・ノくノレドウ さんみやくさんばだい ーだい 心・提心にのみ心を発こして、大空にも等しい完全なる悟り ( 三藐三菩提 ) をすべ しゅじよう ての生きるものたち ( 衆生 ) のために獲得するように努めよう》 と、以上のように発心しなくてはならない。 《とりわけ今こそは、すべての生きものたちのために、死の光明をダルマ・カーヤ さと ( 身 ) として覚るべきなのである。そしてその状態において、最高の完成の状態 ( 悉 ームドラー ( 大印契 ) を自分のものとし、すべての生きものたちの利 地 ) であるマハ やく ームドラーを手に入れることができない場合には、くルドウ 益をはかろう。このマ、 さと ムドラ 。、、、ルドウと不可分になったマハ を、、ハルドウであると覚ることに努めよう の身体を確実に把握して、すべての生きものたちを教化できるような仮りの姿 ( 権 化 ) をとり、大空の蝌にも等しく限りのない数の生きとし生けるものたちの利益をは チ と ウ かろう》 いしゅ レ という、以上の発心の意味内容 ( 意趣 ) を離れてはならない。汝がかって受けた、瞑想 工 チ解脱作法輪廻から脱して仏の位を得るために、あらかじめ師僧から受けているお導きを想起して実行するこ と。識眼・耳・鼻・舌・身・意の六種の認識作用、および無意識的作用まで含む。発心さとりの知恵 巻 を得ようとする決意を起こすこと。慈心・悲心・菩提心さとりを求めて、仏になろうと願う心持ち。さら に仏道を修行して、すべての生類を苦しみから救済しようと誓う心に発展する。最高の完成の状態 ( 悉地 ) 第 密教の実践によって到達される不思議な超能力を完成した境地。 だいいんげい ごん
さらに〈ものは実在せず、幻のようなものである〉という教誡によって胎の入口を閉ざ すべきである。すなわち次のように心に念すべきである。 ャプュム 《ああ、これまでに父母Ⅱ御仏男女両尊・黒い雨・大暴風・大音響や、それに恐ろし く脅かす忿怒尊、その他のさまざまな姿が現われてきた。これらの存在はすべてその 本質が幻のようなものである。どのように現われてこようとも実在しないものである。 かげろう これらのすべてが実在しない。虚妄であり、陽炎のようなものである。私は、無いも のを有ると見ているのである。これらのすべては、私自身の心が現われ出たものなの である。心それ自体が幻のようにもともと存在しないのである。 外からこれらのものが来るのだとしたら、どこから来るのだろうか。どこにも存在 するものではないのである。私は以前にはこのことを理解できずに、無いものを有る と考えていた。実在しないものを実在すると考えていた。幻のようなものを実在だと さまよ 執らわれていた。それで、この時に至るまでの間、輪廻し彷徨ってきたのである。今 さまよ さと りんね またここで、これらが幻であることを覚らないならば、長い間さらに輪廻し彷徨って、 さまざまな苦悩の泥沼に苦しむことは確実である。 さと 今こそこれらすべてが夢のようなものであると覚らなければならない。幻のような ものであり、反響のようなものであり、ガンダルヴァ城 ( 蜃気楼 ) のようなものであ こだま りんね おしえ リ 4
〔三〕《ああ、私に〈禅定・瞑想のバルドウ〉が現われてきた今この時に、心を散乱させ 錯乱させるものごとすべてを捨て去ろう。散乱させることと、何かに執着することとのど ウトバッティ・クラマ ニシュバンナ・クラマ ちらの一方にも偏らない状態に心を置いて、〈生起の。フロセス〉と〈完成のプロセス〉を 確固として実践しよう。 一心に倶想を行なって、他の行為はすべて捨て去ったこの時に、気持ちを錯乱させる煩 悩の支配に身を委ねることはいたすまい》 ・。ハルドウ ( 死の瞬間の中有 ) 〉が現われてきた今この時に、 冖四〕《ああ、私に〈チカエ なにものかを貪り求め、執着することはすべて捨て去ろう。心を惑わされないようにして、 おしえ 教誡を明確に考える状態に入ろう。 自分の意識を、これが生まれつきそなえていた ( 不生の ) 虚空の世界に転移させよう。 書作られたもの ( 有為 ) である血肉の身体を離れよう。この身体は無常であり、幻であると 文 の知るべきである》 ・バルドウ ( 存在本来の姿の中有 ) 〉が現われてきた今この の〔五〕《ああ、私に〈チョェニ 属 付時に、すべてについての恐怖・戦慄・おののきの気持ちを捨てよう。何であれ現われてき さと これがバルドウに 三たものは、自らの意識の投影したものであると覚らなければならない。 第 おける幻影であると知るべきである。 むさば サムテン ふしよう ちゅうう
