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検索対象: ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道
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1. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

て、陰 て、勝 華ず れ経 す 方 ば極 い発 と て も 親 いす の栄 切 て、 癶大 常 み勝 て、済 思 、相 現悪 多互 、生 や 数利 り 怺 く 悪す 因会 他 。他 人 ー喰 の 死利 れ個 め 叶物 尽 く て、利 会す 、関 て つ中 き い人暮反 田、を 、他 て、望 こ切 力す 死 ん 悪す こ協 経カ と 。鎖 済力 き 的不 ふ見 の断 は 欠世 多 っ個 の 人 は程 く ロ っ て い た り す る も の て、 す そ の 人 が 死 ぬ と : 友 あ た す の た ち 力す そ の 死 を 暑 ぶ の そ の 悪 人 の 友 人 面 を す る 中 が わ れ ま し か し フ い 連 も そ の 人 の な い と ろ て、 は フ し カ ) し 時 と し て つ き の が カ や 品 を 持 て い る と が あ り す る と い経す 済 白勺 理 由 か ら て、 き な い し 誰 か ら も 嘘顧分 ら れ な し は 権ず送 て、 す 仮 ん て、 も 残 つ て く れ る 人 ら い な い て、 し よ わ れ わ れ が と て も 自 手 な 人 を り 人 の 益 に は 切 心、 さ な か っ た と す ば 友 人 も は な く 巷 て、 も よ く 目 す る 事 実 て、 す 手 な 望 み に か り を と ら て い た ら 個 人 の 望 み も ん ら れ な の す は 単 小 教 上 の 間 わ ね な り ま せ ん 多 数 の れ利綻 益 の た め に イ動 け ば 副 産 と し て 個 の み も 叶 ら れ る け れ ど 自 題分払 を め ネ上 そ も の は 破 を き た し て い る な ら ば そ の 社 て、 ら す 人 々 は い ず れ そ の け を て、 ム 繁 し て そ 個 人 利 が も た ら さ る の ひ と り か た り の 人 が 栄 は る す 同 賛 は に フ い と 、だ 対大す り よ 益 の 人 は 益 利 の 大 の も な 的 教 小 反 た っ ま 性 づ て い れ 人経国 て、 益 を 益衆得政要 る た め カ し あ フ ず て、 て ま た と ん 間 さ ま ざ ま な 冫ロ 上 の い あ っ て も た が い っ な が り の 重 要 入 り ま し よ ま の 人 生 そ し て 人 社 を 生 き の び る と を は例 ( と つ て み ま す の 中 信て、過 済 展 社 幸 福 を も た ら す 取 大 の て、 あ り そ の 実 現 と の 可 だ と じ ら PART ろ MAIN LAM RIM MEDITATIONS フ 真 実 と な ま そ れ を と め な ら わ れ わ れ を 輪 廻 世 界 り つ け て い る を ち 切 る 220

2. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

称賛する。 まちがった忠誠近しい人を唐りの道へ導く代わりに、その人が世俗の事柄に巻きこまれる ように促す。 まちがった喜び嫌いな人の不幸を喜び、大勢の人に利益をもたらした人には無関心ている。 断固として揺るぎなく、途切れることのない修行をする。 一点に集中し、自分の全能力を働かせ、疑いやためらいに悩まされない 考察と分析をたえず働かせて、煩悩をとり除く。 他人のためにしたことを自慢しな、 囲些細な出来事や ( 人から受けた ) 指摘にイライラしない Cu ′ィー / ィー 一丁をしたからといって、感謝されたりよい評判を得たいと田 5 わない 移り気にならない。 282 APPEN DIX 2

3. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

われるはずてす。また、それらの儀式を執り行なう僧は、自分が本尊となったつもりて本尊としての誇 り ( 慢 ) を持ち、同時に非常に強い利他の動機を持って行なうべきてす。 つづいて戒の修行てす。すてに僧侶の戒を受けているなら、それを正しく守り、僧侶として 戒波羅蜜 ( ません。世の中には 本示的生活を送りましょ , フ。まちがっても堕落僧の例にならってはいナ 親殺しというとんてもないことをする人がいますが、世の中にそういう人がいるからといって、その例 たとえ仏教集団のなかに、ふさわしくない生活を送る者がいた に従わねばならないのてはないと同様、 としても、自分自身はよ、」、 し伊つまり完璧な僧を見習うべきてす。よい性質を持った人が少数いること のほうが、よくない性質を持つ人が大勢いるよりも、ずっとよいのてす。 在家の人は十不善行を慎むことて戒の修行をします。てきれば十不善行ぜんぶを慎んてください れがてきないのなら、少なくとも他者の命を奪う ( 殺生 ) 、嘘をつく ( 妄語 ) 、誤った性交渉を持っ ( 邪 淫 ) ことは避けるべきてす。これらの行ないは、本人だけぞなく、その人をとり巻く社会全体の平和と 平穏まても大いに損うからてす。人を仲違いさせることを言う ( 両舌 ) のも、たいへん悪い行為てす。 人と人のあいだに生じてし 数多くの争いや誤解が、特定のグループのなか、異なるグループのあいだ、 まいます。それは心の平和や幸福にとって大きな障害てす。嘘をつく ( 妄語 ) のも同じぞす。無意味な 噂話や心の伴わない飾りたてた言葉 ( 綺語 ) は、さほど破壊的てないように見えるかもしれませんが、 われわれの貴重な時間をどれほど無駄にしているか考えれば、やはりとても有害なことてす。さらに乱 暴な喋りかた ( 悪口 ) は、むさばり ( 貪欲 ) や有害な意志を持っこと ( 瞋恚 ) やまちがった見解を持っ 248 PART ろ MAIN LAMRIM MEDITATIONS

4. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

てきません。また、自我や私が五蘊から完全に独立した、つまり五蘊とは別の実体てあるなら、自我と 五蘊のあいごこ、、 オ ( し力なる関係もないはすてす。 このような方法て分析的な考察を行なっても、自我ないし私を見つけだすことはてきないのてす。 つまり「自我ーないし「私ー よ、緻密な分析には持ちこたえられないのてす。もし自我が、独立し て、真実に、自性を持って存在しているなら、どんな形式の究極的分析にも耐えうるはずてす。てすか ら、われわれはこういう検証や分析をとおして、自分のまちがった認識が理解し感じとっているような 「私 ( 我こは存在しない、 と断定てきる境地に達するのてす。自我や私は自性を持った存在だと、当殀 のように信じていたこれまての態度は、本当に正しいのだろうかと疑間を感じはじめることてしよう。 われわれは「自我 , や「私 ( 我ことは、五蘊という基盤につけられたラベルにすぎないという結論 に至るはずてす。ツオンカバ大師が『入中論』の解釈て説明なさっているのとまったく同じてす。こう つみ : フそ いう理解を得ることが、すなわち人無我を理解することなのてす。人無我について瞑想し、 の考えに親しみ、それによって人無我の理解をむに保ち、かっ強めてゆけば、われわれはその理解を直 観的ないし直接的に体験てきるまてになるのてす。 人虹我こもいろいろな段階があり、なかには粗いレヴェルもあります。粗いレヴェルの人無我の理解 し J い、つ . とは、「我は本当は存在していないーあるいは「我は独立して成り立ちうる主体性を持たない」 ことの理解てす。微細なレヴェルの人無我の理解とは、その人無我の理解を他の事象にあてはめて考え たとき、空性の理解がもたらされる理解のことてす。諸法の最終的かっ究極的本質てある「空性」に行 きつくには、あらゆるレヴェルの人無我を理解することが重要てす。 266 PART ろ MAIN LAMRIM MEDITATIONS

5. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

質はあくまても純粋て澄み切っているのて、心を汚す煩悩も、意識の本質まぞ浸透してくることはあり ません。しばしばわれわれを苦しめる無明その他の煩脳は、外部から偶然にやってきたものにすぎませ ん。てすから、煩悩は心の一側面などては断じてなく、したがって心から切り離すことがてきないわけ てもありません。煩脳 たとえば事象本来のありかたを理解しない、 まちがったものの見かたなど は不安定て変わりやすく、一時的にわれわれの意識に宿るにすぎないのてす。さらに、さまざまな 煩悩のそれぞれにふさわしい「対治のカ ( 煩悩をとり除くカこを正しく適用していけば、最終的には煩 悩を根絶することも可能てす。煩悩を根絶するという偉業の達成こそ、永遠に平和て幸福な境地への到 0 達にほかなりません。 0 折りにふれお話ししていることてすが、世の中の人々を分類して、 いくつかの異なるグループに分け ることがてきます。たとえば「どんな形にせよ、信仰を持っている人」「信仰をまっこうから否定する 人」「宗教にはまるて興味のない人 . の三グループに分けられます。この場合、それらグループの違い は、不条理な不幸な状況に直面したとき、どう困難に対処するか、という能力のうえて現われてきます。 宗教その他の精神的教義を一切信じない人ても、人間の理解がおよぶ範囲内の状況てあれば対処てき るてしよう。しかし、どうにも理解を越えた状况が突然降りかかってきたような場合、 いくら乗り切ろ うともがいても、結局は挫折感や不安感に陥ってしまうてしよう。一方、仏教を修行している人は、人 生というものをもっと深く理解しているため、そんな状況のなかても「勇気」と「希望 , を失わずにい られます。これは生きる力を持ちつづけるうえて何よりも大切なことてす。このように、各人がその人 生において精神を向上させていくことが、いかに大切てあるかは、 いうまてもなく明らかてす。この点

6. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

このように毎日を送れば、必ず進歩があります。それにひきかえ、最初から投げだしたり、くじけた りしているようては、望みはありません。勇気と決意を持っことはとても大切なのてす。在家の人も同 じてす。もちろん在家の人は、各自の専門分野や日常の雑事に関わらなくてはならないてしようが、そ 、たり虚をつ いたりすまいと堅く決 れても朝起きたら最初に、きよう一日を正しく生き、決して人を欺し 意するのは大切てす。たとえば、あなたがチベット人なら、たとえきよう一日チベットこ ( 貢献すること が何もてきなくても、少なくともチベット人の名を汚す真似や、チベットの不名誉になることは絶対に すまいと決意すべきてす。もしあなたが私ダライ・ラマのことを大切に思ってくれるチベット人ならば、 少なくとも私に思いを馳せ、私を裏切ることはすまいと決心してくださ、 このように、僧侶ても在家てもその他どんな人ても、法に則って正しい生活をすることはてきるはず てす。一日のはじまるまさに最初の瞬間から、正しい態度と決意を持ち、法について知っていることは すべて修行に生かし、 いまの段階ては実行てきない修行は来年、あるいは将来、それがぞきるように なったとき実行しようと計画するのてす。こうしたやりかたによって進歩前進てきるのてす。 また一日のおわりに布団に入ったら、眠りにつく前 に、その日一日自分がやったことをふりかえって、 それらの行為の性質をチェックします。もし悪い行ないをしていたら、後の気持ちを起こし、以後決 して同じ過ちをくりかえさないと決意しましょ - フ。もし譱ロい行ないをしていたら喜んてくたさい 布団に入るときは、正しい心て、よい考えをいだいてくださ い。修行者は時として、夢のなかて修行 することも可能だからてす。また、そのようにして眠りにつくと、月、 卓目覚めるときに特に効果があり ます。明けがたは心が澄んて鮮明になるのて、そのときさらに強力て鮮明な修行がてきるようになるか 106

7. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

は智慧の修行てす。智慧の修行は「ヴィバッサナーー ( 観 ) 、つまり「特別な洞察の修行」を基盤 、 / に行ないます。特別な洞察の修行をするときは、自分の上師を文殊菩薩の姿て観想し、祈願して くたさ という観点から「特別な洞察の瞑想の実践法」を説明 今回は、無自性ーー人無我と法無我の瞑想 したいと思います。「この世のありとあらゆるもの ( 諸法 ) は常住堅固な自性を持って存在している」 というまちがったものの見かたをするとき、ますむに生じるのは、「事象には常住堅固な自性がある」 という、物や現象に焦点をあてたものの見かたてす。さらにそれが「自分の自我は、自性を持った存在 てある , と考えるような利己的な見かたへ、われわれを導きます。実際にまちがったものの見かたが心 に生じる順 ~ は、い ま申しあげたとおり、まず事象、次に人なのてすが、人無我の瞑想と法無我の瞑想 とては、空性を唐る際にその基盤となる瞑想の対象 ( 「人」と「事象」 ) の重要性が違うの、法無我 ( あらゆる事象は無自性てある ) の瞑想より人無我 ( 自我は無自性てある ) の瞑想を先に行なったほうが、 より大きな、そして強力な効果が得られます。 特別な洞察をとおしての智慧 260 PART ろ MAIN LAMRIM MEDITATIONS

8. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

法王の説法を拝聴するモンゴル仏教の最高指導者ジェッン・タンパ師、 リン・リンポチェたち ゲシェー・ドルジェ・タシー師、 と よ 近 く て、法 ヤ 弾 な 優 尽法 を チ は る を 圧 っ く 王愛 べ さ あ 王 そ く れ く 在 、れ は 百 ッ 越 て も す そ 私 、た し る は フ 万命 法 中 し ト る 人 れ て る ん 王事 国 人 を た 人 て 現 い仏 よ 彼 チ は 者 オ各 も は に 落 は べ厳 る 教 を 領 フ ら チ も と 祖 不 も の 持 に し 国 の ち 指基 べ の 奉 彼 心 ト て ノ、 い し、 て、 ば た の の 人状 ま ッ づ を つ・ 、世仕 土追 チ 底 況 ト る を 自 者 に な く 仏 の ノレ い て 自 べ を と 教 奇 か と お や 実 分 し の い ッ な あ イ っ 践 の 全 て ら が跡 冫ロ し、 い る 区 ん ま わ ト し 、法 か と し 利 れ な ン の て チ て、 ド れ 人 れ ほ 誰 て、 を て 益 王 ま る べ よ て、 ( こ い た い を ど フ ツ ロ卩 が の チ な る 追 そ 尊 ダ た 亡 ま と に ト け な 命 フ て、献 さ 国 求 れ敬 守且 の し 説 。来 ッ / ヾ し 国 い 家す こ身 を イ : 文 ん ト こ侵四 ッ る 誰 て、受 て イヒ . 田 ヒ の の マ ト 本 よ 略 〇 家 象 . く わ 存 良 国 け フ に年 フ 人 土 族 る れ在 て、 る と る 怺 訳者あとがき 1 301

9. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

+ 人無我 人無我の瞑想をするには、自我ないし私とは、物質と精神の集合体 ( 五蘊 ) につけられたラベルにす ぎないと考えてください。ナーガールジュナ ( 龍樹 ) は『宝行王正論』て、次のように述べています。 人は土ても水てもなく風ても空間てもない しかしそれ、らなくして いかに人が存在しうるのか ? ' 、し」 - ん中小、 しま自分は座布団のうえに座っていると感じているとして、いまここて自我、あるいは私 を突きとめようと探しても、肉体と精神の集合体 ( 五蘊 ) のなかに見いだすことはてきません。自我な いし私は、身体を構成する元素など四大要素のいずれてもありませんし、これら要素それ自体を自我や 私とすることもてきないからてす。四大要素の集合体も、個々の要素自体も「自分 ( 我 )- てはないの てす。てすから自我ないし私とは、それら明確なる基盤 ( 要素 ) の集合に貼られたラベルにすぎないと えます。名前オ。 リごナの存在なのてす。自性を持って、真実に、独立して存在するような「我」など、ど こにもありはしないのてす 伝統的な方法ては、自性の空 ( 常住堅固な実体性Ⅱ自性など、所詮は空てあること ) を「四つの重要な に冾って分析する暝想は、たいへん強力な効果をもたらすとされます。ここていう重要な点は次の 第 3 章瞑想

10. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

嘆き悲しみ残念がります。こうして見ると、利他心あるいは利他心を持った人は、他人の尊敬の対象て あるとわかるてしよう。 よく冗談半分て一一一口うのてすが、もし本当に自己中心的になりたいなら、他者のために尽くす「賢い自 己中心」になるべきてす。他人を助けておけば、いずれ他人の援助が必要になったとき、特に自分が厳 しい局面に立たされたとき、お返しに援助や手助けをしてもらえるからてす。逆に、わがままな振る舞 いはかりしていたら、困難に陥ったとき助けてくれる人など誰もいず、たったひとりて困難な状況を解 決しなくてはなりません。他人と協力して助けあうのは人間本来の性質てす。特に苦しい状況てはなお さらてす。厳しい状况に直面したとき役に立ち、助けてくれる人こそ真の友人てす。自己中む的てない 生きかたをすれば、心からの友人を得ることがてき、自己中心的な考えかた生きかたをすれば、むを許 せる真の友人など得られないのてす。 大乗仏教の修行の真髄は、今生だけなく、来世ても成功てきる方法を説いています。それらの教えは、 実際、信じる人にも信じない人にも実用的かっ適切なものてす。徳の高い暮らしをすれば今生て福利が 得られるなら、来世への願いだって同様に成就されるのてはないてしようか 偉大なる菩薩シャーンテイデーヴァが『入菩提行論』て述べている「他者の福利を大事にする考えは 有益て、自分自身の福利を大事にするのは不利益てある」ということについては、多くを語るまてもあ りません。それら二種類の心がどれほど有益か、あるいは不利益か、自分勝手な考えに縛られているわ れわれと、そういった考えを捨て去り、常に他者を慈しんておられる菩薩を比較すれば、すぐにわかる ことてす。 第 3 章瞑想 2 2 1