱え、主戦派の指導者と内容をより明確にした。近代的な主権理論を構とする権力を設立し、真の国民主権を実現せ りようしゅう 月二日の暴動を機に、二八名の領袖を除名さ なった。一九一八年のドイツ革命後解散、主流成したのはホッ。フズである。彼は悲惨なピュー よ、という批判がなされ、それに呼応して、資 れ、完全に骨抜きにされた。以来、山岳派の独派はシュトレーゼマンの率いるドイツ国民党へ リタン革命を目の前にして、人間はその生命の本主義国家における社会主義諸政党は、議会を 走体制が樹立されるが、山岳派も、地方に潜入移った。 〈木村靖二〉安全 ( 自己保存 ) を図るために、契約を結び政全国民的な利益を代表する機関に構造改革し、 こくみんしゅぎ 0 ナショナリズム 治社会を形成することに同意せよと述べ、さら真に国民主権的な政治を実現しようという努力 して反抗を継続するジロンド派議員や王党派の国民主義 〈田中浩〉 こくみんしゆくしや労働の疲労をこ し政治社会を形成した全成員を代表する者を主を続けている。 陰謀に苦しみ、さらに革命戦争の遂行上、「総国民宿舎 動員法」や「一般最高価格制」や「反革命容疑回復させ、健康の増進を図るため、だれもが低権者とよび、この主権者が制定する法律に従っ国民所得こくみんしよとく national income 者取締法」などを施行し、総力戦の態勢を整え料金で泊まれることを目的に、一九五七年 ( 昭て平和に生きることを人々に勧めた。このこと一国の経済活動によって生み出された生産ある いは所得の集計量の総称であるが、集計の仕方 るにつれ、恐怖政治へと突入する。九三年一〇和三一 l) から営業を開始した公営の宿泊施設。 は、権力の基礎は人々の同意や契約によるとい 月、国民公会の公安委員会は「革命政府の成環境庁が中心となり、厚生年金保険や国民年金う考え方 ( 社会契約 ) を提示したものであっ には一定の約束がある。まず、生産という面か 立」を宣言し、ロベスピエールら一一一名の独裁の積立金を地方公共団体に還元融資、建設と経て、ホッブズによって、国民主権的な考え方が らみると、国民所得は、一国において一定期間 ( 年間、四半期など ) に生産活動によって新た 機構を実現し、ジャコバン党内のエベール派、営をゆだねているもので、八四年現在で全国に 近代において最初に登場したのをみる。続い に付加された財貨・サービスの価値額の合計で ダントン派を粛清して、九四年四月には文字ど三三二軒ある。宿舎の建設基準は、海、山、渓て、ロックは、人々は所有権 ( 生命・自由・財 おり行政、統帥、外交の大権を掌握した。が、 谷、高原、湖、温泉などの組合せによる景勝地産 ) を保護するために契約を結び政治社会を形ある。それは、新たに付加された部分 ( 付加価 七月末に議会の反撃を浴びて、ロベスピエールで、北海道から沖縄まで設けられ、年間利用者成したと述べ、この政治社会をうまく運営する値 ) のみを対象とし、また生産に基づかない所 らが失脚し、革命のドラマが終幕する。と同時は四三五万余人 ( 一九八二年現在 ) に達する。 ためには、よき立法部が確立されなければなら得を含めない。他方、所得という面からみる 一部山岳派と平原派との提携が成り立ち、 このほか民営の国民宿舎も全国に一六二軒ないとした。そして、この立法部こそ当時のイ と、国民所得は、一国で一定期間に生産活動に 革命政府の構想は打ち崩されて、。フルジョア共 参加したすべての人々によって稼がれた所得の ( 一九八四年現在 ) ある。旅館や山小屋が民営ギリス議会にほかならす、こうしてロックは、 和主義派が国民公会を指導した。〈金澤誠〉国民宿舎としての指定を受けたものだが、宿泊 イギリス議会は全国民の同意のもとに最高権力合計をさす。それは生産要素としての働きから 得られた所得 ( 要素所得 ) の集計であって、単 国民酒場 ~ みんさかば第二次世界大戦中料金は公営も民営も一律である。民営国民宿舎をもっという論理を巧みに弁証したのである。 につくられた行政指導的大衆酒場のこと。当は国立公園か国定公園の地域内にあり、営業申これに対し、ロックから七〇年ほどのちに『社 なる移転による収入部分は含まれない。国民所 時、酒類は統制販売制であったが、一九四四年請を受けた財団法人国立公園協会が許可したも会契約論』 ( 一七六 = ) を書いたフランスの政治思得の概念は、一国の経済活動の規模や生活の水 ( 昭和一九 ) 、大蔵省が業務用酒の半分は重要産のである。