司令官 - みる会図書館


検索対象: 焦土作戦
613件見つかりました。

1. 焦土作戦

30 索引・人名 ~ 43 ・ 6 ・ 25 , 第 17 軍司令官 ( 42 年後半 ~ 43 年 第 23 装甲師団長。 389 , 391 , 304 初 , ルオフ集団軍司令官 ) 。 175 。 403 《ルチーレスラーを見よ ルップ少将 : 第 97 猟兵師団長。 428 144 , 158 , 159. レンゲルケ , フォン 長。 448 , 458 大佐 : 第 21 装甲擲弾兵連隊 ルーデル , ハンス = ウルリヒ空軍大佐 : イン メルマン》第 2 突掣航空団長。 58 , 60 ~ 62 , 405 , 407 , 424 , 428 , 516 ルーデンドルフ 164 , 364 ルホト将軍 : 第 336 歩兵師団長。 120 ルントシュテット , フォン元帥 ( 40 ・ 7 ・ 19 ) 上級大将 ( 38 ・ 3 ・ : 39 ・ 9 1 い 2 , 南方軍集団総司令官 ( ポーランド戦 ) → 39 ・ 10 ・ 25 ~ 40 ・ 10 ・ 25 , A 軍集団総司令 官 ( フランス戦 ) → 41 ・ 4 南方軍集団総司令官→ 42 ・ 3 ・ 1 ~ 44 ・ 7 ・ 6 , 西方軍 ( D 軍集団 ) 総司令官→ 44 ・ 9 ・ 10 ~ 45 ・ 3 ・ 10 , 西方総軍総司令官。 12 , 13 , 20 , 28 , 30 , 66 , 68 , 92 ~ 97 , 131 , 215 , 221 , 222 , 243 , 248 , 264 レヴィンスキー , フォン中佐 : 第 6 戦車連隊 長。 90 レスラー , ルードルフ ( ソ ) 諜報部員 , 別名くル チー》 96 , 97 , 101 ~ 104 , 106 , 108 ~ 111 , 204 。 43 , 45 , 49 , 447 レーテイヒ少将 : 第 198 歩兵師団長。 29 レックナーゲル中将 : 第 111 歩兵師団長。 143 , 323 , 324 レッフェルホルツ , フォン中佐 : 第 28 2 歩兵師 ・ 1 ~ 41 ・ 12 ・ 3 レミソフ ( ソ ) 将軍 : 第 59 軍司令官。 2 2001 , 202 , 222 185 , 189 , 191 , 官。 210 。 12 , 131 , 179 , ・ 1 ~ 42 ・ 1 ・ 16 , 北方軍集団総司令 ・下 , C 軍集団総司令官 ( フランス戦 ) → 41 上級大将 ( 38 ・ 3 ・ 1 ) : 39 ・ 9 ・ 3 ~ 41 ・ 3 レープ , リッター・フォン元帥 ( 40 ・ 7 ・ 19 ) 163 , 169 , 172 , 〃 9 , 285 , 325 ニン 174 , 333 。 114 , 115 , 158 , 163 , 166 , 団作戦参謀。 313 長→ 44 ・ 5 ・ 3 ~ 44 ・ 6 ・ 4 , 第 1 軍司令官 レメルセン , ョアヒム将軍 : 第 47 装甲軍団 341 4 航空軍司令官。 12 レール空軍大将 : 39 ・ 3 ・ 18 ~ 42 ・ 6 ・ 24 , 第 レリュンエンコ ( ソ ) 疆 : 第 3 親衛軍司令官。 5 ・ 2 , 第 14 軍司令官。 10 軍司令官 ( イタリヤ ) → 45 ・ 2 ・ 18 ~ 45 ・ ( イタリヤ ) → 44 ・ 10 ・ 24 ~ 45 ・ 2 ・ 17 , 第 → 44 ・ 6 ・ 5 ・ ~ 44 ・ 10 ・ 24 , 第 14 軍司令官 35 。 105 ロコソフスキー ( ソ ) 大将 : くドン戦線》総司令 長。 139 , 142 , 405 ロート大佐 : 第 2 狙兵旅団長一第 22 装甲師団 ロート少将 : 第 88 歩兵師団長。 375 262 , 263 , 267 ローゼンタール少佐 : 第 263 歩兵師 . 団作戦参謀。 137 , 138 ローズヴェルト ( 米 ) 第 32 代大統領。 154 。 114 , 74 , 505 328 , 499 , 502 ~ 504 , 506 , 509 。 戦線》総司令官。 24 , 25 , 35 , 37 , 38 , 326 , 官→《中央戦線》総司令官→く第 1 白ロシャ →くウォロニエン戦線》総司令官ー・く第 1 ウ ワトゥティン ( ソ ) 大将 : 《南西戦線》総司令官 ワンレフスキー ( ソ ) 元帥。 91 , 500 くワ行》 339 , 363 , 381 , 394 , 424 , 428 , 458 , 476 222 , 289 , 395 , 4 圓 , 402 。 36 , 104 , 月 0 , 方戦線 ) 。 44 ・ 10 ・ 14 , 自殺。 276 , 335 , 371 B 軍集団総司令官 ( パルカン , イタリヤ , 西 軍集団総司令官→ 43 ・ 5 ・下 ~ 44 ・ 7 ・ 17 , ・ 9 , チュニス 司令官→ 43 ・ 2 ・ 23 ~ 43 ・ 3 ・ 30 ~ 43 ・ 2 ・ 22 , アフリカ装甲軍 ・ 8 ~ 42 ・ 1 ・ 30 , アフリカ装甲集団司令官 ドイツ・アフリカ軍団長→ 41 ・ 9 ~ 41 大将 ( 42 ・ 1 ・ 18 ) : 第 7 装甲師団長→ 41 ・ 2 ロンメル . ェルヴィン元帥 ( 42 ・ 6 ・ 22 ) , 上級 ローレンツ大佐 : 第 367 擲弾兵連隊長。 258 223 ロマノフスキー ( ソ ) 中将 : 第 2 突撃軍司令官。 ロマノフ ( ソ ) 少尉。 170 , 174 25 , 317 ローマイヤー大佐 : 第 505 歩兵連隊長。 22 , 24 , 官。 246 , 462 , 463 , 467 , 490 ロバテン ( ン ) 将軍 : 第 37 軍司令官→第 62 軍司令 414 , 420 , 512 , 518 128 , 132 , 133 , 135 , 314 ~ 316 , 407 , 413 , →第 5 親衛機甲軍司令官。 73 ~ 76 , 86 , 126 , ロトミストロフ ( ソ ) 中将 : 第 3 親衛機甲軍団長 345. 350 , 365 , 367 ~ 374 , 405 , 408 , 201 , 205 , 265 , 303 , 310 ~ 312 , 324 , 179 , 192 ~ 195 , 110 , 121 , 69 , 72 , 74 , 91 , クライナ戦線》総司令官。 17 , 18 , 41 , 43 , 61 343 ~ 4 い レングスフェルト , フォン・ポイネプルク う 61 少将 :

