言葉と態度は単純素朴に われわれは言葉だけで他人とコミ ュニケーションしているわけではない。 目はロほどにものを 言うという。またわれわれは自分の動作で他人に自分の感情を伝える。 言葉によって何かを伝達するときにでも、身振りや顔の表情が大きく影響を及ぼす。またその 言葉の言い方の調子によっても受け取られ方は違ってくる。不機嫌な顔をして、子供をほめても、 子供はとまどうだけである。 他人の言動によって、自分の心の空しさを満たそうとしている人は、他人に対して何を言って も、その言葉通りには受け取られない。 依存心の強い親が、子供に「好きなようにしなさい」と言っても、その表情や声の調子で、子 供は好きなようにしてはよくないのだ、と受け取る。 コミュニケーションこは、一一 = ロ五によるコミ = ニケーションと同時に、非言語的コミ = ニケーシ 1 言葉と態度が矛盾していないか
のである。 ところがやはり、そのような人は、まじめでも心をうちあけた親友ができない。 もし自分がまじめに生きてきたのにもかかわらず、心をうちあける親友がいないとすれば、自 分はズック製の拘東服を着せられているのではないかと反省する必要があろう。 われわれは他人に気に入られるために拘東服を着ているが、じつはこの拘東服を着ているがゆ えに親しい人ができないのである。 他人と接するとき、高い行動基準に目分をあわせようとして不安な緊張におそわれる人は、自 分は囚人の拘束服を着ているのではないかと反省し、もしそうだとすれば、それを脱がなくては ならないと思うことである。拘東服を着て苦しんだとて、結局他人に心から気に入られることは ないのである。馬鹿馬鹿しいことこのうえない。まさに徒労である。 拘束服を着ている人を気に入るのは、ずるい人だけである。毎日ストレスで消耗して、あげく のはてにずるい人に利用されて、泣きを見るのがいやならば、他人の望むような人間になどなろ うとしないことである。守ってはならない言葉が、「私はあなたのお望みどおりの人間になりま しよう」であるとすれば、肝に銘じるべき言葉は、「私はあなたに気に入られるために生まれて きたのではない」という言葉である。
ョンがある。 子供に対して、落胆の表情をしてタメ息をつくことは、「失望した」とはっきり言う以上に深 刻な影響を与える。 また言葉では「好きなようにしなさい」と言いながら、非言語的な表現で東縛しているときは、 子供は身動ぎできなくなる。「行きたければ行ってもいいんだそ」と言葉では言いながらも、そ の声の調子にうかがえる怒気から、親は自分が行くことを望んでいないと子供は感じる。 このように言語的表現と非言語的表現が矛盾しているとき、子供は深刻な傷をうける 1 子供の 本心は行きたい。しかし子供は親の表情から判断して行かないことに決めた。だが親の言葉は、 となると、子供は自分が行かないことをどう考えたらよいのだろう。 切行きたければ行ってもいし を 錯親の本心に気づけば怒られる。行きたければ行 0 てもいいとこれだけ ( ッキリ言 0 ているだろ ンう、ということになる。子供は親の本心に気づくことは禁じられている。では自分の本心に気づ シ いたらどうか、行くほうを選んでいる。しかし実際は行かない。 となると、子供の許されている感じ方は自分の本心を偽って、自分は行きたくないから行かな ュ かった、と思うことである。このようなことをいつもやられていたら、子供は自分でも自分の本 章心がわからなくなる。つねに自分の本心に気づくことを禁じられているからである。 「自分が何をしたいんだか、自分にもわからない」という青年がふえてきているのは悲劇である。
正反対のものをうつ病患者に感しさせる。 つまり、自己卑下することはその本人にとって自分の善良さを感じさせるものなのである。自 分を卑下するものは、まさに卑下するということによって自分の価値を高めることができる。 それが証拠に自分を卑しめ、責めている人に、同しような言葉をこちらがその人に向かって言 えば怒りだす。他人が自分を同じように責めるのは許さないのである。 「私はダメな人間だ」と言っている人に「そうだ、おまえはダメだ」とか「よくそわかってくれ た」と言ってみるとよ い。たいてい怒りだす。 歪んだ良心を通して人を見ると : いつもいつも、私のような者がこんな仕事を、と言って自分を卑下している人を見ていればわ 発かることであるが、けっして努力をしない。 出 のしたがってこの種のことを書いたりしている人のものを読むと、言葉のうえでは自分を責めて 頼いても、全体としての印象はまったく他人事のような感じを受けるのである。本気でほかならぬ 己自分を卑しめている、という感じを受けない。 この人でも、もし小学校の教員が楽しかったのなら、よしそれでは正式に教員免許をとろう、 章 そのように努力しよう、というような姿勢にはならない。 189
