( 迷彩機は白 ) 【図 8 】。後部胴体に は 4 航戦 2 番艦を示す 2 本の黄帯を 記入。塗装は零戦は全面明灰緑色 , 96 艦戦は全面銀色 , 97 艦攻は上面暗 緑色 , 下面明灰白色。 航空母艦「龍鳳」 潜水母艦大鯨を改造した小型空母 で , 昭和 17 年 11 月 30 日完成。当初は 飛行機を搭載せす飛行機輸送 , 訓練 に使用されていたが , 18 年 6 月 12 日 , 2 航戦 ( 隼鷹 , 飛鷹 , 龍鳳 ) に 編入された。そして飛行隊は再三ソ ロモン方面へ派遣されて活躍した。 マリアナ沖海戦へ参加したのち , 19 年 7 月 10 日 , 1 航戦 ( 瑞鶴 , 龍は , 601 空 ) 編入 , 8 月 10 日 , 4 航戦 ( 伊 勢 , 日向 , 隼鷹 , 龍鳳 , 634 空 ) 編 入 , 11 月 15 日 , 1 航戦 ( 天城 , 葛城 , 隼鷹 , 龍鳳 , 601 空 ) 編入と所在が変 ったが , 戦闘へは参加せず , 19 年 11 月下旬 , 台湾への輸送任務に服した のち , 20 年 4 月 , 予備艦となった。 6 月以降は特殊警備艦として陸岸に 撃留されたまま航空砲台となり , 終 戦を迎えた。 定数は , 当初の計画では零戦 21 ( 補 用 0 ) , 14 試艦攻 9 ( 補用 2 ) , 計常 瑞鶴 ( 円年春 ) 暗縁色 ( ロ年 7 月 ~ ロ年末 ) い 6 年 4 月 ~ ロ年 4 月 ) 明灰白色 【図 3 】 0 0 瑞鶴 ( 円年月 ) 暗縁色 6 ( 4 ゑ 【図 4 】 明灰白色 用 21 機 ( 補用 2 ) であったが , 18 年 7 月 , 飛行機隊をプインへ進出させ た当時は , 艦戦 21 , 艦攻 9 , 計 30 機 であった。 識別符号は , 18 年秋ごろは B Ⅲて あったといわれているが【図 9 】 , 19 年春ごろは 323 または 23 ( 23 の 3 は 小文字 ) であった , 19 年 6 月のマリ アナ沖海戦当時は 652 空機を搭載し ていたので 652 。 塗装は , 零戦は全面明灰緑色また は , 上面暗緑色の迷彩塗装 , 97 艦攻 は上面暗緑色の迷彩塗装。 特設航空母艦「春日丸」 日本郵船の客船として着工したも のを航空母艦に改造 , 16 年 8 月 21 日 完成。 9 月 1 日 ~ 同 25 日 : 5 航戦 , 9 月 25 日 ~ 12 月 13 日 : 4 航戦 ( 龍驤 , 春日丸 ) , 12 月 13 日 ~ 12 月 31 日 : 連 合艦隊所属 , 12 月 31 日 ~ 17 年 7 月 1 日 : 呉艦守府所属 , 7 月 1 日以降連 合艦隊所属。この間 , 飛行機輸送 , 訓練などに従事。 16 年 9 月 26 日 ~ 11 月 26 日の間と 17 年 6 月 25 日以降は飛 行機隊を搭載 , 17 年 8 月 1 日 , 正規 空母となり , 8 月 31 日大鷹と命名。 定数は , 当初の計画では零戦 9 ( 補 用 2 ) , 97 艦攻 14 ( 補用 2 ) , 計常用 23 機 ( 補用 4 ) であったが , 開戦陦 は 96 艦戦と 97 艦攻を使用していた。 17 年 7 月 14 日付の定数は , 零戦 11 , 96 艦爆 14 , 計 25 機。識別符号は 16 年 . 9 月 ~ 12 月が D Ⅱ【図 10 】 , 17 年 7 月 ~ 8 月が C Ⅱ【図 11 】。塗装は , 96 艦 . 戦 , 97 艦攻ともに全面銀色。 航空母艦「大鷹」 昭和 17 年 8 月 31 日春日丸改名。輸 送任務などに従事していたが , 18 年 - 12 月 15 日海上護衛総隊に編入 , 9 釭 空の 97 艦攻を搭載して護衛任務に活 躍 , 19 年 8 月 18 日潜水艦の攻撃によ り沈没。 改名当時の定数は零戦 11 , 96 艦爆 14 , 計 25 機といわれているが , 海上 護衛総隊に編入された当時は , 常用 23 機 , 補用 4 機となっていた。そし て , 19 年 4 月 19 日 ~ 8 月 18 日の間 , 97 艦攻 12 機を搭載して船団護衛を行 なっている。 識別符号は , 17 年 7 月 ~ 18 年が C Ⅱ【図 11 】。護衛作戦のため搭載した 931 空の符号は KEBO 塗装は零戦は 全面明灰緑色 , 97 艦攻は上面暗緑色 の迷彩塗装。 96 艦爆も同し。 特設航空母艦「八幡丸」 日本郵船の八幡丸を改造した空母 で , 昭和 17 年 5 月 31 日完成。 7 月 14 。 日 , 飛行機を搭載 , ラバウルへ進出 する 2 空の輸送に協力。 17 年 8 月 3L 日 , 雲鷹と改名。 計画定数は零戦 9 ( 補用 2 ) , 97 艦 . 攻 14 ( 補用 2 ) , 計常用 23 機 ( 補用 4 ) 。 識別符号は c I 【図 12 】。塗装は等 戦は全面明灰緑色 , 97 艦攻は上面暗 - 緑色の迷彩塗装。 瑞鳳 朝 3 年Ⅱ月 ) 暗縁色 【図 7 】 瑞鳳 764 【図 5 】 / 白 0 瑞鳳 【図 6 】 5 明灰白色
