ため西から都市へ突入するのが早すぎ、損害の多い市街戦みとす」 にまきこまれたが、ハ リコフは包囲して陥落させ、ひろく 命令どおり ^ 親衛旗 > 師団は三月十一日の朝、市に侵入 陣地を敷いて市内とその南戦線の敵兵力の逃走を妨げるべした。マックス・ ハンゼンの指揮する第一一装甲擲弾兵 きだったというのだ。この非難は当たっているか ? 連隊第三大隊は、はげしい市街戦をまじえつっ赤の広場ま コフ奪還の過程はどうだったのだろうか ? 将軍のためにで進出し、市中心部への道をひらいた。 この間題をはつぎりさせなくてはならない。 ゼップ・ディートリヒの r-n co 第一装甲師団 ^ 親衛旗》が 装甲軍団の戦闘日誌によれば、、 ノウサーは一九四一一一ソ連第一九狙撃兵師団および第一七九機甲旅団とハリコフ 年三月九日九時一一十分に、第四装甲軍から無電で命令をう南東部で撃ちあううち、市の南四六キロ、ムシャ川のほと けとった。「装甲軍団は西より北へむかって ( リコフりには増強をうけたシャファレンコ将軍のソ連第二五親衛 を締めつけ、市内の情況を探り、白兵戦により占領できる狙撃兵師団が第四八装甲軍団を釘づけにしていた。 可能性を利用すべし。ホト」 機動戦の名手ホト大将は、転んでもただでは起きない。 ハウサーはそれに従った。締めつけた。市内の情渥を探正面でくいついたままではいけないのだ / それは第四八 ハウサーにもあてはまることだった。それ った。白兵戦で占領できるチャンスありと判断した。そし装甲軍団にも、 て第四装甲軍に報告すると、各戦隊に攻撃の準備をさせてだからホトは、市そのものをめぐる戦闘とは無関係に、 イいる。三月十日 ^ 親衛旗》、《されこうべ > 師団はハリコ 部隊をしてハリコフを大きく包囲させたわけである。 ュフ北方を通過した。 ン 三月十日の二十時、第四装甲軍はテレタイプで以下のよ 三月十一日の十四時、テレタイプで軍命令がハウサーの マ うな命令を軍団に出した。「装甲軍団はハ リコフを占もとにとどいた。「第四装甲軍はわが第四八装甲軍団より 立ロ 2 領し、その東翼は ( リコフ日チ = グイ = フ道路を封鎖すべ敵が東へ逃がれるのを阻止する。ために装甲軍団は ( し。全兵力をもって北東より市に侵入し、西面では封鎖の リコフ西縁に小兵力守備隊を残せる後、《帝国》師団
一一月二十三日の夜、零下一一十度という寒気をついてバダー活用するつもりだった。ソ連軍指導部にとり口ストフ進出 ノフのソ連第二四機甲軍団に投入するチャンスが生じた。 は悲願である。だがソ連兵もこの冬にはカの限界にきてい こ 0 それはかけつけた第六装甲師団と協力して、、ハダーノフの大 胆にして危険な急進撃にストップをかけることになってい ラウス将軍のドイツ軍第六装甲師団はあらゆる攻撃をは た。カリトワ、チル両河の中間をなす雪原で、またもドイねのけ、、、ハルクの第一一装甲師団は勇士ウンライン大佐の ッ装甲部隊は近代戦車戦術なるものを見せつけた。第三〇率いる第四装甲擲弾兵連隊および第三〇六歩兵師団ととも 六歩兵師団がそこの重要補給基地を東から包囲し第五七九に、タチンスカヤの・ ( ダーノフ軍団に対し、カンナ工戦を 擲弾兵連隊が飛行場の一部を奪取して、ドイツ軍の反撃は展開したのである。 はじまった。はやくも十一一月二十四日には第六装甲師団の 刺すような寒さの夜戦で、ソ連第二四機甲軍団は死んで 一先遣大隊が突撃砲に支援され、タチンスカヤ北方地区を いった。・ハダーノフは必死で防戦した。最後の一発まで撃 占領し、十一一月一一十七日までに、、 ( ルク将軍各部隊はタチンちつくした部隊も多く、タチンスカヤの燃えるサイロと糧 スカヤのソ連軍団をひしひしと取りかこんだ。そこで第六秣庫は悽惨な戦場をてらしだした。衝突する戦車、つぶさ しちょう 装甲師団がソ連軍退路をふさいで補給を切断し、ビストラれた対戦車砲、蹂躙された輜重、凍った傷兵 : ャ川の戦線を北からの攻撃に対して守ったのである。 