せ、頬擦りをしてくれたのである。 こういうとき、私はどう対応してよいのかわからないので、今度は、 「ス。、シ をくり返すだけだった。 それから数日後のあるタ方、私が帰宅しようと待合廊下の前を通ると、先日の老婦 うるわ 記人が、ドキッとするような見目麗しいジェ 1 プシカ ( 若い女性 ) と話しこんでいるで 診はないか。彼女は私を見ると、 「「これは私の娘です」 と紹介してくれた。私も、 チ「ドープルイヴェーチル ( こんばんは ) 」 新と挨拶をした。それから彼女は、自分の娘に向かって、 「これが私の手術をしてくれたドクタ 1 だよ」 と説明した。娘は碧い瞳を輝かせ、英語で「ありがとう」と言った。しかしそれ以 上の言葉は知らないようだった。この老婦人は私に、自分の娘についてもっと色々話 したいように見えた。そのとき私は一瞬、 「ひょっとして、この老婦人は私が独身とでも思っているのだろうか」 166 あおひとみ
私はおばっかない単語を断片的に並べて、彼に尋ねた。するとその患者は大きくう なずき、突然私の頬にキスをした。 「フショ ノルマーリナ ( すべて順調ですよ ) 」 そう言って親しみをこめた笑顔を見せながら、右手の親指を高く突きだした。そし 「ダスビダーニア ( さようなら ) 」 常 と言ったかと思うと、軽やかな足取りで階段を駆けおりて行った。私もダスビダー のニアと手を振り、彼が階段の向こうに消えるまで見送った。 外 五また別の日は、私の参加した手術がふたつだけだったので、正午近くには部屋に戻 ることができた。三階の待合廊下を歩いていると、三週間ほど前に私が甲状腺と乳腺 の両方を一度に手術し、経過もよく無事退院した六〇代の女性が、ご主人らしき男性 すわ と一緒に長椅子に坐っていた。私は彼女をよくおばえていたので挨拶をした。 「ドープルイジェ しカカてすか ) 」 ニ、カークデエーラ ( こんにちは、ゝゝゞ、 「ハラショ ー、ノルマーリナ ( 大丈夫です ) 」 ほほえ 彼女は微笑みをたたえてそう答えたあと、その男性といっしょに立ちあがり、私の 163 て、
術を生かして、少しはそのお返しをしたいのだ」 そう答えるのだが、彼らに私の言うことの意味を正確に把握してもらうためには、 もう少し時間が必要なようであった。もっとも、この答えはあまりにも優等生的であ おもは り、私自身も面映ゆく感じている。 案の定、院内で活動する期間が長くなるにつれ、センターのスタッフたちもようや く私の真意を理解してくれるようになってきた。それとともに彼らとの交流も深まり シ ルだし、さらには患者たちとのつながりまでも友好的な雰囲気のなかで大きく広がって ラ うれ べ いったのは、この上もなく嬉しいことであった。 国 私はこのセンターに来てから終始一貫して、この国のすべてを認め、お互いが同じ 禿目の高さで語り合うことを守ってきたつもりである。 四 それにしても、私のごとき人間的修養に欠けた者が、このような態度をとれるよう になったのは、やはり年齢のせいかなと思う。 もし私がもっと若いときにこの地を訪れ、 「べラルーシの医療を何とかしよう」 などと意気ごんでやってきたとしたら、たぶんとうの昔に隹 , りの極みで絶望したり、 院内のスタッフらと言い争いをし、挙げ句の果てにこの地を去っていただろうと想像 131 あ
