うとしたなどということもあるたろう。子供の側からすれ。、そこまで従順になる必要はないの に、そこまで従順になって、あげくのはてに神経が消耗しておかしくなる。大人の側からすれば、 そこまで他人にしてやる必要はないのにそこまでしてあげて、あげくのはてに神経症などという こともあろう。 焦りつばなしで神経がおかしくなった人は、仕事をする必要もないし、熟睡する必要もない。 今までの生き方に無理があったのである。もし大変なことがおきるなら大変なことがおきてそれ がキッカケとなって生き方を変えるのが最もよい。 多忙すぎて肉体的に無理をしすぎた人もいれば、神経質で心理的に無理をしすぎた人もいるで かあろう。 的 失敗したら失敗したでよい。そのような失敗は、自分はその道に向いていないということを示 のしてくれたのである。 極 積 姿何かをする前に疲れている る き焦っている人はまた疲れている人である。ただ仕事に没頭して疲れたのではない。 章焦る人は仕事をする前に疲れたのである。仕事をして疲れた人、運動をして疲れた人、このよ うな人は焦ることはない。 117
に喜ぶ。しかし、そのように単純に考え素直に喜べない人がいる。 自分のポストに負い目を感じているのである。自分は部長の実力があったから部長になった。 部長の実力がなければ部長にはなれない。自分が部長になったということは、自分にそれだけの 実力があることを周囲が認めてくれたからである。ごく普通にそう考える人がいる。それなのに、 他方で自分は本当は部長の実力がないのに部長になってしまったと感じる人がいる。そう感じて しまう人は、自分のポストに負い目を感じる。 し負い目があるからこそ、そのポストの責任を完全に果たそうとして神経質になる。自分のベス ら トをつくそうとする意欲より、自分自身に対する不安が強いから神経質になる。 す おでは、昇進でうつ病になったり軽い神経症になったりというように情緒障害をきたす人と、ま 以 - る すますやる気になる人との間に、能力において差があるかといえば差はない。ただ片方はいつも 。不安だから実力がだせないだけである。いつも不安で緊張しているから疲労も激しい。長い間に がは差がでる。 私は昇進して不安な緊張から神経症になるような人は、じつは心の底で、なんとなく自分は偽 者であると感じている人ではなかろうかと思う。 あ 章事実はそのポストを得たのになんのごまかしもない。しかしごまかしがあると感じてしまう。 部長であれ、課長であれ、実力があって昇進したのであるが、実力がないのにそのポストにいる 巧 3
ほうにすいよせられていく。 私は、一 only hadeyesforrejection. ( 私は自分を拒否する人にばかり気をとられていた ) という 前述したアメリカの女性心理学者の言葉を忘れられない。自分の過去をふりかえっての反省の言 葉である。 長いこと大学にいて、いくつかの悲劇を見てきた。心やさしい学生であるが低い自己評価に苦 しんでいる学生がいる。その人のそばにはその心やさしい学生を受け入れてくれる人がいる。そ れなのに不思議にその学生はひねくれた考え方をするひがみ集団にすいよせられていく。そして 自分を受け入れてくれる人たちから離れ、歪んだ人々との付き合いを大切にする。 低い自己評価に苦しんでいるがゆえに、歪んだ心理の人々から妙な評価をされると、それが失 いたくないので、その人たちにとりいっていく。そして神経症。 よく心理学の本などに、神経質な人とか神経症になる人は生存欲が強い、と私からみるとまっ たく間違った記述がある。劣等感からくる言動と生存欲とをまったく見違えているのである。妙 な評価というのは、こうしたことである。自分の心を満足させるための押しつけがましい行動を、 親切とか思いやりとか言ってみたり、幼児的依存心からくる幼稚な言動を愛情深いと言ってみた 他人の心を傷つけていることも気がっかないで、一人よがりの正義感で、あいつはまた汚れ ていないと言ってみたり、そういう幼稚なグループというのがある。 214