十二月二十八日にはすべてが終わった。い くつかのソ連 タチンスカヤ戦がはじまった・バダーノフの戦車は罠に 小部隊は町の北でドイツ軍包囲を突破し、ビストラヤ川を タ , おち、完全な奇襲をうけた。バダーノフはウォロニエシ正こえてのがれた。クリスマス前には威勢よく口ストフをめ ン面軍司令部に矢つぎばやに無線で救援を求めた。ワトウテざした、、ハダーノフ軍団は、あえなくついえさったのである。 マ ソ連大本営とソヴィエト最高会議は、・ハダーノフ軍団の イン将軍は無線でなだめ、もちこたえろと命じ、手もち兵 2 力のすべてをそこへ投入した。機械化一一個軍団と狙撃兵一一ために月桂冠を編んだ。果敢な死闘もさることながら、そ 個旅団を。なんとしてでも、、 ( ダーノフを救い、その軍団をれまで例のなかった戦車による敵中突破を赤軍の模範にし 121
、ま彼自身が軍集団 ファングオールはよく知っていた。し , 大地をゆるがした」 冲七月十一一日の午後、ロトミストロフの敵手ホト大将は前司令部 ( 南方 ) に電話連絡をとり、マンシ、タインの参謀長 の線に出て、 ^ 総統 > 連隊前線本部から戦況を見つめていた。・フッセ将軍から、第三装甲軍団がドニ = ッ北ルシャウ = ッ にいることを聞いたばかりなのである。 フ砲隊鏡で炎上戦車だらけの戦場をながめまわす。 ホ それはいいしらせだった。だがファングオールには悪い ハウサー軍団は守勢に立たされたものの、後退はしなか ・フった。いくどとなくソ連機甲旅団はドイツ軍主戦線に突入しらせもあった。やはりプッセから、クルスク北戦線のモ ーデルが予定の突破攻撃にかかっていないことを聞いたの したが、。 トイツ歩兵が圧倒され絶望しかかったにもかかわ らず、敵はそのたびにおしもどされた。 なぜか ? ソ連軍が第九軍の背後オリヨル屈折部で攻撃 すさまじい戦いが < 帝国》師団の右翼で展開された。そ こでソ連第一一親衛機甲軍団が、 ( ウサー軍団とまだ到着しをかけ、即座に第一一装甲軍戦区に深くくいこんだからであ ないブライト ( 第一一一装甲軍団 ) の師団群との間にあいた穴かった。 オリヨルは危機に瀕していた。中央軍集団全体の補給基 ら、繰り返し攻撃をかけてきたのである。いまいましい穴 ではあった / 地が、第九軍の背後が、脅かされていた。モーデルとして は、戦線から兵力をさいて敵にふりむけないわけにいかな 「敵の側面政撃はわが兵力の半分を釘づけにし、プロホロ かった。 フカの敵に対する力を弱めますな」と連隊長ジルヴェスタ ホトはこの凶報をだまって聞き、礼を述べた。 シュタードラーがつぶやく。 いまや事態は急を要することとなった。ここの南屈折部 ホトはうなずいた。軍前線司令部に電話をつながせる。 で決着をつけなければならなくなったのだ。うまくいくだ 第四装甲軍参謀長ファングオール少将が出た。 「ファングオール、ケンプフの情報がはいったか ? 彼のろうか ? いかせねばならぬのだ。 ・フライトには信用がおけた。なにしろ屈指の戦車指揮官 第三装甲軍団はどこにいる ? 」
七月五日の夕刻になると、ドイツ擲弾兵、戦車兵、装甲 入した。イギリス軍の弾薬運搬車を手本とした背の低い四 ラトンの装甲無限軌道車で、ポルクヴァルト製六気筒エンジ猟兵、エ兵は、最強兵器の集中投入にもかかわらす、高地 ヒンをそなえ、ーⅣと呼ばれている。それが積む四五〇キの堅陣をみごとに陥としたにもかかわらず、多数とらえた tQ けロの爆薬は投げだすことが出来、突撃砲からの無線で炸裂捕虜にもかかわらすーーそう、それにもかかわらずソ連軍 をさせる。第三 0 〇戦車大隊はマロアルハンゲルスクでこのの想像を絶する強力にして深い防衛陣のため、全面的突破 べ ^ 地雷殺し》のテストをやったのだ。まず操縦士が地雷原などはとても問題にならないことを知るにいたったのであ にに運び、そこから先は無線誘導。炸裂すると、周囲四〇 ~ る。