②彼らは敵中に血路をひらいてドイツ軍戦線にたどりつき、ラング将軍に申告する。 0 死をのがれ て。ミンスク包囲陣から来た傷兵たち。
ルヴィッツアー将軍から第三装甲軍司令部に無電がはいっ破に成功したが、やがてふたたび包囲されてしまった。六 た。「情況は根本的に変わり、完全に包囲さる。第四空軍月二十七日朝、敵師団の残余はソ連軍司令部の最後通牒を うけて降伏した。敵の損害は戦死一一万、捕虜のなかには第 地上師団はもはや存在せず。第二四六歩兵師団および第六 空軍地上師団は各戦線にわたって苦戦中。ウイテブスク市五三軍団長歩兵大将ゴルヴィッツアーとその参謀長シ、ミ ット大佐もいた」 街地でも激戦」 それで、ウイテブスクを守るはずのオスト。フロイセン第 第五三軍団の三万五〇 0 〇名は最終ラウンドにはいった。 一一〇六歩兵師団は ? どうなったのか ? 総統司令部はひ 十九時三十分に軍団司令官はウイテプスクより報告する。 「最後の一兵までたたかう。ゴルヴィッツアー」青島司令つきりなしに「同師団は交替まで市を守るべし」と打電し 官が一九一四年八月一一十三日に極東から皇帝ヴィルヘルムてきたが、ソ連攻勢の怒濤に対してはなんにもならない。 にあてた歴史的電文をまねたことはたしかだ。当時海軍大軍集団左翼の敵突破地点にあった各師団は叩きのめされ、 佐マイヤー日ヴァルデックは故国を去ること一万一〇〇〇ウイテブスクは墓地と化した。そこでヒッター中将は六月 キロの要塞からこう電信を打った。「死力をつくして義務一一十六日十六時一一十五分に自己の責任で脱出命令を発し、 工を遂行す」 ^ 死カ》は二カ月半つづき、彼と四〇〇〇の兵一一十一一時に行動に移った。傷兵を馬車と一台の牽引車にの せて。 ンは四万の日本兵を防いだのだ。 カ 、ゴルヴィッツアーの力は一一日もつづかなかった。こ突撃班は一五キロ進んで行きづまった。ソ連第三九軍に のが 集れを最後に彼からの報告はなかった。六月一一十六日の朝、捕捉、包囲された。銃剣をつけフラーを叫んで突撃しても だめ。伝統に輝くオストプロイセン第一二〇一、第三一二、 央彼は南西へ脱出をはかり、一部兵力とともに六月一一十七日 中 にはウイテブスク南西一一〇キロの地点まで来た。そこで何第四一三擲弾兵連隊最後の戦闘であった。生き残った者も 8 が起こったか、ソ連の『大祖国戦史』はこう書いている。森のなかで、殺されるか捕えられるかした。やっと切りぬ 第 「約八〇〇〇のドイツ軍グループがウイテ・フスク包囲の突けたのは決意を固めた将兵の数グループたけである。彼ら う 15
囲戦線から遠くはなれた地区に大兵力をかためたのである。電文を包囲陣内各部隊はうけとった。「第一装甲軍は敵中 囲これは重大なミスであった。肝心の作戦地区となった北でを切りぬけ、遭遇した敵は撃減する」こういう言葉でなく べそれが必要になったとき、使えなかったのた。 てはならないのだ。 フ フーベ将軍と、その参謀長ヴァグナー大佐は、カメニエ 二つの脱出グループを編成した。フォン・デア・シ、ヴ ツ・ポドルスク北東ドウナイエフツイの農家にいた。すべアレリーの北軍団グループは北翼をかため、他より集めた てうまくいっていることを二人は知っていた。マウス・グ兵力とともにズブルチ川に橋頭堡をきずき、ついでセレト ループの三個師団はすでに第四装甲軍と合流している。第渡河点を奪って確保する。南のブライト軍団グループはカ 一装甲師団は要衝ゴロドク前面でがんばっている。