がもっともその対策に頭を痛めた。事実、号は一九四 四年九月から七カ月間に、ロンドンなどイギリス国内だけ で、一万人ちかくを殺傷したのである。ただ連合国側にと って、何よりも幸いだったのは、号の登場が、予定よ 本書の原題は『ドイツ秘密兵器』であり、数多くの珍し り三カ月以上おくれたことだった。他ならぬヒトラー自身 い新兵器が紹介されているが、やはりその本命は号、 が、この新兵器の威力を最初のうち信用しなかったのが、 号であろう。 その大きな原因の一つだった。 号、号の名が世に知られだしたのは、一九四四 今年 ( 一九七一年 ) の春、アメリカから来日した 2 号 年、ドイツにとって戦況が不利になりはじめたころだっ 生みの親、フォン・プラウン博士は、日本のある新聞記者 た。ドイツ語の「報復兵器」 ( フェアゲルトウンクスワッ とのインタビューで「ヒトラーは最初はロケットの価値を フェン ) の頭文字「」をとったこの脅威の秘密兵器は、 理解できなかった。歩兵伍長だったかれが得意なのは地上 当時のゲッペルス宣伝相にとって絶好の宣伝材料であった戦闘だけで、ロケットやジェット機を軽視していた」と当 ことはいうまでもない。 時を回想している。ヒト一フーは一九四三年七月、号発 号はすさまじい騒音を発して飛ぶので「爆鳴弾」 C ハ 射実験のフィルムを見てはじめてその威力に気がついた。 ズ・ポム ) ともよばれたが、落下するさいは騒音は停止し、 ただちに緊急生産を命じたが、時すでにおそかった。 誘導装置もはずれて、地上のどこに落ちてくるか分らず、 もしもヒトラーの決心が、あと半年でも早かったとした ロンドン市民を恐怖のどん底におとしいれた。しかしイギ ら、第二次大戦の結末が変わっていたかもしないことは、 リス側はこの飛行爆弾に対抗する「クロスポー」 ( 石弓 ) 作本書の著者プライアン・フォードが指摘している通りであ 戦を組織しペーネミュンデはじめドイツの発射基地を徹底る。まことに運命の皮肉といわざるをえない。 的にたたいて、被害を最少限にくいとめることができた。 号は、これにくらべて、超音速で成層圏をこえて飛 訳出にあたって、原文にある注と訳者の注 来するので防御のしようがなく、イギリスその他連合国側 を、それぞれ ( ) と〔〕で区別した。 訳者あとがき 206
いう仕くみになっていた。 ス。ヒードが時速わずか約四八 ~ 六四キれは大成功だった。 ロだったのだ。これではおそすぎて翼 有人飛行実ところが、現実に作戦状況を想定し 験では失敗ておこなわれた有人飛行実験は、一回 が気体力学上の効果をあげることはで きない。そのため ( > 2 号のときとお いよいよこんどは有人飛行実験といだけで、しかも失敗におわった。「ナ う段どりになった。 なじように ) ジェット気流をだすプー ッテル」が一五〇メートルほど上昇し スタ 1 〔増カ装置〕が必要になった。 目標にむけてロケットを発射したあたとき、操縦室の風房がはずれ、操縦 これをどうやって装備し、またあまと、 。ハイロットは機体を急降下させ、 席のヘッドレスト〔頭ささえ〕と一しょ に、発射台のそばに落ちてきた。「ナ り経費がかさまないためにはどうする安全着陸地域にむかって滑空する。 か ? 答えは簡単だった。鉄製のプロ イロットは、身体から座席ベルトなど ッテル」は、一五度の角度に傾斜し、 ペラ翼をつくり、その一枚一枚を空洞をはずして、脱出準備をしてから、機コントロールをうしなったまま一五〇 にし、冷却水をいれればよかった。循首についているレ。ハーを引き、ロケッ〇メートルまであがり、そのままキリ 環ポンプもなければ、防護的な機械装ト弾をつめこんであった機首と風房をモミで落下して地上に激突した。