「フリースナーだが、どこまで突入したか ? 」モーデ 一五〇メートルの地雷はすべて誘発を起こす。もちろん当のルは参謀長フォン・エルファーフェルト大佐にたずねた。 の装甲車も運命をともにする。運転兵は誘導装置にスイッチ七月五日の深夜すこし前のことである。 「四キロほどであります、閣下。マロアルハンゲルスク駅 一を入れてからとびおり、味方の戦線まで後退する。マロア ルハンゲルスクでは八台のーⅣで奥ゆき四〇〇メートルの近くに第七八師団がおります」 の地雷原を破ることに成功した。運転兵の半数は助かり、 「敵予備軍の動きについての偵察機の報告は ? 」モーデル 半数は死んた。《フ = ルディナント > たちは、ソ連軍陣地の質問はつづいた。 に・退った 0 「戦車をふくむかなりの大部隊が、東方リヴヌイ地区より、 ォルホウアトカ方面へ ここ左翼の高地ではソ連第一八親衛狙撃兵軍団の二個師マロアルハンゲルスク、ポヌイリ、 ドイツ軍は突破に成移動中であります」 団か戦線のかなめを守っていた。が、 ースナーの師団長た 功し、第八一狙撃兵師団第四一〇連隊は十八時ごろに壊減モーデルは地図に身をかがめ、フリ ちがすでに予感していたことを見ぬいた。第二三軍団を深 く進出させてモーデルの両装甲軍団の側面を守るという計 ソ連第一一一九戦車旅団の戦車が反攻に移った。 画は、うまくいかないのだ。東から接近中のソ連作戦予備
マンシ、タインはヒトラーに戦況を説明した。ホリト軍めざしている。ポポフは最前線に一四五台のーをおき、 支隊はミウス陣地で態勢を立てなおし、ソ連三個軍の猛攻 ^ 南西戦線は彼のためになお一一六七台の戦車を予備とし を支えている。ドイツ軍集団および南方軍集団の東側面てとってあるーー目下計画中の最終的一撃のためだ。 はこれでまあ安全ということになる。もっとも、戦線北翼これが戦況である。どうするのか ? マンシュタインは報生ロした。マッケンゼンはポポフにジ の背後にはまだ敵の騎兵隊がうろついているが。 ークフリート・ヘンリーキ将軍の第四 0 装甲軍団を投入す ミウス戦線中央に突入したソ連第四親衛機械化軍団は、 一六装甲擲弾兵師団 ( 元の第一六自動車化歩兵師団 ) およびる。ヘンリーキは第七、第一一装甲師団、第五装甲師 第一一三装甲師団の一部の迅速な反撃をうけ、マトウィエフ団 ^ ヴィーキング、フランスからついたばかりの第三三 日クルガン南方で包囲され、壊減的打撃をうけた。司令部三歩兵師団の一部という精鋭をもって南戦線の決戦を戦っ もそっくり捕えられた。 、、ウス河畔の防衛線はもちこたえてくれるはずだ。ここに希望があるーーー装甲軍団という実 ている。 体をもっ希望が。 フォン・マッケンゼン将軍の第一装甲軍は、ホリト軍支だが西になると希望たけになる。ソ連第六軍はドニエプ 隊の左に接していたが、ヘンリーキ将軍の第四〇装甲軍団ルへ怒濤の進撃をすすめつつあり、マンシュタインはそこ および第五装甲師団《ヴィーキング》をもって、ソ連へ全兵力を投入したかった。まずハリコフをはなれた イ第一親衛軍の攻撃を各所で捕捉し、くいとめたものの、第装甲軍団を。だがそこでヒトラーが承知しなかった。「い 、一装甲軍とランツ ( ケンプフ ) 軍支隊の間にはあいかわらかん、なぜこのまとまった兵力を想像上の敵に向けるのか リ . コフ′ . ・伐には ンず大きな穴があいている。この穴を通って敵の最強力進出 ? 」彼はハリコフを奪還したいのだ。ハ マ が行なわれている。 ハウサーがウクライナ重工業のこの大中心を、彼の明白な 先鋒はポポフ中将の機甲兵団。すでにクラスノアルメイ命令に反して放棄したことが忘れられなかった。かたくな ) スコ工まで進出し、スターリ / とアゾフ海岸マリウポリをに彼はマンシュタインに対し、ソ連第六軍への機動的側面
