自分のしていることがよくわからなかった。ひとりで行こうと思っていたけれど、だんだん 胸が苦しくなっていくのがわかった。昭さえいれば何だか平気な気がして、お願い、やつば りついてきて、と言うといつもは出無精の昭が、いいよと手をつないで連れていってくれた。 春の池は静かで、たくさんのポートがひっそりと行きかっていた。どんよりとした曇り空 が低く重く広がっていた。分も早くついてしまったのに、弁天堂の前に父はいた。 あっさりと、あっけなくいた。 水私はどうしても近づいてゆけなかった。だから物陰から父を見ていた。昭はそういう私を 押し出そうともせず、力を抜いてだらんとした私の手を握ったまま、一緒に立っていた。父 ひざ のグレーの上着、古びた黒い靴、はげた頭、固い膝。気が狂いそうだった。 そして雨が降ってきた。突然、大粒の雨がかなりの勢いで降ってきたのだ。 あわ 池のポートはみな慌てて岸を目指しているだろうな、と私はそこから見えない池のことを 思った。父は持っていたかさを開こうともせず、私を待っていた。お堂の濃い茶色が、煙る ように距離をなくして父の後ろにそびえていた。土産物屋の色とりどりの色彩が、さみしく まゆ 濡れていた。父はくつきりと立っていた。横顔のその眉は私にそっくりな形にカープを描き、 まなざしはただ私を捜していた。 血 113 くっ
げ と言って朝、を消して彼は出ていく。突然室内は静寂に包まれる。彼は朝食を摂らな いので私はたいていまだべッドに人っている。いってらっしゃいの言葉もほとんど発さず、 寝室から寝ぼけて見送る。玄関のドアが閉まる音がすると、かすかな後悔がよぎる。一瞬さ みしく思う。ダイニングのテープルの上に朝日が射しているのが見える。コーヒーの香りが する。猫が部屋に人ってくる。べッドにとびのり、私の足元で丸くなる。見ているうちにま た眠気が襲ってくる。もう少し寝よう、と思う。 そんなふうに目覚めるとき、はじめのうちはよく場所を間違えた。 目が覚めると、 「きょんちゃん ? 」 と妹の名を呼んでしまうのだ。 不倫の後半 ( ? ) 、私は自分の部屋に彼が来て、コートをハンガーにかけて、ご飯を食べ、 まくら ビールを飲み、一緒に寝て、朝帰っていって、洗い物や寝巻きや並んだ枕だけが残る感じに 疲れてしまい、妹と 2 人で暮らすことにした。広い部屋に住めるから、と妹は喜んだ。 いまさらホテルに行ったりするのはいやだったが、このくらいで 2 人がだめになるならな ればいい、という試す気持ちが強かった。それにそんなふうに不便なかたちになっても、私 かお と彼の間にほのかに香る未来の空気は消えなかった。
水 そちらへ行く飛行機が遅れたうえ、ひどく揺れたのです。長い待ち時間の間、多くの人と 会話をし、親しくなりました。信者以外の人と話すのは本当に久しぶりだったので、ずいぶ しんせき んと陽気な気持ちになり、心からうちとけた気分になりました。東京の親戚のところへ行く ーマンや、老夫婦や、 1 人旅の青年や、そういう人た 娘さんや、妻子に土産を持ったサラリ ちでした。 飛行機が突如ひどく揺れだして不安になっていたところに、やたら慌てて行きかうスチュ ふんいき ワーデスが真っ青な顔をしているのを見たら、何だかいやな雰囲気が機内に漂ってきました。 結局ぶじだったわけですが、それはもうとにかくひどい揺れだったのです。死の匂いがしま した。みんながいっせいに心のどこかで死を思ったのでしよう。 血私はお経を唱え、やがて死ぬことは怖くなくなってきたのですが、ただ悲しかったのは、 まわりの席にいるさっきまで笑顔だった人たちが、今は吐いたり、顔をこわばらせているこ とでした。もう笑顔にならずに別れゆくのかもしれないと思うと心からつらくなり、いとお しくなり、妻や友人やおまえとおなじくらい大切になり、何よりもあの笑顔だったときを覚 えていようと私はただそれだけを思い、でも悲しくて、そして信仰の道に人ったことをはじ めて心から肯定した気がします。 みこころ 昔の私は決してそういうことに気づかなかったでしよう。すべては仏の御心なのです。 115
