一回実験は一九四一年の末に、ペーネスピードから生ずる高圧ショックのたれにたいして号は、全世界をたた ミ = ンデの発射場でおこなわれた。ペめに、目標にあたえる損害は号よけるミサイルであり、前代末聞の戦争 ーネミュンデは、追跡機器がじゅうぶ り大きいものと推定された。 兵器だった。だから、この二つのロケ んに装備された唯一の発射場だった。 号は無線誘導しないため、電波 ット計画の長所について、おおくの論 実験は大成功だった。そしてただちに妨害をうけることはなかった。このた争がかわされたことは、すこしも不思 優先権をどこがもっかで論争がはじまめ連合軍は、電波誘導システムによっ議ではない。 った。空軍は号に関心をよせ、陸て号の飛行をくるわすような方法解決方法はハッキリしている。ドイ 軍は号を推進しようとした。 を見つけだすことは不可能だった。 > ツは敵を負かし、指導的な世界の大国 》 1 、》 2 号 1 号は号にくらべると速度がおそになるために必死で戦っていたのだ。 の長所と短所 、対空火器で撃墜されることがあり ドイツは、この二つの兵器をちがった この二つの兵器は、それぞれ一長一えたし、また戦闘機に追撃され、イギ方法でつかうことにした。安くて大量 短があった。号は製作費が安くっリス海峡によく沈められた。 生産できる方法と、高度に専門化した いた。実際の評価額はまちまちだった 号は、号なら避けることが ロケット計画の、二つの方法だった。 が、一五〇〇マルクから一万マルクぐできる、英国の防空用阻塞気球ケープそして、長い会議や討論のすえ、この らいなのにくらべ、 2 号は七万五〇ルのアミにひっかかる危険があった。 一一計画は、ともに推進された。 〇〇マルクもかかった。ある推定によだが、安い低質の石油を燃料にするこ 英国がこのロケットについての情報 ると号一基つくるのに二八〇時間とができた。この石油ならドイツ国内をえたときには、すでにこの二計画と しかかからないが、 > 2 号は一万三〇の亜炭層から産出したが、 > 2 号はアも実現していた。 〇〇時間を要した。 ルコールや液体酸素を必要とした。 一九四三年以降、号、号の 爆弾の積載量はほぼおなじなのに、 号は、使用するうえで信頼性が両計画はドイツ秘密兵器の先頭にあっ > 2 号は超音速で約マッハ 4 ( 音速のうすいという欠点もあった。じじつ、 た。号は単純だが効果的な誘導シ 四倍 ) の超高速でとび、到着のさいの号の四分の一は不良品だった。こステムを装備していた。方向と高度測
。ハルテンキ 定にジャイロスコ 1 プがとりつけらルク」という、操縦士がのる号有の両部門はガルミッシ、ー れ、先端には小さなプロペラがついて人機が開発された。これは、一部の人ル ( ンにうっされた。また製作そのも いた。これは号が大気圏内を通過がいうように、自殺を使命としたもののは、ノルトハウゼンとプリーヒロ ーデでおこなわれた。 するさいに回転した。あらかじめ定めではけっしてなかった。これは操縦上 ハルツ〔ベルリン南西一一〇〇キロ〕 られた距離のところにくると、燃料はの間題点をしらべるための実験機だっ 自動的に補給をやめ、エンジンはとめた。また終戦まぢかになって、もっとの山岳地帯には、地下工場が建設され られる。そしてロケット全体が地上強力で、長距離を飛べる号が研究た。ここなら爆弾もとどかないし、だ いいち発見されることがなかった。こ されたが、これはとうとう実戦にはっ に、滑空しながら落下し、爆発した。 のようにドイツの秘密兵器の生産は、 かわれなかった。 号の発射もむずかしいものだっ ヒトラーと副官たちは、もっと大きすばやく継続することができた。 た。機体が適当なスピードで前進する かくて、ドイツは、 1 号、 2 号 くて、すぐれた、しかも効果的な兵器を と、はじめてエンジンが活動を開始す ることになっていた。このため、おおっくることに夢中になっていた。