2. 焦土作戦

想もしなかった場所をえらんだ。幅五〇〇メートルの、通 生じたのはその場所であったからだ。 撃 ・ハレは行不能とされていた湿地である。みごとにやってのけた / だが命令はちがっていた / 《フェルトヘルン 攻べレジナの東一〇〇キロ、ドニ = プルの対岸で戦ったのだ。あらかじめ棒を組んだ格子をおいておき、攻撃開始後工兵 がそれを煙幕にかくれて渡河作戦のときのように、湿原へ 孤立して。これは焼け石に水だった。フォン・シュタイン ケラー将軍はいっている。「六月一一十五日から二十六日に押しすすめたのだ。 かけての夜、分別のおかげというより運がよかったのたが、「突撃 5 、 5 、 5 / 」と戦車長たちのヘッドフォンに叫び が ~ いった。六月一一十四日、長さ四〇〇メートルの材木ダ モギレフ付近で師団のドニエ。フル渡河後退に成功した」 ムを押しわたるドン機甲軍団の攻撃合図だ。歩兵たちも攻 将軍が師団の戦車をもってソ連戦車を防いでいるうち、 その首席作戦参謀フ = ルシ = 中佐は第一一一軍団司令部から撃命令をうけ、ドイツ第三六歩兵師団の哨戒線がわすか警 無電をうけとった。六月一一十四日十四時。「西へ脱出せよ。戒しているだけの、油断ならぬ沼地に踏み入った。ロシャ 第一二歩兵師団はモギレフを防戦中」この瞬間から同戦区兵は新雪に対するスキーヤーのようにそこを征服した。柳 では事実上指揮は存在しなくなった。西へ向かう街道は各の枝を編んだスキーをはいていた。これも彼らの臨機応変 師団の輜重や戦闘部隊があふれ、はっきりした目的もなくの才を示すもの。彼らは沼地、原生林、夜を好み、らくら そこに時々敵戦車が突っこんでくとそれに馴れる。 勝手な方向に流れていく。 ドイツ第四一装甲軍団は完全に不意をつかれた。ホフマ くるのた。 こういった情況下で、軍集団右翼にソ連軍の大攻撃がかイスター将軍としてはどうすればいいのか ? 彼の装甲軍 けられた。ロコソフスキー《第一白ロシャ戦線 > 軍のボ・フ団とは名ばかりで、第三六歩兵師団のほか歩兵一一個師があ るにすぎぬ。モギレフ日ボ・フルイスク舗装道路への敵戦車 ルイスク攻撃が。 ソ連第六五軍司令官・ハトフ将軍は、ボ・フルイスクへの戦隊奇襲に対する反撃は第一一〇装甲師団がするべきであった 車進撃路に、ドイツ第九軍とその司令官ヨルダン将軍の予ろう。同師団はボブルイスク付近で絶好の場所に待機して

