気 - みる会図書館


検索対象: とかげ
129件見つかりました。

1. とかげ

大川端奇譚 問題があるとしたら、私に、私の人生に決定的に何かが欠けているらしいことだ。何もか もにむやみに体ごと飛込んでいるのに、基本的に何も見たり聞いたり肉にすることができな い。それを私は何か美しいことで誤魔化そうとしてきた。 つまりそれが趣味というものではないだろうか。 彼も多分、何か私に似た、しかし明らかに違うものが欠けているらしい。だからこの部屋 は私を受け入れたのだと思う。そしてそんな夫婦は沢山いるけれど、何よりも私がそれに気 付いているということが不安だった。 この部屋は私を無尽蔵に、ただとにかく許している。 川が流れているからだ。 なぜか落ち着かず、なぜかいつも暗い気分になる。どこか遠くの事ばかり考える。 あさひ 食事していても、着替えていても、寝ていても、朝陽の中でコーヒーをのんでいても、何 となく水の流れる音を考えている。大切な何かを忘れていたり、後悔するべき事があるよう な気がする。 私のそういうところと、この部屋とこの風景は重なり合って一緒に呼吸しているような気 がした。彼と窓とⅡ 私を許すものたち。

2. とかげ

大川端奇譚 153 思ったら、父はまだそこにすわっていた。おかしな感じだった。 「何か話があるの ? 」 私は言った。 「うん : : : 。」 父はまだためらっていた。 「言っておいた方がいいことなのか、迷ったんだが。」 「何 ? なんのこと。」 私は一「ロった。 「知らなくてすむことなら、知らないままでいいような気がして、今まで話題にもださなか 川べりだっていうのを聞いて、なんとなく話 ったんだが、こんどから住むところがその : したほうがいいような気がむしようにしてきてね。」 「もしかしてそれ、お母さんのこと ? 」 私は言った。母のいない場所でしか言えないから、ここに来たのだと思った。 「そうなんだ。君が産まれた時のことなんだ。」 「お父さんは、私が他のきようだい達と同じ東京の産院で産まれた、って言ってたけど、あ れはうそだったんでしよう ? そのことはお母さんから聞いたよ。」

3. とかげ

小さなときから。生まれる ~ から。 そのことを知ってしまったような気がする。 それをずっと続けていくような気がする。 いやでも。死ぬまで。死んでからも。 でも、今は休息の時が来て、いろいろなことが長かったし、疲れて、もう眠い。今日一日 が終わる。つぎに目ざめると朝日がまぶしくて、また新しい自分が始まる。新しい空気を吸 夢って、見たこともない一日が生まれる。子供の頃、例えばテストが終わった放課後や、部活 の の大会があった夜はいつもこういう感じがした。新しい風みたいなものが体内をかけめぐり、 チ きっと明日の朝にはきのうまでのことがすっかりきれいにとり去られているだろう。そして ム 自分はすっかりいちばんおおもとの、真珠みたいな輝きと共に目を開くのだろう。いつもお キ 祈りのようにそう思ったあの頃と、同じくらい単純に素直に、そう信じることができた。

4. とかげ

大川端奇譚 141 それからしばらくして会社をやめた直後、青山のドトールでエスプレッソのサイズを飲 んでいた時ににばったり会ったのには驚いた。 はだ 運命の流れを肌で感じた。何かが始まろうとしている。私の結婚に向けて、過去が静かに うごめいている。そう直感した。 婚約者の家にはエスプレッソの機械があっていつでも濃いのが飲めるのだが、私は 0 時 代にやみつきになったここの薄いコーヒーが飲みたくて、会社をやめたのにわざわざ飲みに きていた。買物の帰りで、午後 6 時だった。全く気が抜けてぼんやりしていたので、そんな まずい知りあいが歩いてきていても気付かなかった。しかしもしも結婚前に会っておきたい 人というのがいるとしたら彼だけだったから、無意識のうちに呼び寄せた、そんな気さえし こ 0 「明美。」 思い出を残したくなかったのか、証拠を残したくなかったのか。感傷か。 わからなかった。 でも切ない写真だった。今でも大切に取ってある。

5. とかげ

キムチの夢 : と勘ではわかっていた。 たとえば電話がかかってくる。 夜 7 時半で、夕食はいちおう作ってある。朝ごはん並の、いいかげんなものだ。彼は言う。 「今日は少し遅くなるから、夕食はきょんちゃんのところで食べれば。」 気をつかってくれる、親切な人なのだ。 「わかった。じゃあ。」 と電話を切るときには何でもない。 でもそれから分くらいすると、何かが起こりはじめているのがわかる。それはちょうど 化学反応みたいなもので、自分ではどうすることもできない。ただ見つめているしかない。 血液とともに体中を駆けめぐり私を支配するのに 2 時間とかからない。「待っ」は家中の空 気に満ちる。 の画面も、友人との電話も、風呂も本も、私の表面に薄い膜ができていて、それを透 かさないことには何も見えなくなってしまう。 もうそうあくりよう あらゆる妄想が悪霊のように訪れる。 妹と暮らしているときは、よかったなー、と思ってしまう。网 % 存在を許されていた。 でも私は、 ふろ

