ったのだ。第一装甲軍参謀長ヴェンク将軍は十六日の晩、 たいする特徴を示していた。これは血にまみれた陰惨なチ スキャタビラ・オート・ハイで古巣第一装甲師団に赴き、まだ エルカッスイ南西の出来事に独特の刻印をあたえるもので カ打てる手があるかたしかめた。しかし、第三装甲軍団の戦ある。 工力が敵反撃を打ちかえすほど強くないことを確認したのみ 一一月七日にドイツ軍最高指導部は、包囲された兵力はい チ であった。 つまでももたず、そこへ早急に突入することも疑問である だが、包囲陣内部では各連隊が出撃陣地で待機していた。 ことを認めた。コルスンとゴロディジュチ工という二つの 戦車砲の声が聞こえないかと耳をすまして。西に射撃光が重点の周囲に包囲陣はびったりとはりめぐらされて、四五 見えぬかと目をこらして。「まだ来ないのか ? 」と、 レいかキロにわたるその軸は北西から南東に走っている。これは わして。 南からの第四七装甲軍団救援作戦にとっては有利であった。 包囲陣南端はジボーラ地区にまで達し、そこからフォン・ 前線の兵士はいつも戦闘のごく一部をしか見ていない。 フォアマン将軍がのりだすつもりだからだ。しかし、第二 自分の目のとどくところだけを。彼は自分の部署で戦う。四装甲師団の無駄足のあと南からの救援は望めなくなった 戦車のなかで。銃のかげで。攻撃し、または迫る敵を防ぐ。ので、包囲されたドイツ軍としては西からの救援を待ち、 敵がわめきながら突進してくるのを見る。その白目を見る。第三装甲軍団の方へ接近するということになった。対包囲 それをやつつけるか、やつつけられる。戦術日作戦的関係陣の位置と形状を変え、戦艦のように敵軍の海で方向転換 はわからない。火と煙、森、 、丘、壕、村、峡道をめし舷側を西へ向けるのである。 ぐる戦闘のなかでそれはわからない。毎日、戦況地図を研二月七日十一時四十分に第八軍司令部は、無線で両軍団 究する者たけが、戦闘の妓動を感じ、全体の運命をつかめに命令を発した。「シュテンマーマン・グループは戦線を るのだ。 短縮し、ジャンデロフカ方面へ移動、しかるべき時期に救 コルスン包囲戦の戦況地図は大胆かっ戦史的に注目にあ援の友軍の方向へ脱出すべし」
の注意と努力をもって行ない、最良の部隊、最良の指揮官、 大量の弾薬を各重点地区に投人すべし。各指揮官、各兵は 5 メ ュ 本作戦の重要性を肝に銘ずるべく、クルスクの勝利は全世 ドドキュメント 界へののろしたるべし。 これに関し以下のごとく命令す。 クルスク戦作戦命令 ( 瞿矗黯与 ) 攻撃目標迅速かっ猛烈に各軍はビエルゴロトおよび 総統司令部ーー一九四三年四月十五日 総統 オリヨル南方地区より出撃し、クルスク地区の敵戦力 を包囲殱減すべし。 陸軍総司令部 OK GenStdH, 00. Abt. ( 一 ) ( 陸軍参謀本部 ) Nr. 430246743 Kdos. Chefs. 攻撃過程において、ネスへガコロチャ地区 = スコロ 極秘命令ーー司令官専用ーー・運搬は将校によるべし。 ( 一三 ト / 工ⅱティル日シュチグルイスソスナ地区の線に、 部作成のうち四通め ) 兵力節約のため新戦線を設けるべし。 AOK 2 la 59 一 Z43 . Kdos. Chefsache E ぎ . 一 7. 4. 43 ( 2 A 三 a Do. 注意すべきは、 奇襲モメントを広範囲に守り、何より敵に攻撃時期 作戦命令第六号 をさとらせぬこと。 天候の許す限り速かに、本年度攻勢の第一波として ^ 域攻撃兵力をせまい地域に集中させ、すべての攻撃手 塞 > 作戦を決行す。 段 ( 戦車、突撃砲、砲、ロケット砲等 ) の局地的優 そのゆえに本作戦はすこぶる重要にして、迅速かっ的確 勢をもっていっきに両攻撃軍間の連絡をとり、包囲 に行なわれざるべからず。本年度春と夏の主導権をわが軍 陣を完成させること。 の手中に奪いとるべき作戦なるため、すべての準備は最大 攻撃の先鋒に対し可及的速かに後背地より側面援護 チタ
