この兵力比は危険ではあるが、破局を当然とするほどの 攻勢時に四〇機の戦闘機しかもっていなかった事実が如実 もっとも、攻勢開始直前に高級司令部で交 ものではない。 に語っている。それに対しソ連側は七〇〇〇機だ。ドイツ 空軍は東部全体から危険な個所に兵力を集中したが、それ替が行なわれたのは ( ンディキャ , プだ 0 た。ティ , ベル も焼け石に水たった。空中の挫折は完全だった。西方ではスキルヒ将軍は六月第一週に元クルーゲのひきいた第四軍 アイゼン ( ワーの制空権を破るに足らず、東部では地上部をうけついだばかりで、その第一二軍団はヴィンツ = ン ツ・ミ、ラー中将が長となった。第三五、第四一軍団でも 隊の屋根が肝心のときにはずされてしまった。近代戦では 圧倒的な意義をもっ兵器から守ってくれる屋根が。ソ連の指揮官が変わり、ヴィ 1 ゼ、ヴァイドリング両将軍は去り、 制空権はこうして生じ、中央軍集団の命とりとなったので師団でもそれに応じた更迭がなされた。部隊の戦力を考え るとおもしろくないことだ。まずォルシャと要塞モギレフ ある。 をもっ軍集団中央部の責任が、軍司令官ははじめてという 地上戦において空軍がどれほどの威力を発揮するものか、軍人の肩にかかってきた。彼にはとりわけそうだった。敵 の肉中に杭のように突きささっているド = = プル陣地を死 攻勢中央部、第四軍のところでとりわけ明らかとなった。 = ザ ( ロフ将軍はここで ^ 第一一白ロシャ戦線軍をもって力をつくして守れと命じられていたのだ。その代りにティ ンドイツ軍最後のド = = 。フル陣地を攻撃した。敵の主攻撃はツベルスキルヒは突撃砲一一個旅団、戦車一個大隊の増援を うけてはいたが、それで相殺になるものでもなかった。 のドニエプルをこしてモギレフへむかった。そこでもドイツ ーコフ元帥もこの第四軍が手ごわいだろうと 集側ただの一個軍に対し、三個軍と航空一個軍から成る正面むろんジ、 は計算できた。それで空軍元帥ヴ = ルジーニンの第四航空 央軍。すなわちソ連側狙撃兵一三個師、独立戦車および機械 中 化四個旅団に対しドイツ側は、第七八突撃、第一八装甲擲軍に特別任務をさずけておいた。ティ ' ベルスキルヒの切 部 しを無効にする任務である。成功だった。ヴェルジーニン 弾兵、第一二歩兵師団の精鋭を含むとはいえ、一〇個師に本 第 は第四軍防衛システムを三〇キロ奥までくわしく偵察し、災 すぎない。
、ま彼自身が軍集団 ファングオールはよく知っていた。し , 大地をゆるがした」 冲七月十一一日の午後、ロトミストロフの敵手ホト大将は前司令部 ( 南方 ) に電話連絡をとり、マンシ、タインの参謀長 の線に出て、 ^ 総統 > 連隊前線本部から戦況を見つめていた。・フッセ将軍から、第三装甲軍団がドニ = ッ北ルシャウ = ッ にいることを聞いたばかりなのである。 フ砲隊鏡で炎上戦車だらけの戦場をながめまわす。 ホ それはいいしらせだった。だがファングオールには悪い ハウサー軍団は守勢に立たされたものの、後退はしなか ・フった。いくどとなくソ連機甲旅団はドイツ軍主戦線に突入しらせもあった。やはりプッセから、クルスク北戦線のモ ーデルが予定の突破攻撃にかかっていないことを聞いたの したが、。 トイツ歩兵が圧倒され絶望しかかったにもかかわ らず、敵はそのたびにおしもどされた。 なぜか ? ソ連軍が第九軍の背後オリヨル屈折部で攻撃 すさまじい戦いが < 帝国》師団の右翼で展開された。そ こでソ連第一一親衛機甲軍団が、 ( ウサー軍団とまだ到着しをかけ、即座に第一一装甲軍戦区に深くくいこんだからであ ないブライト ( 第一一一装甲軍団 ) の師団群との間にあいた穴かった。 オリヨルは危機に瀕していた。中央軍集団全体の補給基 ら、繰り返し攻撃をかけてきたのである。いまいましい穴 ではあった / 地が、第九軍の背後が、脅かされていた。