そのギリシャの小さな島ですみれに何が起こったのか、見当もっかなかった。でもそれが好ま しくない種類の出来事であることは確かだ。どれくらい好ましくないことなのか、それが問題だ った。とはいっても朝が来るまでは、ぼくにできることは何もない。椅子に座って、テーブルに 両足をのせ、本を読みながら夜が明けるのを待った。夜はなかなか明けなかった。 夜が明けるとばくは中央線で新宿まで出て、そこで成田工クスプレスに乗り換えて空港まで行 った。九時になって航空会社のカウンタ 1 をいくつか回ってみたが、成田発アテネ行きの直行便 、くつかの試行錯誤の末に :--a 航空の というものは、そもそも存在しないのだと知らされた。し アムステルダム行きのビジネス・クラスがとれた。そこから乗り継ぎでアテネまで行くことがで きる。アテネに着いたらオリンビック航空の国内便に乗り換えて、そのままロードスに向かえる ということだった。その予約も彼らが手配してくれる。問題さえ起こらなければ、二度の乗り継 ぎはかなりスムーズにいくはずだった。少なくとも時間的にはそれが最良の方法だった。帰りの 便はオープンで、出発から三カ月以内であれば好きな日に帰ってこられる。ぼくはクレジット・ 1 すみれになにかが起こった。しかしなにが起こったのかはミウにもわからない。 図ぼくは一刻も早くそこに行かなくてはならない。すみれもそれを求めていると ( ミウは ) 思っている。 123
行って話を通してきた方がよさそうだから。その結果領事館の人を連れてここに戻ってくること になるかもしれないし、あるいはすみれのご両親がアテネに着くのを待って、 来ることになるかもしれない。いずれにせよ、できることならそのあいだ、あなたにここにいて もらいたいの。島の警察からなにか連絡が来るかもしれないし、すみれがひょっこり戻ってくる 可能性だってあるしね。それをお願いしていいかしら ? 」 かまわない、 とばノ、は一 = ロった。 「わたしはこれから警察に行って捜査の経過をきいて、そのあと港で小型ポートをチャ 1 ターし て口 1 ドスに行くことにする。往復に時間がかかるから、アテネでホテルをとって泊まることに なると思う。二日か三日、そんなものだと思うけれど」 僕はうなずいた。 ミウはオレンジをむき終えると、ナイフの刃をナプキンでていねいに拭いた。「ところであ なたはすみれのご両親に会ったことはある ? 」 一度もない、 とば / 、は一一 = ロった。 ミュウは世界の果てを吹く風のような深いため息をついた。「さて、 いいのかしら」 彼女の戸惑いはぼくにもよく理解できた。説明のつかないことを、 ればいいのだろう ? したいどう説明すれば いったいどのように説明す 181
でいたというドイツ人の中年の夫婦に会って話を聞いた。海でも往復の道でも、日本人の女性は みかけなかったねとその夫婦は言った。できるかぎりの捜査を続けてみます、と警察は約束して くれたし、実際にけっこう動いてくれたと思う。しかしなにひとつわからないまま時間が経って 、、 : ウは大きく息をつき、両手で顔の下半分を覆った。 「東 ~ に電話をかけて、あなたにここに来てもらうしかなかった。わたし一人ではもうどうしょ うもないところまで来ていたから」 ぼくは荒れた山の中を一人でさまよっているすみれの姿を想像してみた。薄い絹の。ハジャマに ビーチ・サンダルという格好で。 「ヾジャマはどんな色ですか ? 」とばくは尋ねた。 けげん 「。、ジャマの色 ? 」とミウは怪訝そうな顔で聞き返した。 「すみれがそれを着たままいなくなった。ハジャマです」 「そうね、何色だったかしら。思い出せないわ。ミラノで買ったきり一度も着ていなかったか ン。とても軽くて、ポケットも ら。どんな色だったかしら ? 淡い色よ。たぶんべール・グリー ついていない」 ばくは言った、「もう一度アテネの領事館に電話をかけて、誰かにこの島まで来てもらってくだ 175
じてため息をつき、またしばらく黙っていた。 「誰にもまだ言「てないけれど、夏休みにしばらくギリシャに行っていたんだ」とばくは言っ た。「ギリシャがどこにあるかは知ってるね ? 社会科の時間にビデオの教材で見たことがあっ たね。南ヨーロ 地中海にある。島が多くて、オリープがとれる。紀元前 5 0 0 年頃に古代 文明が栄えた。アテネでは民主主義が生まれ、ソクラテスが毒を仰いで死んだ。そこに行ったん だ。とても美しいところだよ。でも遊びで行ったわけじゃない。友だちがギリシャのある小さな 島でゆくえがわからなくなってしまって、探しに行ったんだ。でも残念ながら見つからなかっ た。ただ静かに消えてしまった。煙みたいに」 にんじんはロを少しだけ開いて、ばくの顔を見ていた。表情はまだ硬く死んでいたが、目には 少しだけ光が戻ってきたようだった。彼はばくの話をちゃんと耳に入れているのだ。 「ばくはその友だちのことが好きだった。とても好きだった。誰よりもなによりも大事な人間だ った。だから飛行機に乗ってギリシャのその島まで探しにいったんだ。しかしだめだった。どう しても見つからない。それでね、その友だちがいなくなってしまったら、ばくにはもう誰も友だ ちがいないんだ。ただの一人もいない」 ぼくはにんじんに向けて話しているのではなかった。自分に向けて話しているだけだった。声 に出してものを考えているだけだった。 284