げ しかも、闇の中で飲むビールはあんまりうまくなかった。そら寒く金に光り、北極で飲ん でいるようだった。まだ体内に残っているアルコールとその月世界のような薄暗さのせいで、 すぐに酔いがまわってきた。 「私ね、来週からある講座に行くの。」 彳女が一言った。 「何だそりや。」 私は言った。 「友達に、いろいろなことにとても苦しんでいる子がいてね、その子が捜してきたんだけれ ども、すこし過激な講座だからついてきてって頼まれてね。」 「過激 ? 」 めいそうたぐい 「何でも、頭の中をすっかり洗い出してしまうんだって。よく聞く能力開発とか瞑想の類じ ゃなくって、まるつきりゼロに戻しちゃうんですって。そしてやり直せるんだって。もしか すると、いろんなことを忘れちゃって、その忘れたことは自分に必要ないことなんだって。 面白いでしよう ? 」 「面白くないよ。その、必要かどうかってのは誰が決めるのさ。 「それが賭けなのよ。きっと。なんかね、自分にとって大切だと自分が思い込んでいるよう
ん せ なことを、すっかり忘れちゃったりもするらしいわ。」 「自分が執着してることってこと ? 」 「そうとも限らないみたい。これは勘だけど、彼女は離婚のショックでノイローゼになって、 そのことを忘れたくて行くんだけど、私は多分、彼女はそのこと忘れないと思う。」 「やめなよ、行くの。」 私は言った。 「だって、ひとりで行かせられないわ、相談に乗ってしまったし。」 彼女は言った。 「それに、興味あるし。行ってみないといいところかどうかわからないし。」 「悪いよ、そんなところ。全部忘れてしまうなんていいわけないだろう ? 」 「忘れちゃいけないの ? 嫌なことも ? 」 「自分で決めていくんだよ、それ。」 「大丈夫、つまり : : : 」 彼女は目を閉じて一一一口葉を選んだ。そして目を開けて言った。 「そうそう、少なくともあなたのこと忘れたりはしないから。」 「どうしてわかるのさ。」 いや
大川端奇譚 155 おばあちゃんが笑顔で『川にいるわよ』っていうんだ。昼はいつも川にいるって。笑顔なん だけど何となく物言いたげな様子で、いたたまれなくて帰りをまたずにすぐに川の方に歩い ていった。その川は土手には降りられなくて、急な流れを見降ろす形で大きな橋がかかって いるんだ。車が通れるような広さではないんだけれど、大きい橋。そこの瀾干にもたれてお 母さんが赤ん坊の君を抱いていた。すごく怖い光景だった。人通りはなかったけれど、もし 誰かが見たら無条件に止めただろうと思った。お母さんは君を抱いたまま多分無意識に、す ごく身を乗り出して流れを見てたんだ。君はもう、全身が川の流れの真上にあった。近付い ていって声をかけたら、お見合いではじめて会ったときみたいな若い笑顔で平気そうにした からほっとした。だから少し抱かせてもらって、何か、何でもない事を話していたら突然、 お母さんが黙り込んだんだ。どうした、って声をかけたとたんにお母さんはただただ錯乱し て叫びだして、ふいに君を川に放りこんだんだ。もちろんすぐに飛びおりて助けに行ったよ。 運よく落ちた場所はそんなに深くなくて流れもほとんどなかったから君は何でもなくて、病 院ではもう笑っていたけれど、お母さんのほうはショックで意識がもうろうとしていて、こ わばったまま何も反応しなくなってしまった。しばらくして意識がちゃんとしてからは君に あやまって泣くばかりでね、それからしばらく東京の、別の病院に人院したんだよ。私もい ろいろ考えたんだが、これではだめだ、と思ってすべてをやり直そうということにして毎日 う
げ 絽他でもない私に言いだしたことが誇らしかった。嬉しかった。 「いいよ、行こう。」 行きたいときに、行きたいところに。 2 人きりで。 成田に着いたのは夜中の 1 時近く、電話をしたら幸い宿がとれた。 もう真っ暗な参道のくねくねした坂道を、 2 人で歩いた。建物はみな古く、木の匂いがし た。風が強く、見上げると細い道はばの建物の透き間に星がくつきりとまたたいていた。 本当に風が強く、はためくとかげの髪の毛が闇に踊った。 ちょうちんなん 寺の門はもう閉まっていて、たたまれた露店の色とりどりの影と、揺れる巨大な提灯の梵 さく 字が柵のこちらがわから見えた。 コーストタウンみたい : : : ととかげが 町はまったくの無人で、こわいくらい静かだった。。 笑った。 柵にもたれて、 5 分以内に人が通るかかけて待ってみたけれど誰も来なかった。歴史の匂 いがする参道を、風が、大勢の人々のような気配とともに勢いよく吹いて行くだけだった。 闇の中のとかげが、その白い歯が、白いシャツが、夢の中のように映えて見えた。