第五九メニ = ツ・ポドルスク地区の敵を破り、ズブルチ川をオコ 軍団はフラムボリ日ャルモリンツィ地区を占領し、第一七。フで渡河することを任務とする。 装甲師団はカメ = = ツ・ポドルスク政盤にかかつイ、いる。魔の猟人たちのように、北グルー。フの先遣戦隊はズ・フル 空輸状況もいい。包囲陣内部では俗称輸送飛行隊長の包囲チ川へむかった。ヴ = ストファーレン第一六、チ、ーリン 陣班というのがいる。四人から成り、着陸・投下場明示にゲン第七装甲師団の先頭大隊群は、敵の抵抗を粉砕し、そ 必要な装備をすべてそなえている。無線、発光ベルト、各れにつづく第一装甲師団が第一一四装甲軍団の後衛をひきう 種信号弾。軍の移動に従って毎日、着陸地、投下地点をさけた。 がすのだ。スタリングラート以降、時代は変わり、組織も南グルー。フの攻撃も順調であった。フォン・メーデン将 空疎な口約東ではなくなったのだ。 軍の第一七装甲師団と第三七一歩兵師団は南西に、東プロ そうい 0 たことすべてを、フーべとヴァグナーは知ってイセン第一歩兵師団と、、 ( ーデンヴルテンベルク第一 0 いた。しかし、脱出準備が西や南やと定まらずに部隊が不一猟兵師団は第四六装甲軍団の後衛として、 t-nco 装甲師団 安になっていることも知っていた。今こそ兵たちに自信を ^ ライヒと協力、コ ーニエフの ^ 第二ウクライナ戦線 > つけてやらなくてはいけない。二十七日の夜、次のような北翼の動きを封じた。そのまま包囲陣は移動し、形姿を変 462
チェルカッスイの包囲 円 44 年 2 月 4 日 ~ ロ日 ウクライナ戦線の一部 」 0 km カニエフ 0 ーし トル -Abt.B 0 ポグスラフ ラメトウーン 、もに 0 グニ編イ - , チイキチュ川 (T.STOSS 旧 P こ LA スメラ hGø 第 2 ウクライナ戦線 ーニエフ ) ( プライト ) ンも / ウオ・ミルゴロトで参謀長ラインハルトに っ将 問、フた 0 かイ ーニエフは多数の大部隊をととのえておりま っラ す。包囲陣をかためておいて、残りの兵力でプー 陣とクへ進出するでしようか ? イ = レメンコが一九 囲うし 包よ迫四二年にスタリングラートをかすめてドンへ進出 イし肉 したよ、フに ? ・」 ス出で ッ救ま 力をろ戦略的にみると、幅一〇〇キロの裂け目を抜け、 = こと完全に無防備な地区へ突入をつづけるのが当然で アチての 名しある。この大胆で大がかりな作戦は、ドイツ軍南 ロ刀 ~ 、、 1 ニエフと大本 っへ翼の崩壊を招くにちがいない。 陣を地 ーコフ元帥が ^ 第二ウクライナ戦線》軍 囲カ囲営のジ = 包死包 ンはる前面の事情を正確に判断していれば、迷うことは ス部び ル導のないのだ。 コ指へ が軍西けれども、判断を誤るということはないだろう 団ツは 第師イ団か ? ドイツ軍の絶望的情勢を見すごすというこ 「。当個ド軍 と一は ? ・ パルチザン組織の声を半分でも信じれば、 5 。甲 た装 ソ連大本営は事態をつかんでいるはずである。そ っ 3 ま第 図しのして遅くとも一月二十八日以降、ソ連軍指揮官た , 地て軍 ちは現地で包囲線背後の住民から、もはやドイツ
