ックや軽合金をつかう技術よりも、は この飛行機もまた、ほとんどが木で飛び、この。ハイロットはそこで死ぬ るかにすすんでいた。最初の飛行テス製であったが、連合軍専門家が現地にのだといわれてきた。連合軍の報告で トは、満足すべきもので、ホルテン到着する直前に燃やされてしまった。 は、こうした飛行機が、はげしく衝突 Ⅸ型戦闘機は連合軍の飛行機にとしかし、これら優雅できやしゃな飛行をしたあとで調べてみると、機内にド って重大な脅威になるのではないかと機ーーむしろ外形は豪州のプーメ一フンイツ兵の軍服や肉片がちらばっている おもわれた。 〔曲線をえがいて、投げた人のところのが発見されたとのべている。しかし 自殺機にもどる飛び道具〕によく似ている ( カミカゼ・。ハイロットによって、大 も出現 は、当時もっとも冒険的で、技術規模なおそろしい自殺。ハイロットの先 戦争のおわるころ、ゲッチンゲンの的にもすすんだものだった。 鞭をつけた日本とくらべると ) これに 空軍第九特別分遣隊で、もっと大きな ままあることだが、このように、よりは限度があったが、おそろしい、気ち 全翼飛行機が製作中だった。これは一あたらしく、よりすぐれた、より決定がいじみた行動であった。 九四五年十一月に最初のテスト飛行が的な秘密兵器をつくろうと、夢中にな タンデム式 おこなわれることになっていた。翼のった結果、好ましくない性質のものが 双発戦闘機 長さが四七メートルもあり、ホルテンでてきた。それは自殺機であった。飛戦争のあいだにドルニエ社の軍用機 Ⅷ型全翼飛行機とよばれた。これは行機を爆薬で装備し、ほとんど生きては有名になっていったが、この会社で 七二〇〇キロの航続距離を目標とし、帰れないことを知りながら、これに。ハ も同じような秘密兵器の発明をした。 三〇〇〇メートルの高度を巡航時速一一一イロットをのせたのである。表面上はなかでもいちばん有名なのは、操縦席 二〇キロで飛行させることをかんがえこれら。ハイロットは衝突の寸前に。ハラの前後にエンジンを二基とりつけたタ ンデム方式の 0 繝だった。ふつうの ていた。これには、気密の操縦室がなシ、ートで脱出させるはずだったが、 かったので、これ以上の高さを飛ぶのそれはほとんど不可能だった。 飛行機のように機首にプロペラがつい は不可能だったが、自動操縦も計画さ たしかに、号飛行爆弾の有人機ていながら、機体の最後部にも推進式 れていた。 のほうは、。ハイロットをのせて目標まプロペラがあるというものだった。 132
いう仕くみになっていた。 ス。ヒードが時速わずか約四八 ~ 六四キれは大成功だった。 ロだったのだ。これではおそすぎて翼 有人飛行実ところが、現実に作戦状況を想定し 験では失敗ておこなわれた有人飛行実験は、一回 が気体力学上の効果をあげることはで きない。そのため ( > 2 号のときとお いよいよこんどは有人飛行実験といだけで、しかも失敗におわった。「ナ う段どりになった。 なじように ) ジェット気流をだすプー ッテル」が一五〇メートルほど上昇し スタ 1 〔増カ装置〕が必要になった。 目標にむけてロケットを発射したあたとき、操縦室の風房がはずれ、操縦 これをどうやって装備し、またあまと、 。ハイロットは機体を急降下させ、 席のヘッドレスト〔頭ささえ〕と一しょ に、発射台のそばに落ちてきた。「ナ り経費がかさまないためにはどうする安全着陸地域にむかって滑空する。 か ? 答えは簡単だった。鉄製のプロ イロットは、身体から座席ベルトなど ッテル」は、一五度の角度に傾斜し、 ペラ翼をつくり、その一枚一枚を空洞をはずして、脱出準備をしてから、機コントロールをうしなったまま一五〇 にし、冷却水をいれればよかった。循首についているレ。ハーを引き、ロケッ〇メートルまであがり、そのままキリ 環ポンプもなければ、防護的な機械装ト弾をつめこんであった機首と風房をモミで落下して地上に激突した。機体 置もなかった。そんな必要はなかった機体から切りはなす。これで前部に脱はむろんのこと、 ハイロットまでコナ のだ。これを熱して数秒もたてば、水出の障害物はなくなり、。ハイロットはゴナになってしまった。 が蒸発してロケット噴流ガスのなかに気流にさらされることになる。 連合軍の航空攻撃がひんばんになり 溶けこみ、効力を発揮する。高速をだ つづいて第二のレバーを引く。