モーデルとして は、戦線から兵力をさいて敵にふりむけないわけにいかな 「敵の側面政撃はわが兵力の半分を釘づけにし、プロホロ かった。 フカの敵に対する力を弱めますな」と連隊長ジルヴェスタ ホトはこの凶報をだまって聞き、礼を述べた。 シュタードラーがつぶやく。 いまや事態は急を要することとなった。ここの南屈折部 ホトはうなずいた。軍前線司令部に電話をつながせる。 で決着をつけなければならなくなったのだ。うまくいくだ 第四装甲軍参謀長ファングオール少将が出た。 「ファングオール、ケンプフの情報がはいったか ? 彼のろうか ? いかせねばならぬのだ。 ・フライトには信用がおけた。なにしろ屈指の戦車指揮官 第三装甲軍団はどこにいる ? 」
フォン・マンシュタイン元帥によってそこに投入されてい包囲された友軍を救わなくてはならない。そうするほかな ラるのだ。フーベ将軍はやってのけるだろうか ? フォアマ 。唯一の道なのだ。 のンは心配だった。だがそれがどうなるにせよ、彼の第四七 命令。電話。無線。夜中の一一時。計算し計画をたてると 2 装甲軍団はキロウオグラートが突破されるのを防がなくてころへ、銃声。戦車砲の轟音。飛行場の高射砲もほえはじ 中はならない。フォアマンとラインハルトはけんめいに計画めた。敵戦車 / 第四七装甲軍団司令部にはドイツのすぐ ブをねった。い しレ、カ ? ・ まとなってどうすれ、 れたスポーツマンが副官をつとめていた。ハッセ少佐。体 ニそのころキロウオグラート南方はひどかった。敵戦車は操の指導者で一九三六年ベルリン・オリンビックの金メダ すでに市の南西三〇キロに迫っている。彼らをルーマニャルをとっている。 や、一つだけ希望があっ 国境からさえぎるものはない。い ハッセが地図室のドアをあけると、ろうそくの灯は風で た。装甲擲弾兵師団 ^ 大ドイツがそこへ急行中なのだ。 消えた。闇のなかで少佐の声は落ちついていた。「閣下、 装甲師団 ^ されこうべ》がつづく。それがソ連第一八、撤退せねばなりません。敵戦車が町にはいりました。私が 第二九機甲軍団の側面を衝き、戦闘の土俵にひきずりこん司令部を守ります」 だ。しかし、くいとめられるだろうか ? グラウソドにいるかのように淡々とハッセは書記、伝令、 そしてキロウオグラート内部では ? そこでは一月八日通信大隊員を防戦に組織した。地雷、手榴弾、携帯火器。 にまだ三個師団がかこまれていた。第一〇装甲擲弾兵、第装甲軍団司令部部隊は対戦車兵器をもたなかった。 一四装甲、第三七六歩兵師団。総統から新たな命令が出て ソ連戦車は歩兵を鈴なりにして町なみをぬけ、家屋に砲 動けないのである。最後の一兵までそこを死守せよと : ・ 弾をぶちこみ、車両を炎上させ、目にはいるものすべてを それでバイエルラインの第三装甲師団だけが大胆な脱出狙い撃ちにする。第八機械化軍団の第六七戦車旅団が全兵 のおかげで、キロウオグラートの北の危機に対処できる立力で町を廃墟に変え、飛行場を攻撃したのである。 場にあった。突破してきたソ連機械化一一個軍団を撃破し、 フォン・フォアマンとその司令部は、最重要機密書類と
ちりちりになった。激戦のすえ、サマラ河畔、鉄道の岐点誤りを犯していたのだ。後退中とされたドイツ軍は、マン 防パウログラートは陥ちた。 シュタインが攻撃に出した第四〇、第四八装甲軍団たった 1 フ南にまわったフォン・クノーベルスドルフ将軍の第四八のである。 コ 装甲軍団も、第一七、第六装甲師団をもって北へ攻撃を加 ハリトノフの解読された第一一五機甲軍団あての命令をう けとったホト大将は、につこりうなずき、それを参謀長フ 次え、一一月二十三日にパウログラート周辺地区を占領した。 ほうせん 第これでドニエ。フル渡河点をめざす最も危険なソ連軍の鋒尖アングオール少将にわたした。「これでよし / 」 マンシュタインはチェスの駒を進めた。それまではポポ は砕かれ、優秀な装備のソ連第二五機甲軍団は孤立したの である。 