航空母艦「瑞鶴」 昭和 16 年 9 月 25 日竣工。翔鶴とと もにハワイ作戦 , ラバウル攻略戦 , インド洋作戦 , サンゴ海海戦 , 第 2 次ソロモン海戦 , 南太平洋海戦 , 3 号作戦 , 第 1 ~ 3 次プーゲンビル沖 航空機 , あ号作戦に参加したほか , 翔鶴が修理中 , い号作戦に参加。 の間 , マリアナ沖海戦で損傷したほ かは損傷がなかったが , 19 年 10 月 25 日 , 比島沖海戦 ( 捷号作戦 ) で沈没。 定数 , 搭載機は翔鶴に同じ。 19 年 10 月 20 日 , 捷号作戦参加のため内地 を出撃した際の搭載機は , 零戦 28 , 戦闘爆撃機 ( 爆装零戦 ) 16 , 天山 14 , 彗星 7 , 計 65 機であった。 識別符号は 16 年 12 月から 17 年 10 月 ごろまでの間は E Ⅱ【図 1 】。文字の 色は赤で , 迷彩機の場合は白。 18 年 11 月 ~ 19 年秋ごろは A Ⅱ【図 2 】で , 文字の色は黒 ( 迷彩機は白 ) 。 19 年 春ごろは 312 または 12 ( 12 の 2 は小 文字 ) 【図 3 】。マリアナ沖海戦以降 は , 個有の飛行機隊をもたず , 601 空などが空母に分乗するという形に なったため , 母艦としての識別符号 はなくなり , 搭載機は 601 空機なら も 01 といったぐあいに , 所属航空隊 の名称を識別符号として使用 , な お , 比島沖海戦当時は 601 空および 653 空が瑞鶴以下 4 空母に分乗して おり , 瑞鶴に搭載された機は方向舵 上部に白で 1 と記入して他の母艦機 と区別していた【図 4 】。塗装は翔鶴 機に同し。 航空母艦「瑞鳳」 高速給油艦高崎を改造した小型空 - 母で , 昭和 15 年 12 月 27 日完成。 16 年 4 月 , 3 航戦に編入 , 開戦後は対空 日本海重マーク集 い 6 年に月 ~ ロ年田月 ) 秋本実 ・対潜警戒 , 飛行機輸送などにあた ミッドウェー作戦 ( 17 年 っており , 6 月 ) の際は攻略部隊に随伴して出 撃した。 17 年 7 月 14 日 , 1 航戦 ( 瑞 鶴 , 翔鶴 , 瑞鳳 ) に編入され , 南太 平洋海戦 , ガダルカナル撤退作戦 , い号作戦 , ろ号作戦などソロモン方 面で活躍。 19 年 12 月 1 日 ~ 20 年 1 月 31 日の間は飛行機を搭載していなか ったが , 19 年 2 月 1 日 , 3 航戦 ( 千 歳 , 千代田 , 瑞鳳 ) に編入され , あ 号作戦 ( マリアナ沖海戦 ) , 捷号作 戦に参加。 19 年 10 月 25 日の比島沖海 戦で沈没。 定数は , 当初の計画では零戦 21 ( 補 用 0 ) , 14 試艦攻 ( のちの天山 ) 6 ( 補用 3 ) , 計常用 27 機 ( 補用 3 ) で あったが , 16 年 4 月には艦戦 16 , 艦 攻 12 , 計 28 機となっており , 同年 12 月には艦戦 12 , 艦攻 12 , 計 24 機に改 められた。その後 , 17 年 7 月 14 日付 で艦戦 21 , 艦攻 6 , 計 27 機となっ た。ろ号作戦 ( 18 年 11 月 ) 当時は艦 戦 18 , 艦攻 8 , 計 26 機で , 19 年 2 月 以降は艦戦 21 , 艦攻 9 , 計 30 機であ る。搭載した機は 96 艦戦 , 零戦 , 97 明灰白色 【図 1 】 艦攻などで , 19 年 10 月 , 捷号作戦参 瑞鶴 加のため出撃したときは零戦 8 , 戦 闘爆撃機 ( 爆装零戦 ) 4 , 天山 5 , 計 17 機を搭載していた。 識別符号は , 16 年 4 月 ~ 17 年 4 月 は C Ⅱ【図 5 】 , 17 年 7 月 ~ 10 月は E Ⅲ ( 文字の色は赤 , 迷彩機は白 ) 【図 6 】。 18 年 11 月ごろは A Ⅲ ( 文字の 色は黒 , 迷彩機は白 ) 【図 7 】 , 19 年 春ごろは 323 または 23 ( 23 の場合 , 3 は小文字 ) 。 19 年 6 月以降は 653 空機 を搭載したので 653 。比島沖海戦当 時は方向舵上端に 2 を記入し , 同し 653 空機でも瑞鳳に搭載されている ことを示した。 航空母艦「祥鳳」潜水母艦剣埼 を改追した小型空母で , 昭和 16 年 12 月 22 日完成。 4 航戦 ( 龍驤 , 祥鳳 ) に編入され , ラバウルへの飛行機輸 送任務などにあたったのち , モレス ビー攻略作戦に参加 , 攻略船団護衛 中 , 17 年 5 月 7 日からはしまったサ ンゴ海海戦の第 1 日目に沈没。完成 当時の定数は零戦 12 , 艦攻 12 , 計 24 機であったが , サンゴ海海戦のとき は零戦 6 , 96 艦戦数機 , 97 艦攻 12 を 搭載していた。 識別符号は D Ⅱで , 文字の色は赤 瑞鶴 ( 絽年Ⅱ月 ) 暗縁色 明灰白色 【図 2 】 / 63
“奇跡の生還”田中飛曹長 田中民穂飛曹長。大正 12 年長崎県 の生まれ。乙種飛行予科練習生出 身。 昭和 19 年 2 月 , 第 261 航空隊に所 属しサイバンのアスリート飛行場に 着任した。この 261 空というのは , 昭和 53 年 7 月から暮れまで , 日本の 空をかけた“里帰り零戦 " のいた部 隊である。あなたの乗っていた零戦 と質問すると彼は , ではないか 「いや , 私のしゃないと思います 零戦に対しては強かったグラマン F 6 F ヘルキャット よ。しかし , どういう塗装で・・・・・・と である ) 7 機が滑走路をけって飛び 寸前にパランユート降下で死地を脱 いわれると私もどうしても思い出せ 出 , かろうして基地へたどりつい あがった。 ない。それにしても , 30 何年目にし やがてこの F 4 F に後方からしの た。 て会えるなんて・・・・・・感無量です」 “奇跡の生還”をした田中飛曹長 び寄った川戸上飛曹は , 機をひき起 と話してくれた。 こそうとしている 1 機めがけて機銃 は , 搭乗機があるうちは戦おうと決 田中が , 零戦に搭乗して活躍した 心してグアムに残る。そのときの戦 をあびせた。 