146 げ 「あれに乗ってて、タ空の下の坂をぐるぐる降りていくとき、乗っている人がひとつになっ たのを体験したことがあるの。日本人なのに、ひやつほーとか叫んで、ああ、千葉まで来て、 ここに人って、この晴れた日にこれに乗って、今、本当に楽しい、っていう気持ちでね。し かもこの日、この時間、二度とあわないこの人々とこのスピードの中にいることが切なくて ね、みんなが楽しむ事にひとつになった。あれはそれが 3 分だけだからなのよ。」 「そりやそうだ。」 「それと同じような感じで、そういう楽しさが過ぎたら何だかいづらくなっちゃって。やり すぎたのかな。」 言えば言うほど何かがずれていくのを感じながら、話し続けた。わかってもらいたいとい う欲望はなくて、彼にわかるようにフィクションを語っていた。うそではなくても、ぜんぜ ん本音ではないことだった。 私は熟した実が落ちるようにあの場をはなれ、川がどんどん流れていくのと同じに今に至 っているだけだった。そこに理屈はつけられない世界だ。 ならどうして説明しようとするのだろう ? それはきっとあの頃の彼への敬意からでたものだ。 未練、とも言い換えられる。彼は言った。
水 の形をしていたのは、苦しいけれどいいことだった。少なくとも、普通に暮らしているうち にいつのまにかノイローゼになったり、同じ会社の人と幸せな結婚をしてみたものの産まれ た子供を絞め殺したくなったりするという形で出るよりずっと、立ち向かい方がある感じが した。私は私の人生前半の重みを知っていたから、その位のことは覚悟していた。悲しいこ とだけれど、両親の家系に異常に癌の発生率が多い人とか、ひどい貧血症とか、そういうの を抱えている人と同じ位宿命的に避けられない血の重みを確かに感じていた。 「どうやっても私は私で、他の両親に育てられた子にはなれない」 彼と暮らしはじめた頃私があまりにも情緒不安定だったので、彼が私のために作ったお守 りがこの商売の試作品第 1 号だった。 一度持たせてあげたい、あなたにも。 この世でたったひとつだけ、私だけのためにあるもの、つきつめていくとみんなが欲しが っているそういう何かを形にしたもの。 たぶん乳児がはじめて母の乳首を口に含んだときのような感触なんだと思う。ここにいる ことをとにかく徹底的に全面的に許されているという柔らかな衝撃、昭の作るものにはそう いう力が宿っているのだ。 はい、と手のひらに渡されたとき、暖かい涙のスコールが心の天空をよぎっていくのがわ 血 がん
げ Ⅲかもね。」 「いつも、いまにしか興味がないようにしてるのよ。」 私は言った。 いえがら 「結婚ってそんなにいいか ? 家柄ってそんなに守ってくれるもの ? きれいな部屋とか、 いい暮らしはそんなに何もかものかわりになるのか ? 」 彼は言った。いやみなのではなく、率直なのだ。セックスの上でも、そういう性格だった 事を思いだした。そしてたまらない懐かしさにつつまれた。突如強烈に、あの頃の空気、気 持ちのテンションが私を襲い、丸ごと引き戻した瞬間だった。 「でもね、私にとって、子供時代に戻って幼稚園に行きたいって言っても行けないのと同じ ように、戻れないのよ。興味ないもの、セックスに、もう。」 「あれほどの情熱と体力を傾けておいて ? おまえほどの集中力を持った女は後にも先にも いないよ。」 「だからこそ、何かをつかみとってもういらなくなってしまったのね。もういいのよ。した くないことはしない、それのどこが悪いと言うの ? そんな人、大勢いたじゃない。あなた、 そんな、人の心の自由のことまで、とやかくいうほどセンスの悪い人だった ? 」 私は言った。彼にはどこかおかしい感じがあった。それは昔の彼には感じられなかったも