きから現われているものであると知るならば、その瞬間において汝は血をすする神々の 身体と一体になって仏となることができるのである」 ヤマ ( 閻魔 ) 王たちの現出 さと 「ああ、善い人よ、このように覚ることができないならば、汝はこれらの神々を恐れて 逃け、さらに大きな苦悩の中へ入りこんでしまうであろう。 さと えんま このように覚ることができないならば、血をすする神群すべてをヤマ ( 閻魔 ) 王と見 なしてしまい、血をすする神に汝は恐怖を抱き、おびえ、おののき、失神するであろう。 さまよ 汝自身のすがたの現われが魔に変化してしまって、汝は輪廻し彷徨いつづけるであろ さまよ う。汝が恐れおののくことがないならば、輪廻し彷徨うことはないのである。 ああ、善い人よ、これらの寂静尊と忿怒尊のうちで、身体の巨大なものは大空と同じ しゆみせん 大きさである。中程度のものはスメール山 ( 須弥山 ) ほどの大きさである。小さいもの でも我々自身の身体を十八も積み重ねたほどの大きさであるが、これらを恐れてはなら 現象の世界のすべてのものが光明と仏の身体をもって現われている。すべての幻影が 光明と仏の身体をもって現われている。これを汝自身の意識のみずからの輝きであると えんま りんね りんね
ヴァジ = ラサットヴァ ( 金剛薩垣 ) の心臓からは、緑色の明るい円い鏡のように完全 だいえんきようち な知恵 ( 大円鏡智 ) の布地の上に、トルコ石の碗を伏せたような形の緑色の日輪が、日 輪と小日輪とによって飾られて現われてくるであろう。 ラトナサムバヴァ如来の心臓からは、黄色の明るいすべてのものの平等なことを理解 びようどうしようち する知恵 ( 平等性智 ) の布地の上に、碗を伏せたような形の黄色の日輪が、日輪と小日 輪とによって飾られて現われてくるであろう。 みよう アミターバ如来の心臓からは、赤色の明るいすべての対象を正しく観察する知恵 ( 妙 かんざっち 観察智 ) の布地の上に、譬えるならば珊瑚の碗を伏せたような形の赤色の日輪が、叡知 の底深い輝きをそなえて現われてくるであろう。 これらの四色の知恵の日輪は極めて明るく輝きながら、それそれが自身とそっくりの 色形の五つの日輪によって飾られている。そのうちのどれが中央にあるもので、どれと どれが周囲にあるものという区別もない。それそれが日輪と小日輪とによって飾られて いったい 一現われてくるであろう。またこれらのすべてが、汝自身の心臓と不二一体となって現わ チれてくるであろう。 ああ、善い人よ、これらもまた、汝自身の意識の自然で自由な働きから現われたもの これらに執着してはならない。 なのである。何か別の特別のものから生じたのではない。 ・ / くノレトウ こん′」うさった
魔法王仏 ) といった、尊い御方 ( 世尊 ) の六聖仙もまた現われるであろう。サマンタバ ドラ ( 普賢 ) とサマンタバドリー ( 普賢母 ) 、すなわちすべての仏たちの総祖先である普 ャプュム 賢男女両尊もまた現われるであろう。サムボーガ・カーヤ ( 報身 ) の神群四十二尊が汝 自身の心臓の奥から外に出てきて、汝の目の前に現われるであろう。これらを《汝自身 の純粋な投影が現出したものである》と知るべきである。 ああ、善い人よ、これらの仏の世界 ( 仏国土 ) は何か特別のものとして別に存在して いるのではない。 これらの仏の世界は、汝自身の心臓の四方と中央との、合わせて五方 向に存在しているものなのである。汝の心臓の中からいま、外に出てきて汝の目の前に = 現われているものなのである。またこれらの仏の身体も何か特別のものから現われたも 工 のではない。汝自身の意識の自然で自由な働きによって作り上げられたものである。そ チ さと と のようなものであると覚るべきである。 ああ、善い人よ、これらの仏の身体は大きくも小さくもなく、ちょうど均整がとれて いる。これらの仏たちの装飾品・衣装・身体の色・坐っている形および乗物には、それ 工 カ チぞれの仏の印章がついている。彼らにはそれそれの女尊が伴っていて、全部で五組の対 巻 第 すべての仏たちの総祖先ダルマ・カーヤ ( 法身 ) の普賢男女両尊は時空を超えて存在し、すべての仏たちを 生み出す、万物の父であり、母であるとされる。 ・ノく / レドウ ふげん せそん ほうじん