あろう。 その基準にあわせようというもがきが意志の過剰に映る。しかし、この基準にあわせようとす る動機は不安である。不安なのはその基準のみが自分の評価を決めると錯覚しているからである。 その基準にあわせられなかったときの失望は大きい。自分はダメなんだという失望の体験を避 けたいと神経症者は願って、不安なのである。 神経症者を恐れさせているのは、この自分の評価を決める基準である。またある人を神経症に 追い込んでしまうのもこの基準である。 世界的なベストセラー『予言』の著者ギブランとその恋人との書簡集の中に、私には忘れられ ない言葉がある。一 have no standard for you ( 。 conform to. ( 私はあなたを従わせるべき基準はな に一つ持っていない。 ) なんと美しい言葉であろう。本当にこのような親を持った子供は神経症にならないであろう。 本当にこのような恋人や友人を持った人は神経症がなおるのではないだろうか。 神経症の人は間違った基準で自分を評価しつづけてきてしまったのである。したがって神経症 をなおそうと自ら願う人は、その間違った基準を自分に与えた人から心理的に独立するしかない ・こソっ .- っ . 。間違った基準を自分に与えた人に認めてもらうことを喜びとしている限り、神経症は根 本的には治らないのではなかろうか。 170
自然が治してくれるのを待っ 森田療法で有名な森田正馬は、治療の主眼について、煎じ詰めれば、あるがままでよい、ある と書いている ( 『神経衰弱と強迫 がままよりほかに仕方がない、あるがままでなければならない、 観念の根治法』白揚社、三二ページ ) 。 「いま例えば重い病苦に悩み、動けないで病床に呻吟しているとする。″あるがままでよい 気を紛らわせるとか、これを治すために種々の方法を探ってはいけない。独りで我慢し、苦悩し ているより外に仕方がない。 ・ : 」 ( 前掲書、三二ページ ) 。 、とはずいぶん無茶なことを書いているようである 病気になって治す方法を探ってはいけない ここでいう重い病苦とは、もちろん″気〃から病んで苦 が、よく読めばけっしてそうではない。 しんでいることを言っているのであろう。 病は気から、というように言われる。そうした神経症の人が″気〃ゆえに病んだときは、もう 4 情緒の成熟には順序がある ー 74
分のイメージに根本的に支配されている。 ところが神経症の人はこの自分のイメージに逆らう。過剰なる意図とはそこからでてくるので あろう。 フランクルは『神経症①』 ( みすず書房 ) の中で性的神経症について次のように書いている。 「とくに性的神経症は幸福を深追いし、快楽を追い求める者である。快楽を求めての闘争は性的 神経症的反応型の特徴である。 ・ : われわわれはここで性的快楽と性的快感に対するむりやりな し志向をみとめる。患者は自分自身を観察し、妻のことをかえりみない。 ・ : そしてこれらすべて は性的能力と性的快感を侵害する」 ( 一四四 ~ 一四五ページ ) 。 お性的神経症者も自分は性的に能力のない人間だという自分のイメージを心の底に持っている。 そしてそのイメージに逆らって自分の性的能力を証明しようとするところに過剰なる注意と意図 つがでてくる。 病気の場合でも神経症者が治そうと過剰な意図を持って焦るのは、心の底に自分はダメな人間 分 はであるというイメージがあるからであろう。そのイメージを否定しようとするから過剰な意図と ななる。しかし結局は心の底のイメージに支配されてしまう。 章「あるがままでよい」ということは、この心の底のイメージを自分が認めるということである。 自分は自分であるより仕方がない。
れようと努力してしまう。その結果低い自己評価を自分の中に定着させてしまう。 対人恐怖の症状のある教授にとって必要なのは、今の自分を受け入れてくれる学生との付き合 いなのである。 自分より業績のある教授との交流よりも、この学生は自分との交流を望んでいるという実感 が低い自己評価を解消することになる。 自己愛的満足から脱皮する これは恋愛についても同じである。 対人恐怖等の神経症的傾向を示す男性は、自分が男性として立派な能力を持っていることを示 すことによって女性からの敬愛をかちとろうとする。そしてしつはそれに成功すれば、より低い 自己評価に苦しむだけなのである。挫折を先にのばしのばしにしたことで、より大きな挫折を用 意したことになる。 そしてそのような能力を示せないときは、自信がないので女性を避けてしまう。 恋愛によって低い自己評価が解消されるとすれば、次のような恋愛であろう。 その女性の周囲には自分よりすばらしい男性がたくさんいる。自分より頭のよい男性、自分よ り運動神経の発達している男性、自分よりハンサムな男性、そんな男性がたくさんいる。しかし 212
