零戦 - みる会図書館


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1. 航空ファン 1979年11月号

“奇跡の生還”田中飛曹長 田中民穂飛曹長。大正 12 年長崎県 の生まれ。乙種飛行予科練習生出 身。 昭和 19 年 2 月 , 第 261 航空隊に所 属しサイバンのアスリート飛行場に 着任した。この 261 空というのは , 昭和 53 年 7 月から暮れまで , 日本の 空をかけた“里帰り零戦 " のいた部 隊である。あなたの乗っていた零戦 と質問すると彼は , ではないか 「いや , 私のしゃないと思います 零戦に対しては強かったグラマン F 6 F ヘルキャット よ。しかし , どういう塗装で・・・・・・と である ) 7 機が滑走路をけって飛び 寸前にパランユート降下で死地を脱 いわれると私もどうしても思い出せ 出 , かろうして基地へたどりつい あがった。 ない。それにしても , 30 何年目にし やがてこの F 4 F に後方からしの た。 て会えるなんて・・・・・・感無量です」 “奇跡の生還”をした田中飛曹長 び寄った川戸上飛曹は , 機をひき起 と話してくれた。 こそうとしている 1 機めがけて機銃 は , 搭乗機があるうちは戦おうと決 田中が , 零戦に搭乗して活躍した 心してグアムに残る。そのときの戦 をあびせた。 1 撃で落ちていった。 のはマリアナ戦線にそなえてパラオ 闘できる残存機はたったの 1 機。そ 敵のパイロットたちはそのときはし 島へ渡ったときである。 のときサイバンから玉砕の報が届く めて気づいたらしく , 態勢をたて直 あるとき , 天山艦攻 18 機を直援し グアム陥落も時間の問題とみた田 そうとしていた。が , 傷だらけの零 て , 指宿大尉のひきいる 32 機の零戦 中飛曹長は , 愛機にまたがりャップ 戦とはいえその攻撃は敵にそのすき がパラオを飛び立った。田中はこの をめざした。しかし , 天候のかげん を与えず激しいものだった。そのう 日指宿大尉の 2 番機であった。目ざ でメレョン島に着陸。が , 米海軍の ちョーク島にいた味方もかけつけて すはサイバン沖の米機動隊である。 PBY に銃撃をくわえられ , トラの 格闘戦となり , 16 機のうち 5 機を撃 サイバン島から北東約 50 マイルの上 子零戦は地上で炎上してしまった。 墜したのである。 空で , 哨戒中のグラマン F 6 F と遭 “翼をもぎとられた”田中飛曹長は , それから 4 日たった 7 日の夕刻 , 三座の天山艦攻に助けられメレョン ラバウル製の複座零戦に乗って高度 遇した。グラマン F 6 F ヘルキャッ トの数はおよそ 70 機。 を脱出した。 2.08 メートルでテストしていると , 1 機の敵機がやってきた。これも飛 天山艦攻は , 米艦船めがけて突っ 暴れん坊・川戸上飛曹 込んでく。直援の零戦隊はさっそく んで火に入る夏の虫とばかりに , ア 空戦を交しえる。 2 番機田中は 1 機 川戸正二郎上飛曹。大正 14 年京都 ッという間もなく撃墜した。 生まれ。わずか 18 歳で第一線のファ のグラマンに狙いをつけると後上方 それからまたしばらくして , 後席 イター・パイロットになった。恐ろ から突っ込んでいった。照準器いっ に清水二飛曹を乗せ , 複座零戦でグ しいほどの無鉄砲 , 暴れん坊で , 戦 ばいにグラマンの姿が入った。時を リーン島の偵察にむかった。ンロモ 後 , 航空自衛隊のパイロットになっ 移っさず 7.7 ミリ機銃をあびせた。 ン海の中にあるグリーン島に敵が上 てもそのクセが抜けきれず , みずか タマが赤い帯状となってグラマンの 陸しているというので , 偵察・爆撃 ら自衛隊パイロットをやめていっ 行がそのときの任務であった。 胴体に吸い込まれていく。パッと赤 黒い炎があがった。 1 機撃墜だ。 た人である。 しかし , ジャキノット湾上空で敵 機と遭遇し , 交戦したが , 撃墜され の戦闘でぶじ帰還したのは天山艦攻 3 年前 , パイバーコマンチで東京 ~ シアトル間を単独 , 無着陸飛行を ジャキノット湾の海中に没した。そ 2 機 , 零戦 20 機である。 敢行 , 冒険好きのアメリカ人のドギ のときのンヨックで尾翼がおれ , 後 その後 , グアムで編成しなおした モを抜いた。現在 , アメリカの民間 席の清水二飛曹は死亡した。川戸上 201 航空隊に転属。このころになる と , 戦闘のできる零戦は 10 機ていど 飛曹はコクピットから脱出すると , 機の教官をしている。 泳いで岸辺にたどりついた。そのま 昭和 19 年 3 月 2 日 , ところはラバ であった。 ウル。グラマン F 4 F ワイルドキャ まジャングルを歩いていると現地人 グアム島での戦もまた激しか ット 16 機がゆっくりと編隊飛行をし に救助されたが , その後 , オースト た。零戦がすでに老朽化し , グラマ ていた。これを視認した川戸飛曹以 ラリア軍にひきわたされ , 捕虜の身 ン F 6 F ヘルキャットの敵ではなか った。田中飛曹長は , グアム上空の 下“つぎはぎだらけの零戦” ( このう となった。そして , そのままオース 戦いで被弾した。燃料タンクがプチ ちの 1 機が現在 , 上野にある国立科 トラリアで捕虜の身となったまま終 学博物館に保存されている複座零戦 抜かれ , 愛機零戦が炎につつまれる 戦をむかえた。 77