機体 置もなかった。そんな必要はなかった機体から切りはなす。これで前部に脱はむろんのこと、 ハイロットまでコナ のだ。これを熱して数秒もたてば、水出の障害物はなくなり、。ハイロットはゴナになってしまった。 が蒸発してロケット噴流ガスのなかに気流にさらされることになる。 連合軍の航空攻撃がひんばんになり 溶けこみ、効力を発揮する。高速をだ つづいて第二のレバーを引く。こんだしたため、それ以上の有人飛行実験ぶ せるじゅうぶんな高度にたっすると、 どは機体後部にある大型パラシートは、やれなかった。けつきよく「ナッ機 翼に揚力を生じ、地上からのコントロ がひらいて、機体の落下にプレーキがテル」計画は、実験段階のままでおわを ールができるというわけだった。 かかる。この反動で。ハイロットは前にったのである。ポーテダーがオー 基本的な機体設計をテストするたほうりだされ、べつの。ハラシートでシュタウフェン〔南独ポーデン湖の東ケ め、プラウンシュワイクで、十数回に降下することになる。こうして「ナッ 三〇キロ〕にもっていたスキー小屋 わたって滑空実験がおこなわれた。こ テル」自体も回収され再使用されると が、その後の活動の場所となった。こ %
をつかって、この問題を解決した。 なければならなかったーーー静止状態かセンチだった。総重量は約二〇〇キロ まず第一に、エンジンの大きさや重らフル回転まで二秒以内だった で、最大出力は四三六〇回転 ( 毎分 ) さからみて馬力と経済性の面で、このまたエンジンは、発射直前の点検に便のとき、四二五馬力だった。これにポ 内燃エンジン方式はすぐれているので利な構造でなければならない。いつぼッシュのマグネット発電機 N — 8 がっ はないかとかんがえられた。 う、各構成部品は一回の使用に耐えるいていた。これは各シリンダーのポッ しかし、魚雷は水中をはしるので、 だけの耐用限度があればじゅうぶんでシュ・ス。ハ 1 ク・プラグ〔点火栓〕と 内燃エンジンの燃焼に空気を利用するあった。 対〔つい〕になっていたものだ。この わけにはいかない。爆薬を満載して、 このようなやっかいな問題にこたえプラグは標準型のⅧ航空機用プラグ 最短時間に最大の出力をださなければることができたのが、ユンカ 1 スで、これと単一ジェット式キャプレタ ならない。しかも完全に自動的にコン E 0 8 エンジンだった。これは燃 〔気化器〕がついていた。ク一フンク トロールして、巨大な魚雷を時速約七料を燃焼させるのに空気のかわりにエ ・ケースは進歩した軽合金、おもにア 〇キロあるいはそれ以上のス。ヒードでンジン自体の排気ガスを使用し、これルミニウムとこれに少量のシリコン、 進ませなければならないのである。そに酸素とガソリンをまぜて燃やした。 マンガン、マグネシウム、銅、亜鉛、 のうえ、大きさに制限があったので、 そして、ふつうの吸排気装置のかわりチタニウムなどがふくまれた金属で、器 兵 ふつうのロータリー ハルプでは、うに、シリンダー・ヘッドのなかに平らできていた。 中 まくいかなかったのである。 な板をいれ、回転が開始されたときに このエンジンは、地上の耐用試験で水 クランクシャフト〔曲軸〕、べアリ 吸排気の出人り口となる穴とむかいあ五〇時間以上、まったく故障なくうごせ ング、トランスミッション・ギア〔変わせになるようにした。 いた。このため、これは期待していた悩 速装置〕その他、すべて軽くて、がんじ 政府の気まぐ以上に成功だったことは、いうまでも軍 合 ようなものをつくらなければならなか れで廃棄さるない。 ったし、静止状態から急速にスタート エンジンは水冷式 > 8 型で、圧縮比 これは、工学上の適切な設計で成功 するさいの急加速に耐えることができ率は六・六対一、排気量四三四〇立方したいい見本だった。そして、もしこ