げ 124 葬式であんなに感動したことはない。 私はその社長をよく知らなかったが、いかにすばらしいひとであるかといううわさは聞い ていた。その会社の事業がいかに大胆でうさんくさくなく、働きやすいかについても聞いた ことがある。しかし、葬儀にやってきた人々の様子を見たら、そんなことはもう、ひとめで わかってしまった。 「ああ、本来これが葬式というものだったんだ」と私は思った。生前に何があったとしても いた すべてを忘れて、その場を共有している全員が悼んでいる、惜しんでいる、心から悲しみ、 めいふく 冥福を祈っている。美しすぎる。生まれて、生き抜いて死んでゆく人生というものがすばら しく見えすぎる。このたった数時間に死んだ人もその人に関った人々も、すべてがゆるされ ている。 そうごんどきよう 品のいい花輪、心のこもったお供え物。荘厳な読経。ひとりひとりがこの場にいることを 本当に大切にして一丸となっている。 私はそういう、大勢のエネルギーがひとつになるために清らかな流れを組むところを、恐 縮だが、大好きな人々との乱交の場でしか見たことがなかった。 次男である彼は、母親につき添っていた。 亡き社長の夫人はもう年老いているのにまるで若妻のようにはかなく、上品にたたえられ かかわ
治療に行ってしまう。 ほんとうに一生懸命なのだ、と思う。治したいのだ。それだけだ。本当に才能があって、 感謝や好かれることに重点がないのだ。私は胸を打たれ、彼女をほこりに思う。自分を少し 恥じて、とかげのようでありたいと思う。 その夜、部屋でとかげを待った。 「 8 時に行くね。」 と電話があった。 「ピザとっといて。辛いの。」 きら とかげはデリ。ハリーのピザが好きだ。外食が嫌いだ。人間は嫌いじゃないけれど、人間を 見たくない、と言う。わかる気がする。人間相手の仕事は、人間にあたり、疲れる。私たち はたいてい部屋で、照明も暗くして、ほとんど話もしない。ただ音楽をかけて、ぼうっとし ていることが多い。旅行も、人のいない山奥に行く。変な交際だ。 8 時半を回っても、とかげは来なかった。 私はひとりで先にピザを食べ、ビールを飲み考えた。もう来ないかもしれない : : : と。秘 密があって、プロ。ホーズされて、言えなくて。とかげの性格だったら、別れたいときは今夜 げ
げ す 実際はそんなに簡単ではなかった。苦しかったり、磨り減ったり、疲れてどうでもよくな ったりした。「うまくいく、わかりやすい結果がここにこうして見えているのに、なぜこん な苦労を ? 」と正直言って何かあるとすぐ思った。でも、そういうなまけごころがますます 私を 2 人の生活から遠ざけていた。 なまけても仕方ないのだ。ほんとうはもうすでにわかっていることをこの手足で感じ、実 現させるために私たちは肉体を持って生まれてきたんだから。 だから私たちは不倫からスタートして結婚した、たった 5 % のうちの一組ということにな しかし、自分のこと以外みんなひとごとなのに、なぜ。ハーセンテージが出るのだ ? 今になってみるとあの頃私を支配していたのはそういう、目に見えないへんな圧力だった。 みんなでお茶を飲む時はわりかんで、ひとりだけごはんを食べたりしない。 行きたくなくても社員旅行には行かないと先輩と気まずくなる。 夜中のタクシーは全部、とにかく遠くに行く客を求めてる。 一人暮らしの女が 3 軒も飲みに行くと物欲しそうだ。 未婚の男子社員とお昼を食べると、いつも一緒に食べている子たちが怒る。 何もかもが細分化しているだけに、狭い地域のなかで絶対の力を持つ、いくらでもある異 ころ