このロケットを恐怖の兵器としてつかうこ そして英国 ため、号は通常生産しかできとができたのである。 くの発射基地には、蒸気式カタ。ハルト 国民は、このことを、けっして忘れま がつくられ、この装置によって > 1 号なかった。 いという教訓をたたきこまれることに生 さきにのべたように、ペ 1 ネミュン は前進するエネルギーをえ、ダクトの 号 開閉弁をあけて、順次燃料を爆発させデの号ロケット研究センター施設なった。 は、英軍の爆撃によって破壊された。 まさしく、これは、幻の兵器ではな る作業をはじめることができた。 この結果、ロケットの生産は、遠くはかったのである。 有人》 1 器 兵 号を開発なれたところでおこなわれた。風洞施 の 怖 戦争のおわりごろ、「ライヒ = ンべ設はコッヒ = ルに移転し、研究、設計 恐
がもっともその対策に頭を痛めた。事実、号は一九四 四年九月から七カ月間に、ロンドンなどイギリス国内だけ で、一万人ちかくを殺傷したのである。ただ連合国側にと って、何よりも幸いだったのは、号の登場が、予定よ 本書の原題は『ドイツ秘密兵器』であり、数多くの珍し り三カ月以上おくれたことだった。他ならぬヒトラー自身 い新兵器が紹介されているが、やはりその本命は号、 が、この新兵器の威力を最初のうち信用しなかったのが、 号であろう。 その大きな原因の一つだった。 号、号の名が世に知られだしたのは、一九四四 今年 ( 一九七一年 ) の春、アメリカから来日した 2 号 年、ドイツにとって戦況が不利になりはじめたころだっ 生みの親、フォン・プラウン博士は、日本のある新聞記者 た。ドイツ語の「報復兵器」 ( フェアゲルトウンクスワッ とのインタビューで「ヒトラーは最初はロケットの価値を フェン ) の頭文字「」をとったこの脅威の秘密兵器は、 理解できなかった。歩兵伍長だったかれが得意なのは地上 当時のゲッペルス宣伝相にとって絶好の宣伝材料であった戦闘だけで、ロケットやジェット機を軽視していた」と当 ことはいうまでもない。 時を回想している。ヒト一フーは一九四三年七月、号発 号はすさまじい騒音を発して飛ぶので「爆鳴弾」 C ハ 射実験のフィルムを見てはじめてその威力に気がついた。 ズ・ポム ) ともよばれたが、落下するさいは騒音は停止し、 ただちに緊急生産を命じたが、時すでにおそかった。 誘導装置もはずれて、地上のどこに落ちてくるか分らず、 もしもヒトラーの決心が、あと半年でも早かったとした ロンドン市民を恐怖のどん底におとしいれた。しかしイギ ら、第二次大戦の結末が変わっていたかもしないことは、 リス側はこの飛行爆弾に対抗する「クロスポー」 ( 石弓 ) 作本書の著者プライアン・フォードが指摘している通りであ 戦を組織しペーネミュンデはじめドイツの発射基地を徹底る。まことに運命の皮肉といわざるをえない。 的にたたいて、被害を最少限にくいとめることができた。 号は、これにくらべて、超音速で成層圏をこえて飛 訳出にあたって、原文にある注と訳者の注 来するので防御のしようがなく、イギリスその他連合国側 を、それぞれ ( ) と〔〕で区別した。 訳者あとがき 206
が生まれた。号として知られるの果 が、これである。 空軍は 》 1 号号 号は木製部分がおおく、操縦士 のいない無人飛行爆弾だった。 ( ドイツ・グライダー研究センタ 1 ) 備た 射あ で開発されたのだが、このは、 発も もともと、じゅうたんの製造地として 2 苦 有名なダルムシュタット〔ドイツ西 号ろ ) 部〕にあった。のちに、オ 1 ストリア > ろ 国境ザルップルクちかくのアインリン クにうっされた。空軍研究指導課の主 任科学者の一人、ゲォルギーが おる の指導者も兼ねていた。そして主としだす 横発 て、空挺部隊をはこぶグライダーの研 : 開 敗て 究開発の任にあたっていた。ここでは失し 験と 約一〇〇〇人がはたらき〃ワッサーフ実器 射兵 アルみ〔滝〕計画など、べつのいくっ 発事 】軍 かの秘密兵器の開発もやっていた。 左な 1 号についての話は、一九二〇年【的