軍には一貫した戦線かないことを知ったはずである。一九当時赤軍総司令部第六課の参謀カリーノフ大佐とコー ス四一年の夏にソ連軍がそっくり同じ情況におかれたとき、 フの司令列車指揮官クワチュ大佐の間に二月三日にかわさ カグデーリアンホト、クライストは大規模な包囲殱減戦をれた対話が、このことを示している。 工開始し、ヨーロツ。、 , ・ロシャの赤軍を打ち砕いたのだ。今クワチはカリーノフにいった。「ヴ = ーラー将軍の・ 度はドイツ軍が打ち砕かれる番か ? そうではなかった。 ィッ第八軍がカニエフ近くで包囲された。国防軍最良の自 ソ連大本営は重大な作戦への好機を逸したのだ。 動車化師団九個、一個師、《ワルーン》自動車化一個 なぜソ連大本営が、ことにジュー コフ一兀帥とコ ーニエフ旅団がはいっている。第二のスタリングラートだ」 将軍が、一九四三 ~ 四四年の冬にドイツ軍南方部戦線をド これはおもしろい。しかし、カリーノフはクワチュとだ ニエ。フル西方で撃減する絶好の機会をみすみすのがしたの ーニエフその人とも話している。軍司令官は か、現在まで満足な説明はない。まだドイツ軍の戦力を過けでなく、コ 大評価していたのか ? それとも包囲陣内部の情勢を誤認カリーノフのいうことを承認した。「とうとうだな」とコ ニエフとジュ ーしてい 4 にのか ? ・と一にかど、、コ ニエフはいった。「ドイツ軍は袋のネズミだ。もうにが コフは消 ーニエフは第八軍全体を司令官 極的な道をえらび、全兵力を包囲されたドイツ六・五個師しはせぬ」疑いはない。 の殱減にむけた。ソ連側兵力は六個ーー後には七個ーー軍。ごと包囲したと信じていたのだ。一〇・五個師団を。彼は その数を一〇万人以上と踏んだ。このいいかげんな計算か 精強の機甲一一個軍と各種独立機甲軍団をふくんでいる。 これは圧倒的な兵力で、ソ連側が包囲されたドイツ軍丘 ( ら死傷者と捕虜についての数字が出され、ごく最近までド 力を完全に誤認していたと考えなければ説明できない。ど ィッでもそれがそのまま通っていたのである。 コ うもソ連の作戦指導は単純ながらグロテスクな誤謬にもと ニエフの誤謬の原囚のひとつは、ドイツ第一一二歩 これはカムフラージュのために軍団支 づいていたようなのである。つまり、ドイツ第八軍の主力兵師団らしい をその装甲兵力と司令部ごと包囲したと思っていたのだ。 隊 > と呼ばれ、大損害をうけた歩兵三個師団から成ってい 416
しかし、それがコルスン包囲陣にいてくれたら、ソ連軍 は簡単しごくに見えた。常識では成功するにちがいなかっ 大部隊をひきつけ、第四七装甲軍団の脱出を可能にしたか た。ところがそうはならなかったのである。 コルスン包囲陣を解放しはじめようとしたとき、ニコボもしれないのである。包囲された両軍団は解放され、次の 大作戦への前提が生じていたかもしれない。だがヒトラー リの情勢が悪化した。ソ連軍がシェルナーの背後を破り、 軍支隊全体をあやうくしたのだ。第六軍は第一一四装甲師団の石頭がその可能性を封じてしまった。精鋭東プロイセン 師団は、スウェニゴロトカでは主役を演することを妨げら をさいてしまったので、十分な予備兵力をもはやもたない。 当然のことながら救援を要求した。そして、ニコボリのこれ、アポストロウオでは破局を救うのに間にあわなかった という、まことに悲劇的な役割りを負わされたわけである。 とを心配したヒトラーは、二月三日に決断したのであった。 しかし、愚行はこれで終わったのではなかった。第二四 第二四装甲師団はただちにアポストロウオにとって返すべ 装甲師団が引きあげ、第三、第四七装甲軍団の間での共同 いくら反対しても、同師団がすでに出撃陣地にはいり、 救援攻撃が失敗したからには、第三装甲軍団をただちに、 この泥濘でも装甲部隊はあといく日もしなければアポスト ひたすら脱出のため包囲陣にむかわせることが必要なはず ロウオにつけぬと指摘しても、すべてむだであった。第六 / である。ことにベルディチェフから急行した第一装甲師団 軍から要るのは歩兵で戦車ではないといってきても、ヒト の先鋒が接近しつつあり、第一九八歩兵師団の南で、大き ラーは気を変えなかった。 