日は出掛けから気になり、 「遂に今日は危ないかなあ」 と、病院までの一五分ほどの道のりを歩きながら、どのように対処したら無難に乗 りきれるかと、そればかりを考え通しであった。病院に到着後、即座に自分のできる 万全の準備をして手術に臨んだ。 予定されている手術は、肺ガン、耳下腺腫瘍、甲状腺腫瘍ふたつであった。 = = ロ ル朝食を白湯一杯のみにしたのが効を奏したのか、はたまた過度の緊張状態が腸管運 けねん 「動に抑制的に働いてくれたのか、いずれにしても懸念された緊急事態は幸運にも回避 とにかくホッとした。その ルされ、無事すべてが終了した。全身の力が抜けるくらい チときの嬉しさは、たぶん誰にもわかってもらえないであろう。 新午前九時に手術室に入り、四例の手術が全部終わり、そこを出たのが午後四時。こ の日は他にたとえようもないくらい本当に疲れた。精神的にも肉体的にも。 このように、私は手術前夜は、食べもの、飲みもの、睡眠、精神状態などにことの ほか気を遣っている。それもすべてこの病院の忌まわしきトイレ事情のためである。 いやしくも病院のトイレである。本当に何とかならぬものかー 134
見したり、スラブ人らしい ( ? ) アルコールの強さにたまげたりと、日本との文化の 違いを感じながらも、べラルーシの良さを見出すところは、菅谷さんの人柄を感じさ せます。 菅谷さんは、多くの患者に感謝されながら、二〇〇一年に帰国。その実績と人柄が 見込まれて、長野県衛生部に採用され、翌年、衛生部長に就任します。 記二〇〇四年には、市民に押されて松本市長選挙に立候補。見事当選を果たし、四年 診後に再選されました。ここでもまた菅谷さんは、「一度しかない人生を歩むとするの 「なら、己がどう生きたかが一番重要なのではなかろうか」と思ったのではないでしょ ルっカ チ この書を読んだ人たちは、自分の生き方についても、考えさせられるのです。 新松本市長に当選すると、すぐに自身の早期胃ガンの手術をすることを公表するドラ マが待っていましたが、その後は健康状態も良好です。 菅谷さんは、市役所のホ 1 ムページで、市長交際費の内訳をすべて公開すると共に、 市長の健康状態についても、市民が知るべき重要な情報だとして、人間ドックの診察 結果まで公開しています。市民にすべてを公開する。ここに、べラル 1 シの子どもた ちに対してとったのと同じ誠実さが見られます。 244 みいだ
「べラルーシ国立甲状腺ガン ( 診断・治療 ) センター」は、ミンスク州立第一病院の かんかっ 広い敷地に隣接して建てられている非常に古い病院である。共和国保健省の管轄下で 運営がなされている。このガンセンタ 1 はミンスク医科大学の附属教育病院でもあり、 医学生に対し腫瘍学の講義や臨床実習が、教育スタッフの指導のもとにおこなわれて 甲状腺腫瘍の診断や治療に関しては、腫瘍学講座担当でセンター長でもあるデミチ 形ク教授以下、数名の甲状腺外科専門医たちが診療行為を受け持っていた。このセンタ 1 には、共和国全土から甲状腺ガンを含めた甲状腺腫瘍の患者が、精密検査や治療の プ 目的で紹介されて来る。とくに、チェルノブイリ事故後に発病した甲状腺ガンの子ど チもたちは、そのほばすべての症例がここで外科治療を施行される。そして術後も定期 新的な診察や検査がおこなわれ、全例がもれることなく長期の追跡調査がなされている。 つまり、この国のチェルノブイリ事故後の小児甲状腺ガンの治療状況に関する情報は、 すべてこのセンターから世界に発信されているのだ。 ないぶんびつ 私は内分泌臓器を専門とする外科医として、この病院をたびたび訪れた。そしてそ の都度、センター長のデミチク教授にお会いし、事故後の甲状腺障害、とくに小児の 甲状腺ガンの発生状況を中心に、この事故と関連のある医療情報について詳しく教え