「私の専門知識が、少しは役立つかもしれない」 その瞬間、あたかも深山幽谷に濃くたちこめていた霧が、またたく間に晴れ上がる ように、私の心は驚くほど軽くなっていた。それは私がチェルノブイリの救援活動に 参加することを、何のためらいもなく決心したときでもあった。 その日のうちにと連絡を取り、ひき続き、医療支援に関する活動方針や内容 記 について綿密な協議を重ねた。二カ月後の三月には、早くもべラルーシ共和国ゴメリ ル州の高汚染地域を、甲状腺疾患の専門家として訪れたのである。 「それ以降、信州大学に籍をおく間に、医学部を始め数多くの方々の協力を得て、こ の国に七回足を運ぶことになった。 チ 版 新 このように、私がチェルノブイリ事故の医療支援活動に手を染めたのは、私個人の 生き方を修正するための、はなはだ身勝手な行動であり、誠に恥ずかしい話ではある 」、つまい が、そこには奉仕の精神とか、慈善とか、さらには高邁な思想など、 いささかも存在 しなかったことを正直に書き留めておきたい。
優れた教育者として含蓄のある言葉を連ねたこの巻頭言を読ませていただき、私は まさに赤面の至りであった。 自分がここまで幸せに生きてこれたのも、よく考えてみれば、数えきれない多くの 人々からの教えと指導があったればこそと痛切に感じている。それゆえに、ややおこ 記がましい言い方ではあるが、私自身が少しは恩返しの人生のなかに身を沈めたとして 診も、何ら不思議はないのである。それもごく自然に。 「私はこの一時帰国で、またとない大きな拾いものをした。 チ 突然の手術中止 版 新 「センセイ、今日はすべての手術が中止になりました。誠に申し訳ありません」 ガンセンタ 1 に到着後、自分の部屋で着替えを済ませ、少し余裕をもっていつもよ り早めに手術室へ行った。しかし、ユ ーリ 1 が更衣室の前で私を待っていて、そう言 ったのである。 一瞬、彼の言うことが私にはよく理解できなかった。昨日のタ回診のときには、第 120
情を強くおばえた。 深まりゆく北国の秋の陽射しがやわらかく降り注ぐ窓辺で飲んだコーヒ 1 は、格別 の味を醸し出していた。 秋も終わりに近づいた、ある寒い木曜日。毎週木曜は手術のない日である。病院に 着いてから白衣に着替えていると、ドアをノックする者がいた 常「ダ 1 、ジャ 1 ルスタ ( はい、、 とうぞ ) 」 の ドアが開き、にこにこしながらひとりの老婦人が入って来た。彼女は一週間ほど前 医 科に、私が乳ガン手術の執刀をした、まだ入院中の患者だ。彼女も英語はまったく理解 五できないので、私もお手上げである。色々お礼の言葉をしゃべっているのであるが、 取・すかしいことにこちらも、 「パジャ 1 ルスタ ( どういたしまして ) 」 の連発である。それから彼女は、袋のなかから大きなチョコレートの箱とコニャッ クを取りだし、私の机に置いた。私が身振りも交えて、 「ニエニエ ( いけません、いけません ) 」 と言うも、彼女はまったく聞き入れてくれない。そしてふくよかな体で私を抱きょ 165 かも ひざ
らすべてはインスタント食品である。私が慣れぬ手つきで作ったシーフ 1 ド入り野菜 炒めなんぞ、遠くにかすんでしまっている。 まったけ 今夜のお米は秋田産の「あきたこまち」だ。油揚げの味噌汁にしようか、松茸のお 吸い物にしようか、その選択に悩む私の姿をご想像ください。 いただいた吟醸酒をコップに注ぎ ここは本当にべラル 1 シ共和国なんだろうか ? ながら私ははたと考えこんでしまった。 望もっとも毎日がこういうわけではない。しかし、日本を遠くから批判しているもの の、私はこんなにも多くの恩恵を受けているのである。身の縮むような複雑な思いに とらわれる。 希 七もうひとつ。また日本の悪口になってしまうので、少し気が引けるのだが、こんな 暮らしをしていると考えさせられる問題がある。 日本からの訪問者とお会いしたあとは、台所のゴミ入れバケツが途端にいつばいに なる。その主体は前述した食料品のパックや包装紙などだ。驚くべき現象である。資 源のないわが日本よ、こんなふうに次から次へとホイホイ使い捨てにし続けて、将来 大丈夫なのか。浮かぬ顔をしながら山となったゴミを片づける私である。 223 みそしる
