社会に出たときの、世間からの要求に応え切れなくなることかも知れません。 こうしたとき、彼らは絶望のサインを親たちに送ります。金をよこせ、留学させ ろ、下宿させろといったたぐいの、これまで言ったこともなかった要求を始めるとい うかたちをとることもあるでしよう。「良い子ーが突然これを始めますから親はびつ くりします。これを値切ったり、譲歩させようとすると、この段階で子どもの暴言や 暴力が飛び出すことがあり、それも深刻なものになることが多いのです。 親が子どもの要求を呑むと、それからのほうがかえって騒動は大きくなります。子 どもが本当に求めているものは個々の要求の充足ではなく、自分の存在そのものの 「承認」だからです。思春期の子どもたちは自分の行動のなかから「私のほうを見て 「私そのものをそれでいいと言って」というメッセージを汲み取る親を求めているの ですが、多くの場合このサインは無視され、焦った親たちによる子どもたちの魂への 侵入はさらに強化され、やがて爆発が生じます。 こうした爆発をまねくもうひとつの要因は、アダルト・チルドレンにそなわった自 己処罰の傾向です。アダルト・チルドレンは親たちのために生きてきたわけですか ら、親たちの期待からはずれたことを自覚した時点で自己処罰の感情にとらわれるの です。この自己処罰の欲望が、親による処罰をさけられないところまで自らを追い込 もうとして、親への暴力をエスカレートさせます。
の女性のセラピストも違うし、斎藤先生も、私が求めていた話し相手ではなかったよ うな気がするんです。それで先日ふと気づいたんです。〃その人〃って結局、私のこ とじゃないかって。そうしたらすぐに、そのとおりという確信がもてました。そうで す、私はずっと私自身と話がしたかったんです」 彼女が発見した彼女自身は柔軟で傷つきやすい人でした。以前の彼女が″回復した 自己〃としてイメージしていたような鉄にも似た逞しさには欠けていましたが、〃し なやかで、しかもパワフル〃でした。意外に子どもつばくて、もしかしたら本当に子 どもなのかも知れません。 でも自分の考えをしつかりと述べ、したいことは「したい」、したくないことは とはっきり言います。大人らしさを意識し過ぎて、気取ったり威張っ たりする〃子どもつばさ〃はこの人とは無縁です。抱っこしようとすると、すっかり 身を任せてくる甘えん坊で、緊張したり身をひいたりすることがありません。好奇心 が旺盛で、遊び好きです。 彼女はこの〃彼女自身みと一緒にいるとき、これまでに叩き込まれてきた常識や理 性を忘れ、意識する世界の外に開かれた直感と無意識の世界を実感します。ついでに 世間の人を疑い、警戒する心も忘れます。それはきっと、他人のための自己ではな 、彼女にだけわかる、彼女自身のための自己なのでしよう。 「したくない 237 第 7 章変化する私
・荒れるアダルト・チルドレン 前章でも述べたように、アダルト・チルドレンの問題は、まずアルコホリックの子 どもたちの共依存性 ( 周囲の他者の必要を満たすことによって、はじめて自分の存在を肯 定できるような考え方 ) に着目したところが出発点でした。 それはそれで重要かっ正しい着眼点だったと思うのですが、静かで控えめで、他人 にとって都合の良い「アルコホリックの子ども」というアダルト・チルドレンのイメ ジがひとり歩きしはじめると、アダルト・チルドレンのもうひとつの側面である 「怒りと攻撃性」というものの特徴が見えにくくなるように思います。 この章では、アルコール依存症などとは無縁な、「ごく普通に見える日本の親たち , のもとで育った子どもたちのなかの、いわゆる「家庭内暴力ーの問題に触れたいと思 います。 ちなみに、第 2 章でも述べたように、この家庭内暴力という用語は、現在の「家族 と暴力」研究の進展から見るときわめて不適切なものです。家庭内暴力には老人虐 待、妻や性的パ ートナーである女性への虐待、児童虐待などがあって、「思春期青年 による親虐待」は、その一部に過ぎません。それにもかかわらず、日本の精神科臨床 では、この思春期問題だけが過度ともいえるほどの注目を集めてきました。 124
