一回は主要圧搾器、二回目はダク七年末か一九三八年はじめに飛んだ」 この試作機は戦後、連合軍によってり、 ト・ファンをとおしたが、ともに燃焼また戦争直前、ドイツではたらいて 爆破されてしまった。設計図が発見さ れ、圧搾器の破損した部分が、のちにのおこるタ 1 ビンのなかにいれて、回いた有名な化学技師・・エ・ハンス 英国に持ちさられて調査された。それ転翼を冷却させるのに役だった。この教授は筆者に、一九三八年ライプチヒ によると、このエンジンはひじように方法で、ガスの温度は摂氏一一〇〇度でおこなわれた飛行テストで、タービ ン・エンジンーーー本物のジェットであ すぐれたジェット・エンジンだったよにまでのぼったようだ。 ったことは、まちがいないーーーがはず ジェット機が初 うである。 めて飛んだのはれ、当時、教授がはたらいていた場所か 開発規模が、これよりややおとる ら七〇メートルほどはなれた路上に落 最初のジェット機の飛行について、 が、おなじような開発計画が、バ 1 ト いくつかのおもしろい情報がある。さ下したときのもようを話してくれた。 ハルップルクちかくのダイムラー エンジンがどのよ ンツ工場でもすすめられていた。ここきにのべたように、最初のジェット機当時はジェット・ では、ライスト教授が研究開発を担当が処女飛行をしたのは、一九三九年八うなものなのか、まったく知らなかっ していた。かれは五年間ほどジェット月のことだった。だが、じっさいには、たが、この種の秘密研究についてのう 機 理論を研究したのち、大戦当初、このこれよりも以前に実験したが、記録にわさは、ときどき耳にしていたので、 のこっていないものがあったのではなエ・ハンス教授は、かれが目撃したもの 工 会社にはいった。そして、»-ä が、今日一般にも知られるようになっ かろうか ? 筆者はそれはありうると 二重サーキット・ジェット・エンジン て エンジンと、まことによけ たジェット・ の意味ーーを試作した。反対の方向におもう。 く似たものだったと確信している。 回転するドラムのうえに、圧搾器と燃社のシャーフ博士は、戦後こ 焼システム・タ 1 ビンをとりつけてあの工場を占拠した最初の連合軍調査団当時ドイツにいた他の何人かは ( そに 、温度がたかくなっても、トルクに、こう語ったとったえられている。 のおおくは今でも同じ町に住んでい世 る ) 実験飛行機から奇妙な、笛を鳴ら 〔回転モメント〕の問題がおこらない「最初のジェット機は、ハインケル・ ようにしてあった。地上実験を一一回やヒルト・エンジンをつかって、一九三すような音がきこえてきたといってい
安あがり の》 1 号 > この兵器の技術上の特殊性は、あまし りたいしたことはなかった。ス。ヒ 1 ド といい、性能といい、また信頼性とい】 い、いずれも、けっしてよくはなかっ祐 た。しかし、これは安価で、つくりやン すいという点が最大の利点だった。 時速六四〇キロ以上のスピ 1 ドで、 高度一二〇〇 ~ 二一〇〇メートルを飛 び、その射程距離は、当初は二八八キ ロだったが、のちに約四〇〇キロにの型 びた。重量は二一七五キロだが、その < る地 うち約九〇〇キロは、弾頭部のトリニれ基 さ戦 トロトルエン〔強力爆薬 =e z e 〕と収作 回の 硝酸アンモンの重さだった。全長は八後号 一メ 1 トルで、直径は一・五二メ 1 実 > トルだった。 これは、号と名づけられた。 当時、軍部内で勢力あらそいがさか んだったことをかんがえると、まこと 下の に皮肉なことだったが、この兵器の第【号