3. 焦土作戦

土防衛課長ヴァルリモント将軍の報告から明らかである。概要がのる。 切彼はこう書いている。「三月一一十八日午後、総統司令部に べンド さらに二四時間たった四月一日、ラへレ・デュー のおける特別会議冫 こよ、副官職は機密保持の理由からして国ルファーはジュネーヴで秘密通信機のキイを叩く。「ド 部防軍、陸軍、空軍の最高級各参謀部のうちごく小人数が呼ラよりディレクトールへ。ドイツ軍夏期攻勢についての指 令 司ばれただけであったが、そこで陸軍参謀総長が、それまで令は : : : 」 総彼にあたえられた軍事指令からあきらかとなったところの おもしろいことにこの電文は情報源として《ヴェルテ 夏期攻勢集結計画をことこまかく説明した」 ル》ではなく人テディ》としるしている。テディ》とは ヴァルリモントはこう終えている。「ゲッペルスのメモドイツ陸軍総司令部内のスイス諜報員の暗号名なのだ。 とは裏腹に、攻撃目標としてのモスクワは、さしあたりま ここからわかるのは、総統司令部からのスイス系情報は ったく間題にならなくなった」 ^ ヴェルテル》情報とは同一ではないということである。 ヴァルリモントがいっているのは、ゲッペルスの三月二厳重に警戒されたヒトラーの ^ ヴォルフスシャンツェに 十日づけ日記のメモのことである。ゲッペルスはそこで夏はいく人かのスパイがいたに違いないのだ。 期攻勢の目標にモスクワをおいているのだ。つまりヒトラ 一九四四年になると、無線防諜部の専門家たちはいやな ーの政治的腹心のほうが、スイス参謀本部やーーーレスラー疑惑をもちはじめた。それまでにディレクトールと各スパ を通じての・ーーソ連大本営よりもずっと情勢にくらかったイ組織の間にかわされた通信をキャッチし、一〇〇〇以上 のた / を解読できたのだ。ディレクトールの正体はわかった。フ たしかに驚くべき話である。本物の文書によって見せつ ランスのケントとベルギーのギルバ ートを逮捕した。ラド けられなかったら、とても信しられないだろう。 とルチーの正体も判明し、その通信士と連絡員の名もわか 三月一一十八日にヒトラーをかこんでの極秘会議。 っている。 その三日後、ベルンのギュイザン将軍のテープルにその だが、総統司令部、国防軍総司令部、陸軍総司令部にい