2. 航空ファン 1979年11月号

航空母艦「瑞鶴」 昭和 16 年 9 月 25 日竣工。翔鶴とと もにハワイ作戦 , ラバウル攻略戦 , インド洋作戦 , サンゴ海海戦 , 第 2 次ソロモン海戦 , 南太平洋海戦 , 3 号作戦 , 第 1 ~ 3 次プーゲンビル沖 航空機 , あ号作戦に参加したほか , 翔鶴が修理中 , い号作戦に参加。 の間 , マリアナ沖海戦で損傷したほ かは損傷がなかったが , 19 年 10 月 25 日 , 比島沖海戦 ( 捷号作戦 ) で沈没。 定数 , 搭載機は翔鶴に同じ。 19 年 10 月 20 日 , 捷号作戦参加のため内地 を出撃した際の搭載機は , 零戦 28 , 戦闘爆撃機 ( 爆装零戦 ) 16 , 天山 14 , 彗星 7 , 計 65 機であった。 識別符号は 16 年 12 月から 17 年 10 月 ごろまでの間は E Ⅱ【図 1 】。文字の 色は赤で , 迷彩機の場合は白。 18 年 11 月 ~ 19 年秋ごろは A Ⅱ【図 2 】で , 文字の色は黒 ( 迷彩機は白 ) 。 19 年 春ごろは 312 または 12 ( 12 の 2 は小 文字 ) 【図 3 】。マリアナ沖海戦以降 は , 個有の飛行機隊をもたず , 601 空などが空母に分乗するという形に なったため , 母艦としての識別符号 はなくなり , 搭載機は 601 空機なら も 01 といったぐあいに , 所属航空隊 の名称を識別符号として使用 , な お , 比島沖海戦当時は 601 空および 653 空が瑞鶴以下 4 空母に分乗して おり , 瑞鶴に搭載された機は方向舵 上部に白で 1 と記入して他の母艦機 と区別していた【図 4 】。塗装は翔鶴 機に同し。 航空母艦「瑞鳳」 高速給油艦高崎を改造した小型空 - 母で , 昭和 15 年 12 月 27 日完成。 16 年 4 月 , 3 航戦に編入 , 開戦後は対空 日本海重マーク集 い 6 年に月 ~ ロ年田月 ) 秋本実 ・対潜警戒 , 飛行機輸送などにあた ミッドウェー作戦 ( 17 年 っており , 6 月 ) の際は攻略部隊に随伴して出 撃した。 17 年 7 月 14 日 , 1 航戦 ( 瑞 鶴 , 翔鶴 , 瑞鳳 ) に編入され , 南太 平洋海戦 , ガダルカナル撤退作戦 , い号作戦 , ろ号作戦などソロモン方 面で活躍。 19 年 12 月 1 日 ~ 20 年 1 月 31 日の間は飛行機を搭載していなか ったが , 19 年 2 月 1 日 , 3 航戦 ( 千 歳 , 千代田 , 瑞鳳 ) に編入され , あ 号作戦 ( マリアナ沖海戦 ) , 捷号作 戦に参加。 19 年 10 月 25 日の比島沖海 戦で沈没。 定数は , 当初の計画では零戦 21 ( 補 用 0 ) , 14 試艦攻 ( のちの天山 ) 6 ( 補用 3 ) , 計常用 27 機 ( 補用 3 ) で あったが , 16 年 4 月には艦戦 16 , 艦 攻 12 , 計 28 機となっており , 同年 12 月には艦戦 12 , 艦攻 12 , 計 24 機に改 められた。その後 , 17 年 7 月 14 日付 で艦戦 21 , 艦攻 6 , 計 27 機となっ た。ろ号作戦 ( 18 年 11 月 ) 当時は艦 戦 18 , 艦攻 8 , 計 26 機で , 19 年 2 月 以降は艦戦 21 , 艦攻 9 , 計 30 機であ る。搭載した機は 96 艦戦 , 零戦 , 97 明灰白色 【図 1 】 艦攻などで , 19 年 10 月 , 捷号作戦参 瑞鶴 加のため出撃したときは零戦 8 , 戦 闘爆撃機 ( 爆装零戦 ) 4 , 天山 5 , 計 17 機を搭載していた。 識別符号は , 16 年 4 月 ~ 17 年 4 月 は C Ⅱ【図 5 】 , 17 年 7 月 ~ 10 月は E Ⅲ ( 文字の色は赤 , 迷彩機は白 ) 【図 6 】。 18 年 11 月ごろは A Ⅲ ( 文字の 色は黒 , 迷彩機は白 ) 【図 7 】 , 19 年 春ごろは 323 または 23 ( 23 の場合 , 3 は小文字 ) 。 19 年 6 月以降は 653 空機 を搭載したので 653 。比島沖海戦当 時は方向舵上端に 2 を記入し , 同し 653 空機でも瑞鳳に搭載されている ことを示した。 航空母艦「祥鳳」潜水母艦剣埼 を改追した小型空母で , 昭和 16 年 12 月 22 日完成。 4 航戦 ( 龍驤 , 祥鳳 ) に編入され , ラバウルへの飛行機輸 送任務などにあたったのち , モレス ビー攻略作戦に参加 , 攻略船団護衛 中 , 17 年 5 月 7 日からはしまったサ ンゴ海海戦の第 1 日目に沈没。完成 当時の定数は零戦 12 , 艦攻 12 , 計 24 機であったが , サンゴ海海戦のとき は零戦 6 , 96 艦戦数機 , 97 艦攻 12 を 搭載していた。 識別符号は D Ⅱで , 文字の色は赤 瑞鶴 ( 絽年Ⅱ月 ) 暗縁色 明灰白色 【図 2 】 / 63