フと第六軍に対し別々に行なわれていた攻撃行動は、いま 同軍団はあわててソ連第六軍に無電で新しい命令を求めや一つにまとめられ、統一攻撃となった。方角は北東。第 た。返事によると、軍司令部では何ごとが起きたのかまだ一攻撃目標、ドニエッ / わからないでいる。ハリトノフ将軍はいってきた。「前の 二月二十三日、ヘンリーキの師団群もクラスノアルメイ 命令に従い、サポロジェに進出せよ」 スコェでの最後の抵抗を砕き、・ハルウエンコウオの左右で 今でこそこの頑固さにはあきれたくもなるが、ハ リトノひろく展開し、北と西へ進む。 フが《南西戦線参謀長イワノフ将軍よりもくわしいはず ポポフの軍団群は北へ逃がれんとはかり、ポポフはワト がないではないか。イワノフは二月一一十日に情況報告を出ウティンに無電で救援を乞うた。戦車はわずかしかなく、 し、翌二十一日に大大営と第六軍にまわしている。「空中その戦車には燃料がない。砲兵はもはやおらず、弾薬は僅 少、食糧は皆無。 値察によって認められた、スターリ / 、プロコフスコ工間 の敵兵力の移動は、敵がサポロジェへ撮退中とのわが見解ポポフ機甲兵団の運命がすでに決したころ、スターリン はワトウティン将軍に電話した。緊張の極にある。待ちき を裏づけるものである」 れないのだ。ソ連軍がドニエプルに達し、退却中と彼の思 なんという偏執さ加減 / イワノフ将軍はとんでもない
ーキング》は、クラスノアルメイスコ工からソ連軍を追いる。そこを守っていたのはフォン・フンク将軍の第七装甲 隊出しにかかったが、そこに着かぬうちマンシ、タインより師団。・ ( ルク将軍の第一一装甲師団とブランデンプルク第 三三三歩兵師団の大半はポポフ兵団の補給路を断っことが フ無電の命令をうけとった。「強力なポポフ機甲兵団、イジ コ リ = ム付近でド = = ツを渡河、クラスノアルメイスコ工めざ出来るのだ。 ドニエッとドニエプル間の大いなる劇の第一幕がいまは 次し南進中。 < ヴィーキングはただちに西へ転じ、ポポフ じまったのだ。 第機甲兵団を阻止すべし」 ソ連第六六一一一高射砲連隊のポグダン・シュワクク少尉は、 はじめはうまくいかなかった。装甲擲弾兵連隊 ^ ノ ルトラント》、《ゲルマ = ア、《ヴ = ストラント》のスクラスノアルメイスコ工からの報告をアンドレイ = フカの ホ十フの先鋒旅団本部にとどけることが出来なかった。ドイツ軍第一二三 カンディナヴィヤ、オランダ義勇兵たちは、。 : 、 をくいとめることは出来たが、師団には戦車が少なすぎた、三歩兵師団屍体収容班が砲兵陣地の廃墟で冷たくなった彼 を発見したとき、そのケースには報告書がはいったままで カフカス、ドン、 ミウスの激戦で消耗している。 しかし、《ヴィーキング > 師団砲兵連隊の巧妙な用兵があった。 その報告書は、ソ連軍が将軍から少尉にいたるまで情況 そこを打開した。シュタイナーの砲兵指揮官ギレ将軍は、 クラスノアルメイスコ工の南でその腕前を発揮し、大軍がを誤っていることを示している。全員が目がくらみ、すで いると敵に思いこませた。つまり、間断なく砲撃がつづくに勝利を収めたものと信じ込んでいたのである。 戦死した少尉のもっていた報告書の日づけは一九四三年 のでポポフの司令部は不安になり、敵は優勢だと信じるに いたったのだ。ポポフは南西への進撃をつづけるのをため二月十一日。こうはじまっている。「解放されたクラスノ アルメイスコ工より挨拶を送る。そこではまだファシスト らった。 のグループを捕えることが出来る。プトウソフはきよう戦 ここから、ことはマンシュタインの思いどおりに運ぶ。 ポポフの機甲軍団群はスラウィャンスクのわきを通過す闘中前線本部に這ってきたファシスト三名を捕虜にした。