しかし国民宿舎をやめたいと申請が想家ルソーは、イギリスの誇る議会政治を批判準を示す「ものさし」となり、各国の経済水準 業労務者用に、あとの半分は都会地の一般勤労あれば、協会は指定を解除し、元の旅館業に戻し、「一般意志」っまり「全人民の意志」は、 の姿を国際比較する際の目安となる。 者用に回すことにしたので、後者用の大衆酒場ることもできる。↓国民休暇村〈沢史生〉 いかなるものによっても代行されえないこと、 見方を変えて、経済活動の流れ ( 経済循環 ) が「国民酒場」の名でつくられた。酒場の数や回山と渓谷社編・刊『国民宿舎・国民休暇村』あるいは、イギリス人は選挙のときにだけ自由という視角からも、国民所得の概念は表せる。 一人当りの飲酒量は制限されたが、開店前にで ( 一九公 I) ▽『国民宿舎・全国』 ( 一九全・日本交であって、選挙が終わればふたたび奴隷状態に つまり国民所得とは、一国経済において過去に きる行列を警視庁が取り締まるほどの大盛況で 通公社 ) 戻る、とも述べた。このことは、封建的・特権蓄えられたものを減少させることなく、一定期 あった。 間内に、新たに生産され、分配され、処分され 〈村田仁代〉国民主権 ~ みんしゆけん主権すなわち国的なフランスの身分制議会 ( 三部会 ) はもとよ ′一くふ の最高意志は国民によって形成される、また国り、当時、制限選挙制のもとにあったイギリスていく財貨・サービスの流れであり、また一国 国民資本てみんしはん 0 国富 の最終意志を決定できるのは国民である、とい 議会をも批判したのであって、「一般意志」の内の住民が生産活動に加わって獲得し、消費の 国民社会主義ドイツ労働者党 ~ みん しやかいしゅぎ・ーーろうどうしやとう 6- ナ . チス う民主主義的な政治・法思想。主権は君主にあ実現を保障するためには、結局は、全国民が政ために支出する所得の集計の流れでもある。 こくみんじゅうとう National- るという君主主権論や、君主の権力は神から授治に参加しなければならない、という人民主権〔国民所得の諸概念〕集計とか合計とかいって 国民自由党 liberale Partei ッ ドイツ第二帝政期の自由かったとする王権神授説 ( 神権説 ) に対する語。 論を唱えたものと考えられる。 も、単純な累計を意味しているのでなく、一一重 主義政党。教養プルジョアジー層と工業界とを主権在民ともいう。日本では、大日本帝国憲法 ここにおいて、市民階級による国民主権の主計算を取り除いた純計であるということが重要 そうらん 基盤とする。一 八六六年のプロイセン・オース時代には、天皇は神聖不可侵で、統治権を総攬張にみられる擬制概念は批判にさらされ、以である。これに伴い、関連的に派生する諸概念 んトリア戦争を機に、ビスマルクの上からのドイするという考え方がとられていたが、新しい日 後、各国において、真の国民主権とは、成年男がある。①一国の産出額の単純な累計のなかに は、各企業なり産業なりが他の企業や産業から ッ統一策を支持するグループが進歩党から分離本国憲法では、主権は国民にあることが明記さ子に普通選挙権を与えることとされ、さらに / 、し、翌六七年国民自由党を結成。同党は議会でれ、日本における民主政治の基礎が確立された。 は、成年男女による男女平等普通選挙権が実施購入した原料などの中間生産物の価値額が、重 AJ のビスマルクの最有力支持勢力として、統一後 国民主権という考え方は、一七世紀中葉以降されることによって、国民主権論は、名実とも複して含まれる。そこで、産出累計額から期中 2

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府が直接関与するものが出現してきたことがあする場合、三つの主要な課題を抽出することが うべき範囲について広狭の差が生じている。す論は、そのままでは今日の現実に対応できない なわち、国際関係論を国際政治学 ( 国際政治史が、しかし、彼らのもっていた、できる限りの げられる。前者の例としては国際航空運送協会できる。