「佐田社長はスポーツ好きなことから店への思い入れは強く、店舗面積を広げてさまざ まなスポーツを盛り上げたいと考えていた」 ( 関係者 ) 。特に、ランニングやアウトドア関 連では、専門的な品ぞろえと接客力の高いスタッフがいることでアートは知られていた。 長年の取引があった業界関係者は「アートには普通の店にはない商品がそろっていた。 僕らはアート店頭を見るととても勉強になった」と話す。この関係者によると、佐田社 長は各店の店長らに仕入れ先を精力的に開拓させていたという。スタッフは自ら仕入れ た思い入れがある商品を直接説明して売ることで、ほかにはない手厚い接客を実現した。 ランニングプームが転機 2 0 0 7 年に第 1 回の東京マラソンが開かれ、ランニングプームが起きると、アート は再び出店を加速させた。皇居の周りを走る人の需要を見込んでシャワー室まで設置し た日比谷店、池袋店を相次いでオープンした。 さらに 2010 年には、御徒町駅前に百貨店が建てたビルの 1 階と 2 階に上野本店を 移転。旧本店の建物は自転車・テニスの専門店として改装オープンした。移転と改装の 139 ー第 2 章ビジネスモデルが陳腐化したときの分かれ道
義弟を共同代表に据え業務を役割分担 ちょうどこの頃、誠一氏は幹部で妹の夫に当たる柚木元氏 ( 仮名 ) を社長に登用。自身 は会長に就き、代表権は 2 人で持っ体制を敷いた。営業をはじめとする経営の強化を狙 った。これ以降、誠一氏が経理など社内業務を主に担当し、柚木氏が営業などの業務を 主に担 , つよ - つになる 一方、柚木氏は鈴萬工業の社長を務める傍ら、 2002 年にはマニック ( 静岡県島田 市 ) を設立。マニックは鈴萬工業と直接の資本関係はなかったものの、鈴萬工業から配 管などの工事を主に請け負っていた。 順調に見えた 2 人の役割分担に変化が生じたのは 2006 年頃のことだ。誠一氏が再 度社長に就任し、柚本氏は取締役になった。詳しい経緯は判然としないが、これを皮切 りに親族の間で役員の交代が最後まで繰り返されることとなる。その背景には、関係者 同士の確執もあったようだ。 ファミリーの関係が変化する中、 マン・ショックに端を発した不况が襲いかかる。
環で千葉大学構内に設けた「柏の葉第 1 グリーンルーム」だけで、従業員は幻人ほどだっ ートを含めると約 12 0 人に膨れ た。それがここ最近の 2 工場稼働などで、従業員はパ 上がったと見られる。 なぜ、内山会長は性急に事を進めたのか。ある関係者は「植物工場プームの中で自分 を見失ったのではないか」と指摘する。 植物工場プームを招いた要因の 1 つは、補助金だ。 2009 年以降、経済産業省と農 林水産省は、植物工場関連の研究・普及促進のために、累計で 100 億円以上の補助金 を用意してきた。この機を捉え、建設会社や不動産会社など、さまざまな業界の企業が 続々と植物工場の市場に参入してきた。 「 2 、 3 年前からは、企業の経営で稼いだ資金を運用したいという人など、投資家 も大勢、みらいのもとにやってきた。世界的な水不足などを背景に、未来の農業として 海外の見学者も後を絶たなかった」 ( 関係者 ) という。 一方で植物工場を開発するライバル企業も多数台頭し、みらいは、安穏としていられ る状况ではなくなっていたという面もある。おそらく内山会長は「ここが勝負どころ」と 踏んだのだろう。だが経営者として、組織の急拡大をコントロールする力はなかった。