マンシ、タインはヒトラーに戦況を説明した。ホリト軍めざしている。ポポフは最前線に一四五台のーをおき、 支隊はミウス陣地で態勢を立てなおし、ソ連三個軍の猛攻 ^ 南西戦線は彼のためになお一一六七台の戦車を予備とし を支えている。ドイツ軍集団および南方軍集団の東側面てとってあるーー目下計画中の最終的一撃のためだ。 はこれでまあ安全ということになる。もっとも、戦線北翼これが戦況である。どうするのか ? マンシュタインは報生ロした。マッケンゼンはポポフにジ の背後にはまだ敵の騎兵隊がうろついているが。 ークフリート・ヘンリーキ将軍の第四 0 装甲軍団を投入す ミウス戦線中央に突入したソ連第四親衛機械化軍団は、 一六装甲擲弾兵師団 ( 元の第一六自動車化歩兵師団 ) およびる。ヘンリーキは第七、第一一装甲師団、第五装甲師 第一一三装甲師団の一部の迅速な反撃をうけ、マトウィエフ団 ^ ヴィーキング、フランスからついたばかりの第三三 日クルガン南方で包囲され、壊減的打撃をうけた。司令部三歩兵師団の一部という精鋭をもって南戦線の決戦を戦っ もそっくり捕えられた。 、、ウス河畔の防衛線はもちこたえてくれるはずだ。ここに希望があるーーー装甲軍団という実 ている。 体をもっ希望が。 フォン・マッケンゼン将軍の第一装甲軍は、ホリト軍支だが西になると希望たけになる。ソ連第六軍はドニエプ 隊の左に接していたが、ヘンリーキ将軍の第四〇装甲軍団ルへ怒濤の進撃をすすめつつあり、マンシュタインはそこ および第五装甲師団《ヴィーキング》をもって、ソ連へ全兵力を投入したかった。まずハリコフをはなれた イ第一親衛軍の攻撃を各所で捕捉し、くいとめたものの、第装甲軍団を。だがそこでヒトラーが承知しなかった。「い 、一装甲軍とランツ ( ケンプフ ) 軍支隊の間にはあいかわらかん、なぜこのまとまった兵力を想像上の敵に向けるのか リ . コフ′ . ・伐には ンず大きな穴があいている。この穴を通って敵の最強力進出 ? 」彼はハリコフを奪還したいのだ。ハ マ が行なわれている。 ハウサーがウクライナ重工業のこの大中心を、彼の明白な 先鋒はポポフ中将の機甲兵団。すでにクラスノアルメイ命令に反して放棄したことが忘れられなかった。かたくな ) スコ工まで進出し、スターリ / とアゾフ海岸マリウポリをに彼はマンシュタインに対し、ソ連第六軍への機動的側面
二月六日、「ニコボリ地区でわが軍はさらに : 口径砲六〇門、迫撃砲三一門、飛行機一一五機を破壊し、八 西 、こ。ドイツ側の死傷者は五〇〇名た の二月七日、「ニコボリ地区で敵は新たな兵力により : : : 」〇〇名の捕虜を得てしオ ポ二月九日、「旺盛なる戦闘精神に満てるわが軍はニコボが、その中にはハンプルク出身で柏葉付騎士十字章をうけ ているゲォルク・ミ ハエル大尉のような勇士もまじってい ニリの熾烈なる防衛戦において : : : 」 こ 0 そして二月十日には、「東部戦線においては昨日もニコ ポリ西方で敵の : : : 」 だが勇気だけで戦闘を決められるものではない。ソ連第 そして一一月十一日、「わが東部戦線部隊はまたもニコボ八親衛軍は狙撃兵九個師団、戦車数個旅団をもって北方よ リ西方、クリウオイ・ローク南方地区でソ連軍の執拗なるり、ドイツ第一六装甲擲弾兵師団の戦線を突破して橋頭堡 攻撃を撃退せり」 の背後にまわり、情勢は一月末になって急速に変わった。 その後一週間、ニコボリの名は国防軍発表から消える。 ニコボリ橋頭堡の指揮官はフェルディナント・シェルナ ドニエプル橋頭堡については沈黙がたれこめた。何をかく ーである。この山岳兵将軍をヒトラーは、この種の危険な したのか ? 任務にうってつけの軍人とみなしていた。 一九四〇年には 二月十五日の朝、ドニエプル下流は吹雪になった。寒暖まだ、ムルマンスク前面で前著『・ハル・ハロッサ作戦』に登 言はたちまち零下十五度にさがる。ニコボリというドラマ場したオーストリヤ第六山岳兵師団の長であったが、やが の終幕の背景は冷たい風と猛吹雪であった。 