げ かげは医師のように冷静にその人の足をさすった。私にはそれを見ている時間がものすごく 長く感じられた。座って腕を伸ばしているとかげがまるで闇にぬらぬらと光る美しい彫像の ように見えた。 すぐにその人は笑顔になり、とかげも赤い唇でにつこり笑った。 ガラス越しのこちらからは音も声もかすかにしか聞こえないので、ますます不思議な感じ のする場面だった。そしてとかげが再び立ち上がるとき、その投げ出した両足の、右のもも の付け根にちいさなとかげの人れ墨を見てとったとき、私は完全にまいってしまった。それ がとかげとの妙な恋愛の始まりだ。 確かにこういう仕事にひどく疲れるときもある。 患者を本当に助けたかったら、患者にシンクロしたり、共鳴したりしてはいけない。でも 強烈にただ、同調を求めてくる患者に波長を合わせないようにするのは苦しい。腹ペこのと きに目の前にごちそうがあっても気にしないようにする、それと同じくらい難しい。 向こうは命がけでシンクロだけを望んでいるのだから。エネルギーのすべてをその一時し のぎに注いでくるのだ。 たと だから喩えて言うと、プロのウェイターになったように意識を保つ。腹がへっていてもウ
説 解 177 「それは、昭と新しい一対とか家族とかを作った、そういう甘ったるい話ではなくって、昭 と出会ってはじめて私は自分がひとりだというさみしいことの本当の意味を知ったというこ とだった。」 ( 「血と水」 ) 誰でもひととのつながりなしには生きて行けませんが、そのひととのつながりというもの が一番の「癒し」のもとでもあり、同時に悩みや苦しみのもとでもあります。それが「癒 し」として立ち現れるのは、むしろ自ら「独り」というポジションを受け容れた時です。そ の時はじめて、ひとと共鳴することができ、あらゆるひととのつながりを感じることができ みいだ るのです。とくに今のような時代、生きることに大いなる意義を見出すことは難しいわけで かえ すが ( 元々そんなものがあること自体疑わしいけど ) 、却ってそういう時代のほうが、ひと りひとりが生きることそのものに真剣にならざるを得ないわけで、「独り」を極めるという 「癒し」の王道を行くチャンスかもしれません。 ばななさんには一度お会いしましたが、その頃 ( 確か年 ) の気的印象は、異常にテンシ ョンが高くて過敏な感じで、「かなり大変そうだなあ」という感じだったのを覚えています。 その後 (ä年 ) のお便りでは、最近はそれほど過敏な感じではなくなってだいぶ楽になった ころ
げ その日も私は泳ぎを終えて、スタジオの前を通りかかった。彼女はいつものようにそこに いて、おばさんたちにマット運動を教えていた。私はジュースを飲みながら何となくそれを なが 眺め、もしある日急にあの人がやめてしまったら、つまらないだろうな、と思った。その頃 私は、人妻との長い大変な恋愛が終わったばかりで、しかもふられたのでかなり疲れ果てて いてとても色恋に向けるエネルギーなんてなかったのだが、そう思ったことで自分の中に何 かが芽生えるのを感じた。 よい たとえて言えば、気持ちのいい春の宵、あまりよく知らないけれど好意を持っている女性 と待ち合わせをしていて、どこに食事に行こうか、飲みに行こうかと考えながら電車に乗っ ているときのような浮かれた感じ、今晩やれるかやれないかとかまったく考えなくても、そ のひとの整った立ち居ふるまい、私のために装われたスカーフの柄とかコートのすそとか笑 顔とかをみていると、まるで遠くの美しい風景を見ているように、自分の心までもがきれい になったような気分になれる感じ、ずっと失われていたそういううきうきするものがそのと かお き、香るようにふっとよみがえったのだ。 さあ、帰ろうかなと立ち去りかけたとき、痛たた : : という叫びが聞こえた。振り向くと スタジオの中でひとりのおばさんが足を押さえていた。足をつったな、と思う間もなくとか げがその人にすっとあゆみより、足に触れた。薄暗いスタジオの、音楽がまだ流れる中でと がら