第一は、一つの巨大な集団体系 group ィアタ (— < ) などが、後者の例としてはヨーロ system であって、そのなかに下位体系としを含む ) と同一の内容をもつものと理解する立事象を説明し尽くそうという情熱は、現在の国 ハ石炭鉄鋼共同体 (QOTO) などがあげらて、人種、民族、国民、村落、都市といった基場と、より広く国際政治学とともに国際経済際関係論に欠けるところである。それは単に国 れる。そのはか近年は、資源問題の激化のなか礎的集団体系、および国家、数個の国家といっ 学、国際法学、地域研究など、いわば国際と名際関係論に限らす、現在の社会科学に共通する ところである。しかし、国際関係の現実は、、 で、資源保有国で結成した国際資源カルテルが た機能的集団体系を包括しうる。第二は、国際のつく学問を総合的にとらえようとする立場と よいよ諸学の総合による解明を必要としてい 増えてきている。前出の石油輸出国機構をはじ 社会を個々の人格と集団の営為である国際的行である。 しかし、国際関係ということば自体は同義語る。国際関係論は、日本にあっては輸入学問と めとして、銅輸出国政府間協議会為 international behavior として、および国 いう色彩が濃い。また、国際関係を研究する者 0) 、鉄鉱石輸出国連合 (<—OQO) などが際的諸関係 international relations の過程との反復である。日本語の国際ということばにす その代表的なものである。↓カルテル↓国際 してみようとするものである。第三は、一つのでに諸国間の関係という意味がある。さらに国のなかには、微細な専門研究に没頭するのあま り、その研究の意義について無反省な傾向がな 石油資本↓石油輸出国機構 〈清水嘉治〉極限的な文化的統一体であって、集団的下位体際関係学ではなく国際関係論という名が用いら しとしない。 このような反省にたって、平和に 回松下満雄著『国際カルテル』 ( 日経新書 ) ▽系としての基礎社会に密着しながら属地的、部れたことも、この学問の未熟さを物語ってい 貢献するという目的意識の明確な平和研究の方 国際連合報告書、長谷川幸生・入江成雄・森分的なものとして存立し、他面、質量両面の交る。日本の大学では一九世紀のドイツ風の学問 田憲訳『国際カルテル』 ( 一九含・文真堂 ) 差を示しながら国際的な行為様式として実在す分類によって対象と方法の明確な学問を「学」向に、研究の前途をみいだす立場が有力となり こくさいかんけいのしゃ つつある。↓国際政治学↓平和研究〈斉藤孝〉 とよぶことから、第二次大戦後の新制度におい るものである。いわゆる国際文化 internation- 国際関係の社会学 al culture といわれるものがこれである。そて出発した新学科を、その末熟さを自覚して回日本国際政治学会編『戦後日本の国際政治 かいがく sociology Of international rela ・ 学』 ( 一九七九・有斐閣 ) ▽・フランケル著、 「論」と称したのであろう。しかし一面では、 tions 特殊社会学の一部門。ときには国際社 してこれらの諸体系ないしは国際社会体系は、 田中治男訳『国際関係論』 ( 一九七一一・東京大学 会学 international sociology とか、国際政治けっして固定不変ではなく、内的諸体系の変動「論」とは、たとえば政治学における「国家論」 出版会 ) によって絶えず変化を遂げ、新たな枠組みと特や歴史学における「封建社会論」のように、あ の社〈ム学 sociology of international politics こくさいかんり民間の保有する国 ともよばれている。従来の国際政治学は、国家性に向かって流動し続ける。したがって、国際る学問分野においてより細かい研究テーマをさ国債管理 社会体系の構造と変動の分析が、国際関係の社すこともある。したがって国際関係論という名債残高の構成を操作することによって、経済の を構成主体とする国家間関係を国際関係とみな 称は不適切であることが反省され、最近では国安定、財政負担の軽減などを意図するものであ し、国家間の相互作用過程を、主として各国家会学の主たる課題となるであろう。 り、具体的な内容としては、①新規に資金を借 の政治過程、すなわち各国の対外政策決定過程 その具体的な研究課題は、論者によって異な際学などという語も用いられている。 るが、これまでのところ次のようなものであ 国際関係論とは、こうして学問的に末確立でり入れるために発行する国債の種類、発行方式 の研究に焦点をあわせてきたのであって、より と発行条件に関する財政当局の決定、②満期債 広義の国際関係を分析の視点に据える国際関係る。