何度 - みる会図書館


検索対象: キッチン
148件見つかりました。

1. キッチン

178 熱は景気よく上がった。あたりまえだと思った。ただでさえ具合が悪いのに、街をい つまでもふらふらしていたら、そうなるのは当然と言えよう。 母親は、それは知恵熱じゃないかと笑っていた。私も力なく笑った。私も、そう思う。 考えても仕方のない思考の毒が体中にまわったのかもしれなかった。 そして夜は、いつものように等の夢を見て目覚めた。熱をおして走って川原へ行くと、 等が立っていて、なにやってんの風邪なのに、と笑う夢だった。最低だった。目を開け ると夜明けで、 いつもなら起き出して着替える頃だった。寒く、ただ寒く、体中がほて おかん っているのに手足はしんしん冷えていた。悪寒が走り、ぞくぞくして体中が痛んだ。 うすやみ 私はふるえながら薄闇の中で目を開けて自分がなんだかとてつもなく巨大なものと戦 っているような気がした。そして、もしかしたら自分は負けるかもしれないと生まれて 初めて心から思った。 等を失ったことは痛い。痛すぎる。 彼と抱き合う度、私は言葉でない言葉を知った。親でもない自分でもない他人と近く にいることの不思議を思った。その手を胸を失って、私は人がいちばん見たくないもの、 人が出会ういちばん深い絶望の力に触れてしまったことを感じた。淋しい。ひどく淋し

2. キッチン

えり子さんが帰ってくるまで、二人でファミコンをして待った夜。その後三人で眠い 目をこすってお好み焼きを食。へに行「た。仕事でどんよりしていた私に、雄一がくれた おかしい漫画。それを読んでえり子さんも涙が出るまで笑ったこと。晴れた日曜の朝、 オムレツの匂い。床で眠ってしまう度にそっとかかる毛布の感触。えり子さんの歩いて ゆくスカート のすそと細い足がはっと目覚めた薄目の向こうにぼんやり見えた。酔った 彼女を雄一が車で連れ帰ってきて、部屋まで二人で抱えていったこと : : : 夏祭りの日、 衣の帯をえり子さんにき 0 「としめてもら「た、あのタ空に舞狂う赤とんばの色。 ~ , 本当の いい思い出はいつも生きて光る。時間がたつごとに切なく息づく。 いくつもの昼と夜、私たちは共に食事をした。 いっか雄一が言った。 満 「どうして君とものを食うと、こんなにおいしいのかな。」 私は笑って、 「食欲と性欲が同時に満たされるからじゃない ? 」 」一一一口った。 「違う、違う、違う。」 大笑いしながら雄一が言った。 「きっと、家族だからだよ。」 135

3. キッチン

二時間かけて、私は夕食を作った。 雄一は、その間 > を観たり、じゃゞ、 力しもの皮をむいたりしていた。彼は手先が器用 なのだ。 私にとって、えり子さんの死はまだ遠くにあった。まともに受けとめるこ・とができな あらし ショックの嵐の向こうから、少しずつ近づいてくる暗い事実だった。そして雄一は、 どしゃぶりの雨にさらされた柳のように打ちしおれていた。 だから、二人でいてもわざとえり子さんの死を語らず、時間や空間のなにがなんだか わからない度が増したけれど、今は二人でいるしかなかった。他も先のこともなく安心 した空間をあたたかく感じた。そして、うまく言えないけれど、このつけは必ずまわっ てくる気がした。それは巨大でこわい予感だった。その巨大さがかえってこの孤独な闇 の中で二人のみなしごを高揚させていた。 夜が透明に更けた頃、私たちはできあがった大量の夕食を食べはじめた。サラダ、 とり イ、シチュ コロッケ。揚げ出しどうふ、おひたし、春雨と鶏のあえもの、キエフ、 酢豚、しゅうま、 : 国籍がめちゃくちゃだったが、気にならないくらいたくさん時間 をかけて、ワインを飲みながら全部食。へつくした。 雄一が珍しく酔っぱらっている様子なので、これつぼっちのお酒で変ね、とふと床を