最大の秘密兵敵陣に到達するための、もっとも速 もとづいて、ソ連空軍による訓練をう 器、ロケットい方法は空を飛ぶことである。したが けていたのである。 って、ロケットのような画期的な、おそ ドイツは、高速飛行機の分野でも、 当時のドイツ空軍総参謀長は、ウェ ファ 1 将軍だった。将軍は、ナチの拡おおくの計画を極秘のうちにすすめろしい兵器を創造することにおいて、 張政策の一環として、大型の長距離飛ていた。これらの計画は、のちに西欧もっとも進歩していたのが、空軍の研 行機の開発に異常なほど熱心だった。諸国全体をビックリさせるものだっ究施設であったことは、当然のことと 当時、世界で最初の全金属製の飛行機た。ジェット推進方式は、この段階でいえよう。 ドルニエ超大型飛行艇など すでに連合国側の知識よりもはるかに空軍が政府と密接な関係のもとに、 すすんでいたし、ロケット推進飛行機技術開発の研究にうちこんでいたのに が製造され、飛行に成功したことや、 たいして、陸軍と海軍のばあいは、軍 一九三〇年代のおわりに、数おおくのさえ、すでに設計段階にあった。 ドイツのあらゆる秘密兵器のなか需産業界を・ハックとしたべつの研究施 トロフィーや賞金を、ド 国際競技で、 ィッ製飛行機が獲得できたことは、将で、もっともおそろしいものはロケッ設をつくり、〃ソロ・ハンにのるみ新兵 軍の大へんな自慢であったにちがいなトだった。もちろん、まだ開発の初期器の開発に努力していた。陸軍と海軍 であったが、極秘のうちにすすめられのばあい、政府直属の研究所をつくる ことは意味のないことだった。という一 一九三九年四月には、ウエンデル空ていた。はやくも一九三一年〔昭和六 軍大尉がメッサーシュミットで、年〕には、デッサウ〔ベルリン南西七のは、独立した研究所を二重につくるン 〇キロ、現在東独領〕の基地から、最危険があったからだ。そのうえ、当時究 時速七五五・一三八キロの記録をつく った。これは戦後にいたるまで、すく初の液体燃料ロケットを打ちあげ、約 ョ 1 ロツ。ハで、おそらくは世界でも最の なくともプ。ペラ機では、一一度とふた三〇〇メ 1 トルの高度にたっした。そ高の給料をもら 0 ていた技術者や設計器 たび達成できないスピ 1 ド記録であっしてその後二年間、秘密チ 1 ムが有人技師など、産業界の研究員たちを引き密 ロケット飛行の可能性について研究し抜くことは、財政的にいってもむずか た。〔本シリーズ『メッサーシュミッ しいことだった。 ていた。 ト』参照〕
きた。ドルンベルガーは、政府の依頼書かれた、最近のいくつかの報告書をット科学者だった。かれらはフレッシ をうけてロケット開発計画の仕事をは読むと、当時の活動はひじように心お = な男たちであり、かれらがつくった じめたが、当初は大ぜいの人間をあつどるものがあり、創造の自由があった兵器もユニークなものだった。 めることはできなかった。 ようだ。しかし、じっさいは、だれも ここで最初につくられたロケット しかし、そのころ、かれの研究セン がロケットに関心をよせていたわけでは、号の原型になった。これはア タ 1 で博士号をとるために研究していはなかった。指導者たちの不足のグレガ 1 テ 1 〔集合体という意味で、 た一人の若い学生に目をつけ、かれをため、初期の重要な時期に、ロケット略称〕という小型ロケットで、推 はげました。まだ二〇歳そこそこで、 兵器開発はまだ秘密兵器のうちでは有力三〇〇キロだった。アルコールと液 ふとっちょの自信満々のこの青年は、 力な地位を確立していなかった。 体酸素を、液体窒素の圧力で燃焼室に ときどきロケット飛行場で実験を手つ しかしドルンベルガーのチームは、 おくりこみ、ロケットのエンジンを作 だっていたが、ロケットに熱狂的な興きわめて熱心だった。やがてクンメル動させる仕くみであった。静止した状 味をもっていた。 