3. 航空ファン 1979年11月号

( 迷彩機は白 ) 【図 8 】。後部胴体に は 4 航戦 2 番艦を示す 2 本の黄帯を 記入。塗装は零戦は全面明灰緑色 , 96 艦戦は全面銀色 , 97 艦攻は上面暗 緑色 , 下面明灰白色。 航空母艦「龍鳳」 潜水母艦大鯨を改造した小型空母 で , 昭和 17 年 11 月 30 日完成。当初は 飛行機を搭載せす飛行機輸送 , 訓練 に使用されていたが , 18 年 6 月 12 日 , 2 航戦 ( 隼鷹 , 飛鷹 , 龍鳳 ) に 編入された。そして飛行隊は再三ソ ロモン方面へ派遣されて活躍した。 マリアナ沖海戦へ参加したのち , 19 年 7 月 10 日 , 1 航戦 ( 瑞鶴 , 龍は , 601 空 ) 編入 , 8 月 10 日 , 4 航戦 ( 伊 勢 , 日向 , 隼鷹 , 龍鳳 , 634 空 ) 編 入 , 11 月 15 日 , 1 航戦 ( 天城 , 葛城 , 隼鷹 , 龍鳳 , 601 空 ) 編入と所在が変 ったが , 戦闘へは参加せず , 19 年 11 月下旬 , 台湾への輸送任務に服した のち , 20 年 4 月 , 予備艦となった。 6 月以降は特殊警備艦として陸岸に 撃留されたまま航空砲台となり , 終 戦を迎えた。 定数は , 当初の計画では零戦 21 ( 補 用 0 ) , 14 試艦攻 9 ( 補用 2 ) , 計常 瑞鶴 ( 円年春 ) 暗縁色 ( ロ年 7 月 ~ ロ年末 ) い 6 年 4 月 ~ ロ年 4 月 ) 明灰白色 【図 3 】 0 0 瑞鶴 ( 円年月 ) 暗縁色 6 ( 4 ゑ 【図 4 】 明灰白色 用 21 機 ( 補用 2 ) であったが , 18 年 7 月 , 飛行機隊をプインへ進出させ た当時は , 艦戦 21 , 艦攻 9 , 計 30 機 であった。 識別符号は , 18 年秋ごろは B Ⅲて あったといわれているが【図 9 】 , 19 年春ごろは 323 または 23 ( 23 の 3 は 小文字 ) であった , 19 年 6 月のマリ アナ沖海戦当時は 652 空機を搭載し ていたので 652 。 塗装は , 零戦は全面明灰緑色また は , 上面暗緑色の迷彩塗装 , 97 艦攻 は上面暗緑色の迷彩塗装。 特設航空母艦「春日丸」 日本郵船の客船として着工したも のを航空母艦に改造 , 16 年 8 月 21 日 完成。 9 月 1 日 ~ 同 25 日 : 5 航戦 , 9 月 25 日 ~ 12 月 13 日 : 4 航戦 ( 龍驤 , 春日丸 ) , 12 月 13 日 ~ 12 月 31 日 : 連 合艦隊所属 , 12 月 31 日 ~ 17 年 7 月 1 日 : 呉艦守府所属 , 7 月 1 日以降連 合艦隊所属。この間 , 飛行機輸送 , 訓練などに従事。 16 年 9 月 26 日 ~ 11 月 26 日の間と 17 年 6 月 25 日以降は飛 行機隊を搭載 , 17 年 8 月 1 日 , 正規 空母となり , 8 月 31 日大鷹と命名。 定数は , 当初の計画では零戦 9 ( 補 用 2 ) , 97 艦攻 14 ( 補用 2 ) , 計常用 23 機 ( 補用 4 ) であったが , 開戦陦 は 96 艦戦と 97 艦攻を使用していた。 17 年 7 月 14 日付の定数は , 零戦 11 , 96 艦爆 14 , 計 25 機。識別符号は 16 年 . 9 月 ~ 12 月が D Ⅱ【図 10 】 , 17 年 7 月 ~ 8 月が C Ⅱ【図 11 】。塗装は , 96 艦 . 戦 , 97 艦攻ともに全面銀色。 航空母艦「大鷹」 昭和 17 年 8 月 31 日春日丸改名。輸 送任務などに従事していたが , 18 年 - 12 月 15 日海上護衛総隊に編入 , 9 釭 空の 97 艦攻を搭載して護衛任務に活 躍 , 19 年 8 月 18 日潜水艦の攻撃によ り沈没。 改名当時の定数は零戦 11 , 96 艦爆 14 , 計 25 機といわれているが , 海上 護衛総隊に編入された当時は , 常用 23 機 , 補用 4 機となっていた。そし て , 19 年 4 月 19 日 ~ 8 月 18 日の間 , 97 艦攻 12 機を搭載して船団護衛を行 なっている。 識別符号は , 17 年 7 月 ~ 18 年が C Ⅱ【図 11 】。護衛作戦のため搭載した 931 空の符号は KEBO 塗装は零戦は 全面明灰緑色 , 97 艦攻は上面暗緑色 の迷彩塗装。 96 艦爆も同し。 特設航空母艦「八幡丸」 日本郵船の八幡丸を改造した空母 で , 昭和 17 年 5 月 31 日完成。 7 月 14 。 日 , 飛行機を搭載 , ラバウルへ進出 する 2 空の輸送に協力。 17 年 8 月 3L 日 , 雲鷹と改名。 計画定数は零戦 9 ( 補用 2 ) , 97 艦 . 攻 14 ( 補用 2 ) , 計常用 23 機 ( 補用 4 ) 。 識別符号は c I 【図 12 】。塗装は等 戦は全面明灰緑色 , 97 艦攻は上面暗 - 緑色の迷彩塗装。 瑞鳳 朝 3 年Ⅱ月 ) 暗縁色 【図 7 】 瑞鳳 764 【図 5 】 / 白 0 瑞鳳 【図 6 】 5 明灰白色