4. 焦土作戦

ルヴィッツアー将軍から第三装甲軍司令部に無電がはいっ破に成功したが、やがてふたたび包囲されてしまった。六 た。「情況は根本的に変わり、完全に包囲さる。第四空軍月二十七日朝、敵師団の残余はソ連軍司令部の最後通牒を うけて降伏した。敵の損害は戦死一一万、捕虜のなかには第 地上師団はもはや存在せず。第二四六歩兵師団および第六 空軍地上師団は各戦線にわたって苦戦中。ウイテブスク市五三軍団長歩兵大将ゴルヴィッツアーとその参謀長シ、ミ ット大佐もいた」 街地でも激戦」 それで、ウイテブスクを守るはずのオスト。フロイセン第 第五三軍団の三万五〇 0 〇名は最終ラウンドにはいった。 一一〇六歩兵師団は ? どうなったのか ? 総統司令部はひ 十九時三十分に軍団司令官はウイテプスクより報告する。 「最後の一兵までたたかう。ゴルヴィッツアー」青島司令つきりなしに「同師団は交替まで市を守るべし」と打電し 官が一九一四年八月一一十三日に極東から皇帝ヴィルヘルムてきたが、ソ連攻勢の怒濤に対してはなんにもならない。 にあてた歴史的電文をまねたことはたしかだ。当時海軍大軍集団左翼の敵突破地点にあった各師団は叩きのめされ、 佐マイヤー日ヴァルデックは故国を去ること一万一〇〇〇ウイテブスクは墓地と化した。そこでヒッター中将は六月 キロの要塞からこう電信を打った。「死力をつくして義務一一十六日十六時一一十五分に自己の責任で脱出命令を発し、 工を遂行す」 ^ 死カ》は二カ月半つづき、彼と四〇〇〇の兵一一十一一時に行動に移った。傷兵を馬車と一台の牽引車にの せて。 ンは四万の日本兵を防いだのだ。 カ 、ゴルヴィッツアーの力は一一日もつづかなかった。こ突撃班は一五キロ進んで行きづまった。ソ連第三九軍に のが 集れを最後に彼からの報告はなかった。六月一一十六日の朝、捕捉、包囲された。銃剣をつけフラーを叫んで突撃しても だめ。伝統に輝くオストプロイセン第一二〇一、第三一二、 央彼は南西へ脱出をはかり、一部兵力とともに六月一一十七日 中 にはウイテブスク南西一一〇キロの地点まで来た。そこで何第四一三擲弾兵連隊最後の戦闘であった。生き残った者も 8 が起こったか、ソ連の『大祖国戦史』はこう書いている。森のなかで、殺されるか捕えられるかした。やっと切りぬ 第 「約八〇〇〇のドイツ軍グループがウイテ・フスク包囲の突けたのは決意を固めた将兵の数グループたけである。彼ら う 15