戦況地図と前線報告からくらい未来を読みとるには、べ つに予言者であることを要しない。軍集団の予備は使いっ くされてしまった。快速師団群は息もっかせぬ投入でつか れはて、第八軍およびその左隣の第一装甲軍主戦線の歩兵 防衛線は紙のごとくうすい。戦線がいくらかまとまってい るのは、ドニエプル河口からジェベトフカまで。そこから 《東部戦線外人部隊》の登場 * ツアイツラーの計略 プリ。ヒャチ湿原帯までは幅八〇キロにわたって切れている。 * プリビャチとカルバチャの間 * 包囲された第一装 そこを守るのは弱体の一個軍団だけ。ハウフェ将軍のニュ 甲軍 * ヒトラーにあてたマンシュタインの最後通牒 * 山荘での衝突 * フーべからの電話 * ヒトラー、ゆ ルンベルク第一三である。プリ。ヒャチ湿原南方の戦略的地 ずる * 「西をかたづけよ、命令はあとから」 * ジュ 橋部を見はりソ連軍をよせつけない責任は、同将軍の肩に ーコフ、むなしく待っ * いくたの川を渡り、敵の二 かかった。ここの脅威は数カ月前からはっきりしている。 個軍を突破して * 移動する包囲陣をめざして * 集合 十一月中旬にソ連第一三軍がドニエ。フル。フリピャチの湿 点はプチャチュ * はねとばされたスターリンの大い なる罠 * 救い手、去る 原三角地帯をこえてから : ・ 参謀本部あがりの有能なハウフェは、ソ連軍の進出をお マンシュタインの司令列車は、ゆっくりとウインニツア くらせはしたものの、停めることはできなかった。いまや 崩の駅を通過した。駅長と運輸部長がプラットホームで敬礼ソ連六個軍はロウノ地区地橋部にある。旧ポーランド国境 翼する。元帥はブッセ将軍、シ = ルツ = 日ビ = トガー大佐とのすぐそばだ。湿地帯西端の鉄道要衝「ウ = ルを脅かし、 執務車両で地図にむかっていた。連絡将校シタールベル マンシュタインの北翼めがけて巨大な拳骨を突きつけてい 7 ク中尉が報告文書の山をかたわらにおき、一つずつテープた。 ルごしにさしだす。 元帥は事態の展開を見てうれえた。シュルツ中将の第五 2 フーベ包囲陣
川とソ連軍のわずかな偵察兵力だけが包囲の壁とな精鋭二個軍という障害を突きのけて西へ脱出するより魅力 的である。南への脱出のほうがたしかに安全だ。強敵の間 っているのである。 フーべがはじめの計画に反して南へ脱出しようと希望しを脱出する危険がどんなものか、フーべは知りすぎていた。 たについては、重大な理由があった。二十四日には彼もマチ = ルカッスイの悲劇は第一装甲軍の眼前にちらついてい ンシ、タインの指令どおり、北と東を警戒しつつドニ = スるのだ。フーべはそういう目に自軍を会わせたくなく、マ ンシュタインに対し南への脱出許可を強硬に迫ったのだ。 トル北岸を西に突破するよう命令していたのだが、三月二 しかし、フーべは大局の進展というものを正しく見とれ 十五日に情勢が悪化した。カメニエッ・ポドルスクとホテ インが脅かされ、西への後退路が敵に封鎖されたのである。なかった。彼の軍が南へ退けば第四装甲軍との間の亀裂が ますます大きくなり、ソ連軍にとりガリチャへの道が終局 第一装甲軍司令官と、その参謀長カルル・ヴァグナーは 同じ意見たった : 。情勢の変化は軍から行動の自由を奪的にひらけてしまうのだ。彼らはただ行軍するだけでいい ことになる 0 った。北で自由になった兵力をカメニエッ・ポドルスクヒ 方の危険にさし向けねばならないのだから。西への脱出は それで第一装甲軍にとって得なことがあるか ? 何もな コフを一コ ーニエフの機甲兵力先陣は 、′ . なにしろジュ あぶなすぎる。あらゆる可能性を考えてみるに南へ退くほ うが危険が少なそうだ。