難点があり、ひところは、この計画へと何度も改良がかさねられたが、そのげ、効率が八〇。ハーセント台にまでな の関心がなくなりかけたこともあつ重点は、ほとんどダクト〔管〕や、チった。すばらしい水準だった。 こ 0 1 〔燃焼室〕内部を飛行に適す このエンジンは、飛行時間が二五時 このタービンは、回転翼に障害をおるように改造することだった。 間をすぎると、分解され、チェックされ こす傾向があった。そうなると、じゅ このようにして改良されたた。もし、エンジンに異状がないとわ うぶんに圧搾器が作動しなくなる。だは、一九四三年末までに量産体制にはかったら、ふたたび組みたてられて、 が、その年のクリスマス前に、この失いった。この年の夏には、が、 さらに一〇時間使用した。しかしその 敗は操作上の理由からではなく、エンはじめてエンジンをつけ、大きなあとエンジンは廃棄された。これは回 転翼に疲れがでると、こんどこそ、ほ ジン自体の大きさのせいだということ効果をあげていた。 しかし、このエンジンの生産は、空んとうの危険がでてくるからだった。 がわかった。そして、ふたたび大型の ジェット・エンジン開発の仕事がはじ軍が要求した数にはたっしていなかっ このエンジンは高空では、不安定な められた。 状態になりがちだったが、スロットル た。ュンカース社は一九四四年十月に、 一九三九年の末までに、エンジンが月産一〇〇〇台を生産することを承諾〔しぼり弁〕を慎重に調整することに したが、実際には一〇〇台しかっくれよって、一万三〇〇〇メートルまでは 完成し、地上テストの準備ができた。 すばらしい成果だった。このエンジンなかった。同年十二月までに、要求生産飛行可能であることがわかった。 工 ジ 高速爆繋機用 は、八つの圧搾器と、六つの放射状の量は二五〇〇台までふえたが、月産一 て エンジンけ 〇〇〇台以上っくれたことは一度もな 燃焼室があり、刪 < とよばれた。 ュンカース工場は、終戦までに、もき テストの結果、このエンジンは七九かった。しかし終戦時には五〇〇〇台 以上を生産できるようになっていた。 っと他の計画を手がけた。推カ二八〇に 〇キロ以上の推力をだすことがわか スマートなデザインで、空冷式の、 り、このエンジンは一九四一年末に改 〇キロ、毎分六〇〇〇回転、長さ六メ世 ートルのエンジンを設計した。このエ 装されたⅧ戦闘機にとりつけられくぼんだタービン回転翼をつかって、 て飛行テストがおこなわれた。このあこのエンジンは推カ九九〇キロまであンジンは、高速爆撃機用の動力に計画
ロット、ロケット開発の専門家グランは「ナッテル」の機首のロケット弾搭ムだ 0 た。 ツオウ、それにナチ党員の・シ ~ ラ載部を切りはなして捨て、そのまま時攻撃用に装備された 0 ケ , ト弾は、 速約二四〇キロで滑空させ、ある程度重量が約二・六キロで、弾頭に約四〇 ーという総合監督官らがいた。 最後は有人降下して、。 ( ラシ = ートで地上 ( とび〇グラムの火薬が装填されていた。の ちになって、このロケット弾の火力を 迎撃機におりることになっていた。 公式名「バッヒム」の二倍にふやすことが計画されたが、じ 「ナッテル」は、最後には一人のり口 ケ , ト推進式迎撃機として製作され「ナ , テル」は、全備重量は二一七七 0 さいには製作されなか 0 た。 滑空実験 た。