フェデラリスト - みる会図書館


検索対象: アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論
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1. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

( ) ed., with intro. notes, by Jacob E. C00ke, The Fe き新 , No. 51, p. 35L 352. ( ) ~ d こ No. 10, や 61. ( 幻 ) 7 d こ NO. 51, や 351. パーナイ イノテレスト ( ) こ No. 10, や 63. また、『フェデラリスト』第一〇篇は次のようにも述べている。「領域が拡大されると、党派および利益群がいっそ う種々雑多になり、全体中の多数者が他の人民の諸権利を侵害しようとする共通の動機をもつなどということが、恐らくは、少なくなること であろうし、また、そのような共通の動機が存在するとしても、それを感ずるすべての人々が、かれら自身の実力を自覚的に意識すること も、また、互に団結して行動することも、いっそう困難となるであろう」 ( 邦訳は、『原典アメリカ史』第二巻、三七二頁 ) 。なお、この点で、 『フェデラリスト』は、「共和制の本性からいって、それは小さな領土しか持たない、然らずんばそれはほとんど存在しえない」 ( モンテスキ ュー、根岸国孝訳『法の精神』世界の大思想⑩、一二七頁 ) とするモンテスキュ 1 の考えとはこの点に関するかぎり基本的に異なっていた。 ( ) The Federalist, op. 、こ p. 349. ( ) T ま 0 、 vol. ミ , や 35. ( ) ミこや 36. ( 四 ) 7 こや 37. ( ) 7 d こや 40. 景 ( 引 ) ミこや 41. ( ) 7 こ pp. 41 ー 42. 史 ( ) 例えば、『フェデラリスト』第五一篇は次のように述べている。「単一の共和制においては、人民によって委託された一切の権力は単一政府 の 1 三ロ の行政に委ねられ、権力簒奪は政府を個別の分離した諸部門に分割することによって防止されている。アメリカの複合共和制においては、人 ムロ 民によって委託された権力は、第一に、二つの個別の政府間に分割され、ついで、各政府に割当られた部分が、更に個別の分離した諸部門に ン 再分される。ここに、人民の権利に対する二重の保障が生まれる」 (ed., with introduction and notes, bY Jacob E. C00k0 op. ご名・ フ 350 ー 351 ) 。 カ ( ) 「ケンタッキー決議」はジェフアソンによって起草され、 John Breckenridge によってケンタッキ 1 州議会に提出され、採択されたもので あるが、カルフ 1 ンは、 T ~ ミミ・の中で幾度もこの決議にふれ、彼の無効宣言の理論的基礎になったことを認めている。だが、マデイソ 章 1 ジニア両決議は世論に対するアピールのためのものであったのであり、一州による無効宣言や ンは一八三二年に至って、ケンタッキー 第 異議介入は「不条理」 (absurdity) であるとして、これを否定したとされている (Gerald Capers, op. きこ p. 134 ) 。

2. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

月、一一六歳の若さでアヴェヴィル地区選出の州議会議員に、さらに、一〇年秋の中間選挙において合州国下院議員に 選出せしめる。翌一一年一月八日、州都チャールストンの大ブランターで、従兄弟ジョン (J0hnEwingCalhoun) の一 人娘フロライド (Flo 「 ide Bonneau Calhoun, 一 792 ー一 866 ) と結婚し、その後九人の子供を持っことになる。 ウォー ・セッション カルフーンが登院した一二議会第一会期は、いわゆる「戦争会期ーと呼ばれ、彼は、最初は、ニューヨーク州選出 の外交関係委員会 ()O 「 eign Relations Committee) 議長・ポーター (Peter B. P0 「 ter) の次席として、後に当委員会 の議長として、ランドルフ (Edmund Jennings Rand01ph' 】 753 ム 8 一 3 ) やニ = ーイングランドの代弁者の主張を抑え、 ウォー ・ホークズ ・クレイや・モンロー (James Monroe, 1758 ム 83 一 ) 等とともに「戦争鷹」の一人として対英戦争を強硬に主張し ( 5 ) た。第二次独立戦争とも呼ばれる一二年の対英戦争は、六月一八日、第四代大統領マデイソン (James 1751 ー 一 836 ) 治下で宣戦布告され、一四年一二月二四日、オランダの「ガン ( Ghen ( ) 平和条約」の調印をもって終結をみる。 ブリカンのモンローとフェデラリスト党最後の候補者キング (Rufus King 1755 ー 八一六年秋の大統領選挙は、リバ 景 1827 ) の間で争われたが、モンローが圧倒的多数で勝利をおさめた。カルフーンは、モンローの二期にわたる政権下 ( 6 ) 史で陸軍省長官 ( s 。。「 ( 象 wa 「 ) を務めることになる。この間、彼は、陸軍省の軍事行政機構の整序、イギリスやス 論ペイン、インディアンに対処すべく五大湖周辺やメキシコ湾岸の要塞の建設、道路や運河の整備、さらには、医療機 ( 7 ) 関の拡充にも努める。 フ ノブリカン党もフェデラリストの経済 モンロー大統領の時代は、建国期のフェデラリストが勢力を失い、また、リ。、 カ政策を踏襲し、国内の政策上の対立が解消したところから、一般に、「好感情の時代ーとか「感情褪和の時代」 (Era 章 一望 Good Feeling) と呼ばれている。しかし、それは支配的諸階級相互の相対的安定期にすぎなかった。産業革命の昻 第 進と国内交通の改善による交通・運輸体系の拡充、さらにはそれをイム。ハクトとした西漸運動 ( wes ( 「 d Movements)

3. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

1 三ロ 一七九六年九月、初代大統領 t ・ワシントン (Geo 「 ge Wa 一 ng ( 。 n 732 ム 799 ) が「告別の辞」 ()a 「 ewell Add 「 ess) を 国民に与え引退した後、フェデラリスト党は分裂し、対外関係をめぐって両派の対立が表面化した。そんな中で、 わゆる「一八〇〇年の革命」によって、アンティ・フェデラリストⅡリ。ハプリカンの領袖、・ジェファスン (Thom ・ as Jeffe 「 son, 】 743 ー一 826 ) が h ・アダムズ (John Adam 。 705 ムき 6 ) に代って第三代大統領として政権の座についた。彼 は、当時、全欧州を席捲していたナポレオン戦争に巻きこまれないよう、中立を維持する必要上、海運業者や貿易業 者の激しい反対の中で、一八〇七年一二月、「出港禁止法」 ( Emba 「 g 。 Act) を発した。しかし、ひとりアメリカだけが ヨーロツ。ハの動向から免れることはできず、一 八一二年六月、アメリカは対英宣戦を布告し、「第二次独立戦争ーを 開始することになる。この戦争は、貿易額の激減をもたらしただけでなく、国内の臨戦態勢を急がしめることになっ た。その結果、アメリカは経済的自立を強要されることになり、従来、海運業や貿易業に投下されていた資本は国内 産業〈と転換せしめられ、国内産業の奨励、農・工業製品の国内市場の拡大をもたらし、ここにアメリカの産業革命 は緒についた。 第一章カルフーン政治論の史的背景

4. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

一基本的構成原理 「合州国憲法ーの制定 ( 一七八九年四月三〇日 ) 以降、南北戦争の勃発 ( 一八六一年四月一二日 ) に至る約七〇年の合州 国の政治状況は、権力プロック内の支配的諸勢力間の政治的関係の変動に照応、規定されながら、マイノリティとマ ジョリティとの対立と抗争として展開され、連邦政体論をめぐるイデオロギー状況においては、中央集権的連邦強化 論と地方分権的州権論あるいは州主権論との対立と交錯の歴史であったということはっとに指摘されるところであ る。それは、大略して、建国後約三〇年間におけるフェデラリストとアンティ・フェデラリストの対立にみられるよ うに憲法の拡大解釈 (libe 「 al construction) と厳格解釈 ( 。 ( 「一。 ( const 「 uction) の対立として、また、連邦政府強化論に 対する「地方自治の原理、 (p 「 inciple 。こ。。巴 self-gove 「 nment) の強調として、さらには、主として、政治的に少数者 化しつつあった南部プランター勢力の側からの「競合的発言権、 (p 「 inciple 象 the concu 「「 ent voice) や「憲法上の保 護の原理 , (p 「 inciple 。 ( constitutional guarantees) にうったえられながら推移し、やがて、南北戦争の危機が切迫す ( 2 ) るにつれて、南部の側の公然たる「独立の原理」 (principle 望 independence) の主張にいたるのである。 ジョン・ 0 ・カルフーンは、やがては内乱に結果する一つの激動の移行期にその政治生活をおくり、合州国憲法や 第三章カルフーンの連邦政体論 『合州国憲法および政府論』を中心として 151

5. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

関税」 ()a 「象 Abomination) と呼び激しい反対運動を起し、やがてユニオンを震撼させる無効宣言を発動するに到 八二八年秋 る。このような状況にあって、カルフーンはその政治家としての転期をむかえる。すなわち、彼は、一 に、「サウス・カロライナ解明と抗議 (The south Ca 「 olina Exposition and P 「 0 ( est ) を墅〕き上げ、いわゆる州権論 アドノス (State ・ RightTheory) を憲法とのかかわりにおいて論じ、その後、「フォートヒル談話」や「ハミルトンへの書簡」に ( 幻 ) おいて州主権論 (State ・ sovereignty Theo 「 y) を軸に「競合的多数制」の政治論として一層精緻化し、南部のために万 丈の気をはくようになるのである。 「サウス・カロライナ解明と抗議 [ を検討するに際し、その理論的背景について概観しておこう。 合州国憲法は、基本的には、近代啓蒙期の政治理念の集約的性格をもつものであるが、それは、同時に、イギリス 帝国からの離脱と新たに成立した共和制国家の編成原理をめぐる諸階級の対立と妥協の中から構築された成文憲法で ガヴァメント あるという史的背景をもつものであるが故に、一方では、抑制と専制とを避忌し「権力の制限された政府ーという主 景張と、国家的統合の要請から連邦政府強化論との対立と対抗とを内在的に含まざるをえなかった。それは、例えば、 ジェフアソンとハミルトンの対抗関係に例示されるところであるし、また、憲法制定以降、国家権力レベルにおける 論 ~ ゲモニーをめぐる政治的諸勢力の対立と抗争が、中央集権的傾向と分権論 ()a 「 ticula 「 ism) 、国権論と州権論の対立 ムロ 政となって展開されたところからも理解されるところであるそれは、「ヴァージニアおよびケンタッキー決議、 (Vir- フ ginia and KentuckY R000 一 u ( 一 on 望】 708 ) がフェデラリスト政権下で制定された「外人法および治安取締法 (Alien and カ sedition Acts, 】 798 ) に対しリバブリカンの側から発せられ、後には、「ハートフォード決議 ( Reso 一 u ( 一 0 theHa 「 ( ・ 章ま『 d convention, 】田 5 ) が、今度は下野したフェデラリストの側からリバブリカンの「出港禁止法、 ( 一八〇七年 ) に対 して発せられたことにも例示されるところであろう。 リミテッド・

6. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

ところで、モンテスキューは、「権力を担当するあらゆる人間がそれを濫用しがちだということは永遠の経験であ るーと述べ、また、「代表は容易に堕落し、そうならないことはきわめて稀である」とはルソーの指摘したところで ある。カルフーンの『政治論』もまたこの問題に直面する。すなわち、カルフーンは「政府の権力の乱用と圧制への 傾向をいかに阻止するか」という「重大にして困難な問題」に答えんとする。カルフーンのこの問題意識は、トクヴ イルが「それ故に北部は南部よりも一層商業的でありエ業的でもある。北部では人口と富とが南部においてよりも一 層はやく増えることは当然である」と指摘しているように、漸次少数者化し続ける南部の権力をなお死守せんとする 意識の所産であったとしても、支配と被支配という原理的には緊張にみちた対抗関係をいかに解決するかという問題 とも係わっている。 カルフーンが政府の権力の乱用を防止する方策を「人間の案出物」としての「基本法」に求めたことについては既 に指摘したところであるが、問題は、「基本法」をいかなる構成原理に服せしめることによって政府に内在的な権力 乱用を防止するかということだけでなく、成文憲法内にこれを防止する規定を含ましめることで充分であるか否かと いうことでもある。『フェデラリスト』は、第五一篇において「野心は野心に対抗せしめられねばならないーという認 識の下に、、 しわゆる抑制と均衡論を展開したが、カルフーンもまた、「権力は権力によって、傾向は傾向によってのみ 対抗されうる」という認識から、権力の乱用を防止する方法は、「治者の側の権力の乱用と圧制に対し、被治者の側 オーガ = ズム ( 浦 ) の抵抗が組織的、平穏に行われる手段を与えるような組織」を「基本法ーの構成原理とし、これを政府の構造内部 に含ましめる他はないとし、これを欠くならば、「子羊に狼の監視をさせるようなもの」であると指摘する。そして、 この組織こそが立憲政府 (Constitutiona1 Government) 形成の「不可欠の第一歩」であり、それは立憲政府を絶対政府 から区別する基軸的メルクマールでもあるとした。すなわち、『政治論』は、「政府はどんな原理に従って、それ自身 114

7. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

生み出すーーそれは、まさにこの利害の多様生にもとづいて構成される。その中でより強い方が、もし政府にこれを阻 止する充分な手段が与えられていないなら、弱者に対し無制限のなんら規制されない権力を行使することになろう。 〔この場合〕、憲法によって確立された、社会の諸部分間の平等関係は破壊され、その代りに、強い利益層と弱い利 益層との間で君主と臣民の関係が、最も忌むべき抑圧的形態で代替されることになろう」。 ゲイテド 「事実、委託された権力の乱用と弱い利益層に対する強い利益層の専制が二つの危険である。阻止されなければな らないものはこの二つだけである。もしこれが効果的に行われるなら、自由は永遠のものになるにちがいない。両者 のうちで、後者の方が重要で、最も防止困難なものである」。 『フェデラリスト』は、その第一〇篇および第五一篇において、社会が敵対的な階級的編成関係にあることを認めた うえで、少数の階級的利益の擁護の必要性を次のように指摘している。 「社会をその支配者の抑圧から護るのみならず、社会の一部を他の部分の不正から護ることは、共和国の最も重要な 点である。様々な利害が、必ずや、市民の異なった階級の中に存在する。もし多数派が共通の利害によって結合する なら、少数派の権利は不安定なものとなろう」と。さらに続けて、「強力な徒党が容易に結合し、弱者を圧迫するよ うな形態下にある社会においては、弱い個人が強者の暴力から保護されていない自然状態と同様確実に、無政府状態 が支配すると言われてもよかろう」と述べている。そして、これを防ぐためには、「同一の熱情や利害が多数派の中 に同一時に存在しないようにされること」、あるいは、「多数のちがった市民を社会の中に包含し、全体の中の多数派 ( 幻 ) の不正な結合を、不可能としないまでも極めて起りえないものにすること , 、であるとされる。ここから、「大きな共 和国において、各代表者は小さな共和国よりもより多数の市民によって選出されるから、頻繁にみられるように悪質 な候補者が卑劣な手段に訴えて当選することが困難となる。また、人民の投票はより自由に行われるであろうから、 ファクション

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ナショナル 「憲法とそれが修正される権威との関係についてみると、それは全く国家的〔原文イタリック〕でも連邦的〔原文イ ( 3 ) タリック〕でもないことが判明する」。 以上の引用にも明らかなように、マデイソンは連邦政府の権力源泉やその機能対象、憲法修正権との関連において ナショナル フェデラル 連邦政府とその憲法の性格について論じ、結局、新しい憲法案は「国家的な憲法でも連邦的な憲法でもなく、その両 者の複合体である」とするのである。また、・ハミルトンは、第三二篇において、「制憲会議の〔憲法〕案は、部 分的ュニオンあるいは統合だけを目的とするものであるから、州政府は以前に保有していた主権のあらゆる権利を明 ( 4 ) 白に保持することになろう」とも書いている。 このように、『フェデラリスト』は、憲法案に対する諸州の同意と批准を引出さねばならないこともあって、主権 の所在については極めて多義的で不分明であり、マデイソンが「主権の可分性を認めないでは、合州国の複雑な政治 体制について明確に論ずることは困難である」と語っているところからも明らかなように、主権そのものの州と連邦 ( 5 ) への分割を想定していたか、あるいは、主権の所在を明確にしないまま、主権に帰属する諸権力の連邦政府と州政府 への分割を想定していたものと予測される。また、主権は「人民」に帰属すると考えられていたとしても、その「人 ニ一一口 民、とは州人民を指すのか、あるいは全体としての合州国人民を指すのかという点でも明確ではなか 0 たと言えよ ンう。この点で、トクヴィルは「一七八九年の憲法を立案した立法者たちは、連邦権力に別個の存在と優越力とを与え フようと努めた。しかし、彼らは遂行することをうけおった課題の条件によって制約された。彼らは単一国民の政府を ( 6 ) 構成することではなくて、諸州の連合を規制することであった。彼らは主権の行使を分割せざるをえなかったーと指 章 二摘している。それは、一七九三年の「チザム対ジョージア事件」 (Chish01m v. Geo 「 gia) や一八一九年の「マカロッ ク対メリーランド事件」 (McCulloch v. Maryland) に対する合州国最高裁の判例にも例示されるところである。前者 フェデラル 137

9. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

獲得と保持をめぐる階級間の対立として展開されたという経験に基づくものであった。彼は既に一八三五年二月、 ジャクソン治下で定着しだしたといわれる「猟官制」 ( スポイルズ・システム ) を批判し、「公職が、その名にふさわ しい人々に与えられる公的信任状とみなされるのではなく、党務に報いる褒賞として与えられる勝利の獲物とみなさ れるなら、 : : : 確実な直接的・必然的傾向は、公職にある総ての人々を腐敗させ、〔彼らを〕権力の従順な道具に変 え、また、多数の飢えて貪欲で卑屈な党派心の持主を育てることになり」、その結果、「自由の崩壊と専制の出現を準 備するもの」であると指摘している。後に、カルフーンのこの危惧は現実のものとなり、ガーフィールド大統領 ( James Abram Garfield 83 〒 188 こ暗殺事件の遠因ともなり、官職更迭原理は、やがてメリット・システム (merit system) に 変えられてゆくことになる。ともあれ、カルフーンは、一八二〇年代からの投票権の拡大傾向と投票者に対する一定 のペシミズムからではあるが、微的・私的意志の集積をもって公的意志とする近代の選挙制度の原理において、投票 権の行使が、社会が敵対的階級関係にあるかぎり、実は階級諸関係の政治的決済として機能することや、また、社会 を維持し保護すべき政府が支配的階級あるいは諸階級の政治的強制の機構、経済的に主導的階級の利益保持と配分の ( 墅 ) 機関であることを鋭くとらえているのである。 『政治論』は、さらに、「公的強力」 ( エンゲルス ) の維持に必要な徴税・行財政・軍事・警察機構に触れ、それが政 党間のスポイルズの対象となることについて指摘し、社会は「税の支払者と税の消費者」から構成されているもので ( 四 ) あるとするのである。それは、関税問題や政府の財政政策に関する彼の経験的認識から引出された指摘であろう。で は一体、数的多数派の上に成立する社会の「規制者ーであり、政治的強制の装置である政府とその権力の行使をいか にしてカルフーンは抑制しようとするのであろうか。 『フェデラリスト』は、多種多様な利益層が包含された大共和国においてこそ、特殊な個別的利益は多面的に抑制、 116

10. アメリカ南部危機の政治論―J.C.カルフーンの理論

三主権論 ジャン・ポーダン (Jean Bodin, 】 530 ー 1596 ) は、一方でモナルコマキ (Monarchomachi) に対抗しながら、中世社会 の法皇、皇帝、封建諸侯の多元的・分散的秩序Ⅱ「封建アナキー」を克服し、近代の統一国家の理論的基礎を構築す べく『国家論六巻』 ( 』 Six トきミミ、をミこ 576 ) を書き、神法および自然法以外の他の何ものにも拘東さ れない不覊的権力、「臣民と市民を支配する至高の権力ーとして主権「 eignty) の概念を位置づけた。ポーダン に礎をおくその後の主権論は、主権の所在については違いはあれ、ほぼ共通に主権を国家に内在的な不可分、不可譲 の属性と考え、近代の契約論的国家論に継承されていった。 建国期のアメリカ法理論、主権論に多大の影響を及ぼしたのは、・プラックストーン (William Blackstone' 】 723 ー 80 ) の『イギリス法釈義』 ( C 。ミミき、ミ、 ~ トミ vs 、ミミ 1765 ー 69 ) であったと言われているが、一七八九年 の合州国憲法は、ジョージ三世 (Geo 「 ge 111 こ 738 当 820 ) の専横に対する危惧感もあり、また、分権論と集権論との妥 奇協の中から連邦国家を構築しなければならないという歴史的背景もあって、主権の概念およびその所在については明 確性を欠いたものとな 0 ている。すなわち、一七八一年の「連合規約」第二条は、「各邦は、その主権、自由、独立 ( 2 ) フ及び本規約の明文によって連合会議に委任されざる一切の権能及び管轄権を保有するーと主権の所在を明記している レ 力ものの、「独立宣言」はもとより、「合州国憲法」において「主権」 (Sove 「 eignty) という用語を見出すことはできな 章 。また、新たに成立をみた連邦国家の政体論、国家構造論を論じ、「一七八七年九月一七日連邦憲法会議の起草を了 第 した憲法〔案〕の支持のために書かれたーとされる『フェデラリスト』第三九篇において、・マデイソンは次の様 135