スドルフで、もっとも有名になったの態での地上実験には成功した。 この青年は、はたらく場をあたえらはロケット研究所だった。 しかし、ロケット打ちあげの実験に れ、研究に没頭した。実験用ロケット ドルンベルガーは、のちに少将に昇は失敗した。ロケットの頭部に、ジャ の製作にあたっては、機械部門を手つ進し、そのたかい地位にものをいわせイロスコープ〔回転儀〕を装着したの だうことがゆるされた。ドルンベルガて、研究所の全施設をしだいに拡張だが、混合燃料がきわめて燃えやす 1 は、この若者の将来は約束されたもし、大規模にした。戦争はもはや目前 、猛烈な爆発の振動でうまく作動し のとかんがえた。かれの名は、ウエルにせまっていた。一九三二年から一九なかった。それだけではなく、あとで ナ 1 ・フォン・プラウンといった。 三六年までに、スタッフの数は約六〇計算してみると、ジャイロスコープの 》 2 号の人にふえた。開戦までには、ほぼ三〇位置がまちがっていた。このため 1 原型誕生〇人になった。かれらはドイツの技術型ロケットは、スクラップにされてし クンメルスドルフでの活動について者のえりぬきだったし、すぐれたロケまった。
「ホッホドルックプンべ」砲】枝のよ れ、試射する直前に、爆撃をうけて破ルを開発したために、あたらしい研究 うにわかれたいくつもの砲身がわかる の道もひらけた。・ワルター合資会 壊されてしまった。 当初、計画されたように、この射程社では、海軍用ロケット兵器にかんしが、燃焼が不完全で、魚雷が水面にの 1 ガン〃は五門 一四〇キロの″スー。ハ て興味ある研究がおこなわれ、この社こす航跡が、きわめてハッキリしてし つくられたが、これが活動したとしたの研究室から、いろいろ変わったアイまった。そのうえ最大航続距離が一八 〇〇メートルにもたっしなかった。し らロンドンは手いたい打撃をうけてい デアが生まれた。 ただろう。カレーのこの怪物は、砲身たとえば、ポート用の艦載ロケッ かもこの実験で、エンジンをスタート が一四〇メートルもあり、直径一五〇トの水中発射装置の実験などもおこなさせようとする時、点火によって、燃 ミリの弾丸を発射することになっていわれた。 焼ではなく、完全な爆発がおこること たのである。 この会社の営業部長はワルタ 1 海軍がわかった。このため、ドイツの海軍 優秀なコントロ少佐 ( キ 1 ルの有名なワルター教授の当局は、すっかり口ケット魚雷への関 ール・システム弟 ) で、工場はポサウ〔キール南東三心をうしなってしまった。 このように、ドイツは各種のミサイ〇キロ〕にあった。 だが、そのかわり、この仕事で他の 機 ルや特殊弾を開発した。これらのコン ロケット問題を探究する道がひらけた。このエ トロ 1 ル・システムは、当時としては 推進魚雷場のオルデンプルク博士指導のもと ジ ここでは、ロケット推進魚雷の研究に、断続的に爆発をおこすロケット・ きわめて進歩したもので、また・ハラエ て ティにとんでいた。こうした誇りうるもしていた。終戦の二年前、そうしたエンジンをとりつけた魚雷が発明されけ たが、これは、反動力でうごく魚雷とき 専門知識が、指導を誤った専制独裁者魚雷の注文をうけたが、その生産は、 いう意味で成功したばかりでなく、魚に の戦争の道具に利用されたことは、なかならずしも成功とはいえなかった。 んと悲しい不幸なことだったかと、おこのときは、酸素と過酸化水素と触雷の進路ちかくの海中に敷設された機世 媒、それに水 ( 反応温度をひくくする雷を、この衝撃波で爆発させることが おくの戦史家は指摘するのだった。 だが、もちろん、ロケットやミサイため ) の混合物を燃料とした。ところできた。