5. 焦土作戦

22 索引・人名 ・ 30 , 第 19 軍司令官 ( 西方戦線 ) 13 ~ 44 ・ 6 131 , 374 , お 1 《タ行》 《南西戦線》総司令官→くデミャンスク戦 チモンエンコ ( ソ ) 元帥 : 《西戦線》総司令官→ 44 , 51 ~ 54 , 60 チスチャコフ ( ソ ) 中将 : 第 6 親衛軍司令官。 チェンパレン ( 英 ) 首相。 105 68 , 70 チェルニエンコフ ( ソ ) 将軍 : 第 31 機甲軍団長。 長。 281 , 284 , 285 ダルネッデ大尉 : 第 83 歩兵師団ー野戦補助大隊 159 , 160 ダラディエ , ェドウアール ( 仏 ) 首相 , 国防相。 292 , 295 , 296 タラソフ ( ソ ) 少将 : 第 249 狙撃兵師団長。 290 , 316 , 404 ダイ・、ン少佐 : 第 3 装甲師団ー装甲債察大隊長。 1 航空軍団長。 29 , 471 , 477 , 483 グイヒマン , フォン将軍 : 第 1 航空師団長→第 105 。 104 , 105 , 〃 4 , 157 チャーテル , ウインストン ( 英 ) 海軍卿 , 首相 : 40 イ , イ〃 , 412 , 477 , 422 , 4 イ 6 , 4 イ 7 245 , 246 , 361 , 372 ・ ~ 374 , 376 , 377 , 75 , 77 , 79 , 81 , 86 , 87 , 89 , 〃イ , 266 , 269 。 39 , 40 , 43 , 58 , 59 , 66 , 線》総司令官。 255 , 256 , 258 ~ 261 , 400 ~ 773 , 67 , 73 , 265 , ) 69 装甲軍団長。 27 , 356 。 64 , 209 , 210 , 326 , ツォルン少将 : 第 20 自動車化歩兵師団長→第 46 305 , 306 ツェーエンダー将軍 : S S 騎兵旅団長。 302 , ツインマー将軍 : 第 17 歩兵師団長。 323 , 396 , 第 2 大隊長。 234 ~ 237 ツィーグラー少佐 : 第 207 保安師団ー第 374 連隊ー 陸軍参謀本部付将校。 488 , 509 ツィッエヴィッ , ケレスティン・フォン少佐 : 456 , 479 。 488 , 490 , 493 , 503 , 506 , 509 83 , 261 , 262 , 328 , 449 , 450 , 453 , 454 , → 42 ・ 9 ・ 25 ~ 44 ・ 7 ・ 20 , 陸軍参調総長。 1 ~ 42 ・ 9 ・ 24 , 西方軍 ( D 軍集団 ) 参謀長 ツアイツラー上級大将 ( 44 ・ 2 ・ 1 ) : 42 ・ 3 ・ 462 ~ イ 69 , 47 ム 472 , イ 76 , 477 , 492 , 505 軍司令官。 382 , 395 ~ 397 。 4 蠶 , 456 , 45 「 , 460 , チュイコフ ( ソ ) 元帥 : 第 64 軍司令官→第 8 親衛 官。 511 チ ( ソ ) 大将 : 《第 3 白ロンヤ戦線》総司令 チャルニャホフスキー , イワン・ダニーロウィッ ッターフェルン中将 : 第 18 装甲擲弾兵師団長。 ツッカートル中将 : 第 54 軍団砲兵指揮官。 382 327 523 499 , 505 , 歩兵大将 515 ディートリヒ , ゼップ上級大将 ( 44 ・ 8 ・ ヴァイクセル軍集団総司令官。 軍司令官→ 45 ・ 4 ・ 28 ~ 45 ・ 5 ・ 8 , 第 21 軍兼 第 14 軍司令官→ 45 ・ 4 ・ 15 ~ 45 ・ 4 ・ 27 , 第 4 ・ 18 , 第 4 軍同令官→ 44 ・ 12 ~ 45 ・ 2 ・ 17 , ( 42 ・ 8 ・ 27 ) : 第 12 軍団長→ 44 ・ 6 ・ 5 ~ 44 ・ 7 ティッペルスキルヒ , クルト・フォン 305 499 ニツツ , カルル海軍元帥 ( 43 ・ 30 ) : 36 デーナー少将 : 第 106 歩兵師団長。 137 デッカー中将 : 第 5 装甲師団長。 518 。 139 , 142 6 航空軍司令官 ( 捕虜 ) 。 13 , 461 第 4 航空軍司令官一 45 ・ 4 ・ 27 ~ 45 ・ 5 , 第 3 航空軍司令官ー 44 ・ 9 ・ 28 ~ 45 ・ 4 ・ 7 , 航空軍司令官一 44 ・ 8 ・ 23 ~ 44 ・ 9 ・ 27 , 第 戦隊指揮官→ 43 ・ 6 ・ 12 ~ 44 ・ 8 ・ 22 , 第 4 1 ) : 43 ・ 1 ・下 ~ 43 ・ 2 ・下 , カフカス航空 デスロッホ , オットー空軍上級大将 ( 44 ・ 3 ・ テスケ , ルマン大佐 : 中央部輸送司令。 97 , デゲナー大佐 : 第 96 歩兵師団作戦参謀。 248 所属。 428 , 444 デグレル , レオン中尉 : ss 《ワルーン》旅団 205 , 206 , 272 任者。 95 ~ 99 , 103 , 104 , 106 , 108 , 110 , 《ディレクトール》 ( ソ ) モスクワ軍事情報部責 官。 337 ~ 3 イ 1 , 3 イ 4 ~ 3 イ 6 , 3 イ 9 42 ・ 6 ・ 22 ~ 44 ・ 6 ・ 25 , 第 20 山岳兵軍司令 ・ 20 ~ 42 ・ 6 ・ 22 , ラップラント軍司令官→ 1 ) : 《ノルウェー》山岳兵軍団長一、 42 ・ 1 ディートル , 工ドウアルト上級大将 ( 42 ・ 6 ・ 令官。 199 。 227 官→ 44 ・ 10 ・ 26 ~ 45 ・ 5 ・ 8 , 第 6 装甲軍司 → 44 ・ 8 ・ 23 ~ 44 ・ 9 ・ 12 , 第 5 装甲軍司令 ss 《アドルフ・ヒトラー・新衛旗》師団長 ・ 1 , 渹軍 U ポート艦隊司 令官ー、 43 ・ 1 ・ 30 ~ 45 ・ 5 ・ 1 , 海軍総司令 ・ 8 , 総統兼国防軍 484 。 353 ー , ラ ~ レ ( ソ ) 諜報部員。 103 , 108 , 111 100 , 101 , 大尉 : 第 1 戦車連隊ー第 1 中隊長。 別名《ンシー》。 フ - ューベンドルファ 総司令官。 470 , 官→ 45 ・ 5 ・ デルンベルク 424 , 434 ドウハーノフ ( ソ ) 少将 : 第 67 軍司令官 . 223 ,

