子供 - みる会図書館


検索対象: スプートニクの恋人
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1. スプートニクの恋人

「何か冷たいものでも飲む ? 」 ばくは首を振った。 「わたしはあの子といったい何を話せばいいのか、わからなくなることがあるのよ。そういう感 じはますます強くなっていくみたい」と彼女は言った。 「べつに無理に話をすることはないよ。子供には子供の世界がある。話したければ向こうからい つか話してくる」 「でも、あの子はほとんど何も話さないのよ」 ばくらは身体を触れあわせないように注意しながら、食事用のテーブルをはさんで向かいあ ぎこちなく話をした。教師と母親が問題のある子供について話し合うときにふつうそうする ように。彼女は話しながら、食卓の上で神経質に両手の指をからめたり、のばしたり、握ったり しカオ していた。ばくはその指がべッドの中でばくに対してやったことを思い出さないわけには、、 つ、」 0 学校には今回のことは報告はしないし、ばくが子供とじっくり話をして、何か問題があればう まく解決する。だから君はあまり深刻に考えない方がいし 。あの子は頭のいも ちゃんとした子 供だから、時間がたてばすべては落ちつくべき場所に落ちつく。こういうのは一過性のものだ。 大事なのはまず君が落ちつくことだ。ぼくはそれが相手の頭にしみこむまで、同じことをゆっく りと穏やかに、繰り返して言って聞かせた。彼女はそれで少し安心したようだった。 291

2. スプートニクの恋人

てしまったのだから。それでもときどき彼女の肌のぬくもりを懐かしく思い出したし、もう少し で電話をかけてしまいそうになることも何度かあった。そんなときにばくを瀬戸際で押しとどめ たのは、あの夏の午後にばくの手の中にあったスー ーマーケットの保管庫の鍵の感触であり、 にんじんの小さな手の感触だった。 ぼくはときどき、なにかの拍子にふとにんじんのことを考えた。不思議な子供だーー学校で顔 をあわせるたびにあらためてそう思った。そう思わないわナこよ、ゝ ( 。 ( も力なかった。そのほっそりと した穏やかな顔つきの奥に、 いったいどんな思いが潜んでいるのか、ぼくにはうまく推しはかる ことができなかった。でも彼が頭の中でいろんなことを思いめぐらせているのはたしかだった。 そして必要とあればそれを素早く的確に実行にうっすだけの行動力が、その子供の中にはあっ た。そこには深みのようなものさえ感じられた。あの日の午後喫茶店で、心に抱いている思いを 彼に正直に話したのは、たぶん良いことだったのだろうとぼくは思った。彼にとっても、ばくに とっても。どちらかといえば、むしろぼくにとって。彼はーー考えてみれば変な話だけれど そのときにぼくを理解し、受け入れてくれたのだ。赦してさえくれたのだ。ある程度。 にんじんのような子供はこれからどんな日々 ( 永遠に続くかと思える長い成長期 ) を通り抜け、 大人になっていくのだろうとばくは思った。それはおそらくきついことであるにちがいない。 299

3. スプートニクの恋人

ばくはそのとき実をいうと、頭の隅でほかのことを考えていた。スー マーケットのうらぶ れた保安室の風景はぼくに否応なく、あのギリシャの島の警察のことを思い出させた。そしてば くはすみれのことを考えないわけによ、ゝ ( し力なかったのだ。彼女の不在のことを。 だからその男がばくに向かってなにを言おうとしているのか、しばらくのあいだうまく理解で きなかった。 「父親にも言いまして、子供にはきつく注意いたします。万引きが犯罪だということはよく言っ て聞かせます。二度とご迷惑はおかけしません」と彼女が抑揚を欠いた声で言った。 「だから表沙汰にはしてほしくないと。それはさっきからもう何度もうかがってます」と警備主 任はいかにもつまらなさそうに言った。 / ( 彼よ灰皿の上で煙草を叩いて、灰を落とした。それから もう一度ばくの方を見た、「でもわたしにしてみれば、同じことを三回ってのはいくらなんでも多 すぎるんだ。どこかで歯止めが必要です。先生はそれについてどのようにお考えですか ? 」 ぼくは深呼吸して、意識を現実の世界に引き戻した。八個のホッチキスと、九月の日曜日の午 ・後一」 0 ぼくは言った、「子供と話し合ってみなくては、なんとも言えません。これまで問題を起こした ことのない子供ですし、頭も悪くない。。 とうしてそんな無意味な万引きをしたのか、今のところ 見当もっきません。これから時間をかけてよく話をしてみます。話しているうちにきっとなにか 276