れも、本質的に家庭内の権力者による権力の濫用であり、強者から弱者へ、年上のも のから年下の者へ、男性から女性へ加えられる力の圧力なのです。加害者たち ( 主と して男 ) は、家庭の内外で体験するパワー ( 権力 ) の欠損を、これによって代償して いるのです。 これら虐待において家族メンバーは加害者、被害者、その他の三種類に分断され、 健康な家族にみられる親密な相互関係が維持できなくなります。それは、子どもがそ のなかで自己の一体性を獲得していくはずの「安全な場所」が破壊されることを意味 します。 そうした危険な場所のなかで心理的に破綻しないでいるためには、否認 ( 見たも の、存在するものを、見ないもの、存在しないもののようにする無意識レベルの心の動き ) 、 回避 ( 関係に巻き込まれないように無関心を装うとする半意識的な態度 ) 、投射 ( 無意識レ ベルの心の防衛のひとつ。悪意などの自分の感情が、相手から出てきたもののように感じる こと ) 、分割 ( 自己と自己の愛着対象とをそれぞれ善と悪に分け、それぞれが別個に併存し ているかのようにみなす心の動き ) といった病的な心の防衛方法に頼らなければなりま せん。こうしたものをいつまでも使い続け、問題の解決が引き延ばされるうちに、子 どもたちは次の世代の加害者や被害者へと仕立てあげられていきます。 夫婦間暴力の場合、子どもたち自身が暴力に巻き込まれ、被虐待児と呼ばれる者に
花が光と水を必要とするように、子どもは親の関心を必要としています。こういう ものが遮断されて育っとどうなるかということがここでの問題なのです。 ・機能しない家族 子どもにとっての「安全な基地」であること、そのなかで子どもが自らの「自己ー を充分に発達させることができること、これが健康な家族の機能です。ですから機能 している家族では子どもを脅かしたり、子どもに責任を感じさせてしまったりする親 や親代理がいません。 子どもはそのなかで、一定の役割を押し付けられることもなければ、親の価値観を 無理やり取り込ませられることもありません。 家族の壁はあっても、そこには通気ロやドアがあって、外気が自由に出入りしてい ますし、ときには外の人物も入りこんできます。家族のなかで語ってはならないこと がありませんし、外界に対して秘密にしておかなければならないこともありません。 こうした家族のなかで、子どもは見たものや感じたことを口にし、怖がり、怒り、 不安がり、疑問があれば大人たちに質問します。見たり感じたりしたことを言葉にす る過程のなかに、子どもの心の発達があるのです。 秘密やルールでがんじがらめにされた家族では、見たものを見ないことにし、感じ 87 第 3 章アダルト・チルドレン
なさい」というようなことを一切言わないということです。 家庭内に閉じこもって暴れている子どもとは退行 ( 子ども返り ) している子どもで す。つまり自己流に「内なる子ども」を表現してグリーフ・ワークしている人たちな のです。自己流というところがちょっと困るのですが、せつかくグリーフ・ワークに 乗り出したのだから、怒りを、とくに親に対する怒りを途中で抑制させないで、これ を用いて家族関係を変える努力を親の方でしてみることです。 第 4 章で述べたように、子どもによる親に限局した暴力は四 5 五年の経過でみる と、家族内の硬直した人間関係を変える効果を持っているからです。わかりやすく えば、暴れる子は、自分のからだを張って親 ( とくに母親 ) の表現されない怒りや欲 望を表現しているのです。ですから、家庭内で子どもが暴れている家では、数年もす ると夫婦関係の改善がみられるようになるものです。 時には、親の謝罪が効果を生むこともあります。ただし通り一遍の「ごめんよ」で は駄目です。親の方も子どもの悲しみや怒りに共感できるようになって、初めて謝罪 が意味を持つようになります。そのためには、親自身が子どもであったときの親との 関係で傷ついた自己を直視できるようにならなければなりません。 子どもの怒りが放出しつくすときというのは必ずきます。怒りとは、自らの欲求不満 を訴えるコミュニケーションの一様式ですから、きちんと届いてさえいればいっかは
なる子ども」にとっては痛切な痛みになります。兄弟が生まれてくるというのも喪失 になります。これは「母親の膝や乳房の喪失。です。逆に、兄弟がいなくなることも 喪失になります。 成長にともなう身体の変化も喪失体験の原因になります。いままで子どものからだ だったのが、思春期に入って女生性を獲得する、あるいは、男性的になっていくとい うこと自体が一つの「喪失 ( 子どもである自分の喪失 ) 」になります。これは子どもと して保護されているという「安心感の喪失ーでもあります。 子ども時代に経験した親たちの離婚や死はもちろん喪失ですが、親の転勤、移住、 離婚のために、それまでの子どもどうしの人間関係が失われるという喪失にはかなり の痛みがともないます。 「物の喪失」も無視できません。たとえば自分が愛着していた財布がなくなったとい うのは、財布がなくなる、金がなくなるだけではなく、その財布にまつわる想い出の 喪失という問題をはらんでいます。鍵がなくなったというのはかなりの喪失感がある でしよう。鍵がなくなると、いろいろなものが開かなくなりますから、自分の「日常 生活が喪失」してしまうわけです。 こういった人や物は、自分の周りを囲んで安全を保っている壁のようなものです。 これが、失われることはすべて、私たちにとってトラウマになります。 19 ラ第 6 章「嘆き」から「癒し」へ