①それそれの国家に特徴的な組織、構造とあり、多くの問題を残している。その名称はと の借換えのために発行する国債の種類、発行方 政策決定をめぐる利益集団と作用、およびそのもかく、実際には国際問題を共同研究する学問 の社会学とは区別されなければならない 的組織あるいは教育組織として機能している、式と発行条件に関する財政当局の決定、③公開 国際関係の社会学は、広義の国際関係に社会運用におけるエリートの役割の問題、②国家間 いわゆる学際的分野である。したがって、国際市場操作に関して売買する国債の種類に関する 学的原理や概念枠を適用するものであって、現のコミュニケーションの問題、③国際法社会 中央銀行の決定、などがあげられる。この場合、 学、④人種・民族・国民集団体系、⑤比較社関係に独特の学問的方法はないともいえよう。 実存在的な国際社会体系の構造および変動の認 公開市場操作で売買する額の決定は金融政策の 識を目的とする特殊社会学の部門である。それ会・政治・文化体系、⑥国際経済問題、⑦国際それは、農学とか薬学などといった分野と同じ 問題であり、財政赤字もしくは黒字から生じる く応用的な分野である。農学や薬学に従事する は、多元交錯的な社会事象のなかから、世界的的緊張関係 ( 戦争と平和の問題 ) 。〈高島昌一一〉 規模における結合、すなわち国際社会体系 in- 回岡村久雄著『国際社会体系論』 ( 一九穴・地球者は、その対象は農作物であれ、新薬であれ、国債の発行額や償還額の決定は財政政策の問題 出版 ) ▽武者小路公秀・蝦山道雄編『国際その方法についてみれば、生物学なり、化学なであるとされている。したがって、国債管理 ternational social system を抽出し、その構 学』 ( 一九七六・東京大学出版会 ) ▽馬場伸也著りといった方法、あるいは生化学といった組合 ( 政策 ) は財政政策と金融政策の接点をなし、国 造、変動を明らかにすることをねらいとしてい 『アイデンティティの国際政治学』 ( 一九含・東せによる方法である。国際関係論は、対象が複債の発行および累積残高が増大している現在の る。したがってそれは、当然にその内部体系と 雑多様な国際問題であり、現在進行中の事象で日本では、重要な政策の一つとなっている。 京大学出版会 ) しての国家、国家行為および国家関係の構造、 国債管理政策の第一の目的は、経済安定政策 こくさいかんけいろん日本の大あるので、自らこの方法の組合せ、あるいは新 機能、過程、契機、結果などの分析をその部分国際関係論 的課題として包摂しなければならない。また、学において国際関係論という名の学科が初めてたな方法の開拓といった点に重きを置かざるを ( 景気の調節および国際収支の均衡 ) である。 国債発行額全体のなかで長期債の比重を小さく 設けられたのは、一九五一年 ( 昭和二六 ) 東京大えない。 このような部分的形象をめぐる政治科学と社会 現在、国際関係論の方法的研究に意欲的なのすると、長期債の価格は上昇し短期債の価格は 学との交差領域の問題をも、一つの分析的課題学においてである。続いて他の諸大学でも国際 はアメリカの学界であり、実証的研究と並んで下落する。その結果、短期利子率を上昇させて として取り入れなければならない。アメリカの関係論という名の講座・学科目を設置するとこ ろが多くなった。この名称はイギリスやアメリ 理論的研究も盛んに行われている。しかし、そ国際収支の赤字を防ぐ一方、長期利子率を低下 ローズ A. M. Rose やゾンダーマン F. A. させて設備投資を刺激し有効需要を拡大させる こに提唱される理論の多くは、国際関係のなか Sonderman らは狭義の国際社会学を構想してカで第一次世界大戦後設置された interna- tional relations の翻訳で、内容のうえでも欧のきわめて限られたテーマに関する部分理論で効果をもっ ( オペレーション・ツイスト ) 。さ > おり、日本の岡村久雄や馬場伸也らは国際社会 あり、巨大な国際関係の現実を総括しうる全体らに、短期債は長期債に比して流動性が高いた 六、の認識学としての広義の国際社会学を主張して米とくにアメリカの影響を強く受けている。 国際関係論は国際政治学 international をデ理論ではない。ヘーゲルやマルクス、あるいはめ経済全体の流動性を高め、消費や投資を刺激 9 ーといった古典的な全体理し、有効需要を拡大させる効果がある。 tics とほば似た内容をもつが、しかしその扱マックス・ウェーバ 国際社会体系の構造を理論枠に整序しようと