部の地形はのみこんでいた。実弾を使ってトーチカの爆破 どろいた。中央軍集団総司令官フォン・クルーゲ元帥がい た。第四装甲軍を指揮するホト大将、第九軍司令官モーデを練習し、鉄条網や地雷の撤去、対戦車隊攻撃の訓練をう けていた。一つの戦闘に対しこれほど広汎な準備をしたこ ル大将、装甲兵団のケンプフ将軍、第二四装甲軍団長ネー リング将軍、第六航空軍司令官フォン・グライム大将、そとはそれまでなかった。 将軍たちの不安をつのらせていたのは、ヒトラーの決心 して第四航空軍の代表としてデスロッホ将軍もいた。 東プロイセンも猛暑にあえいでおり、迷彩網をかぶり平の遅延であった。マンシ、タイン、グデーリアン、クルー トの建物ゲ、モーデルほか多数は、スタリングラート後の東部戦線 らな屋根に草を生やした総統司令部のコンクリー でさっそく攻勢に転するというヒトラーの計画にもともと は神秘的な気分を漂わせていた。 ヒトラーは将軍たちを喫茶室に迎えた。ねんごろに挨拶反対であった。予備軍を、そしてなにより新型戦車《ティ ーゲル、《。 ( ンテルをもってグデーリアンが再建した し、それそれに席を示すと、さっそく会議にはいる。 のつけから彼は重大な秘密を明らかにした。「《城塞》装甲兵力をこんなに早く危険な攻撃戦に投入することに賛 成できなかった。 の発動を七月五日と決定した」 国防軍作戦指導部は警告を発していた。アイゼンハワー あと四日。 将軍たちは顔を見あわせた。ほっと息をついた者も、不がイタリヤ上陸の準備をすすめている地中海の由々しき情 満気な者もいる。モーデルの顔つきはかたかった。マンシ勢を指摘していた。彼が上陸してくれば、東部戦線の装甲 ク、タインはなんの表情もうかべなかった。ホトは喜んでい兵力が必要になるのだ。 だがヒトラーは前々からクルスク地区の危険性を強調し ルるようではなかった。 ク このあいまいな反応は、四日という短期間のためではなていた。地の利を占めたこの出撃地点にソ連軍は大戦力を 1 かった。それで驚く者はいなかった。数カ月前から部隊はあつめていた。機甲数個軍がすでに確認されている。事実、 第 攻撃の訓練をつんでいる。机上・野外演習でクルスク屈折ソ連軍は全野戦兵力の四割と機甲戦力のほとんどすべてを
る。しかし〃あたかも〃戦略なのだ。あたかも一個装甲軍第三装甲軍団は死力をつくしたが、それより先へは進め なかった。北への進出はそこまでだった。包囲戦線まであ ス団が敵の五個軍を次から次へとやつつけられるが如くに。 と三〇キロ / やっと誤りに気づいたヒトラーは、包囲陣 力あたかもラスプティッアが存在しない如くに。あたかもい = まが一九四一年であるが如くに / ナンセンスの驚くべきへの最短 0 ースをとることを許した。直接東へ進むのであ る。当初東側面の援護にあたった第一装甲師団は二月十一 集積である。 一一月四日早朝、・フライト将軍は出発した。第一六、第一日に、《西方救援グルー。フの先端となった。 コル将軍の装甲部隊は大きく進出し、グニロイ・ティキ 七装甲師団とべーケ中佐の重戦車連隊しかっかえない。そ チ = 河畔プシャンカ村をとり、白兵戦で無疵の橋を占領す れでも決行した。先頭はべーケの ^ ティーゲル一二四台、 ると、橋頭堡をきずいた。そこから包囲陣の縁まで最短コ ^ 。 ( ンテル四七台 , ーー強力なファランクス ( ア軍密集陣 だ。側面は第三四、第一九八歩兵師団、装甲師団《親ースなのだが、ソ連軍もそのことは知っていた。敵および 北へ登りになっている地形のため、第一装甲師団は避難所 衛旗》の先頭部隊がかためた。泥と敵を突きぬけて北へ。 一キロ。二キロ。一〇キロ。そこで停止した。ラスプティをさがすほかなかった。リシャンカである。この村の上空 かこまれたシュテンマーマン軍団に空中補給をする ツアと敵機甲四個軍団がブライトの足をとめた。 将軍はあきらめなかった。精強な ^ 親衛旗 > の主力と第ー、ーⅢのコースになっている。空中補給は驚くほど 一装甲師団の先遣部隊がかけつける。・フライトはそれを戦の好成績であった。