4. キッチン

ないのよね。無理よって言い続けたら、そうかあ、じゃあひとりでどこか行ってこよう ってしょんばり言うの。あたし、知ってる宿を紹介してあげたんだけれどね。」 ・ : : ・うんうん」 って言ったのね。本当に冗談でさ。そし 「あたし、ふざけて、みかげと行っちゃえー たら雄ちゃん、真顔で『あいつ、仕事で伊豆だもん。それに、これ以上あいつをうちの 家族に巻き込みたくないんだ。今、せつかくうまくやっているところなのに、悪くて さ。』って言うの。あたし、なんだかビンときちゃったのよ。あんた、あれは、愛じゃ ない ? そうよ、絶対に愛よ。ねえ、あたし、雄ちゃんの泊まってる宿の場所も電話も キわかってるからさあ、ねえ、みかげ、追っかけてってさ、やっちゃえ ! 」 「ちかちゃーん。」私は言った。「私はさあ、明日の旅行、仕事で行くのよ。」 満 私はショックを受けた。 私には、雄一の気持ちが手に取るようにわかった。わかる、気がした。雄一は今、私 の何百倍もの強い気持ちで、遠くへ行きたいのだ。なにも考えなくていい所へ、ひとり で行きたいのだ。私も含めたす。へてから逃げて、ことによると当分帰らないつもりかも しれない。間違いない。私には確信があった。 時、女がしてや 「仕事なんてなにさ。」ちかちゃんは身をのりだして言った。「こういう れることなんてたったびとつよ。それともなあに、まさかあんた処女 ? あっ、それと 115

5. キッチン

大学生の春休みと、高校生の春休みが違うのは明白である。この真昼に私服で街なか にいるというのはつまり学校を休んでいるのだろう。私は笑った。 走り寄って声をかけるのはなんのためらいもなくできることだったが、私は熱のせい でなにもかもが面倒くさかったため、歩いていたそのままのテンボで彼のほうへ歩いて いった。すると、ちょうど彼もそっちへ歩き出してしまったので、全く自然に私は彼を つけて街を歩いていく形になってしまった。彼の足が早くて、走りたくない私はなかな ンか追いつけなかった。 柊を観察した。私服だと、彼はちょっと人が振り向くようなかっこいい男の子だった。 チ 黒いセーターで、堂々と歩いていく。 背も高いし、手足も長い。身軽で冴えている。確 かに、恋人を亡くしたこんな彼が、突然、セーラー服で登校して、それが彼女の形見だ と知ったら女の子はほっておかない。 と、歩いていく後ろ姿を見ながら私は思っていた。 兄と恋人を一度に亡くすことはそうあることではない。非日常の極致だ。私も、もしひ まな高校生だったら彼を自力で更生させたいと思って愛してしまうかもしれない。 と若い時、女の子はそういうのがなにより好きだから。 彼は、声をかければ笑顔になる。私はそれを知「ていた。それでも、びとりで街をゆ く彼に声をかけるのはなんだか悪い気がしたし、他人にできることはなにひとつない気 もした。私はひどく疲れていたのかもしれない。なにもまっすぐに心に人「てこなかっ 174

6. キッチン

文士は追悼に命を賭ける。漱石から三島まで、 嵐山光三郎著 ) 追悼の ~ 人明治、大正、昭和の文士四十九人への傑作追 悼を通し、彼らの真実の姿を浮き彫りにする。 ゝ人付き合いの悩みには、必す万能感の罠があ 万能感とは何カ る / 臨床心理の視点から日本人の行動力の 「自由な自分」を 弱さを指摘、真に自由な生き方を提案する。 取りもどす心理学 死の淵より復活したオーケン、しかし目の前 オーケンののほほん日記 ロックに に新たな試練が立ちはだかる 最大槻ケンヂ著 ノリ . ツに . 映画に読書に失恋。好評サプカル日記、第一一弾。 庫 『ロビンソン漂流記』には実在のモデルがい ロビンソン・クルーソー た / 三百年前に遡る足跡を追って真の″ロビ 文髙橋大輔著 を探して ンソン〃の実像に迫る冒険探索ドキュメント。 算数が苦手な子供とおとな、そしてすべての 石原清貴著「算数」を ~ 木しに丁こう ! 世代の数学好きに贈る算数発見物語。現役の 沢田としき絵「式」や「計算。のしくみが 小学校の先生が処方した、算数嫌いの特効薬。 わかる五つの物語 赤狩り旋風吹き荒れる終戦直後のマンハッタ 。偶然がもたらす 中川聖訳去「←倡 ~ 羊 ~ 俣ンを焦がす壮絶な悲恋ーー ( 上・下 ) 運命に翻弄される男女を描き切る野心作。 和田迪子著