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こるむね ーズを国有企業よりも一級下位の社会化形態と バーに生まれる。一九二一年にフライ・フルク大 にできるような支持台に取り付けたものであで、一三 ~ 一四世紀のサン・マルタン教会と多 けいがん し、その残存のゆえにソ連には商品形態が残っ る。子宮頸癌の好発部位である子宮頸腟部を直数のルネサンス建築が注目される。かって修道学で学位を取得し、キールの世界経済研究所で ているという妙な理論を展開したのであるが、 視下に観察し、ことに肉眼で見ることのできな 院であったウンターリンデン美術館には、一五経済学、財政学などの研究に従事したが、三三 今日ソ連のコルホーズは事実上の国有が進展し 年ナチスに追われてアメリカに移り、新社会科 い無症状、無自覚の臨床前癌 ( 早期癌 ) を発見 ~ 一六世紀に描かれた絵画の傑作が多く、グリ ているといって過言ではない。表にみられるよするための強力な診断装置である。コルボマイ ューネワルトの『イーゼンハイム祭壇画』は有学研究所の経済学教授となった。また、商務 うに、コルホーズの経営数は着実に減少してい クロスコープはさらに倍率の高い一〇〇 ~ 二〇名。一時、神聖ローマ帝国皇帝が滞在した。一省、大統領諮問委員会などの政府機関で財政専 門家としても活躍した。四六年以降、国民計画 るにもかかわらず、賃金総額や機械装備はむし〇倍で、組織表面の細胞を生体染色して観察す六九七年フランス領となり、一八七一年ドイツ ろ増加している。一企業の平均規模は大きくなるための装置であるが、使用法が繁雑で所見の に併合、第一次世界大戦後フランス領に復帰し協会の主任エコノミストとして財政 っているのである。 た。↓ィーゼンハイム祭壇画 〈大嶽幸彦〉政策や経済予測の研究に従事し、コルム方式と 読みがむずかしいこともあって、現在あまり普 かってコルホーズは党の拠点たるエム・テ及していない いわれる積上げ方式の経済予測法を開発した。 ルマン Ronald Coleman ( 天九一ー ・エス ( 機械・トラクター・ステーション ) 〔コルポスコピー〕コルポスコープを用いて診 主著には『国家経費の国民経済的理論』・ 一九五 0 アメリカの映画俳優。イギリスのリッ に監視されながらその総収穫の四 ~ 五割をもほ断することで、腟拡大鏡診ともいう。この診断チモンドに生まれる。ロンドンで舞台、映画出ミミ s ミ 2 T 0 斗ト、 S ミ s ミ、 s ミ とんど無償で国家に提供する工業化の蓄積源泉法は病変の局在を知るのに有効であり、細胞診演を経て一九二〇年に渡米。典型的な英国紳士 ( 一九一一七 ) 、『一九六〇年のアメリカ経済』 7 であり、それゆえ少数の国営農場に比し困難なおよびコルポスコピーによって確認された異常で、貴族的マスクが爆発的人気をよび、独特のミ斗ミ ~ E ききミ 7960 ( 一九五一 I) などがあ る。 〈藤野次雄〉 条件下にあったが、今日それは国有企業に接近部位をねらって行う生検 ( ねらい組織診 ) の三 ロひげは「コールマンひげ」の名で流行した。 し、かっ被保護化さえしているのである。↓ソ法を併用することによって正確な診断がなされ代表作に『ステラ・ダラス』 ( 一九 = 五 ) 、『夢想のゴルムド〔格爾木〕中国、青海省中部、 フホーズ 〈中山弘正〉る。また、集団検診で多人数に行った細胞診の楽園』 ( 一九一一六 ) 、『失はれた地平線』 ( 一九三七 ) 、『心海西モンゴル族チベット族カザフ族自治州南部 の市。チャイダム盆地の南縁にあり、ゴルムド 回中山弘正著『ソビエト農業事情』 ( 一九ハ一・日要精密検査者を対象に実施する方法としても有の旅路』 ( 一九四一 I) 、『二重生活』 ( 一九四七。アカデミ せいぞう ー主演男優賞受賞 ) などがある。〈日野康一〉河が市を北流、チャルハン塩湖群に注ぐ。青蔵 本放送出版協会 ) ▽同著『現代ソヴェト農用である。