こんだしたため、それ以上の有人飛行実験ぶ せるじゅうぶんな高度にたっすると、 どは機体後部にある大型パラシートは、やれなかった。けつきよく「ナッ機 翼に揚力を生じ、地上からのコントロ がひらいて、機体の落下にプレーキがテル」計画は、実験段階のままでおわを ールができるというわけだった。 かかる。この反動で。ハイロットは前にったのである。ポーテダーがオー 基本的な機体設計をテストするたほうりだされ、べつの。ハラシートでシュタウフェン〔南独ポーデン湖の東ケ め、プラウンシュワイクで、十数回に降下することになる。こうして「ナッ 三〇キロ〕にもっていたスキー小屋 わたって滑空実験がおこなわれた。こ テル」自体も回収され再使用されると が、その後の活動の場所となった。こ %
ル」という変わったアイデアに集中さ れた。「ミステル」〔宿り木〕と名づ けられたこの親子飛行機は、無人爆撃 機の上に戦闘機をしつかりと結合し、 。ハイロットは戦闘機からこれを操縦す るようになっていた。この方法で、目 標まで爆撃機の燃料で飛び、爆薬をた つぶり仕こんだ爆撃機を切りはなし、 目標に突人させる。かえりは戦闘機自 身の燃料で飛び、。ハイロットは無事帰 還するというものであった。いわば、 横着なカミカゼ特攻機のようなもので ある。 これは、じっさいにユンカース 中型爆撃機の上に、フォッケウルフ か、メッサーシュミット (..5 を結合させてテストされ、のちには 実戦に参加した。終戦までに二〇〇機 以上がつくられたが、あまり大きな威 力は発揮できなかった。 「ミステル」計画の変形として「ダイ ムラ 1 ・べンツ」計画というのがあ フォッケウルフ 03 ー 10251
「、、、ステル」親子爆撃機【期の。ハイロットが、爆弾を積んだ無人機を目標にむけて誘導し、切リはなし、そのあと基地へもどった ルリンのテムペルホ 1 フ飛行場でつく度は毎秒〇・六メ 1 トルにすぎなかつに薄いプラスチック・シートが、 イスドルフ〔ポン郊外〕のダイナマイ られた。これは型よりすこし大きた。 プラスチト会社でつくられた。しかし翼は軽す く軽かった。布ばりにするには、大き ックの翼ぎたし、失速するおそれがあった。テ すぎたし、べニヤ板では重くなるの で、翼の表面を張るのには、軽金属膜機体を軽くするために、軽金属膜がスト飛行のときにこの飛行機は、キリ モミ状態で地上に墜落し、コナゴナに翼 がっかわれた。これは滑空中の沈下速つぎつぎとっかわれ、のちにヘルスフ エルトでつくられたグライダーは、翼なり、。ハイロットは即死した。かれは三 度が、毎秒わずか〇・七メ 1 トルだっ コントロールをうしなって地上に落下け た。しかし、これがさらに改良されての表面に軽いプラスチックをつかっ として知られる型ができた。 するさい、加速度のために座席におさ このプラスチックは、「トロナール」えつけられ、。ハラシュートで脱出でき た。これは一九四一年に製作されたも ので、重さ約三四〇キロ、滑空沈下速として知られ、とくにこの計画のためなかったようだ。
ロット、ロケット開発の専門家グランは「ナッテル」の機首のロケット弾搭ムだ 0 た。 ツオウ、それにナチ党員の・シ ~ ラ載部を切りはなして捨て、そのまま時攻撃用に装備された 0 ケ , ト弾は、 速約二四〇キロで滑空させ、ある程度重量が約二・六キロで、弾頭に約四〇 ーという総合監督官らがいた。 最後は有人降下して、。 ( ラシ = ートで地上 ( とび〇グラムの火薬が装填されていた。の ちになって、このロケット弾の火力を 迎撃機におりることになっていた。 公式名「バッヒム」の二倍にふやすことが計画されたが、じ 「ナッテル」は、最後には一人のり口 ケ , ト推進式迎撃機として製作され「ナ , テル」は、全備重量は二一七七 0 さいには製作されなか 0 た。 滑空実験 た。これは発射台から垂直に打ちあげキロで、そのうち六三五キロが燃料だ に成功 った。翼面積四・二八平方メートル、 られ、地上からレーダーで自動コント 01 ~ されて、進人してくる敵機と遭尾翼面積二・五一平方メート ~ 、全長「ナ , テ ~ 」の水平飛行中の最大速度 は時速約八〇〇キロで航続距離は約四 遇する場所まで飛ぶ。敵機が視界には六・五メートルであ 0 た。 い 0 たら、パイ。 , トは、すぐさま手この「ナ ' テ ~ 」を空中に発射する〇キ 0 だ 0 た。