6. 焦土作戦

やっと、狂気のような電話から一抹の希望が生まれた。 いた。ドイツ軍ドニエプル防衛線に重くのしかかっていた 竸のは、グリゴロフカ村にシナジ = キン少尉がきずいた橋頭キ = フでは第一九装甲師団の一部が九月一一十一日のうちに 5 ドニエ。フルを渡り、市のすぐそばに停止していた。その偵 で堡である。ソ連戦史はこれを《ブクリン橋頭堡》と呼んオ 一九四三年九月一一十一一日の午前、南方軍集団の各司令部、察大隊は昼の中途で動員をかけられた。全員乗車 / この 各本部はこの漁村の名を悪夢と感じとった。十一時、チ = 瞬間、東部戦線で最大の危機にさらされた地点へ急行する。 フォン・メッツ少佐のハノーヴァー第七三装甲擲弾兵連隊 ルカッスイの武器学校本部の電話が鳴る。かけてきたのは ヴ = ーラー将軍だった。「昨日カ = = フに何名派遣したのがそれにつづき、さらに師団の主力が従った。 ア キエフからグリゴロフカまでは九〇キロ。道はいい。 か ? 」 クセルを踏みつづける偵察大隊には二時間半だ。第八軍は 「下士候補生一一一〇名であります」 かたず 固唾をのんだ。ソ連軍司令官もこの絶好のチャンスに気づ 「一二〇名 ? 」間をおいて、「その一二〇名をただちにト ラックでグリゴロフカへ投入せよ。渡河した敵の動きを封くだろうか ? 橋頭堡からロッサワ川まで進出し、第八軍 と第四装甲軍の間に楔を打ちこむチャンスを ? じるのだ」 第八軍司令官が九月一一十一一日十一時に、ソ連の・フクリン 九月一一十二日十九時一一十八分。東岸プロホロフカに司令 橋頭堡にさしむけられたのは、武器学校生徒一二〇名だけ 部をおいたネーリング将軍のところに、ヴェーラーの無線 であった。不足なことはわかりきっているが、ほかに兵力命令がはいった。可及的速かに兵力を西岸へ投入し、ドニ はない。ネーリングはカニエフ橋頭堡を敵のはげしい攻撃エプル屈折部で苦戦中の第一九装甲師団偵察大隊を増強す に対して守らなくてはならないのだ。ネーリング快速部隊べし。可及的速かに / ネーリングは朝を待った。だがル イ、、ハルコ将軍もただものではなかったのだ。 の先鋒ははやくても九月二十二日の晩でなければ川をこせ ないことを考えておく必要がある。それまでの一二時間に九月一一十三日の朝はネーリングにとり、思いがけぬ事件 ではじまった。「敵戦車 / 」一〇、一一〇、三〇 : : : 四四台 グリゴロフカがどうなるか、わかったものではない。 は」 0

7. 焦土作戦

を第 ン中佐の研究からわかるように。 ヒトラーと前線司令官の間の争いは、シェルナーの命令 だが、災厄は近づいていた。すべての希望は砕かれてし撤回努力でその頂点にいたる。さんざんやられた経験のあ まうのだ。この絶好のときにあたってヒトラーは、またもるシ = ルナー大将は戦術をつかった。四月十八日十時三十 理解しがたき決断を下したのである。四月十一一日づけで、分、彼はツアイツラーに電話して説明した。「セワストボ 「セワストボリを長期にわたって防衛せよ。戦闘部隊を撤リ防衛の総統命令はもちろん実行する。しかしいっておき 退させるべからず」それどころか増援を送りこむというのたしが、クリミャ向けの武器弾薬はすべてドニエストル畔 だ。セワストボリを守れ / これをもって、そう、このとの南ウクライナ軍集団の決戦で必要とされながら欠けてい きになってはじめて、古兵をまじえた勇敢なドイツ六個師るものだーー・ーその決戦にこそすべてを投入せねばならんの 団の悲劇がはじまったのである。 ですぞ」 イエネッケも、クライストの罷免後三月三十一日から南シェルナーがうまいところを衝いたことはツアイツラー ウクライナ軍集団をひきいるシェルナーも、陸軍参謀総長の返事からわかった。「私も同意見です。しかし、セワス ツアイツラーも、ヒトラーのけったいな命令をとりけそう トボリ放棄の許可を総統からとりつけるには、第一七軍の としたが、むなしかった。アルメンディンガーも総統司令情況をもっと詳しく知らなくては」 部を訪れた際にそれを試みた。クリミャ放棄はトルコを揺二十二時〇五分にシ = ルナーはまたツアイツラーと電話 り動かし、ルーマ = ヤとブルガリヤをぐらっかせるだろうで話した。「セワストボリについての決定だが、四月一一十 崩というヒトラーの論拠は、軍集団がドニエ。フル畔オデッ 日までにいただかねばならん。それまでには輜重の可欠部 翼サの西に後退するまでは、どうにもならないものであった。分の後送はすんでいますからな」シ = ルナーは数字を出し けれども、戦線の兵力差がいかなるチャンスをも許さない た。十九日の夕方には国防軍補助部隊の輸送は完了し、つ 部 場合、セワストボリを三週間以上維持するのに、正しき論ぎはルーマ = ャ軍。一日あたり七〇〇〇名で。クリミャ上 拠がなんの役に立っというのか ? 空の情勢は日ましにわるくなっていく。敵砲兵はヘルソネ 479