コルポスコピーは細胞診と併用する 鉄道や青蔵、青新などの自動車道が通り、中国 業』 ( 一九七六・東京大学出版会 ) ことによって高度異形成上皮などの前癌病変おコー ルマン James Samuel Coleman 西北と西南を結ぶ拠点である。近年、水力発電 ) アメリカの社会学者。パーデュー コルポスコープ colposcope 腟拡大鏡よび上皮内癌や初期浸潤癌など早期癌の発見が ( 一〈 = 六ー ともいい、六 ~ 四〇倍の拡大率をもった立体顕可能となり、子宮癌の治癒率は飛躍的な向上を大学卒業後、ジョンズ・ホプキンズ大学を経所を基礎に機械、皮革工業などが発展してい 7 は、つ - : っ 〈駒井正一〉 微鏡に強力な照明装置をつけ、焦点調節が容易きたした。また、これによって、膀胱や直腸のて、一九七三年以降シカゴ大学教授。多方面のる。 障害を少なくする最小にして有活躍で知られ、著書に『青年期の社会』 The コルムネア一学 0 をきミイワタバコ科の 効、適切な縮小手術ができるようゝ ce ミ S 。 ( 一九六一 ) 、『数理社会学序説』常緑草本で、熱帯アメリカの多雨林地帯に約二 ) よっこ。 〈新井正夫〉、ミきき、。 M ミきミミ Sociology ( 一九〇〇種が着生状態で育つ。室内園芸が盛んにな るにつれ、吊り鉢として栽培が期待される。原 六四 ) 、『権力と社会の構造』 P 。ミミミミ the コルマー Gertrud KoImar ( 天九四ー ? ・ ) ドイツのユダヤ系女 S 、ミミミ e S 。 ( 一九七四 ) などがある。ま種だけでなく交雑種も多く、種間交雑の可能性 流詩人。本名ホジェスナー。一九た、いわゆる「コールマン報告」で知られる黒も高い。アルグータ C. ミ g ミ C. V. Mort. 四三年ナチスに拘引され以後不人・白人間の教育格差に関する全米調査 ( 一九は。ハナマ原産。茎は長く下垂し、長三角形の葉 明。暗く孤独な雰囲気の背後に繊六六 ) の調査主任を務めた。これらのうちでとくを密生する。花は長さ六、七弩で、先端は幅広 とうせき く開き、橙赤色。スタバンガー C. xs 、ミミ、 ~ 、 細な美的感覚を秘めた詩にはドロ に重要なのは『数理社会学序説』であり、社会 よ、つえき も茎は下垂し、朱赤色花を冬から春に葉腋に単 ステ・ヒュルスホフなどの影響が学の一分野としての数理社会学の成立を宣一一 = ロ る みられる。生まれつきの鋭い感受し、その後の発展の契機となった。〈原純輔〉生する。モルトニイ C. 、きミを Raym. は丈 め 占 性とユダヤ人としての悲痛な体験回西田春彦・平松闊訳『態度変容モデル』 ( 一九 をる 七四・紀伊國屋書店 ) 辺れが、虐げられた女性や子供、動植 涬ら の見物などの苦難への理解と同情とをコルム Gerhard C01m ( 天九七ー一九六 0 ア 可。 深め、連作詩『女性と動物』 ( 一九 メリカの経済学者、財政学者。ドイツのハノー 運色 が方三 0 を生み出した。また詩集『さ 家地 民のまざまな世界』 ( 一九四七死後刊 ) が 式ザある。 〈横塚祥隆〉 ス刃コルマル C01mar フランス ンな サ的北東部、オ・ラン県の県都。スト ラスプールの南南西六九、。、ポー さんろく ジ、山麓にある。人口六万三七 マ 四 ( 一九公 D 。精錬工業の中心地 コ 典型的なアルザス地方風の都市 。日 L - 鷸目鷸田 " 新畿 00 。、 こ - 第・、。 - = , ー。 1 / ミ、 . - 一、可 / 。与調心に響讐当にリ卩に第ル ちっ コルム コルムネアヒルタックスとモルトニイの 雑種。吊り鉢として栽培される 651

10. 日本大百科全書 9

問題は今日も多くの問題を抱えたままになっての国際労働連動の流れの一方のみの影響が強か *-a 00 労働条件の国際的規制ないしは国際的な理事会 ( 毎年三回開催。正理事は政府代表一一八 ったことなど、 いくつか限界をもっていた。そ いる。↓国際労働憲章↓国際労働条約↓ドラ 労働者保護を通じて社会正義を実現し、世界平名、労使代表各一四名、計五六名 ) 、常設の事 〈早川征一郎〉 の後第二次大戦が反ファシズム闘争として闘わ 和に貢献することを目的とする国際的な公機務局として国際労働事務局 ( ジュネープ ) があイヤー報告 関。第一次世界大戦の終結にあたり結ばれたべる。