プライア・フード☆渡辺修訳 VI 号 V2 号 恐怖の秘密丘器
安あがり の》 1 号 > この兵器の技術上の特殊性は、あまし りたいしたことはなかった。ス。ヒ 1 ド といい、性能といい、また信頼性とい】 い、いずれも、けっしてよくはなかっ祐 た。しかし、これは安価で、つくりやン すいという点が最大の利点だった。 時速六四〇キロ以上のスピ 1 ドで、 高度一二〇〇 ~ 二一〇〇メートルを飛 び、その射程距離は、当初は二八八キ ロだったが、のちに約四〇〇キロにの型 びた。重量は二一七五キロだが、その < る地 うち約九〇〇キロは、弾頭部のトリニれ基 さ戦 トロトルエン〔強力爆薬 =e z e 〕と収作 回の 硝酸アンモンの重さだった。全長は八後号 一メ 1 トルで、直径は一・五二メ 1 実 > トルだった。 これは、号と名づけられた。 当時、軍部内で勢力あらそいがさか んだったことをかんがえると、まこと 下の に皮肉なことだったが、この兵器の第【号
V 一号 V2 号 / 目次 はじめに 夏 2 3 ロンドン襲った V 爆弾 秘密兵器の研究センター ドイツの新兵器・王会兵器 恐怖の兵器、 V 2 号誕生 4 5 ロケット戦闘機飛ぶ 超巨大機と超 / ト型機 6 空駆ける三角翼 7 戦慄の毒ガス 8 連合軍を・悩ませた水中兵器 9 - 世界にさきカゞけてジェット機 ー 0 霧のなかに消えた秘密兵器 参考文献 6 33 47 88 106 118 134 147 169 199 205 9
うごかさなかった。 さねて発射寸前の状態にあった。全長あった。 一三・八三メ 1 トル、重さ一万二二三 そして、三回目は完全な成功だっ だが、いまや、この革命的な兵器 〇キロの巨体には、メチルアルコール た。一九四二年十月一二日、この号が、現実に、しかも、まごうかたない と液体酸素燃料が注人されていた。 ロケットは、ポメラニア〔・ハルト海に成功をおさめると、事情はガラリと変 燃料ポンプが始動し、点火装置がは面した北ドイツの一帯、ポンメルン州〕わってきた。ヒトラーは、ただちに特 たらいた。ロケットは発射台から不安の沿岸ぞいに打ちあげられた。ロケッ 別に号ロケット生産委員会を組織 定にゆれながらはなれた。煙と蒸気のトの噴射音は一分以上も鳴りひびき、 させた。この委員会は、デーゲンコル かたまりがうずまくなかを、ロケット 高度約八万メートルにたっし、一九〇プ将軍の指示にしたがい、 > 2 号ロケ は上昇し、スビ 1 ドをました。そしてキロはなれた地点に落下した。これにツトの開発を援助し、政府との連絡を 思いがけない瞬間に、推進燃料ポンプよって、ミサイル時代の幕がひらかれ調整するためのものだった。 のモータ 1 が故障した。ロケットはちたのであった。 だがこれは、援助というより、むし よっとはねあがり、やがてななめに落 ヒトラーもろ邪魔な存在で、フォン・プラウン 下した。コナゴナになった燃料タンク 》 2 号を推進は、いみじくもこの委員会のことを から霧のような蒸気の雲が立ちのぼっ ドイツ政府は、にわかに関心をもち ″われわれの身体にささったトゲだ〃 こ 0 生 はじめた。ドルンベルガ 1 は、かれのといったと、ったえられている。 八月十六日に、二回目の 2 号ロケグループがもっている可能性と、多少 しかしながら、ペーネミュンデのド号 ットが打ちあげられた。一回目よりはながらもあげた成果をみとめさせよう ィッ人科学者たちは、自由にできる資 よかった。このときも、モーターがすと、それまでながいあいだ努力してき金はふえたし、人員もふえ、設備もず た。ヒトラーにクンメルスドルフにき っとよくなった。このため号シリ兵 ぐに故障したが、ロケットに積まれた 自動計測器は、このロケットが音速以て、地上実験の状況を視察するよう懇 ーズの生産テンポもはやめられた。こ前 れは、たんに戦術面での必要性からだ 上のスピードをあげたことをしめして願したことさえもあった。しかしヒト いた。これもまた一つの歴史的瞬間でラーは、当時は火や煙にはさして心をけではなく、軍隊の技術者を訓練し、