そこにはドニエストル畔にエ兵大三月二十五日にはやくもドニ = ストル南岸にいるのだから。 隊群と架橋部隊がすでに集まっている : : : フーべがマンシ《第一、第二ウクライナ戦線》の主力がそれを追って急進 崩ュタインの参謀長ブッセに電話で説明し、・フッセがベルヒ中である。 翼テスガーデンの元帥に伝えたのはこういうことであった。 ドイツ第一装甲軍はドニ = ストルの北で包囲されること いうまでもなく、孤立した軍に出血多き戦闘をさせず、 はまぬがれるだろうが、もうひとつの罠にはいってしまう 7 まだ封鎖されていないドニエストルを渡河させたほうがい ことになる。道もないカル。 ( チャ山地を壁とするもっとも 第 いに決まっている。とにかく、半ダースほどの川とソ連の危険な包囲陣た。マンシ、タインはその危険に気づいてい 4 刃
える。チェルカッスイ方式を繰り返した。本来の南北軸がていたか、質のわるい相談役にかこまれていたにちがいな い。四月一一日の十時、包囲陣内の第四六、第三装甲軍団お 東西軸になる。戦隊、小隊、中隊の兵の目にはわけのわか らない混乱、無計画な応急処置と映じるものも、戦況図でよび多くの師団司令部に、ドイツ語のーーとにかくドイツ 平文の無電が舞い込んできた。内 は共同作戦の傑作となるのだ。用兵の術に、規律の成果に。語の単語をつかった 容は次のようである。 最初の成功はすばらしかった。シュヴァレリー軍団グル ー。フはズブルチにいくつかの橋頭堡を得、スカラ川では無 「 1 これ以上の犠牲をもたらすため、諸君に提案する。 疵の橋さえ手に入れた。奇襲第一幕は成功。これもジュー 四月一一日終りまでに無意味な抵抗をやめ、支隊部隊と コフが西で環をしつかり締めておかないためだった。締め ておかなかったのは、フーべが南へ脱出するものと信じ込 も降伏せよ。諸君は四方から包囲され、側の希望は無 んでいたためである。それに気がついた時はもう遅かった。 意味。包囲陣からの脱出はできない。 ーコフがドイツ第一装甲軍側面へドニエストル南岸か 2 四四年四月一一日終りまで降伏しないなら、無意な らさしむけられるのはたった機甲一個軍団。少なすぎる。 抵抗の終り満たさない兵すべてから三人に一人射殺す ーコフは第一機甲軍の軍団司令官たちに電話でどな る。無意味抵抗の罰。部隊で降伏せよ、諸君は三つの った。「もどれ、もどれ、北へ / 」しかし天候と道の状態 環かこまれている。すすんで抵抗をやめる将校はもと の武器、勲章、輸送手段をつけさせる。 が今度はソ連軍に不利だった。ズブルチ、セレトの渡河点 前線司令官ソ連邦一兀帥ジューコフ」 崩を早期に封鎖するだけの兵力をドニエストル北岸にもって ーコフの処置は遅すぎたのだ。 翼こられなかった。ジュ 南 ーコフは、致命的なミスを無器 ドイツ軍司令官たちがこのものすごい文章の驚きからさ この情況におかれたジュ 部 用な心理作戦で償い、あわよくば計略で勝利を収めようとめぬうち、十三時に補足の無電がとどいた。明らかにドイ 第 ーコフのあわてた行動のことを知 ツ語のできる連中がジュ 試みた。それが成功すると思っていたとは、元帥も逆上し