あろう。 その基準にあわせようというもがきが意志の過剰に映る。しかし、この基準にあわせようとす る動機は不安である。不安なのはその基準のみが自分の評価を決めると錯覚しているからである。 その基準にあわせられなかったときの失望は大きい。自分はダメなんだという失望の体験を避 けたいと神経症者は願って、不安なのである。 神経症者を恐れさせているのは、この自分の評価を決める基準である。またある人を神経症に 追い込んでしまうのもこの基準である。 世界的なベストセラー『予言』の著者ギブランとその恋人との書簡集の中に、私には忘れられ ない言葉がある。一 have no standard for you ( 。 conform to. ( 私はあなたを従わせるべき基準はな に一つ持っていない。 ) なんと美しい言葉であろう。本当にこのような親を持った子供は神経症にならないであろう。 本当にこのような恋人や友人を持った人は神経症がなおるのではないだろうか。 神経症の人は間違った基準で自分を評価しつづけてきてしまったのである。したがって神経症 をなおそうと自ら願う人は、その間違った基準を自分に与えた人から心理的に独立するしかない ・こソっ .- っ . 。間違った基準を自分に与えた人に認めてもらうことを喜びとしている限り、神経症は根 本的には治らないのではなかろうか。 170
うことを理解しようとしない。 たとえば「私はお前のためにあらゆることをした」と母親が言い、娘が「お母さんは私に愛情 を持っていなかった」と言う。このときもし母親が娘の言葉を認めてしまえば、それは自分の欺 瞞にみちた愛を認めることになってしまうであろう。 ここで母親が愛という言葉の意味を正しく理解できないのは、母親が自分の欺瞞を認めたくな いからである。「私たちはまったくうまくいっていた」と母親が言い、娘が「私は単にお母さん に服従していただけだ」と言う。これも同じである。娘の言うことを認められないのは自分の欺 瞞を認めたくないからである。 事実において娘の気がおかしくなっていても、それを認めることはできない。相手の言うこと を認めるということは、自分の欺瞞を認めるということである。つまり自分の自我の解体の危険 にさらされる。自分の感情のバランスを保っために、どうしても自分の言っていることは正しく なければならないのである。たとえ事実がどうであろうと、母親にしてみれば「私たちはまった くうまくいっていた」と思う必要がある。 このような母親は自分についてのなんらかの感じ方を抑圧している。自分は冷たい、自分は他 人の愛情を受け入れられない、自分は卑怯である、自分はウソつきである、自分は計算だかい、 自分は臆病である、何でもいいがこのような自分についての感じ方を意志のカで意識の外へ追い
杖を挙げて大を呼ぶ 杖を挙げて大を呼ぶ、という格言がある。大はどうしてよいかわからない、呼ばれているから よっていこうとすると杖を挙げている。杖を挙げているから逃げようとすると呼んでいる。大は どうしてよいかわからない、不安な緊張状態におかれる。 欺瞞的な親のやっていることはこれと同じである。したがって子供は去就にとまどう。子供に べタベタとまとわりつき、猫なで声で、母親が「男の子はマザーコン。フレックスではいけないの よ」と言ったらどうなるか。子供はどうしてよいかわからなくなる。 「子供にはあまりかまわないほうがよいと聞きましたが、。 とう子供を指導したらよいんでしよう か , 、という矛盾したことを平気で電話してくる母親がいる。大学生の母親である。 憎しみが憎しみとして表現されるときには問題は少ない。深刻なのは、憎しみが愛情の仮面を かぶって登場するときである。 言葉や動作はあることを表現する手段であるが、同時にあることを隠蔽する手段でもある。自 らの内なる憎しみを隠すために言葉や動作がっかわれることを忘れてはならない。 いずれにしても言語的表現と非言語的表現が矛盾しているときのように、矛盾した二つのもの を同時にぶつけられると、子供はどうしてよいかわからず、不安な緊張におそわれる。何も言わ れなくても、親を前にして子供はストレスを感じるようになる。
5 章生きる姿勢が積極的か消極的か 言葉が通じなかったのだから。 もしこんな不安なとき、親にしかめつ面されて「いくしなし ! 」と責められたら、この子供も どうなったかわからない。 この子供にとっては、このポリビアの小学校は脅威であったろう。この脅威をある程度やわら げてくれたのが、この子供の安定した家族関係だったのではなかろうか。 ある状況をどのくらい脅威に感じるかどうかは、その子供をとりまく人間関係に左右される。 149
はじめに —部心の現実から自分を読む 1 章アリ地獄の人間関係を知る〔あなたにプラスの人間マイナスの人凹 人間関係はマ】ジャンとは違う / 4 2 依存心の強い人と自己喪失した人との付き合い / 3 自分の責任と他人の責任を見分ける / ち 2 章コミ ュニケーションの錯宀見を切れ〔自己表現のタテマエとホンネ〕 1 言葉と態度が矛盾していないか / 3 2 人の心を読みすぎていないか / 3 現実の解釈を間違えるな / も 4 なぜ人間関係がうまくいかないのか / 3 章自己イメージを変える〔思い込みの威力〕
昇進うつ病 自分の育った環境は自分に多大な影響を与えてはいるが、自分の価値と自分の育った環境とは 関係がない。自分と環境とはまったく別のものである。 こう言うと当り前のようであるが、神経症などになる人はこのことが感情の面でわかっていな いとい一つことが多一い。 ある人は部長に昇進して喜び、さらに意欲をかきたてる。なのに、な・せある人は部長に昇進し てうつ病になるのか。昇進うつ病という言葉がある。 部長であれ、課長であれ、昇進をきっかけにうつ病になる人がいる。そのような人は責任感が 強いという。責任感が強すぎると表現する人もいる。自分に部長というポストはっとまるだろう かと心配になる。 普通の人は自分は部長になる実力があったからこそ部長になったと単純に考える。そして素直 1 自分と他人の境界をはっきりさせる 152