これから先何年たっても、この悲劇は、社会生活、多くの人々の運命、すべての世 こんせき 代の記憶に消し去ることのできない痕跡を残すだろう』 エレ 1 ナの作文によると、事故後、彼女の村は有刺鉄線で囲まれ、誰もそこには住 めず、村の人々は散り散りになってしまった。そして事故から二年たった八八年には、 つづ 父、祖母、伯母が次々と亡くなり、母の元に六人の子どもが残されたと綴られていた。 べラルーシでの生活が二年経過した今、医療者として彼らにできることは何だろう はざま のか。チェルノブイリとこの国の経済不況の狭間で、改めて模索している私である。 203
優れた教育者として含蓄のある言葉を連ねたこの巻頭言を読ませていただき、私は まさに赤面の至りであった。 自分がここまで幸せに生きてこれたのも、よく考えてみれば、数えきれない多くの 人々からの教えと指導があったればこそと痛切に感じている。それゆえに、ややおこ 記がましい言い方ではあるが、私自身が少しは恩返しの人生のなかに身を沈めたとして 診も、何ら不思議はないのである。それもごく自然に。 「私はこの一時帰国で、またとない大きな拾いものをした。 チ 突然の手術中止 版 新 「センセイ、今日はすべての手術が中止になりました。誠に申し訳ありません」 ガンセンタ 1 に到着後、自分の部屋で着替えを済ませ、少し余裕をもっていつもよ り早めに手術室へ行った。しかし、ユ ーリ 1 が更衣室の前で私を待っていて、そう言 ったのである。 一瞬、彼の言うことが私にはよく理解できなかった。昨日のタ回診のときには、第 120
七キロべクレル / 平方メ 1 トル ) 以上を汚染地域としていたが、この基準を五キュリ ( 一八五キロべクレル / 平方メートル ) まで引き上げようと検討している。これら の規制緩和は、すべて国家経済の復興問題と深く関わっている。 ひとつの国家が成りたち、運営され、国として機能していくためには、もっとも弱 い立場にある集団ーーそれが病いを持つ人や、高齢者や、年金生活者であるにもかか わらずーーーが、常に一番最初に切り捨てられる運命にある。 えいち の人間の叡知だけではいかんともしがたいのであろうか。 目 年チェルノブイリ事故による放射能汚染対策は、本来ならば国をあげて最大の課題と 故してとり組まねばならないはずである。しかし、今のべラルーシでは二の次、いや、 事 四番目の問題にならざるを得ないのだ。 ナターシャとの再会 クラスイーヴァヤ・ジェーヴシカーー美しい少女。 ミンスクに住んで二カ月ほどたった、三月半ばのあるタベ、ひとりのうら若き女性 が私のアパートを訪ねてきた。彼女の名前はシュクロボト・ナターシャ。一八歳。 105
むな と、アリョ 1 シャに聞いてみたかったが、お互いに虚しさが募るだけだと思い、や めた。 「ソ連崩壊の前までは、卒業後の研修期間中、国家からの生活保障があったんです」 アリヨーシャはカルテから顔を上げて話してくれた。しかし、だから旧体制の時代 が続いている方がよかった、とは言わなかった。彼らにとって、「金」よりは「自由」 記の方がまだましだということなのだろうか。 療 診 ガンセンタ 1 で働き始めたころ、ここの医師たちはどうして文句も言わず、ただひ たすら我慢しているのだろうかと、私は不思議でならなかった。それは院内で何かの ざんまい チ場面に遭遇すると、いつも頭や心のなかで贅沢三昧の日本と比較してしまうからなの 新である。 故障続きのこういう電気メスならば、焦点もうまく調節できないような暗い手術用 照明灯ならば、手術途中で下がってくるこんな手術台ならば、たぶん日本ではすべて 廃棄処分されているのでは、とか、背中がボロボロに破れ、紐も切れてしまった手術 着や、タワシのような堅い毛のプラシなどは、日本の医者だったら誰も使わないだろ うな、とか、数え上げたらきりがない。 ひも