1 撃で落ちていった。 のはマリアナ戦線にそなえてパラオ 闘できる残存機はたったの 1 機。そ 敵のパイロットたちはそのときはし 島へ渡ったときである。 のときサイバンから玉砕の報が届く めて気づいたらしく , 態勢をたて直 あるとき , 天山艦攻 18 機を直援し グアム陥落も時間の問題とみた田 そうとしていた。が , 傷だらけの零 て , 指宿大尉のひきいる 32 機の零戦 中飛曹長は , 愛機にまたがりャップ 戦とはいえその攻撃は敵にそのすき がパラオを飛び立った。田中はこの をめざした。しかし , 天候のかげん を与えず激しいものだった。そのう 日指宿大尉の 2 番機であった。目ざ でメレョン島に着陸。が , 米海軍の ちョーク島にいた味方もかけつけて すはサイバン沖の米機動隊である。 PBY に銃撃をくわえられ , トラの 格闘戦となり , 16 機のうち 5 機を撃 サイバン島から北東約 50 マイルの上 子零戦は地上で炎上してしまった。 墜したのである。 空で , 哨戒中のグラマン F 6 F と遭 “翼をもぎとられた”田中飛曹長は , それから 4 日たった 7 日の夕刻 , 三座の天山艦攻に助けられメレョン ラバウル製の複座零戦に乗って高度 遇した。グラマン F 6 F ヘルキャッ トの数はおよそ 70 機。 を脱出した。 2.08 メートルでテストしていると , 1 機の敵機がやってきた。これも飛 天山艦攻は , 米艦船めがけて突っ 暴れん坊・川戸上飛曹 込んでく。直援の零戦隊はさっそく んで火に入る夏の虫とばかりに , ア 空戦を交しえる。 2 番機田中は 1 機 川戸正二郎上飛曹。大正 14 年京都 ッという間もなく撃墜した。 生まれ。わずか 18 歳で第一線のファ のグラマンに狙いをつけると後上方 それからまたしばらくして , 後席 イター・パイロットになった。恐ろ から突っ込んでいった。照準器いっ に清水二飛曹を乗せ , 複座零戦でグ しいほどの無鉄砲 , 暴れん坊で , 戦 ばいにグラマンの姿が入った。時を リーン島の偵察にむかった。ンロモ 後 , 航空自衛隊のパイロットになっ 移っさず 7.7 ミリ機銃をあびせた。 ン海の中にあるグリーン島に敵が上 てもそのクセが抜けきれず , みずか タマが赤い帯状となってグラマンの 陸しているというので , 偵察・爆撃 ら自衛隊パイロットをやめていっ 行がそのときの任務であった。 胴体に吸い込まれていく。パッと赤 黒い炎があがった。 1 機撃墜だ。 た人である。 しかし , ジャキノット湾上空で敵 機と遭遇し , 交戦したが , 撃墜され の戦闘でぶじ帰還したのは天山艦攻 3 年前 , パイバーコマンチで東京 ~ シアトル間を単独 , 無着陸飛行を ジャキノット湾の海中に没した。そ 2 機 , 零戦 20 機である。 敢行 , 冒険好きのアメリカ人のドギ のときのンヨックで尾翼がおれ , 後 その後 , グアムで編成しなおした モを抜いた。現在 , アメリカの民間 席の清水二飛曹は死亡した。川戸上 201 航空隊に転属。このころになる と , 戦闘のできる零戦は 10 機ていど 飛曹はコクピットから脱出すると , 機の教官をしている。 泳いで岸辺にたどりついた。そのま 昭和 19 年 3 月 2 日 , ところはラバ であった。 ウル。グラマン F 4 F ワイルドキャ まジャングルを歩いていると現地人 グアム島での戦もまた激しか ット 16 機がゆっくりと編隊飛行をし に救助されたが , その後 , オースト た。零戦がすでに老朽化し , グラマ ていた。これを視認した川戸飛曹以 ラリア軍にひきわたされ , 捕虜の身 ン F 6 F ヘルキャットの敵ではなか った。田中飛曹長は , グアム上空の 下“つぎはぎだらけの零戦” ( このう となった。そして , そのままオース 戦いで被弾した。燃料タンクがプチ ちの 1 機が現在 , 上野にある国立科 トラリアで捕虜の身となったまま終 学博物館に保存されている複座零戦 抜かれ , 愛機零戦が炎につつまれる 戦をむかえた。 77
これからは気力の問題だ。 時はあたかも太平洋戦争に突入 , ・初戦の華々しい戦果は , 若い私の血 . 肉を踊らせ , 私の心を戦場へ戦場へ とかりたてていた。 着艦訓練に使われる母艦は「鳳翔」 と決まった。「鳳翔」は日本で一番小 さい母艦で , 長さ 82m , 上空から見 るとまるでマッチ箱のようだ。 んなところへ降りるのか / " 不安な 気持ちであった。しかし日頃の訓練 のおかけだ。第 1 回目の着艦は自分 . ながらうまくいった。 2 回目は少し プレーキを踏むのが遅れ , 間一髪で 梅中へ突入するところだった。 同し失敗を繰り返えさないのが私 の信条だ。第 3 回目には何なくこな せるようになった。 「鳳翔」での厳しい離発着訓練は 20 日間に及んだ。それだけに訓練を終 え本隊の富高航空隊に帰える気分は 最高であった。なぜなら , 戦闘機乗り としての最大の訓練を終え , やっと 一人前の戦闘機乗りになった実感が ひしひしと湧いてきたからである。 南の前線に飛ぶ 私は心地よい昼寝をむさぼってい ここセレベス島の南端マカッサ ルの海軍基地である。夢心地の中で 内地を出てから , 今このマカッサル 基地にいる日までのことを思い出し ていた。 昭和 18 年のはしめ , 私はいまかい まかと第一線への出動命令を待って いた。命令は 10 日ほどして出た。行 き先きはセレベス島 ( 現インドネン アのスラヴェシ島 ) のケンダリーを 基地とする海軍 202 航空隊だ。行く のは 13 人の仲間たちだ。生まれて初 めて外地だ。緊張を隠すことはでき なかった。 