4. 航空ファン 1979年11月号

零戦 52 型 % 篠原英明 日 A こイ R ィ SREEN TA に L33HT 、リ第を試 R 豊 : 、こ 14E し 最近 , 斎藤製作所から 4 サイクル て , 5 ~ 6 機作るように計画しまし はじめに 工ンジンが発売されておりますが , た。 このエンジンを使用するのも面白い 零戦のようなスケール機は , 市販 昨年 , 33 年ぶりに故郷に帰った世 と思います。 されているキットの場合でも製作は 界に誇る名戦闘機零戦 52 型機が , 母 翼長は , 1 , 28 ミリで , 主翼の製 むづかしいものですが , 自作で 1 機 国の空に懐かしい雄姿を見せてくれ 作は , 市販材料の 600 こリの長さの だけ作る場合は , 大変に苦労が多い ましたが , その当時のことですが , もので , 無駄なく作ることができま ある大手の映画会社から , この零戦 ものです。 す。 今回 , 本誌に発表する機体は , 35 を使用して神風特攻隊の映画を製作 翼弦長は , 主翼中央部で 293 ミリ , クラスのエンジンを使用するもの しようと計画しているので , 戦闘場 で , 翼長は 1 , 200 ミリ大のもので , 翼端で 145 ミリ , 最大翼厚は 37 ミリ , 面等にラジコン・スケール機を使用 9 分の 1 縮尺完全スケール機です 翼型は NACA2412 として , 中央部 したいので協力してもらいたいと , が , この機体は市販されている材料 以外のリプは全て 2 こリ厚のパルサ 私に依頼があり , 会社のプロデュー 板を使用し , 主翼全面プランクの板 で完成させることができます。 サー氏と何回も相談打ち合せをしま 本誌編集部の人達にも相談して , 材は 1.5 こリ厚のパルサ板でプラン した。 クします。 この計画は , 零戦機の使用問題な 何とか読者の皆さんに作りやすいよ 主翼を胴体に取付ける方法は , ネ どの条件が合わなくなり , 残念なが うに発表するように努力してもらう ジロック , またはカムロックのどち ら , 実行することができなくなりま ことにして , 本月号と , 次月号の回 にわけて製作方法を御知らせします らでもよく , ロックがめだたないよ したが , 私は , 空戦はもとより , カ うに注意すればよいのです。 から , のんびり時間をかけて作って メラ・アイを通して実機にできるだ 胴体は , 丸胴でコックヒ。ット部に ください。 け見られる , 優秀な零戦 52 型スケー 読者の皆さんから , 原寸青写真図 は , ラジコンのサーボとか受信機 , ル機を作ろうと考え , 設計に入りま 面の御希望があれば , 本誌編集部へ パッテリーは見えないように , 工ン ジンルーム内などに搭載して , 重心 送料共 68 円送ってもらうと , 図面 使用するエンジンで , 60 クラスの の安定を考えました。 はお手元に届くことになっておりま ものは , コックビット内までスケー 工ンジンカウリングは一番面倒な す。 ル化して , 操縦桿とパイロット人形 作業ですが , 先ずパルサプロックを の手と連動させたり , 零戦独特の引 本機の特徴 削り原型を作ってから石膏で型取り 込脚の動きとかフラップの作動がで スケール機として基本となる零戦 をしてグラスファイバーで作りま きるもので , 搭載機銃からの発射閃 は , 三菱艦上戦闘機の 52 型と 52 型 Z す。 光の見られるもの 1 機を作るように で , 三菱 A6M5 と , A6M5C で 9 分 胴体は , 2.5 こリまたは 3 ミリべ 計画しました。 ニヤ板から各胴枠を作り , 縦通骨材 の 1 スケール機ですが , ラジコン機 使用するエンジンが , 35 クラスの として少し寸法を変更して設計して に 3 x 5 桧棒を使用して骨組みして ものは , 増槽を持って手投げ発進さ から , 2 ミリバルサを張って作りま あります。 せ , 脚は引き込ませたままで飛行さ 工ンジンは 35 クラスですが , 25 ク す。 せて , 空戦とか , 空戦中の炎上と ラスエンジンでも大丈夫です。 垂直尾翼と水平尾翼は , 主翼と同 か , 空母に体当りさせるものとし 752

5. 航空ファン 1979年11月号

局地戦闘機雷電は、三菱が零 戦に続いて製作した海軍戦闘 機であった。零戦は艦上戦闘 機、雷電は防空を任務とする 局地戦闘機ということで、当 然ながら両機のあいだには計 十上などにかなりの違いがあ った。海軍から試作内示が出 されたのは昭和 14 年 9 月で、 原型である試作 14 試局地戦闘 機は 17 年春に完成、同年 3 月 20 日に、零戦の初飛行を行な った志摩操縦士の手により、 霞ヶ浦海車飛行場で初飛行し た。 1 1 型、 21 型、 31 型、 32 型、 33 型の各型が生産されたが、 33 型は生産機が完成する前に 終戦となった このページと右ページは 21 型こ 21 型は雷電を代表する存在で、 280 機生産され大戦末期の防 空戦に活躍した。しかし、視 界が悪く、航続力もなかった ので実戦部隊の評判は良くな かった MITSUBISHI J2M3 RAIDEN : F0110wing the production of Zero-Sen, Mitsubishi ト u ⅱ t utterly different land ・ based interceptor called 、 Ra iden (ThunderboIt ) , or known popu- larly by the AIlies as 、、 JacV' lnstead Of concentrating on maneuvrability Raiden was de- signed solely for speed an d fast climb to achieve its bomber destroyer mission. protot ype flown for the first time on 20 March 1942 by test pilot Shima, who also flew a first Zero-Sen. Having rather poor visibility and limited range her re- putation wa S unfavorable. ニ = ロ