九軍団を前線に訪ね、そこの情勢がいかに緊迫化しているある。実に六個軍 / それにくらべヴェーラーはほとんど 囲かを知っている。元帥はいくども総統司令部に警報を発し、戦車を欠き、チ = ルカッスイの六・五個師団を失っている。 べ兵力の増援を求め、一個軍を該地区後方ロウノ周辺に配置情勢を知るにはこれで十分だ。 コ フするようにとすすめた。 ーニエフは、べッサラビャ日ルーマニヤに進出する大 だがヒトラーは肩をすくめるだけであった。「どこからきなチャンスがあったのだ。ヒトラーが現有兵力をもっと 回せというのかね ? 」それで結局は間にあわせになってし出していれば、これを防ぐのは容易であったろうに。 まった。ホトが去ってからオーストリヤのラウス将軍がひ独ソ戦を通じ、ソ連側の作戦意図がこれほどはっきりし きいている第四装甲軍がタルノボリ地区の責任をひきうけ、ていたことは稀れなのである。敵の兵力集中、地理、政治 その代わり第一装甲軍がジェベトフカ東方に配置されるこ からして計画はあきらか。脱走兵と捕虜の話がそれを裏づ けていた。 ととなった。マンシュタインとしては、包囲される危険に 対し、中央戦区の弱体化という犠牲を払って装甲大部隊を これを示すおもしろい文書がある。当時の参謀本部のラ 軍集団北翼の背後に移し、最悪の事態にそなえるより仕方インハルト・ゲーレン大佐が、三月のはじめに提出した戦 なかった。装甲師団 ^ アドルフ・ヒトラー > はジェペ況報告書には、敵の意図がはっきりとあらわされているの トフカ南方地区に、第一、第六、第一六装甲師団はブーク だ。ゲーレンはスパイと空中偵察の成果をもとに、ソ連大 河畔に集結し、第一一装甲師団はひきあげられた。 本営の計画を寸分たがわず描いてみせた。 ソ連軍はド そこまではよかった。だがこの結果、別の危険が生まれィッ軍南翼包囲の準備をすすめ、やがて ^ 第一ウクライナ てきたのである。それでなくても弱体の第八軍は、装甲兵戦線》軍をもってプリビャチ湿原南のドイツ第五九軍団へ 力の半分以上をさかれ、ソ連《第一一ウクライナ戦線 > 軍との総政撃を開始してポーランドへ進出する一方、ドニ = ス あい対することになった。コ ーニエフがコルスン包囲戦の トルへも南転し、ドイツ軍南翼を席捲する。コー ため集中させ、短期間の休養で元気をとりもどした部隊で《第一一ウクライナ戦線》軍はスウェニゴロトカ地区から、
なるとわれわれの猛砲火をかいくぐり三個師団の騎兵が密の背後、カニエフ突出部でとざされるのだ。 はたしてそのとおりになったのである。クラウチェンコ ス集して西へ突っ走る。とうに忘れた、非現実的な光景では と一口トミ 力あった」 ストロフの戦車兵たちは、一月二十八日、スウェ , 百戦を経た冷静なフォン・フォアマン将軍は劇的な情況ニゴロトカ付近で手を握りあった。チェルカッスイの悽惨 をみごとに描いている。 な包囲戦はここにはじまった。 カビタノフカ戦線は破られた。が、不幸は単独では来な ふたたびソ連軍はスタリングラート方式に成功したので 、。ドイツ軍前線司令官はすべて一月はじめにソ連軍挾撃ある。二重の包囲陣により、遠く東のドニエ。フルまで延び の片方、つまりキエフからべーラヤ・ツ = ルコフィを経てるドイツ軍戦線突出部はカニエフから切断されたのだ。第 南東へ進む ^ 第一ウクライナ戦線軍のことを心配してい 四二、第一一軍団の六個師団と一個独立旅団はかこまれ、 たのだが、それがはっきりしてきたのだ。クラウチェンコ 行動の自由を失った。ドイツ軍戦線に幅一〇〇キロの穴が 将軍の第六機甲軍をはじめソ連三個軍が、ドイツ戦線突出あき、そこから赤軍はルーマニヤに進撃できる。国境まで 部の西側を第一装甲軍第七軍団の手薄な防衛線で破ったのもはやそれをさえぎるものはないのだ。 