なることもまれではありません。しかし、もっと多いのは、子どもたちが、虐待され ている母親を繰り返し見なければならないという目撃者の役割につくことです。ある いは母親の情緒的不安定の影響を受けながら育っことです。 前に述べたように夫婦間の暴力場面は、その後の愛着場面に切り替えられるわけで すが、この交替の繰り返しは、当然のことながら親イメージのまとまりを悪くしま す。 その結果、子どもの心には、「良い親」と「悪い親」とが分割されて存在するよう になります。「悪い親。は否認されたり、親以外の他人に転化されたりします。一方、 「良い親」に対しては自分を、「叱られ、無視されて当然の存在。と感じるようになり ます。ここから子どもの健康な精神発達にとって中核的な意味をもつ自己肯定感の損 傷、自己評価の低下がはじまります。これは子どもの安全感を危険にさらすので、彼 らは大急ぎで「良い親、を取り入れ、自分のものとします。こうして、加害者の暴力 男に同一化し、自らの無力感を幻想的な力と全能感に置き換える危険な子どもたちが 生まれてくるのです。 夫婦間暴力の場合、被害女性の側にも、気づかずに夫を挑発してしまうような男性 的パワーへの希求があるので、こちらが子どもたちに取り込まれる場合もあるでしょ 77 第 2 章家族という危険地帯
ルドレンの欠点 ( ウィーク・ポイント ) のみに注目してしまいます。そうした欠点を 次々に指摘し、その早急な修正を迫るような治療者は、アダルト・チルドレンを援助 しようとして、かえって彼らの自尊心と力を剥ぎ取ってしまっているのです。 三歳児を連れた母親の場合を考えてみてください。よちょち歩きの幼児が転んだと き、幼児の立ち上がる力を信じられる母親は、幼児を見守りますが手を貸しません。 幼児の泣き声にも動揺せず、立ち上がろうとする子どもの力に共感し、立ち上がった 子どもの力を称えるでしよう。 子どもは自分を見守る母親の瞳のなかに、自分のカへの称賛を見いだし、それを肯 定的な自己イメ 1 ジの素材にします。 そもそもこうした一連の「見守り ( ウォッチング ) ーには時間と心のゆとりが必要で す。こうしたゆとりを欠いたとき、母親は、あわてて子どもを抱き起こし、ついでに 子どもを叱りとばします。このような経験をくりかえす子どもは、自らの能力を自覚 する力を発達させることができず、母親に依存し続けることになるでしよう。 あるサバイバーは言っています。 「よい治療者は私の経験を尊重してくれた。私をコントロールしようとするのではな く、私が自分で自分の行動を決めるのを助けてくれた」 回復するのはあくまで本人。援助するつもりが、逆に新たなトラウマのきっかけを作 チ た ダ 165 第 5 章「安全な場」を求めて
小児科医が最初に関心をもったのは、三歳以下といった幼児の大ケガや死亡の原因 として、この問題がまず明らかになったからです。こんな大事件でさえ、親の加害性 が問われるまでにずいぶんと時間がかかったわけですから、心理的虐待のような、よ り「見えにくい暴力」や、私のいう「やさしい暴力」についてはまだまだこれから明 らかにされることが多一かろ一つと田います。 ここではとりあえず、児童虐待という家族内トラウマに関して、おさえておかなけ ればならないことをまとめておきましよう。 子どもに暴力を振るうような親に出会ってしまった子どもには、さまざまな問題が 生じてきますが、そのひとつが攻撃性の問題です。親の攻撃性に直面しながら育った 子どもは、先ほども申し上げたように、「不安と怒りを調節する能力」の発達が悪く なりますから、当然攻撃的になります。これが「犠牲者が加害者になる道」といわれ るものです。 これは、自分が子どもをつくったときに子どもを犠牲者にすることもあるし、同世 代のなかでも、たとえば仲間グループのなかでのいじめ行為になって現れたりしま す。妻との関係で夫婦間暴力の加害者の役割を取ることもあるでしよう。 この件については男の子と女の子との間で著しい差異がみられることがわかってい ます。簡単にいうと、女性の方が自分自身を破壊するような行為、たとえば手首切り 第 1 章家族に心を傷つけられた子どもたち