学者は評判をおとしはじめ、大学教授ユダヤ人の血がまじっていたにもかか そして、大ぜいのものが学問的な研 もすこしずつ人気をうしなった。しかわらず、順調に空軍省技術局長になっ 究からはなれて、つぎつぎと技術労働 し、技術者や実用的な科学者や技師た た。ヒトラーにいわせれば″雑種″的者となった。純粋な科学研究は、応用 ちは、いまだかって前例のないほど、 人物だったが、ゲーリングは、この男科学や設計、開発の分野に移りかわる たかい地位にのぼった。 の知的能力と実用的な技術は〃血統書傾向にあった。技術の発達を尊重する このように、重点の置き方が変わっき〃のものだとかんがえて、上級ポことが一般的風潮となり、これはドイ り、とくにたくさんのドイツ人科学者ストにおいたのであった。 ツ人の心にすぐにうけいれられ、そだ だが、ヒトラー政権が頭でつかちのてられた。 が、おそらく″人種的劣等性〃〔ユダ ヤ系〕の理由で、差別されるようにな知識人をきらったことは、ヒトラーに 兵器産業を発達 ると、かれらのおおくは、みずから住とって、あるていど望ましい効果をあ させた講和条約 みなれた土地をはなれ、集団で国外にげた。それはまず、ドイツ国民が無定 ドイツには、高度の技術という伝統 のがれていった。 見に、アカデミックな専門的知識を盲があるが、同様に規律をまもり、努力 信するのをふせぐことができたし、まを惜しまないという伝統もある。だか 一九三〇年代のおわりには、ドイツ の学界、産業界はすっかり事情が変わたドイツ国民自身も ( ひろく宣伝されら、おおくの大企業は、最新の商品を輸 ってしまった。ただゲーリング〔空軍たゲルマン民族の″固有の優越性〃と出して巨利をえた。このなかには、軍 の最高指導者〕だけが、ドイツの知識いう理由で ) 自分たちには高度な専門需品もふくまれていた。 人をことのほか尊敬し、かれらをフル家は必要はないと信じてしまった。国やがて、大企業を中心とするドイツ 民はだれでも、技術的な間題や科学社産業は、軍需品の面に努力を集中する に利用した。 会に精通できるはずだ、と思いこんだようになった。ドイツは、効果的な新 ゲーリングの協力者の一人に、ミル 鋭兵器を供給できる、数すくない国の ヒ将軍〔空軍元帥〕がいたが、かれはのである。 ドイツの「。ヘーネミュンデ秘密ロケット実験センター」の計画図
りすぐった若い科学者が、開戦前にあまで、ここでテストされ、戦争がすす究所 ) 、独立の会社などが、おおくの つまった。かれらは金と地位をあたえむにつれ、兵器の評価や実験分析は、研究をうけもった。 ゴットウにあるおなじような実験場で海軍の組織も、根本的には、これと れ、さらに世界を震撼〔しんかん〕 似ていた。ここでも中心となる海軍省 させるロケット開発のための施設をあおこなわれた。 化学兵器にのなかに、いくつかにわかれた下部組 たえられた。 も手のばす織があった。そして、陸軍の研究所と このグループは、戦前はクンメルス 当時ナチは、史上もっともおそろしおなじように、独立した民間会社の協 ドルフにいたが、一九三七年、ペーネミ 、ンデの陸軍実験場にうつり、ここでい結果をまねく化学戦争についてもか力と支持にたよるところがおおかっ た。海軍で兵器開発に関連した役所は 熱心に仕事をはじめた。のちになってんがえていた。ナチは、よりはやく、 より致死的な毒物をつくりだす研究海軍兵器局で、ここも軍需相シュ。ヘー ここの施設はプリーヒェロ 1 デとコッ アの管理をうけていた。 ヒエル〔ミュンヘン南方四〇キロ、チロに、おおくの時間と努力をそそいだ。 いくつかの専門化した下部組織は、 ル国境付近〕に分散された。連合軍がそして、戦争末期には、比較的単純な ペーネミュンデのセンターを発見し、原料で、いくつかの神経ガスを開発しいずれも陸軍と似ていて、実験や試験 た。これら化学兵器の開発と実験をす部門にわかれていた。これらの部門 ここに爆撃をくわえたからであった。 クンメルスドルフの実験場は、首都るセンターは、ラウブハンマ 1 付近のは、開発担当の部門と、サイ・ハネティ ックス ( 人工頭脳 ) のフィード・ ベルリンの近郊にあり、当時はたんに試験場にあった。 ここの全施設は注意ぶかく管理され方式で連結されていた。というのは、 ロケットと銃砲の射撃実験場として、 ており、カムフラージュされた建物は、実験のさいに生じた小さなトラブルや 開設されたものだった。ここには、一 五のべつべつの実験場があったという連合軍が超低空偵察飛行をやっても発改良すべき点を、すぐに理論づけし、 つぎの開発段階に役だてる必要があっ が、戦争中、これらの施設は利用され見できなかった。 たからだ。 " 最適のものがのこってい なかった。ドイツの最新式秘密兵器またこの全設備を支援するために、 く″という、一種の機械的方法で質が は、それぞれの特色がハッキリわかる教育施設、二〇〇以上の大学 ( 大学研