アルべリは税金などを滞納するようになった。 2016 年 9 月、取引先から売掛金を 差し押さえられ、 2017 年 2 月には社との取引も打ち切られた。事業の継続が不可 能になり、 5 月末に営業を停止。破産手続きの申し立てに至った。 今回の件について弁護士を通じて藤本社長に取材を依頼したところ、「まだ話す気にな れない」との返答だった。 アルべリが破産に追い込まれた大きな理由は、受注の 1 社依存だ。 1 社依存の それに耐えられなくなっ 割合が高いほど、相手の厳しい要求に応えなければならない。 たときの損失は甚大だ。ある業界関係者は「当社では、の受注量は 1 社につき売 り上げの川 % 程度を超えないようにしている。アルべリにそうした基準はなかった ようだ」と話す。 では、赤字続きの会社を継いだ藤本社長にとって、拡大以外の手立てはなかっ たのか。別の関係者はこう指摘する。「もっと早いタイミングで工場を売却し、財務基 盤を立て直しつつ、一店舗で『アルべリ』プランドを再興する方法もあったはず。しかし ( ( ( し力ない』との答えたっ こうした話を藤本社長に伝えたところ、『エ場を無くすわすこよ、 藤本社長は、義父から引き継いだ工場を手放す決断ができなかった。 た」という。
: 、オ努勺こは過大投資と れれば進んで取り組んだ。それが技術力を磨いたのは確かだカ貝矛白 ( いう認識も薄いまま、最新設備を買い続けた」 ( 関係者 ) 。 それでも、大量注文がいくつも舞い込んできた時代には、資金は回った。田辺家は地 元の名士となっており、金融機関からの信用も厚かったという。しかし、田辺社長が 3 代目に就任した 2005 年頃から、会社の雲行きは怪しくなる。 まず中国をはじめとする海外企業の技術力が飛躍的に向上し、日本の部品メーカーの 仕事が減った。これに加えて、市場の成熟化などにより、発注の小口ット化と短納期化 が、それまでにも増して進んだ。この環境変化が田辺社長を苦しめる。 数量の少ない注文を段取りよくこなそうとしても、 6 工場にまたがる工程間の至る所 で、仕掛品の滞留が発生した。これがコストアップの要因となり、納期にも影響が出た。 「試作を頼んでも、他社の倍以上の日数がかかった」と、ある取引先は明かす。 物がうまく流れない上、注文量も減ったため、社員の手待ち時間は増えた。ある関係 者はこう話す。「例えば最近の鍛造工程は週に 1 日しか稼働していなかった。 1 日のため だけに鍛造専門の職人を抱えている。仕事がない日は他の工程も手伝っていたが、『餅は 餅屋』で作業効率は上がらない」。
売り上げ回復の可能性がなくなった。 石井側はこの状况を知り、さまざまな可能性を検討。受け皿となる新会社を設立し、上 野本店の事業を 1 億数千万円で譲り受ける救済策をアートに提案した。アートは、石井 案に乗るしかないと判断したようだ。 5 月 8 日に石井と事業譲渡の契約を結び、翌日に 破産を申 1 覗。 2 1 日夕方には新会社の下、上野本店が営業を再開した。 テニス、自転車プームの終息をアートが乗り切れなかったのは、 2007 年以降の出 店などで負債を拡大したこと、 2014 年に御徒町の店舗を整理する際に旧本店を閉め なかったことが大きい。旧本店は、佐田社長にとって初の大型店で、「自転車という商品 にも思い入れが強かった」 ( 関係者 ) 。そのため撤退の決断ができずに資金流出が続いた。 ある業界関係者はこう指摘する。「佐田社長は、広い店舗を持てばお客は集まると話し ていた。成長期はこの発想でも何とかなるが、売り上げが低迷する状况では広い店舗ほ ど固定費が重くなって利益を圧迫してしまうという視点が不足していた」。 環境変化の波にのまれて業績が長期低落している場合、何よりもまず、経営トップが 古い発想を捨てなければ事業を再生できない。アートの事例はそのことを物語っている。 ( 2017 年 7 月号掲載 ) 143 第 2 章ビジネスモデルが陳腐化したときの分かれ道