6. 航空ファン 1979年11月号

4 零戦の強敵となったロッキード p ー 38 ライトニング た。最初は味方機と思っていたが , 近づいてみると 3 機 , 3 機 , 2 機の 縦陣で飛行す B ー 17 であった。 新郷隊長以下 8 機の零戦隊は左右 に 5 機 , 4 機と別れた。このときの戦 闘で田中は 2 機を撃墜した。こうし て蘭印作戦をおえた台南航空隊は , 編成もあらたにしてソロモン諸島へ 転戦することになるが , 田中は内地 帰還組となり , 大分空へ転属を命じ られた。やがて霞ヶ浦航空隊で終戦 をむかえた。 寡黙の人・本田少尉 本田稔少尉。大正 13 年熊本県生ま れ。昭和 17 年 1 月 , 飛行練習生の課 程をおえ第 22 独立航空戦隊に配属と なった。零戦にはじめて乗った日に 空中戦をやったが , 敵味方 1 機の戦 果もなく終わった。 本田の初撃墜はプリュースターパ ッファローである。 17 年 9 月ラバウ ルに進出し , ーギニア , ソロモ ンの航空戦で活躍した。 ある日 , ソロモンの上空で 18 機の グラマン F 4 F ワイルドキャットに 遭遇した。そこで交戦となり , やっ と 1 機をつかまえたと思ったらみず からも被弾し , プカ島に不時着し た。そこで水雷戦隊の人びとに補修 をしてもらって部隊に帰ってみる と , いつの間にか " 2 階級特進の軍 神”になっていた。 しかし , 軍神にならすに戦後も三 菱のテストパイロットとして活躍 し , 『カモメのジョナサン』の作家 リチャード・パックが日本を訪れた さい , MU ー 2 に鞳乗したが , そのと 76 17 年 10 月 21 日 , 激しい空中戦のさな 青年も神に見放されるときがきた。 多くの人びとから親われたこの好 井三郎著光人社刊 ) 。 だったという」 ( 大空のサムライ坂 迎するであろう』というような文面 れわれはこそってその英雄たちを歓 のマフラーをつけてこられたい。わ いった。今度やってくるときは緑色 り飛行士は , 大いにわれわれの気に た。その英文には「『先日の宙がえ 多くの人に知れ渡たることになっ 日になってから一通の英文によって いったという。この編隊宙返りは後 「はい , いつ死んでもいいです」と 返りの感想を聞かれたとき , 太田は た。地上に帰ってきて坂井に編隊宙 その編隊宙返りはみごとであっ た。 レスビーの敵基地上空で 3 回やっ 隊宙返りは敵のドギモをぬいた。モ 坂井 , 西沢 , 太田の三人による編 ット坂井 , 西沢がいた。 躍した。この中隊にはスターパイロ 彼は中隊長笹井中尉の列機として活 昭和 17 年 4 月 , ラバウルに進出。 であった。実戦には強かった。 青年で , いつも笑顔をたやさない男 科したパイロットである。色白の好 保海兵団に入り , 水兵から航空に転 西彼杵郡瀬川村生まれ。最初は佐世 太田敏夫飛曹長。大正 8 年長崎県 好漢・大田飛曹長 る。 一途なところがある。寡黙な人であ 稔であった。肥後もっこすの頑固で きのパイロットをつとめたのが本田 か , 大空の彼方へと消えていった。 度胸・羽田中尉 羽切松雄中尉。大正 2 年静岡県生 まれ。機関兵から航空に転科した。 昭和 15 年 8 月 19 日 , 第 1 回重慶爆 撃が敢行され , 零戦 12 機 , 九六陸攻 32 機が参加した。しかし , 1 機の敵 市街に全弾を命中させ , 大戦果をあ げた。 10 月 4 日朝 8 時 30 分 , 漢ロ基地を 発進した。目的は成都の空襲であ る。第 2 小隊の羽切は高度 4 , 000 メ ートルで飛行していた。そのとき左 前方に黒点のようなものが見えた。 よくみるとイー 16 である。羽切は全 速で敵機にむかった。距離 28 メー トルで照準器いつばいに敵機があっ た。発射ボタンを押す。 20 ミリ機銃 がイー 16 の機体に吸い込まれてゆく。 やがて敵機はパラバラに飛散して落 ちていった。 1 機撃墜である。 その足で大平寺飛行場に急降下し ていった。地上に駐機中の大型を狙 . いうちした。真っ赤な炎につつまれ て飛行場は燃えあがる。しかし , ま だ手つかずの飛行機が翼をつらねて いた。羽松は度胸をきめると , 敵前 強行着陸をおこなった。 羽切の後を追って , 東山 , 大石 , 中瀬の各搭乗員も着陸してきた。手 にはそれそれ拳銃を握っており , 完 全な形の敵機めがけて走った。そこ でポロきれとマッチを取りだし , 指 揮所に火を放った。 離陸して帰路を急いでいると , 高 度 3 , 000 メートル付近で敵 3 機編隊 に遭遇。ここで 2 機を撃墜 , 敵機は カーチスホークであった。 16 年 8 月下旬 , 健康上の理由で内 地へ帰還した。 そして , 太平洋戦争がぼっ発する と , ラバウル方面へ進出。べララベ ラ上空の空中機では第 4 中隊長とし て出撃 , 2 機撃墜した。また , 9 月 23 日プイン上空の戦闘で 2 機撃墜 し , 3 機目を狙おうとしたとき , み ずからも被弾し , 右肩に命中弾 1 発 をくらって意識不明のままプイン基 地へ生還したものの , 内地へ送還さ れた。