ある。最近、筆者はこの地域の上空をの八月なかばの空襲では、島民八〇〇の科学者たちは、このような風速をつ くりだすには、巨大な扇風機がなけれ 飛んでみたが、およそ英国の偵察機が人以上が死んだ。 その後、施設のいくつかを、ドイツば不可能だとおもっていた。 最高機密の研究センターだと見やぶつ しかし、コッヒエルの研究チーム て、関心をはらったとは、とてもおも全土に分散させたほうがよいことがわ かった。そして、理論開発施設は、ガは、扇風機のかわりに、気圧を利用し えなかった。およそ辺びなところで、 ルミッシュ ー。ハルテンキルヘン〔ミュて風をおこす方法をかんがえだした。 荒涼としていたからである。 ふつうの写真でみれば、・ハラ・ハラにンヘン南方八〇キロ〕にうっされ、実かれらは、約二七〇立方メートルの容 ちった建物があるだけで、ドイツの田用技術の開発はノルトハウゼン〔ベル積をもっ巨大なタンクをつくり、これ リン南西二〇〇キロ〕とプリーヒェロに強力な排気ポンプをとりつけた。こ 舎にみられる典型的な開拓地だった。 1 デでおこなった。 のやり方で、ごく短時間で、タンクの しかし、こここそ、もっとも革命的な また、おもな風洞とその補助施設なかの気圧をほぼ真空にまで下げるこ 秘密兵器が、たくさん研究開発された とができた。 は、ミュンヘン南方のコッヒエルにう 中心地なのである。この小さな島の北 テストをはじめる瞬間に、・ハルプが っされた。ここは水利工事実験施設と 部に、主要な試験場と、発射台があっ た。海岸ぞいに生産工場がならび、南名づけられ、当時では、もっとも完璧あけられ、大気が幅約四五センチの実 部には研究所員たちの住宅区域があつな、長距離ロケット開発の研究センタ験孔をとおって流人する。中におかれ一 1 だった。 た飛行物体の模型は、風速の変化によン た。そのうしろに軍用・ハラックがたち ならんでいた。 コッヒエルのって、どのような状態になるか、写真究 研 巨大な風洞撮影された。また模型の各部分に圧力 日課のように、連合軍の爆撃がはじ の コッヒ = ルには、風速を時速約四八計がつけられ、超音速飛行によって生器 まったのは一九四三年で、この地域の 密 大半が破壊された。しかし、もっとも〇〇キロまであげられる風洞がつくらじる圧力の変化が計測された。 秘 このようにコッヒエルの設備は、き 重要な研究がすすめられていた建物はれた。これは当時、世界中のどの風洞 くわめてすぐれた装置であった。しかし四 破壊をまぬがれた。それでも、この年よりも、すぐれたものだった。おお
屋根はスライド式になっていて、それ、爆撃された。 か見えない。しかし、この、のどかな の装置をつかうときは、全体がそっく この研究所がうけもっていたのは、 ドイツの田園が、現実にはカムフラ 1 ジュされた、まったくちがった世界だ りそのままジェット気流のダクトにな当時のあたらしい航空力学だった。ロ った。 った。つかいおわると、ふたたび目だたケットやミサイルなど超高速秘密兵器 ここは、ゲーリング航空兵器研究所ぬように屋根がもどされ、支柱だけがの模型を、厳密な学問的条件のもとで で、最高機密の研究をする、主要なセ外にのこるという仕くみである。このテストしていた。 ウゼドム島の ンターの一つだったのである。中央部仕かけは、だれにもわからなかった。 この巨大な施設は、だれにも知られ 秘密研究所 の建物は、すべて樹木のかげの地下に あり、木の枝がこれらの建物入り口をずに建てられ、戦争中ずっと、だれに ペーネミュンデには、一億二〇〇〇 完全におおっていた。空からはまるでも知られずに運営されていたのであ万ドル以上の費用をかけて、広大な施 見えなかった。 る。もっとも戦争中、この研究所のち設が建設された。