173 の中の、す。へてがあまりにも美しくやさしい一日のその余韻のように、振り向いた等の 黒いジャケットが闇に溶けてゆくさまをおほえている。 ースした場面だ。いや、思い出す度に涙が出てしま この場面は泣きながら何度もリヾ った。橋を渡り、追いかけていって行ってはだめだと連れ戻す夢も何度も、何度も見た。 夢の中で等は、君が止めてくれたから死なずにすんだよ、と笑った。 、ノにむな 真昼にこうしてふと思い出しても、泣かずにいられるようになったことが如 しい。果てしなく遠い彼が、ますます遠くへ行ってしまうように思える。 その、 川で見えるかもしれないなにかを半分冗談にして、半分期待して、うららと別 れた。うららは、にこにこして街なかに消えていった。 ム もしも彼女が変なうそっきで、わくわくして朝早くに走っていった私がばかをみても 私はかまわないと思った。彼女は私の心に虹を見せた。思いもよらないことを考えると きめきを思い出して、私の心には風が人ってきたのだから。もしなにもなくても、多分 二人で並んで冷たい川の流れがきらきら輝くのを朝見ていたら気分がいいだろう。それ 水筒を抱えて歩きながら、私はそう思っていた。自転車をとりに行こうと思い、駅を 抜ける途中で柊を見かけた。
166 普通なら絶対に外へは出ないで寝ている、というくらいに体調は悪かった。切ってか らしまった、と私は思った。足がなんとなくふらついていたし、熱も上がりそうな感じ だったからだ。それでも、会ってみたい好奇心にかられて私は仕度をはじめた。まるで 心の奥底で本能の光がまたたいて、行けと言ったように迷わなかった。 後から思えば、運命はその時一段もはずせないハ シゴだった。どの場面をはずしても 登り切ることはできない。そして、はずすことのほうがよほどたやすかった。多分それ でも私を動かしていたのは、死にかけた心の中にある小さな光だった。そんなものはな やみ いほうがよく眠れると私が思っていた闇の中の輝きだった。 厚着をして自転車に乗っていった。春が本当に来ると思わせる、あたたかい光に包ま れた真昼だ「た。生まれたばかりの風が顔に吹いてきて心地良かった。街路樹もかすか に幼いみどりの葉をつけはじめていた。空の淡いブレゞ ノーカうっすらとかすんで、はるか 街の向こうへと続いていた。 そのあまりのみずみずしさに、私は自分の内側がかさかさしていることを感じずには いられなかった。私の心にどうしても春の風景は人ってこない。 シャポン玉のよ、つにく るくると表面に映るだけだ。人々はみな髪を光にすかして幸福そうにすれ違ってゆく。 す。へては息づいて、柔らかな陽ざしに守られながら輝きを増してゆく。生命にあふれ出
ないのよね。無理よって言い続けたら、そうかあ、じゃあひとりでどこか行ってこよう ってしょんばり言うの。あたし、知ってる宿を紹介してあげたんだけれどね。」 ・ : : ・うんうん」 って言ったのね。本当に冗談でさ。そし 「あたし、ふざけて、みかげと行っちゃえー たら雄ちゃん、真顔で『あいつ、仕事で伊豆だもん。それに、これ以上あいつをうちの 家族に巻き込みたくないんだ。今、せつかくうまくやっているところなのに、悪くて さ。』って言うの。あたし、なんだかビンときちゃったのよ。あんた、あれは、愛じゃ ない ? そうよ、絶対に愛よ。ねえ、あたし、雄ちゃんの泊まってる宿の場所も電話も キわかってるからさあ、ねえ、みかげ、追っかけてってさ、やっちゃえ ! 」 「ちかちゃーん。」私は言った。「私はさあ、明日の旅行、仕事で行くのよ。」 満 私はショックを受けた。 私には、雄一の気持ちが手に取るようにわかった。わかる、気がした。雄一は今、私 の何百倍もの強い気持ちで、遠くへ行きたいのだ。なにも考えなくていい所へ、ひとり で行きたいのだ。私も含めたす。へてから逃げて、ことによると当分帰らないつもりかも しれない。間違いない。私には確信があった。 時、女がしてや 「仕事なんてなにさ。」ちかちゃんは身をのりだして言った。「こういう れることなんてたったびとつよ。それともなあに、まさかあんた処女 ? あっ、それと 115