7. 航空ファン 1979年11月号

これからは気力の問題だ。 時はあたかも太平洋戦争に突入 , ・初戦の華々しい戦果は , 若い私の血 . 肉を踊らせ , 私の心を戦場へ戦場へ とかりたてていた。 着艦訓練に使われる母艦は「鳳翔」 と決まった。「鳳翔」は日本で一番小 さい母艦で , 長さ 82m , 上空から見 るとまるでマッチ箱のようだ。 んなところへ降りるのか / " 不安な 気持ちであった。しかし日頃の訓練 のおかけだ。第 1 回目の着艦は自分 . ながらうまくいった。 2 回目は少し プレーキを踏むのが遅れ , 間一髪で 梅中へ突入するところだった。 同し失敗を繰り返えさないのが私 の信条だ。第 3 回目には何なくこな せるようになった。 「鳳翔」での厳しい離発着訓練は 20 日間に及んだ。それだけに訓練を終 え本隊の富高航空隊に帰える気分は 最高であった。なぜなら , 戦闘機乗り としての最大の訓練を終え , やっと 一人前の戦闘機乗りになった実感が ひしひしと湧いてきたからである。 南の前線に飛ぶ 私は心地よい昼寝をむさぼってい ここセレベス島の南端マカッサ ルの海軍基地である。夢心地の中で 内地を出てから , 今このマカッサル 基地にいる日までのことを思い出し ていた。 昭和 18 年のはしめ , 私はいまかい まかと第一線への出動命令を待って いた。命令は 10 日ほどして出た。行 き先きはセレベス島 ( 現インドネン アのスラヴェシ島 ) のケンダリーを 基地とする海軍 202 航空隊だ。行く のは 13 人の仲間たちだ。生まれて初 めて外地だ。緊張を隠すことはでき なかった。 しかし着任したのも束の間 , すぐ パリ島へ移動させられてしまった。 パリ島は噂に聞く南海の楽園らしく 美しい島であった。しかしここは豪 州攻撃隊の退避所になっていて , 百 84 戦練磨の猛者どもがワンさといる所 でも有名な所である。あいにく着い た時には本隊は豪州攻撃中で , 基地 内はヒッソリとしていた。 私たち 13 名の転勤者は一式陸攻か ら降ると形式通り一通りの報告を司 令にして解散した。 その時である。待ってとばかり空 襲警報が発せられた。私は突差に迎 え撃っ体勢に入った。本隊は出動中 だ , よって飛び上がる飛行機はな い。だが , 必ずや予備機はあるはず だ。そう睨らんだ私は , もう何も考 えず格納庫めがけて走っていた。 海軍の搭乗員はこういう場合 , 自 分の判断で飛び上がって敵機を迎え 撃つよう教育されていたのだ , 私は 予備機に飛び乗り , 落下傘パンドを しめるやいなやさっと飛び上った。 何しろ着いたばかりだ。西も東もま ったくわからない。急上昇して雲の 上に出 , 海岸線にそって高度 308m で哨戒した。だが敵機はすでに退散 したらしく発見できなかった。 さて司令に報告である。 「お前 , 独断専行か ? 」 「はい , 独断専行であがりました」 私は誇りを持って答えた。 「よろしい , よくやった / 」 司令はたいへんほめられた。 これが外地での第一飛行である。 やがて本隊の零戦攻撃隊が帰えっ てきた。尾部に「 XII 」のマークを誇 らしげに描いた零戦は一機一機また 一機と降りたってきた。豪州兵をし て「まぼろし部隊」と異名をとった 部隊である。 この日 , 私は喜こびが 2 度続いた。 1 つは先ほどの独断専行事件 , 2 つ目は , 私の班長になった人が , か って高等予科練生時代に教えを乞う た中山上飛曹だったことだ。中山上 飛曹は " よく来たな " といって , 私の 肩をポンと叩いた。私は喜しさと , 大変な心強さを感した。 この基地でまずやらされたことは 腕試しである。パイロット泣かせの 夜間飛行がそれだった。 当時 , 夜間飛行をピンツとやって のけるパイロットはそうざらにいな かった。それを , 我ら新米の 13 人は ピンツトやってのけたのだ。私は常 々“夜間飛行など , 着艦飛行にくら ' とそう甲 べれば楽なものよ・・ ていた。うまくできて当り前なのだ。 古参兵のパイロットは“えらい奴 が来た・・・ " と我々を見直した。 その日から 13 名だけが夜間飛行 0 K の許可をもらった。 パリ島での生活は戦争をしばし忘 れさせる楽しい日々であった。だが , それもまた束の間 , 中山上飛曹と私 とは最前線基地のマカッサルへ飛べ というのだ。私は中山上飛曹となら たとえ 2 人っきりでも恐くないと思 った。むしろ 2 人で行けるのを喜ん だほどである。 私が零戦の 32 型 , 中山上飛曹が 22 型を駆って飛び立った。 32 型は強力 な栄 21 型ェンジンを装備した , 昭和 16 年 6 月に完成した機体であり , 22 型は 32 型を改良し , 左右両翼の外方 に 15 宅入り翼内燃料タンクを増設 , 翼幅も 12m にして航続距離を伸ばた 新鋭機であった ( 22 型を改良して 52 型 ( A6M5 ) が出来上るのは昭和 18 年 8 月 のことである ) 。 初陣バンツー枚で迎え撃ち マカッサルは最前基地とは名ばか り , 飛行機は我々が乗ってきた零戦 22 型と 32 型があるだけ , よってパイ ロットは我々 2 人っきり。他に整備 員が 9 人と防空隊員が 10 数人いるだ けのちっぽけな基地であった。 毎日の日課は , 朝食をすませると いつも飛行場で 1 日中待機だ。三度 の食事は整備員が作って運んできて くれるし , まるで将校のような暮ら しであった。よって木蔭での昼寝も 日課の一つになっていた。なにしろ 日中はうだるような暑さだ。パンツ 一枚での昼寝は快適そのものなの だ。こうして今日も昼寝を楽しんで