ここではたらく科学 この一つの研究センターに、すくなかくに二個の爆弾がおとされたことが者は、しまいには二〇〇〇人をこえ た。これら科学者たちは、ここでロケ くとも四〇の秘密兵器研究施設があつあったが、これはちかくの町とまちが ットの実験をし、とくに号誕生の た。大部分は、兵器の改良と、弾道飛えて爆撃されたものだった。 シュッツトガルト〔ドイツ南西部〕もとになったシリーズ計画に従事し 行物体のテストをやっていた。大きな た ( > 2 号は、 4 という名で、科学 から約一三キロほどはなれたルイト 超音速飛行機用の風洞が建てられた が、通風ロは、地形上の理由で、地上に、もう一つ、こうした研究所がつく者たちには知られていた ) 。この研究 におかれていた。そこで、これを擬装られた。ここも、ゲーリング航空兵器センターは、現在の東ドイツとポ 1 ラ ンドの国境にあり、当時はドイツ領だ するため、 - この敷地一帯に、すみから研究所と同様、有名な航空の先駆者の った、オーデル川の河口の島につくら すみまでニセの農家を建てた。そし名前をとって、グラーフ・ツェッ。ヘリ て、通風口をおいた場所に小さな小屋ン航空研究所とよばれた。しかし、これた。 この島は、ウゼドム島という名前で を建てた。 こはやがて連合軍のス。ハイに発見さ
りすぐった若い科学者が、開戦前にあまで、ここでテストされ、戦争がすす究所 ) 、独立の会社などが、おおくの つまった。かれらは金と地位をあたえむにつれ、兵器の評価や実験分析は、研究をうけもった。 ゴットウにあるおなじような実験場で海軍の組織も、根本的には、これと れ、さらに世界を震撼〔しんかん〕 似ていた。ここでも中心となる海軍省 させるロケット開発のための施設をあおこなわれた。 化学兵器にのなかに、いくつかにわかれた下部組 たえられた。 も手のばす織があった。そして、陸軍の研究所と このグループは、戦前はクンメルス 当時ナチは、史上もっともおそろしおなじように、独立した民間会社の協 ドルフにいたが、一九三七年、ペーネミ 、ンデの陸軍実験場にうつり、ここでい結果をまねく化学戦争についてもか力と支持にたよるところがおおかっ た。海軍で兵器開発に関連した役所は 熱心に仕事をはじめた。のちになってんがえていた。ナチは、よりはやく、 より致死的な毒物をつくりだす研究海軍兵器局で、ここも軍需相シュ。ヘー ここの施設はプリーヒェロ 1 デとコッ アの管理をうけていた。 ヒエル〔ミュンヘン南方四〇キロ、チロに、おおくの時間と努力をそそいだ。 いくつかの専門化した下部組織は、 ル国境付近〕に分散された。連合軍がそして、戦争末期には、比較的単純な ペーネミュンデのセンターを発見し、原料で、いくつかの神経ガスを開発しいずれも陸軍と似ていて、実験や試験 た。これら化学兵器の開発と実験をす部門にわかれていた。これらの部門 ここに爆撃をくわえたからであった。 クンメルスドルフの実験場は、首都るセンターは、ラウブハンマ 1 付近のは、開発担当の部門と、サイ・ハネティ ックス ( 人工頭脳 ) のフィード・ ベルリンの近郊にあり、当時はたんに試験場にあった。 ここの全施設は注意ぶかく管理され方式で連結されていた。というのは、 ロケットと銃砲の射撃実験場として、 ており、カムフラージュされた建物は、実験のさいに生じた小さなトラブルや 開設されたものだった。ここには、一 五のべつべつの実験場があったという連合軍が超低空偵察飛行をやっても発改良すべき点を、すぐに理論づけし、 つぎの開発段階に役だてる必要があっ が、戦争中、これらの施設は利用され見できなかった。 たからだ。 " 最適のものがのこってい なかった。ドイツの最新式秘密兵器またこの全設備を支援するために、 く″という、一種の機械的方法で質が は、それぞれの特色がハッキリわかる教育施設、二〇〇以上の大学 ( 大学研