くひらいた側面の守りを引きうけられる立場にあったのだ 鄲回れ右 / ふたたびまず泥海を行き、ついで鉄道で大きから。 だが、そうはしなかったのだ / 総統司令部は、あいか 翼く迂回した。もちろん、アポストロウオの戦況をくつがえ 南 し、シェルナーの橋頭堡を救うには間にあわなかった。装わらず第三装甲軍団を北へむかわせようとした。メトウィ 7 甲部隊はせまい脱出路を確保するのに一役演じることは出ン高地で東へ転じ、包囲戦線とドイツ第四七装甲軍団の中 第 ・ : 。立派な計画であ 来たものの、橋頭堡は結局失われたのである。 間にいるソ連兵力を包囲、殱減する : 421
分に占領。寝こみを襲われたソ連輜重隊と騎兵は戦闘に応隊に打電し、ケストナー少佐の兵たちは理解した。そして ヒルキは占領されたのである。 スぜず、逃げた。捕虜一一五〇名。 そのころ、包囲陣の外側では第一装甲師団とべーケの重 カ第七一一歩兵師団の右にも攻撃の火の手があがった。ハン , ブ外ク装甲擲弾兵連隊《ゲルマニヤ > が、将来の脱出戦車連隊が、一一三九高地を占領し、シテンマーマンの先 ロの第二の扉であるジャンデロフカに突撃したのだ。ここ遣部隊まで血路をひらこうとむなしい努力をつづけていた。 の白兵戦もすさまじかった。それにつづく、包囲陣の七キしかし、もう一歩も進めなかった。ルーデルの急降下爆撃 機隊は敵の反撃をくいとめてはくれたが、やはりいつもの ロ手前コマロフカをめぐる戦いも同様であった。 一一月十三日、日曜日。東でコルスンから撤退。その代わ例に洩れなかった。戦車一ダース、歩兵大隊半ダースが足 り西で第七一一歩兵師団がコマロフカを完全に占領し、敵のりなかったのだ。なによりべーケ中佐の《。ハンテル》に燃 反撃を必死にしりそける。ノウオ・ブーダではベルギー義料がなくなってしまった。 一方、包囲陣内部のドイツ軍は、救援の友軍に手をかそ 勇兵の突撃旅団《ワルーン》が戦車六台、対戦車砲四門 各五〇ないし一〇〇より成る四個中隊をもって、ソ連軍のうとして、ジャンデロフカ周辺の直径七キロから八キロの 集中攻撃をはねかえしつづけた。旅団の死者は一一〇〇名を地区にあつまっていた。危険なせまさである。救援作戦が こえ、かってのベルギー軍参謀本部員であったリュシアン行きづまったことを知らず、脱出命令を待っていたのだ。 ・リッペール中佐も旅団長として死んだ。連絡将校のレオ命令がすぐに出なければ大変なことになる。ソ連軍がこの ン・デグレル中尉が指揮をうけつぎ、ノウオ・プーダを守事態を知り砲火をせまい地域に集中してくれば、結果は火 りつづけた。 を見るよりあきらかだ。 一方ソ連側はあらゆるトリックを使って、包囲されたド 十五日になると第七一一歩兵師団は、コマロフカ北方の小 村ヒルキをも占領する。「この村の占領は包囲陣からの脱ィッ軍のようすをさぐろうと努めた。自由ドイツ国民委 出にとり決定的な意義をもっ」と師団司令部は第一〇五連員会》の連中がドイツ将校の倒服で戦線をぬけてきた。一一
グラーフ・・フロックドルフ日アーレフェルトの第二軍団は 戦略上の要衝ワルダイ高地まで進出し、モスクワとレニン グラートの連絡を切断し、その位置にとどまった。敵地深 く進出したまま冬をこした。そこは重要だったーーふたた びモスクワを攻略するつもりなら。デミャンスク突出部は 新攻勢にとり理想的な出撃べースだったのである。 そのことはソ連参謀本部も知っていた。それで一九四一 年から四一一年にかけての冬期大攻勢の北の重点をワルダイ 高地においたのである。ソ連軍は手段を尽くしてイリメニ 湖とセリゲル湖の間のドイツ軍の閂を破り、北方および中 央軍集団の背後へ突入してレニングラート前面とルジェフ レニングラートの南二五〇キロ、イリメニ湖とセリゲル周辺のドイツ軍戦線を崩壊に導こうと努めたのであった。 湖の間で、ドイツ軍戦線は一九四三年初頭になってもまだ 第二軍団はもちこたえた。が、一九四一一年一一月八日には キノコの形でロシャ後背地に突出していた。デミャンスク包囲され、空軍から補給をうけなくてはならなくなった。 