6. とかげ

げ かった。手がしびれるように重く甘く、昔、子供のころ、生まれたての小鳥を持たされたと きのことを思い出した。 「こんなものを手に人れてしまってどうしよう。形あるものはみなこわれるのに。」 と私が泣いたら、彼は 「何度手放してもまたいくらでも作れるから。作ってあげるよ。」 と一「ロった。 そのとき、すごく長かった夢から目が覚めた。 ばっちりと。これだった、とわかった。 たとえそれがうそだとしても、それは私にとって、家と大家族とアイデンティティをすべ て置いてきてしまった、自分では気づかなかったが心細かったらしい私、何もかもがいっぺ んに変わったり、なくなったりすることがこの世には本当にあるから、だからこわくて何に じゅもん も心をとどめにくくなっていた私にとって、一番重要な呪文だった。 父も教祖にそういう一一口葉を聞いたのだろうか、と思った。はじめて父を少し理解したよう な気がした。 その瞬間、そのときの「私」にしか当てはまらなくて、ほかの人が聞いても陳腐だったり、 ありふれていたり、そういう言葉。言ったほうの人は何の気なしできよとんとしてて、その

7. とかげ

大川端奇譚 159 外で食事をして帰ってきて、彼が風呂に入っているときなんの気なしに台所のワゴンの上 を見たら 1 通の封書が目に止まった。 ひとの手紙なんて見やしないし、まして女文字ではなかったのでどうしてまじまじと見て しまったのかわからない。 あてな でも何かひっかかる宛名の書きかただった。 だから、反射的に中身を見てしまった。 そんなことは生まれて初めてすることなのに、なぜか後ろめたさはなく、見なくてはとい う確信だけがあった。 そこには手紙はなかった。 しかし、数枚の写真が入っていた。 私はそれを見、本当に気が遠くなった。 そこには、昔の私の、「恥かしい写真」が人っていたのだ。背景はの部屋か都内のホテ ル、私は裸で、もちろんひとりではなかった。さらにいうと他の写真では 2 人ですらなかっ た。 4 人も、 5 人も、ひとりで相手をしていた。化粧はとれかけ、目はうつろで、今よりも 少し太めの、でもまぎれもない私が写っていた。 あらららら、というのが遠くに聞こえた自分の第一声だった。そして、誰がこんなものを ふろ

8. とかげ

大川端奇譚 あるいはべッドまわりに関する考えやセンスが似ていたのかもしれない。 朝が来たら、もう年も 2 人でその山の中にいたような気がした。木立をぬう朝陽と澄ん だ空気が、心の表面を射すように懐かしかった。どこもかしこも丸くたるんだその体もあま い匂いがして好きだった。 午後はヴィデオ映画を観て、夜はどこまでも続けた。 そして何をしていても夜を待っていた。 あまり話さなかったし、あまり笑わなかったのに楽しかった。どこまでも空気が薄くなっ てそのあたりの森林の青い空に溶けていくような気がした。北海道に行かない ? と言われ た時も、これがどこまで続けられてどうなっていくのか知りたかった。 でも何も変わらなかった。 彼女は毎日求め、何回でもいった。 そして、私を丁寧に愛した。 ある日北海道のホテルに夫から電話があって、「もう帰らないと本当に離婚だわ。」と彼女 が言うまでそれは続いた。 何本も映画を観たし、市場にも行ったし、スキー場に行ってスキーをしたりもした。ロッ ジで体が痛い、と言いながら熱いコーヒーも飲んだ。

9. とかげ

キムチの夢 様な決まり。不倫がいいとかいけないとか言う前にまず行われる、一般化の処理。 私はそういうものを頭に人れまいと無視して常に自分だけの空間を生きようとっとめてい たが、電波のように細かい粒子で飛びかうそんなものは、「気にしていない」という一言葉を 意識するだけで脳に侵人してくるようだった。 かすかながらも何か他のものと戦っていたことを、今になって知る。 今思えば私が戦っていたのは、彼や奥さんや、自分自身 : : : それだけではなかったような 気がする。 自分でいることすらむつかしい、この現代のありよう。くもの巣みたいに張りめぐらされ、 歩くとふつ、ふっとまとわりついてくる何かの影。はらいのけてもべたりとした感触を残す。 無視しきれないくらいの割合で空気にまぎれ込み、。ハイタリティーとか、生命の輝きとは最 もかけはなれた弱っちい虫けらのようなエネルギー。見えないふりができても、それがある かぎり、すっきりと視界が晴れることはない。 結婚して 2 年になる。会社は去年やめた。子供はまだいない。 2 人で買ったマンションに ねこ 住んでいる。猫を飼っている。 「遅くなるようなら電話する。」

10. とかげ

げ 「私、友達いないし。親ともほとんど話さないし。人に自分のことを話したの、すごく久し ぶりで、話しすぎたみたい。」 夜の闇、道ゆく人々。夜風、ビルの窓。電車の音。遠くから聞こえてくるような、発車の ベルの音。釣り目のとかげの、澄んだ表情。 「また会ってください。」 私は言って、彼女の手を握った。 どうしてもどうしてもさわりたくて、気が狂うほど、もういてもたってもいられなくて、 彼女の手に触れることができたらもうなんでもする、神様。 そう思った。そう思ってした。自然も不自然もない。せざるをえない。思い出した。本当 はそうだった。何となく気があるふたりがいて、何となく約束して、夜になって、食べて飲 んで、どうする ? となって、今日あたりいけるとお互いが暗黙の打ち合わせをしてる、と いうものではなかった、本当はただたださわりたくて、キスしたくて、抱きたくて、少しで も近くに行きたくてたまらなくて一方的にでもなんでも、涙がでるほどしたくて、今すぐ、 その人とだけ、その人じゃなければ嫌だ。それが恋だった。思い出した。 「ええ、また。」 そう言って、電話番号を教えてくれた。