らだ。 レース前のプラクティスは、だいたい 1 ~ 2 時間ぐらいのものである。その間では、サーキ ットの状況を全て把握することはできない。 。フラクティスではレース時に起り得るあらゆる状況を設定して走ることには不可能だからで ある。 僕は、深夜、誰もいないサーキットに懐中電灯を持 0 て出かけては、 0 ースをチ = ックした。 あるいは、早朝、ジョギングを兼ねてサーキットを走ったりしたものである。 そのお陰での行われるサーキットはもとより、国際レースの行われるあらゆるサーキッ トのレイアウトが、頭の中に入っている。 恐らく目をつぶ 0 ていても、それらのサーキットを走り切ることができるだろうと思うが、 レースに勝っためには、それだけの備えが必要なのである。
なことがないと考えているからだ。 だが外国では、何から何まで神経をくばってはいられないのだ。日本にいた時より自分自身 がやらねばならぬことが増える。一日の時間が限られて、やることが増えれば、それをこなす ために、睡眠時間もしくは休養時間を削らなければならないのである。 なるほど「モテヘん」とはこのことだとっくづく思ったものだ。 9 世界初挑戦のオランダ プラクティスでいきなり 3 位の成績。「いったい何者 ? 」「ジャポン ? 」と私 の周辺がざわっいた。「カタヤマ」、そして、いよいよ決戦が始まった 僕の参戦は、年のシリーズ第 6 戦オランダ p-«からである。 ここのアッセン・サーキットは全長 6 ・ 6 8 5 キロメートルで、高度なテクニックを要求さ れるコース。。フラクティス前に、僕はプラリプラリとコースを歩きながらチェックした。初め てのサーキットでは、必ずコースを足と目でチェックして歩く。路面の状態、カープの具合、 ガードレールがあるところ、切れているところなどを克明に点検しながら、頭の中に叩きこん
ある。力を入れると頭の先まで痛みが突っ走る。誰の目から見ても走るのは無理だったが、僕 は我を通した。 なんとかオートバイによじのぼりメカニックにマシンを押してもらう。手は、やっとこハン ドルに添えるだけだが、ともかく走り出す。腕の自由がきかないのだからフォームもへチマも ない。ただシートにしがみついている状態でヨタヨタと走行する。 土曜日のプラクティスでも同じようなものだったが、徐々に痛みにはなれてきた。昼頃にな ると、マアマア様になった走行ができる。夕方の最後の。フラクティスでは、なんと、 3 位に食 い込むことができた。 いよいよである。肩にテープを巻いただけの僕は、まず 2503 のレースで走る。 ざレースの前半はひたすら不安であった。無理は効かないのである。転倒でもすれば、鎖骨の をポルトが飛び出してしまうかも知れない。だが、周回が進むとともに、不安が消え、逆に闘争 頂心がメラメラと燃えあがってきた。 界考えてみれば、僕は明らかに欠陥人間であった。本来ならば、レースを断念してもいい状態 である。 章 それなのに走るのはなぜか。 第 自分が走りたいからなのだ。 113
でいく。 オート・ハイで走行しながらのチェックだけでは、コースのディテールはつかめないからだ。 最高速は、当時のマシンでも 2 5 0 キロに達していたので、ちょっとしたきっかけがアクシデ ントを呼ぶ。路面の小さな凹凸でも命取りになることがあるのだ。 また、コーナーに立って、他国のライダーの走りつぶりを、観察することも忘れなかった。 彼らは、十分に、このサーキットを走り込んでいるのである。その経験から、コースの攻め方 を熟知している。その一部でも盗みとれれば、レースによい結果をもたらすことは、間違いな オランダ入りしてからのマシンの調子は、まあまあである。僕自身の、肉体も精神も絶好調 挑に近い。プラクティスを繰り返すうちに、これは、いい線いくんじゃないかな、という予感が のしてきた。 試合前日のプラクティスでは、第 3 位に入った。本人は「まあこんなもんだろう」と思って 界いたから平静だったが、外国勢の間でちょっとした。ハニックが起きた。突然現われた新人が、 世 プラクティスとはいえ 3 位に割り込んだのだから、「やつはいったい何者 ? 」ということにな 1 る。それまで、誰も興味を示さなかった僕の周辺が少々ざわっいてきた。 「ジャポン ? 」「イエス」「オー・ヤマ ハ″こ「イエス」
じゃ、サーキットで練習すれま、、 ( レレということになるが、これが生半可のことではない。な 一」、金が 0000 あ 0 。 = ず【→ , を積 0 」一、一 = 、、を用意」なければならな ハイクの部品はもちろんだが、メカニックも 1 人は雇わなければならない。 サーキットに行けば行ったで、走行料金をとられる。僕自身は働いていると言っても、父親 の運転手。もとより高給がもらえるわけがない。 となれば、サーキットでの練習なそ夢のまた夢である。 ところが、レースにエントリーするとプラクティスの前日にサーキットを走ることができる のだ。 それを見逃す手はないというもの。 レースに出るというのは大義名分で、本当のところは、サーキットを格安で走れることが狙 いだったのだ。 初めて走った鈴鹿は、仲々素晴しいものだった。六甲と違って対向車がぶっ飛んでくること ーない。コーナーの性格さえ覚えこめば六甲よりはるかにスムースに走ることができる。 プラクティスやレースのことなど、考えずに、ただひたすらスポーツ走【行を行い、気分爽 快。「じゃ、帰ろうかーなんて雰囲気だったのだ。