これは発射台から垂直に打ちあげキロで、そのうち六三五キロが燃料だ に成功 った。翼面積四・二八平方メートル、 られ、地上からレーダーで自動コント 01 ~ されて、進人してくる敵機と遭尾翼面積二・五一平方メート ~ 、全長「ナ , テ ~ 」の水平飛行中の最大速度 は時速約八〇〇キロで航続距離は約四 遇する場所まで飛ぶ。敵機が視界には六・五メートルであ 0 た。 い 0 たら、パイ。 , トは、すぐさま手この「ナ ' テ ~ 」を空中に発射する〇キ 0 だ 0 た。機体は木製で、クギや ニカワで木材が手軽につぎあわされて 動操縦にきりかえ、目標に数百メートのは、四基の「シ = ミッディング」ロ ケットである。これは、それぞれの推いた。しかし、これでも〔は加 ルのところまで接近する。 ここでパイ 0 , トは、むか 0 てくる力が約一九八キ 0 で、燃焼時間は一〇重の単位〕の加速荷重に耐えられるよ うになっていた。また「ナッテル」一 秒だった。 爆撃機にたいして、ロケット弾をいっ しかし主動力は、液体燃料をつかう機を製作するのに必要な時間は、のべ きょに発射し、そのまま自分は急旋回 一〇〇〇時間と計算されていた。 ワルタ 1 弸 2 ロケットであった。こ して離脱する。 テストをはじめると、はじめからい 「ナッテル」に搭載するロケット弾の標準推力は一七〇〇キロだが、一五 は、ふ「うの七 = 一ミリ対空 0 ケ ' トを〇キ 0 まで加減することができた。燃くつかの問題がおこ 0 た。初めの加速 一ダースず 0 一一組、合計二四発だ「料消費は海面高度で推カ一 = 〇〇キ 0 の荷重がないしはそれ以上なのに、 た。これを発射したあと、パイ 0 ' トばあい、毎秒推カ一キ 0 ごとに一グラ機体が発射台から垂直にあがるときの
IJ ポートからの発射用に設計された地上砲撃ロケット ( 実験用 ) を準備中の乗組員
も大胆、かつ高級な秘密兵冪ーー誘導増加のため、四つの増速ロケットがっケットにたいして直接おこなわれた。 3 型も、ときどき発射用の増速ロケッ ミサイルーーを生みだすことができたいていた。この兵器 ( 一部で 3 号と トをとりつけてテストされた。しか ともいえるのである。 もよばれた ) は約六〇基つくられたが、 ロケット「エンチ実戦にはつかわれなかった。これは公し、このミサイルは終戦時にはまだ実 式にはⅢとして知られたが、ヘン験段階にとどまっていた。 アン」とⅢ 社シェル社のプレスラウ工場で生産され「ライントホター」 1 型の開発でえた 一九四三年、メッサーシュミット のコンラート博士によって「エンチアた。この有翼爆弾は地上から無線操縦経験にもとづいてできたのが「ライン ン」〔高山植物、りんどう〕が設計されされたが、このコントロール装置はなポーテ」〔ラインの使者〕だった。これ た。これはさきにのべたロケット戦闘かなかうまく作動せず、ついに終戦まは三段ないし四段式ミサイルで、弾頭 部は比較的小さかった ( 弾頭の重さは 機「コメット」機の無人機といで完成しなかった。 「ライン」型わずか四〇キロ ) 。このミサイルは、 えるようなものだった。 し二〇〇基以上戦争につかわれ、一九四 のミサイノ プラスチック材料でできていて、全 「ライントホター」〔ラインの娘〕と四年には、アントワ 1 プ〔ベルギー〕 部で二五機生産され、発射実験がおこ なわれた。一五機ほどが飛行に失敗しいうミサイルは二種類つくられた。 1 にむけて発射された。かなり正確だっ たが、幸いなことに、わずかの被害し ル、 2 型は約五メ たため、この計画は一度も大量生産ま型は全長約六メート 工 ジ ートルだった。 