第八航空軍団のザイデマン将軍はそれ に一五三八機を動員した。ウマーニからコルスンまではわ 闘に投入した。この両部隊は見事に事態を収拾し、もう一 度第一六装甲師団の進撃を可能ならしめた。一一月八日、べずか一〇〇キロ。天候はわるくソ連軍対空砲火ははげしい ーケの《ティーゲル > 《パンテル > および第一六と《親衛が、クナップス少佐の補給隊は一四日間で二〇一一六・六 ンを運び、ユンカース機は二八二五名の傷兵を運び帰った。 旗》の一部は、コルスン包囲陣の運命の川、グニロイ・テ このザイデマンの空の橋の下で、第一装甲師団の《パンテ イキチュのほとりに立った。 422
ルの占領には成切した月九日にもっと兵力をとヒトラーに要求した。「南方軍集 四装甲軍の大貯蔵庫のあるジトミー フ 工 が、マッテンクロットの第一三軍団が第八装甲師団、第一一団、軍集団の部隊を出来るかぎり集めるのです。大きなう 〇装甲擲弾兵師団により突破口を一応ふさぐことができ、危険を犯しても」しかしヒトラーは、これまでのように不 目その北では第五九軍団の第一二九歩兵師団と 0 軍団支隊が十分な兵力で反攻を行なうことに決心していた。結果は次 コロステンの両側で、ソ連軍が軍集団の縫い目を破るのをのごとくである。第五九軍団はコロステン周辺の戦況を安 ルⅱ一フ、ド 阻止した。最悪の危険は去った。マンシュタインは装甲六定させることが出来、第四八装甲軍団はジトミー ムイジルⅱ・フルシーロフ地区を奪還して、名将にひきいら 個師、歩兵数個師より成る強力な第四八装甲軍団をファス トフⅱジトミー ル線の南に集め、西進するソ連軍の側面をれたドイツ装甲部隊は五年目の冬でも健在なりと示した。 数倍にのばる敵は戦闘力を失い、攻撃力の息はとまり、大 つく態勢をとれたのである。 マンシタインがヒトラーからもぎとったのは、たしか打撃をうけた軍団も多かった。しかし、不可能事はやはり に大した戦力であった。ノルウェー、ギリシャ、ヒ 」イタリ達成されえなかった。第四装甲軍の攻撃力はおとろえ、ソ ヤなどヨーロッパじゅうから馳せ参じた師団である。なか連軍は戦略橋頭堡キエフの核心を維持しつづけたのである。 、間ロはほとんど二〇〇 この橋頭堡は奥行き約七五キロ には装甲師団《親衛旗 > 、第一、第一九装甲師団のよ うに、長い東部戦の経験をつみ、一部は装備も更新されたキロにわたり、この分だけドイツ戦線はドニエ。フル中流か 優秀部隊もいた。軍団をひきうけたのは国防軍でも屈指のら押しのけられたわけであった。これはまもなくふたたび 名将ヘルマン ・バルク将軍。だが、すでに戦略橋頭堡キエ攻撃部隊でふくれあがり、西へ突きだしたソ連軍の危険な フにはいったソ連四個軍プラス独立一一個軍団を徹底的に叩《バルコン》であった。 ドイツ第四八装ただただヒトラーのミスによって生じたこの事態の責任 き、ドニエプル対岸へ追いもどすには をとったのは、無数の戦いに名将ぶりを見せたホト大将で、 甲軍団の六個師団では十分でなかった。 そのことに前から気のついていたグデーリアンは、十一第四装甲軍の指揮権をラウス将軍にゆずり渡したのである。
ロ冫した。そこではす 二二個師団の救助は綿密に考えぬかれている。第一装甲もう第四装甲軍ラウス将軍前線司令部こ、 軍と増強された第四装甲軍をもってカルバチャとプリビヤでにセレトー 月への救援攻撃の計画をねっていた。むろんタ チ湿原の間に安定した戦線をつくらなければならないのだ。 ルノボリで囲まれた友軍のことも心配だったが、いまよま 第八軍は軍集団第六軍とならんでルーマニヤに撤退し、 ず大きな一撃を加えることが大事なのだ。 カルバチャの峠は ( ンガリー軍が守る。この計画が成功す包囲陣内部でも脱出準備が進行中であった。デスロッホ れば、大いなる危機は去るのだ。 将軍の第四航空軍がひっきりなしに補給に飛びかい、モル しかし先決は第一装甲軍が死の罠から出ることだ。それツイク将軍がその指揮をとっている。