「この国に骨を埋めるのも ) 記 しいかなあ」 かなた 診果てしなく広がる豊かな大地によって形づくられた地平線の彼方。一日の終わりを 6 、つまく 「告げるように、真紅に揺らぎ悠然と沈みゆく大きなタ陽。なれど、ひどく神秘的 ルな光景を目のあたりにしたその瞬間、私は感傷とも旅情ともっかぬ心の震える思いに チ 引きずりこまれた。 版 新 一九九一年三月。チェルノブイリ原子力発電所の事故で、高度に汚染されたべラル 1 シを、初めて訪れたときのことだ。検診や視察など、目的としたすべての日程を無 事に終え、そこに住む親切で純朴な人々に別れを告げ、現地を去る途中で遭遇した光 景だった。山国育ちの私は、地の果てに沈んでいく太陽を、これほど間近に見ること など一度も経験がなかったので、ことのほか感激に胸が高鳴った。しかもそれは、汚 染大地への憂愁と重なり、よけい鮮烈な印象を受けたのだ。 はじめに うず べラルーシのタ陽
術を生かして、少しはそのお返しをしたいのだ」 そう答えるのだが、彼らに私の言うことの意味を正確に把握してもらうためには、 もう少し時間が必要なようであった。もっとも、この答えはあまりにも優等生的であ おもは り、私自身も面映ゆく感じている。 案の定、院内で活動する期間が長くなるにつれ、センターのスタッフたちもようや く私の真意を理解してくれるようになってきた。それとともに彼らとの交流も深まり シ ルだし、さらには患者たちとのつながりまでも友好的な雰囲気のなかで大きく広がって ラ うれ べ いったのは、この上もなく嬉しいことであった。 国 私はこのセンターに来てから終始一貫して、この国のすべてを認め、お互いが同じ 禿目の高さで語り合うことを守ってきたつもりである。 四 それにしても、私のごとき人間的修養に欠けた者が、このような態度をとれるよう になったのは、やはり年齢のせいかなと思う。 もし私がもっと若いときにこの地を訪れ、 「べラルーシの医療を何とかしよう」 などと意気ごんでやってきたとしたら、たぶんとうの昔に隹 , りの極みで絶望したり、 院内のスタッフらと言い争いをし、挙げ句の果てにこの地を去っていただろうと想像 131 あ
らすべてはインスタント食品である。私が慣れぬ手つきで作ったシーフ 1 ド入り野菜 炒めなんぞ、遠くにかすんでしまっている。 まったけ 今夜のお米は秋田産の「あきたこまち」だ。油揚げの味噌汁にしようか、松茸のお 吸い物にしようか、その選択に悩む私の姿をご想像ください。 いただいた吟醸酒をコップに注ぎ ここは本当にべラル 1 シ共和国なんだろうか ? ながら私ははたと考えこんでしまった。 望もっとも毎日がこういうわけではない。しかし、日本を遠くから批判しているもの の、私はこんなにも多くの恩恵を受けているのである。身の縮むような複雑な思いに とらわれる。 希 七もうひとつ。また日本の悪口になってしまうので、少し気が引けるのだが、こんな 暮らしをしていると考えさせられる問題がある。 日本からの訪問者とお会いしたあとは、台所のゴミ入れバケツが途端にいつばいに なる。その主体は前述した食料品のパックや包装紙などだ。驚くべき現象である。資 源のないわが日本よ、こんなふうに次から次へとホイホイ使い捨てにし続けて、将来 大丈夫なのか。浮かぬ顔をしながら山となったゴミを片づける私である。 223 みそしる