8. 航空ファン 1979年11月号

ェースたち ロ■ 森下賢一 ろまり , 工ース・イコール撃墜王と 力をして , 独自の戦法をあみたした この言葉はもともとカ 工ース・ ものの , その条件 . はちがおうとも , いったニュアンスになっている。 ードの切り札的な意味を持つが , 現 在では“大黒柱”といったような意 卓越したワザと精神をもって空戦を なんた , たったの 5 機かといわれ 生きた日本のエースたちをみてみよ そうたが空戦時の双方のスピード , 味で使われていることが多い。野球 う。これまでいろいろ撃墜の記録が 身体にかかる G など , どれをとって のエース投手などがその例である。 さて , 本題のエース。これは , フ あるが , どれが正確な数字でどれが も満足な条件のない中で , 5 機を撃 ランス軍が戦意高揚のために , 5 機 墜するというのは大変なことなので 間違いーーーなどと論じるのはこのテ 以上撃墜したバイロットにたいして ーマから逸脱するので , 独断と偏見 ある。 工ースの称号を贈ったのがはじまり で " 日本海軍のエースたち”をピック 生まれながらにして天才的な技量 とされている。それが世界各国にひ をもっているもの , また人一倍の努 アップしてみる。 路をいそいだ。そのとき , グラマン ルの三羽ガラスといわれた。 トップエース・西沢中尉 F 6 F の編隊と遭遇した。そこで 1 そして , 10 月 19 日付けで大分空へ まず , ェースのトップに西沢広義 機を撃墜したが , みずからも被弾し の転属を命しられ , 日本へ帰還し 中尉をあげる。撃墜スコアは , 87 機 て , セプ島に不時着した。そこには た。やがて昭和 18 年も暮れ , 新しい とも百数十機ともいわれ , 日本陸海 思いがけない人がいた。かってラバ 年の昭和 19 年がやってきた。その正 軍戦闘機隊を通してトップエースで ウル時代にいろいろと教えを乞うた 月早々 ( 1 月 7 日付 ) に , 大分空から ある。大正 9 年 , 長野県生まれ。 元台南空飛行長中島正であった。 厚木にある 203 空に転属を命しられ 翌 26 日 , 乗機零戦をセプ島へ献上 た。 203 空でしばらく首都防空の任 飛行機に乗って大空を飛ぶこと すると西沢は , セプ島から零式輸送 務にあたっていたが , 4 月 1 日付け が , 少年時代からの夢であった。昭 和 11 年 , 海軍 2 種飛行予科練習生 , 機に便乗してマパラカット基地へむ で戦闘 302 飛行隊に転属となった。 俗にいう " 予科練 " に合格 ( 第 7 期生 ) その後 , フィリピンのクラーク基 かった。 零式輸送機がこンドロ島の上空に 地に進出した。そして , 10 月 25 日 , して , ファイター・パイロットへの きたとき , グラマン F 6 F の急襲を ルンン島のマパラカットを出撃する 道をあゆむことになる。 うける。零式輸送機は真っ黒い煙を 太平洋戦争がはじまった翌年の昭 神風特別攻撃隊の直援隊長をつとめ 吐きながら , 落ちていった。不死身 和 17 年 2 月 19 日 , 第 4 航空隊に所属 ることになる。西沢広義のひきいる とさえいわれたトップ・エース西沢 してラバウルに進出した。そして , 直援零機が最初にマパラカットの滑 4 月に第 4 航空隊から台南航空隊に 走路をすべった。そのあと , 関行男 もふたたび生きては還らなかった。 大尉のひきいる敷島隊の爆装零戦 5 ・つ 0 “天才”岩本中尉 その後 , いったんラバウルを後に 機が飛び立ってゆく。 したが , 18 年 5 月 1 日付けで , 台南 つぎに岩本徹三中尉。この人の場 直援隊形をとりながら南下する 空 ( このときから 251 空と名を改め と , タクロバン東方約 90 カイリのと ム " 日本一 " のスコアを持っといわ ころに敵巡洋艦 , 駆逐艦 , 空母を発 た ) に再編入され , ふたたびラバウ れながらも , 何故か , あまり詳しく 報しられていない。一説には百機以 ルにむかった。このときの司令は小 見した。西沢が直援する爆装零戦隊 園安名中佐 , 飛行長は中島正少佐で 上のスコアといわれるが , 90 機くら は , あの敵艦めがけて体当たりする いがいいところだろうか。戦後すぐ のだ。特別攻撃隊は急反転すると , あ - る。西沢一飛曹は , ーこでも強気 に病死したので , とくに不明の部分 な戦闘法で戦い , スコアをかさね , 敵艦めがけて突っ込んでいった。 が多い。大正 5 年島根県生まれ。昭 関大尉ひきいる敷島隊の最期を見 6 月までに 36 機をマークしている。 西沢 , 坂井中尉 , 笹井中尉はラバウ 届けると西沢は , 列機をひきいて帰 和 9 年 6 月 , 呉海兵団に入ったが , 72

9. 航空ファン 1979年11月号

川西局地戦闘機 紫電 21 型 ( NIK2- J 厂紫電改〃 34 を 52 9 KAWANISHI INTERCEPTOR SHIDEN MODEL21 (NIK2-J : GEORGE) SHIDEN-KAI' ったが、水銀のサビなどで作動不良のものも SHDEN KAI 、、 GEORGE 21 あったと聞く。射撃照準器は 4 式が多く、今 Although I have seen the Shiden, I do not remember seeing a Shiden KAI. lt was only in the postwar days that I beca- 回引き上げられた機体もその様である。 me aware Of the outstanding performance demonstrated by S- 4 門の 20mm4 号機銃の発射威力もすごい。 hiden KAI fighter, and ever since I was sold on the fighter パイロットの話によると、発射のリズムに合 of IJN. FortunateIy, a couple of my colleagues had a closer わせて急プレーキがかかる様だったという。 aquaintances with Shiden KAI. One 0f them useb to fly Shid- パイロットは大体当時でも食物は割に良かっ en KAI in famouse 343- Ku , the special Shiden fighter unit たらしいが、疲労と空戦の緊張で腹工合がお that was organized by Commander Minoru Genda in the fin- かしくなり、空戦中の急激な運動で G がかか phase 0f Pacific war tO assume thme-defense role, while り、ゆるんだ腹から勝手に出てしまうことも another friend worked in the plant of Kawanishi. From them あったそうである。 and other sources I have acquired a quite bit of knowledge もと 343 空にいた友人の話では、練習機から and with a help 0f its handling manual I have been able to 96 戦に乗り、零戦をへて紫電改になったが零 grasp the complete picture Of fghter. I was particularly int- 戦はやはり視界が良かったといっていた。友 erested ⅲ its wing design wign wit h 4-degree Of attack. At 人は不時着でだいぶ体に傷がある。スロット a glance the fighter may gives bulky impression but a cl- oser ok will convince you of its wel ト balanced design. A frie- ルレバーなど手首を飛ばされたらヒジで押す nd Of mine used t0 work in the Kawanishi plant mentioned ために押し開き式になっているんだ。と勇し the Shiden were the development of powerful engine and th- いことをいっていた at of dogfight flaps which made the fighter so outstanding. ( 図と解説長谷川一郎 ) (lchiro Hasgawa