を中心とするドイツ第一一軍団の戦地である。兵力は一二個空軍輸送部隊は一万四五〇〇回ーを出動させ、史 師団、一〇万人。キノコの柄の部分は幅一〇キロしかない。上最初の空の橋架設に成功している。 翼一〇万人 / 彼らの戦闘の歴史は戦史の重大な章を成す 一九四一一年四月末に、外側から交替作戦があり、包囲さ のた。 れた側もそれに応じて反撃に出、ロワチ河畔ドイツ軍主戦 この半島状デミャンスク戦線はどうして出来たのか ? 線との連絡をとりもどせた。ラムジ , ウォ村の廃墟の近く 第 しばらく時間をもどしてみよう。一九四一年度の攻勢でで、四月一一十一日十八時三十分、包囲陣を西へ突破した部 4 テミャンスク ワルダイ高地の包囲陣 * 前哨の一〇万人 * ソ連戦略 の支点 * チモシェンコに待ったをかけたフォン・ロ ーゼンタール少佐 * 《クーダム》をこえて * 一〇日 間で撤退 * 救われた一一一個師団 * 叱責されたチモシ 2 男
録 付 兵力を送りこみ、先鋒をしてひたすら前進に専念さ せること 0 包囲陣内に各方面より早期に突入し、敵に休息をあ たえず、その殱減をはやめること。 攻撃は迅速に行ない、敵が包囲を脱出できず、他戦 線より強力な予備軍を呼べぬようにすること。 新戦線を早急に構築することにより、快速部隊を主 とする兵力を早期にその後の作戦のため使用可能に すること。 トマロフカの線 南方軍集団は結集してビエルゴロト を出撃し、。フリレ。フィⅡオ、ポャンの線をこえ、クルス ク東方で中央軍集団攻撃軍と連絡をとるべし。東方へ の攻撃を援護するため、可及的速かにネスへガ = コロ チャ地区ⅱスコロトノエⅡテイムの線に達すべきも、 そのためプリレ。フィ = オポャン方向における兵力の重 点的結果に支障あるべからず。西方への攻撃援護には 兵力の一部を用い、同時に形成中の包囲陣内へ突入さ せるものとす。 中央軍集団攻撃軍はトロッスナマロアルハンゲルス ク北方の線より最大限に集中して出撃し、東翼の重点 たるフアテシウエレイチノウオの線を突破して、ク ルスク周辺および南方で南方軍集団攻撃軍との連絡を 完成させるべし。東方への攻撃援護のため、可及的速 スソスナ地区の線に達す かにテイムⅱシュチグルイ ることを要すれども、それによって重点地区における 兵力集中を減ずることは不可。西方への攻撃援護には 兵力の一部を用う。 トロッスナ西方より南方軍集団境界までに投入された る中央軍集団部隊は、攻撃開始にあたり、最高度に攻 撃兵力を結集して敵を囲み、形成中の包囲陣に追いこ むべし。地上・空中偵察をつづけ、敵がひそかに撤退 することなきよう留意を要す。敵撤退せる場合はすみ やかに全戦線にわたり攻撃するものとす。 両軍集団の準備は、各種の偽装処置を総動員し、出撃 陣地より遠くへだたてる場所で行ない、四月二十八日 以降、陸軍総司令部による命令伝達の六日後には政撃 態勢をとれるようにすべし。それによる攻撃ははやく とも五月三日。出撃陣地への進出は夜に限り、偽装に はとくに留意すべきこと。 敵を欺くため南方軍集団戦区で < パンテル》作戦の準
る。しかし〃あたかも〃戦略なのだ。あたかも一個装甲軍第三装甲軍団は死力をつくしたが、それより先へは進め なかった。北への進出はそこまでだった。包囲戦線まであ ス団が敵の五個軍を次から次へとやつつけられるが如くに。 と三〇キロ / やっと誤りに気づいたヒトラーは、包囲陣 力あたかもラスプティッアが存在しない如くに。あたかもい = まが一九四一年であるが如くに / ナンセンスの驚くべきへの最短 0 ースをとることを許した。直接東へ進むのであ る。当初東側面の援護にあたった第一装甲師団は二月十一 集積である。 一一月四日早朝、・フライト将軍は出発した。第一六、第一日に、《西方救援グルー。フの先端となった。 コル将軍の装甲部隊は大きく進出し、グニロイ・ティキ 七装甲師団とべーケ中佐の重戦車連隊しかっかえない。そ チ = 河畔プシャンカ村をとり、白兵戦で無疵の橋を占領す れでも決行した。