である。 ソ連軍指導部に好機が到来した。三週間前キロウオグラ ・ハイエルン第八八、・、 ノーデンヴュルテンベルク第一九 ートでいったん手にしたものの、フォン・フォアマン将軍 八歩兵師団が、ソ連戦車群を迎えうち、粉砕された。戦線の第四七装甲軍団と第八軍の奮戦のため失ってしまった好 は大きく裂けた。そこを埋めるべき予備軍はもはやない。 機である。今度はうまくいくか ? 「敵はどうするだろ 赤軍は無人の野を行くように南東へむかった。コー う ? 」一月二十八日夕刻、各司令官を集めたマンシュタイ 将軍の北ー西進撃路へびったりと目標を定めて。両軍の先ンはたずねた。「包囲戦に徹するか、それとも進撃をつづ 頭は一〇〇キロしかはなれていない。戦車隊にとってはも けるか ? ・」 ののかずではない。両者が出会えば、罠はドイツ二個軍団「敵は何をするか ? 」第四七装甲軍団長フォン・フォアマ 414
《ヒルベルト軍団集団》としてひきいていたが、シェイデ後でソ連軍指導部はそのことを悟ったのである。シニャウ イス森とポセロク 5 の南の泥炭地帯を放棄した。新しい主 イノの泥炭湿原は屍の野であった。 戦線はゴロドクから直接シニャウイノ高地を通ってポセロ ソ連一一個軍の軍事評議員と司令官は陸軍総司令部にかけ ク 7 と人ヴェングラー・プロック》に走っている。 あった。「このままではだめです / 大量の出血をしなが ときとして通廊部には一ダースあまりの師団も投入されら高地を占領できない。正面からではとれません。ドイツ た。南方の軍戦区からのべテランの東プロイセン各師団と軍はおそろしく強化されている。もてるものすべてを、深 ならんでレニングラート包囲陣南東部の第五山岳兵師団、 い側面をむき出しにしても、シニャウイノ・プロックに投 。地図参照。 入している。その代わりにウォルホフ、ボゴストエ、レニ ウォルホフからの第一一八猟兵師団もいる ( ーニ三八ページ ヒーナー戦隊はシ = ャウイノ高地北東端での最大の脅ングラート包囲陣南東端コル。ヒノの守りはすこぶる弱化し 地図参照。 威にもちこたえた。そのエ兵と第六一歩兵師団快速大隊はています。そこを衝かねば / 」 ( ー一一四四ページ 考えは論理的、計画は誘惑的であった。ムガの北と東の とりわけ戦闘のはげしい場所に投入されたが、ソ連軍にチ ャンスを与えなかった。その左右でもそれに劣らぬ頑強さ全ドイツ軍を二重に包囲するというのだ。うまくいけばキ ーロフ鉄道に達するだけでなく、ドイツ軍の一ダースあま をもって東プロイセン第一、第一一歩兵師団がシュレージ エン第二八猟兵師団と協力して守った。シニャウイノ教会りの師団をも袋のネズミに出来る。 スターリンとその大本営は前線司令官のこの計画に強い 廃墟をめぐる白兵戦は今次戦争を通じ屈指の激戦とされる。 戦この ^ 東プロイセン・ファランクス》により、シ = ャウ関心を示し、それを実行に移す準備をはじめた。 しかしスターリンはヒトラーと同じように、またも敵を 翼イノからムガへ抜けようとするソ連軍の意図はことごとく みくびるという誤りを犯した。今度も少なすぎる兵力で過 破れ去った。酷寒、吹雪、猛砲火にさらされて弱小兵力が 部 壕、拠点、崩れかかった弾痕のなかで攻撃をしりぞけたの大な目標を狙ったのである。 第 二月十日にソ連軍は、東ではボゴストエの南から、西で た。ここで打つ手はなかった。八日間休みなく攻めたてた 249