屋根はスライド式になっていて、それ、爆撃された。 か見えない。しかし、この、のどかな の装置をつかうときは、全体がそっく この研究所がうけもっていたのは、 ドイツの田園が、現実にはカムフラ 1 ジュされた、まったくちがった世界だ りそのままジェット気流のダクトにな当時のあたらしい航空力学だった。ロ った。 った。つかいおわると、ふたたび目だたケットやミサイルなど超高速秘密兵器 ここは、ゲーリング航空兵器研究所ぬように屋根がもどされ、支柱だけがの模型を、厳密な学問的条件のもとで で、最高機密の研究をする、主要なセ外にのこるという仕くみである。このテストしていた。 ウゼドム島の ンターの一つだったのである。中央部仕かけは、だれにもわからなかった。 この巨大な施設は、だれにも知られ 秘密研究所 の建物は、すべて樹木のかげの地下に あり、木の枝がこれらの建物入り口をずに建てられ、戦争中ずっと、だれに ペーネミュンデには、一億二〇〇〇 完全におおっていた。空からはまるでも知られずに運営されていたのであ万ドル以上の費用をかけて、広大な施 見えなかった。 る。もっとも戦争中、この研究所のち設が建設された。ここではたらく科学 この一つの研究センターに、すくなかくに二個の爆弾がおとされたことが者は、しまいには二〇〇〇人をこえ た。これら科学者たちは、ここでロケ くとも四〇の秘密兵器研究施設があつあったが、これはちかくの町とまちが ットの実験をし、とくに号誕生の た。大部分は、兵器の改良と、弾道飛えて爆撃されたものだった。 シュッツトガルト〔ドイツ南西部〕もとになったシリーズ計画に従事し 行物体のテストをやっていた。大きな た ( > 2 号は、 4 という名で、科学 から約一三キロほどはなれたルイト 超音速飛行機用の風洞が建てられた が、通風ロは、地形上の理由で、地上に、もう一つ、こうした研究所がつく者たちには知られていた ) 。この研究 におかれていた。そこで、これを擬装られた。ここも、ゲーリング航空兵器センターは、現在の東ドイツとポ 1 ラ ンドの国境にあり、当時はドイツ領だ するため、 - この敷地一帯に、すみから研究所と同様、有名な航空の先駆者の った、オーデル川の河口の島につくら すみまでニセの農家を建てた。そし名前をとって、グラーフ・ツェッ。ヘリ て、通風口をおいた場所に小さな小屋ン航空研究所とよばれた。しかし、これた。 この島は、ウゼドム島という名前で を建てた。 こはやがて連合軍のス。ハイに発見さ
っていた計画が、ヒトラーの作戦の変は、ベルサイユ条約〔一九一九年六月、は、連合国側の勝利をひっくりかえす 8 更や政策の変更で、突然ウャムヤのう第一次大戦の戦後処理のため、連合国ところまでは、科学技術を進歩させ、活 ちに葬りさられてしまったものもあっ とドイツがベルサイユで調印した講和用することができなかったのである。 た。 条約〕の条項と、ドイツ人気質のある ロンドン市民の疎開が論じられたの しかも、読者がこの本を読めばわか側面とにふれており、この点がわかりは、ヒトラーの電撃作戦のためではな ることだが、ドイツの科学者たちが現やすく説明され、じゅうぶんに論じらく、号や号によるロンドン攻 実にはたした成果はアン・ハランスなもれている。 撃のためだった。これは、まだ記憶に のだった。というのは、兵器のある分もちろんプライアン・フォードがくあたらしい。爆弾こそ、ドイツ最初 野では、われわれの想像以上に進歩が だした結論のなかには、科学者のあいの秘密兵器なのである。 おくれていたり、べつの分野では、一 だや、歴史家のあいだで異議をさしは これ以外にも、まだ多数の秘密兵器 九四五年以前に、戦争の勝敗を逆転ささむような点もあるだろう。 が研究開発されたが、今日まで、ほと せたかもしれないほどの兵器が、完成しかし、結論はハッキリしている。 んどの人が、この正体については知ら の域にまですすんでいたからである。 ナチの科学水準と科学にたいする考えされていない。しかし、こうした秘密 この本の、もっともおもしろい部分方はすすんでいたのだ。ナチは、勝っ兵器が、もし戦争に登場していたとし は、ヒトラーの誇大妄想による支配か ために必要な科学者と資源をドシドシたら、われわれの犠牲は、もっともっ ら、自由世界を救ったいくつかの事柄投人した。だが、われわれは永久に感と悲惨なものになっていたにちがいな が書かれていることである。その部分謝しなければならないことだが、ナチい。