10. 航空ファン 1979年11月号

法で笹井は 3 機全部を撃墜した。 うして先任搭乗員坂井を持った笹井 の前に敵はなかった。 しかし , 彼にも運命の日がおとず れる。ガダルカナル上空の戦闘で負 傷した坂井は , 治療のため本土へ帰 ることになった。神サマのような坂 井が笹井のもとをさる日がやってき た。笹井はラバウルを去る坂井の手 を固く握った。これが二人の永遠の 別れであった。 昭和 17 年 8 月 26 日 , ガダルカナル 上空でグラマン F4F と交戦 , つい に未帰還となった。奇しくもこの日 は " 戦友 " 坂井の 27 歳の誕生日であ 高速で滑走 , 浮上直前の零戦 52 型 った。 吹き飛ばされてしまったが , それで 空戦は , 南昌上空でカーチスホーク もなお空戦をやめようともせず , 敵 3 型十数機と交戦した。そのうちの プルドッグ・管野中尉 機 3 機を撃墜した。そして基地へむ 1 機を撃墜した。 菅野直中佐。大正 10 年宮城県生ま かっているとき , 新手のヘルキット 13 年 4 月 29 日 , 漢ロ空襲に参加し れ。海兵 70 期。 343 空時代 , 源田司 に遭遇し , 紫電改は炎につつまれ た田中はイー 16 を 2 機 , ィー 15 を 1 機 令がいちばん可愛がった男である。 た。顔にヤケドを負いながらパラシ あわせて 3 機を撃墜。日中戦争を通 ート降下し , 命びろいをした。 東北なまりの残る話し方であるが , して田中があげたスコアは 13 機。 " 日 菅野大尉の B ー 29 攻撃法は , B ー 29 中戦争の撃墜王 " であった。 キビキビした調子だったという。勇 の前上方から接敵し , B ー 29 にちか 猛果敢 , プルドッグのような男だっ その後台南航空隊に移り , ホロ島 づくと機を反転させて背面にする。 たと証言する元部下たち。 に進出した。 1 月下旬 , タラカン島 背面姿勢のまま , 敵の操縦席めがけ 343 空時代は新選組 ( 戦闘 301 飛行 へ移動した。 こからポルネオの東 て降下しながら射つ。この攻撃法 隊 ) 隊長として活躍した。とくに 20 南海岸パンジェルマシン攻略部隊の は , 20 ミリ機銃弾が操縦席に命中す 年 3 月 19 日 , 敵味方双方の戦闘・爆 援護が , 台南空に課せられた大きな れば撃墜は確実であったが , 問題は 撃機数百機が入り乱れての松山上空 任務であった。 B ー 29 の射撃をおえたあと B ー 29 の機 の戦いは菅野の実力をいかんなく発 このときの作戦で , B ー 17 と戦闘 首スレスレに通り抜けなければなら 揮した。 を交しえ , 左翼燃料タンクとキヤノ ないという , 非常に操縦がむずかし ピー右側に被弾した。そのときの破 午前 7 時ごろ「敵戦爆撃連合大編 い点にあった。 隊 , 豊後水道を北上中」という緊急 片で右の手のひらから出血したが , 20 年 8 月 1 日 , 20 機の紫電改をひ 電とともに「全機発進」が下令され , それにひるまず戦った。 きいた戦闘 301 飛行隊長菅野大尉は , ある日のこと , 9 機の零戦はいつ 鴛淵孝大尉のひきいる戦闘 701 飛行 午前 8 時 12 分 , 大村基地を発進して もの通りタラカンを発進した。高度 隊 16 機を先頭に , 林喜重大尉の戦闘 B ー 24 の迎撃にむかった。午前 10 時 407 飛行隊 17 機 , しんがりに菅野直 3 , 08 メートルで上空を飛行してい ころ , 屋久島の北方 , 高度 5 , 08 メ ると B ー 17 の列線を発見した。田中 大尉の戦闘 301 飛行隊 21 機が離陸し ートルに B ー 24 約 30 機の編隊を発見 は単機で急降下しみると , それはオ ていった。 して , まっさきに突撃に移った。こ トリ機ではなくホンモノの B ー 17 で 菅野隊は , 松山基地のやや東より のとき 20 ミリ機銃が筒内爆発して , の空域で空中待機していた。そし 主翼の外板がめくれあがって飛行困 田中は「よし , 片つばしからやっ て , 敵機との距離が 300 メートルく 難となり , そのまま未帰還となっ つけてやろう」とばかりに攻撃を開 らいに迫ったとき , 菅野は機首をさ た。 始。 20 ミリ , 7.7 ミリ機銃がいっせ げるとそのまま突っ込んでいった。 いに火を吐いた。こうして味方機も こでグラマン対菅野の一騎討ちが 南海のエース・田中少尉 はじまった。菅野の 20 ミリ機銃が火 くわわって地上にあった 7 機の B ー を吹く。そのときへルキャットの左 田中国義少尉。大正 6 年佐賀県生 17 を炎上させた。 まれ。昭和 10 年 9 月 2 日 , 第 31 期操 翼が炎上し , 炎のかたまりとなって 2 月 8 日 , 新郷大尉を指揮官とす 縦練習生として霞ヶ浦海軍航空隊に る 9 機の零戦隊はパリ島飛行場偵察 落ちていった。 入隊。 ふたたび敵機をもとめて上昇し , のため , パリックパパンを発進した。 激しい空中戦をやっているとき , 菅 昭和 12 年 10 月 , 上海の太公基地に 高度 4 , 80 メートルで飛行している と左前方に反航する大型機を認め 野機は右翼ェルロンを 3 分の 1 ほど ある第 13 航空隊に配属となった。初 75