機体は木製で、クギや ニカワで木材が手軽につぎあわされて 動操縦にきりかえ、目標に数百メートのは、四基の「シ = ミッディング」ロ ケットである。これは、それぞれの推いた。しかし、これでも〔は加 ルのところまで接近する。 ここでパイ 0 , トは、むか 0 てくる力が約一九八キ 0 で、燃焼時間は一〇重の単位〕の加速荷重に耐えられるよ うになっていた。また「ナッテル」一 秒だった。 爆撃機にたいして、ロケット弾をいっ しかし主動力は、液体燃料をつかう機を製作するのに必要な時間は、のべ きょに発射し、そのまま自分は急旋回 一〇〇〇時間と計算されていた。 ワルタ 1 弸 2 ロケットであった。こ して離脱する。 テストをはじめると、はじめからい 「ナッテル」に搭載するロケット弾の標準推力は一七〇〇キロだが、一五 は、ふ「うの七 = 一ミリ対空 0 ケ ' トを〇キ 0 まで加減することができた。燃くつかの問題がおこ 0 た。初めの加速 一ダースず 0 一一組、合計二四発だ「料消費は海面高度で推カ一 = 〇〇キ 0 の荷重がないしはそれ以上なのに、 た。これを発射したあと、パイ 0 ' トばあい、毎秒推カ一キ 0 ごとに一グラ機体が発射台から垂直にあがるときの
でわずか三カ月という超スピードで製に生産が開始され、同時にヒトラー・ が、連合軍にたいしておこなわれた g が、これが最後のものとなった。 作された。ハインケル社が量産の注文ューゲントの若者たちが、同機のパイ をうけたのは、一九四四年九月八日でロットとして訓練をうけるため、動員 > 号ロケットでの攻撃は、いぜんっ あった。このジェット戦闘機は「フォ されはじめた。一、二週間後に、かれづけられることになっていたが、もは ルクスイエーガー」〔国民戦闘機〕と名らはグライダーで訓練をうけ、ちかいやドイツの敗戦はおおいかくすべくも づけられた。 将来に、この " 国民戦闘機″を駆ってなかった。ヒトラーが夢みた各種の強 〃国民戦闘機〃観の最初のテスト 強力な連合軍機に挑戦する運命におい力な秘密兵器は、いまや、ふかい霧の 飛行は、一九四四年十二月十日におこ こまれたのである。しかし、かれらになかに消える運命にあった。 なわれたといわれる。このときは、テとって幸いなことに、この性急な計画 この秘密兵器の研究開発に、ドイツ スト・。ハイロットのペーター大尉があが実現する以前に戦争はおわってしまはなみなみならぬ努力を傾注したが、 ったのである。 つまったナチや空軍のお歴々を感激さ 戦争指導者の方針があまりにもデタラ せようと、飛行場の上を低空で飛んだ 生産された " 国民戦闘機″は一〇〇メで、支離滅裂なものであったため、 が、突然右側の翼がちぎれ、戦闘機は機にもみたず、しかも、その大部分は自滅してしまったのだ。それは、ヒト 数分間、空中で気ちがいのようにトン燃料不足のため飛べなかった。 ラー、第三帝国、ナチズムのたどった ポがえりをうち、地上に激突し、。ヘー 一九四五年はじめまでに、ドイツの運命と、まったくおなじであった。 ター大尉は死んだ。 秘密飛行機の運命はきまってしまっ だが、この恐怖の秘密兵器がドイツ この事故は瞬間的におこった。翼のた。ゲーリングにたいする支持は、ほによって成功寸前の段階まで開発研究 とんどなくなりかけていた。じじつ、 接着部分に欠陥があったとみられ、こ されていたという事実だけは、けっし の欠点はなおされた。そして、ただちその年の元旦に、ドイツ空軍の攻撃て忘れてはならないことであろう。
。ハイロットが脱出しなければならな いときに後部プロペラが危険だったの で、後部エンジンのまえに小さな爆薬 をつけた。これを操縦室から爆発させ れば、緊急なばあい、後部全体を吹きと ばすことができるようになっていた。 この。繝戦闘機は前三車輪式の降 着装置をもち、また頭部のプロペラは た逆転させることができた。このため着 , と陸のさいに、これをプレーキ用につか 動うことができた。ほんらい、この変わ 基った飛行機は、夜間爆撃機と戦闘機に ンなるはずであった。いろいろな実験を したすえ、これには、 " アマイゼンバ ール〃〔大アリクイ〕というニックネ ームがつけられた。 グロテスクな全翼飛行機から、ちっ翼 ぼけなロケット推進戦闘機におよぶ、三 み ~ ~ これら空の秘密兵器は、考え方も設計け も、びじように・ハラエティにとんだも空 ニので、のちの航空機の発達にさまざま ドなかたちで貢献したのである。