二月二十六、二十七 も西へむかって。フーべがすでに準備を開始したように南日両日はいささか調子が出なかったが、やがて回転は順調 へではない。ヒトラー山荘でのながい一日が終わり、深夜になった。燃料、弾薬、食糧を運び入れ、負傷者を運び出 を数分過ぎたころ、マンシュタインはフーべに打電させた。す。 「西へ突破せよ。詳細命令は後から。マンシュタイン」さ しかしカメニエッ・ポドルスクの南方ドニエストル河畔 いは投げられたのだ。 コフ ではジュ ーコフの大軍がフーべを待っていた。ジュー 一一時五十分、マンシュタインは首席作戦参謀シュルツェ が確信していたようにドイツ軍がドニエストルを渡れば、 " ビ、トガーを通じてテレタイプで第一、第四装甲軍に本そこで捕捉するつもりであった。大歓迎をしてやる / ド 命令を発した。第八軍にも知らせておく。大いなる冒険がイツ軍南方部戦線の残余はカル。 ( チャへ追い込まれるのた。 崩はじまった。包囲された一個軍が敵機甲一一個軍の間をぬけ、 利ロな計算た。だが主役を抜きにしての計算だった。 翼四本の川をわたって西へ一〇〇キロ以上移動するのだ。 しかしジューコフはこの点に確信をもっていた。その第 南 疲れきったマンシュタインは深夜をずっと過ぎたころ、 一機甲軍をすべてドニエストル南岸へ移し、チェルノウィ 部 山荘からベルヒテスガーデンの町へ九十九折れの道を降り ツツ、コロメア、スタニスラウを攻撃させる。これで 第 ていった。翌日はレンベルクへ飛びかえる。数時間後にはあいかわらずドイツ軍が南へ脱出するものと思い込み、包
だが優勢な敵は丘の背の密林にうまくかくれ、がっちりへひたひたとせまった。 とたてこもっていた。敵砲兵も師団をとらえ、戦車連隊に しかし、ソ連軍はドニエッ東岸でも巧妙な防衛線を敷い も手の出しようがない。 ていた。対戦車砲火点、地雷原、対戦車壕にくわえ汕断の しかし軍団は進まなくてはならない。全計画を崩壊させならない湿原もある。 ないためには、前進のほかない。マントイフェルは編成が 戦車隊生えぬきのブライトはすぐに気がついた。こうし えを行ない、七月八日にかきあつめた兵力でドニ = ッ後方た情況では迅速に東方深く進出することは望めない。それ の厄介な高地にこもるロシャ軍陣地を破ることができた。 で彼は七月八日北へ転じた。文句なく正しい処置であった。 ・フライト将軍はこの成果をただちに利用した。第六装甲 ャストレポウォ近くの小さな谷間でプライトは第六装甲 師団がビエルゴロト付近のドニエッ橋を渡りなやんでいる師団長と出会った。一一台の指揮戦車はならんで停まった。 ので、彼はためらわなかった。「前進している個所を重心 移動する装甲無線局ともいうべき戦車の床に地図がひろ とするのだ」と参謀長メルク大佐に告げ、第六装甲師団をげられた。ブライトは指をひろげて髪をなでた。「ヒュー も第七装甲師団の攻撃戦区に投入した。 ナースドルフ、北進したまえ。突破するのだ。敵主戦線を 両師団は北東に進出した。その左を第一九装甲師団が行崩壊に導いてほしい / 」 く。ドニエッぞいを第一六八歩兵師団が進み、その任務は ヴァルタ ー・フォン・ヒューナースドルフ、国防軍指お ベルリン第三装甲軍団のひらけた左翼の守りであった。 りの胆力と経験に富んだ指揮官は前進した。ヒューナース 戦 ク 戦車連隊群はひろい戦線にわたり擲弾兵たちに道をひらドルフは防衛陣をくつがえし、ヒ = ーナースドルフはメレ ルいた。右は戦車のシュルツ。左はフォン・オッペルン日・フホウオで救援にかけつけるソ連機甲兵力を粉砕し、ヒ、ー ク ロニコフスキー大佐がパーデルポルン第一一戦車連隊をひナースドルフは第一九装甲師団と協力して敵親衛狙撃兵二 部 きいている。その中間が、フォン・カゲネック伯の第五 0 個師団を包囲した。 アルマ々 第 三 < ティーゲル》大隊。一一四〇台からなる無敵艦隊が敵陣さらに前進 / 第六装甲師団はドニエッ上流まで進出。 ・ 0