と、メッサーシュミットの飛行機にと ドイツが戦争に勝ちかかっていると うることがハッキリしている。 まさに、それがジェット・エンジンき、このようなカケをすることは、ムりつけられていたが、最後には、べっ ダなことと、かれらはかんがえた。この会社でつくられたエンジンに替えら であった。 のため初期の成功は、線香花火のよう .. , れてしまった。 ドイツでこの分野を開拓した人はハ エルンスト・ハインケル教授は、歴 インケル教授だが、かれは一九三〇年なものだった。政府レベルで研究をさ 代から、タ 1 ビン理論に関心をいだいらにつづけることは、もう不可能だっ史上はじめて、ジェット・エンジン てきた。Ⅷが最初のテスト飛行をた。そしてハインケル教授は、たった ( 秘密呼称は 3 といった ) で飛 おこなったのは、一九三九年〔昭和十一人で設計室にこもり、試作機改良の行機を飛ばすことに成功した人物とい 仕事でもする以外にやることはなかつわなければならない。しかし、かれは 四年〕六月で、このときはワルター ロケット・エンジンを装備してペ 1 ネた。この結果、生産されたのが、夢想的な職人でこそあったが、開発技 で、完全に極秘のうちに研究計画が師として成功したわけではなかった。 ミュンデで実験された。 ジェット・エンジンを、実際に量産 それからしばらくたって、この飛行着実にはじめられた。 しかし、ハインケル教授が沈黙をますることに成功したのはユンカ 1 ス社 機の改良型にハインケル・ジェット・ もっていたため、が、実用化さで、その製品は呱タ 1 ビンとよばれ エンジンがつけられ、となっ た。これは一九三九年八月の末に、われるようになったのは、ずっとあとのた。 ュンカース ずか五、六分しか飛ばすことができな一九四五年になってからだった。 タービン は翼長七メートル、最高時速 かったが、これが世界で最初のジェッ ュンカースのジェット・エンジンの ト推進飛行機だった。このことは、さ八〇〇キロを上まわり、航続距離は七 っ〇〇キロにたっした。しかしハインケ歴史は一九三九年にさかのぼる。この っそく空軍省の士官の耳にはいり、 ときデッサウのユンカース工場で、 いでヒトラ 1 の耳にたっした。しかル・ジェット・エンジン自体は、じっさ し、これらの人たちは、さして感銘をいには、それほど成功ではなかった。型ジェット・エンジンが設計された。 ひところこのエンジンは、ハインケルその規模が小さかったため、実験上、 うけなかった。
そこで、こんどは型の作業がはンジンもどんどん大きなものがつくら台にとりつけられた光景は、当時とし じまった。これはずっと実用的で「マれていった。 ては、きわめて印象的なものだったと ックス」と「モリツツ」と名づけられた しかしまもなく、この施設がきゅうったえられる。またこれが最初の作戦 二つのロケットが、高度二〇〇〇メ 1 くっすぎることがハッキリしてきた。用大型ロケットであったことは、歴史 トルまでの垂直飛行実験に成功した。 そこで、・ハルト海のペ 1 ネミュンデに的にも大きな意義があった。 「マックス」と「モリツツ」の名前総合研究センターがつくられた。ペ 1 しかし、まだ完全なものとはいえな は、ドイツの漫画本の主人公からとっネミュンデは、すでに第一章でのべた かった。ロケットの誘導装置がきわめ たものである。 ( かれらは、いまだにように、戦争後半の時期にきわめて重て幼稚で、失敗は目にみえていた。こ ドイツの漫画に登場している ) 要な場所となるところだ。やがてロケのため型は、一度も飛行に成功し ロケットの中心 ット兵器開発の中心地となったのであなかった。しかしいまやドイツは、長 ペーネ、、、ユンデる。 距離秘密兵器の必要にせまられ、民間 これらのロケット実験は、ドイツの ロケット開発グループが、ペ 1 ネミ のあらゆる会社が、この兵器開発にい 北海沿岸でエムス川の河口にちかい、 ュンデにはじめて施設をつくったのろいろな面でまきこまれはじめた。 オーストリア かっての有名な保養地、ポルクム島では、一九三七年の春だった。そして同 おこなわれた。この前代未聞のロケッ年九月には、はやくも第一回のロケッ の学者も使う生 ト実験の成功は、またちょうどよい時ト発射実験がおこなわれた。このとき 空軍は、オーストリアの代表的な口 期であった。一九三五年のはじめのこのロケットは、大型になり、改良されケット工学者オイゲン・ゼンガー博士 とであった。