1 型は八〇基以上発射かでなかった。 でいかなかった。「エンチアン」には打 て 有翼爆弾坿 されたが、このうち無線操縦誘導装置 ちあげにつかう増速ロケット四基を、 「へヒト」き しばりつけてある。 のついていたのは二〇基ほどで、その 「フォイヤーリリー」〔火の百合〕ロケに 他の計画に「シュメッタ 1 リンク」大半は大成功をおさめた。ほとんどの ットは二種類つくられ、この二つは事世 〔蝶〕ロケットもあった。これはヘンばあい、レ 1 ダーをつかってこのミサ 実上、おおくの基本的な点でまったく イルを追跡したが、方向のコントロー シェル期グライダ 1 爆弾の設計か ら発展したもので、これまた発射速度ルは、レーダー・ステーションからロちがっていた。は、長さ二メート
「、、、ステル」親子爆撃機【期の。ハイロットが、爆弾を積んだ無人機を目標にむけて誘導し、切リはなし、そのあと基地へもどった ルリンのテムペルホ 1 フ飛行場でつく度は毎秒〇・六メ 1 トルにすぎなかつに薄いプラスチック・シートが、 イスドルフ〔ポン郊外〕のダイナマイ られた。これは型よりすこし大きた。 プラスチト会社でつくられた。しかし翼は軽す く軽かった。布ばりにするには、大き ックの翼ぎたし、失速するおそれがあった。テ すぎたし、べニヤ板では重くなるの で、翼の表面を張るのには、軽金属膜機体を軽くするために、軽金属膜がスト飛行のときにこの飛行機は、キリ モミ状態で地上に墜落し、コナゴナに翼 がっかわれた。これは滑空中の沈下速つぎつぎとっかわれ、のちにヘルスフ エルトでつくられたグライダーは、翼なり、。ハイロットは即死した。かれは三 度が、毎秒わずか〇・七メ 1 トルだっ コントロールをうしなって地上に落下け た。しかし、これがさらに改良されての表面に軽いプラスチックをつかっ として知られる型ができた。 するさい、加速度のために座席におさ このプラスチックは、「トロナール」えつけられ、。ハラシュートで脱出でき た。これは一九四一年に製作されたも ので、重さ約三四〇キロ、滑空沈下速として知られ、とくにこの計画のためなかったようだ。
ゥー、 8 Ⅱなどがつくられたが、どれも ところが、この新計画は失敗した。 エンジンにムリな力がかかり過熱し、 量産実用機にはならなかった。また高最初の計画段階では完全な秘密がまも翼の燃料タンクに引火したのだった。 ダイムラー 速中型機Ⅲーー られており、高度の防諜対象にされて スクラップ化 ッ六〇一二エンジン二基、時速六〇いたのに、生産がちかづくやいなや、ニ された川 〇キロ があったが、これも量産にユ 1 スが。ハッとひろまってしまった。 ハインケル工場でのテストは地上で はいたらなかった。 一部の当局者によって、この情報は士おこなわれ、エンジン関係の欠陥を改 だが大戦末期になって、ドイツ軍の気高揚の材料につかわれて、ドイツ空良しようとした。しかし、地上では ) 敗色がこくなってくると、これらハイ軍関係者のあいだに、すみずみまでひエンジンの冷却作用は飛行状態とひじ ′ドイツ ンケル社の一連の飛行機を、なんとかろまってしまったのである。 ようにちがっていることは、もちろん 活用できないものかという考えが空軍は全世界をおどろかす驚異的な高性能である。なぜなら、エンジンの冷却 部内にでてきた。一九四四年のドイツ秘密爆撃機をもっている。この威力では、主として飛行機がスピードをあげ 空軍にとって、高速で航続力の大きい連合軍はついに窮地に追いこまれるよて飛んでいるばあいに、プロペラ後流 爆撃機は必要欠くべからざるものだっ うになる〃といううわさであった。 によっておこなわれるからだ。