に対して恐れとおびえの気持ちを起こして、今日に至るまで解脱できすに残っているの である。 さと 汝がこれらの五仏の叡知自体の現われを自分の姿にほかならないと覚ったのであるな らば、五仏はそれそれの時に汝の身体に虹の光となって溶け入り、汝はサムボーガ・カ ほうじん ーヤ ( 報身 ) を得て仏となったであろう。しかし汝はそのように覚ることはなかったの で、今日こ をいたるまでここに彷徨を続けているのである。 今こそ、心を惑わされることなく見るべきである。今こそ、五仏すべてが一斉に完成 された姿をとって現われるであろう。四つの知恵 ( 四智 ) すべてが一緒になった姿をと って現われるであろう。これらすべてが同時に汝に会いにやってくるであろう。そのこ とを覚るべきである。 ああ、善い人よ、四つの元素 ( 四大 ) からなる浄化の働きをする四色の光明が現われ るであろう。 その時に、中央のティクレーダルワという仏国土 ( 精滴弘播国 ) からマハーヴァイロ ふくうじようじゅ 五仏毘盧遮那・阿閾・宝生・弥陀・不空成就の五仏。金剛界の五仏と同一。四つの知恵 ( 四智 ) 大円鏡 第智・平等性智・妙観察智・成所作智の四つの仏の知恵。四つの元素 ( 四大 ) 地大・水大・火大・風大の四 大種 ( 四つの元素 ) 。「五大」 ( 三十頁の表 ) 参照。 ・ノくノレドウ さと あしゆく はうしようみだ しだい さと
す瞑想を行なうべきである。その後で、再び汝の意識を周囲から消去していく。そして 虚空がどこへでもゆきわたることができるように、すべてのものの限りにまで、そこま で意識もゆきわたるようにすべきである。意識がゆきわたっている限りのところまで、 ほっしん そのすべてにダルマ・カーヤ ( 法身 ) がゆきわたるようにすべきである。ダルマ・カー ヤとは、我という主体を持たない ( 無我 ) ものである。ダルマ・カーヤとは、これを一言 むけろん 語で表現することができない ( 無戯論 ) ものである。このダルマ・カーヤと同じ状態に、 汝の意識を安らかに置くべきである」 第二章再生のプロセス 再生への入胎を避ける方法 このような瞑想を行なうことによって、汝が再生を止めることができれば汝は仏となる ことができるであろう。 しかし、自身を清く保つことができず、瞑想にも慣れ親しんでいない人々は、ここで輪 ゲルゴ 廻を終えることができずに、さらに彷徨って再生への母胎に進んで行く。彼らに《胎の入 ガクベ 工ダムガ 口を閉ざす教誡》を授けることが重要となってくる。死者の名を呼んだあとで次のように むが りん 124
目の方法に頼らなければならない。すなわち、光明を心に念ずることによって胎の入口 が閉ざされるべきである。この瞑想の仕方は次のようになされるべきである。 《ああ、すべてのものは汝自身である。汝の心とは生起や消減を離れたものである。 空なるものである》 と、このように考えるべきである。 作為を加えない自然の状態に心を置くべぎである。たとえるならば、水に水を注ぐよ うに、心を心自体の上に心それ自体のありかたであるようにさせるべきである。心が心 自体を取り戻すように、緊張をほぐしてやるべきである。心が本来に持っ純粋さのまま で働くようにさせるべきである。作為もなく、緊張もないようにさせるべきである。そ うすれば、生き物として四種類に再生する胎への入口が確実に閉ざされることは間違い ない。胎の入口が閉ざされるまでずっと瞑想を続けるべきである おしえ これまでに胎の入口を閉ざすための深遠な正しい教誡はたくさん説かれてきた。これら のお導きによって、能力の高い者・中間の者・劣った者の区別はなくて誰でも解脱できな いことはないはずである。なぜかといえば、くルドウにおいてはすべての者が生前よりも 次のように優れているからである。 まず第一に 、くルドウにおける意識は汚れてはいるが超能力 ( 神通カ ) があるからであ
第巻チカエ・ルドウとチョェニ ・ / 、ノレドウ のである。実のところ、汝は空それ自体が姿を形づくったものなのであるから、おびえ たり、おののいたりする必要はないのである。 ヤマ王たちもまた、汝自身の意識のみずからの輝ぎから現われ出たものであるから、 実体をもつものではない。 空の性質をもったものが、空の性質のものによって損なわれ ることはないのである。これらは汝自身の意識の自然の働きから現われてきたものにほ かならない。外に現われてきている寂静尊や忿怒尊や、血をすする神群や、鳥獣の頭を もつものたちゃ、虹の光や、ヤマ王などの恐ろしい容姿をもつものたちがすべて実体を もつものでないことは確かなのである。 このように知るならば、汝はすべての恐れやおののきをその場で脱して、これらの 神々に一体となって溶け入り、仏になることができるであろう。このようにこれらの さと イダム 神々の正体を覚るならば、これらは汝の守り本尊となるであろう。 《あなた方はわたしをバルドウの難関でお迎えにこられたのである。帰依申し上げま す》 という、強い敬慕の気持ちをこれらの神々に寄せるべぎである。三宝を思い続けるべき 一である。 汝の守り本尊がなんという仏であれ、その御方を思い続けるべきである。御名を呼ぶ イダム