8. 焦土作戦

。それが、前線からの警報に な有能な将軍もいたのに : この後退はまずドニ = プル屈折部ーーアゾフ海の線、つい でドニ = プル屈折部・・ーーベルジャンスク、ついでドニ = プもかかわらず、一発勝負にふみきらせた原因ではないか ? 《ルチーの情報がそれを物語っている。 ル下流にいたるものである」 しかし、なんで ^ ヴェルテルはこんな情報を流したの それはスターリンのテーゼではないのか ? リコフ陥落およびだろう ? いつもは《ヴォルフスシャンツ = >> 、《マウア 二月一一十一日の情報三〇七号は、「ハ ドイツ軍ドニ = プル戦線崩壊の結果はドイツ国防軍総司令ーヴァルト、総統官房》からモスクワの《ディレクト 部で破局的と判断さる。一一月十七日以来、ドイツ軍の四〇ールに正確な報告をしていたのに ? ・こ。ドニエッとドニエプル間の春期戦では、 をこす師団の残余は、切断され、見込みのない防衛戦で粉答えは簡単オ 砕され、むだな反撃で出血し、追撃するソ連軍に追いっか戦術的ばかりでなく戦略的決定もマンシ = タインの前線司 令部で下されていたからである。総統司令部ではなくて。 れて殱減される危険につきまとわれている。これには、ド ィッ陸軍とにまだ残っている装甲軍と戦車のほとんどマンシ、タインはとやかくいわれることなく、《ヴォルフ スシャンツェ》の意向ではなくその時どきの法則に応じて 半数が属している」 行動したのだ。それにその重大な数日間、ヒトラーはラス これもスターリンのテーゼではないのか ? まテンプルクではなくて、少数の幕僚とともにウイニツアに この報告の最後に、「無関心と運命論的絶望とが、い や東部戦線南方のいたる所で、まだ戦闘を経験せずとも兵いたのである。ドイツ軍総司令部と総統司令部の主だ 0 た 站地で破局を見つつあるドイツ部隊の戦略を、急速に低下面々は東プロイセンに残されたままだったのだ。そして ュ 《ヴェルテル > とその情報も / させている」 マ ドイツ軍総司令部からのこの劇的な情報が、ふつうならそこではマンシ、タインの意図と可能性は見抜けず、情 2 ちょっと考えられないスターリンとその幕僚の命令を説明況の悲観的分析に支配されて、戦場と総統から遠くはなれ 第 するものではなかろうか ? そこにはワトウティンのようた東プロイセンの高級参謀将校たちは、すっかりそのつも