まったく視界になかった先行車が、ケシ粒みたいに見えてくれば、もうこっちのものだとい う気がしてくる。 ケシ粒が、米粒になり、ビーナツツぐらいの大きさとなるのに大して時間はかからなかっ た。たちまちのうちに追いっき、 1 台 2 台と強引に追い抜いていく。 レースはスタートをしくじったために、トツ。フを捉えることはできなかったが、終わってみ れば、何とか 3 位に食い込んでいた。 ポールポジションを取った瞬間より、グンと気分はよかった。。フラクティスはどうころんで も。フラクティスである。 レースではどういう結果がでるか分からないのである。その点、スタートで失敗した上での 戦 3 位とあれば、なおのこと、意味がある。僕はこのレースで「 2 輪で走れる , という大きな自 の信を持っことができたのだ。 へ デビ = ー戦で、なかなかの成績をあげた僕は、ノービス 250 8 の第 3 戦で、あっさりと初 界を達成してしまった。 世 緒戦の 3 位はフロックだとしても、 3 戦目で優勝するのは、単なる偶然やフロックのなせる 章 と、僕も思ったし、他の人も思ったに違いない。 技ではない 第 片山敬済は、ひょっとしたら、プロのライダーになるのではないかといった予兆が、まさに
天を仰いだベルギの闘い トップグループに・アンダーソン、・プラウン、・ドッズ、そして かんせい 僕。あのコーナーを回ればサインだ。そこに陥穽が待ち受けていた 緒戦のオランダはリタイアに終ったが、僕は落ち込みはしなかった。 プラクティス 3 位。本番のレースでも、好位置をキー。フできたことが、僕にとって大きな自 信となっていたからである。 それまで「自分の力は世界に通用しないはずはない」と思っていた。だがそれは、実体のな い自信である。オランダの中で、僕は初めて自分の力をはっきりと確信できたのだ。 第 2 戦はス。ハ・フランコルシャンでのベルギである。長いストレートとコーナーの組 み合わせられたこの高速サーキットでは、時速 200 キロ以上のスビードによる争いが展開さ れた。トツ。フ・グループは・アンダーソン、・プラウン、・ドッズ、そして僕である。 お互いのスリップ・ストリームを利用しながら順位はめまぐるしく入れ替わる。僕は、最後の 周回の最終コーナーで頭に出ることを狙ってレースを組み立てて走っていた。最終コーナーは、
7 どよめきが起こり、サーキットに幽霊が 僕がサーキットに着くと、「本当にタカズミか″ドライターたちの間に、どよ めきが起こった。ただ、ハンドルに手をのせただけで、いざ出陣ーー・・結果は ? ベルギーからイタリアへ向かい、イタリアからレンタカーで一路ューゴに向けて突っ走る。 メカニックには「絶対にレースに出るからーといって先発させていたが、まさか走れるとは思 っていなかったらしい サーキットにかけつけた僕の姿を見たレース関係者の中からどよめきが巻き起こった。「片 山がいなけりや、優勝はこっちのもんだ」と思っていたライダーたちは、幽霊でも見たような 顔をしている。・ ~ ロンが歩みよってきて、しげしげと僕の顔を見る。 「たしかにタカズミだ」 よもや「やっては来まいーとタカをくくっていたメカニックは、大慌てでマシンの整備に取 りかかる。と、ここまではよかったが、翌日のプラクティスの時には泣きたくなった。 腕は病院のトレーニングで上がるようにはなっていたが、マシンを押すことができないので 112
と、鉄砲玉のような口調で指示し、 350 3 に乗って飛び出す。メカニックは言われたことを、 次のプラクティスに間に合うように処理しておかなければならないが、マシンをいじるのは、 しゃべるほど簡単ではない。 一個所をアジャストさせるためにあちこちいじくり回さなければならない。 「よし、セッティングできたぞ」と思った時は、僕は 350 8 の走行を終えてもどってきてい またまた鉄砲玉のような指示をして 250 8 で飛び出していく。 この繰り返しの間に時間の余裕を見つけるなんて、至難の技、いや不可能である。 トイレに行けないことは誇張でもなんでもない。朝一番に行かなければ、その日はジッとガ マンを決めこむしかないのである。 レースのない日は休養かといえばそうはレカオレ 、、よ、。次のレース場を目指してひた走る。昼に 夜をついで、徹夜で走り続けなければならないこともあった。 最初のうちは友情という言葉をかすがいにして、双方ともにガマンしながら、明日という日 を期待した。 だが、明日になってみれば、明後日に期待をかけるしか仕方ない状態なのである。毎日が、 目の前に餌をぶらさげて走るドッグレースの犬のような生活なのである。睡眠不足、疲労、空 る。
日本から同行した 2 人のメカニックは、僕の友人である。 「ヨーロツ。ハで走りたいんや」 「よし、手伝ってやる。金 ? そんなもんいらへん」 お互いが友人であることだけをつながりとして、手伝ってくれたのが、仕事がからむと友情 は案外にモロい側面を見せるものだが、それにしても、苛酷な状況でありすぎた。 当時、僕は 2 5 0 8 と 3 5 0 3 の二つのレースに出場していた。つまり、 1 日に 2 レースを 消化していたのだが、予選、本戦が始まるとメシを食う時間、トイレヘ行く時間すらなくなる。 メカニックもそうだ。いや、もっとひどかったかも知れない。彼らは自分の意志で仕事をす るのではない。ライダーの僕が「ああしてくれ」「こうしてくれ」と指示することによって、 ざ仕事を開始する。 を常に僕の動きに合わせ待機していなければならないのだ。 庇プラクティスの時を例にあげれば、分刻みのスケジュールで走行する。 界例えば 250 8 で走ったとする。 世 ビットインするやいなや、僕が言う。 章 「メインジェットを何番、。フラグを何番、スプロケットを何番にかえて。そやフロントフォー 第 クのオイルが足らん」