7. キッチン

ムーンライト・シャドウ 177 私は四人でいることもとても楽しくて好きだ「た。ゆみこさんはよく、さっきさんい つまでも一緒に遊ばうね、絶対別れちゃだめだよ、と言った。あなたたちはどうなのと 一不かからか、つと、そりゃあも、つ、と夭った。 そしてこれだもの。あんまりだと思う。 彼は今、私のようには彼女のことを思い出していないと思う。男の子は自分がわざと ひとみ つらくなることはしない。しかし、その分だけかえって彼の全身が瞳がびとつの一一 = 〕葉を 彼ま決して言葉にはしないだろう。しかし、それはもしも言うならつらい 語っていた。 / ( 一一一一口葉だった。すごくつらい。それは、 戻ってきてほしい 言葉というよりは、祈りだった。私はやり切れない。夜明けの川原でもしかして私も あんなふうに見えるのだろうか。だから、うららは私に声をかけたのだろうか。私も。 私も、会いたい。等に。戻ってきて、ほしいと思う。せめて、ちゃんとお別れを言 、こゝっこ 0 私は今日見かけたことを言わないことと、明るく接することを次回に誓って、その場 は声をかけずにそのまま帰っこ。

8. キッチン

た。思い出が思い出としてちゃんと見えるところまで、一日も早く逃げ切りたか 0 た。 でも、走 0 ても走てもその道のりは遠く、先のことを考えるとぞ「とするくらい淋し 、つ、 ) 0 その時、柊がふと立ち止まったので、私もつい立ち止まってしま「た。これでは本当 に尾行だわと笑いながら私はいよいよ声をかけようと歩きーー柊が立ち止まって見てい るものに気づいてはっと足を止めた。 彼はテニスショップのウインドウを見つめていた。本当になんの気なしに眺めている ことがその、淡々とした表情でよくわかった。しかし、思い人れがない分、その行為の 深さが伝わってきた。すり込みみたい、と私は思った。子アヒルが初めて動いたものを 母と思い込んでついて歩く姿は、子アヒルにと「てはなんでもなくても見る者の胸を打 こんなに打つ。 春の光の中、人混みにまぎれてじ「と、じっと彼は無心にウインドウを見ていた。テ ニスのもののそばにいると、彼は多分なっかしい気持ちになれるのだろう。私が柊とい る時だけ、等の面影の分、落ち着くのと同じに。それは悲しいことだと思う。 175 私も、ゆみこさんのテニスの試合を見たことがあ「た。彼女を初めて紹介された時、

9. キッチン

172 一日中遊びほうけて、ほろ酔いで、私たちは全くはしゃいで歩いていた。しんしんと 袵える冬の夜道は豪華な星空にいろどられ、私は晴れやかな気分だった。ほほにびりび りと風がしみて、星がまたたく。ポケットの中でつないだ手のひらはいつもあたたかく、 ばさばさした感触だった。 「あ、でも君のことは絶対、変なふうにゆわないから。」 思い出したように等がそう言ったのがおかしく、私は自分のマフラーに顔を埋めて笑 いをこらえた。四年もいて、こんなに好きだなんて不思議なこともあるものだと私はそ の時思っていた。その私を、今の私は十歳も歳下に感じる。かすかに川音が聞こえてき さひ て別れが淋しかった。 そして橋。橋が二度と会えない別れの場所となった。水がものすごい音で寒そうに流 れて、川風が目を覚ますような冷たさで吹きつけた。鮮やかな川音と満天の星の中で短 いキスを交わして、楽しかった冬休みを思いながら二人は笑顔で別れた。夜の中を、ち りちりと鈴の音が遠ざかっていった。私も等もやさしかった。 二人はびどいけんかもしたし、小さな浮気もした。欲と愛のバランスに苦しんだこと もあったし、幼いからお互いを傷つけたことも多々あった。だからいつもそんなに幸せ で仕方ないわけではない、結構手間のかかる年月だった。それでもいい四年だった。そ かんべき して中でも、それは終わるのがこわいくらい完璧な一日だった。冬の美しく澄んだ大気

10. キッチン

170 私は言った。 「じゃあ、愛人にお教えする。まず、あさってまでにその風邪を治すことよ。」 「どうして ? ああ、見ものっていうのが、あさってなの ? 」 「ずばり。、、 し ? 他の人に言っちゃだめだよ。」ほんの少しうららが声をひそめた。 「あさって、朝の五時三分前までにこの間の場所に来ると、もしかしたらなにかが見え るかもしれない。」 「なにかってなに ? どういうもの ? 見えないこともあるの ? 」 私は疑間の洪水を投げかけることしかできなかった。 「うん。天候にもよるし、あなたのコンディションにもよる。とても微妙なものだから 保証はできない。でも、あたしのただのカンだけれど、あの川とあなたは関係が深い。 だから、きっとあなたには見える。あさってのその時刻は、本当に百年に一回くらいに いろいろな条件が重なって、あの場所である種のかげろうが見えるかもしれない時間な の。ごめんね。かもしれない、ばっかりで。」 その説明もよくはわからず、私は首をかしげた。それでも私は久しぶりになんだかわ くわくした気持ちをおばえた。 「それって、 もこと ? ・」 「うーん : : : 貴重ではあるけれど。そうね、あなた次第。」