しかし着任したのも束の間 , すぐ パリ島へ移動させられてしまった。 パリ島は噂に聞く南海の楽園らしく 美しい島であった。しかしここは豪 州攻撃隊の退避所になっていて , 百 84 戦練磨の猛者どもがワンさといる所 でも有名な所である。あいにく着い た時には本隊は豪州攻撃中で , 基地 内はヒッソリとしていた。 私たち 13 名の転勤者は一式陸攻か ら降ると形式通り一通りの報告を司 令にして解散した。 その時である。待ってとばかり空 襲警報が発せられた。私は突差に迎 え撃っ体勢に入った。本隊は出動中 だ , よって飛び上がる飛行機はな い。だが , 必ずや予備機はあるはず だ。そう睨らんだ私は , もう何も考 えず格納庫めがけて走っていた。 海軍の搭乗員はこういう場合 , 自 分の判断で飛び上がって敵機を迎え 撃つよう教育されていたのだ , 私は 予備機に飛び乗り , 落下傘パンドを しめるやいなやさっと飛び上った。 何しろ着いたばかりだ。西も東もま ったくわからない。急上昇して雲の 上に出 , 海岸線にそって高度 308m で哨戒した。だが敵機はすでに退散 したらしく発見できなかった。 さて司令に報告である。 「お前 , 独断専行か ? 」 「はい , 独断専行であがりました」 私は誇りを持って答えた。 「よろしい , よくやった / 」 司令はたいへんほめられた。 これが外地での第一飛行である。 やがて本隊の零戦攻撃隊が帰えっ てきた。尾部に「 XII 」のマークを誇 らしげに描いた零戦は一機一機また 一機と降りたってきた。豪州兵をし て「まぼろし部隊」と異名をとった 部隊である。 この日 , 私は喜こびが 2 度続いた。 1 つは先ほどの独断専行事件 , 2 つ目は , 私の班長になった人が , か って高等予科練生時代に教えを乞う た中山上飛曹だったことだ。中山上 飛曹は " よく来たな " といって , 私の 肩をポンと叩いた。私は喜しさと , 大変な心強さを感した。 この基地でまずやらされたことは 腕試しである。パイロット泣かせの 夜間飛行がそれだった。 当時 , 夜間飛行をピンツとやって のけるパイロットはそうざらにいな かった。それを , 我ら新米の 13 人は ピンツトやってのけたのだ。私は常 々“夜間飛行など , 着艦飛行にくら ' とそう甲 べれば楽なものよ・・ ていた。うまくできて当り前なのだ。 古参兵のパイロットは“えらい奴 が来た・・・ " と我々を見直した。 その日から 13 名だけが夜間飛行 0 K の許可をもらった。 パリ島での生活は戦争をしばし忘 れさせる楽しい日々であった。だが , それもまた束の間 , 中山上飛曹と私 とは最前線基地のマカッサルへ飛べ というのだ。私は中山上飛曹となら たとえ 2 人っきりでも恐くないと思 った。むしろ 2 人で行けるのを喜ん だほどである。 私が零戦の 32 型 , 中山上飛曹が 22 型を駆って飛び立った。 32 型は強力 な栄 21 型ェンジンを装備した , 昭和 16 年 6 月に完成した機体であり , 22 型は 32 型を改良し , 左右両翼の外方 に 15 宅入り翼内燃料タンクを増設 , 翼幅も 12m にして航続距離を伸ばた 新鋭機であった ( 22 型を改良して 52 型 ( A6M5 ) が出来上るのは昭和 18 年 8 月 のことである ) 。 初陣バンツー枚で迎え撃ち マカッサルは最前基地とは名ばか り , 飛行機は我々が乗ってきた零戦 22 型と 32 型があるだけ , よってパイ ロットは我々 2 人っきり。他に整備 員が 9 人と防空隊員が 10 数人いるだ けのちっぽけな基地であった。 毎日の日課は , 朝食をすませると いつも飛行場で 1 日中待機だ。三度 の食事は整備員が作って運んできて くれるし , まるで将校のような暮ら しであった。よって木蔭での昼寝も 日課の一つになっていた。なにしろ 日中はうだるような暑さだ。パンツ 一枚での昼寝は快適そのものなの だ。こうして今日も昼寝を楽しんで
その後 , 第 34 期操練課程をうけてパ イロットのタマゴとなった。 やがて第 1 線のパイロットとなる と , おりからの日中戦争のまっただ 中 , 中国の第 12 航空隊に配属され た。昭和 13 年 2 月 25 日 , 初陣として 出撃すると , 南昌上空においてまた たく間に 5 機を撃墜して , その“天 才”ぶりを発揮した。 太平洋戦争に入ると , 空母「瑞鶴」 戦闘機隊のパイロットとして , 開戦 へき頭の真珠湾攻撃 , サンゴ海海戦 などを戦った。その後 , 陸上基地へ もどり , 教官パイロットをやった り , 281 空に移ったりしたが , ラバ ウルに進出しての 19 年 2 月まで , 連 日の空戦でスコアをかさねた。 強運の男・杉田少尉 杉田庄一少尉。大正 13 年 , 新潟県 生まれ。連合艦隊司令長官山本五十 六大将の乗機を直援した「六機の護 衛戦闘機」のうちの一人である。 昭和 17 年秋 , ンロモン戦線にくわ わった。 12 月 1 日 , プイン基地から 飛び立った杉田は来襲してきたポー イング B ー 17 フライングフォートレ スに体当たりし , 右翼を切断しなが らも撃墜した。 彼は新潟の雪ふかい山の中で生ま れ育った。雪の中で生活するつらさ にくらべれば , 軍隊の苦労など苦労 に入らない , とつねづねいっていた というが , 気性のはげしいことでは 人一倍だったという。 昭和 18 年の春 , 山本連合艦隊長官 は , 南方で戦っている将兵たちを激 励するため , ンロモン方面の慰問と 視察をかねて各基地をおとずれた。 そして , 4 月 18 日午前 6 時 , 山本 長官の搭乗する一式陸攻は , ラバウ ルを後にした。 