4. スプートニクの恋人

「最後にひとっ」と警備員は座「たまま、ばくを見上げて言「た、「こういうことを言うのは失礼 かとも思うんですが、思い切「て申し上げまして、先生を見ているとどうも何か釈然としないと ころがあるんですよ。若くて背が高くて、感じがよくて、きれいに日焼けして、理路整然として いる。おっしやることもいちいちも「ともだ。き「と父兄の受けもいいんでしようね。でもうま く言えないんですがね、最初にお目にかか「たときから何かがわたしの胸にひ「かかるんです。 うまく呑みこめないものがあるんです。べつに個人的に先生にからんでいるわけじゃないんです よ。だから怒らないで下さいね。ただ気になるんです。い「たいなにがひ「かかるんだろう「て 「ひとっ個人的にうかがしたいことがあるんですが、カまいませんか」とぼくは言「た。 「どうぞ。なんなりと」 「もし人間が平等じゃないとしたら、あなたはだいたいどの ~ んに位置しているんですか ? 」 中村警備主任は肺の奥まで煙を吸い込み、頭を振「て、それからまるで誰かになにかを押しつ けるみたいに、時間をかけてゆっくりと吐もオ 、こ。「知りません。でも大丈夫ですよ、少なくとも 先生と同じところじゃあないですから」 彼女はスー ーマーケットの駐車場に赤いトヨタ・セリカを停めていた。ばくは彼女を子供か ら離れたところに呼んで、とりあえず君だけ先に家に帰「てくれないかと言「た。子供と二人だ

5. スプートニクの恋人

から見てとれた。 ぼくは彼女と短く目をあわせ、それから息子のほうを見た。本当の名前は仁村晋一というのだ が、クラスではみんなには「にんじん」と呼ばれていた。やせて細面で、髪がもしやもしやとち ちれているので、本当ににんじんみたいに見えた。ばくもだいたいはその名前で呼んでいた。お となしくて、必要以上に口をきかない子供だった。成績は良いほうだし、宿題も忘れないし、掃 ロ題も起こさない。しかし授業で手をあげて発言することは 除当番をすつほかしたりもしない。門 きらわれてもいないが、とくに人気があるわけ ーダーシップをとることもない。 まずないし、 でもない。母親はそのことを少なからず不満に思っていたが、教師からすれば、まずは上出来な 子供だった。 「話の成りゆきはお母さんから聞いてますね、電話で」と警備員はぼくに尋ねた。 「聞いています」とばくは言った。「万引きということですが」 「そのとおり」と警備員は言って、足もとの紙の箱を取りあげ、机の上に置いた。そしてばくの 方に押して寄こした。箱の中にはプラスチックで。ハックされたままの小型のホッチキスが八個入 っていた。ぼくはそのひとつを手にとって調べてみた。 8 5 0 円の値札がついていた。 「ホッチキスが八個」とばくは言った。「これで全部ですか ? 」 「そうです。これで全部です」 271

6. スプートニクの恋人

れば、もう一度ばらばらにして、またべつのかたちに並べ替えてみる。そんなことを何度か繰り 返して、ようやくわたしは人並みにものを考えることができた。文章を書くことは、わたしにと ってはそんなに面倒でも苦痛でもなかった。ほかの子供たちが美しい小石やどんぐりを拾うのと 同じように、わたしは夢中になって文章を書いた。わたしは息をするようにごく自然に、紙と鉛 筆を使って次からつぎへと文章を書いた。そして考えた。 ものを考えようとするたびにいちいちそんなことをしていたら、結論を出すのに時間がかかっ て仕方ないだろうとあなたは言うかもしれない。言わないかもしれない。でもじっさいに時間は カカった。小学校に入った頃のわたしは、まわりから〈知恵遅れ〉じゃないかと思われていたく らいだった。わたしは同じクラスの子供たちとうまくべースをあわせてやっていくことができな ゝつ、、 0 そのようなずれの与える違和感は、小学校を出る頃にはずいぶん減っていった。まわりの世界 のあり方に自分をあわせていく方法を、ある程度までわたしは覚えた。でもずれそのものは、大 学をやめて、公式な人との関わりを絶ってしまうまでずっとわたしの中にあった。草むらの中の 無ロな蛇のように。 ここでとりあえずのテーゼ。 私は日常的に文字のかたちで自己を確認する。 192

7. スプートニクの恋人

めに盗んでいるんです。つまりこの子は明らかに『問題』を抱えているんです。そうですよね ? 爲 そういうのってなにか気配くらいはあるものなんじゃないんですか ? 」 「教師として言わせていただければ、常習的な万引きという行為は、とくに子供の場合、犯罪性 よりは精神的な微妙な歪みから来ているものであることが多いんです。もちろんばくがもう少し 注意深く観察していればわかることもあったかもしれませんし、それについては反省します。し かしそういう歪みは、外見からはなかなか予測しにくいものなんです。あるいはまた、行為その ものを行為として単独で取り上げて、しかるべき罰を与えて、それですぐに治るというものでも ありません。根本的な原因を探し出して、それを正していかオしド よ、艮り、あとになってまた違うか たちで問題が出てくることになります。万引きというかたちをとって子供がなにかのメッセージ を発しているという場合が少なくありませんし、たとえ効率は悪くても時間をかけて対面して話 しあうしかないんです」 警備員は煙草をもみ消し、ロを半分開けて、珍しい動物でも観察するみたいに長いあいだばく の顔をじっと眺めていた。机の上に置かれた彼の指はひどく太かった。黒い毛が生えた肥満した 十匹の生き物のように見えた。それを見ていると、ばくは息苦しくなった。 「今みたいなのは、大学の教育学とか、そういうところでみんな聴かされるわけですか ? 」 「とも限りません。心理学の初歩的なことだから、どの本にも書いてあります」