そのほかに、アジアなど各地域会議、産業回飼手真吾・戸田義男著『国際労働機れる。この反ファシズム闘争の経験を経るなか で一九四四年、— 0 は「すべての人間は : ルサイユ条約「第一三編労働」により、一九一別委員会 ( 運輸、炭鉱、衣料、農業など ) 、各 関』 ( 一九六 0 ・日本労働協会 ) ▽花見忠著 物質的福祉および精神的発展を追求する権利を 九年スイスのジュネープに設立された。国際連種の事項別委員会 ( 社会保障、移民、協同組合 と日本の団結権』 ( 一九天・ダイヤモンド もっ」というフィラデルフィア宣言を採択す 盟の発足 ( 一九一一 0 ) 以来、その専門機関の一つとし 社 ) など ) 、一種の準司法的機能をもっ結社の自由 る。そして四六年にはこの宣言が、旧憲章の て活動し、第二次世界大戦による国際連盟解消実情調査調停委員会などがある。 国際労働組合連合こくさいろうどうくみあい れんごう World Confederation of Labour 「一般原則」にかえて、憲章の付属文書 後も単独で存続し、戦後四六年、国際連合の新〔条約・勧告〕諸活動のなかでもっとも重要な として取り入れられたのである。〈木下秀雄〉 設に伴い、その社会政策的分野を担う専門機関のは、国際労働立法とよばれる国際労働基準の略称、国際労連。一九二〇年に国際キリ こノ、き、いろ、つ : っしやキ、よ , っ となった。創設当時の加盟国は四三か国設定である。それは国際労働条約および勧告の スト教労働組合連合として結成。六八年一〇月国際労働者協会 かい 0 インターナショナル であったが、八五年六月現在一五〇か国。加盟形をとる。日本の条約批准数は一九八五年六月の第一六回大会で再組織され、現在の名称に変 こ / 、、いろ、つど一、つじよ , つやノ、 国の構成も、ヨーロッパの先進資本主義諸国中現在三七で、平均批准数は三四であるから、は更した。世界労連、国際自由労連に次ぐ第三の国際労働条約 心の構成から、第二次大戦後は、アメリカ、ソ ば同水準にある。しかし常任理事国 ( 一〇か国際的労働組合中央組織。各国キリスト教系労 lnternational Labour Convention 国際労 連の加盟、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの国 ) の平均五四をかなり下回っており、内容的働組合の連合体として出発し、国際労働組合連働機関が採択する、労働条件、団結 発展途上国の相次ぐ加盟によって多彩となり、 にも、一日八時間・週四八時間労働の原則を定動における最右翼の潮流を形成した。しかし、権、社会保障などに関する国際条約。略称 の活動、性格にも変化をもたらしてい めた第一号条約、強制労働に関する第一〇五号再組織後は、信仰にかかわりなく個人の尊厳を O 条約。は、「いずれかの国が人道的な る。日本は創設以来の加盟国であったが、満州条約など、重要で基本的な条約さえ批准してい 擁護するとの方針を掲げた。国際自由労連と緊労働条件を採用しないことは、自国における労 事変を契機とする国際連盟脱退ののち、一九一一一ない。 密な協力関係を維持しつつ、ときには世界労連働条件の改善を希望する他の国の障害となる」 八年 ( 昭和一三 ) をも脱退し、第二次大〔日本の八七号条約批准問題〕第二次大戦後、やその加盟組織の呼びかけにも応じ、最近では ( 憲章前文 ) との立場から、労働条件な 戦後五一年 ( 昭和一一六 ) に復帰、五四年以降は労働者の団結を擁護する重要な条約として、結中間的潮流としての性格を強めている。・ヘルギどの国際的な向上および平準化のために設置さ ーのプリュッセルに本部があり、一九八四年一れた機関であり、条約は、この目的達成 常任理事国となっている。アメリカは七七年一社の自由及び団結権の保護に関する第八七号条 一月脱退したが、八〇年二月に復帰した。 約 ( 一九四 0 、団結権及び団体交渉権についての〇月現在、七八か国約一五〇〇万人が加盟してのため、政府、労働者、使用者の代表からなる 〈五十嵐仁〉 *-ä O 総会で勧土ロ Recommendation とともに は他の国際的公機関と異なって、加盟原則の適用に関する第九八号条約 ( 一九四九。日本 こくさいろうど , つくみあし 採択される。