これ以後、この秘密兵器た新式の型で、液体酸素・アルコをまねき、トラウエンに研究所をつく 開発のペ 1 スははやめられた。ドルン 1 ル燃料エンジンの推力は一三五〇キった。ゼンガー博士は、この研究所兵 ベルガ 1 は、今までよりおおくのスタ 口をこえていた。重量は七五〇キロでで、ディーゼルオイルと圧搾酸素を燃前 ッフをわりあてられ、予算もふくれあ全長七メ 1 トルであった。 料として、三〇分間飛行できる液体燃 がった。それにつれて、ロケット・エ スチ 1 ル製の支柱でできた発射実験料ロケットのエンジンの試作に成功し
言している。この見通しは、けっしてた。かれの自伝が出版されたのは、戦は、アメリカのマサチ = ーセッツ州の まちがっていないようだ。 後の一九五九年のことである。この自オー・ハーンで、最初のロケットを大空 ロシア革命以後も、チオルコフスキ伝は一九二七年に書かれ、かれは一九に打ちあげた。紡錘状のロケットは二 ーの人望はたかまり、一九一九年に四五年に死んでいる。かれの初期の仕メートルの発射台から飛びあがったも は、ソビエト科学アカデミ 1 の会員に事が、いかに将来を見通したものであのの、滞空時間は三秒もなかった。し えらばれた。しかし当時のロシア人ったかが証明されたのは、戦争がおわかし翌年には、四秒間以上飛んで、こ は、かれの宇宙旅行にかんするくわし って数カ月後のことである。 の記録を更新した。 その後一二年以内に、かれは小型ロケ い説明を、正当に評価せず、かれを先ゴッダードは、一九一一年に博士号 覚者としてより、むしろ、空想家とみをうけた。しかしかれは、それ以前か ットを時速約九六キロ以上のスピード なした。このため、チオルコフスキー ら液体燃料ロケットの理論を研究してで六八メートルの距離をとばした。一 以後、ソ連には、偉大なロケットの専いた。 九三〇年には、時速八〇〇キロで、高 門家はあらわれなかった。 第一次大戦中、かれは二つのロケッ度六八〇メートルまで打ちあげること 初のロケット トをつくった。これは、いわばロケツに成功した。ゴッダードは、ほとんど 米のゴッダード トの草わけで、成功をおさめたが、戦世に知られないまま死んでしまった ロケット実現への道を歩んだのは、争がおわったため、かれのロケット研が、ロケット史上、確固たる基礎をき生 アメリカ人のロバ ート・・ゴッダー究は中断してしまった。 ずきあげ、独自の地位を占めた先駆者甼 ドだった。かれは、模型をつくり、 実翌年、かれはこの仕事をつづけるたであった。 験テストをやった。世界で初めて液体めの研究願いを申しでた。その宣誓書この二人につづいて、ロケットを研 器 燃料ロケットを飛ばすことに成功したにつけた題「超高空にたっする方法」究し、ロケットを、小規模な実験的領兵 のは、かれだった。 は、ロケットについて発表した、かれ域から、本格的な科学の領域に押しす前 すめることに成功したのは、ドイツの しかし、ゴッダードは生前は不遇だの最初の論文である。 研究者だった。 った。かれの真価はみとめられなかっ 一九二六年一二月十六日、ゴッダード
とびこむ。たちまちワイヤはプロ。ヘラ ペラのいきおいで、おそらくワイヤは、ただのお話ではなかった。科学者 にまきっき、ワイヤをつるしている気が断ちきられるであろうし、おおくのの気まぐれでもなかった。そのおおく は、きわめて重要なものだった。 球は飛行機のほうへまきとられて接近ケープル爆弾が投下されたにしても、 する。このとき気球についている爆弾飛行機を破壊するほど効果的ではなか それらはいわば、まさに地球を破壊 ったとおもわれる。成功した記録もいするほどの兵器で、今日なお驚異の目 が破裂して、飛行機を撃墜するという 寸法だった。この奇抜なアイデアは、 くつかはあるが、他の " 秘密兵器〃同をもってみられている。そして、これ トップレベルの機密計画にいれられて様、のちになって、話が大げさになつらは、あやまった目的と、悲劇的かっ てしまったようである。 いたのである。 残酷な、ゆがめられた良心という状態 しかし、じっさいには、これも成功 しかし、こういう絵そらごとの新兵の下におかれた、狂信的な民族によっ しなかった。なぜなら、回転するプロ器とはべつの、いくつかの秘密兵器てつくられたのであった。