6 機の護衛戦闘機の 直援をうけながら・・ 6 人の直援隊のパイロットは , い ずれも百戦練磨の腕のたつ者ばかり であった。この直援隊の中に , 弱冠 19 歳の杉田庄ーは選ばれた。そして 第 1 小隊の 3 番機として出撃した。 午前 7 時 30 分ごろ , プーゲンビル の樹海の上をはうようにして待ち伏 せしていた 16 機のロッキード P 38 ラ イトニングは , ついにキパをむい 数多くのエースを生んた零戦 21 型 た。“双胴の悪魔”といわれる P38 は , 目的はただーっ山本長官の搭乗 する一式陸攻を狙った。 6 機の護衛戦闘機のパイロットも 愛機零戦で激しい空中戦をやった。 第 1 小隊 3 番機の杉田は 1 機撃墜し た。しかし , 山本長官機の護衛の任 務にありながらも任務をまっとうす ることができなかった。黒い煙を吐 きながら樹海の中へ落ちていく一式 陸攻 - ーー。日本海軍の至宝を失った が 6 機の護衛戦闘機はぶじ帰還し た。それから間もなく , " 山本長官 の死 " を知っている杉田をはしめ残 る 5 人は , もっと過酷な戦場へ " 追 われ”ていった。 20 年 , 内地にもどると , 源田大佐 のひきいる紫電改戦闘機隊所属とな り , 菅野直大尉のひきいる戦闘 301 飛行隊に配属される。 4 月 15 日 , 鹿児島県鹿屋基地で 「敵編隊が鹿屋にむかって北上中」 という情報をうけた杉田は , 2 番機 に笠井上飛曹 , 3 番機に宮沢 2 飛曹 , 4 番機に田村飛長をしたがえて離陸 したが , 離陸して高度をとりはしめ たとき , グラマン F 6 F の一撃をく らった。一番機杉田の機体はグラリ とかたむき , そのまま飛行場の端に 突っ込んでいった。 強運を背負っていた男 , 杉田のあ まりにもあっ気ない最後であった。 “空戦哲学”坂井中尉 坂井三郎中尉。大正 5 年 , 佐賀県 佐賀郡西与賀村生まれ。彼が小学校 6 年の秋 , 父親が病死したため東京 の伯父の家に引き取られた。府立 6 中を受験したが不合格となり , 青山 学院の中学部に入学した。 しかし , この中学も退学をよぎな くされ , 失意のままふたたび九州へ 帰っていった。ところが , 村役場で 『海軍少年航空兵募集』のポスター をみた坂井はさっそく受けてみた が , 2 度とも失敗した。そこで佐世 保海兵団へ入団し , 海軍生活をつづ けた。戦艦霧島の乗組員となって約 1 年がすぎた。 大空への夢をすてきれない坂井 は , ひそかに勉強をつづけた。そし て , 昭和 11 年の夏 , ついにあこがれ の操縦練習生を受験した。これに合 格すると , 霞ヶ浦海軍航空隊の一員 となり , ファイター・パイロットへ のキップを入手したのである。 昭和 13 年 , 第 12 航空隊に配属され た坂井は , 中国戦線にくわわり , 漢 ロ攻撃に参加した。まさに初陣であ る。搭乗機は九六艦戦。敵戦闘機イ ー 16 と空戦をやり , 初撃墜。この中 国戦線でかなりのスコアをあげてい る。 太平洋戦争開戦直前に台南航空隊 に配属され , 開戦と同時にフィリピ ンなどで活躍。昭和 17 年の 4 月ラバ ウル , ラエ基地に進出し , 笹井 , 坂 井のコンビでソロモンの空をかけ た。 ラバウルは南太平洋の決戦場であ った。 4 月 11 日 , ラエ基地に勢揃い した第 2 中隊は , 中隊長笹井醇ー中 尉以下 9 機で , ポートモレスビーを 奇襲することになった。オーエンス タンレー山脈をこえ , モレスビーに むかった。 やがて , 左前方 40 度 , 距離 5 千メ ートルのところに 4 機の敵機らしき ものを発見した。それはまさしくお 初にお目にかかる p ー 39 工アラコプ ラであった。 このとき , 2 機のェアラコプラを 同時に撃墜し , ラバウルでの撃墜第 1 号を記録した。残る 2 機を , 西沢 73
ふたたび目を滑走路にもどすと , ・エンジェルスが舞い降りて プルー きた。やがて一列縦隊を組んだ 6 機 . が , タクシーウェイをランプに向か って近づいてくる。鮮やかなネービ ープルーの機体に , レモンイエロー の筆記体で , プルー ・エンジェノレス と描かれている。所定のランプに到 . 達すると , 6 機はいっせいに機首を . 左 90 度に振り , 等間隔で一列横隊に ならぶと , 工ンジンを切った。風防 が開く。これもいっせいにである。 ヘルメットを脱 パイロットたちは , ぐと , カーキー色の略帽をかぶる。 ふたたび , いっせいに両手を前部風 防にかけると , さっと立ち上って機 から降りた。 機体と同系色のプルーのフライト スーツ。右胸にプルー ・エンジェル スのエンプレム , 左胸に黄色で番 号 , 階級 , 氏名 , これをはさんで左肩 からベルト位置にかけて , 黄色のス トライプ 2 本が流れる。 6 人のなか で身長の最も高いパイロットが , 大 設で近よってきた。胸の番号は「 1 」 , 海軍中佐ビル・ニューマンと名が記 してある。フライト・リーダーだ。 中佐は , にこやかに右手をさし出 した。のこる 5 人とも , 中佐の紹介 ・で握手を交わす。あいさつが終ると 全員 , デイプリーフイイングのため 基地事務所へ向かった。 デイプリーフィングは , 30 分ほど で終った。事務所から出てきたパイ ロットそれそれに大型乗用車 1 台ず つが当てがわれる。 3 番機のプレー ス・ディビー少佐 ( 79 年度は 4 番機 担当 ) が声をかけてくれたので , 私 は彼のクライスラーの助手席に潜り 込んだ。