【左上】 V2 号を発射台につけた 時、弾頭部や誘導装置を点検する ためにつかう移動ハシゴ車【左 下】 1937 年の実験の時の A 3 型ロ ケット用の燃料タンク【右上】 V 2 号ロケットを発射台にすえつけ るためにつかうトレーラー【右下】 覆いをかけられた A 3 型ロケット を点検する技師たち : ドイツ北部 の海岸の秘密の場所ぞの実験には こんなにも神経をつかった
Ⅵ号 V 恐怖の Fåッ秘 プライアン・フォート % 度近 ー 0f W 面 、一茨世界大戦ブックス⑩、日本語豎修 好評発売中 天皇の決断 昭和ニ十年 八月十五日 好評発売中 ヾリ陥落 ・ダンケルクへの 敗走 現在の米ソの宇宙船開発は、第二次世界大戦末期のドイ ツ、ヘーネミュンデ秘密研究所の青写真から出発してい るといえよう。それはウェルナー・フォン・プラウン博十 の V 2 号ロケットの設計図である。戦時中開発されたヒ トラーの秘密兵器は、ついにドイツの破滅をすくうこと はできなかったが、大陸間ミサイル、ジェット機、ロケ ット戦闘機、あるいは生物化学兵器など、おおくの分野 で未来につながっていたのである。 >r 号 >N 号 アービン・クックス著 / 加藤俊平訳 態を収拾すべく、耐えがたいポッダム宣言を 昭和ニ十年、蓮合軍は硫黄島、沖繩に進出し た。 m 四は日本の空をおおい、都市という都受諾して、終戦にみちびいた人こそ、天皇で 市は焼野原と化し、日本は減亡の淵にたたさあった。すみきった英知と、国民にたいする れていた。しかも軍部はなお本土決戦をさけ深い愛情からくだされた決断であった。 びつづけ、一億玉砕がせまっていた。この事 ジョン・・ウィリアムズ著 / 宇都宮直賢訳 一九四〇年五月十日、ドイツ軍は、オランダ、それに影なき第五列の流言に、英仏連合軍は、 なだれをうってダンケルクへ敗走した。パ ベルギー国境を突破し、西部戦線は火をふい はヒトラーの軍靴で踏みあらされ、フランス た。この日のために、ヒトラーは航空兵力と 機甲兵力の育成に心血をそそぎこんでいたのはわすか一カ月で、なんらなすところなく崩 だ。空には急降下爆撃機、地には無敵の戦車、壊してしまったのだ。 第、、秘恐 を密怖 丘の 〔著者〕プライアン・フォード 新進の著名な科学者。自然科学関係の執筆家 で、おおくの著書がある = とくに第ニ次大戦 中の科学的開発の過程を、克明に研究した著 述がひかっている。なお未発表のデータを多 数もっている点、今後を期待される著者であ V 1 号 V 2 号 < 恐怖のドイツ秘密兵器 > プライアン・フォード / 渡辺修訳 昭和 46 年 6 月 30 日 1 刷 昭和 52 年 12 月 19 日 20 刷 発行者 / 小野田政 編集者 / 白井勝己 発行所 / 株式会社サンケイ出版 東京・千代田区神田錦町 3 の 15 ( 〒 101 ) 大阪・北区梅田町 2 の 4 の 9 ( 〒 530 ) 印刷・製本 / 大日本印刷株式会社 ◎ 1971 Printed in Japan 検印省略 0020 ー 076619 一 2756 〔総編集長〕バリー 英国の著名な戦史・軍事評論家 ( プリタニカ 百科事典の海戦項目の執筆者、サンディ・タ イムズ・マガジンの戦史関係顧問、 ーネル 社版「第ニ次世界大戦史」編集者、 B B C 放 送局制作「大戦」シリーズの監修者である。 第ニ次世界大戦プンクス⑩ 800 円 サンケイ出月反 0020 ー 076619 ー 2756