げ はじめて食事に誘ったのは、彼女のクラスが終わるのを待っていたあの夜だ。 私服の彼女を見るのは初めてで、ごくふつうの黒いセーターと (-) 。ハンといういでたちだっ たが、なんとなく何かを隠しているように見えた。そうやってレオタードを脱いでしまうと、 とりたてて目立っところはない人だった。 笑うと歯ぐきが見えるし、頬ぼねのところにそばかすがあって、化粧も濃すぎる。でもそ んなものじゃない。とかげが歩いているとそこにはそれだけで何かがあった。 私は彼女を見るたびなぜか「使命」という一一一口葉をいつも思い出した。何か重いものを背負 っているが、それをやむなく受け人れている、そういうシリアスさを感じた。それをどうし て自分が感じるのかわからない。でもそういうところに惹かれた。そんな人が歯ぐきを見せ てにつこり笑ったりすると、それはひどくめりはりのある、本当の笑顔だという感じがする。 笑顔の「意味」を発見する。 小さな和食屋で食事をした。テープル席に向かい合って、他にひとがいない静かな店内で。 こんなに緊張したことはない、というくらい緊張した。とかげは無ロで少食で、酒はほとん ど飲めなかった。 「ダンス、うまいんですね、すごく。」 お
大川端奇譚 153 思ったら、父はまだそこにすわっていた。おかしな感じだった。 「何か話があるの ? 」 私は言った。 「うん : : : 。」 父はまだためらっていた。 「言っておいた方がいいことなのか、迷ったんだが。」 「何 ? なんのこと。」 私は一「ロった。 「知らなくてすむことなら、知らないままでいいような気がして、今まで話題にもださなか 川べりだっていうのを聞いて、なんとなく話 ったんだが、こんどから住むところがその : したほうがいいような気がむしようにしてきてね。」 「もしかしてそれ、お母さんのこと ? 」 私は言った。母のいない場所でしか言えないから、ここに来たのだと思った。 「そうなんだ。君が産まれた時のことなんだ。」 「お父さんは、私が他のきようだい達と同じ東京の産院で産まれた、って言ってたけど、あ れはうそだったんでしよう ? そのことはお母さんから聞いたよ。」
Ⅷ件なんだね。」 彼は言った。 体をこわして、この人達と会わなくなって、会社に人ってしばらくは、変な感じだった。 そして多分、神経がまいっていたのだろう。疲れた時や面倒な会食の時なんかに、話そうと すると軽くほほが引き攣るのが、半年くらいは治らなかった。 性欲だって、食欲と同じで、死ぬほど食べたら体がこわれるのと同じに、かたよりがどこ かにでてくる。 私がだんだんもとに戻ってきて、普通程度にしかセックスを営まなくなって、会社に行っ て、同僚とランチを食べたり、洋服を買ったり、朝起きて、夜は眠り、肌荒れも治り、気が 狂うほどの欲情が襲ってくる禁断症状もなくなってきて、この世の美しい、楽しい事はセッ クスだけじゃないんだ、と思えるようになっていった間 : : : 彼はずっと、あの人達やあの人 達の友達と、いろいろな場所であんなことをくりかえしてきたのだ。 そう思ったらぞっとして、ああ、私は私でよかった。うまくタイミングをつかんだんだ、 そう思った。きっと神様っているんだ、とまで思った。危ういタイミングを教えてくれる。 別れ際、「またねーとお互いに言った。でも、もう二度とは会わないと思った。ドトール
小さなときから。生まれる ~ から。 そのことを知ってしまったような気がする。 それをずっと続けていくような気がする。 いやでも。死ぬまで。死んでからも。 でも、今は休息の時が来て、いろいろなことが長かったし、疲れて、もう眠い。今日一日 が終わる。つぎに目ざめると朝日がまぶしくて、また新しい自分が始まる。新しい空気を吸 夢って、見たこともない一日が生まれる。子供の頃、例えばテストが終わった放課後や、部活 の の大会があった夜はいつもこういう感じがした。新しい風みたいなものが体内をかけめぐり、 チ きっと明日の朝にはきのうまでのことがすっかりきれいにとり去られているだろう。そして ム 自分はすっかりいちばんおおもとの、真珠みたいな輝きと共に目を開くのだろう。いつもお キ 祈りのようにそう思ったあの頃と、同じくらい単純に素直に、そう信じることができた。