8. スプートニクの恋人

しの下で目にしているときとはまったく違ったものに見えた。居心地悪く残された子供っぽい部 分と、時の流れが盲目的にこじ開けた一連のま新しい成熟とが渦のように混じりあい、生命の疼 きをそこに描き出していた。 ミウは見てはいけない他人の秘密をのぞき見ているような気がした。できるだけその肌から 目をそらし、子供の頃に暗譜したバッハの小曲を頭の中でたどりながら、タオルを使ってすみれ の身体の汗を静かに拭った。濡れて額に張りついた前髪を拭いた。すみれはその小さな耳の中に まで汗をかいていた。 それからミュウは、すみれの腕が静かに自分の身体にまわされるのを感じた。すみれの息が首 筋〔 ~ ・か・かみ , 「大丈夫 ? 」とミウは聞いた。 すみれは答えなかった。腕の力が少し強くなっただけだった。ミウは彼女を抱きかかえるよ うにして自分のべ " に運んだ。そこに寝かせ、上掛けをかけた。すみれはそのままべッドに横 になり、今度は目を閉じた。 、、 : ウはしばらくすみれの様子を見ていたが、すみれはそれつきりびくりとも動かなかった。 彼女は眠りこんでいるように見えた。ミュウは台所に行って、ミネラル・ウォーターをグラスに 何杯か続けて飲んだ。そして居間のソフアに腰を下ろし、ゆっくりと深呼吸をして気持ちを落ち 165

9. スプートニクの恋人

「保管 3 」と書いてあった。それはどうやら中村警備主任が行方を探していた保管庫の鍵である 引き出しの中にそ ようだった。おそらくにんじんは何かの事情で一人で部屋に残されたときに、 れをみつけて、素早くボケットに突っこんだのだろう。どうやらこの子供の心の中には、ぼくの 想像の及ばない謎の領域がまだまだ存在しているようだった。不思議な子供だ。 受け取って手のひらに載せてみると、その鍵には数多くの人々のしがらみがべっとりと重くし みついているように感じられた。太陽のまぶしい光の下では、それはひどくみすぼらしく、汚ら わいしよう しく、矮小に見えた。ばくはちょっと迷ったが、思い切って鍵を川の中に落とした。小さな水し ぶきがあがった。それほど深い川ではなかったが、濁った水のせいで鍵のゆくえはわからなくな っこ。ばくとにんじんは二人で橋の上に並んで、そのあたりの川面をしばらく見おろしていた。 鍵を処分してしまうと、少しだけ気持ちが軽くなった。 「今更返しに行くわけにもいかないしな」とばくはひとりごとのように言った、「それに合い鍵く らいきっとどこかにあるよ。なにしろ大事な保管庫だもの」 ばくが手を差し出すと、にんじんはそっとその手をとった。ばくは手のひらの中ににんじんの 小さなほっそりとした手の感触を感じた。それはずっと昔にどこかでーーどこだろうー・ー経験し たことのある感触だった。ばくはその手を握ったまま、彼の家まで歩いた。 家につくと、彼女がばくらを待っていた。こざっぱりした白いノ 1 ス リー、フのフラウスとフリ 289

10. スプートニクの恋人

「どの本にも書いてある」と彼はばくの言葉を無表情に繰り返した。それからタオルを手にとっ て太い首のまわりの汗を拭いた。 いったい何ですか、それ ? ねえ先生、わたしは警察官として朝か 「精神的な微妙な歪みって、 ら晩まで、微妙じゃなく歪んだ人々を相手にして暮らしてきました。世の中にはそういう人たち がいつばいいるんです。掃いて捨てるほどいるんです。そんな人たちの話を長い時間かけて丹念 に聴いて、そのメッセージはいったい何だろうなんて真剣に考え込んでいたら、わたしの身体に 脳味噌が一ダースあってもまだ足りません」 彼は溜息をついて、ホッチキスを入れた箱をまた机の下に戻した。 「みなさん、ロではごもっともな事をおっしゃいます。子供の心はきれいだ。体罰はいけな、。 人間はみんな平等だ。成績で人は評価できない。時間をかけて話しあって解決しましよう。それ だってべつにかまいませんよ。でもね、それで世の中が少しずつでも良くなってますか ? なっ てやしません。むしろ悪くなってます。あのね、人間がみんな平等であるわけないじゃないです もてすか、この狭い日本には一億一千万もの人間がひしめ か。そんな話、聞いたこともない。い、。 きあっています。そんなものがみんな平等になってごらんなさいよ、地獄です。 きれいごとを一言うのは簡単です。目をつぶって、見ないふりをして、問題をそのまま先送りし ていればいいんです。波風立てず、蛍の光を歌って子供たちを卒業させて、それでめでたしめで たし。万引きは子どもの心のメッセ 1 ジだ。あとのことは知りません。そりや気楽でいいです