118 私は翌日、予定どおり伊豆へと出発した。 先生と、スタッフ数名と、カメラマンとの小人数の編成で、明るく和やかな旅になり そうだった。日程もさほどきつくない。 やはり、こう思う。今の私にはーー夢のような旅行だ。降ってわいたようだ。 この半年から解き放たれる気がする。 この半年 : : : おばあちゃんが死んだところから、えり子さんが死ぬまで、表面的には うれ ン私と雄一はずっと二人笑顔でいたけれど、内面はどんどん複雑化していった。嬉しいこ とも悲しいことも大きすぎて日常では支え切れなかったから、二人は和やかな空間を苦 チ 心して作り続けた。えり子さんはそこに輝く太陽だった。 そのす。へてが心にしみ込んで、私を変えた。井ったれてアンニュイだったあのお姫様 は今は鏡の中でその面影に出会うだけの遠くへ行ってしまったように、田 5 う。 車窓をゆく、きりりと晴れた景色を見つめて、私は自分の内部に生まれたとほうもな い距離を呼吸した。 : 私も疲れ切っている。私もまた、雄一から離れて楽になりたい。 それはひどく悲しいことだけれど、そうなんだと思う。 その夜のことだ。 ゆかた 私は浴衣姿で先生の部屋へ行って、言った。
120 困ったことに雄一の心が理解できてしまう。 なに楽だろう。 宿が立ち並ぶ街道をずっと下っていった。 やみ 山々の黒い影が、闇よりもずっしりと黒く街を見つめている。浴衣の上に丹前を着た 寒そうな酔っぱらいの観光客がたくさんいて、大声で笑いゆきかう。 私は少一に、つき、つきして・楽しかった。 ひとりで星の下、知らない土地にいる。 街灯がある度に伸びては縮む影の上を歩いていった。 うるさそうな飲み屋はこわいので避けてゆくと、駅の近くまで出てしまった。真っ暗 なみやげもの屋のガラスをのぞきながら、私はまだ開いているめし屋の明かりを見つけ た。すりガラスの戸をのぞき込むと、カウンターだけで、客はひとりしかいなかったの で、私は安心して引き戸を開けて人った。 なにか思い切り重いものが食。へたくて、 「カッ丼を下さい。」 と私は言った。 「カツから揚げるから、少し時間がかかるけどいいゝ、。 と店のおじさんが言った。私はうなずいた。白木の匂いがするその新しい店は、手の どん : もうあの街へ帰らなくてすめば、どん
ムーンライト・シャドウ 今が最悪だ。今を過ぎればとりあえず朝になるし、大笑いするような楽しいことも あるに違いない。光が降れば。朝が来れば。 いつもいつもそう思って歯を食いしばったが、立ち上がって川原の景色に行く力のな 原に今行けば、 い今は、ただ苦しかった。じりじりと砂をかむような時間がゆく。私は川 本当に等がさっきの夢のように立っている気さえした。気が狂いそうだった。腐りそう 私はのろのろと起き上がり、お茶を飲もうと台所へ歩いた。びどくのどが渇いていた。 熱のせいで家中がシュールにゆがんで見え、家族が寝静まった台所はしんしん寒く暗か った。私は熱いお茶をふらふらしながら淹れて自分の部屋へ戻った。 そのお茶でずいぶん具合はよくなった気がした。のどの渇きがいえると呼吸が楽にな った。私は半身を起こしてべッドのわきの窓のカーテンを開けた。 私の部屋からは、ちょうど家の門と庭がよく見える。庭木や花が青い空気の中でさわ さわ揺れて、。ハノラマのように平たい色彩で広がって見えた。きれいだった。夜明けの 青の中でなにもかもがこんなに浄化されて見えることを私は最近知った。そうして外を 眺めていて、私は家の前の歩道をこちらへ歩いてくる人影を見つけた。 近づいてくるにつれて、私は夢かと思い、何度もまばたきした。それはうららだった。 齠青い服を着て、にこにこ笑いながら私を見てこちらにやってくる。門の所に立ち、彼女 ヾ、 ) っこ 0
161 でかくれたので、私は少しほっとした。デパートの窓明かり 柊のセーラー服がコート が歩道を明るく照らし、とぎれなくゆきかう人々の顔も白く輝いて見える。風は甘い香 りがして、春めいているのにまだまだ冷たく、私はポケットから手袋をとり出した。 「その天ぶら屋、ワタシんちのすぐそばだから、少し歩くよ。」 と柊が言った。 「橋を渡ってゆくのね。」 と言って、私は少し沈黙した。橋の所で会った、うららという人のことを思い出した : とぼんやり思っているとふいに柊が、 、一・のだ。あれからも毎朝行くが、会わない。 「あっ、もちろん帰りは送るぞ。」 と大声で言った。私の沈黙を、遠くへ行く面倒さと解釈したらしかった。 「とんでもない。 まだ早いもの。」 とあわてて言いながら、今度は心の中だけで、″に、似ている″と私は思っていた。 マネをしてくれる必要がないくらい、今のは等に似ていた。人との間にとったスタンス を決して崩さないくせに、反射的に親切が口をついて出るこの冷たさと素直さに、私は いつでも透明な気持ちになった。それは透んだ感激だった。その感じを私は今、生々し く思い出してしまった。なっかしかった。苦しかった。 「この間、走ってて朝、橋の所に変な人がいてね。そのことを思い出してただけよ。」