て氷海戦線第一九山岳兵軍団の長となり、一九四三年十月 ドニエプル南の橋頭堡陣地なるものは、一一週間前から存以降は勇名高き第四〇装甲軍団指揮官に転じた。十一月一一 在していなかった。たしかにソ連軍はドイツ軍の閂を破る十五日からこの ^ シェルナー・グループ》またはニコボリ ことに成功はしなかった。川の南の防衛戦ではまず東プロ軍支隊をもって、橋頭堡の防衛をうけもったのだ。参謀本 イセン第一一四装甲師団が重点的な反撃により、 いくども危部員たちは、この一筋なわではいかぬ将軍をよく知ってい 機を克服して、敵の戦車二九〇台、対戦車砲一三〇門、各た。彼の個人的勇気、きびしさ、決断力、戦術的才能、鉄
こと許さなかった。装甲擲弾兵師団人大ドイツ》と第三一一団がソ連総司令部の地図から消えてしまったのだ。 ドイツ軍がそこにつけ込み、 ハリコフから北進すれば、 〇歩兵師団長のヘルンライン、ポステル両将軍は一九四四 年三月に柏葉騎士十字章をうけたが、。 ( ウル・ハウサーがそいったいどうなることか ? ビエルゴロトも失われ、クル れをもらったのは、彼の指揮する t-nr-n 装甲軍団がふたたびスクは防ぎきれない。クルスクが陥ちれば、西にひろく伸 びたソ連人中央戦線》正面軍ははだかにされ、その五個軍 血みどろの戦いをかいくぐった四カ月後のことであった。 の運命は風前の灯。クルスクとオリヨルから挾撃をうけれ ば、このままではとても防ぎきれないのだ。 リコフのソ連軍敗北をしめくくった。ワ 夜の電話が、ハ そのころソ連軍司令部間の電話線は、この間題で熱くな トウティンはルイ、、ハルコ将軍に第三機甲軍の残余とともに ハリコフ包囲陣を脱出せよと指令したのである。この瞬間、っていた。無電がとびかう。予備軍 / 予備軍を / しか ソ連軍南西戦線の地図上には、規模のほどもわからぬ破減し、どこにまだ予備軍がいるというのか ? カトウコフ将 がさまよっていた。 軍の第一機甲軍と、総司令部とっておきの最後の作戦予備 ここ四週間でソ連軍指導部は想像を絶するおそろしい事兵力である第一一一軍は、前線に投入されている。 ハリコフの敗北がスタリングラートの勝利をも危くした 件に次々と見舞われたのである。 ことのシンポルのように、警報の大波はこのウォルガの町 第六軍は ? 全滅 の廃墟にもとどいた。スターリンはそこで大被害をうけ休 イボポフ機甲兵団は ? 同じ。 ュ第三機甲軍は ? 存在は書類上だけ。 養中のシュミロフ将軍の第六四軍に、ただちに救援のため ン第六九軍は ? 胴体だけ。 西進せよと命じた。鉄道で一〇〇〇キロである。スタリン マ すさまじい収支計算ではある。ソ連三個軍、一個軍の大グラートの戦士にこの急場を救えというのだ / 部 半それに機甲一個兵団が粉砕されたのだ。 一ダースほどの戦いの神マルスは血みどろの剣の重みをはかっていた。 第 軍団と旅団が逃走中。機甲一一五個旅団を含む五二個師・旅打ちあう巨人たちの戦いで、舞台はあきれるほど速かに変
やがて銃声。ベルギー人義勇兵 ^ ワルーン》旅団の兵が一一 それをひつつかんで森に走り込ん、 7 いったん決意すればどれほどのことが可能か、いつもな名、あらわれる。「森のはずれを敵の機銃がふさいでいま す。突破できませんでした。もう死傷者が出ております」 がら驚くべきものがある。それに軍事的に興味深いのは、 歩兵の援護をもたぬ戦車が必死の集団脱出に対してはあまとワルーン兵はっげた。 フランツ大佐は狙撃銃をつかみ、二人を連れてその空き り効果がないことだ。ドイツ側でも戦争初期の包囲戦にお いて、戦車でかためておけば敵の脱出は不可能であると信地へ接近した。なるほど機銃がさかんに撃っている。照準 じられていたものだ。ソ連軍は戦争の後半で同じ過ちを犯銃でソ連兵の姿がはっきり見えた。三人。距離一二〇〇メー したようである。一一三九高地のソ連軍指揮官、もしくはコ トル。数秒間で連続三発。合図をすると窪地をかけぬける。 ーニエフ将軍でも十七日の朝、ポチャ。