ところ たからである。 しかし、これは戦術的にも、心理的が地上では状況がちがう。 そこで、いそいで四発爆撃機が設計にも根本的な大失敗だった。あらゆる また、爆撃機というものが、どのよ 試作され、まもなく生産にはいりはじ人々の目が、このナチ・ドイツのホ 1 うな型にせよ、他の機種、たとえば戦 めた。これは四〇〇〇キロちかい爆弾 プにそそがれた。そして、この飛行機闘機よりも、はるかにおそいという事 を積む重爆撃機で「グライフ」 の第一号機が、空中でナゾの火災をお実を見のがしていたことに、失敗の原 と命名された。この四発機は、エンジこし、炎につつまれながら墜落したと因があった。飛行中のエンジンを却 ンを二基ずつ結合して大きなプロ。ヘラ き、ドイツの指導者たちは、がく然とさせるにたるほど、プロペラ後流は大 を駆動するもので、外見は双発機といした。の二号機も空中で爆発しきくなかった。だから、設計を改良 たが、その原因はハッキリしていた。 う、きわめて野心的な設計であった。 し、断熱壁をそなえつけても、これと 110
うごかさなかった。 さねて発射寸前の状態にあった。全長あった。 一三・八三メ 1 トル、重さ一万二二三 そして、三回目は完全な成功だっ だが、いまや、この革命的な兵器 〇キロの巨体には、メチルアルコール た。一九四二年十月一二日、この号が、現実に、しかも、まごうかたない と液体酸素燃料が注人されていた。 ロケットは、ポメラニア〔・ハルト海に成功をおさめると、事情はガラリと変 燃料ポンプが始動し、点火装置がは面した北ドイツの一帯、ポンメルン州〕わってきた。ヒトラーは、ただちに特 たらいた。ロケットは発射台から不安の沿岸ぞいに打ちあげられた。ロケッ 別に号ロケット生産委員会を組織 定にゆれながらはなれた。煙と蒸気のトの噴射音は一分以上も鳴りひびき、 させた。この委員会は、デーゲンコル かたまりがうずまくなかを、ロケット 高度約八万メートルにたっし、一九〇プ将軍の指示にしたがい、 > 2 号ロケ は上昇し、スビ 1 ドをました。そしてキロはなれた地点に落下した。これにツトの開発を援助し、政府との連絡を 思いがけない瞬間に、推進燃料ポンプよって、ミサイル時代の幕がひらかれ調整するためのものだった。 のモータ 1 が故障した。ロケットはちたのであった。 だがこれは、援助というより、むし よっとはねあがり、やがてななめに落 ヒトラーもろ邪魔な存在で、フォン・プラウン 下した。コナゴナになった燃料タンク 》 2 号を推進は、いみじくもこの委員会のことを から霧のような蒸気の雲が立ちのぼっ ドイツ政府は、にわかに関心をもち ″われわれの身体にささったトゲだ〃 こ 0 生 はじめた。ドルンベルガ 1 は、かれのといったと、ったえられている。 八月十六日に、二回目の 2 号ロケグループがもっている可能性と、多少 しかしながら、ペーネミュンデのド号 ットが打ちあげられた。一回目よりはながらもあげた成果をみとめさせよう ィッ人科学者たちは、自由にできる資 よかった。このときも、モーターがすと、それまでながいあいだ努力してき金はふえたし、人員もふえ、設備もず た。ヒトラーにクンメルスドルフにき っとよくなった。このため号シリ兵 ぐに故障したが、ロケットに積まれた 自動計測器は、このロケットが音速以て、地上実験の状況を視察するよう懇 ーズの生産テンポもはやめられた。こ前 れは、たんに戦術面での必要性からだ 上のスピードをあげたことをしめして願したことさえもあった。しかしヒト いた。これもまた一つの歴史的瞬間でラーは、当時は火や煙にはさして心をけではなく、軍隊の技術者を訓練し、