退職を申し出てきた。羽田社長らは慰留に努めたが、辞意を撤回させることはできなか った。そしてその後も、退職を申し出る社員が相次いだ。 こうした事態に直面した羽田社長は、ついに事業を停止し、法的整理を選択すること を決意した。なお本誌は、破産申し立ての代理人を務めた弁護士の事務所に取材を申し 込んだが、「債権者・関係者以外の問い合わせには応じられない」と断られた。 粉飾という「身から出たサビ」をきっかけに、破綻に追い込まれた美巧。一度粉飾に手 を染めると、なかなかその々泥沼〃から抜け出せないことを、反面教師として教えてくれ ている。 一方で、この事例を通して中小企業の再建スキームの問題点を指摘する声もある。東 京商工リサーチ情報部の担当者は、「最近、再生支援協議会を活用して事業を再生しよう としたがスムーズにいかず、倒産する例が目につき始めた。数十億円を売り上げ、雇用 ードルを下げるべ の面でも貢献している中小企業をサポートできるよう、事業再生のハ きではないかと指摘している。 ( 2015 年川月号掲載 ) 227 第 3 章リスク管理の甘さはいつでも命取りになる
出資の名目で約 5000 万円を拠出。しかしその直後、この会社の業績が急に悪化した という。また、このコンサルタントが経営する包装資材会社に対しては約 4600 万円 を貸し付けたが大半が焦げ付き、返済を受けたのは 300 万円ほど。小寺氏は最終的に このコンサルタントと関係を断ったが、多角化を狙った投資は、ほかにも多くあり、少 なくとも合計 2 億円以上の損失を被ったと見られる。 足元が瓦解し始めた。 本業以外の投資で振り回されている間に、 2012 年 3 月、『こびとづかん』の担当編集者が辞職する。原因は、経理にあった。 「小寺氏は、経理や財務に社員を一切タッチさせなかった。そのわりにはお金にルーズで、 著者への印税の支払い漏れが頻発していた。社外の活動が増えるとその傾向に拍車がか かり、ヒットを生んだ編集者は不信感を募らせたと元社員は話す。 主力商品の権利を失う 退職した編集者は、『こびとづかん』のキャラクターグッズなどの権利管理を請け負っ ていた企業の関連会社で顧問に就任した。 075 ー第 1 章急成長には落とし穴がある
日日ⅣⅥ X ) & い ). 工物、日良お 0 第をマ ~ 00 、一 4 ( 1 B R A 、 D S 財務改善に注力するも その渦中の 1998 年、創業者の吉田氏を継 いで、 19 9 2 年から 2 代目社長を務めていた 息子の吉田伸一一郎氏 ( 仮名 ) が退任するという騒 ) , 多動が勃発した。「経営方針などの対立により、伸 一一郎氏は海外有名宝飾プランドの日本法人トッ プに移った」 ( 関係者 ) 。何とも皮肉な展開だ。 高 そして 2 0 0 2 年に、伸二郎氏の姉の木本さ おり氏が社長に就任。本本社長は保有不動産な どを整理して、財務体質の改革に着手した。改 、貿革に目途をつけたのは 2 010 年。しかし、そ の時点では以前にも増して高額宝飾品市場が縮 こ 099 第 2 章ビジネスモデルが陳腐化したときの分かれ道
に流れたという点だ。 さらにこの後、突如として井波氏が会社を去った。関係者によると「前原氏が解任し た」という。「もともと前原氏にはスポンサーが付いていて、そこから事業資金を得てい た。当初は技術に詳しい井波氏を社長にしていたが、スポンサーが量産化の遅れにいら 立ち、井波氏を外すように指示したようだ」。 6 億円流出でもめる 井波氏の解任以降、社員も頻繁に入れ替わるようになった。佐賀県の担当者によれば、 次第に前原氏と面会がしづらくなり、約束を取り付けても急なキャンセルに遭うように なった。そんな矢先の 2 月絽日、グラス・ワンが事業を停止し、弁護士に会社整理を一 任したことが判明する。サガン鳥栖に規定のスポンサー料は払い込まれず、第 2 工場は 手付かずだった。 同日、ユタカ電機が民事再生を申し立てたのは、この前原氏の独断だったとされる。前 原氏はユタカ電機の買収後、社長に就いたが、本社にはほとんど顔を見せなかったとい 267 ー第 3 章リスク管理の甘さはいつでも命取りになる