9. 焦土作戦

フォン・クライスト元帥の軍集団がうまく口ストフにつチェルカスクからドンへくりだし、ソ連軍の先頭を行く債 いて、せまい門をくぐりぬけられるだろうか ? 察隊を捕捉して機甲部隊先鋒をドンの対岸に追いもどした 9 一九四三年一月七日、酷寒の木曜日、連絡将校のアスス緊張と寒気に明け暮れた一日であった。 大尉がマンシュタインの部屋にかけこんできた。「元帥閣 このエ。ヒソードはよく当時の事態を示している。がむし 下、敵戦車がここから一一〇キロのところでドンを渡り、まやらな指揮官にひきいられた戦車連隊がひとっソ連側にあ っすぐここへ向かっています。攻撃してくるにちがいありったら、ここで戦機を決しえたかもしれないのだ。それは ません。わが軍コサック防衛線は破られました。もうだめロストフ占領につながったかもしれないから。ロストフを であります」 取れば、一〇〇万人のドイツ側の三ないし四個軍を包囲で マンシュタインはしずかに大尉を見つめ、「そうか」ときたはずなのだ。 いっただけである。 なぜソ連 ^ 南戦線》総司令官はそうした人物を投入しな このときも元帥は、ただ天才的戦略家であるのみならず、かったのだろう ? ドイツ軍の防衛力を過大に評価してい 胆のすわった軍人であることを示したのだ。彼の嫌いなのたのか ? ・ ( ダーノフの第二四機甲軍団の運命が身にしみ ていたのか ? は、興奮と混乱であった。 「アヌス、まだ大丈夫だ」と大尉をなだめて、さ、「かき 集めてきたまえ。となりに戦車の修理工場があったろう。 マリノフスキー将軍は顔をしかめ、ノウォ日チェルカス , 使えるのが何台かはみつかる。戦力を統合して敵を射すくクのこの失敗の報告を聞いた。「最良の部隊でもむりです シ ンめるのだ。司令部に防戦命令を出せ。やってみたまえ / 」 な」と参謀長は弁解につとめた。 マ アヌスはまたも元帥の落ちつきに一驚して、部屋をとびだ 将軍はうなずいた。大佐はだれにむかっていっているの 部 した。戦車修理工場か / それに気がっかなかったとは / か ? 第二親衛軍の経験をつんだ司令官としてマリノフス 第 三〇分後、大尉はかきあつめた小部隊の戦車でノウォⅡ キーは、彼の第三親衛機甲軍団も力の尽きたことを知って

10. 焦土作戦

一〇万人を第六軍の運命にあわせず、全軍のためこの貴重撃を必死に防いでいるというのに。 ク スな一二個師団をとっておくように迫った。 ここでまたも、かってはあれほど冷静かっ現実的だった ャもうヒトラーはきびしく拒絶することはしなかった。ぐ ヒトラーの勘が、病的に現実ばなれした願望に変わってし デらついていた。それはスタリングラートの影のなかでの決まったことがはっきりしてきた。 闘であった。 だが第六軍の運命は、ふたたびデミャンスクの第二軍団 グライナー 国防軍総司令部戦争日誌担当のヘルムート・ のわきをすり抜けていった。ワルダイ高地の一〇万人を救 は一九四三年一月三十日にこうメモしている。「総統は昨ったファクターは二つある。スタリングラートの大悲劇と 日、デミャンスク地区の食糧情況についての報告を要求さ ローゼンタールという名の陸軍参謀の少佐がそれだ。 れた。同地区撤退の決心をつけるために。それに関連して 総統は、オスタシコフ作戦により戦線の隙間をとざすつも 一九四三年一月三十一日、ウォルガ河畔の凶報に圧倒さ りでいるし、レニングラート奪取をさらに重要と考えるたれたヒトラーは、ツアイツラーの要望に対する抵抗をやめ め、撤退の決心はっきかねると洩らされた」 た。翌二月一日、ツアイツラーは第一六軍経由で第二軍団 あきれる。デミャンスクからルジェフ地区に打って出るに撤退の青信号を出した。道のない地域を一歩また一歩と というのか ? 中央および北方軍集団の間の一二〇キロに撤退し、資材はすべて持ち帰らねばいけない。 およぶ大きな隙間を、危殆に瀕したデミャンスクからの一 「七〇日以内に撤退せよ / 」が陸軍総司令部の命令だった。 回の攻勢で埋めようという。ヒトラーはとにかく「レニン前線の参謀たちはにやりとした。七〇日のうちにはどう風 グラート奪取のほうを重視」していたのだ。 向きが変わるかわからない。二カ月半もかけてはならない 奪取 ? 一二日前にソ連軍がレニングラートの封鎖を突のだ。さいわいにも これから見るとおりーー・そんなに 破したばかりだというのに。ヒルベルト軍団集団が、ヒト かからなかった。その七分の一でやってのけられたのは、 ラーの考えていたころ、シニャウイノ高地で優勢な敵の攻ラウクス将軍とその司令部が中央から命令のとどくずっと