し、じっさいには、時速六五キロ以上 はでず、晴天以外の日はだめで、成功 したという記録もない。 米国フォ 1 ド社製 > 8 エンジンっき の約五メートルほどのモ 1 タ 1 ポート もっくられた。これもまたラジオコン トロ 1 ル、あるいは、操縦士が目標の ちかくでポートから海中へとびこむと いう方法がとられた。命中すると、ポ 1 トに積んだ四五〇キロ爆弾が爆発する 仕くみだった。しかし、じっさいには、 あまり成功せず、のちに廃棄された。 大半が失敗か 宣伝しただけ けつきよく、戦争中宣伝につかわれ た多数の秘密兵器は、存在していなか ったことが、戦後になって明らかにな ったのである。敵の領土の広大な地域 を絶滅させるような超強力ウイルスな どはなかったし、また〃殺人光線〃 ( ま えにのべた " 音波砲″は例外として ) なども実在しなかったのである。 >N 号の弾頭ヒューズ、基部ヒューズ、起爆装置 無反動対戦車砲の発射実験
つくられた。その大半は試作実験用で歩前進した兵器となった。これと似た性にとぼしく、ふつう、スピ 1 ドが時 あったが、一部は作戦用にもっかわれ「マルダー」〔てん・貂〕という艇も、速約一二キロくらいまでしかなかった たようだ。「へヒト」は切りはなしがおなじ方式でつくられた。動力には、 が、「ハイ」は約四〇キロの高速力で、 できる弾頭をつけた魚雷で、性能はあネーガーーモルヒ型の内燃機関ではな二時間も潜航できたのである。 まりよくなかったが、電動モータ 1 でく電動モーターを使用した。 この潜航艇は、水底に六〇時間ほど うごいた。またすでに説明したような シュノーケルっじっととまっていることができた。こ 空気浄化装置が、まだ開発されていな きの小型潜航艇んなに長時間潜水できるのは、一種の かったので、乗員は酸素ポンべとマス これらの小型人間魚雷の成功で、設 シュノーケル〔吸気装置〕がついてい クを手ばなせなかった。 計技師たちは、ミニチア〔小型〕潜たからであった。もし初期の研究がな つぎにつくられたのは「ネーガー」水艦にちかいものがつくれるという自かったら、この最初の小型潜航艇の実 〔黒人〕 ( 親子魚雷計画 ) だった。こ信をもった。最初に設計されたのが験は不成功におわったかもしれない。 れは二つの魚雷をくみあわせたもの 「ハイ」〔さめ・鮫〕で、これはおどあるいは、すくなくとも、長時間の潜 で、ガソリン・エンジンをつけた上のろくべき進歩だった。 航などおもいもよらず、したがって、 魚雷に人間がのり、下にはふつうの魚「ハイ」は量産までいかなかったが、 こうした実験をする必要もなかったの 雷をとりつけていた。この「ネーガ 小型潜航艇というものが、実用面でどであろう。 ー」も乗員は酸素マスクを使用しなけれだけすぐれたものであるかを証明 その後、小型潜航艇は急速に進歩し ればならなかったので、行動は不自由した。両側が平らで、ちょうど金属でた。「ビ ー・ハー」〔かいり・海狸〕がそ だった。このため「ネーガ 1 」は改良できた魚のようなこの潜航艇は、内燃れだ。最初は一人のり用に設計された され、空気を供給する注人装置がつけ機関 ( ある種のディーゼル・エンジン が、のちになってリュ 1 べックのドレ られた。 で、りつばに成功した ) を動力とし、 ーガーウエルケ工場で二人のりのもの この「ネーガー」 2 型は「モルヒ」水中で時速四〇キロのスピードをだすが開発された。船の底のくぼみに二本 〔いもり〕という名前がつけられ、一 ことができた。この種の潜航艇は機動の電動式魚雷がとりつけられるように 152
この種のロケット兵器の取りあっかい費量は、毎秒一二五キロという割り合を調節して発射姿勢を安定させられる いだった。また排気ガス速度は毎秒一一かどうかが成否のカギだった。ロケッ を習熟させるためでもあった。 しまいには、ロケットの射程距離を〇八メ 1 トルで、目標にたいする誤差ト全体が成功するかどうかのキメ手に 四一六キロまでふやし、スピードを時率は、当事者にいわせると″四。ハーセなったのである。 一トンもある弾頭が、弾道コースを 速五〇〇〇キロ以上にするため、いろントよりまし〃であった。 なぜ、これほどたくみにコントロー はずれてコントロールできなくなり、 いろ改良がくわえられた。 おおくの民間団体や民間会社は、こルできたかという理山としては、安定打ちあげてすぐに爆発でもしたら大変 の研究と開発を協力したが、このなか翼と排出気流を調整するサイ。