の。ハイロットは、おどろいて攻撃せずイ に逃げかえったが、その夜はうなされ たものもいた、とったえられている。 しかし、この機は実用にはならなか った。そのうえ、記録は断片的だが、 この飛行機は最初にかんがえられていろ たほどには成功しなかった。おそらてつ く、このような巨大な飛行機は、航空とこ 力学上の効果や操縦上の問題で、おも 爆発 ったようにはいかなかったのだろう。 力開 空中爆発した主の 大型爆撃機軍撃」 空爆 ハインケルの最高機密工場からは、 このほかにもたくさんの飛行機がつく りだされた。改造″怪物機〃の機い つぎには店があった。これは大型爆 型基 飛行艇で、英国の「サンダーランド」 飛行艇と着想が似ていたが、けつきょ く実用化に失敗した。 ハインケルの大型長距離機の系列にルは ケ社 ) はそのほかに、長距離輸送機として設ンルで 計されたや、軍用機としては
1937 年、秘密実験場て発射台 へのせられた A 3 ロケット で、大砲や海軍兵器の生産国として、 指おりの名声を博していた。だが、空 軍にかんしていえば、ほかにも、ドイ ッとおなじ、あるいは、よりすぐれた 空軍をもっている国があった。この分 野でドイツだけが、とくべつにすぐれ た立場にあったわけではなかった。 しかしドイツ空軍内部の士気は大い にたかく、ひじようにすすんだ目標を 達成したことは事実である。適切な例 として、ロケットの開発研究があげら れる。これはおどろくべきことで、ま だ前例のない水準にまでたっしていた のであった。 ドイツがベルサイユ条約を破棄し て、空軍力の大々的な再開発にふみき ったのは、一九三五年〔昭和一〇年〕だ った。もっとも、いきなりそうしたわ けではなかった。すでにその何年もま えから、秘密に、しかもまったく非〈ロ 法に準備がととのえられ、ドイツ空軍 の。ハイロットは、ソ連との互恵条約に
合部は、きわめて精巧に設計されておと、回転翼全体が切りはなされる。回あがることができた。この " 回転タコ〃 、格納時にはこの結合部で折りたた転翼支柱についているケースから、。ハ が高度をあげるにしたがって、ケープ むようになっている。また、この部分ラシュートが引きだされ、自動的にひルがだんだんとくりだされる。いつぼ には着艦と緊急時に使用するプレーキらく。。ハイロットは、座席ベルトをほう、。ハイロットは電話で報告をおくっ がついている。 どき、機体につかまって海上へ降下すてくる。ふつう、このタコは任務がお 回転翼支柱の下部には、ロープのつるという仕かけだった。 わると、ゆっくりケープルをまきとり いた始動用のハズミ車がとりつけられ この″ジャイロ・カイト″〔回転翼艦上にひきおろされる。そしてプレー ていたが、通常、始動のときは。ハイロ式タコ〕をあげるときには、ポートキをつかって、翼の回転をとめ着艦 トが手で始動していた。ハズミ車はは水面に浮上し、艦首を風にむけて航し、いそいでしまいこまれる。 風のよわいときだけ使用されたようで行する。そしていそいで格納筒から、 このタコは「・ハッハシュテルゲ」〔い ある。回転翼は、木製の骨組、布ばり折りたたまれたタコをだして、組みたそしぎ〕というニックネームをもって で、今日のヘリコプターの回転翼にく てる。回転翼と尾翼を正しい位置にといたが、正式にはとよばれた。 らべて、すこしもおとらない優秀なも りつけ、こ . れに折りたたみ式の椅子、全部で二〇〇機ほどっくられ、 のであった。 電話機がとりつけられる。そして、曳 トの乗員たちに愛用されて大成功だっ 胴体主軸後端には、水平尾翼と、方き綱 ( 電話線を人れてある ) がタコにた。乗員たちは、このかわいらしい偵 向舵のついた垂直尾翼がついていた。 とりつけられる。タコはすこしばか察機を、どうやって操縦するか、すぐ機 小 におぼえた。 ニ百機り機首を上むけにして揚げられる。 超 を生産このとき、回転翼を始動するのであ この機械は一九四五年になるまで、 またこのタコは、潜水艦が突然潜水る。 連合軍には完全に秘密にされていた。大 しなければならないばあいにそなえて このタコを安全に浮揚できる最低時しかし、この年のはじめに目撃者があ超 ″緊急〃脱出装置があった。パイロッ速は三六キロ、翼の回転速度は毎分一一らわれて英国の新聞に発表されこの秘 トが頭の上の小さなレ・ハーを引っぱる〇〇回転、これでタコは甲板から浮き密も暴露されてしまった。