も性欲を感じている。ばくはすみれを愛し、性欲を感じている。すみれはばくを好きではあるけ れど、愛してはいないし、性欲を感じることもできない。ばくは別の匿名の女性に性欲を感じる ことはできる。しかし愛してはいない。 とても入り組んでいる。まるで実存主義演劇の筋みたい だ。すべてのものごとはそこで行きどまりになっていて、誰もどこにも行けない。選ぶべき選択 肢がない。そしてすみれがひとりで舞台から姿を消した。 ミウは空つぼになったばくのカップに新しくコーヒーを注いでくれた。ぼくは礼を言った。 「あなたはすみれのことが好きだったんでしよう ? 」とミ = ウはばくにたずねた。「つまり、女 の人として」 ばくは。ハンにバターを塗りながら簡単にうなずいた。ヾターは冷たくて硬く、のばすのに時間 がかかった。それから顔をあげてつけ加えた。「そういうのはおそらく、選びようのないことな んです」 我々は黙って朝食のつづきを食べた。ラジオのニュースが終わり、ギリシャ音楽が聞こえてき た。風が吹いて、ブーゲンビリアの花を揺らせていた。目を凝らすと沖合いに無数の白い小波が 立っているのが見えた。 「いろいろと考えてみたんだけれど、わたしは今日、早いうちにアテネに行こうと思うの」とミ ュウは果物の皮をむきながら言った。「電話ではたぶんらちがあかないだろうし、直接領事館に
のをよく見物に出かけた。そして冷たいものを飲みながら、船から降りてくる人たちの姿を、飽 4 一 きもせずに眺めた。 わたしは世界の端っこにいて、そこに静かに腰かけていて、誰にもわたしの姿は見えない。そ んな気がしたわ。ここにいるのはわたしとすみれだけ。ほかのことはなにも考えなくていも もち と思った。どこにも行きたくない。、 しつまでもこうしていたい。 こからもう動きたくない、 ろんそれが不可能なことは、わたしにもよくわかっていた。ここにある生活はいっときの幻想に すぎないし、いっかは現実がわたしたちを捕まえにやってくる。そしてわたしたちはもとの世界 に戻らなくてはならない。そうよね ? しかし少なくともそのときがくるまで、余計なことは考 えずに心ゆくまで日々を楽しんでやろうと思ったの。そしてわたしはじっさいに、 ただ純粋にこ こでの生活を楽しんだ。もちろん 4 日前まではということなのだけれど」 4 日めの朝も二人はいつものようにビーチに行って裸で泳ぎ、 いったん家に戻ってから港に出 かけた。カフェのウェイタ 1 は二人の顔を ( それからミュウがいつも置いていく多めのチップの ことを ) 覚えていて、とても愛想良くあいさつをした。二人の美しさについてお世辞らしきこと を口にした。すみれはキオスクで、アテネで印刷されている英字新聞を買った。それが二人を外 の世界に結びつけているただひとつの情報源だった。新聞を読むのはすみれの役目だった。彼女
くよフェリー のデッキの上から、離れていく彼女の姿を遠く眺めているときに、初めてその ことに思い当たった。それを恋愛感情とは呼ぶことはできなかっただろうが、かなり似かよった ものだった。ばくの身体ぜんたいを無数の細い紐が締め上げているような感覚があった。気持ち の整理がうまくつかないままデッキのべンチに座り、ビニ 1 ルのジムバッグを膝の上で抱え、船 があとに残していくまっすぐな白い航跡をいつまでも眺めていた。数羽のかもめがその航跡にし がみつ / 、よ、つにフェリー のあとを追っていた。ミュウの小さな手のひらの感触が、まるで魂の影 のように、ばくの背中にいつまでも残っていた。 まっすぐ東京に戻るつもりだったのだが、前日予約をとったはずの飛行機の席がなぜかキャン セル扱いになっていて、おかげでアテネで一泊しなくてはならなかった。航空会社が用意してく れた小型バスに乗り、斡旋してくれた市内のホテルに泊まった。プラーカの近くのこちんまりと した感じの良いホテルだったが、。 トイツ人の団体客で混雑していて、ひどくうるさかった。とく にやることも思いっかなかったので、市内を散歩して誰のためというのでもなく小さなみやげ物 を買い、夕方に一人でアクロポリスの丘にのぼった。そして平らな岩の上に横になり、夕暮れの そよ風に吹かれながら、照明を当てられて青いタ闇の中にほんのりと浮かびあがる白い神殿を眺 めていた。美しく幻想的な風景だった。 あっせん 259