療事情や、ガンセンタ 1 附属の放射線関連の診断・治療施設の視察が主目的であった。 ちそう 彼らがミンスクを去る前夜、市内のレストランでタ食をご馳走になりながら、私自 身のことについてもいくつかの質問を受けた。その話のなかで、学識豊かな理事長の << 氏がこんなことを言われた。 「あなたがこのような医療救援活動を展開されている根底には、誰にも負けない技術 を持っているという気持ちがあるのではないかと思うが、どうですか」 常私はそのとき、生意気にもこう答えてしまった。 の「はい。少なくとも私の専門領域の外科治療技術や知識に関しては、国際的にもそれ 科ほど引けをとらないと思っています」 五すると << 氏いわく 「やはりそうでしような」 実は、夏の始めごろから、自分がこのような形で円滑に病院活動ができるのは、た ぶん私が外科医であるからだろうと考えるようになっていた。 言葉も満足にできない医者やボランティア活動家などを相手にしているほど、今の このセンターには時間的にも人的にも、そして経済的にも余裕はない。結局は私が国 際水準の専門技術と知識を有しているから、院内のスタッフたちもそれ相応の対応を 173
つの間にか、 「医者にでもなるかなあ」 あいまい と、極めて曖昧に進路選択をしてしまったのである。その意味では動機もひどく不 純で、将来についてあまり深く考えもしなかった自分を情けなく思う。 一九六二年春。私は松本市にある信州大学医学部に、少しばかりの理想と淡い期待 記を抱いて入学した。以後六年間という長い学生生活を、自然環境に恵まれたこの地で はざま 診過ごした。曖昧な進路選択ではあったが、漂泊の夢と現実の狭間に身を任せながら、 「自分なりに考え、燃焼し、人知れず悩み苦しみ、私の人生において、もっともみずみ ルずしく輝いていたかけがえのない青春時代だった。 チ 大学での最終学年が近づくにつれ、私は職業人としての将来像について少しずつ考 版 新え始めた。 「ゝ ) 臨床医になりたい」 単純な願望ではあるが、そんな漠然とした夢を描くようになっていた。 しかし、医学部卒業を前にして、私の周辺には、当時の社会的政治的な混乱の波が、 かっとう 大きなうねりのごとく押し寄せていた。葛藤の末、信州をあとに東京へ出た。 聖路加国際病院における医療者としての生活体験は、その後の私の生き方にさまざ
と深い感謝の言葉を、何度も添えてくれた。 これもまた、偶然の予期せぬ出来事だった。 , 彼女は、私が数カ月前に手術をおこな 、すでに退院した患者であった。たぶんこの日は外来を受診し、ちょうど私を見か けたのだろう。一瞬びつくりしたが、居合わせた高橋さんたちは、この光景を見ても っと驚いたことだろう。それが冒頭の言葉として、思わず彼の口からこばれ出たもの 記と田う。 診不思議なことに、このハプニングを経験した数週間後にも、嬉しいような、そして 「ちょっぴり恥ずかしいような出来事にいくつか出会ったので書いてみたい。 チ その日、予定された三例の手術が終わり、二階にある手術室から三階の自分の部屋 版 新に戻ろうと、空腹感をおばえながらゆっくり階段を昇っているときだった。ヒョイヒ ョイと階段を駆けおりて来た長身の男性が、突然私を呼びとめた。 「ドークトル、ボリショイスパシーバ ( 先生、どうもありかとう ) 」 私は足を止め、彼を見た。私服を着ていたので一瞬誰だかわからなかったが、顔つ きからその男性は、先日私が執刀した患者だとわかった。 「ダモーイ ? カ 1 クデ工 1 ラ ( 家に帰るのですか、退院ですか。具合はどう ? ) 」 162