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検索対象: ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道
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1. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

智慧とは心の分析的な機能てあり、これによって、ものごとの本質をより深く探ることが 智慧波羅蜜 可能となります。智慧には、大まかに二種類あります。ひとつは事象の究極的本質を検証 する智慧、もうひとつは事象の世俗的あるいは本対的な本質を検証する智慧てす。 + 四つの熟達した要素 四つの熟達した要素 ( 四摂 ) とは、弟子たちに興味を持たせ、心の可能性を引きだすために菩薩が用 いる四つの主な手段のことてす。その四つとは、 ①物質的に救済する ( 布施 ) 。 ②雄弁に語る ( 愛語 ) 。 ③常に正しい忠告を与える ( 利行 ) 。 ④教えの原則に則って生きることて、よい例を示す ( 同事 ) 。 慈悲深い菩薩たちが、他の一切衆生の利益のために働く際は、これらの巧みな方法が用いられるのて す。 第 3 章瞑想 253

2. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

菩薩たる者は、菩提道 元全なる方便と智慧の一一側面を持ち、われわれを最終の境地へ導いてくれ る道ーーーを実践すべきてす。この道は方便と智慧の融合の道、 いいかえれば、福徳と智慧の積集の道て す。方便と智慧の修行は、それぞれ単独にてなく、両者あわせて修行すべきてす。その際、智慧の修行 は智慧の積集によって、その他のすべての修行は、菩提心、布施、戒、など福徳の積集によってなされ ます。 0 + 六波羅蜜 菩提心の実践とは、六波羅蜜を学び実践することてす。 六波羅蜜の第一番目は布施波羅蜜てす。布施には「物質的な援助をする、 ( 財施 ) 「法を授 布施波羅蜜 ける , ( 法施 ) 「恐れから守る、 ( 無畏施 ) の三種類があります。「法を授ける」とは、衆生 を利益したいという純粋な動機に基づいて衆生に教えを授けることてす。てすから、これにあてはまる のは、高座から説教をする高僧とは限りません。また法の教えは、法螺貝を吹き鳴らす派手な儀式て授 けられるべきだと田 5 ってはいナ ( ません。むしろ慈悲や思いやりを動機として授けられた教えこそ、法の 説く布施なのてす。 惜しむ気持ちを徴塵も持たす、見返りをまったく期待せずに、持ちものを与えるのも布施の修行のひ とってす。もし布施の修行をしたいなら、病人に布施をしたり、仏教哲学の教育や法の実践訓練を若い ダルマ 246

3. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

誤って認識してしまうのてす。このような無明をとり除く対治の力とは、対象を誤って認識していると 気づき、なぜその見解が誤っているか立証てきる智慧にほかなりません。正しい対治の力がなければ、 無明の息の根をとめ、直接とり除くことなどてきないのてす。誤った認識、つまり「諸法は常住堅固な 自性を持って存在する」というまちがった見解をもたらす無明は、他のすべての煩髑の根本原因となり ます。だからこそ、事象の本質をしつかり見据え、「諸法 ( すべてのものごと ) に自性はない」と正しく 理解てきる「智慧ーを持たねばならないのてす。 ( 2 ) 煩脳をとり除けるほど強力な対治の力とは、意識の一点集中 ( 止 ) と特別な洞察 ( 観 ) を兼ね備えた なかても、心が沈んだり興奮して乱れることがわずかもな 智慧てす。意識の集中を習得するには、 まず土台として、日々の生活のなかて戒を守 上級レヴェルの安定した集中を習得するためには 悪い行為を捨てる必要があります。てすから解脱への道は、次に挙げる三つの高度な修行からなり たつのてす。 ①修行の土台として、戒を守り正しい生活をする ( 戒 ) ②修行の補助要素として、褝定の修行をする ( 定 ) ③解脱への道の本修行てある智慧の修行を実践する ( 慧 ) このように智慧の修行を強化実践し、智慧を最大限に高めれば、煩悩ー、ーなかても事象本来のありか こしトり・除′ \ 一」し J が′しき」上亠 9 ・ は、完全 ( たを誤って認識する無明 第 3 章瞑想 191

4. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

る見地からすれば、他者を解放せずに自分だけ解脱するのは、わがままて不公平てす。他の一切 衆生も苦しみからのがれたいという願いと権利を持っているからてす。そこて発菩提心にはじま る上級段階の修行 ( 上士の修行 ) が重要になります。菩提心ーー、・・一切衆生を福利するために仏陀の境地 を得ようとする利他的な心ーーの有無が、大乗仏教徒か否かを決めます。菩提心こそ大乗の道への唯一 の入り口なのてす ( この菩提心を持つ者を菩薩と呼びます ) 。菩提心を失った瞬間に菩薩てはなくなりま す。逆にひとたび菩提心を持てば、その人のすべての善行は、どんな小さい行為ても、菩提心という利 他の心に支えられ補われて、のちに一切智を得る因となります。 じねん 一切智とは、あらゆる事象の本質ー・ー世俗的本質 ( 世俗諦 ) も究極的本質 ( 勝義諦 ) もーーを自然に 直接知覚てきる智慧をいいます。智慧が最大限に高められ、知識を妨げるあらゆる障礙 ( 所知障 ) から 完全に解放された状態てもあります。一切智は心の汚れをすべて浄化し、さらに菩提心、慈悲など方便 の修行て智慧の修行を補って、はじめて得られるものてす。 たとえば、声聞や縁 菩提心や慈悲など方便の要素がなければ、どんなすばらしい智慧があっても あ 0 菩提心 第 3 章瞑想 195

5. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

は智慧の修行てす。智慧の修行は「ヴィバッサナーー ( 観 ) 、つまり「特別な洞察の修行」を基盤 、 / に行ないます。特別な洞察の修行をするときは、自分の上師を文殊菩薩の姿て観想し、祈願して くたさ という観点から「特別な洞察の瞑想の実践法」を説明 今回は、無自性ーー人無我と法無我の瞑想 したいと思います。「この世のありとあらゆるもの ( 諸法 ) は常住堅固な自性を持って存在している」 というまちがったものの見かたをするとき、ますむに生じるのは、「事象には常住堅固な自性がある」 という、物や現象に焦点をあてたものの見かたてす。さらにそれが「自分の自我は、自性を持った存在 てある , と考えるような利己的な見かたへ、われわれを導きます。実際にまちがったものの見かたが心 に生じる順 ~ は、い ま申しあげたとおり、まず事象、次に人なのてすが、人無我の瞑想と法無我の瞑想 とては、空性を唐る際にその基盤となる瞑想の対象 ( 「人」と「事象」 ) の重要性が違うの、法無我 ( あらゆる事象は無自性てある ) の瞑想より人無我 ( 自我は無自性てある ) の瞑想を先に行なったほうが、 より大きな、そして強力な効果が得られます。 特別な洞察をとおしての智慧 260 PART ろ MAIN LAMRIM MEDITATIONS

6. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

的に自分が接する師、すなわち悟りの道 ( 菩提道 ) を一歩一歩導いてくれる師こそ上師なのてす。われ われはそうした身近な上師たちからこそ、大きな恩恵を受けているのてす。 上師に信頼を寄せる際は、単なる盲信てなく、知性に基づく根拠ある信頼を持つべきてす。そうした 理性的な信頼があれば、人から質問されたときや、われわれの信条や修行を論駁しようとする人が現わ れたときに、討論を受けて立っことがてきます。われわれの信頼には、論理的な分析に基づく正しい基 盤が必要なのてす。正しい基盤を築く知性があれば、どんな討論ても論破されることはありません。逆 0 にそれがてきなければ、カダム派の諸師がいうように「智慧を伴わない信仰は暗闇を進むのに似ている。 し」い - フ一 ) し」にた 6 ってー ) 相手の姿もわからず、誰について行き、どこへ着くやらわかったものじゃない」 まいます。「信仰 - と「慈悲」はあらゆる宗教に共通する要素腸 てすが、仏教徒の修行に絶対に欠かせないのは、「智慧に支え られた信仰」「智慧に支えられた慈悲」てす。論理的な分析に 基づく正しい基盤を持ったうえて信仰を深めていくことがてき れば、その信仰は理生的てあるがゆえに揺るぎないものとなる レ、てー ) よ - フ。 第二段階として、上師と関わりを持たなかった場合の不利益 を考えます。上師と関わりを持っ利益と、持たない不利益を秤 こかけ、師と関わりを持つべきだと確信するためてす。ツオン 0 わ′

7. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

仏陀の事業を実践する菩薩 自義ど他義ふたつの必要を成就するみなもど 完璧な友そして師てある善友ドムトウンバの足元に ネ拝いたします チベット賢者のなかにあって法冠のごどきツオンカバ大師よ 人智を越えた慈悲の宝観世音 一点の曇り無き智慧の王者文殊師利 魔軍を蹴散らす金剛手 これら三菩薩の生まれ代わりてある ツオンカバ大師ロサン・タクバに礼拝いたします 秘伝の智慧てわれらを鍛え 顕教密教注釈そして口伝をわれらに教え 灌頂ど祝福を授けてくれた 過去現在の上師の血脈に礼拝いたします PART 2 PREPARATORY PRACTICES

8. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

おお世にも稀なる輝かしきバラマセナよ おお深遠なる道て心相続を浄化した上師ヴィニタセナよ 広大なる行の蔵てあるヴァイローチャナよ 衆生の善友なる三名に祈願いたします 甚深な般若学の智慧の教えをひろめたハリバドラよ われらの決意を見まもるクサーリよ 一切衆生の救済者ラトナセナよ 衆生の導師たる三名に祈願いたします 尊き菩提を体得したセルリンバよ 偉大な大乗の教えを守るアティーシャど 丿ンポチェよ 正しい菩提の道の体系を守るドムトウンバ これら教えの命のような三名に祈願いたします たどえるすべもないほどの比類なき指導者釈迦牟尼よ あらゆる仏陀の智慧の体現なる文殊師利よ 最も深遠なる意味をご存じのすぐれた聖者ナーガールジュナ ( 龍樹 ) よ PART 2 PREPARATORY PRACTICES

9. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

仏陀 ( 釈迦牟尼 ) ひとりをさすのてはありません。もし歴 史上の仏陀だけをさすとすれば、大乗の記述にたくさん矛 盾が生じてしまうてしよう。ひとりのごく普通の人間が 尊無上瑜伽タントラの修行もせずに、一回の人生て、どう タやって完全な語りを得たのか説明するのは難しいことてす。 てすから、大乗の文脈ては、仏陀釈迦牟尼は応身だと考え ます。応身は、報身に達しないと得られないとされます。 また応身も報身も、法身に到達しなくては得られません。 ( 5 ) これら三身 ( 法身・報身・応身 ) の理解はとても重要てす。 ここて仏陀の大悲・智慧・威力、別の言葉ていうと、仏陀の身・ロ・意・活躍 ( 事業 ) が、い力にリ 凡てすばらしいか考察してくださいイ陀があらゆる障礙や限界をことごとく克服し、かっ他者をもそ うする能力を持っことがわかり、仏陀のなみはずれた能力に深い確信が生まれるはずてす。「仏陀 という一言葉の意味は、智慧と方便の不可分な一体性 ( 不一 l) を理解したとき、 完全な語りに到達した者」 はじめて完全に理解てきます。また、このような仏陀への理解が深まったときにのみ、四種タントラの 観音尊や、ターラ尊、ヤマーンタカ尊などの本尊がきわめて重要になり、深遠な意味を持つのてす。本 尊を理解てきるのは、智慧と方使が融合した修行だけだからぞす。道を進む手助けをする護法尊や勇者、 勇猛女、荼枳尼、なども同様てす。このようなきちんとした理解がないなら、中途半端に本尊などにつ いて知るよりは、修行僧姿の仏陀釈迦牟尼のみ理解したほうがよいかもしれません。本尊を仏教以外の 162 PART ろ MAIN LAMRIM MEDITATIONS

10. ダライ・ラマ瞑想入門 : 至福への道

不健全な人物に導かれるかぎり、幸福や平和が訪れる見こみはありません。 ます自分が無明に支配されているという事実を深く考えてみましよう。無明は暴君のようなもの、怒 りや執着はその王に仕える従臣たちのようなものてす。この暴君に支配され、「無明、「我は確固たる存 在だと考える態度」「自分を甘やかす気持ち , など、仏陀や菩薩がこれこそ真の敵てあるといったもの に影響されて生きています最もし 。又、けないのは、こうしたネガティヴな要素に影響され、支配されてし まうことてす。だからダルマキールティは「無常について深く考えることて、諸法、つまりすべての事 象は本質的に苦しみだと語ることがてきる」と、『量釈註疏』の第一一章て述べているのてす。 第二段階ては、詩の第二句にあるように、悪い行為の根本原因たる煩悩を根絶する方法を実践します。想 その方法とは、悪い行為への対治のカ、つまり事象には自性 ( 常住堅固な実体 ) があるという誤った見 解をとり除く「空性を理解する智慧」を用いることてす。煩悩をその根本原因もろともとり除くことが、 第 すなわち解脱なのてす。 第三段階ては、われわれのむに熕悩ーー・ー・一切智を得るのを妨げるもの、すなわち、あらゆる事象を直 接知覚するのを妨げているものーー・が刻んていった心の傾向、薫習をとり除きます。このとき、空性 を理解する智慧を、慈悲・菩提心・忍辱・布施など、方便の諸要素て補強しながら行なうべきてす。も し無数の衆生の福利に照準を合わせた強い心が得られたら、衆生の利益のために越えねばならないさま ざまな困難を耐え忍ぶ勇気が湧いてくるてしよう。この修行の威力て、非常に大きな功徳を積むことに もなります。空陸の智慧を力強い方便の諸要素て補強しつつ、こうして功徳を積んていけば、ついにあ らゆる邪見やまちがった認識から、完全に自分を解放することがてきます。 139