父親が潜水艦乗り , 兄が攻 撃機パイロットという , 字文どおり 海軍一家のプレースも , 1969 年にア ナポリ人海軍兵学校を卒業してい る。 「海軍の戦闘機乗りになったからに は , プルー・エンジェルスで超一流 の連中と腕を競いたいというのがチ ームに参加した動機・・・・・・」と , プレ ースは快活に語った。 こうして , しやべりながらもプレ ーマン中佐の ースは , 前を走るニュ 庫に , パンパーも触れ合わんばかり に接近して運転を楽しんでいった。 まったく , 空でも地上でもマン一ン を頂ければ , すぐアクロバットを楽 しむといった連中なのだ。 ニューマン隊長の ことば 1961 年にアナポリス海軍兵学校を 卒業したビル・ ーマン中佐は , ーコ . 当年 40 歳。兵学校時代は水泳の選手 として活躍。卒業後ただちに飛行学 生となり , これまで合計 30 種の機体 を操縦して飛行時間は 4 , 200 時間。 テスト・パイロットの経験もあり , 空母着艦回数 700 回のべテラン。プ ・エンジェルスの隊長となった ノレー のは 1977 年 12 月。 「 3 P, つまり Precision ( 正確 ) , Perfection( 完全 ), Professionalism ( プロ根性 ) の三つの P が , われわ れのモットーです」と一 ーーユ - ーマン [ い 佐は , ザ・プルースの心構える説明 してくれた。では , これら 3 P を追 求するうえで最も重要なファクター はなにかと尋ねると , こでも明快 な即答がはね返ってきた。 「克己心 , つまり己に打ち勝っこと です」というのである。 まず , パイロットとして最も重要 なことは , つねに最適の体調を保持 することだ。それもたんなるからだ の調子というだけでなく , 平静な精 神状態 , 肉体的条件反射 , パイロッ トとしてのカンの冴え , 心身両面に わたる総合的体調の維持ということ である。これをコントロールできる のは自分自身であり , 自分の心がけ ひとつにあるというわけで , 人一倍 つよい克己心が要求されるというの である。次に , チーム内での絶対的 な協調性を追求するためには , 自我 を捨てなければならず , そのために も克己心が必要となる。この場合 , 自我がないのと , 自我を捨てること はちがう。もともと , 最高度の操縦 技術を目ざしてプルー ・エンジェノレ スに志願してくるほどのパイロット には , 自我がきわめ強い一面があ る。自我の念が強く , 個性が強いか らこそ , 最高峰をねらい , これに挑 戦してくるのだ。その強い自我を折 って協調するということと , 無個性 No. 凵 5 / 凵月号 〔主な内容〕 ・太平洋における F4 F / F6 F の戦闘記録 ・キャット・シリーズの構造と設計思想 ・米海軍ト . 戦闘機の装とマーク変遷史 ・ Bu. N 。 . / 使用部隊リスト ・ディテール図解と , 詳細な寸法入り図面 ・アート 40 ページに鮮明な写真を満載 / ☆☆☆ 〔あ知らせ〕 次の各号の増刷ができました。お早 に御注文ください ( 定価各 350 円 ) 。 N019 N020 N024 N030 N037 \ 041 N042 N048 N061 N062 N065 N071 N072 \ 079 N084 N035 N090 N091 N0102 株式会社文林堂 〒田 0 東京都新宿区歌舞伎町 2 ー 3 - 田 電話 ( 208 ) 5222 三幸新ビル 67 世界の作機 を 4 9 B 5 判 72 べージ 定価 400 円 們 5 / 、 1 1 月号 グラマン F4F / ,F6F
工ンジェルスのクルーたち CO 」イ」 / の E 〃ル夜 0- A-7E の操縦桿を握る。 1977 年には ス参加。モンタナ州立大学卒業後 , 襯 , USN 空母キティーホーク (CV-63) 乗艦 , 飛行学生となり 1971 年 9 月に任官。 VA ー 192 に所属した。ケンタッキー 海軍中佐ビル・ ューマン・ 1 番機 空母 " コーラルジー " CV-43, "FD 大学卒 , 飛行時間時 2 , 900 間 , ルイ ・エンジノレスま旨 R" C ー 42 に乗艦。飛行 2 , 80 時間 , 1977 年 12 月プルー スビルの生まれ , 独身 , 31 歳。 揮官に就任。飛行時間 4 , 200 時間 , 着艦 280 回。 VF ー 124 で F ー 14 の操繼 LCDR 窺〃“ D のり , S し 着艦回数 700 回のべテラン搭乗員。 教官をつとめた。モンタナの出身で 海軍少佐プルース・ディビー・ 4 番機 テストパイロットの経験もあり , 英 新婚 , 29 歳。 空軍に出向し 12 機種を操縦した。ア プルー ・エンジェルス参加は 1976 ん T / た EkI, USN 年 10 月 , 77 年度のナレーター。 VF ナポリス海軍兵学校 96 年の卒 , 在学 海軍大尉ジャック・イクル・ 7 番機 中は水泳選手として活躍。 4 人の ー 110 所属時代 , F-4 ファントムⅡで 1978 年 10 月プルー ・エンジェノレス 戦技訓練に参加“トップクルー”の に参加 , ナレーターをつとめる。カ 父。シカゴ生まれ , 39 歳。 CAPT ん・記 S / の側なん , US- 栄誉を獲得。アナポリス海軍兵学校 ルバー・ストックトン大学卒後 1 年 イ C ほど教師をしたのち海軍に入った。 1969 年卒 , 着艦回数 180 回 , 飛行 2 , 500 飛行 3 , 200 時間 , 着艦 400 回 , 空母挌 海兵隊大尉フレッド・スタンコビッ 時間。スキー ロッククライミング 乗員最高の栄誉”ゴールテン・ティ が得意。