こちら側から、あちら側に。薄い絹の。ハジャマとビーチ・サンダ さりと外に出ていったのだ ルとい、つかっこ、つで。 そのドアの向こう側にどんな光景があったのかばくには想像がっかない。でもドアは閉じら れ、すみれはもう戻ってこない。 コテージに戻り、冷蔵庫の中にあったものを使って簡単なタ食を作った。トマトとバジリコの ハスタ、サラダ、アムステル・ビ 1 ル。それからヴェランダに座ってあてもない考えにふけっ た。あるいはまったく何も考えなかった。誰からも電話はかかってこなかった。アテネにいるミ ウはおそらくここに連絡を取ろうと努めているはずだ。でもこの島の電話はあてにならない。 空の青が昨日と同じように一刻一刻その深みを増し、大きな円形の月が海の上に昇り、 うが かの星が空に孔を穿った。斜面を上ってくる風がハイビスカスの花を小さく揺らせた。突堤の先 に立った無人灯台が古めかしい光を点減させていた。人々がろばを引いて坂道をゆっくりと下っ ていった。声高な会話が近づいては、遠ざかっていった。ばくはそのような異国的な情景を、む しろ自然なありようとして静かに受け入れていた。 結局電話はかかってこなかったし、すみれも現れなかった。時間が静かにゆるやかに移り、夜 が深まっていくだけだった。すみれの部屋にあったカセット・テ 1 プをいくつかもってきて、居 間のステレオ装置でかけてみた。そのうちのひとつはモーツアルトの歌曲集だった。エリザベー 245
音にも目を覚ました。入り口には鍵をかけなかった。夜が明けてもすみれは戻ってこなかった。 彼女のべッドはわたしがセットしたままになっていた。それでわたしは港の近くにある地元の警 察に行ったの。 警官の中に流暢に英語を話せる人がいて、わたしは説明したの。連れの女性が姿を消して二晩 戻ってこないんだって。しかし真剣に取り合ってくれなかった。お友達はそのうちに帰ってきま すよと言われた。よくあることです。ここではみんな羽目を外すんです。夏ですし、みんな若 翌日またそこに行ったときには、彼らは昨日よりはもう少し真剣に話を聞いてくれた。でも まだ腰を上げてはくれなかった。だからわたしはアテネの日本領事館に電話をかけて事情を説明 したの。ありがたいことに相手は親切な人だった。彼が警察署長にギリシャ語でなにかを強く一言 ってくれて、そのおかげで警察は本腰を入れて捜査にとりかかることになった。 でも手がかりは見つからなかった。警官は港やうちの近所で聞き込みをしてくれたけれど、す みれの姿を見かけた人はいなかった。フェー 丿 1 の船長も切符売り場の男も、この何日かのあいだ に日本人の若い女性をフェリーに乗せた記憶はないと言った。とすれば、すみれはまだこの島に いるはずよね。そもそもフェ 丿ーの切符を買うお金たって身につけてないんだもの。そしてこの 狭い島の中を、日本人の若い女性が。ハジャマ姿でふらふらと歩いていれば目に留まらないはずが ない。海で泳いでいて溺れたのかもしれない。警察はその朝に山の向こうのビーチでずっと泳い 174
アムステルダム行きの便はほぼ予定どおりの時刻に成田空港を飛び立ち、北極を越えて、アム ステルダムに到着した。そのあいだにばくはもっと眠るためにウイスキーを二杯飲み、目を覚ま してタ食を少しだけ食べた。食欲はほとんどなかったので、朝食は断った。余計なことを考えた くなかったから、目覚めているあいだはいつも集中してコンラッドを読んでいた。 飛行機を乗り換えてアテネ空港で降り、隣のターミナルに移って、ほとんど待ち時間なしでロ ードス島行きの 7 2 7 こ 。乗った。機内は世界各地からやってきた元気な若者たちで混雑してい た。みんなよく日焼けして、シャツやタンクトップにカットオフのジーンズという格好だっ た。多くの男は髭をのばし ( あるいは剃り忘れ ) 、ぼさぼさに伸びた髪を後ろで束ねていた。べー ジュのチノ・ 。、ンツに白の半袖ポロシャツ、ダークプルーのコットンのジャケットというぼくの 格好は堅苦しく場違いに見えた。サングラスをもってくることさえ忘れていた。でも誰にぼくを 責めることができるだろう。ぼくはついさっきまで国立市にいて、あとに残していく台所の生ゴ 、、の処理について思い悩んでいたのだ。 ロ 1 ドス空港の案内所で、島に行くフェリー の乗り場をたずねた。乗り場は空港から遠くない 港にあった。今から急げば夕方の便に乗れるだろうということだった。「フェー ーが満員という 拭いてビールを半分飲むと、 できた。 いくらかまともな気持ちになった。そしてまた少しだけ眠ることが 126