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検索対象: 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア
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1. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

ちゅうい ちゅうい ねんはん 尉は、中尉になるまでに約一年半もかかったが、中尉から しよう げつはん 大尉になるまでにはわすか一か月半、さらに大尉から少 1 一う それ し・う、 しようイ、 げつはん 佐になるまでに一か月半で、少尉から少佐になるまでの合強わ 」か使 ぜんぐんしん わん 計は、わずか一年九か月で、それまでのドイツ全軍で進 かど きゅうはやしんきろく るな 級の早い新記録となった。 み見行 がったい ねんしようわ わん 、ひ飛 一九四〇年 ( 昭和十五年 ) 十月、大尉になっていたウィ てぎ技 そ・つとう かんてい ぐんじん しょ曲 ッグは、ベルリンのヒトラー総統の官邸によばれて、軍人 きしてつじゅうじしよう さいこうめいよかしわば りも として最高名誉の柏葉っき騎士鉄十字章をさすけられ、 ぐら せんとうだいたい しきかん んか まもなくリヒトホーフェン戦闘大隊の指揮官となり、二五すて しう ~ はや 歳で早くも少佐になったのである。 う闘り わたくしこ じせかいたいせんげきついおう 「私は子どものときから、第一次世界大戦の撃鱶王リヒ戦 くうぐん トホーフェン大尉にあこがれていた。新しいドイツ空軍に せいしんおし はいってからも、 リヒトホーフェン精神で教えられ、そし だいたい わたくし しきかん て、いま、私はそのリヒトホーフェン大隊の指揮官にな せんとうきの いじようめいよ ソす ったのである。戦闘機乗りとして、これ以上の名誉がある ヌ性 であろうか。」 ラ動 し・ようさ このようなことが書の ウィッグ少佐の日記の一ページに、 、と日旧 きのこされている。しかし、それから約一か月後に、ウィ ラ戦は新【 しよう一 ほんどくうしゅう みかたばくげきき ッグ少佐はイギリス本上空襲にむかった味方爆撃機を援フ型 あたら えん

2. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

せんせんとうきあっとう られ、フランス、イギリスの第一線戦闘機を圧倒していた。 がた この型は、ユーゴスラビアに七三機、スイスに八〇 機、ハンガリアに四〇機、その他ソビエト、チェコスロ・ ゅしゆっ ぎじゅっさんこう キア、プルガリアなどにも輸出され、日本にも技術参考 きふねおく 用として二機が船で送られてきた。 しんがたせんとうき りくぐんはやぶさ につばん 日本では、そのころの新型戦闘機であった陸車の隼 しよ、つき かいぐん びし なかじま なかじま ( 中島キ昭 ) 、鍾馗 ( 中島キ ) 、海軍のゼロ戦 ( 三菱 < 6 ) ひえん ひかくけんとう か。を一き などと比較検討され、のちに飛燕 ( 川崎キ礙 ) そのはかの 一ん・ : っ せんとうき えきれいしき 液冷式エンジンっきの戦闘機をつくるときに参考とした。 えきれいしき せいー ) き この中で、制式になった液冷式エンジンっきの戦闘機は おな ひえん ひえん 飛燕だけであるが、飛燕のエンジンも、Ⅲ川と同じダイ えきれいしき ばりき ュム一フー ・べンツ礙 < 液冷式の一一五〇馬力のエンジン きしゅ こく、んか 一を国産化したものであったため、ぐうぜんにも機首まわり ナ、た、 ひえん 0 ) の形態が、飛燕とはよく似てしまった。 えきれいしき につばんそら たいへいようせんそう ス太平洋戦争が始まって間もなく、日本の空にも液冷式工 せんとうきすがた ンジンっきの見なれない戦闘機が姿をあらわしたとき、だ こく一ん が飛んでいる、と 撃れい , っとなく、国産メッサーシュミット ひえん いううわさが流れた。しかし飛燕は、エンジン以外はまっ にほんじんせつけい 第たく日本人の設計でつくられたもので、メッサーシュミッ につばん せん せんとうぎ くうぐんっか スイス空軍で使われた B 「 109E 工ミール ・、をド・当い第第ふを記当 39

3. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

力、 せんとうき げつつづ くうちゅうせん 約二か月続いたこの空中戦は、ド くうぐん く、つぐん イイツ空軍にとっても、イギリス空軍に ア しとうれんぞく フとっても、まさに死闘の連続であっ ばくげきき リケーンは敵の爆撃機をねら てきせんとうき ス スビットファイアは敵の戦闘機 る お くうちゅうせん 川とⅡを追い、息づまる空中戦が 1 、追卍のようにイギリス土の上空で、 けむりふ くりかえされ、そのたびに煙を吹いて 主 ・′、ついらく てきみかたかぞ 機墜落する敵味方が数えられた。 撃 丿ケーンとスビットファイアは、 爆 。しゅよく しよきせいさんがた ケともに初期生産型ので、主翼のな きじゅ・つちょう イかに七・七い機銃八丁をもっており、 しゅんかん りようだんがん 瞬間のうちにものすごい量の弾丸を げつかん く、つぐん ばうてき しんこ、つ ほんどげきつい 日までの二か月間、 ドイツ空軍の一方的な侵攻によって展はき出すことができた。だからイギリス本上に撃墜された す あな 開された。 こよ、ハチの巣のようにたくさんの穴が ドイツ機の残がいし。 かずすく おお わんりよう イギリス空軍は、数少ないハ リケーンとスビットファイあいており、その多くはプロペラや燃料タンクが撃ちぬ ゅう・ : っ ききゅうじようしよう げつさんやく しんぞう アを有効に配置し、月産約四〇〇機に急上昇した新造のかれていた。 ぞうえんき げきれつばうくうせん かえとちゅうわんりよう 戦闘機を、唯一の増援機とたのんで、激烈な防空戦を、ホ その場で撃墜されなくても、帰る途中で燃料がなくな ゅうりたちば そうじゅうし ふしよう とちゅうかいきようふじちゃく ーム・グラウンドという有利な立場で開始した。 ったり、操縦士が負傷して、途中で海峡に不時着した機 くうぐん てん ざん げ き ばくげきき つし、デき てき 130

4. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

ーチス・ホークなどの そくそくと , つじよ、つ せんとうき 戦闘機よりはもちろ ☆メッサー、続々登場 みかた ん、味方のより しゃ そうとうさいぐんび アウグスプルグ市の社は、ヒトラー総統の再軍備も、すぐれていること しようめい せんげん こうじようだいかくちょう Q) 8 9 、せいさく が証明された。 宣言のあと、川と川の製作のために工場を大拡張した ひこうき くうぐんとうめいしよう ー ) かし、 が、空軍の統一名称ではの飛行機にはをつける 町川の最う闘 だいじそく ことにな「た。そこで翫とは町との名まえで呼ば大時速は、まだ五一六「作 つぎ そうはっふくざちょうきょ まんぞくし試 れることになり、さらに次につくられた双発複座の長距 キロで、けっして満足で りせんとうき きるスビードではな 9 離戦闘機はⅧとな「た。 しやせかいてき かいはっ わんしよっわ く、イギリスで開発さ町 しかし一九三八年 ( 昭和十三年 ) に、社は世界的に ゅうめい せつけいしゃな かいしゃな 有名になった設計者の名まえをそのまま会社の名まえにすれているハリケーンやッ かぶしきがいしやかいめ、 ることになり、メッサーシュミット 株式会社と改名したたスビットファイアの予ュ ひこうき せつけい め、そのあとに設計された飛行機には、ふたたびがつけら想される性能にくらべ一 けつきよく おおはばせい廿・ のると、もっと大幅の性 れることにな「た。結局、をつけたのは、四、川 きしゅ ひ - : つき せつけい こうじようのぞ 三機種で、その後メッサーシュミットの設計した飛行機能の向上が望まれた。 せんそうちゅう し力し くうぐん ドイツ空軍からの厳 は、すべてである。しかし戦争中には、ドイツ以外で じゅうめいれい しゅうかん につばん 重な命令によって、 は習慣としてがっかわれ、日本でもとよんでいた。 せんそう じっせんさんか さて、スペイン戦争で初めて実戦に参加したⅢ四 22 、次の町にはダイム カくがた カラー べンツ CQ g 一 O 、の各型は、相手のイ新、イ炻、 そう のう せいのう

5. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

りよく きじゅうちょうかいぞうがた 〇ミリ機関砲も、二〇 = 、リ機関砲二門と七・七ミリ機銃四丁の改造型があっ こしょ・つおお もん せんか ン二門と七 たが、故障が多くて、あまり戦果をあげることができなか ジ きかん ン七 = 、リ機銃「た。しかしスビットファイア 5 と 5 0 の二〇ミリ機関 ちょ・つ せいのう カ四丁になは、すぐれた性能をみせて、スビットファイアはヨーロ じつよ・つせんとうき 5 り気スビッ ッパでいちばんすぐれた実用戦闘機となった。 だいかしりム・つ く、つぐん トファイア ドイツ空軍は、メッサーシミットⅢ四に大改良を ドリッヒをつく くわえたメッサーシ、ミット 0 フリ 5 0 のな ちゅ・つくう たい第一う マ かには二〇「てスビットファイア 5 と 5 0 に対抗したが、中空 ザ、い、・つ め くうちゅうせん の リ機関砲四や低空の空中戦では、まだスビットファイアに勝ち目が - 一、つく・つ もん 門になったあり、高空でもスビットファイア 5 << と 5 は、すばらし かくとうせいのう ものが現わ い格闘性能をみせた。 なお、スビットファイア 4 とい、つのは、スビットファ フれ、メッサ 。力い挈、、つ ぶそう しやしんていさっき ッ ィアを写真偵察機に改造したもので、武装がなく、 じト ` うく・つ さいだいじそく スト川よ最大時速五九九キ。であった。初めてドイツの上空を飛ん りも攻撃だスビットファイアは、この 4 である。 だんつよ 力が一段と強くなった。また、スビットファイア 5 0 一方、オーストラリアに配置されたスビットファイア どうたい した せんとうばくげきき ばくだんこ ねんしようわ ねん は、胴体の下に二二五キロ爆弾一個をとりつけ、戦闘爆撃機 5 が、一九四三年 ( 昭和十八年 ) のはじめに、初めて日本 はやぶさ くうちゅうせん のゼロ戦と空中戦をしたが、その後、ビルマでは隼と として活躍できた。 つよ につはんばくげきき ばうてき なお、スピ , トフ , ィアとス。ヒ , トフ , ィアで戦い、日本の爆撃機に対しては、一方的な強みをみせて、 かつやく 4 きかんほう きかんほ、つ きじゅう あら たたか せん きかんほ・つ もん につばん と

6. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

ちゅうたい これを知ったデ ィーア大尉は、中隊にあったマイル し・つ ふくざこうとうれんしゅうき ズ・マスター複座高等練習機にアレン少尉をのせて、カ ☆ディーア大尉 ひこうじよ、つ ・ト 4 ・つ マルグ飛行場にむかったが、フランス領にはいる くうぐんだい ちゅうたい ちゅう はつけん イギリス空軍第五四中隊のディーア大尉は、メッサー と、たちまちパトロール中のメッサーシュミ ットに発見六、 し けってん なんど トの欠点をよく知っている名パイロットで、何度れてしまった。 しせん とお となく死線を生きぬいてきたスビットファイア・マンのひ しかし、ど , っしたことか、メッサーシュミットは一くか ア アとりであった。 らながめているだけで、ディ ーア機に近づこうとはしなか てったいさくせん てき せんとうき ふくざれんしゅうき めずら ダンケルグ撤退作戦は、スビットファイア戦闘機にとっ った。敵は、複座の練習機とは気がっかす、この珍しい ッ しれん ちゅうたい こ、っそくき あたら かたふくざせんとうき かん スて、はじめての試練のときであったが、第七四中隊の隊形態のふたり乗り高速機を、新しい型の複座戦闘機と勘ち ちょう しょ・つ一 にちくうちゅうせん かいしたらし、 機長ホワイト少佐は、五月二十三日の空中戦でエンジンが こしよう ひこうじよ・つふじちゃく ていくうちょっこう てきていくうせいのうわる 「よし、低空で直行だ。」敵は低空性能の悪いメッサーシ 霍故障し、フランスのカレー・マッグ飛行場に不時着した。 ひこうじよう ぐんせんりようくいき の あんぜん 滅この飛行場は、ドイツ軍の占領区域にはいっていたので、 ュミットだから、この手でいくのがいちばん安全であっ たいちょう ぐんほりよ きけんまぢか てつき と ちょ - っていく・つだ - : っ ホワイト隊長はドイツ軍の捕虜になる危険が間近にせま た。「もし、敵機が近づいたら、超低空の蛇行で飛べばよ 部 じしんまんまん 第っていた。 い。」ディーア大尉は自信満々であった。 がっ 子′ . し - し 2 ・イギリスを守った英雄一 し 士まーも ) の て えいゅう 135

7. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

ほんよ ☆この本を読まれる方へ せかい じせかいたいせん 第二次世界大戦で、世界でいちばんたくさんつくられた戦闘機として有名なドイツのメッサーシュ し ふじみめいき ミット四と、イギリスを救「た不死身の名機として知られたスビットファイアは、プロペラつき戦 だいけっさくき とうきぜんせいじだい 闘機全盛時代のヨーロッパにおける二大傑作機であった。 だいえいていこく おおぞらひけん てつじつばさだいひょう 四は、鉄十字の翼を代表する「大空の飛剣」であり、スビットファイアは、大英帝国の伝統を りよ・つき わんいじよう まも かいせん しゅうせん ひっしようつばさ 守った「必勝の翼」であった。この両機は、開戦から終戦までの、五年以上ものながいあいだ、た かいぞうがた たたかつづ せんはながたき ; いに第一戦の花形機として戦い続け、そのあいだにいろいろな改造型があらわれた。 しよう ひこうき かくキ、 かんけい ほん この本では、町四とスビットファイアの各機に関係のある、ほかの飛行機もとり入れて、その生 ひこうきせいのうせん かつやく じたいせん ぶしじゅうせつめい 涯の一部始終を説明してあるが、これは第二次大戦のとき、ヨーロッパで活躍した飛行機の性能や戦 し せんとうき み いまのジェット機には見られないプロペラつき戦闘機たけ 闘のありさまを知るためである。とくに、 み・ト画く しやしんずかい がもつ、すばらしい魅力を、写真と図解であらわした。 ひこうき ばくおん ようてん 飛行機をたのしむ要点は、機体の態とスビードと爆音の三つである、といわれるが、この三つを じたいせん ひこうき いちばんよくそなえている飛行機は、なんといっても第二次大戦のときの戦闘機である。その世界的 につばん なチャンビオンが、日本ではゼロ戦、ドイツではメッサーシュミット 0 、イギリスではスビットフ こくみんせ、 アイア、アメリカではムスタングということになる。みんなそれぞれの国民性がよくあらわれてい せんとうき み こくみん かんがかた て、戦闘機を見ると、その国民の、ものの考え方がよくわかるといわれるはどである。 のざわただし しようわ わんがっ 野沢正 昭和四十八年一月 がい と、つ だい きたい せん た カた せんとうき ゅうめい せんとうき でんとう せかいてき せん

8. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

・世界に誇るスピットファイア にとりかえられた 1 < である。 ハトル・オプ・プリテンの後期になって、一九中隊の ☆本土防衛に活躍した戦闘機 うちの三中隊だけが、スビットファイアの 2 にかえら くうぐんほんど ン肥一一五〇馬力にな くトル・オプ・プリテンで活躍したイギリス空軍の本上れたが、これはエンジンがマ ちゅうたし そくりよくじよ・つしょ・つりよく ばうえいぶたい 丿ケーン *-« 1 が三六中隊、スビットファ り、速力と上昇力がわすかによくなった。しかし、連 防衛部隊は、、 せいのう ちゅうたし ア ィア 1 、 2 が一九中隊、プレ = ム 4 またはポーファ動性のほかのつ「こみ性能は、メッサーシ、ミ ちゅうたい ちゅうたい にくらべて、わすかながら劣っていた。 アイターが六中隊、デファイアント 1 が三中隊、グラジ ) : つけい ちゅうたい エーターが一中隊、合計六五中隊で、このうちプレニム そこで、メッサーシュミット町 0=.2 よりも速いスビット ッ にんの スとボーファイターとデファイアントはふたり ~ 三人乗りの ファイアを急いでつくることになったが、これが一九四一 ぎゅうしきふくようき がっ ぶたい やかんせんとうき わんしようわ わん 年 ( 昭和十六年 ) 三月から部隊に配置されたスビットファ 飆夜間戦闘機で、グラジェーターは旧式な複葉機であった。 さいたいしそく えきれい だいぶぶん ー丿ン鬨 / 一四四〇馬力、最大時速 名 スビットファイアはその大部分が 1 で、マ ーリン液冷ィア 5 である。マ きと・つ つよせんとうき ばりき一いだいじそく ぶそ - っ のしきがた 滅式 > 型一二気筒一〇五〇馬力、最大時速五し一キ。、武装は六〇二キ。で、川よりもす「と強い戦闘機にな「た。 きじゅうちょう か半ごフ もくせし 武装も、スビットファイア 5 < はそれまでどおりの 七・ヒ、、リ機銃八丁であった。はじめは木製二枚プロペラを きしゅうちょ・つ * 、んか きんぞくせい し・ヒ =. ・機銃八丁であるが、スビットファイア 5 は二 第つけていたが、戦争に参加したのは、金属製三枚プロペラ ほんどばうえし ちゅうたい せんそう かつやく かつやく せかい せんとうき どうせい らゆうたい はや ちゅうたい 155

9. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

第 2 部不滅の名戦闘機・スビットファイア しゃ カくかた」 : つけい 射などで破壊したものは、爆撃機をとして各型合 挙、・つ曰」い 機があった。総計六九機てある。 ☆ジョンソン大佐 ししトうひ - : つき りようせんしやりようすいらい 以上の飛行機のほかに、機関車七二両、戦車五両、水雷 せきせんすいかん くうぐん 艇三隻、潜水艦一 イギリス空軍のジョ ・ジョンソン大佐は、三八機 げきつい せんか じたいせん 隻、トラックおよ撃の戦果をあげて、第二次大戦におけるイギリス最高の エースとな「たが、そのうちの大半をスビットファイア 石両の破壊が、戦 9 によって勝ちとることができた。 機 じたいせんこうはん ちゅうたい 闘果のなかにふくま 第二次大戦の後半、スビット中隊および大隊を指揮し げキ一ついきろく しれいかん たんき た戦闘機部隊の司令官ジョンソン大佐は、単機の撃璧記録 せんたい げきついきろくじゅうし たいさじしん て、これらのエモよりも、戦隊の撃墜記録を重視したが、大佐自身もスビッ だいかつやく ノは、合計四三二 耨 トファイア・マンのひとりとして大活躍をしている しゆっげき わんしようわ わん わんしようわ わん レ回の出撃で得ら 一九四三年 ( 昭和十八年 ) から一九四四年 ( 昭和十九年 ) く・つぐん こちゅうたい ウ れたものであっ にかけて、イギリス空軍の九六個中隊がスビットファイ せんそう ケ アを採用したが、戦争もなかばをすぎると、スビード オ じ画・つしト ` ・つりよく きょ・つてき フ や上昇力も、強敵メッサーシュミ ットⅢ四グスタフ にくらべて、けっして劣ってはいなかった。 くうぐんせんとうたい にもかかわらす、ドイツ空軍の戦闘隊は、メッサーシュ ・ : っそく 0 ミット 0 やフォッケ・ウルフ 9 による高速一撃離 だっせんばうす 脱の戦法を捨て切れす、いつまでもスビットファイアに対凵 きかんしゃ せんとうき せき 0 せん せんとうきぶたい と たいはん だいたい

10. 空戦 メッサーシュミット対スピットファイア

レースは終わる規約になっていた。 ねんたいしようわんたいしようわん しかし、一九一五年 ~ 一九一九年 ( 大正四年 ~ 大正八年 ) ☆シュナイダー・レース じせかいたいせん ちゅうし けつきよく のあいだは、第一次世界大戦のために中止し、結局この じせかいたいせんはじ ねんたいしよう わんたいしようわん 第一次世界大戦が始まる一年前の一九一三年 ( 大正二 スビード・レースは、一九一三年 ( 大正二年 ) から一九三 おおがわも ぜんご 力、 ねんしようわねん 年 ) に、フランスの大金持ちジャック・シュナイダーが、 一年 ( 昭和六年 ) までに、前後一一回おこなわれた。一九 こく、いこうくうれんめ、 きぞう ちゅうし んかこく わんたいしよう 国際航空連盟 (æ<—) に一つのトロフィーを寄贈した。 二四年 ( 大正十三年 ) は参加国がすくないために中止し、一 じゅんきんかざ どうだい じゅん芋ん あたら わんしようわわん これは、純金の飾りをつけた銅の台のうえに、純銀の九二七年 ( 昭和二年 ) からは各国とも新しい型のレーサー なみ じゅんきんてんによ じかん ねん 波をのせ、その波のうえに純金の天女をのせたりつばなをつくるのに時間がかかるため、一年おきにおこなうよう きんがく きてい すうおくえん もので、その価値はいまの金額になおして数億円もするも に規定があらためられたのである。 けつか ねんしようわわん のであった。 レースの結果は、一九三一年 ( 昭和六年 ) までの最後の まいわんあき めいよ この高価なシュナイダ ー・トロフィーは、毎年秋におこ 三回を勝ちぬいたイギリスのチームが、名誉のシュナイダ すいじよ、つひこうき ゅうしよ、つこく じ ーカくとく なう水上飛行機の国際スビード・レースの優勝国に、ト ー・トロフィーを獲得したが、おもしろいことに、 この時 おなねだんしようきん わた り・くドレし人・つき そくりよく しやりん ロフィーと同じ値段の賞金とともに渡され、さらに三回代のスビード・レーサーの速力は、車輪つきの陸上機よ えいきゅう カくとく おお うきぶね すいじようき 続けて勝った国が、永久にそれを獲得することになり、 りも、大きな浮舟をつけた水上機のほうがすぐれていた。 わん なみ わんまえ でんとう 1 ・伝統に輝くイギリス空軍 力、 かがや お ねん きやく ねん かっこく 106