ハネティなことになる。ドイツ人は、この排気 には、飛行船のツェッペリン社や、飛ックス「人工頭脳」自動制御装置があげ噴流の調節ということをロケットのコ られる。この安定翼を両サイドにうご ントロール手段としてつかったが、こ 行機のハインケル社もあった。 》 2 号のメかすことによって、ロケットの進路をれはやがて、他の国にもっかわれるよ カニズムわずかにかたよらせ、ロケット弾道をうになった。 ついにヒトラーは、長距離ロケット だが最後にできあがった号の最すこし変えることができたのである。 終型ーー・これが生産段階にはいり、五このような方法で、ロケットはまっすによるロンドン攻撃案に心を動かし、 、じっさいに、どのような問題点がある生 〇〇〇基以上っくられたーーーはきわめぐに飛び、きめられた時間ピッタリに 誕 て画期的な兵器で、たしかに、すばら目標にむけてカジがとられた。尾翼にのか、こまかい調査を命じた。 号 しいロケットだった。全長一四・〇三昇降舵もつけられていたが、これはさ ヒトラーの構想は、約五〇〇〇基の ほど重要なものではなかった。 ロケットをツルべ打ちにし、もしく。、 メートル、直径一・六五一メートル、 とくに、大事な初期の打ちあげのとは、できるかぎり、同時に発射し、大兵 発射時の重量は一二・五トン、その七 〇。ハーセントは燃料だった。このロケきにはーーーロケットの速度がおそいの量集中攻撃をしようという点にあった前 ットの燃料の重量は三七六〇キロで液で、尾翼の昇降舵は有効にはたらかなようだ。 ロケット・エンジンの噴流しかし、ドルンベルガ 1 はこの考え 体酸素が五〇〇〇キロ、燃焼室での消かった
の小屋は " やっかいごとが、ぜんぶお ープが研究をつづけ、ロケット自体 ロケット戦 8 に、ふつうの液体酸素とアルコ 1 ルに わったら〃あつまろうということで、 闘機 E 設計技師たちが秘密の会合場所にえらよる推進機関をつけるという改良をく だが、アイデアだけはのこった。一 んでおいたのだった。 わえた。このフォン・プラウンのエン九三〇年代の初期からロケット機の開 こうして、ドイツの冒険的な計画の ジンは、たしかに一九三七年、 発にとりくんでいたリピッシュという 一つは、夢のようにコッソリと消えて戦闘機に実験的に装着して成功をおさ設計技師は、このロケット・エンジン いった。戦争に役だつには、あまりにめた。このときの実験では、ロケット・ の開発をつづけようと決心した。かれ も、おそすぎたのであった。 エンジンの推力は九〇〇キロをこし、 はすでに何年間かにわたって、無尾翼 「ナッテル」につかわれたロケット・ 燃焼時間は三〇分におよんだ。 機の開発の仕事をしていた。そして一 エンジンは、ワルタ 1 ・エンジンで、 しかし戦争がはじまり、ポーランド 九四〇年までに、推カ三〇〇キロのワ これはヘルムート・ワルターがはやく が簡単に征服されると、このロケット ルター ・ロケット・エンジンを動力と から開発し、ノイハルデンベルクの飛戦闘機の必要性がへってきた。当時のする試作機を時速四八〇キロで飛ばす 行場で実験ずみのものだった。 ドイツ政府の典型的なやり方だった ことに成功していた。 このエンジンは、もともとロケット が、この計画への関心がさめ、とうと そこでリピッシュは、あらたに小型 推進戦闘機ハインケルのためにう 廃棄された。 (-) はこのようにしの、ぶかっこうな形をしたメッサ 1 シ 設計されたものであった。それをベー て、誕生するまえに、すでに消滅してユミットを設計した。これは ネミュンデのフォン・プラウンのグルしまったのである。 液体燃料ロケットを動力とした無尾翼 機だった。最初のテストは曳航飛行だ ったが、一九四一年五月十日に、ディ ットマール大尉がのりこんで、このワ ルター ロケ . ット・ エンジンをつんだ 試作機で飛行して最高時速九六〇キロ