アイダホの出身 , 独身。 チ・ 2 番機 LCDR / T 〃 , し S 海兵隊を代表して 1978 年 10 月に参 ルック " 受賞。シカゴの生まれ , 家 加。 A-4 の飛行時間だけでも 1 , 600 族と共にペンサコーラ在住 , 32 歳。 海軍少佐ジェリー・タッカー 5 番機 T K の 2 / 〃 0 のし S ル 時間を超える。工ル・トロの VMA 本年度参加の前に 1973 ~ 1974 年に 海軍大尉ケント・ホーン・ 8 番機 もプルー・エンジェルスで飛んだ。 ー 214 “プラックシ ' ープ”で A-4M , 1978 年 10 月プルー アイダホ大学で電子工学を専攻中 , 岩国で TA-4F に乗る。ニューヨー ・エンジェノレス 士官候生訓練に参加 , 卒業と同時に 参加 , イベンツ・コーティネーター ク市大機械工学科中退。ラケットボ 入隊。飛行 2 , 58 時間 , 着艦 340 回。 の任に当る。キャンベル大学卒業後 ールとサッカーが得意。ー女の父。 生粋のニューヨークっ子 , 32 歳。 昨年まで VF ー 124 所属で F ー 14 を操 水兵として海軍に入り , 73 年に飛行 ん T 」石 0 , USN 縦。 F-8J 最後の着艦もやった。ゴ 学生となる。のち“ J ・ F ・ケネデ ルフが好きで , 一児の父親。 海軍大湧マイク・ノード・ 3 番機 ィー” CV ー 67 に乗艦 , A-6 を操縦。 LT 万襯 Ross, USN 飛行 1 , 28 時間 , 着艦 330 回をこなし 1977 年 10 月にプルー ・エンジェノレ 海軍大尉ジム・ロス・ 6 番機 た。ノースカロライナ出身 , 独身 , ス参加 , 78 年はナレーターをつとめ 28 歳。 た。 TF-9 を振り出しに TA-4J, 1978 年 10 月にプルー ・ - 工 . ンジェノレ ( 木村譲ニ ) ・ステッカー・プレゼント BL UE ANGELS ・プルーエンジェルスの特集にあた り、言売者にエンジェルスのステッカ ーを 50 名様にプレゼントします。希 望者は、ハガキにプルーエンジェル ス係とはっきり書いて送って下さい。 メ切は田月 20 日。当選者には直接ス テッカーをお送りして発表にかえさ せていただきます。尚ハガキに、航 空ファン本誌に対する御希望、御意 見がありましたら書きそえて下さい。 67 メカニックによる A- 4 F のエンジン交換作業
空戦の想い出 盟戦の巻 第 2 次大戦 秘話 4 小高登貫 として 4 カ月の練習機を使っての飛 番難かしいとされている母艦への着 戦闘機乗り誕生 行訓練を受けた。 艦訓練が主であった。ゼロ戦を使用 幼い頃より , 大空に憧れ , 飛行機 “短期間でパイロットを養成しろ” しての着艦訓練である。 に魅せられた私は , いつかはきっと 時局がらそういうお達しが上の方か はしめは , 飛行場に母艦を型どり 戦闘機乗りになってみせるそと自分 ら行き届いていた頃である。だから 母艦と同じ大きさの布板を敷いてそ 私たちは短期間養成パイロットの第 にいい聞かせながら少年期を過ごし の中へ降りる訓練をした。連日の訓 た。松本市に 7 人兄妺の 3 男坊とし 1 号である。 練の成果を問われる日がきた。本も て生まれた私は , 小学校を卒業する のの母艦への着艦訓練が開始された 短期間とはいえ , その訓練たるや とすぐ名古屋の陸軍工廠に入った。 のだ。 密度の濃いものであった。戦闘機乗 この難関を突破しないことには一 しかし依然として戦闘機乗りの夢は りになることが , もの心ついた頃か 人前の戦闘機乗りにはなれない。こ 捨て切れず , 反対にその夢はますま らの夢であった私である。戦闘機乗 こで失敗しようものなら , 今まで約 りになるための訓練 , 修業に音をあ す大きくふくらんでいった。 1 年半何のために戦闘機乗りの訓練 時は日華事変へと突入 , 日本は軍 げたことは一度たりともなかった。 に明け暮れてきたのかわからない。 むしろその信念が , 日一日と私の腕 事拡張の一途を辿っていた。時節が を向上させていたようである。 ら , 私の夢を実現するチャンスがめ その甲斐あってか , 最終的には 80 ぐってきた。私はためらわず海軍航 余名いた練習生の中から 12 人の戦闘 空兵を志願し , 横須賀海兵師団に入 団した。昭和 16 年 5 月 , 若冠 18 歳の 機乗りが決まった。私はむちろんそ の中の一人だった。 春であった。 実用機での訓練を終れば , 文字通 2 カ月の新兵訓練を受けたのち , り一人前の戦闘機乗りだ / 私の胸 私は中国大陸の漢口にあった第 12 海 小高登貫 は希望と期待でいつばいであった。 軍航空隊に転勤を命ぜられた。しか 彼の撃墜記録によると , 僚機との共同 撃墜を合わせて 105 機 , それに珍しい潜水 やがて私たちは九州の大村海軍航空 しこの航空隊も , 2 カ月ほどで解散 , 艦の撃沈が 2 隻ある。彼は幾度も危険に 隊の飛行学校に移って第 25 期高等科 やむなく帰国した私は , 霞ヶ浦航空 直面しながらも持ち前の技倆と努力と運 隊に入隊 , ここで航空兵としての基 海軍操縦練習生としてはじめて実戦 で切り抜けてきた幸運児でもある。初戦 礎教育をみっちり勉強した。それが 用の 96 艦戦に乗った。厳しい実戦訓 は零戦を駆ってラバウルを中心とした南 終ると土浦航空隊で 3 カ月の操縦教 練が続いた。そしていよいよわが連 方で , 終戦まぎわは本土で紫電で大暴れ した百戦練摩の名べイロットである。現 合艦隊の基地航空隊である宮崎の富 育を受け , 茨城の百里ヶ原航空隊に 在松本市に在住。 高航空隊に配属された。 移って第 10 期普通科海軍操縦練習生 こでは一 83