発射準備なった「ビッグ・ しかしこの射程距離では、もっとも距離をのばすには、ロケットをつけるていた。 重要な目標、ロンドンを攻撃するにはのがいい、ということがだんだんわか ロケットは、大砲から発射される弾 ふじゅうぶんだった。そこで「ビッグってきた。そして発射時の弾丸初速を丸よりも、構造が複雑なことはたしか ーサ」は、セ・ハストボリ〔ソ連南ますために、二段式ロケットが設計さ だ。しかしその威力は、もっと破壊的 西部、クリミア半島にある海軍基地〕れた。このアイデアは、現実のものとで、ドイツは、この分野でなしとげた 砲撃だけにつかわれた。 はならなかったが、当時ドイツ軍が学進歩によって、すでにロケット工学の ロケットびとっていた戦訓ーーー長距離攻撃には世界的リーダーシップをとっていた。 弾の構想大砲よりもロケット弾のほうが威力が このため世界最大の大砲「ビッグ・ この砲を操作していた連中は、射程あるという理論ーー・をみごとに表現し 1 サ」があってこそ、ドイツのもっと
これにつづくⅧ、。 Ⅱ型は、いずン近郊プランデンプルクとポッダムに せんぶで約三万三 的な存在となった。。 れも武装とそのコントロール装置に改本拠があった ) では、超小型飛行機が 〇〇〇機製作された。しかしこれより も、もっとおどろくべき計画が、設計良がくわえられたが、またしても、研つくられた。 これは川といって、全長わずか 究と開発が中断されるという、うきめ 室のなかでねられていたのである。 八・一メートル、重量約一〇〇〇キロ ( 低速、低出力だが、火力のにあってしまった。 であった。それでも時速一八〇キロで しかしの一種「ホルニッセ 大きい複座双発戦闘機 ) は、いわゆる 〔スズメばち、うるさい人の意〕は偵四五〇キロの航続距離をもち、ポー 「アドルフィーネ」の原型となった。 「アドルフィーネ」は六一〇エン察機としては満点で、迎撃機としてト〔ドイツ潜水艦〕用の偵察機、という 設計目標 ( 理論的にはすくなくとも ) ジン二基をもち、最高時速は六二〇キも、りつばにつかえた。またメッサー ロ。この飛行機は、ひじように長距離シュミット社は、この本の後段で説明にかなったものだった。 この超小型飛行機は完全な折りたた の作戦用に計画され、米本土爆撃の目するが、ジェット推進分野でも、大き 的につかわれるように工夫された。しな進歩をとげた。ドイツは、こうしたみ式になっていて、ポートの艦尾甲 重要な研究計画によって、ターボ・ジ板上の直径二メ 1 トルの金属製の筒に かし、この計画も実現しなかった。 しまいこむことができた。潜水艦が海 はべつの面でも開発がつづけェット機では世界をリードした。ター ボ・ジェット〔ガス・タ 1 ビン・エン面に浮上して、この機を組み立て空中 られ、を生みだすことになった。 これは自動閉鎖式の燃料タンク〔被弾ジンの一種〕は、当時連合国では、ま偵察に発進するまで、わずか一〇分し機 小 しても自動的に燃料もれをふせぐ装置だほとんど未知のもので、戦争中の数か、かからないといわれていた。 超 しかし波が高さ一メートルくらいもと のついたタンク〕を翼のなかにいれるある秘密研究開発のなかで、もっとも あると、この飛行機はポートに着艦大 という、あたらしいアイデアで、当時意義あるものだといわねばならない。 としては大へんな進歩だった。もっと ポート積載することが困難だった。このため、こ超 の超小型機のアイデアもやがて廃案となり、また も、これは実際には理くつほどうまく はいかなかった。 いつぼう、アラド社の工場 ( ベルリしてもドイツの秘密兵器の一つが、ス