とは気ちがいじみたムードのなかでつ 点は、これが完全には開発されなかつややこえた。全長約五・九五メ 1 トル たということである。滑空テストは実で一分間で三三〇 0 メ 1 トルの高度にくったものが、はたして成功だったと 施されたのだが、終戦になってしまったっすることができた。戦闘のさいはいえるだろうか。 たために、はついに一度も動力時速九六〇キロちかくのス。ヒードで飛のようなロケット機を初期 で空を飛ぶことはなかったのである。 び、推力は一五八七・五から二九五〇に実験していたことをみれば、ドイツ 宇宙ロケットキロまで調節することができた。 人はたしかに、こうしたアイデアが現 開発の基礎に O 型はやや大型で、二人のりとして実のものとなると信じていたようだ。 だがそれでも、これら先覚者たちはつくられていたようだ。 そうだとすれば「ナッテル」の開発も、 こうした実験的飛行機についての重要たしかにアイデアは基本的に実をむ一部の戦史家が指摘するほど、まった くの気ちがいじみた行為だったとはい な記録を後世にのこした。『第二次世すんだ。戦争初期には設計図上のアイ デアにすぎなかったのが、一九四四年えないのではないだろうか。 界大戦のドイツ秘密兵器』の著者・ ルサールは一九四四年末、ライプチヒにはロケット推進式戦闘機として成功 ハッキリいえることは、もし戦争が 近郊のプランディス空港から燗でし、作戦にくわわった。このことは戦もっとながびき、ドイツ軍や日本軍が 離陸したオレイニク大尉の活動につい時下の兵器開発の記録として、重要なもっとおおくの秘密兵器を開発してい て書いているが、同機は五分間に数機ことである。「ナッテル」機のその後のたらー・ー・結果がどうなったかはともか かれらは、さらにおそるべき存ぶ の連合軍爆撃機を撃墜したという。こ発展がどうだったか、真相はわからなく れ以後、この新型ロケット戦闘機は戦い。だが、これはたしかに仕事をいそ在になっていただろう、ということだ。機 略上の要地に配置され、重要な工場をぎすぎた。製作をいそいだし、材料もまた、こうした秘密ロケットの開発戦 敵の爆撃からまもるのにつかわれた。粗悪なものだった。いくらまにあわせが、戦後の宇宙ロケット開発の端緒にツ ケ ロ の総重量は四〇八二キロをとはいえ、必要以上にいそぎすぎ、あなったことは否定できない。 105
「ホッホドルックプンべ」砲】枝のよ れ、試射する直前に、爆撃をうけて破ルを開発したために、あたらしい研究 うにわかれたいくつもの砲身がわかる の道もひらけた。・ワルター合資会 壊されてしまった。 当初、計画されたように、この射程社では、海軍用ロケット兵器にかんしが、燃焼が不完全で、魚雷が水面にの 1 ガン〃は五門 一四〇キロの″スー。ハ て興味ある研究がおこなわれ、この社こす航跡が、きわめてハッキリしてし つくられたが、これが活動したとしたの研究室から、いろいろ変わったアイまった。そのうえ最大航続距離が一八 〇〇メートルにもたっしなかった。し らロンドンは手いたい打撃をうけてい デアが生まれた。 ただろう。カレーのこの怪物は、砲身たとえば、ポート用の艦載ロケッ かもこの実験で、エンジンをスタート が一四〇メートルもあり、直径一五〇トの水中発射装置の実験などもおこなさせようとする時、点火によって、燃 ミリの弾丸を発射することになっていわれた。 焼ではなく、完全な爆発がおこること たのである。 この会社の営業部長はワルタ 1 海軍がわかった。このため、ドイツの海軍 優秀なコントロ少佐 ( キ 1 ルの有名なワルター教授の当局は、すっかり口ケット魚雷への関 ール・システム弟 ) で、工場はポサウ〔キール南東三心をうしなってしまった。 このように、ドイツは各種のミサイ〇キロ〕にあった。 だが、そのかわり、この仕事で他の 機 ルや特殊弾を開発した。これらのコン ロケット問題を探究する道がひらけた。このエ トロ 1 ル・システムは、当時としては 推進魚雷場のオルデンプルク博士指導のもと ジ ここでは、ロケット推進魚雷の研究に、断続的に爆発をおこすロケット・ きわめて進歩したもので、また・ハラエ て ティにとんでいた。こうした誇りうるもしていた。終戦の二年前、そうしたエンジンをとりつけた魚雷が発明されけ たが、これは、反動力でうごく魚雷とき 専門知識が、指導を誤った専制独裁者魚雷の注文をうけたが、その生産は、 いう意味で成功したばかりでなく、魚に の戦争の道具に利用されたことは、なかならずしも成功とはいえなかった。 んと悲しい不幸なことだったかと、おこのときは、酸素と過酸化水素と触雷の進路ちかくの海中に敷設された機世 媒、それに水 ( 反応温度をひくくする雷を、この衝撃波で爆発させることが おくの戦史家は指摘するのだった。 だが、もちろん、ロケットやミサイため ) の混合物を燃料とした。ところできた。