条約の採択は、数年にわた 国の政府代表だけでなく、労使団体の代表を加の批准は一九五三年 ) が採択されたが、日本の国際労働組合連盟 れんめい 0 アムステルダム・インターナショ る慎重な準備と討議を踏まえて、総会の三分の え、いわゆる政・労・使の三者構成制度をとっ 八七号条約批准は遅れ、一九五八年以来 二の多数の賛成で成立する。 ている。また世界労働組合連盟、 の舞台で日本の八七号条約批准問題が取り上げナル こくさいろ , つど , つけんしよ、つ国 条約と勧告との違いは、条約の 国際自由労連、国際労働組合連られるに及んで、ようやく六五年に批准され国際労働憲章 合 (2) の三大労連をはじめ、国際使用者た。この八七号条約批准問題は、公共企業体等際労働機関憲章 (— --2 0 憲章 ) The Constitu ・場合、加盟国がこれを批准すると、条約の規定 を実施するために必要な措置をとる義務が生じ tion Of the lnternational Labour Organiza ・ 団体 (— O ) などに諮問的地位を与えて活動労働関係法第四条三項、地方公営企業労働関係 に参画させている。 法第五条三項が、公共企業体等の職員でなけれ tion 、とりわけその前文や付属文書という労働るのに対して、勧告の場合、このような批准が 〔こある。一般に、条約は国際 問題とならない占〕し に関する一般原則を述べた憲章的部分のこと。 の活動領域との関係で重要なのは、一ば組合員または役員になりえない旨規定してお 第一次世界大戦後の一九一九年に・ヘルサイユ条的な最低労働基準を国際的義務の発生を伴う形 九四四年の第二六回総会で採択されたフィラデり、これが同条約に違反しているとして、五八 ルフィア宣言である。すなわち「労働は商品で年四月に総評と機労 ( 現動労 ) が、同年九月に約が成立するが、この・ヘルサイユ条約の第一三で定めたものとされ、他方勧告は、いっか条約 ぜんてい 化する予備的措置として、義務の発生よりむし ない」「一部の貧困は全体の繁栄にとって危険総評と全逓が、ともに連名で政府の組合権侵害編は「労働編」と題して国際労働機関 である」「社会正義に基づく恒久平和」などのを結社の自由委員会に提訴したことに端 O) の設置を決めるとともに、「一般原則」とろ前進のプログラムたる性格を意図したものと 根本原則にたち、完全雇用と生活水準の向上、を発している。だが、結社の自由委員会して、労働は単なる商品ではないこと、労働者されている。一九八五年六月現在、採択されて いる条約は一六一、勧告は一七一である。条約 による、前記条文の廃止、八七号条約の早期批の結社権、適正な賃金、一日八時間・週四八時 労働条件とくに最低賃金の保障、団結権擁護と 間労働制、週休制、児童労働の禁止と年少労働の内容は多岐にわたっているが、一般に第二次 労使協力、社会保障、労働者保健、児童および准の勧告にもかかわらず、政府は長期にわたり 母性保護、文化施設の提供、教育と職業の機会批准を引き延ばしてきた。そのために、六五の制限、男女同一労働同一賃金原則、労働監督世界大戦前は労働条件の保護に関するものが多 かった。戦後は、労働組合活動の権利を保護す 制の実施などを掲げた。 均等など一〇項目の達成をの義務とし年、は実情調査調停委員会 ( ドライヤー は、第一次大戦後初めてできた政府、るための条約や、社会保障制度の拡充に関する た。単に労働者保護だけでなく、広く社会一般委員会 ) を日本に派遣するに至り、政府もつい の生活水準の引き上げに至るまで活動責任の領に批准に踏み切らざるをえなくなったのであ労働者、使用者の三者構成の国際組織として、条約が積極的に採択されるようになってきたと いえる。 る。とはいえ、それだけでは問題は根本的には労働条件の国際的平準化、世界各国の経済競争 > 域を拡大した。 条約適用の監視機構として、—»-2 0 理事会に 〔主要機構〕毎年一回開催される国際労働総会解決していない。批准問題の論議を通じ、日本条件の平準化という一定の役割は果たしたとい える。ただ、当時成立したばかりの社会主義ロ「条約勧告適用専門委員会」が設けられており、 2 、 ( 各国政府代表一一名、労使代表各一名の三者構の官公労働法制全体が問題として浮かび上がっ 」成 ) を最高機関とし、執行機関として国際労働た。それゆえ、日本の官公労働者の労働基本権シアを排除していたり、また当時存在した二つ個人の資格で参加する国際法・労働法の専門家 175