, 仮はきつばり一一一一口った。 ・ゝこじけない。」 と私は言った。 彼は、びととおりの説明を終えるとおやすみと言って自分の部屋へ戻っていった。 私も眠かった。 人の家のシャワーを浴びながら、自分はなにをしてるのかなと久しぶりに疲れが消え てゆく熱い湯の中で考えた。 借りた寝まきに着替えて、しんとした部屋に出ていった。べた。へたとはだしで台所を もう一回見に行く。やはり、よい台所だった。 そして、今宵私の寝床となったそのソフアにたどり着くと、電気を消した。 窓辺で、かすかな明かりに浮かぶ植物たちが十階からの豪華な夜景にふちどられてそ っと息づいていた。夜景ーーもう、雨は上がって湿気を含んだ透明な大気にきらきら輝 いて、それはみごとに映っていた。 私は毛布にくるまって、今夜も台所のそばで眠ることがおかしくて笑った。しかし、 孤独がなかった。私は待っていたのかもしれない。今までのことも、これからのことも となりに人 しばらくだけの間、 忘れられる寝床だけを待ち望んでいたのかもしれない。
109 んはお客からもらってきた肉まんをおみやげに店から帰ってきた。私は例によって、昼 間ビデオにとった料理番組をメモしながら観ている最中だった。青い夜明けの空が、東 からゆっくりと明るくなりはじめていた。せつかくだから、今、肉まん食べましようか とレンジにかけてジャスミン茶を淹れていたら、ふいにえり子さんがそれを語りはじめ たのだ。 私は少しびつくりしたが、きっとお店でいやなことでもあったのでしよう、と思った ので、うつろに眠い頭で聞いていた。彼女の声がまるで夢の中に響くように感じた。 チ 昔ね、雄一のお母さんが死んじゃう時のことよ。あたしじゃなくて、あの子を産 キんだ、当時の、男だったあたしの妻のことね、彼女はガンだったの。どんどん悪くなっ ていく頃ね。なにしろ愛し合っちゃってたからね、雄一は近所の人にムリャリ預けて、 満 毎日、見舞いに行った。会社づとめをしていたから出勤前と退社後はいつも付き添って たわ。日曜は雄一も一緒に行ったけど、わけわかんないくら、 小さかったのよね。 あの頃あった希望を、どんなに小さいものも絶望と呼べる自信があるわ。世にも暗い毎 日だった。その頃は、それほどそう感じなかったけれどね、そこがまあ、また暗いとこ ろね。 まるで甘いことを語るようにまっげをふせて、えり子さんが言った。青い空気の中で 彼女はぞっとするほど美しく見えた。
181 わらないからよ。またくりかえし風邪ひいて、今と同じことがおそってくることはある かもしんないけど、本人さえしつかりしてれば生涯ね、ない。そういう、しくみだから。 そう思うと、こういうのがまたあるのかっていやんなっちゃうっていう見方もあるけど、 こんなもんかっていうのもあってつらくなくなんない ? 」そして、笑って私を見た。 私は黙って目を丸くした。この人は本当に風邪についてだけ言 0 てるんだろうか。な にを言ってるんだろうか。ーーー夜明けの青と熱がす。へてをかすませて、私には夢とうつ つの境目がよくわからなかった。ただ一一一〔葉を心に刻みながら、話すうららの前髪がさや 、冖さや吹く風に揺れるのをぼんやり見つめていた。 「じゃあ、明日ね。」 と笑うと、うららはゆ「くりと外から窓を閉めた。そしてステップをふむような軽い ム足どりで門を出ていった。 私は夢の中に浮いているように、その姿を見送っていた。つらかった夜の終わりに彼 女がやってきてくれたことが、私は涙が出るほど嬉しかった。この幻想のような青いも やの中をあなたが来てくれて、夢のように嬉しいと伝えたか「た。なんだか、目が覚め たらなにもかも少しよくなるようにさえ、思えた。そして眠りについた。 目が覚めたら、少なくとも風邪だけは少しよくなっていることがわかった。なんとよ