ロケット研究所を視察するカイテル元帥 ( 左 ) と、ロケット研究所主任ドルンベルガー少将 ( 右 ) 管理する理事の監督下におかれてい科学者たちは、秘密部門の仕事をして当時のこの額は、今日にしてみれば、 いたものさえふくめて、すべて、自分きわめて巨額なものだった。これら科 研究指導課は、これら各部課の統一たちの仕事の成果を印刷物にしたがっ学者たちがはたらいていた環境は、今 日の水準からみても、すばらしいもの た。たくさんのレポートがつくられ、 政策を作成した。おたがいに気があっ た仲間意識をもつようにすること、生関係者たちに配布された。また、中央で、まぎれもなく 007 のジ = ームス ホンド的なム 1 ドだった。 活水準を引きあげ、職場の環境をよくの指導的な科学者たちが、遠い辺地で 巧妙にカム一 すること、豊富な財政的、物質的援助はたらく科学者たちの仕事に目をとお をおこなうこと、高度の研究を効果的すことができるように、数多くの年鑑 プラウンシュワイク〔プルンスウィ究 につづけるために必要な理論統一をは類も出版された。 ックⅡベルリン西方一一〇〇キロ〕近郊研 このように、士気と能率をたかめる かること、などといった仕事をやって ために、あらゆることがなされたのでに、広大な森林地帯がある。周囲はひ器 いた。 ろびろとした田園で、数すくない農家名 あたらしい発見があると、これを文ある。科学者たちは、おおくの面で、 書にし公表するセンターの役割をつとじゅうぶんにむくわれていた。たとえが点々とちらばっている。すくなくと も空中から偵察すれば、このようにし ば給料は、年間五五〇〇ドル相当で、 めたのが科学記録センターであった。
ドイツの科学者たちは、あたらしく も、とても信じられないほどである。 ィッの技術をすくなからず拝借しなけ 攻撃用の秘密兵器をつくりだすため こういうドイツの秘密兵器研究は、 ればならなかったことは、残念なこと に、たえず研究をつづけた。とくに航連合軍の″ペー ハー・クリップ〃〔紙だったにちがいない。 空工学の分野では、くらべもののないばさみ〕作戦ーー連合軍の情報員たち ドイツの新型機の秘密試作計画は、 ほど、すばらしい能力をしめして、新がドイツを横断して、人的物的資源のきわめて数がおおく、変化にとんでい 型飛行機のアイデアをつぎつぎと考えデータを、あつめられるだけあつめた た。号のような小さな無人飛行機 だした。それはおどろくほどバラエテ作戦ーー・によって、明るみにでた。しから、革新的な全翼飛行機〔機体・尾 イにとんでいて、いまかんがえてみてかし、アメリカの設計技師たちが、ド 翼などがなく、全体が翼のような形を ロケット戦闘機飛ぶ
ペーネミ、ンデの初期の >e•号ロケットの前て、スタッフに説明をする、ドイツのロケット科学者の第一人者、ティール博士 ( 右から六人目 ) ったため、レポ 1 トを読む時間がはぶ ドイツが戦時中におこなった秘密研究データをメモにとるが、あとからその によくみられた欠点を、すくなくともデ 1 タを検討できるように、記録を口けたことも事実である。また、実験そ一 1 ル紙にのこすといった機械的な仕事れ自体は、つねに質の高いものだっ 一つもっていた。それは機器をつかっ て実験を記録する努力をしなかったこをだれもしなかった。そればかりではた。たとえばコッヒ = ルでは、衝撃波究 ない。チ、 1 プをあとで調べて正確なの写真は、ツアイス社などで特別につ研 とであった。 たとえば、圧力計は、液体のつま 0 判断をくだせるように、写真にと 0 てくられた最高級光学機械で撮影され器 た小さな型チ、 1 プをつかった。実おくということさえ、だれひとりかんた。 ドイツの他の風洞もすぐれたもの 験のさいちゅう、十数人の技術者があがえなかった。 このように実験の結果を記録しなかで、最高風速、時速一万二九〇〇キロ引 つまって、熱心にノ 1 トをとり、その