先頭はべーケの ^ ティーゲル一二四台、 ると、橋頭堡をきずいた。そこから包囲陣の縁まで最短コ ^ 。 ( ンテル四七台 , ーー強力なファランクス ( ア軍密集陣 だ。側面は第三四、第一九八歩兵師団、装甲師団《親ースなのだが、ソ連軍もそのことは知っていた。敵および 北へ登りになっている地形のため、第一装甲師団は避難所 衛旗》の先頭部隊がかためた。泥と敵を突きぬけて北へ。 一キロ。二キロ。一〇キロ。そこで停止した。ラスプティをさがすほかなかった。リシャンカである。この村の上空 かこまれたシュテンマーマン軍団に空中補給をする ツアと敵機甲四個軍団がブライトの足をとめた。 将軍はあきらめなかった。精強な ^ 親衛旗 > の主力と第ー、ーⅢのコースになっている。空中補給は驚くほど 一装甲師団の先遣部隊がかけつける。・フライトはそれを戦の好成績であった。第八航空軍団のザイデマン将軍はそれ に一五三八機を動員した。ウマーニからコルスンまではわ 闘に投入した。この両部隊は見事に事態を収拾し、もう一 度第一六装甲師団の進撃を可能ならしめた。一一月八日、べずか一〇〇キロ。天候はわるくソ連軍対空砲火ははげしい ーケの《ティーゲル > 《パンテル > および第一六と《親衛が、クナップス少佐の補給隊は一四日間で二〇一一六・六 ンを運び、ユンカース機は二八二五名の傷兵を運び帰った。 旗》の一部は、コルスン包囲陣の運命の川、グニロイ・テ このザイデマンの空の橋の下で、第一装甲師団の《パンテ イキチュのほとりに立った。 422
ことを告げていた。 地雷原 ? こ。第一一二歩兵師団司令部の下にシ、レージェン第三三 つまり、突入してきたソ連軍は包囲陣の南端で防衛態勢 二、ザクセン第二五五、ザールプファルツ第一一二歩兵師 団の残余が ^ 師団グループ > としてあつめられていたのでにはいったということなのた。そこにはさしあたり攻撃し ある。戦力は一個師団に相当し、フーケ大佐がひきいていてくるドイツ軍などいないというのに。なにしろ包囲陣の 後方戦線はまだあけつばなしなのだから。 もちろん、ドイツ軍がドニエプル河畔でとどまるだろう もうひとつの原囚は、包囲陣内部にシュレージェン第四 ニエフが計算できなかったということを責めるべき 一七擲弾兵連隊、および第一六八歩兵師団工兵大隊と第一とコー 六七歩兵師団の・ハイエルン第三三一擲弾兵連隊の一部がまではない。論理的なのは、ドイツ軍がすぐ回れ右をし、友 じっていたことのようである。それに第一四装甲師団第一軍第四七装甲軍団まで血路をひらくことであったろう。た がヒトラーは新たな死守命令を出してこの論理を殺した。 〇八装甲擲弾兵連隊、シュレージェン第二一三保安師団の 一個大隊、第三一一三歩兵師団のスキー大隊も包囲陣内部で囲まれたリープとシ、テンマーマンの両軍団長は、へとへ 戦っていた。ソ連軍はこれら部隊の捕虜を尋問して当該各とになった六個師団をもってこれまでの三〇〇キロにおよ 師団もいるものと考えたのだった。 ぶ弧状陣地を維持するのみか、後背部をも新戦線でかため 誤解がどこに発したにせよ、ソ連軍は二個正面軍にのばよと命令されたのだ。ハリネズミの陣を敷いて死守するの る大兵力で ^ 第二のスタリングラートにのそんだ。指揮だ / スタリングラートでおなじみのヒトラーのやり方で ある。ウォルガでやったように、今度はドニエプルの最後 崩は《第二ウクライナ戦線 > 正面軍司令官コーニエフ。 の ドイツ軍指導部はやがてソ連軍の異常な慎重ぶりに気がの一片にしがみついたのだ。彼はカニ = フ屈折部をいっか 翼 南 ついた。一月三十一日に第四七装甲軍団の傍受小隊は、ジ対キエフ新作戦のための出撃基地にするという計画を捨て 7 ポーラのソ連工兵指揮官の無電をキャッチした。第二〇機なかったのだ。現実性は ? 彼には現実の法則に屈するつ 第 甲軍団のおしゃべりなエ兵は、軍本部に地雷原を敷設した もりはなかった。「現実とは余のことである」を彼の格言 こ 0 417
チェルカッスイまたはコルスン包囲陣 脱出。 0 救援にむかうべーケ重戦車連隊 0 戦場に残ったのは・・