7 章自己信頼からの出発 情緒が成熟し、神経症の危険が少なくなるということは、敬愛されるというような勝利感の体 験をかさねることではない。お互いあるがままの自分をさらけ出すことなのである。たとえ自分 に弱点があっても、けっしてその弱点ゆえに軽蔑されることはないという安心感こそ、神経症か ら自分を守るものである。敬愛されたことによる勝利感は危険の一時的回避にしかすぎない。 神経症になる人は、人間はお互いにあなたがあなたであるから好きなのです、ということが理 解できない。弱点がなければないほど受け入れられるものと信している。弱点を克服することで 見捨てられる不安に対抗しようとする。 神経症になる人は相手を間違って解釈し、不必要な警戒心を相手に対して持ってしまう。 201
人間は幼児のある時期に無条件で受け入れられることを必要としているのだろう。神経症にな る人は、それがなかったにちがいない。そして、自分でも自分を受け入れられなくなり神経症に よっこ 0 だとすれば、大人になって、意識的に自分で自分を無条件に受け入れることが必要であろう。 白鳥を評価するのに、小夜鳴鳥の基準を持ってくる。そうすれば白鳥は神経症になるであろう。 カメを評価するのにウサギの基準を持ってくる。カメは神経症になるであろう。 一 have no standard for ou ( 0 8nま「 mto. このような感じ方をしている人に愛されることが本当 に愛されることなのであろう。そして、このように愛されることで子供は情緒的に成熟していく。 やがて自分で自分を律する自分の基準を持つようになる。 自分が自分であっても受け入れられる。そうした安心感を持って育つ人は、自分を忘れること ができる。つまり自意識過剰でなくなるということである。 向上心が強いということと、恐怖から高い基準に自分をあわせようとすることとは違う。どう もこの点がよく理解されていないのではないかという感しのする心理学の本がある。 高い基準にあわせて行動していないと他人から拒否されるのではないかと恐れて、一心に高い 倫理に従おうとしている人がいる。そして神経症になる。 勤勉でなければ他人に受け入れてもらえないと思って、努力している勤勉な人がいる。この人 172
定する価値観から手を離してみることである。薬はそのあとである。 さきの森田氏の本にはいろいろと森田氏自身が治療した例がでてくる。「一〇年来の胃痙攣が 一朝にして治る」という見出しで次のようなのがある。六九歳の女性である。一〇年前から胃痙 攣に悩む。外科の教授から胆石を疑われて外科手術を勧められたこともあった。一年間のほとん ど半分、この苦痛に悩まされていたという。 そしてこれは神経性ではないかといわれて森田氏の診察を受ける。それは発作性神経症であっ した。その発作は日に一、二回おきる。時間は夕方六時頃であったという。患者は入院する。そし すて患者は六時までになるべく強く発作を起こすように求められる。 とにかく入院一、二日で全治退院 おところが発作はおこりかけるけれど本当の発作はおきない。 て っ これを読むと、人によっては一〇年間悩まされたものがたった一、二日の入院で全治するだろ がうかと疑問を持つであろう。じつは私もそう思うが、やはり全治したという報告を信じるほうが は正しいであろう。 ではなぜ全治したのか ? 胃痙攣に苦しんでいるとき、胃痙攣である自分を拒否していた、発 あ 章作をおこさないようにした。実際の自分は発作をおこす自分である。その自分を隠そうとした。 ところが入院して求められたのは胃痙攣で苦しむ自分をそのままあらわすことである。そして、 181