Ⅵ号 V 恐怖の Fåッ秘 プライアン・フォート % 度近 ー 0f W 面 、一茨世界大戦ブックス⑩、日本語豎修 好評発売中 天皇の決断 昭和ニ十年 八月十五日 好評発売中 ヾリ陥落 ・ダンケルクへの 敗走 現在の米ソの宇宙船開発は、第二次世界大戦末期のドイ ツ、ヘーネミュンデ秘密研究所の青写真から出発してい るといえよう。それはウェルナー・フォン・プラウン博十 の V 2 号ロケットの設計図である。戦時中開発されたヒ トラーの秘密兵器は、ついにドイツの破滅をすくうこと はできなかったが、大陸間ミサイル、ジェット機、ロケ ット戦闘機、あるいは生物化学兵器など、おおくの分野 で未来につながっていたのである。 >r 号 >N 号 アービン・クックス著 / 加藤俊平訳 態を収拾すべく、耐えがたいポッダム宣言を 昭和ニ十年、蓮合軍は硫黄島、沖繩に進出し た。 m 四は日本の空をおおい、都市という都受諾して、終戦にみちびいた人こそ、天皇で 市は焼野原と化し、日本は減亡の淵にたたさあった。すみきった英知と、国民にたいする れていた。しかも軍部はなお本土決戦をさけ深い愛情からくだされた決断であった。 びつづけ、一億玉砕がせまっていた。この事 ジョン・・ウィリアムズ著 / 宇都宮直賢訳 一九四〇年五月十日、ドイツ軍は、オランダ、それに影なき第五列の流言に、英仏連合軍は、 なだれをうってダンケルクへ敗走した。パ ベルギー国境を突破し、西部戦線は火をふい はヒトラーの軍靴で踏みあらされ、フランス た。この日のために、ヒトラーは航空兵力と 機甲兵力の育成に心血をそそぎこんでいたのはわすか一カ月で、なんらなすところなく崩 だ。空には急降下爆撃機、地には無敵の戦車、壊してしまったのだ。 第、、秘恐 を密怖 丘の 〔著者〕プライアン・フォード 新進の著名な科学者。自然科学関係の執筆家 で、おおくの著書がある = とくに第ニ次大戦 中の科学的開発の過程を、克明に研究した著 述がひかっている。なお未発表のデータを多 数もっている点、今後を期待される著者であ V 1 号 V 2 号 < 恐怖のドイツ秘密兵器 > プライアン・フォード / 渡辺修訳 昭和 46 年 6 月 30 日 1 刷 昭和 52 年 12 月 19 日 20 刷 発行者 / 小野田政 編集者 / 白井勝己 発行所 / 株式会社サンケイ出版 東京・千代田区神田錦町 3 の 15 ( 〒 101 ) 大阪・北区梅田町 2 の 4 の 9 ( 〒 530 ) 印刷・製本 / 大日本印刷株式会社 ◎ 1971 Printed in Japan 検印省略 0020 ー 076619 一 2756 〔総編集長〕バリー 英国の著名な戦史・軍事評論家 ( プリタニカ 百科事典の海戦項目の執筆者、サンディ・タ イムズ・マガジンの戦史関係顧問、 ーネル 社版「第ニ次世界大戦史」編集者、 B B C 放 送局制作「大戦」シリーズの監修者である。 第ニ次世界大戦プンクス⑩ 800 円 サンケイ出月反 0020 ー 076619 ー 2756
た。三〇分間飛べるといらことは、当 8 え時としてはすばらしいことだった。 ロケット兵器開発にたいする関心 は、しだいにたかまった。ペ 1 ネミュ ンデの指導的なロケット科学者の一 人、シュタインホーフ博士は、戦争の 一タ初期に、全ドイツの科学者の約一二分の 一が、長距離飛行兵器の開発に動員さ れたことは確実である、といっている。 かれらの大半は、自分たちがやって いる仕事がどんな運命をたどるか知ら ずにはたらいた。かれらはたんに、航 行コントロール・システム、電気通 ンン信、燃料ポンプその他にわたって、依 ンン頼された研究をしていただけだった。 ロンドン攻撃 のロケットを このようにして、ペーネミュンデの のの 研究開発は、。ヒッチがあげられた。戦 号中 2 験争がちかづくと、陸軍省から究極兵器 > 実 】】をつくるようにとの要求書がおくられ 左上 てきた。この兵器は、ロンドンもしく
はじめに この本は、第二次世界大戦シリーズ界の国々は、ドイツの科学が、平和なこれっとめていた。そして、ドイツの のなかの " 兵器″編である。まだ知らときも、戦時中も、進歩していること科学は、すべて連合国側の進歩した科 学をマネたものにすぎないとも宣伝し れていない話が、たくさんもりこまれを無視していた。 第二次大戦のはじめ、連合国は、ドていた。これは、まったくバカげた話 ている。ドイツの科学技術は、うつり かわる世界情勢のなかで、いつも重要ィッ人の想像力では、けっして独創的だったばかりでなく、基本的に、まち な影響力をもっていた。それなのに世なアイデアは生みだしえないと、宣伝がいであり、なっとくできないことで あった。 ライン川東部にのびるドイツは、た ロンドン襲った > 爆弾