大川端奇譚 きたん
立不・キご , ん 7 ・こか、け らせん キムチの夢 血と水 きたん 大川端奇譚 6 あとがき 文庫版あとがき 解説片山洋次郎 9 2 7 才ー 9
は何も一一一口えなかったくらいだった。 「ショックを受けたか ? 」 と父は言った。 「ううん、今がうまく行ってなければそうだったかもしれないけど。」 私は言った。 「私がものごころついてからは、うちはうまくいってたもの。」 譚 「そうだな。」 奇 父はほっとした顔で言った。 端 「君はうちにとって、結果的には救いの天使だったよ。それから事業はもりかえしたし、そ 大れ以来、他に女のひとはいない。何ていうか、道を誤る時期だったんだな。」 心の傷はあったのかもしれない。 私は思った。 でも、私はサヴァイヴァルできる。 そういう自信がいつも、どこでもあって、それこそがその隠された事件から、私が体で得 たものなのかもしれない。 157
大川端奇譚 161 ただ川だけを見てそうやって腰掛けていたら、彼が出てきた。 彼は見慣れた。ハジャマを着て、笑いながら 「お先に、次どうぞ。」 とこわいくらいにいつもどおりに言った。 あの手紙はいっ来ていたんだろう、と私は気づいた。私は今日だと思い込んでいたが、も しかすると先週かもしれないし、先月かもしれない。黙っていればこのまま時間が過ぎるか もしれない : : : そう思った。しかし、 「どうかした ? 」 と彼が言った時、私は思い切って言った。 「その、ワゴンの上にあった手紙、いっ来たの ? 」 彼が真顔になった。 いつも柔かい表情でいる彼のそれほどの固い表情を見たのは、はじめて会った日、あの葬 式の日以来だった。 「先週の、土曜日かな。 彼は言った。 「どうして言ってくれなかったの ? 」
大川端奇譚 153 思ったら、父はまだそこにすわっていた。おかしな感じだった。 「何か話があるの ? 」 私は言った。 「うん : : : 。」 父はまだためらっていた。 「言っておいた方がいいことなのか、迷ったんだが。」 「何 ? なんのこと。」 私は一「ロった。 「知らなくてすむことなら、知らないままでいいような気がして、今まで話題にもださなか 川べりだっていうのを聞いて、なんとなく話 ったんだが、こんどから住むところがその : したほうがいいような気がむしようにしてきてね。」 「もしかしてそれ、お母さんのこと ? 」 私は言った。母のいない場所でしか言えないから、ここに来たのだと思った。 「そうなんだ。君が産まれた時のことなんだ。」 「お父さんは、私が他のきようだい達と同じ東京の産院で産まれた、って言ってたけど、あ れはうそだったんでしよう ? そのことはお母さんから聞いたよ。」
うずま おきな渦巻きのなかに私もこのひとも誰も彼もがいて、何も考えたり苦しんだりしなくても ただどんどん流れては正しい位置に注ぎ込まれていくのかもしれないと思った。 自分が世界の中心だと思っていた世界からわずかに一歩をはずした瞬間だった。 それは歓喜でも、失望でもない感覚で、ただ今まで余分な筋肉を使っていたのをゆるめた ような妙にこころもとない気分だった。 「それなら、ここに住むわよ、いいの ? 」 譚私は言った。 奇 「いいよ。」 端 彼は言った。 「ひとを見る目だけは、育ててきたんだ。君は面白いよ、一緒にいると映画を観ているよう 大 な感じがするんだ。」 「それは、ほかのひとにも言われたことがあるわ。」 私は言った。 「そりゃあはじめは驚いたし、送ってきた奴に腹もたったけどさ。きれいな写真じゃない。 何枚でも送ってくればいいよ。」 ふざけてそう言って、彼は笑った。 165
大川端奇譚 143 「今 ? 相変わらず、らしい仕事だよ。深夜だけのデリバリーの、洋食弁当屋。でももうか ってるけどね。働く若い奴もありあまってるしね。今はもう自分はタッチしてないけど、は じめはからあげの研究とか、まじめにしてた。」 「いろいろあったのね。」 「人生楽しいよ。」 「みんなは ? 」 「エイズも出さずに仲良くしてるよ。」 「そう。」 「言っちゃなんだけど。」 彼は言った。 「ああいうのって、一度のめり込むと完全には抜けられないものじゃない ? 特に君ほどだ ぬ と。週末を思って昼間の会社で濡れてたくちでしょ ? 」 「いつのまにか、忘れたみたい。人院がよかったのかな。」 私は言った。 「君はいつもそうだった。いつもひとりで涼しい顔をしてて。安いナルシシズムだよ、そん なのは、と思っていたけど、あそこに集まるような奴らともともと求めてるものが違ったの やっ
大川端奇譚 121 私が性的に一般的とは言えなくなったのは、いつのころだったかよく思い出せない。 男とも、女ともしたし、大勢でもしたし、外でもしたし、外国でもしたし、縛ったり縛ら れたり、薬を使ったり、直接死につながることと汚いこと以外、とにかくたいていのことは したと思う。振り向いたらいつの間にか、ありとあらゆることをしていた。 でもそれで知ったことは、この世にはもっともっと、もっともっとすごいことを毎日毎日 してしまいには死んでしまうようなひとが本当に実際に大勢いて、陶器とかパンを焼くとか、 バイオリンを奏でるとかそういうことのように、ありとあらゆる特定のジャンルに素人から こうしよう プロまでいろんな人が心を傾けていて、ありとあらゆる奥深さがあり、高尚な気持ちからす ごい下品さまですべてがふくまれていて、その気になれば人間は、それにかかりつきりにな : ということだ。 って人生のすべてを使うことができる : それが「道」というものなんだろう。 かな しろうと
月がここに私を呼んだのかもしれない。 でも、 目に見えないもの、悪意、優しさ、父と母がなくしたもの、得たもの、私があの頃求めて やまなかったもの。それと等しい引力で、この窓辺に私を。 そういう運命のカ、川が持ち、自然やビルや山々の連なりがこの世にあるだけで発散する 力がもしかしたらあるのかもしれない。そういう何もかもがからまりあってつながりあって、 私がここにいて、ひとりではなくひとりで決められることでもなく、生きのびてきたし生き 譚続けていく。そういうふうに思うと、心のなかで何かがちらちら光るのがわかった。 奇 この窓から朝見る川面、まるで金のくしやくしゃの紙が何万枚も流れていくみたいに光っ 端 ている。 そういうのに似たゴージャスな光だった。 大 もしかして、昔のひとはこれを希望と呼んだのかもしれない、とぼんやり思った。 167
大川端奇譚 141 それからしばらくして会社をやめた直後、青山のドトールでエスプレッソのサイズを飲 んでいた時ににばったり会ったのには驚いた。 はだ 運命の流れを肌で感じた。何かが始まろうとしている。私の結婚に向けて、過去が静かに うごめいている。そう直感した。 婚約者の家にはエスプレッソの機械があっていつでも濃いのが飲めるのだが、私は 0 時 代にやみつきになったここの薄いコーヒーが飲みたくて、会社をやめたのにわざわざ飲みに きていた。買物の帰りで、午後 6 時だった。全く気が抜けてぼんやりしていたので、そんな まずい知りあいが歩いてきていても気付かなかった。しかしもしも結婚前に会っておきたい 人というのがいるとしたら彼だけだったから、無意識のうちに呼び寄せた、そんな気さえし こ 0 「明美。」 思い出を残したくなかったのか、証拠を残したくなかったのか。感傷か。 わからなかった。 でも切ない写真だった。今でも大切に取ってある。