米軍沖繩で大規模演習 米海兵隊と第 7 艦隊による合同演習で ある MAFLEX79 ( 79 年度海兵両用戦部隊 上陸演習 ) が、さる 8 月 18 日から 31 日 にかけて、沖繩海域と沖繩本島で行な われた。沖繩は南北に長い島だが、これ を南島と北島にわけ、中間にバトラー 海峡があると想定したこの演習は、日 本を舞台に行なった最大規模のものと フォートレス・ゲイルと呼 ばれる今回の演習に参加し たのは、兵員延べ 4 万人、 艦艇 26 隻、航空機 280 機。 上はホワイトビーチに上陸 した第 3 海兵同師団。右は 艦上から物資吊上げをする C H ー 46 シーナイト・ヘリ コプタ。下は空母キティホ ークの艦上から見た強襲揚 陸艦トリポリ ( 右側の艦 ) 。 ( Photo by. USMC. ) OPERATION FORTRESS GALE: From August 18 to 31 , USMC and Seventh Fleet jointly participated in the landing excercise ()kinawa. (Top) The members of 3rd Btn. 4th Marines ot Okina wa's White Beach mop-up and guard 、、 POWs" during the excercise. (Center) A Navy CH-46 Sea Knight hauls supp- for from the deck of USS Wabash. (Bottom Sventh Fleet ships steam toward Okinawa during the Operation.
ると , そのままダイアモンド編隊を 組んで右に大きく上昇旋回していっ た。続いてンロの 2 機が , それそれ クリーン・ロールとダーティ・ロー ルの離陸を展開した。 それから文字どおり , 息をつく間 もなく , 次々に妙技が展開され , そ のつど観客は手に汗を握り , 歓声を あげ , 悔しみなく拍手を送った。 演技飛行は 3 部から構成されてい る。まず , 4 機によるダイアモンド 編隊の演技 , 次に対向する 2 機のン 口による演技 , そして , 6 機による デルタ編隊単位の演技である。それ それの演技パターンは , 別項に解し の 7 0 の T. K. 0 お ダイアモンド編隊離陸 滑走路の一端でプルー ・工ンジ - ェ ルス 1 番機は , 2 , 3 番機を右左両 に , 4 番機を 2 号機の右翼に配した フィンガーティップ編隊の編成を呼 びかける。続いて 2 番機からの命令 で , いっせいにエンジンを吹かして , 念入りに計器を点検する。それが終 ると 1 番機から「オフ・ザ・プレー クス」の声がかかり , 編隊はティク オフ・ロールを開始する。時速が 150 マイルに達したところで工アポ ーン , と同時に 4 番機は 1 番機の直 後にあたるスロットの位置につく。 こうして編隊が 4 , 000tf に達したと ころでパンクして , フライトライン の背後に出る。 0 たとおりであり , まったく神技とし か思えない美事さである。 また , 最後の締めくくりが心憎い。 「海軍独自の着陸態勢にご注目くだ さい / 」というナレーションに導か れて , 6 機のテルタ編隊がアレステ イングフックを下ろして , 若干ノー ズアップ気味の姿勢で , 滑走路上わ ずか数メートルを , しずしずと右か ら左へ飛び抜けていったのである。 空母への着艦は「コントロールさ れた墜落」といわれるように , タッ チダウンの瞬間まで , 機体のコント ロールを掌握しなければならない。 その海軍の飛行機乗りの着艦技術を 最後にご披露しようというわふだ。 「訓練 , チームワーク , 統合カ , 機 敏性 , 最高の体調 , そして , さらに 一層の訓練・・・・・・」が , プルー・エ ジェルスの華麗な飛行演技の秘訣と いう。彼らは天才的パイロットであ る前に , まず , 努力を続けるパイロ ットなのである。 そして , なによりもまず , 彼らは すはらしいパイロットである前に , すはらしい男たちであった。 この秋にもまた , 彼らと広い北米 大陸のどこかで , ふたたび出会うこ とを , 私は楽しみにしている。 テモンストレーション・バターン ん五 T C ん 0 ル 0 ん 左魚鱗編隊横転 1 番機を右先頭にして , 左魚鱗編 隊を組む。このとき先導機から 45 度 の線上に各機は , 本の上では不可能 とされている運動をこなして , 位置 につく。そのまま編隊は , 左に 360 度の横転をして , 終ったところでい ったん直線状にならび , ついでダイ アモンド編隊に復する。 の一 0 、 D 0 んん ダイアモンド横転 機速 400mph で右から接近 , 上昇 を開始して , 隊長の合図とともに 4 機が一体となって 360 度横転。終っ たところでフライト・ライン左方へ 飛び抜ける。 ファーベノレ ウイングティップ・トウ・キヤノ ピーといった , 1 番機が背面飛行姿 勢のままのダイアモンド編隊で左方 から接近した , フライト・ラインを 通過する。 C G 0 刃 0 んん チェンジオーノヾー・ロール 左方から , 右鱗編隊で接近 , 中央 で高度をとりながら 360 度横転を開 始。 270 度横転したところでダイア モンド編隊に復し , 右方向へ飛び抜 ける。 の一 0 D 360- D G PASS アクロの中でもバックツーバックは特に困難な演技だ。 をン 63