ヒンツイの森をちょ ワルーン兵は五歩分待ち、マクシム機銃の沈黙とともにフ ランツの後を追った。南西へ。 っと見たら、このことはわかっただろう。 しだいに第七二歩兵師団、 ^ 軍団支隊》、《ヴィーキ軍団指揮官は三、四〇〇〇の兵をいささかなりと統率し ソグ》師団、第三八九歩兵師団のグループがあつまってきようと試みた。将校も兵も肉体的・精神的にまいってはい た。高地の道路が完璧な砲火の下にあったにもかかわらず、たが、われがちに逃げるより命令に服従するほうがいいと 、はわかった。いきなりへルマン少佐がフランツのわきにあ 戦車封鎖陣をくぐりぬけてきたのである。いうまでもなく 車両突撃砲、半無限就道装甲車、砲、馬車はすべてポチらわれる。「大佐どの、われわれがここで無事に出あった からには、なんとか切りぬけられますな」 崩ャ。ヒンツィ前面の峡道に捨ててきた。携帯火器を失くし、 だが、不運はもう一度手をのばしてきた。リシャンカの 翼命からがら逃げてきた兵も多かった。だが、これが最悪の 南 すぐ東の一一一一一一高地で、ついに友軍前哨にたどりついたと 事態ではなかったのオ 部 思ったのだが、そこにいた五、六台の戦車は、やはり e- 第 フランツ大佐が逃げこんだ森には叫び声が反響していた。とわかった。またも大損害をうける。ヘルマンがかかえ は ) 0 459
大型艦を一隻も失うまいとし、オクチャブリスキー提督がは。ヘレコプ地峡をがっちりとかためていた。これらの部隊 いっているように、出撃をみずから禁じたのである。 が大陸のソ連軍にとりいやな側面脅威であることを考えれ つまり黒海におけるドイツ海軍の制海権は、空母クリミ ば、クリミヤがある種の作戦的価値をもっていたことは否 ヤにいるダイヒマン将軍の第一航空軍団と襲撃機部隊のた定できない。もちろん、ドイツ軍 = コボリ橋頭堡のように めであったのだ。第一航空軍団バウアー大佐の実戦部隊の ドニエ。フルの東で守りつづけ、そこからクリミャへの陸路 一一一〇ないし一六〇機の急降下爆撃機、襲撃機、戦闘機が連絡回復の危険がソ連軍にとって存在しつづける限りであ クリミャ防衛のはじめであり、終りであったのだ。第一七る。この危険のある限りソ連側としては、クリミャの出口 軍の運命と補給は、海軍の努力にもかかわらず、東部戦線とケルチ前面に大兵力をおいておくほかない。全部で三個 の包囲戦がすべてそうであったように、空軍に、安全な屋軍。機甲一個軍団、数個独立旅団、狙撃兵三〇個師がクリ 根に、ロシャの空の制空権にかかっていたのだ。この真理 ミャ周辺にあつまった。ドイツ六個師、ルーマニヤ七個師 ・、いかに悲劇的に証明されたか、これから見ることになる。が敵の大軍を釘づけにしてしまったわけである。 イ = ネッケ将軍は一三個師団でクリミヤを守った。ドイ第一七軍司令部づきの ( ンス・ルー。フレヒト・ ヘンゼル ッ歩兵六個師団 ( このうちはじめは一・五個師団しか使えなか 大尉は、十一月二十九日の日記に「クリミャは磯波から遠 ったが ) 、ルーマ = ャ山岳兵三個師団、同騎兵一一個師団、同くにある島に似ている」と書いたが、もっともなことであ 歩兵一一個師団。第一三装甲師団が第六軍に移ってから戦車った。もちろん、この青年将校は、各本部はクリミヤを去 崩はなかったが、その代わり、すぐれた突撃砲一一個旅団があろうという考えしかないことをも記している。客演気分が 翼った。猛者アルフレート・ミ = ラー少佐の第一九一とホッすべてを支配していた。多くの本部がエ兵を陣地設営では 。へ大尉の第一一七九である。そのほかに山岳猟兵連隊 ^ クリ なく本部建物の美化につかっていたことは、この気分のあ ミャ》と第一一七五、第二七九陸軍高射砲大隊。特記に価すらわれである。建物はドイツの古い農家のように改築され 第 るのは。ヒッカート将軍の第九高射砲師団で、その八八ミリ たりした。もとの破壊されたソ連軍防衛施設を全力をあげ 471